低きが高きに
人同士の場合
下が上に従うことも
ときに逆らうこともあるようですが
ここでは人と神の話です
人は低い存在で、神は至高の存在であることは、
信仰の最初の認識です
よって、人は神に及ぶことはなく、
神は好きなように人に及ぶ全能であります
人は低きがゆえに神の言動を明確に知ることはなく
ゆえに神が及んでいることさえ知らないし気づかない
それは秘められています
一方で神は
遍く総ての人の声と思いと行いを知る全知であります
人は、神の義を、善を、美を、計画を、御心を、
神が人に与える役割を、確定的に知ることはないから
人は推測し判断し行動する
低きが高きに願い、
思いを伝えようとするのが祈りであり、
そこには
祈りは必ず神によって聞かれている
という信仰があります
人が低く神が高いことを勘違いすると、
人は神に逆らうようなことを言ってはいけない、
神の御心に適うようなことを言わなくてはいけない、
神には従順の意思表示と感謝と賛美だけを捧げなければならない、
ということになって
本当の気持ちを取り繕うようになってしまう
(取り繕いはすべて神によって見抜かれ、
この人は隠そうとしていると見なされるのに)
これは信仰に適う体を装う罪であります
※
私も、定時にではなく、折に触れて祈るのですが、
感謝の祈りもあり、自分や他の人のために祈ることもありますが、
・・前に記事かコメントで述べたように
私が悪で、間違っていて、どうしようもないなら、
今すぐ私を滅ぼしてください、
何故なら神に反逆する人として生きたくはないからです、
・・とか
今、意識がすうっとなくなり、心臓がすっと止まって、
御許に行けるなら、どんなに素晴らしいでしょう、
・・とか
いくつかの持病を抱えて、個人として嫌われもして、
何とか生きてきた結果がこれですか、・・とか
これは正直だが乱暴な祈り方だから、罪かもしれないが
装う罪よりは、このほうを選びたいと思うのは、
装う罪は偽善だからです
神様相手に自分の生死を捧げるからには
泣きながらの祈りでも
祈るところで繕ってはいけないと思っています
願いを正直に
悲しみも苦しみも正直に
死にたくなったならそれも正直に
殺したくなったならそれも正直に
神が直接声によって
どこにいるのか、と叱って
問うてくださるわけではないのだから
自らの恥部を何かで蔽うような真似をしてはいけません
見苦しいからではなく
神の全能に対して浅はかだからです
祈りにおいて
今の自分を意図的に隠すことなく
言葉で告白して
人が神の前に素っ裸でありうるなら
全てを見ていただくところから
いつも新しく
信仰は始まります
(2015年11月26日)
遍く(あまねく)
総て(すべて)
適う(かなう):適合
取り繕う(とりつくろう)
全て(すべて)
体(てい) ← 体裁(ていさい)など
御許(みもと)
曝す(さらす、晒す)
蔽う(おおう、覆う、被う、掩う)
(蔽う:隠蔽)