ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年10月


 
  人生を生かす常識?
 
 
せっかくの好ましい話を
他者の記事から引用・転載しておきながら
無頓着な聖句引用によって
台無しにしてしまっている例を書いておきます。
 
小学校3年までしか教育を受けておらず
字を読めない女性が教会の役員になった話です。
 
>聖書が読めない。それで、
>ずいぶん努力して勉強を始めたのだそうです。
 ・・・・・ 
>「私でもお役に立つなら」と、身を乗り出したのです。
 ・・・・・ 
>彼女は、こうして教会で見事に用いられたのです。
 
とても良い話なのです。
 
この記事で
ブログの管理人である牧師は
自分の意見を書いていません。
その代わりに次のような聖句を引用しています。
 
 「すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。
 神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
   この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
 それは、神の知恵にかなっている。
 そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
 (新約・コリント人への手紙1章19~21節)
 
上の話のあと彼の記事は
この聖句引用で終わっているのです。
(2015年10月28日午前2時現在)
 
聖句に初めて触れる人や
上の話と関連付けて読む人に
どういう印象が伝わるでしょう。
 
間違えてほしくないのは、
この聖句は
知者や賢者は空しいとか
この世と敵対せよとか
宣教は愚かであってもいいとか
愚かさは素晴らしいとか
言っているのではありません。
 
神の働きの偉大さとは
比べようがないということでしょう。
 
この聖句は
愚かさを誇れと言っているわけではありません。
また当然
賢さを誇れと言っているわけでもありません。
 
聖句をポンと書いて
それで十分だから
あとは知らない、信仰者なら分かるはず
とでも言いたいのでしょうか。
 
誤解されやすい聖句だから
必ず解説が必要なのです。
 
自分の意見や解説を書かず
聖句だけで済まそうとするのは
長らく批判対象としてきた経緯からは
前にも書いたことですが
こう聖書に書かれているから文句は言わせない
という印象を与えます。
 
どんどん捻れてゆくような
信仰の向きを感じます。
 
彼自身の愚かさの正当化に聖句を使っている印象です。
 
ずっと無批判がまかり通ってきて
気づいた人に批判されると無視する
という習慣が続くと
こうなってしまうのかもしれません。
 
 
この聖句は
愚かさを誇れと言っているわけではありません。
また当然
賢さを誇れと言っているわけでもありません。
 
>「私でもお役に立つなら」
 
彼にこの謙遜は見られないようです。
 
 
(2015年10月28日)
彼の不遜・尊大をずっと批判しています・・
 
 
 
 

 
  いるとき
 
 
テレビを見ているとき
自分は時間より無味だと
 
街を見渡しているとき
自分は光より形がないと
 
木々を眺めているとき
自分は風より色取りがないと
 
悲劇を聞いているとき
自分は音声より冷酷だと
 
誰かに怒っているとき
自分はニュースより無責任だと
 
ここに居るとき
ここに居るのは何ものなのかと
 
ここに記す
 
 
(2015年10月28日)
 
人には潜在的に日常的に
これくらい非情になることが
ありうるのが本性だと・・
ここに記しておきます。
 
 
 
 

 
  嘘
 
 
言葉は何度でも繰り返すことが可能だが
言葉によって想起される心は
繰り返すほどに嘘になる
 
心から湧き起こるものは
情動を伴い
概念とイメージを想起させ
言葉を伴うだろう
 
それは人にとって嘘ではない
しかしそれはその時だけで終わってゆき
同一再生は不能である
 
人は名残惜しいので
色々な手段で
類似の再生を体験しようと
営々として試みるのである
 
心を言葉と結び付け
変わらないものを言葉で信じるなら
自らにも他者にも
嘘を繰り返し強いることになる
 
 
(2015年10月27日)
営営:せっせと励むさま(広辞苑)
 
営々としているかどうかは別として
私も類似再生を試み続けているわけです。
 
 
 
 

前の記事の補足みたいになるかもしれません・・
 
 
  ぼろぼろ
 
 
しんじる こころは 
 
ぼろぼろ の そばに いる 
 
あったかく いる 
 
 
しっかりした こころ だけなら 
 
しんこう なんて 
 
ひつようは ない 
 
 
ひにく ではない 
 
じぶんで どうしようもない ときだけ 
 
おもいだして ほしいから 
 
 
縁を しんじて 
 
具を もとめず 
 
 
ことばで かたっても かたっても たりない 
 
かたりえたと おもえば うそつきだ 
 
 
じぶんで 
 
しんこうを ととのえようと する ものが 
 
うけとるのは 
 
みずからの はいせつぶつ だけだ 
 
 
はこびを おまかせ するしか ない ときに 
 
ぼろぼろ いがい ささげる ものは ない 
 
 
(2015年10月27日)
 
具(ぐ):
連想として、具体、具備、具(そな)え・・
 
 
アホらしいと言われるかもしれませんが
 
神の救いと言えば
いつも味方で守られ
救われる自分のことばかり考えるでしょう。
 
神との縁と言えば
味方をすることばかりではなく
懲らしめる神のことも考えられるかもしれません。
 
いつも自分に都合よく
守ってくれるばかりの神ではない
ということを言いたいのです。
 
そういう秘密の正義に運びを任せるのが信仰です。
それが神様との縁、キリストとの縁なのです。
 
 
 
 

 
  報酬
 
 
いかなる批判も無視して
乗り切ったつもりで次に進もうとすると
 
進んだつもりで前後を失い
上がったつもりで階段ごと失ってゆくだろう
 
息の先の進んだ感覚を信じても
上がったのは思いである
それが反省しない者の報酬だ
 
どこまでも乱数の常識から
ちょうど良さそうな順列を拾って
それが指に食いついているのに
気づかない笑い顔は
汗の数を数えることになるだろう
 
間違っても自ら整えた報いに
神の賜物の名を求めようとしてはならない
 
反省しない人が
予定調和の報いを賛美するなら
仰ぐ先はあまりにも軽い実体を持ってしまって
却って裏返った皮を逆様の顔で笑うようなものだ
 
 
私は神について
何も分かってはいません
 
縁(えん)を信じて
実(じつ)を求めず
 
これが出来なかったら
人の信仰は縁ではなく
実に対して因縁付けを始めてしまうんです
 
だから私は不平を言って泣きながら
運びをお任せするんですよ
 
縁を信じているから
 
 
(2015年10月26日)
 
ここでいう縁は
神の領域とその働き、つまり、
神、キリスト、聖霊、魂の救い、導き、など
といった、人の理解を超えた働きと
人との絆または関係のこと、
つまり信仰ですが、
この実体は神のもとに秘されていると思います。
 
神の実体はもちろん、
神からの人の現実に対する働きも、
分からないことだから
希望に結果の条件は付かないということです。
 
人に分かることと分からないことは分けなければなりません。
神の施す結果を宣伝して信じ込ませるような
人の世界に根拠のない虚妄の宗教であってはならないのです。
 
だから神様に不平を言ってはならない
というような戒律は
救いの結果ごと既に知っているのだから喜びなさい
ということになり、・・あり得ないのです。
 
信仰を言葉で整えようとする者は、
私たちが揺れ動く生きた心を持っていることを
神がご存知ないとでも思っているのでしょうか。
 
私たち信仰者は
想像を絶する御方を仰いでいるのです
 
 
 
 

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