ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年06月

 
  偽善の祈り
 
 
自分はこう言ったのに
あの人には通じませんでした
 
 こう祈る必要がどこにあるのだろう
 すでに
 相手に分かってもらえない自分の拙さを棚に上げて
 相手を
 言っても通じない人と決めているのに
 
 さらに続けて
 
あの人を憐れんでください
 
 相手を哀れな(愚かな)人と決めつけるとは
 どういう自分贔屓(びいき)の神に祈っているのだろう
 
 さらにひどくなると
 
神は我が避けどころ
神は我が鎧(よろい)
復讐は神がなさる
 
 聖句を持ち出して呪い始める
 
 人に怒り人を憎むことは誰でもあることだが
 自分の恨みを神の名によって祈れば
 それは呪いだ呪詛だ調伏だ
 しかも
 恨みの正当化を神に求める以上に
 恨みを正当化してくれる「神」に祈っている
 
 そういう人はこう祈るべきだ
 
 私が悪ければ気づかせてください
 いや、こういう人は気づかない、
 ならば
 
 私が悪くて
 しかも気づかず改めないならば
 それを訂正できるのは
 主よ、あなただけです
 その時は私を滅ぼしてください
 
・・私は時々やっている・・
 
 
(2015年06月22日、同日一部修正)
 
救われたくて祈るわけで
滅びは誰も覚悟していないけれど、
このような祈りも必要な気がしてきた・・
自分を悪と罪からやすやすと除外する人が多いから
 
元々権限を持っている御方、
神に悪から強制的に除外していただくしかない・・?
 
・・笑うべきことかな・・
いやいや、これを書いたのは・・
応えない人を相手にしていると
こちらもだんだん頭がおかしくなってくるから
そのときは私は偽善者になってきて罪に気付かすに・・
・・やはり笑うべきなのか・・?
 
 
 
 

まことに不謹慎ながら・・・・・・・・・
 
 
  希死
 
 
死にたいと思ったら
本気のような気がしたら
 
自分で死を正当化する前に
自分で神を作って正当化する前に
誰かを死ぬときと死後に
呪ってやると思い込む前に
 
死にたい
死なせてくれ
殺してくれ

神様に祈りなさい
 
正式な祈りとして
神に捧げなさい
 
人のことなど忘れていい
倫理も道徳も忘れていい
祈ったことを忘れてはいけない
 
一日生きていたら
次の日もそうしなさい
 
そのたびに
祈った後
しばらく黙っていなさい
 
湧いてくる気持ちを待ちなさい
 
毎日でもそうしなさい
 
 
 四十年
 そうすることだけが
 できることだったアホより
 
 
(2015年06年22日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  ゆるす?
  米銃乱射で初の法廷手続き、遺族は非難せず
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150620-00000026-jnn-int
 
 
遺族の人々が本当の聖人ならば
私がとやかく言うことではないが・・
 
・・ゆるしていないと思う・・
 
恐らく教会で教えられ
自分でも聖書を読んで
キリストが罪を赦したように
自分たちも赦さねばならない
そして聖人のようでなければならない
という強迫観念にとらわれての発言だと思う。
 
仮に犯人が外に出てきたら
これから隣人として普通に付き合えると言うのだろうか・・
 
人間ならば
愛する人を殺されて赦せるはずはないのが
家族の自然の感情で
そういう反応を含めての人間性だと思う。
 
人間ならば当然に
悲しみとともに起こるはずの怒りや憎しみを
潰すか麻痺させるように抑えつけた結果としての
この人間離れした情緒と発言には
異常な宗教的プロセスを感じないではおれない。
 
他の殺人事件の遺族に対して迷惑なことにもなるだろう。
 
死刑にするかどうかは別問題としても
 
人間に
人間離れした決断をさせる宗教は
何らかの陶酔感や
教義の反復によって教え込んできたのではないか。
これは健全なあり方ではない。
 
昔のことだがテレビで
子供を失った母親が
「神の御心だから仕方ない」と言ったときの
表情をなくした異常な冷たさを思い出す。
 
私たちは出来ないけど・・という話ではない。
キリスト信仰の証などと、とんでもない。
単純に感心してはいけない話だ。
この異常な反応は人間性を失っている。
・・あってはいけないものだと考える。
もし教会が勧めたのなら
その責任は重大だと思う。
 
私は今日「異常な」ばかり言ってる・・
 
異常な宗教が
神がかりの異常な人間離れを勧めて
時間のかかる悲劇の克服のための
悲しみやトラウマからの回復の
痛々しいが健全なプロセスを
そして何より信仰による忍耐と
克服のプロセスをも捻じ曲げているのが
今の宗教事情である。
 
人間を人間離れさせる信仰なら
信じないほうがマシなのだ
 
 
(2015年06月21日)
 
 
 
 

 
  ゆるす
 
 
ゆるす=「赦す」と「許す」
つまり赦免と許可
この二つは違う意味を持つが
相手を受け入れるという共通点もある
 
キリストによる罪の「ゆるし」は
前者の「赦し」のほうだろう
しかし意味や漢字を正すことで
信仰が整うわけではない
 
 
ゆるせばさらに人を殺す者を
ゆるすことは悪だ
 
またこれは
どっちを選んでも罪
ということでもある
 
ここには
ゆるし受け入れることの大いなる矛盾がある
 
ここで安直な答えを出すのではなく
信仰者は求め考えなければならないのに
 
教えの聖句に
守るように
 
ゆるせという聖句に
ゆるすように
 
オウム返しで
信仰の体裁だけを考えている
 
教えを守ることが
信仰の中心ではない・・
 
信仰を道徳律で考えることは間違っている
 
間違っていることを
受け入れれば
いつまでも間違ったままだ
 
偽善は
信仰の体裁を整えて満足するところから
深く考える姿勢を失ったところから始まる
 
偽善は
人を無視する処世を学び
双方向を単方向に変え
人を見ず聞かず
言いたいことだけを言い続ける
 
同じ名で呼ばれて全然違う信仰が誕生する
 
 
数々の教えに対して
最も考えるべき対象は
教えを守れない自分である
 
ここを考えない信仰は
自分の罪を考えていないし
ゆえに赦されることを求めてもいない
つまり道徳的に自分を高めるための
キリスト信仰・・ありえないのだ
 
教えから
自分を努めて高めようとしても
高められない自分の罪を考えなければ
信仰は無意味である
 
 
(2015年06月21日)
 
 
 
 

 
  信仰生活
 
 
御心測り難い神様とともに
信仰生活を目指すなら
幾つかのことを心に置いてほしいと思う
 
信仰について語るなら
問題を共有し
問題意識に共感できるのでなければ
それは信仰生活ではない
 
教わるときも教えるときも同様である
 
答えを与え
その答えを押してくるだけの指導者とは
ひとまず距離を置いたほうがよい
 
永遠の訣別になるかどうかは分からない
 
人と人の言葉は
神と違って
浮動であり可変であるからだ
(「言葉(御言葉)」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17659348.html )
 
教えるとは
道がいかに長く多岐にわたるかを共有することだ
 
一つの答えを押し出す者は
どこでも通用する一つの道を教えたつもりで
実は狭き門を探す務めを怠っている
 
師に教えを乞い
その答えを鵜呑みにすることは
人を救い主にすることに等しい
 
人はキリストではない
 
 
私が書いている拙文は
聖書の逐語解釈というより信仰の考え方が多いので
聖書の解釈についてはたびたび苦手だと書いてきた
 
解釈は人の数だけあってもよく
また可変である
 
解釈は信仰の糧(かて)であり
思いを賦活するが
解釈は信仰の対象ではない
 
私が伝えたいのは
信仰という恵みを受けるにあたって
人が神に対して
つまりそれは人が人に対して
いかなる敬虔をわきまえるか、
へりくだる姿勢を持っているかということだ
 
それは決して
謙遜、謙譲、謙虚、などという類の
日常語や聖書語で表されるものではない
 
信仰においてそれは
いかなる解釈よりも優先するもので
それがなければ信仰は成り立たないと思う
 
人を信仰者たらしめる条件は
決して解釈や理解の正しさではない
 
神の絶対正義の正しさを欲しがるほうが罪深い
 
キリストがいかなる人々に
神の義を与え救ったかを見るべきだ
それらの人々はキリストを理解してはいなかった
 
しかし彼らは成り行きにおいて
神にへりくだるしかなかった人々だ
 
信仰は答えを与えない
決して終末まで答えを与えたりしない
 
人が祈り
問うことをやめない限り
信仰は新しい問いに広がる解放である
 
 
(2015年06月21日、同日一部修正)
 
 
 
 

このページのトップヘ