ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年12月

 
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  「その名は不思議」批判(3)
 
 ブログ:その名は不思議
 記事:死こそ救いの道?!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27165350.html
 
「死ななければ最悪の地獄だ」
「生きることに希望が見いだせないなら死が救いだ」
という文脈を語ることに危険を感じないのでしょうか。
 
人間は死の実感など持てないのです。
明日自分が死んでいることなど想像もできないのです。
 
いったい人の世界に
どのような超然たる権威があって
あなたは語るのでしょう。
 
死という不可逆なプロセスを
希望に変えるのは
まさしく神ご自身のみの仕事です。
 
なのに
死を知りもしないあなたが語るというのは
すべてを知っている神に
あなたが成り上がっている証拠ではありませんか。
 
「超然?」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18148076.html
「信仰と学習」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18150132.html
 
 
(2015年12月31日)
 
 
 
 

 
  信仰と学習
 
 
信仰を勘違いして
言葉が聖書的な言葉だらけになるのを
信仰者らしいことだと信じ込んでしまう
 
そういう聖書的な言葉を
聖書語と呼んでいる
 
ある事柄について考えるのに
聖書語という表現しかなくなる
しかもそれは
あまり多様性のある言葉ではない
つまり似たようなことを
何度も言うことになる
 
これは言葉だけの問題ではない
何故なら言葉は心が選ぶからだ
 
聖書語以外の表現や文脈を
不要の物のように使わなくなり
言語が固定してゆく
 
それによって、またそれとともに
思路も信仰の通念的は道筋しか辿らなくなる
教えられた思路しか働かないように
習慣づけられる
 
言語とともに思路を選択して固定するのである
 
私たちは生活の中で言語を学習するが
学習の範囲が限られてしまうことになる
 
言語、思路、感受性、表現、
いずれも貧困になってゆく
 
そういった限り方が信仰か
というと全く否で
人間は無限の可能性を持って
言葉の翼を広げるという可能性があるのに
自分でそれを限定して
信仰として絶対化して喜ぶ
という奇妙な習慣を染みつかせてしまうのである
しかもそれを信徒から牧師から
摺り込まれてゆくのが信仰生活になる
それは信仰とは関係のないもので
人間が信仰の名によって生み出す弊害に過ぎない
 
信仰者の中には
同じ言葉を使えば同じ理解を得られる
と思い込んでいる人もいるだろう
 
信仰者の中には
聖書=神の言葉として
同じ言葉を動かさないことが
神の御心に適うと思う人が多い
 
しかし神の言葉が
人の言語を制限するなどということには
何の根拠もないのである
 
それは大きな間違いで
人の言葉は不完全で曖昧で
言葉が心に与えるものは
いつも揺れ動いているのが本質である
 
ゆえに言葉の表現は制限されてはならず
自由でなければならない
 
思考と感性が
信仰によって不自由になってはいけない
 
私たちは
他者から縛られることが多い世にあって
神の言葉ではない人の言葉を
信仰によって
神のもとに解放していなければならない
 
信仰は解放する
決して制限はしないのである
 
 
(2015年12月31日、同日一部修正)
(2016年01月06日、一部修正)
 
否(いな)
辿る(たどる)
適う(かなう)
染み付く(しみつく)
 
 
 
 

 
  超然?
 
 
社会からも政治からも現実からも
超然として語りたがる者
 
社会にも政治にも現実に対しても
ヒューマニズムではだめなんだと
キリスト信仰でないとダメなんだと
自分の信仰を誇りたがる
 
でありながら自分は
どんどんヒューマニズムから離れて
人道から離れて
神託の祭司として御託を並べる
 
キリスト信仰にとって大切なこととして
先ず人は人間でなければならないのに
人間らしさを求めなければならないのに
 
スーパーバイザーのように
超然として語る人は
超然は疎か
人間としての間違いに気づかないで
上から語ることしかしない
 
教師然としていては駄目なのに
超然としていては駄目なのに
まず人間として
人間性を求めるための信仰なのに
上から教えるための
体面を保つことに必死だ
 
政治について批判して断罪するくせにに
自分への批判には
手段を選ばず拒否と無視を返し続ける
いったい体面だけで何が言えるのだろう
 
キリスト信仰として何を言おうと
自分の立ち位置を分かっていなければ
いかに声を大きく語気を強くしようと
超然と語れば語るほど他者を見下した超然が
下から上から見られるのは
意地と権威に凝り固まる偽善の道化
 
神にも人にも仕えることなく
木枯らしに強張ってささくれて罅割れて
自らのほこり舞い散る風を追う
 
 
(2015年12月30日)
 
疎か(おろか)
ほこり(誇り、埃)
罅(ひび)
 
 
 
 

 
  自分信仰者
 
 
自分信仰者は
自分を信仰する者であり
聖書に依っていても
自分の解釈を絶対とする
 
自分信仰者は
まるで前提であるかのように
自分の正しさを疑わず
ゆえに自分と異なる信仰を切り捨てる
 
どんなに丁寧な言葉を使っていても
それはもう直観的のように
相手に間違いというレッテルを貼り付け
そこから先は
異端者あるいは劣った者と他者を見なしている
 
自分信仰者においては
信仰は結論から始まっているので
修正の余地など考えてもいない
したがってそれに異を唱える者を
実にあっさりと完璧に無視することが出来る
 
敬虔を旨とする自分信仰者ほど
即断で他者の意見を切り捨てる
 
批判されたとき
自分の不備など考えようともせず
批判者を悪と見なす
そして悲しみを感じることなく
相手に改めることを強要してくる
 
自分信仰者においては
自分の罪を認めず
自分が罪人であると言う自覚
即ち罪人の自覚は
しばしば欠如しており
あったとしても形式的で深みがない
 
自分信仰者の特徴としては
自己中心、思い込みが強い、
思いやりの欠如、深刻味の乏しさ、
罪悪感がなく悦びのみを求める、
 
非を指摘されても
非を認めて反省することはなく
相手が悪いと
不快と怒りを催して憤慨し強がる、
 
これらによって、時間をかければ
自分信仰者をだいたいだが
区別することが出来るだろう
 
自分信仰は
体質と言ってもよいくらい不変である
 
しかも自分では
自分は柔和でバランスが取れていると思っている
 
自分信仰者が
同時にキリスト者たりえないことは
信仰対象を考えれば明らかだろう
 
神は妬む神であり
人が御自身以外を信仰することを善しとしない
 
神への信仰は服従であり
自己の不完全性
即ち罪を自覚している者にのみ成り立つ
 
ゆえにキリスト信仰者は
この地上のあらゆるものと判断について
その善悪と正邪の最終的な決定を
神に委ねている
 
ゆえにキリスト信仰者は
自己の言動について
いかなる情熱を持っていても
神を恐れるゆえに
それを不変とも絶対ともしない
 
 
(2015年12月2?日)
 
 
依る(よる)
妬む(ねたむ)
 
 
 
 

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