ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年07月

 
  砕かれた心
 
 
聖句を知って
その言葉ひとつひとつに
神秘の実感を求めるのではなく
 
話のつながりから
キリストの意志の一貫性を
読み取ることのほうが
感じることも得るものも大きい
 
心が砕かれると言えば
一般には大きな失望
という意味で使っている
 
信仰においては
砕かれた心こそが
何よりも大切になってくる
 
心を整え
上等に見せようとする者は
救いから遠ざかる人の姿である
 
私たちが
神そして信仰に求めているもの、
赦し、救い、神の義、天国、
いずれも人として生きている間
正体不明と言ってよいものばかりだ
 
神を主語にして語るとき
大方この正体不明を語り
ゆえに語りそこなっている
 
正体不明を整えるのではなく
正体不明のまま
「見える」とも「分かる」とも言えないまま
どうしようもない自分の姿として
神に任せるとき
砕かれた心を見ていただくことになる
 
神の前に
人が整うなどということはない
 
継ぎ接ぎだらけの装いより
砕かれて倒れそうな人格を
神様には供えるべきだろう
 
前者は虚飾であり
後者は本音しか持たないからだ
 
 
(2015年07月22日)
 
 
 
 

 
  救われる者
 
 
「ただ信じなさい。そうすれば救われる」という
カルトその他で吹聴されるプロパガンダからは
信じない者は救われないということになるが
他者の救いを云々する前に
自分の救いについて考えるべきだろう
 
非信仰者は救われないとか
自分信仰者だとかいう決めつけは
まず神の全知全能を忘れていて
キリストが
娼婦や犯罪人に慈しみを示したことを忘れている
 
彼らの人生の大部分は非信仰であっても
キリストは彼らの救いを説いている
それは彼らが罪を認めたからに他ならないが
 
もちろん彼らの総てが救われるわけではない
 
しかしまた同様に
信仰者の総てが救われるわけではない
 
信じたから救われると慢心するのは自分信仰への道だ
 
一度の一言の敬虔で救われた者もいれば
どんなに善行を積んだつもりでも救いに足りない者もいる
 
救いとは地上で安楽になることではない
かといって
天上でどうなるかは人の言葉では説明できない
 
地上で自分を高める材料を何も持たない者、
いわれもなく地上で低められ貶められている者、
罪人と言われれば、そうですとしか答えられない者、
救われないと言われて弁明も反論も出来ないと知る者、
救われるかも救われないかも知らないままで
他に術(すべ)を持たず祈る者、
この者たちがいかに尊いか
 
これらの人々こそ
あとから来て先に救われる者たちだろう
 
救われる者とは、
資格があって救われるのではなく、
あるとき唯一無二として
魂の救いのみを必要としている者であろうか
 
キリストの言行録からは
どうしてもそのように推測されてならない
 
 
(2015年07月22日)
 
 
 
 

 
  具体
 
 
人は様々な神を想像し想定してしまうのだが
その神?なる想像のどれをとっても
神と呼ぶに値せず
絶対正義の具体を持ち得ない
つまり人の神に対する想像力はその程度のものである
 
人は真の神を想定することは出来ない
 
人の心に全能は入らないからだ
 
神の存在も不在も証明できないのと同じように
自分の信じる神が
真の神であることを証明することは出来ない
 
ましてや人が
神の意志と行為を具体的に示すことなど出来はしない
 
したがって信仰は
神が人に具体的にどうしてくださるから
という契約でないことは明らかである
 
ゆえに神に任せる委ねる・・というのは
神は自分を自分の望み通りに運んでくれるから
という契約ではない
 
全身全霊を任せ委ねることは
生涯にわたって
神の懐(ふところ)に身投げをするようなものだ
 
神の行為を人が好きなように限定して
毛と皮の一部は犠牲になってもよいが
胸と頭は大事だから守っていただく、
つまり軽い傷は負うが
重いあるいは致命的なことにはならない、
というような条件で安心させる性質のものではない
 
人は神の創造物であるから
壊すときにわざわざ人に説明する必要はない
という立場の決定的な違いをわきまえるべきだ
 
体も心も命さえも奪われて
この世の誰もが
それは幸いでしたとは言えない運びであっても
絶対の価値に身を委ねるということは
肉体と精神の安全の保証ではない
(多くの殉教者と、キリストが味わっている)
 
その杯(さかずき)を受ける整合性は
自分と世界の終末においてのみ
明らかになる契約としか言えないのが信仰である
 
古今東西にわたって人が神を待ち望むのは
今は隠れていて酷い有様だが
いつかは顕現して総てを正してほしいと
願い続けているからだろう
 
 
(2015年07月21日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  万感
 
 
神を信じるのに
自分をいつの日も守ってくれると信じるのは
守り神という条件を付ける傲慢で
言い換えると
自分を守る神を信じる偶像崇拝だ
 
神は人のことをすべてご存知で
すべて見ておられ聞いておられるが
えこひいきの守り神ではない
 
神は人の思い込みもご存知であり
人が思い込み信じ込むところに
人に調子を合わせることはないだろう
その場合に期待されているのは別の神だ
ということもご存知だからだ
 
守り神信仰は
出来事のたびに神の意志と出来事の
辻褄合わせをするようになる
あるいは
守ってくださる守ってくださる
と念じる信仰になってしまうだろう
 
自分の言動を
神の御心や神が与えた使命
と信じ込むと
 
うまくいかなかったとき
神を責めるわけにはいかないので
自分の不信仰を嘆くならよいが
関わった他者のせいにするかもしれない
 
以上はいずれも
御利益宗教や戒律信仰その他
カルトと同じ構造と機能を持つものになる
神はそのような身勝手に
救いを与える御方ではないと思う
 
どう考えても信仰は
人が神に条件を決めつけて
信じ込むことではない
 
守りは見えない守りを
導きは見えない導きを
一生涯つまり死を含めて
身を任せることであり
 
見えない神は
人が見ようとすればするほど
現れない神である
 
現れないのなら
何ゆえ人は信じるかといえば
生も死も超えた御方の支配にあって
もはや人が抗しようのない御方ゆえに
その神の秩序を待ち望み
被支配の民であろうと欲するからである
 
このことは
願いが叶っても叶わなくても
神に任せる信仰ゆえに
自分ではなく神に支配される者として
自分にも縛られることなく
祈り願うことが許されるだろう
 
過ちを犯す人であるから
赦しとして救いとして
過ちを犯さない神を望まないではおれず
万感の思いを込めて祈ることになる
 
 
(2015年7月20日)
 
 
 
 

 
  同値の色
 
 
内なるものと
外なるものがあり
 
ふと思い浮かんだり
うむと決したりすることを
内からか外からか
人に為さしめる
 
神に似せて造られたというが
神のように神秘の業(わざ)を持ち得ず
 
己(おのれ)の心をすら
思いも動きも
つぶさに知ることはなく
次に何を為すのか
それをどこまで運ぶのか
どこまで運ばれるのか
内に与えられてか
外から導かれてか
知らないまま
使命か宿命のように
一本の道を歩くという結果に経過する
 
運命といっても時々に選んでおり
自由といっても過ごすのは一本道であり
 
神に問い神に任せるのは
自らに問い自らに任せている表れとして
 
思い哀しんで決するように定められ
定められたとはいえ未知を開く選択に思い哀しみ
 
命(めい)は天にあり
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我になり
罪(つみ)は我にあり
 
ただ一体の同値として
移り変わる色を
分けるのはただ便宜上のことで
いくつあるのか
言葉も
行いも
双方向の絡みが
言の葉を散らす
 
 
(2015年07月20日)
 
 
 
 

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