ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年11月

 
  経過
 
 
善いと褒め称えられたことが
あとには悪い種になるということがある
それが人の業だろうかと思う
 
人は結果として留まることは出来ない
 
人は経過に過ぎないからだ
また結論も経過であり過程である
 
聖書も例外ではない
と言えば
強迫的先入観に囚われている人は
とんでもない・・と怒るかもしれない
 
それこそとんでもない
そこで人はしばしば踏み違えるのだ
 
人の言葉で表されたものは
様々な方向に解釈が向かうことがあり
よって聖書は
様々な教派とカルトの根拠になっているではないか
 
聖書も読んだとき解釈され
人によって解釈されれば人の言葉である
 
聖書は神の言葉だとしがみつく者は
結局、自分の言葉にしがみついているのだ
 
聖書の言葉を
人間の言葉として通じるように
生かすのが人間の使命である
 
むしろそこに人間の生きる姿があり
人間の言葉に託される
という神秘があり
したがって
終末まで終わることのない営みと歩みがあるのだろう
 
終わることのない歩みだから
善い種と悪い種を
その都度、何度でも考えてゆく必然が生まれ
考える信仰の必然が生まれる
 
いかなる人間も生きて経験を積み重ねているのだから
考えることが出来ない人間はいない
というレベルの思考をともにするのだから
そこに完璧な答えは求められてはいない
 
答えは経過であり過程だからだ
 
 
(2015年11月27日)
 
善い(よい、良い、好い、佳い)
褒め称える(ほめたたえる)
業(ごう)
囚われる(とらわれる)
 
 
 
 

 
  信仰と条件
 
 
福音そして神の契約は
神からの
人に条件を付けず
告白と祈りによって
成立する救いの約束ですが
 
無条件であるからには
人も神に条件を付けてはいけません
 
なのに人は
理想のイメージを付けたり
習い覚えた筋書きを付けたり
美味しい話を付けたり
自分の体験と因縁を付けたり
自分の頑張りの成果を付けたり
自分の誇りを付けたり
いろいろします
 
それらは祈りによって
告白され反省され
悔い改められるべきことです
 
自分に都合のよい神
という条件を付けてはいけません
 
それでも人が
故意に付けた条件を
外そうとしなければ
その人は
神の民になりたいのではなく
都合のよい神の民になりたいのだから
人の側から契約を破棄しているようなものです
 
神は導かれるでしょうけれど
導きを拒否する者はどうしようもないのです
 
仮想すれば
神が万能をもって拒否する者の行為を
コントロールすることは可能でしょう
しかしそうすると
神に直接コントロールされ
自由意志を持たなくなったその人を
その人とは呼べなくなるでしょう
 
救われるということは
人が別の人や
人を超えたものになることではない
 
救われるということは
人が自由意志を持つ人間として
御心に従うことであり
人間においては
突然、別の、すっ飛んだものに変わるのではなく
その人間の成長の連続線上にあるから
人は共感が出来るのでしょう
 
人がキリスト者になりたいと思ったとき
その変化は決してその人格が
別の格に変わるような変化ではなかったはずで
信仰を求めたのは、カルトでない限り、
どこまでも人間的な欲求だったはずです
 
人間的な欲求であることを忘れて
人に都合のよい条件を救いに付けて
とんでもない保証に安住していると
特別な荒行や厳しい修行でなくても
成長のための試練は意識されにくく
努力は放棄されやすいでしょう
 
いかなるときも
神の無条件の救いに与るために
人は救いに条件を付けてはいけません
 
救う神と
救いに与る自分という関係
だけでなく
背けば懲らしめる神と
反省する自分という関係を知るべきです
 
 
(2015年11月27日)
 
与る(あずかる)
懲らしめる(こらしめる)
 
 
 
 

 
  価値基準
 
 
信仰とは価値基準を
この世の基準ではなく
神の価値基準に求めること
と言えば聞こえはよいが
神の価値基準を明確には知り得ない
これで教えたつもりになってはいけない
 
つまり物を捨てるのと違って
価値基準を見分けて捨てるというのは
潜在意識まで含めるとなかなか難しい
 
むしろ捨てるという百%よりは
こだわらない
惑わされない
考える時間を持つ
ということのほうが現実的かもしれない
 
捨てるも拾うも
遊びは必要なのかもしれないが
それは、いい加減と言うべきなのか
 
徹底しなければ・・と
余計な妄想まで作ったのでは話にならない
 
いい加減でいいとは言わないが
概念や計算のような狂いのなさは
人間には不可能な本質かもしれない
 
 1 か 0 という選択は
人間向きではないのかもしれない
 
 
(2015年11月27日)
 
 
 
 

 
 ブログ:その名は不思議
 記事「誓約と結婚 信仰告白と洗礼」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27088943.html
 
 
今回、彼は冷静に答えているつもりのようです。
しかし彼は
キリスト者にとって必須の
罪びとの自覚と
罪びとの立場から語ることをしていない
という批判には答えていません。
 
彼は教会が必要であることの論拠を
書いているつもりのようです。
したがって今回の私の記事では2つの点が問題になります。
 
1.教会についての一般的な問題
 今回の記事は今までより
 重要な問題について語っていると思います。
2.彼自身が答えていない問題についての
 キリスト者及び聖職者としてどうなのかという問題
 
 
1.の教会の問題について
 
今までにはなかった内容として
 
教会と教会主義に分けています。
また教会を形式と本質と述べています。
さらにそれを体と心に対応させています。
教会主義では
 
>本質と形式は決して逆転させてはならない、
>逆転されると本質の命が失われるからです。
 
本質と形式が逆転していると述べています。
 
そこで本質を心に、形式を体に見立てています。
 
>心とからだのどちらが大切かといえば心ではないでしょうか。
>でもからだは心を表現する器なのです。からだなしの人はいません。
 
>からだを持つ人はだれも本質そのものになることも、
>本質そのものを表現することもできません。
>なぜなら人間は死すべき存在であり、有限であり、
>その表現形式は相対的だからです。
>人の言葉や形式で表現された事は本質そのものではなく、
>本質についての情報、説明です。
 
>神の言葉は本質そのものですが、
>人は自分でそれを理解し、把握することもできません。
>そのために、神は人に神の言葉を伝えるために、
>イスラエルの民の歴史と聖書という人の言葉によって表現されました。
>人の言葉で書かれた聖書は
>神と神の言葉という本質を表現する器、形式と言えると思います。
 
>人による聖書の理解は相対的で、本質そのものではないのですが、
>私たちは善悪を知る木の実を食べて生きているために逆転させてしまい、
>本質主義に転落し、果てしない宗教論争となり、命が失われてしまうのです。
 
ここまでの言説、
美味しい話ばかりの賛美の言説と違って、
本当に彼が書いたのかと疑いたくなるほど
説得力のある質実な文章だと認めます。
何故こういうことを今まで書かなかったのかと思うほどです。
特に
 
>人の言葉や形式で表現された事は本質そのものではなく、本質についての情報、説明です。
>神の言葉は本質そのものですが、人は自分でそれを理解し、把握することもできません。
 
この2行は、今まで彼が書いてきたことや、
繰り返し主張してきたことからは信じられないくらい、
かなり脱却した、とても思い切った言説であり、
私はこれに同意します。
 
しかしながら
 
>人の言葉で表現された神の言葉は神ご自身の働きによってのみ、
>人に啓かれ、伝えられるのです。
>そのために神はイエスと聖霊を遣わされたのです。
>教会は神の命の息吹を吹き込まれた神のからだなのです。
 
教会が
「神の命の息吹を吹き込まれた神のからだ」たりえているか
について大いに疑問です。
「神ご自身の働きによって」「キリストと聖霊によるのだから」
を根拠にしているようだが
これは神の領域の働きで、現実問題として
教会がこの根拠に立脚しているかどうかは分からないのです。
 
彼は、せっかく本質を心に、形式を体に譬えながら
最後は神が何とかしてくれると
彼が前に行った「(神に)丸投げ」によって
人間として果たすべき努力と思考とを放棄してしまっています。
 
だから
この文章からは
神とキリストと聖霊が働いているから、
結局は、うまくいっている、大丈夫、
と宣伝しているだけになってしまっています。
 
こういう問題は、現実の
個々の教会の、牧師の、キリスト者の、自分の、信仰のあり方を
掘り下げることなしには語れない問題だと思います。
 
>神の言葉の本質であるイエスご自身には争いは全くありませんでした。
 
「争い」というのが、どういう争いを意味しているのか不明瞭ですが、
今まで私は
キリストがパリサイ人を、つまり偽善を、
真っ向からの否定をもって厳しく批判したことを書いてきました。
キリスト・イエスvsパリサイ人や祭司などの旧勢力
という対決が、その言論において、聖書を読む限り確かにあったのち、
それによって
 
>神の言葉を形式に逆転させてしまったユダヤ教によって十字架につけられたのです。
 
ということになったわけです。
 
>しかし、イエスの十字架の死によって人のわざを再逆転してくださり、
 
彼が前に言っていた「どんでん返し」の勝利を書いているのでしょうか。
 
>神の言葉の本質である神の愛が私たちに注がれているのです。
 
このように結んでいるのは
説得力という点でも、愛が注がれているという結論ですから
前半に書いた言説が、どこへ行ってしまったのか、
全く生かされていない、とても安易な結論と言わざるを得ません。
 
前半がなくても、カルト的な人でも、
これくらいのことは言えるだろうという質に堕しています。
 
彼の言っていた「どんでん返し」は、どうやら、
この記事の、この最終数行に、逆の意味で起こっているようです。
 
信じる者の中に
パリサイ人的な、神に愛され、神に義とされる自分しかなく、
他者の罪ばかりを論って見下し、
うまくいっていること以外何も考えることなく、
ゆえに神を賛美することに終始している者はいないのか
ということについて何の考察もないようです。
ということで・・
 
 
2.罪人であることの認識について
 
このことを彼は書いていません。
 
上に書いたように
今までなかった前半の言説が
後半から最終数行にかけて全く生きて来なくなっていることに
注目しなければなりません。
 
彼自身が、
最終行に示されているように、
神に愛されることを強調しながら
罪に対しては
人間一般の話か他人事としてしか語れない信仰だから
罪については「どんでん返し」的な話くらいしか語れず
考察できていないのではないかと思います。
 
愛されている話ばかりを書けば
信徒も愛されていることしか考えなくなる
という結果と経過が表れているのを
色々な記事などを読んでいると感じます。
 
愛される立場を得ることで
自分の罪に無関心になる偽善への道が口を開けて待っています。
 
人に命の道か死の道かを問う前に
誰でも、信仰を持っても、あるいは信仰者であるがゆえに、
陥り、向かってしまう危険な死の道を
できる限り、信仰生活で考えておかねばなりません。
 
それは、言うまでもなく
最善なる神を信仰したがゆえに
不全の人は、悪から自分を除外してしまいやすく、
偽善に陥りやすいということです。
 
神の愛が変わらなくても
受け取る私たちが変わってしまう
という可能性に鈍感であってはいけないのです。
 
 
キリスト者であることとはいったい何なのでしょう。
洗礼?信仰告白?・・こだわってはいけない
・・これらは過去のことです。
神に完成された者ではなく、
神を求める者であり、その過程は
過去において完結しておらず
現在において完結しておらず
これから死ぬまで続く道のりです。
 
キリスト者は今この時も誕生しているかもしれない。
誰かがキリストを好きになり、
信仰を密かに告白しているかもしれない。
体としての教会が必要と言うなら
密かに誕生した信仰を育めるだけの体を見せてください。
 
キリスト信仰は誕生のあと成長することで
いつの日か、恐らく終末において、成就するのでしょう。
 
 
神の愛を既に得ていると信じる人は
一般や他者の罪を指摘して戒めることで
自分がいかに恵まれているかを確認するようになり
自分の罪を明らかにすることに鈍感になってゆくでしょう。
 
神の愛をこれからも求めようとする人は、
一般や他者の罪を考えるときに、
同じ人間として罪人としての立場を共有し、
自ら省みて、自分の罪と、罪人である立場を忘れず、
そのために日々砕かれて、
その度に自らを告白とともに神の前に捧げて、
新たにされてゆく信仰を望ますにはいられないはずです。
 
信仰は、今、そして、これからの
賜物を受ける姿勢に懸かっています。
 
その姿勢は人間としての共感と共有であり
決して難しいものではありませんが
 
信仰は過去によって確定したり
担保されたりするものではありません。
 
したがって信仰は
信仰者になる過去の儀式によって担保されるものではないと考えます。
それはそのまま
過去の儀式の有無によらず、
いつであっても、どこであっても、誰であっても、
信仰を願い求めることは信仰者がすることです。
 
 
(2015年11月26日)
重要なテーマと問題だと思ったので
深夜から大急ぎで書いてアップしています。
誤字・脱字・批判などありましたらコメントください。
 
(漢字復習)
論う(あげつらう)
陥る(おちいる)
育む(はぐくむ)
 
 
 
 

 
  雑事
 
 
嘘のように目覚めると
 
トースターのように起こされて
 
日脚のようには進めなくて
 
横町のように歩いて
 
バス停のように佇んで
 
ペンキのように均されて
 
アルミ箔のように返されて
 
時計のように傾いて
 
椅子のように座って
 
ソファーのように転寝して
 
遺影のように灯りを消して
 
ベッドのように縛られて
 
舌根のように魘されて
 
涙のようにずぶ濡れでも
 
頁のように捲られて
 
また瞼のように剥がされて
 
 
(2015年11月26日)
 
日常の雑事を譬えると・・
私にとっては非日常かもしれない
・・発散です・・
 
日脚(ひあし)
佇む(たたずむ)
均す(ならす)
椅子(いす)
転寝(うたたね)
灯り(あかり)
縛る(しばる)
舌根(ぜっこん)
魘される(うなされる)
捲る(めくる)
瞼(まぶた、目蓋)
 
 
 
 

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