ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年07月

 
  心得
 
 
まずキリスト者は神に仕えているからといって
ふつうの人つまり非信仰者より自分を上に置いてはならない
 
 あれほど栄えた王たちも今は過ぎ去って跡形もない
 などということを言う人は
 地上で与えられなかった権威を天で与えられる
 という怨念の成就に酔っている人だ
 こういう人に仮に政治的権威を与えたら
 どれだけ残酷な裁きを実行するか分からない
 
 過ぎ去って跡形もないのは
 貧しきも富めるも有能も無能も皆同じだ
 
 神に近づいた、または、神に近づける、
 と思ってはならない
 こういう人は自分を他者より上に置きたい人だ
 
 神は絶対で、神と人との格差も絶対なのだから
 神と人の上下と主従の関係は変わることがない
 
 神の御心を学べば近づけるという発想は
 神と人を何かの量の違いと勘違いしている
 
 神(=創造主)と人(=被造物)
 という絶対的違いを忘れてはならない
 
キリスト教の立場から政治的見解は生まれない
 
 聖書至上主義から政策は導けない
 
 信仰は魂の救いであって政治理念にはなり得ない
 
 聖書は魂の救いのために書かれており
 あらゆる問題に対応する万能マニュアルではない
 
 政治に宗教を持ち込むと悲惨しか生まれない
 という歴史と現実を学ぶべきである
 
 宗教的確信と政治思想が一つになる国は
 惨劇が絶えないだろう
 あらゆる決断が絶対になり有無の戦に結び付くからだ
 
宗教の恵みに浮かれる前に宗教の怖さを知るべきである
 
 まことに宗教人の自己満足と万能感は
 身の毛のよだつ代物である
 
 まるで自らの不遇の復讐を志しているかのようだ
 
 宗教の恵みを享受したいなら
 神の前に
 神を待ち望む一人の人間以上ではない
 という強い自覚が必要である
 
人間の温度を忘れたところには冷血の破壊が広がり
 
人間の涙を忘れたところには血の海が広がるだろう
 
 
(2015年07月27日)
(2015年07月29日、一部修正)
 
 
 
 

 
  見える?
 
 
今まで何度か引用してきた聖句ですが、
キリストがパリサイ人に言ったこと
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:41
イエスは彼らに言われた、
「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが
『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
「盲人」「見える」は奇跡に因んだ比喩です。
 
「見える」は
「分かる」「知っている」という意味でしょう。
言い換えてみます。
 
 
(神と神の関わる信仰について)
あなたがたが
「分かる」「知っている」と言い張るところに
あなたがたの罪がある。
 
 
(2015年07月27日)
 
 
 
 

前にも書いたことがありますが・・
 
 
  視野と信仰
 
 
視野は自分について
 狭いと思うとき最も広く
 広いと思うとき最も狭い
 
視野は自分の視野の外に
 未知を認めるとき最も広く
 未知を認めないとき最も狭い
 
前者は可能性を肯定し
後者は可能性を否定しているからだ
 
ゆえに前者には変革と成長があり
 
後者は悲惨なことに
神さえも自分の視野のうちに納めてしまい
自分の視野外に神を認めなくなる
 
この悲惨な後者は
古い基準で人を裁き
変わることを受け入れず
心の常同行為を信仰だと思い込んで
あらゆる言葉と見方が前と同じでないと気が済まない
 
古い基準とは自らが定めた価値基準であり
あらゆる時間と世界を理解したつもりで
そこから外へ出ようとする信仰を背教と呼ぶだろう
 
人の理解は相対的で
新しい時と所によって変わらなければ
どんどん的を外れてしまうのに
 
神は変わらない
しかし
人の在り方は自覚がなくても刻々変わってゆく
ゆえに人は不変ではあり得ない
 
後者はそれにすら気づくことがなく
変わり果てても同一だと思い込んでいる
そうして
神の不変を自らに当てはめ
人の信仰は不変だと信じ込んでいる
 
人は不変ではあり得ない
 
心と言葉で生きている人間は
変わらないつもりでいても変わってゆく
 
人は神の不変を持ち得ない
 
変わることを拒む信仰は
自らを全能の神と同じプロセスに置こうとする
 
人は全能ではない
 
したがって不変の人になってしまった信仰は
不全が完全を持とうとすることに等しく
自分の視野の中を往復しているに過ぎず
それは成長するべき心を
古いままの視野に閉じ込めてしまう
 
人にとって
可変であることは一つのリスクだが
人に与えられ自覚できるリスクである
 
不変などあり得ないのに
信仰を不変としてしまうのは
リスクというより危険であり
しかも自覚することさえ困難にしてしまう危険である
 
信仰を不変としてしまう在り方は
皮肉なことに
リスクを超える全能の導きを信じていないのだ
 
変わらない信仰を称えるのは自画自賛であり
その賛美を神に向けようとしても
自分が定めた視野の中で
自分に戻ってくるだけだ
 
私たちは
変わってゆく自分を神の前に捧げて
全能の導きを祈り
自分の視野の中にとどまることない信仰
つまり神の関わりを求めるべきではないのか
 
 
(2015年07月25日)
 
 
 
 

 
  乱気
 
 
噛み合わせがない
 
噛み合わない
 
咀嚼できない
 
未消化のまま嚥下
腑に落ちない
 
ときに失禁
ときに嘔吐
 
食えぬものは食えぬ
 
バリアをめぐらせ
抗体 防衛 水際に
 
それでは気が済まぬと
道も友もなく変異の病原
 
自己免疫 自己満足
充血 発赤 炎症
虚血 蒼白 壊死
 
不随意から痙攣
布団から手足
視界から万華鏡
割れた隙間に
臭気 瘴気 熱病
 
このままでは
焦眉では済まぬ飛び火
 
平らかなりと嘘の挙げ句
 
 
(2015年07月24日)
 
 
 
 

 
  絶対の行方
 
 
神の存在のしかたを人は知らず
その絶対性から
神は「在って在る」
という言い方になったのかもしれないのに
 
神の「在って在る」を
「在る」の強調と受け取って
誰が何と言おうと
神は存在する
と言い張ることが信仰だと思ってしまい
 
修正しなくてもよい、
いや修正してはならないと
信条として
教えられたことを固く信じ込んできた
 
神は自らを修正する必要はないが
人が神と同じように修正不能になることは
自らを絶対としてしまうことに他ならない
 
そして他者を憎んだり恨んだりするだけで
自らを省みることがなく
ゆえに自らの罪を自覚しない者になってゆく
 
こういう信仰の有り様を多く見かける
 
この有り様は
人が自ら救いを拒んでいく獣道になるだろう
 
 
神と神の領域は絶対だが
人と人の領域に絶対はない
 
人は神を絶対として信じるが
人は神の絶対を知り得ない
 
人の世界の言動に絶対はないので
人は絶対の世界を知り得ない
 
「絶対が絶対に在る」
という様態を人は知り得ないのだ
 
神の絶対を人の所有物にしてしまわないために
 
絶対の神を信じるということは
人と人が持っているあらゆるものを
絶対としない信仰である
 
神からの賜物を
絶対のまま保持できる箱を人は持たない
 
修正可能な思いの箱が人の器であり
よって
人に「在って在るもの」は存在せず
 
代わりに
神によって人は
成長の可能性を持つ被造物の道を与えられている
 
人が自らの絶対を
捨ててゆく一生懸命が信仰である
 
 
(2015年07月23日)
 
 
 
 

このページのトップヘ