ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年08月

 
  当たり前
 
 
成長とは地獄の人になることなのか
 
宗教が当たり前になると
神も絶対も全知全能も創造主も当たり前になる
 
これらの属性は決して当たり前ではなく
理解も納得も出来ないというのに
 
出来るのは待つこと望むこと
祈ることだけだというのに
 
クリスチャンなら当たり前
信仰者なら当然
と言われるところには
きっと分かりやすくなった神が言葉で語られて
人々は思い通りに働いてくれる神を賛美し
お金を出して養っている
 
思い通りにいかないと
神以外の何かのせいにするところに
人と人の間に地獄が生まれる
 
人は天国を見るよりも当たり前に
地獄を見て生きている
 
 
(2015年08月28日)
 
 
 
 

 
  信仰・断片
 
 
一合の酒を飲み
信仰と不信仰を振り返り
 
誰でも救われると言いながら
救われるべき人を去らせてはいないか
 
説明できる絶対者を信じるのは信仰ではない
 
神を説明しようとする人は
人間くずれになるだけだろう
 
人間は人の世界に住み
言葉の世界で交わっている
 
根拠のない言葉は罵詈雑言である
 
人の世界に居続けるのなら
言説には根拠が必要だが
その出来は説得力にかかっている
 
ただの理屈ではなく
根拠をさかのぼれば
人間であるなら・・に帰結するだろう
 
信仰者も非信仰者も
私たちは人間である
 
人間世界での根拠が示せないなら
人間世界では正しいと思ってはいけない
 
神の根拠は人には分からない
ゆえに神の根拠に基づく事柄について
即ち人の世界に根拠を見出せない事柄については
人は黙して思いにとどめるべきである
 
口酸っぱく
「見える」と言い続けてはいないか
 
言葉を持ってしまった私たちは
言葉ゆえに完全な盲目ではなく
言葉ゆえに
よく「見える」こともないのだ
 
一合の酒を飲み
己の信仰と不信仰を振り返る
 
 
(2015年08月27日)
 
 
 
 

 
  秘跡
 
 
聖書の解釈の問題は
いつでも取り上げたい人が取り上げて
考えたり話し合ったりできることで
またいつでも保留にすることが出来る問題です
それ以前の大切なことがあると思います
 
肉体を持ったイエスがキリストの自覚ゆえに
最後まで信じ望んだことの推測に基づいて
・・また失敗してみましょう・・
 
私のような者は今日死んでもおかしくないし
明日死んでもいいようなものですが
 
私などの存在も不在も包み込んで
死んだ私と生きている地上の人々を
すべて赦し慈しんで安心立命を与え得る存在が
人間世界のあらゆる矛盾を超克して
絶対の力と絶対の整合と絶対の温度をもって
君臨と支配の光を
時には無秩序の中に落としている秩序
 
その成就を望んで信仰の道を選んだのであれば
選んだことが証しであるのに
何ゆえ一人の人間が
道を整えようとした洗礼者ヨハネにも満たないのに
その成就を自分で整えようとするのでしょう
 
個人の信仰の初めに
価値の180度の転回があって
その展開を喜びとした者にとって
自分も他者も筋を追えない魂の秘跡があったはず
 
神に任せ委ねるということは
人が聖となることでしょうか
人が人として
神の民になることではないのでしょうか
 
何ゆえ自らの「人」を語らないのでしょう
何ゆえ「傷だらけの人の魂に起こった秘跡」
を語らないのでしょう
何ゆえ自分で整えようとするのでしょう
 
 
(2015年08月26日)
 
秘密にしたい特殊な事情があるのなら
そこは「特殊な事情」と書けばよいのです
 
プロテスタントでは
「秘跡」は聖礼典を指すようですが
ここでは秘密の奇跡の意で用いています
 
 
 
 

あくまで印象・推測・想像の域を出ません・・
 
 
  あの人
 
 
自分の公理的思い込みの主張の周りを
派手な形容を振り回すだけみたいな人の
はぐらかしや言い逃れは
ほぼ限度も明らかになったように思われるから
見た目の優しさや柔和さなど
実際の思想とは丸反対の顔も
もう長くは見たくないということになるのだが
 
次はあの人が出てくるのだろうか
 
戦車のような顔に屈強な体格
初めから説得を意識していて
説得されることなど
微塵も考えないような一言一言は
論理立てて話すような口調
 
表情は無表情・冷静を基調とするが、
冷淡・氷結から潜熱・温熱・情熱まで
思ったより広く表出され、
言動するに迷いのないような
大変なことでも躊躇なくやって悔いない
将軍のような強面と覚悟、むしろ武人か・・
飾ることをしない言論、
 
連文節で区切りながら話すのは
心をベリファイしながらだろうか
「・・は、・・だから、・・ということで、・・」
 
欠点は情緒面の人気か・・
・・まあそれはどうでもいい
 
注意し警戒して聞いていかなければならない
・・ごり押しに走れば
恐らく前の人よりも強力だろう
 
 
(2015年08月25日、同日一部修正加筆)
 
今日あたり台風直撃のようで、
風と雨の音、近くの物音、
閉め切った部屋の中の扉やガラスが
外の風に合わせるように振動する音、
圧力、揺れる音など、混ざって台風の音・・
 
 
 
 

 
  謙遜と不遜
 
 
「神に導きによって
 今日まで生きて来られたことを感謝します」
という祈りは
人により場合によっては
へりくだった感謝ではなく
パリサイ人のような不遜の
自慢話になってしまうことがあります
 
感謝の祈りをするな
ということではないのです
 
どういう場合に不遜になってしまうか
ということですが
 
例えば苦難の中にいる人が
癒やされたときに、
あるいは一日長らえたときに
感謝するのとは違うかもしれない
ということ
 
不遜の場合
ずうっと神の導きによって生きてきた自覚
→間違いのない人生を送ってきた自覚
こういう人にとって
すべてが神の導きでなければならなかった
 
人は間違いを犯すことがあるのだから
その時に本当は立ち止まり振り返って
信仰の考え方を見直す習慣を
つけておくべきだったが
それをしなかった
 
代わりに感謝と賛美で
絶望も反省も埋め尽くしてしまった
独り善がりの始まりと継続
 
自分の歩いてきた道は神の導きなのだから
すべてにおいて正しい、
正しくなければならない、
正しいはずだ
→自分は正しいことをしてきた
→間違っているのは相手のほうで
 自分であるはずがない
→相手は神に背いている→神の敵だ
→相手の言うことを聞いてはならない
→ますます修正不能に
 まるで本来の信仰とは逆方向へ
 
「ねばならない」観念の使命感が
常在先入観となって
神の導きによる信仰を
修正不能にしている場合もあるだろう
ということです
 
信仰は一生を支えるものです
荷が違えば休み方も始め方も違うでしょう
人間の心は、
何か間違えているかもしれないと思い
それを考える自由が与えられています
それを放棄してしまうと
人の心の真面目さが信仰を損なってしまう場合があります
 
積極的に修正可能を意識する必要があると思います
 
 
(2015年08月24日)
 
 
 
 

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