ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年06月

 
  見えざる神
 
 
1.祈っているとき
 神の存在を思い描いているのだが
 神を信じている人は
 神の存在を感じているつもりで
 本当の神だと信じている
 間違いなく「神に祈っている」と
 
2.地上の人生が終わって
 神の前にひざまずいているとき
 目の前の神以外に
 1.と同様に
 神の存在を思い描くことが出来る
 どちらが本物か
 「目の前の神だ」
 何故か
 「目の前にいるから」
 では何ゆえ地上にいるとき
 思い描いている神を本物だと思うのか
 「そのときは目の前にいなかったから」
 それはあなたの判断に過ぎないではないか
 あなたの判断で神の真偽を決めているではないか
 
2.の詭弁は
死んだ後のことですから
死んだ後に地上と同じ意識を持ち続けている
という前提がそもそも間違っているということです。
 
ですが
2.の後半「では・・」以降は正しいと思います。
したがって
1.は、地上でのことですが
思い描いた神が本物というのは人の傲慢です。
 
思い描いた神が本物なら
人はいつでも神を感じて神と交わり
ときには神から何か聞いたと感じるかもしれません。
思い描いた神が本物なら
その神から受けたすべてのもの、
イメージ、存在の在り方、聞いたこと、感じたこと、
これらすべてが啓示となり絶対化されてしまいます。
 
これらは神秘的な気分の中での人の思いに過ぎない
と判断するべきことなのです。
 
以上より、人は
人の感知できるところに神がいて
神と交わることが出来ると信じ込むのは、
人の知性と感性が神に会っていると思うことであり、
とても危険です。
 
思いを絶対化して信じ込んではいけません。
思いの記憶としてとどめておくべきです。
 
神に祈るとき信じるべきは
その祈りが
祈りの対象である思い描いた神にではなく
見えざる真の神に聞かれていると信じることだけです。
 
人が祈るとき
決めつけの傲慢不遜によって
神はこうだ、または、こうしてくださると
神に勝手な条件を付けないためです。
 
 
(2015年06月27日)
 
 
 
 

ふと思い出して書いておこうと思った・・
 
  情欲
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
ここのことを言っているのか、
昔、読んだ本に
キリストは男女の愛を否定した
と書いてあったのです。
 
男女の愛を否定したのではない。
キリストは男女の愛を述べるために来たのではない。
神の愛を宣べるために来たということ・・
 
この聖句を男女の愛の否定と受け取る解釈は間違いだと思います。
この聖句が何と言おうと男女の愛は否定しようもなくあるから
という理由のほかに
 
「教え」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17069547.html
 
に書いたように、解釈になりますが、
キリストの教えは厳しく守り難い、
何故なら
キリストの教えの収束するところは
罪なき者は一人もいない
ということだからでしょう。
 
キリストは姦淫の罪を犯した女を
石打ちの刑から救った、
またキリストは
娼婦や取税人が先に天国に入るだろう
とも言っています。
これらのことは
キリストが男女の愛を否定した
ということとは矛盾する行為です。
 
キリストの教えは
パリサイ人や律法学者が言う形式的な
杓子定規の教えとは違うということです。
 
戒律を形だけ守った彼らは
キリストにとって偽善の者たちとして
批判対象にしかなりませんでした。
 
私見ですが、神は
淫(みだ)らな人の際限のないことを最も嫌う
という思いがあります。
男女であれ、同性であれ、
淫らな行為にはお怒りになるだろうと思っています。
 
生存のため、とか、どうしようもなくて、とか、
罪であることを痛いほど分かっている人に対して
キリストは限りない慈愛を示している
ということを忘れてはいけません。
 
上の教えについて
子供をもうけるためだけに限って許される
というような
修正して帳尻を合わせたような解釈には同意できません。
 
キリストの教えは徹底しているのです。
世間体に照らしての調子合わせや
辻褄合わせなどは利かないのです。
 
きびしいのです。
 
その分
人間の本性と本音を見抜く洞察力によって
慈しみも限りないと思っています。以上。
 
 
(2015年06月26日)
 
 
 
 

 
  不可知
   ・・一神教の本質
 
 
ここでは
可知は人が神の意志を確定的に知り得るということ
不可知は人が神の意志を確定的には知り得ないということ
 
哲学書・神学書は読んだことがないので
いわゆる「不可知論」の「論」は外します。
 
どう考えても何度考えても
神が可知だとは思えないです。
 
 
神を可知としてしまうことから様々な災いが生まれる
 
神の意志だと信じ込むことで
主張は信念としての無謬性と絶対性を持ってしまう
 
神を知っているという伝統宗教が
神を知っているという新興宗教の異なる主張を
どう説得できるというのか
 
どちらも「知っている神」を押し出して
いかなる議論が可能だというのか
 
聖書などから色々理屈をつけてみても
互いの「神の意思」の自己満足の応酬にしかならないだろう
 
 
カルト(新興宗教)の主張など問題にならない
と言って軽く退ける人がカルトを無視するのは
上に述べたように
「私の神が正しい」をぶつけ合う泥仕合にしかならないからだが
格の違いとかで軽く見てはいないだろうか
 
一方の伝統宗教は
神を畏れなさい、神は人知を超えている、
などと言いながら
人知を超えているはずの御方を知っているかのように
知っているを前提に信条を並べている
 
そして
誰かが神を知り得ないと言えば
「不可知論に陥っている」などと言って
悪と誤謬のレッテルを根拠もなく貼り付けて
 
都合のよい日常と超常の奇跡を探し回っている
 
 
信仰は神の意志を信じ込むことではない
 
信仰に信条はない
 
解釈は信仰の手助けをするが
信仰は解釈ではない
 
ゆえに私たちは
神を心から思い憧れるのだが
そこに人知を超えた神の意志と行為を
言語化し不変とする一言も確定されることはない
 
信仰は終末まで神に至ることはない
 
信仰は祈りに至り
祈りに帰る思いである
 
 
不可知と決めれば片付く問題ではありません。
信仰は心の問題なので
すり込みや洗脳ではないものを敷衍(ふえん)する
という大きな課題がそこにはあります。
 
それで前から書いていることですが、
信仰に帰れでもキリストに帰れでもなく
(それらはカルト的思い込みを促進します)
人間に帰れ・・言い換えれば
信仰は人間以上になることではなく
信仰というものが人間に益するのは
人間を求めようとする思いに答えるという一点なのです。
 
帰るところには
「人を殺してはいけない」理由を
説明できない人間が
人を殺さないという大方の合意があります。
 
何故でしょう。
そこに人間の最も人間らしい温度があるからです。
 
このように
言語外に人間が創造されてゆく過程が
言語に頼るしかない人間のために
秘められた神の計画なのでしょう。
 
 
(ウィキペディア)
ローマ・カトリック教会では、神の存在は、人間理性にもともと備わる「自然の光」によって知られるが、神の本体そのものは知られない、神は人間には鏡に映る姿のようにおぼろであり、神と直接に対面できるのは別の世においてである、とした。(ウィキペディアより抜粋)
 
伝統宗教が伝統宗教として健全に存続し
カルトと一線を画するならば
神に対する敬虔に不可知は必須であろうと考える。
 
 
「パンくず」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17633836.html
より・・(以下は一部修正)
 
人の信仰が思いであって
何故いけないのでしょう
 
それでもなお
神の意志と行為を決めつけ
真理を得たりと信じ込まなければ
気が済まないのでしょうか
 
 
(2015年06月26日)
 
 
 
 

 
  信仰と偽善
 
 
宗教は信仰を生み
一方で偽善を生む
 
信仰と偽善は両立しない
 
信仰だけ思っておればよいと言っても
宗教の偽善は「信仰」の名を携えてくる
 
自分が善くなっていると感じるのは
たいてい偽善だが
 
叱られても殴られても
自分の偽善に気づかないのは
偽善が宗教的信念に基づいているからだろう
 
信仰の偽善は
既存の信仰が砕かれることなしには
改まることはないだろう
 
砕かれることは
信仰の初めにあり
その後はないというのは誤りということになる
 
 
自分が悪くなっていると感じることは
まれにある
 
あっという間に未来も過ぎ去れ
と言いたいほどに
生きることは面白くない
・・という感慨をなぜ書くのか分からないが、
かといって死ぬ度胸はない・・
 
自分の正しさが自分の正しさを打ち消してゆく
 
 
(2015年06月25日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
   人の言葉
 
 
 飾らない、
 体よくまとめない、
 正直な本音、叫び、悲鳴、・・
 
ああ、ときに、めんどくさい、
 
人の言葉はいつも
神を語ろうとしては
ひっくりかえってケガをする
 
人の言葉はいつも
神に従うこと語ろうとしては
すべってころんでコブだらけだ
 
御心のままに・・
・・してくださいと本当に思っているだろうか
・・なること知っているつもりで
  どうなるか知らない
・・なったら自分は幸福だと思えるか
  それが死ぬことであっても・・?
 
わが魂を御手に・・
・・委ねなくても自分の思う通りにはならない
・・委ねたら(上に書いた・・)
 誰も覚悟など出来ていない・・
 
何ゆえ私をお見捨てになったのですか
・・キリストの言葉だ
  それよりずっと前の詩篇の言葉だ
・・キリストは復活した
  私は終末に復活する幸いを知らない
  生きている間は今が、今はすべてだ
 
何ゆえ私をお造りになったのですか
・・私の言葉だ、人間の叫びだ、上を参考にした、
・・死ぬまで分からない、
  死んだら分かるということが分からない
 
順境のときには楽しめ、
逆境のときには考えよ
・・考えることをやめてはいけない、
  順境のとき逆境の種を蒔いている、
  だからといって、
  わずかの楽しみでさえ
  楽しまざれば、いかんせん、・・
 
ということで、酒、飲んだ、
何の目処も立ってはいないのに、
 
祈りを聞くように
どこかで、わが主イエスが、聞いていると信じている
 
このざま、見られたくはないのだが、・・
 
 
(2015年06月24日、同日一部修正)
 
 
 
 

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