ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年12月

 
  「幼子のように?」
 
 ブログ:その名は不思議
 記事:幼な子のようにならなければ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27161137.html
 
 
隠し事を不可視化して
偽りによって人に受け入れられようとする者は
また古い説教を持ち出して
信仰の教師たる自分を誇示しているようです。
 
>イエスは「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
>天国にはいることはできないであろう。」
>(新約・マタイによる福音書18章3節)
>と言われました。
 
>幼子には知性も理性の働きも経験もありませんが、
>無心に母親のところに来ることによって
>母親の愛と保護を受けるように、誰でも幼子のように神を信じ、信頼することによって、
>神の存在とその愛を体験することができるのです。
 
「幼子のように」という文言は
聖書にも書かれている有名な聖句なので
福音伝道においてしばしば語られます。
それは間違えば
説教者が自分の言うことを
疑わず信じることを勧めることになるので
私はそのことについて
「幼な子」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/16126637.html
「幼子」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17661807.html
に書きました。
 
そこに書いたことを少しあげておくと
 
キリストが相手なら
幼子のままでよいでしょう。
しかし相手が
 ただの人間ならそうはいきません。
 
信徒の在り方の理想として上の聖句を引用して
「幼な子」を持ち出す者に注意してください。
 
幼子でなくなった大人は
人間として考えなければならないことがあるはずです。
 
幼子は意図して善行を積むことも出来ない
 ということを知っていてほしいと思います。
 
このブログを読める人は既に大人です。
だから考えてください。
 幼子は譬えなのです。
 私たちは幼子には戻れないのです。
 幼子のようにはなれないのです。
しかも語りかけてくるのはキリストではないのです。
  
 幼子の「素直」なイメージを利用して
口数を少なくすることや、
 
「幼子のように」受け入れて
文句を言わず聞き従うことを勧める者は
 キリストの前で最も幼子から遠い者です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:6
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、
大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、
その人の益になる。
 
幼子が純粋というより心が空っぽで
栄養も薬も毒も区別できないことを利用して
勝手な教えを吹き込むことを厳に戒めているように思われます。
 
素直さを利用すれば
罪の誘惑を来たらせることもあるということ・・
 
 
上の記事のタイトルの下に
リンクを付けてあるブログの管理人(以後、彼)は
私と対立関係にあり
彼は私のコメントを承認制にして不可視化したのち
ついにはコメント欄を廃止しました。
 
彼は私の記事を読んでいないようです。
それは人の言うことなど聞かなくてよい
という意思表示のようです。
もし読んでいたのであれば
彼は人の意見を受けて考えることを拒否していることになります。
 
双方向での意見交換を拒否して
彼はそれでも自分の言うことは正しいと
ずっと言い続けた古い説法で
そのまま無反省に主張しているようです。
人は自分の言うことを黙って聞いて
幼子のように?従えというのでしょうか。
 
 
彼は聖書を幾つか引用しています。
これも前に書いたのですが
聖書に書いてあるから絶対正しい
という確信のもとで書いているようです。
「聖書に書いてあるから」
これも問答無用の無謬性を人に聞かせて
自分の解釈を受け入れさせようとするやり方です。
自分の努力不足を神のせいにする態度だと思います。
 
不可解や矛盾の指摘をいくら書いても変わらず
前にも書いたようなことを平気で書いてくる
というのが彼の特徴です。
双方向を拒否すると
こういう説教をするようになります。
 
>信仰とは人が口をあけて食物を食べるように、
>人の言葉や約束を心で信じるように、
>特別啓示である神の言葉とイエスを心を開いて信じ受け容れることです。
 
こういう態度で
伝道が成り立つなら信仰はとても簡単でしょう。
 
彼は啓示について
イスラエルへの特別啓示と
自然の中に現れた一般啓示を分けて
説明しているつもりのようです。
 
>神はイエスによってご自分の存在とそのみわざを完全に啓示し、
>私たちが神を知り、信じることができるようにしてくださったのです。
>その神との出会い、交わり、知る道、方法が信仰なのです。
 
ここに
人間として考える
ということを除外するならば嘘です。
それは信仰において妨げとなり
伝道において人を欺く行為だと思います。
 
彼は特別啓示を受けたと言いたいのでしょうか。
特別啓示を受けたら神と出会うから
もう考えなくていいと言っているのでしょうか。
 
彼とはネットで十年ほどの
ブログで約5年ほどの付き合いですが
少なくとも5年前と少しも変わっていません。
 
彼は聖書に神に従っているつもりで
どんどん人道から外れていくように思われてなりません。
 
>「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
>わたしはわが力の及ばない大いなる事と
> くすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、
>その母のふところに安らかにあるように、
>わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。
>わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。
>イスラエルよ、今からとこしえに/主によって望みをいだけ。」
> (旧約・詩篇131編1~3節)
 
彼の心は傲り高ぶっていると思います。
彼は魂を鎮めているのではなく
思考を彼の沼の中に沈めようとしています。
 
彼は安らかではなく自閉ブログの中で
とても安易になっているだけだと思います。
 
幼子が人の意見を封じるという小細工をするでしょうか。
彼はすべての不都合を人のせいにして
自閉することで難を逃れた気分になっているだけだと思います。
 
彼の言うことを真に受ける人がいないように祈るばかりです。
 
 
(2015年12月28日)
 
傲る(おごる)
 
 
 
 

 
  罪人の自覚
 
 
悪とそれに対応する罪の自覚
いや
悪と罪のすべてを自覚することは困難なので
せめて
自分は罪人であることを自覚し
そこで祈り
そこから語り行えば
それだけでキリスト信仰の
救いに与るには十分であり
目一杯と言えるだろう
 
自分は罪人であるという自覚がなく
双方向による修正の可能性さえ捨て去った者は
どんなに聖書を勉強していても
救いの可能性を自ら捨て去った者であり
何を信仰として捧げたとしても
人間の世界において
救いが必要で救いを求める者としては
成り立たないのだ
 
それくらいキリスト信仰では
罪びとの自覚は不可欠で
そのために双方向を
どこかに持っていなければならない
 
罪びとの自覚があれば
神に対しても人に対しても
思い上がることはないだろうし
人間離れする危険も少ない
また道を外れたときも修正可能を期待できる
 
罪人の自覚のある人は
言動にそれが表れてくる
 
言動にそれとは反対のものが表れてくる人が
同時にキリスト者たりうることは
ないと言ってよいくらいに困難である
 
それくらい
自分が罪人だという自覚と信仰は不可分なのである
 
罪人の自覚はそれだけで
救われる条件を満たすと言っても過言ではないだろう
 
 

 
救われ体験の有頂天から思い上がって
その分、いつも他者を見下す人に
いったいどんな救いが想定できるだろう
 
「先の者が後になり、後の者が先になる」
とは、ひょっとしてこのことか・・とも思う
 
 
(2015年12月28日、同日一部修正)
 
与る(あずかる)
 
 
 
 

 
  奇跡
 
 
キリストは
譬え話を多く語った
 
キリストの言葉も譬え話も
受け取る者によって
様々に解釈されてきた
 
天地を統べる神の言葉は
簡単に人の言葉に翻訳できるほど
単純ではないということだろう
 
にもかかわらず
それぞれが自分の解釈を信じ込んでいる
というキリスト教の現状である
 
肉体や物に起こった奇跡が
事実かどうかで
心を騒がせる者もいるようだが
信仰は二千年前の奇跡に頼るのだろうか
 
二千年前の奇跡以上のものを
受け取っていないと言うのか
 
キリスト信仰の名のもとに
自分の解釈信仰の自尊心のために
見えなくなったものは存在しないもの
と決め込んで
自らの楽園を守ろうとする者は
密かにどんでん返しの奇跡を願っているようだが
惑わされてはいけない
ましてや人を恐れてはいけない
 
この地上も
人の心の中も
多くのものが影響し合うことで動いている
 
偽ることの罪は
偽った者に返るだろう
 
私たちは魂の奇跡を受け取っている
 
それこそが心を揺さぶる奇跡であり
荒野で呼ばわる声に通じるものである
 
肉体と物は人間ではない
魂は霊であり
そのまま被造物としての人間を指している
 
 
(2015年12月27日)
 
 
 
 

 
  「その名は不思議」改めて批判(1)
 
 その名は不思議
 天皇嫌いからキリスト信徒へ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27154565.html
 
 
コメント欄を廃止して
彼は伸び伸びしているようです。
 
コメント欄がなくなって
もう誰も批判が出来なくなって
純粋に単方向の言い放って終わり
ということで完結する書き方になります。
 
そのせいか
今日は政治的な記事ですが
今まで以上に断定的結論が強くなっています。
 
>自民党安倍政権のオレオレ詐欺政治に騙されてならない。
 
>実体のない砂上の楼閣、アベノミクス、アベノリスクの罠に陥れられてはならない。
 
私の意見は政権に批判的ですが
同じ方向だから賛成するというわけにはいきません。
この私の記事の目的は
政治的な意見として正しいかどうかではありません。
この人がどういうことをして
こうなっているという姿勢を批判することになります。
 
彼は私からの批判コメントも
政治的な記事に時々つく批判コメントも
見なくて済むので伸び伸びしているのでしょうか。
 
以前、政治的な批判コメントが来たときには、
一つには無視したまま、
もう一つには
政治的な意見で反論するのではなく
はぐらかすような1コメントで済ませていました。
私はその姿勢を批判しました。
 
人の意見を聞いて
参考にしたり反論したりする可能性を完全に放棄して
伸び伸びする人を初めて見ました。
 
今後も教える立場で彼は語り続けるのでしょうけれど
はっきり言って卑怯で安易な立場から語るのなら
私は苦しい立場から彼のキリスト者としての姿勢を
引き続き批判してゆくことになりそうです。
 
 
(2015年12月26日)
 
 
 
 

 
  神が、神が、・・
 
 
罪悪感を感じないで
どこに罪の赦しと救いがあるのだろう
 
神が、神が、・・と語りたがる
その度に外れてゆく人道を省みもせず
 
それはもう
意地が訂正不能を固めているようなものだ
 
そのくせ反対意見には
何も返すことが出来ない
 
そのくせ
神が、神が、・・と語りたがる
堂々巡りなのだが
 
神の言うことを聞いているつもりで
 
人の言うことを聞く余地も能力も失っている
 
単方向の言論を
「一方的な神の愛」と勘違いして
ひいきの引き倒しのように
愛され救われ談義を繰り返す
 
陰険から険悪に
実に
神が、・・を主張しながら
人の言うことを聞かないわりには
とても卑怯だ
・・陰謀、小細工、・・目も当てられない
 
批判されると答えられないのに
相手が悪いと
返しても感情的だ
その果ては
・・神のごとき沈黙だ
 
悟った者としての見下す視線しか持たず
人を責めるばかりで
あとは黙ってしまうが
教える態度だけを持ち続け
自分の言説を
その後も同じように語り続ける
 
誤りの可能性と同時に
弁明の可能性を次から次に捨てている
 
自分を責めることが出来ない固まり様で
罪悪を必ず人に当てはめる
 
罪悪感を感じないで
どこに罪の赦しと救いがあるのだろう
 
自分に罪があると認めた罪人が
赦された話は聖書にあるが
自分に罪があると認めない罪人が
赦された話が聖書にあるのか
 
自らの罪悪を認めないで
罪悪感を感じないで
どこに罪の赦しと救いがあるのだろう
 
神が、神が、・・と語りたがる・・
 
 
※ 
 
人についてさえ
すべてを理解することは不可能なのに
なぜ神を主語にしてその御心や行いを語り
神を可知から既知にしてしまうのでしょう
 
 
(2015年12月26日)
 
 
 
 

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