ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年11月

 
  低きが高きに
 
 
人同士の場合
下が上に従うことも
ときに逆らうこともあるようですが
ここでは人と神の話です
 
人は低い存在で、神は至高の存在であることは、
信仰の最初の認識です
 
よって、人は神に及ぶことはなく、
神は好きなように人に及ぶ全能であります
 
人は低きがゆえに神の言動を明確に知ることはなく
ゆえに神が及んでいることさえ知らないし気づかない
それは秘められています
 
一方で神は
遍く総ての人の声と思いと行いを知る全知であります
 
人は、神の義を、善を、美を、計画を、御心を、
神が人に与える役割を、確定的に知ることはないから
人は推測し判断し行動する
 
低きが高きに願い、
思いを伝えようとするのが祈りであり、
そこには
祈りは必ず神によって聞かれている
という信仰があります
 
人が低く神が高いことを勘違いすると、
人は神に逆らうようなことを言ってはいけない、
神の御心に適うようなことを言わなくてはいけない、
神には従順の意思表示と感謝と賛美だけを捧げなければならない、
ということになって
本当の気持ちを取り繕うようになってしまう
 
(取り繕いはすべて神によって見抜かれ、
 この人は隠そうとしていると見なされるのに)
 
これは信仰に適う体を装う罪であります
 
 

 
私も、定時にではなく、折に触れて祈るのですが、
感謝の祈りもあり、自分や他の人のために祈ることもありますが、
・・前に記事かコメントで述べたように
私が悪で、間違っていて、どうしようもないなら、
今すぐ私を滅ぼしてください、
何故なら神に反逆する人として生きたくはないからです、
・・とか
今、意識がすうっとなくなり、心臓がすっと止まって、
御許に行けるなら、どんなに素晴らしいでしょう、
・・とか
いくつかの持病を抱えて、個人として嫌われもして、
何とか生きてきた結果がこれですか、・・とか
 
これは正直だが乱暴な祈り方だから、罪かもしれないが
装う罪よりは、このほうを選びたいと思うのは、
装う罪は偽善だからです
 
神様相手に自分の生死を捧げるからには
泣きながらの祈りでも
祈るところで繕ってはいけないと思っています
 
願いを正直に
悲しみも苦しみも正直に
死にたくなったならそれも正直に
殺したくなったならそれも正直に 
 
神が直接声によって
どこにいるのか、と叱って
問うてくださるわけではないのだから
自らの恥部を何かで蔽うような真似をしてはいけません
 
見苦しいからではなく
神の全能に対して浅はかだからです
 
祈りにおいて
今の自分を意図的に隠すことなく
言葉で告白して
人が神の前に素っ裸でありうるなら
全てを見ていただくところから
いつも新しく
信仰は始まります
 
 
(2015年11月26日)
 
 
遍く(あまねく)
総て(すべて)
適う(かなう):適合
取り繕う(とりつくろう)
全て(すべて)
体(てい) ← 体裁(ていさい)など
御許(みもと)
曝す(さらす、晒す)
蔽う(おおう、覆う、被う、掩う)
 (蔽う:隠蔽)
 
 
 
 

 
  絶対者の前に
 
 
人間の善悪も正邪も
あらゆる定説も仮説も
真理の前では吹き飛んで
塵ほどの意味さえ持たないだろう
 
私たちがコントロールできないそれらを
コントロールする神の前に
人の姿を持ってキリストが
「思いのままになさってください」
と祈ったのは
 
私たちが
「見える」とか「知っている」とか
「救われることを感謝します」とか
神の御業を決めつけることのないため
 
一人の人間が信仰として
祈れるのは
 
「救いを感謝します」ではなく
 
「私をお救いください」
「救いのためにお役に立てるなら
 私を使ってください」でしかない
 
あるいは
「御心に反逆する者になりたくはありません
 私が御心に反するのなら
 どうか私を塵のよう過ぎ去らせ
 私という悪を完璧に滅ぼし
 消し去ってください」
 
生きている間
救いを思い込んではいけない
 
神は誰に対しても
御自身を既知としてはいないのだから
救いを既遂とも既定ともしてはいない
 
生ける神によって
生ける人は
動かされ運ばれるのだから
人は動いていて
死ぬまで止まることはないと知るべきである
 
生死を通じて人は
神の御心へ吸収されるのであって
それは神のためになさるのであり
人の救いはそれ以上ではない
 
神は
誰かを選んでも
選んだ者を常に偏愛するのではない
 
神は依怙贔屓の神ではない
 
 
どうか思いのままになさってください
されど
どうか私のことを覚えてください
 
 
(2015年11月25日、同日一部修正)
「私という悪・・滅ぼし・・」のくだりは
毎日このように祈れという意味ではありません。
 
依怙贔屓(えこひいき)
 
 
私は絶対者が分かるわけではなく、
分からない絶対の存在について
人がどう考えるべきかを求めていますが
それを聞いてくれる人は極めて少ない・・
 
 
 
 

 
  待ち望むために
 
 
神の予定調和ではなく
神を予定調和してしまった信仰が
いかに奇異で問答無用に
砂漠に信号を建てるようなものであるか
 
そしてそれを
成った、成った、
と思い込み吹聴することが
いかに信仰をけがしてゆくか
 
そして、こともあろうに、その作業を
人知を超えた驚くべき神の御業と
ほめたたえていることが
いかに驚き呆れるべき人の業であるか
 
自らの救いを百%信じ込むことが
自らを悪から除外して
神は自分の味方、自分は神の味方
という訂正不能の性善説を確信に変えてしまう
 
救いの民は
神に対して常に恐れを知る者である
ゆえに人は魂が低く砕かれているとき
最も救いの民に相応しい
 
そのような砕かれた魂を持つことが
人に常時可能であるとは思えないのに
懲らしめる神を考えようともせず
反省もしないで無条件に
救われると確信し続けることが
いかに人の身勝手であるか
 
こういう人が作って
宣伝するような地上の神の国はまさに
因業の世界に虚栄と
偽善を振りまいているパリサイ人の国
 
現代のキリスト者は
現代のパリサイ人になってはいけない
 
信仰は日々試され新しくされるのでなければ
神の民たる資格など失われるのであって
それは先立つ業績ではなく
先立つ謙遜を祈り願うことに他ならない
 
謙遜は砕かれた魂である
決して救いを自分の持ち物とせず
これから与えられる生きる希望として
これから待ち望むことだ
 
神の救いの成就を
今の自らの誇りとするのではなく
 
信仰はこれから命の尽きるまで
神の義の成就として
そこで神への従順を示すために
自らが日々正されてゆく成長への祈りとして
神に捧げるべきものである
 
信仰を求める心の貧しさも豊かさも
謙遜であり得るなら
 
「私が間違えることがあって
 もはや修正不能であるなら
 どうか私を滅ぼして
 塵と成してください」
 
と祈ることが出来るなら
 
人自らがいかに空しかろうとも
人知を超えた神の懐に抱かれる日を
待ち望むことが出来るだろう
 
人の貧困の限定の拘束の断定の凍結ではなく
 
人間の虚心の未定の解放の可能性の温度の先に
待ち望むことが出来るだろう
 
 
(2015年11月25日、同日一部修正)
「私を滅ぼして・・」のくだりは
毎日このように祈れという意味ではありません。
 
私は
神意はこうだと言っているのではなく
神意は人には分からないから
人はどうするべきかを考えてきたのですが
それを聞いてくれる人は極めて少ない・・
 
御業(みわざ)
因業(いんごう)
塵(ちり)
懐(ふところ)
殆ど(ほとんど)
 
 
 
 

 
  「コメント:奇妙」
 
 記事「奇妙」のコメント
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18057789.html
 
 
聖職者とは神の声の代弁者なのでしょうが、そんな聖職者も現実社会にまつわる諸問題について言及されるのでしょう。そのときに神の啓示のように語ったり、神からの要請として語ってしまうと、それは人の仕業ということになるのでしょうね。
 
また、自分が経験したことはあくまで個人的なことであり、それを普遍のように語ることもきっと違うのでしょうね。
 「天は自ら助くる者を助く」との思いで、日々謙虚に努力して過ごす必要があるのでしょうね。
 
2015/11/23(月) 午後 1:36 [ Say! ] <<コメントに返信する
 
 
「神の声の代弁者」は預言者だから、聖職者は聖職ではないと思っています。
聖書解釈の提言者に過ぎないだろうと思いますから、一生を神に捧げようという職責だから今まで出会った牧師は個性も結構きつい印象が強かったし、妙な聖職意識を持つことから解放されたほうが、本人と信徒と求道者の三者いずれにとっても望ましいと思います。
 
2015/11/23(月) 午後 3:38 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
どこかに書いたと思いますが、
個別の事情の一般化は個別にしか成り立たない特殊な事情を一般に当てはめてしまうことになるし、一般原則は共通項なのでそれを個別に当てはめることは今度は個別の特殊な事情を無視しがちになり、どちらも個別にしか成り立たない特殊な事情と普遍的事情を混同するので、両方とも不可だと思います。
 
2015/11/23(月) 午後 3:39 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
謙虚、謙遜、敬虔、は、ほぼ同じ意味で使われるようですが・・これこそがすごい曲者で・・批判を禁忌の悪口としてしまうのもここからですし・・、やさしそうで、柔和で、怒ることなく、落ち着いていて、思慮深く、知恵に富んでいて、信徒においては口数少なく、・・で結果として、見かけだけ、なぞる努力で装っている感が強いです。
私は、実を考えるなら、神を恐れることだと思っていますが、絶対の神を恐れるなら・・自らの解釈、思想、行為の是非の判断を絶対化してはいけないこと・・という話が殆ど通用しないようです。
 
2015/11/23(月) 午後 3:39 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
それもこれも牧師を聖職として、いつも信仰のお手本を示して教えてくれる先生という先入観を生む位置づけが間違っていると思います。まず人間であること、そして信徒や求道者と双方向を持つこと、疑問を共有すること、つまり、教えるのではなく、提言して、話し合いを促進する役割にしないといけないと思います。
 
2015/11/23(月) 午後 3:43 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
ということで、私は、似たようなことを視点や表現を変えたりしながら、何度も書いてきたように思いますし、これからも書いてゆくことになりそうです。・・これも記事にしますね・・何だか、その時の書き方というのが、今もそうですが、わりと大事なような気がしています。
 
2015/11/23(月) 午後 3:43 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
(2015年11月24日)
 
敬虔(けいけん)、曲者(くせもの)、殆ど(ほとんど)、
 
 
 
 

 
  不応人(2)
 
 
神が人と人の世界を愛していることは
人の反逆に神が耐えていることを知らせている
 
それは罪に気付くために
苦難を乗り越えるために
 
人は目覚めて努力することが期待され
気づく人は導かれるのかもしれない
 
努力したと言えないほど無力でも
気づくだけで救われるかもしれない
 
だから
神は見捨てたりはしない
という意味が適切ではないだろうか
 
しかし
神が自分を愛していることを
自分は悪くないと言い張るために
まことしやかに振り回す者もいる
 
無条件に神に愛され続ける妄想と
人の言うことを聞かず
自分の非を認めず反省もせず
罪なき自分を神が導くという信念によって
信仰の名が出来上がっているなら
いったいどこに
呼べば答える神に
呼べば答える人の信仰があるだろう
 
不応人は今日も
人の真面目なコメントが見える隣に
脈絡無視で
テレビのスポーツの話を書きこんで
ユーモアですなどと機嫌がよい
 
何か言われると癖のように
おお、おお、ほう、ほう、と
大袈裟に分かったようなふりをして
人を食った態度と文言で
嘘くさく、それはよかった、・・と
(ぜんぜん応えない、とでも?)
どこまでも詭弁を弄するのだろう
 
信仰はいつも真剣だから
ふっ何を言っとる、という態度は
信仰のどこからも生まれ得ないのだが
そういう性格に
信仰だと思っている愛され妄想が
拍車をかけているようだ
 
「分からない」と言えるなら
まだ信仰は可能性に満ちている
 
答えない、応えない、
・・それが支え
それが信仰だと思っている
 
金科玉条の決まり文句を売り
もはや狭い檻の中を短い周期で徘徊している
 
相手に文句を言われると
対応しきれずに逃げるのだが
自分が種を蒔いておきながら
相手が依存してきたと説明する
 
言葉は書き手によって
生きもし死にもする
と言えば
言葉は神によって生かされると
教理依存を怠慢と不遜の言い訳にする
 
詭弁で偽り
人を欺こうとする以外に
誰とも関わる手段を持たない世界に
行って戻らないつもりなのだろうか
 
自分一人で
完成していることが
完成していることを
感謝して
賛美して
救われ気分の多幸の日が
硬い項の向こうに暮れてゆく
 
 
(2015年11月24日、同日一部修正)
 
蒔く(まく)
檻(おり)
項(うなじ)
弄する(ろうする)
 
※ 因(ちな)みに・・
弄ぶ(もてあそぶ)
弄る(いじる、いじくる)
 
それなりの努力で
下書きから削除した言葉:
あなた、彼、馬鹿、顰蹙(ひんしゅく)、
 
 
 
 

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