ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年06月

 
  自然
 
 
人の心の自然な営み
 
この世界に生きている限り
それはあり得ないのかもしれないが・・
 
宗教がその自然な営みを
おかしくすることがある
 
「宗教とはそういうものだろう」
 
「実はそのほうが神の御心には自然なのです」
 
前者に・・
違うと思う。それは先入観だと・・
人間が人間らしく信仰を営む道があると思うのだが
 
後者に・・
全然違うと感じる
また
あなたは神の立場を語っている
 
人の心の自然な営み
 
神ご自身が造り
人に与えられたものなのだから
むしろそれを生かすのが御心だろうと思うのだが・・
 
信じ込んで安定しようと思ってはいけない
 
激しく思い
考えてください
 
そのプロセスが信仰だ
 
 
(2015年06月30日)
 
 
 
 

 
  無理
 
 
熱心であろうとする信仰の多くは
熱心に行為の方向を間違えて
熱心を反対の方向に向けて無理に努めている
 
神との人との立場の違い、
創造主と被造物ということを考えるだけでも
単純な距離と遠さでは測れないほど
決定的な違いがあるのに
 
何故か神に近づこう近づこうとして
神を自分に分かりやすく決めつけてしまう
 
 「神が近づいて
 分かりやすく表してくださるのです」
 
 それを自分勝手な
 人の決めつけと言っているのです
 
 それほど分かりやすく
 神が表わしてくださるなら
 こんな世の中にはなっていないでしょう
 
 「それは神の計画だから」
 
 そこだけ神の計画を理由にするのですか
 
 そうなると少なくとも
 神は人に明かしていないことがある
 ということになります
 
 ならば
 神が近づいて分かりやすく表す
 というのを
 そのまま人が真に受けるのは
 間違いだということになるでしょう
 
 
神の教えは守るためにあるということから
信徒なら非信徒よりは守っているだろう
という、いい加減な判断で、
(この辺は殆ど意識されないかもしれない)
義をいただくために
神に表さなければならないという決めつけによって
強迫観念が生まれて習慣になって
当たり前の口癖のように
口だけ神に感謝させ神を賛美させて
教えに忠実な信徒を演じさせている
 
その「当たり前」は
言動不一致に心が鈍感になっている状態だ
 
教えをもっと厳密に守れというのではない
それでは信仰は戒律に過ぎなくなる
 
何より
教えを守ることが信仰の中心ではない
 
教えはいつも
守れていないという現実を突きつけてくる
 
少しでも守れたと思えば
神の教えなのだから
それは神の前に誇ろうとする宗教人の姿だ
 
私たちは神の前に誇れる何ものも持ってはいないし
何ものも為し遂げてはいない
このことは信仰の原初において知っているはずなのに・・
 
教えを守れないから信仰が必要なのだ
 
守れない自分を神の前に捧げ祈り
任せることから始めるべきではないのか
 
少しでも生きた信仰を求めたいなら
何ゆえ保存したつもりで放置したままの
発酵させたつもりで腐敗してゆくような
漬け物のような信仰の行為を
心にもなく実感もなく繰り返すのか
 
(※「漬け物は美味しい」という皮肉に対しては、
 美味しい漬け物は放置していては出来ません。
 見守り、かつ、ときに、人は出来る限り
 手を加えることが必要です。)
 
 
小さくても大きくても
本気で感謝したいときがあり
そのときに感謝の祈りを捧げればよいのに
 
いつも感謝せよという教えがあるから
本心はそういう気持ちではないのに
感謝します・・と口にするのは
祈りというより
殆ど念じているに等しい
 
無理にでも感謝、感謝、を並べれば
それだけご利益があるかのように
念じる人の言葉そのものが信仰であるかのように
 
本心でない祈りを神は喜ばれるだろうか
 
 「感謝し讃美しました。
 このことに間違いはない」と納得して
 感謝したことにしたり
 感謝したような気分になったらよいのか
 ウソなのに・・?
 「神が計らってくださるのです」
 ウソをウソの数だけ・・?
 神は思い計らってくださるというのか
 
 目一杯のことをして
 できなかったことを赦してください
 という祈りよりも・・?
 
いつも感謝せよという教えに対しては
むしろ
感謝できないことをお赦しください
という祈りのほうが大切ではないのか
 
(※
 悲観論ではありません。
 守ることを自分に強いたあげく
 人の力量の乏しさを神に告白しないまま
 感謝と賛美で代替するよりは、
 守れないことを祈ることのほうが
 神の取り成しを願う祈りであり
 人間として神の前に正直であり
 むしろ安らぎに近いと思います。)
 
信仰に熱心であろうと思うなら
人の熱心がしばしば方向音痴の的外れであることの
人の思慮がしばしば教えを守ったかのような的外れであることの
人の感謝がしばしば自己満足の的外れであることの
赦しと救いと導きを祈るべきではないのか
 
 
(2015年06月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  悪の問題
 
 
神によりキリストによって退けられた者たちの問題を
他人事ではなく
自分に当てはめて考える意識が信仰には必須である
 
神と神の栄光を語る賛美のみに陶酔して
背きと罪と悪と滅びに
自分を当てはめて考えるなど及びもつかぬという前提で
やすやすと自分を悪から除外して
問題の共有も共感もなく他人事としてしまって
どこかの悪いやつを責めて戒めるだけの
きれいにまとまってしまった言説ほど
神と神の栄光から
人のほうから遠ざかってゆく害悪はない
 
悪から自分を除外することが最悪である
 
悪を避けたければ
努めて考えるべきは自らの悪の問題だ
考えるべきは
神の栄光に同化して自分の悪を見失いかねず
いつの間にか
空しく神の至高の快感を誇り
そこにだけフォーカスしてしまうような
自らの陥りやすい偽善の悪の問題だ
 
ただの悪ではない偽善は悪よりも気づかれにくく
しばしば善の顔をして人に接着しようとするだろう
 
悪を戒めることが習い性(せい)と成って
戒める立場を専らと覚え込ませるなら
容易に偽善に取って代わられるだろう
 
救いと赦しは
赦される必要があるから与えられる
 
人が常に
いかなる悪とも決して無縁ではないからだ
 
言うまでもなく悪に共感するのではなく
考える対象が悪なのであり
悪に対する問題意識に共感するのである
 
悪の問題は
勘違いや思い込みによって誰でも陥る
という人間共通の問題であり
 
悪の問題を共有し考えて警鐘を鳴らし
その共感のもとに祈るのである
 
何故なら人間にとって
問題の共有と共感のみが
祈りとなり、祈りによって
人が悪を避ける唯一の術(すべ)だからだ
 
神を信じることは
悪から離れる道を望むことであって
悪から無縁であることが保証されるわけではない
 
それこそが
信仰が現在進行形であり続ける所以である
 
 
(2015年06月28日)
(2015年07月11日、一部修正)
 
 
 
 

 
  無能
 
 
失敗して
死ぬことにも失敗した
 
能力がなくて
死ぬ能力もなかった
 
気力がなくて
死ぬ気力もなかった
 
生きることから逃げて
死ぬことからも逃げて
 
見ることに耐えられず
見ないことに耐えられず
 
悪に耐えられず
善に耐えられず
 
偽りに耐えられず
正義に耐えられず
 
始まることにも
終わることにも耐えられない
 
最後の勇気と思ったとき
その勇気がないことに気づいた
 
生きることが出来なくて
死ぬことが出来なくて
 
生きることに失敗して
死ぬことにも失敗したら
それはもう失敗じゃない
 
 
(2015年06月28日)
・・発散・・
 
 
 
 

 
  熱心
 
 
信仰は神への情熱的で熱心な思いであって
信じ込むことではない
 
しかし情熱的で熱心であろうとする信仰者ほど
神の真理を得ようとするあまりに
信じようとする意志の傾向が強く
思いにとどめるという敬虔ではなく
不変の事実か真理として信じ込もうとする
 
よって自分の気の迷いか気分変調か
自己暗示かもしれぬものを
あらゆる思考の可能性をやすやすと捨て去って
ついに神の啓示だとばかり信じ込むのである
 
そういう思い込みと決めつけがもたらすのは
神を決めつけることの恐れを忘れ
控えめに思いを語る謙遜さを捨てて
神の啓示と決めつけたものだから
真理として語り
後に自己矛盾を来たしても
なお語り続け
あらゆる人間性を捨てる方向にもかかわらず
あらゆる疑問と思考の糧を打ち壊して
神と信じ込んだがゆえの自らの無謬にしがみつき
もはやそこから逃れられなくなり
自身の身の丈をすっ飛んで伸び上がって
ゆがんだ笑顔で引きつって硬直する姿である
 
あたえられるものだけでは足りず
 
偏向した思想と同じように
 
とらえるより
とらわれることの多いのが人間だ
 
 
(2015年06月27日、同日一部修正)
 
 
 
 

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