ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年12月

 
  生きる
 
 
何でもかんでも感謝と賛美で
明け暮れなければならないような
信仰と生活なら
厳しい現実との乖離に
いつか気持ちが切れるだろう
 
それでも信じ続けようとするなら
何かをこじつけることになる
これは人間の悪しき本性である
 
悪しき本性に負けず
善を求めて止まない信仰に生きるために
信仰を求めて止まない本性のほうに
生きるために
 
どうしようもない人間だが
それでも
人間を見捨てず
愛してくれる神がいて
人間を導き
いつの日か完璧に成就して
人間がその麗しい秩序に
含まれる日が来ることを祈っている
 
それゆえ
救い主の同伴を仰ぎ祈り願いながら
その日のために
ただ神の国の
一部に含まれることだけを願って
生きているのである
 
 
(2015年12月25日)
 
 
 
 

 
  私の時
 
 
私は心臓に持病があるので
ふと目まいがするとき
あるいは胸が詰まるような感覚があるとき
・・そうでないときでも
 
はい・・いいです・・わかりました
火は起こしていませんから
・・主よ・・どうぞ・・
 
気が遠くなり
意識を失い
心臓が止まり
 
死の時を迎える
 
それでよいと思う
という時がある
 
いつか本当になる
あるいはこのプロセスなしで
突然死ぬかもしれないが
 
死の縁にあるとき
とてもネガティブな思考だが
 
このプロセスを思うことが
ある意味
救いになっていた
 
こう思うのは私が
絶望の縁にあることが多かったからだろう
 
死に際しても
祈りを捧げる相手がいる
 
私が高齢だから
ということも今は言えるが
 
信仰者になってより後の約40年間
私は絶対孤独から救われている
 
もちろんこれは信仰の副産物のようなもので
キリスト信仰はこのことだけではない
 
20代で死を思っていた私を
今のところ死なせずに
60歳過ぎるまで運んでいる
 
絶望の中では
もう生きようとは思わないので
希死念慮でもあるが
 
生きてよかったとは思わないが
死を切望し自殺したいと思っているわけではない今
 
私の死に方がどうであれ
 
これも一つの信仰です
 
 
(2015年12月25日)
 
縁(ふち)
 
 
 
 

 
  「忠告?」
 
 ブログ:その名は不思議
 記事「医者を必要とするのは」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27104339.html
 
 
私は彼を批判しています。
忠告を聞き入れるような人ではありませんので
今回は
私の彼に対する忠告ではなく
彼の私に対する忠告めいたコメントについて
書いてみたくなったことが中心です。
 
クリスマスだからますます批判します。
人が神の前に
人に対して隠し事をする
という罪が見逃されるはずはないからです。
彼はますます隠し事の上に
記事と信仰を成り立たせてゆくのでしょう。
 
前から批判してきたように
彼については
キリスト教に必須の罪の自覚が感じられないこと、
救われている自分を前面に出すが
救いを必要とする自分を書かないこと、
罪びとの立場で書くということをしないこと、
常に上からの教える立場からしか物を言わないこと、
自分を神の側に置いて
絶対正義は自分にあるかのように書いてきたこと
多くは彼の機嫌によって
人に見せるのに不都合な意見は隠して
整った自分だけを押し出して見せようとすること、
・・等々、
キリスト教の牧師そして信仰者として
あまりにも外れている、逆であることを
指摘するために批判してきました。
ここでは前に書いたことから
もう少し追加補足して書いてみます。
 
>そういうあなたの自分の信仰の考え方や姿勢だけが正しい
>というような信仰姿勢と考え方自体が不健全なのです。
 
これはまさに私が彼に言いたいことです。
また私は自分の考えが正しいかどうかは
神に委ねています。このことを
キリスト者がキリスト者に書いているコメントでありながら
彼は思い至らなかったようです。
 
>ブログはバーチャル仮想現実の世界です。
 
ブログはバーチャルでも
それは実在の人物が書いている
という現実があります。
 
>現実の世界で自分の信仰の考え方や信仰の姿勢
>どのように生きていくかが問われているのではありませんか。
 
まさにそういうことをあなたに問うているのです。
 
>人の信仰の考え方や信仰姿勢を批判したり責める前に、
>ご自分と向き合うことが大切ではありませんか。
 
ここで求めてもいない忠告が入ります。
こういう態度は無遠慮ですが
彼は常に教える立場に立っていないと気が済まない、
また今もそういう立場に立っているという思い上がりがあります。
 
>そういう不毛な批判と非難を
>私以外の人にも繰り返してきたのではありませんか。
 
不毛であることの根拠が示されていないので
これは悪口です。
 
彼以外に対する批判はここでのテーマではありません。
ここにも彼が何らかの負の感情で書いていることが表れています。
 
>いつもずいぶんたくさんのコメントを一度の書きつけますが、
>まるで「私」と書かないで「誰」「人」「人」「人」
>という一文字の中に自分を隠し、
 
私のコメントが長くなるのは
彼が惜しみなく次から次へと批判のモチーフを与えてくるからです。
 
>正当化しようする自己顕示欲のために
>言葉数の多いコメントを書いているかのようです。
 
上にも書いた通り
正当化が前提として著しいのは彼のほうだ
ということを批判しているのです。
 
>往々にして一番身近な両親や家族関係で
>ひとりの人としての自由意思、気持ちが受け容れられなかったりして、
>自分が自分であることができず苦しむこともあります。
>それで、心の空虚感を埋めるために、
>かつて自分受けたようなことを人にしてしまうこともあります。
 
どうやら彼は外傷体験や虐待について
ある程度の知識を得ているようですが
相手を病気だと決めつけて
その原因についての一般的な病理を
ドカッと相手にぶつけるような書き方は
相手を傷つけることが分かっているから
禁忌として普通しないのです。
にもかかわらず彼はまるで
相手を裁くために相手を傷つけるために書いた
と言われても仕方ないような書き方をしています。
 
何年か前に彼が
認知療法についての知識を記事として
ブログに載せたことがあります。
そのとき私は
「カウンセリングだけはなさらないように」
と書きました。
その理由でもあり
ここでまさに
何かあれば手段を選ばず
速やかに自己防衛に走る彼の
細やかな気遣いが出来ないところを
示している例だと思います。
 
また彼は
愛され思想の自意識を
神に対しての救われ思想だけではなく
人に対してもスピンオフのように持っているように思います。
 
前に
信徒にしぶとく食い下がられでもしたのでしょうか、
突き放すことの理屈のように
彼は避けるべきこととして
依存について書いていたことがあります。
 
彼は今回のように
自分の言うことが聞かれないと機嫌が悪く
この記事の引用のように感情的になるが
一方相手に頼られると
元々頼られるだけの資質がないことを
非情に都合よく
今度は相手が自分に依存したと考えるのではないか
という推測を私がブログに書いたことがあります。
 
>あなたはこれまでこういう交流を続けて、
>あなたの期待する共感と共有をし、望むような結果を得ましたか。
 
彼については明らかなように
望むような結果を得てはいませんが
それは批判をやめる必然にも理由にもなりません。
 
>もし、そうでなければあなた自身が独善と偽善に陥っているのです。
>私はあなたの意見に同意も同調もすることはありませんので、
>これ以上のコメントはお断りしますし、
>あなたのコメントを公開をすることもありません。
 
議論が成り立つこともありましたが
それよりも
期待する共感と共有が得られず
望むような結果を得れらなかったことだけで
独善と偽善に陥っている根拠にはなりません。
つまり1行目は根拠になりません。
 
彼は
私が彼に言いたい結論を
彼の断定でこちらに向けて跳ね返しているつもりのようだが
結論だけでは成り立たない言論の典型になっています。
 
あとは感情的な拒否を表しているだけです。
そしてコメントは承認制でブロックしたまま
彼はこのあとコメントを書かなくなって
私の未承認コメントを隠して
自分のコメントだけで良さそうな印象を読者に与えるような
小細工を弄した書き方になっています。
 
彼は今までも
双方向にならない結論だけを言い放って終わり
ということが多い・・
というより議論が成り立ったことがないと思います。
 
議論できない人なのかもしれません。
その原因としては
彼の体質と
彼の信仰観がまた結論としての教理と解釈から出来ており
修正もなく
この約5年間を見ても全く変わっていないということです。
 
議論できない人ならば
それなりに経験談を書いて
参考になれば・・という動機で書くことも可能なのですが
(昔、私はそうでした)
 
彼は一角の人物でありたいのか
そういうことをするほどの謙虚さも持っていないようです。
 
自分を見ることと
他者の意見を聞くことは
公開される言論において必須なので
謙虚でもなく人の意見も受けず聞かずに
単方向の説教話を強引に続けている彼に対して
文章を書けば頻回に表れてくる矛盾や非人間性について
 
小話上手とでも言うような
一見して分かりやすいようにする書き方に
彼の処世と職業性?を見てしまうこともあって
人間と信仰の立場から
批判し続けることは殆ど使命ではないかと思えるほど
私にとって
避けてはいけないことのように思われます。
 
 

彼は今日クリスマスに因んだ記事を書いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27152388.html
そして彼の最後に手段なのでしょう、
コメント欄は廃止されました。
 
クリスマスの日に波風があってはならないと
体面を保とうとする彼らしいことではあります。
 
嫌な意見を聞かなくてすむ方法が
彼にとっては他にないのかもしれませんが・・
 
彼という人は、そうすることで
良い気持ちでいられる人なのでしょうか。
 
今日の彼の記事はまた一段と白々しい讃美ばかり・・
 
 
(2015年12月24日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  偽り(2)
 
 
偽りによって
他者の好感度を期待する行為は
 
真実によって
人間性に期待することを選ばず
虚偽によって
人間性に虚偽を期待する行為である
 
嘘によって
自分をよく見せようとするのは
真によって
人間を生かすことを選ばず
嘘によって
人間性を操ろうとする行為である
 
偽りは
偽りを望み
偽りを生み
人間の真実を踏みにじり
人を欺いて闇へ向かわせる
 
偽りを常習とすれば
偽った者は偽りに慣れてしまい
偽りへの常習となり
真実を理解できなくなるだろう
 
ゆえに偽りは
偽った者の人間性を最も破壊する
 
 

 
真実よりも偽りを愛しながら
神に義としてくれと頼む
 
罪を認めない者が偽りを先に立てながら
免罪符を求めてくる
 
そういう者の願いを
神が聞き入れて叶えてくれると思うのか
 
 
(2015年12月24日)
 
操る(あやつる)
欺く(あざむく)
 
 
 
 

 
  神について
 
 
ここでは私が信じている神
という存在について考えてみる
 
神の性質
 
1.絶対者、全能者
 これ以上の正義はない
 かつ全知全能で何でも出来る
 
 種々の法則と秩序の総体としての存在
 
2.人格性を持つ
 人間と共感できる感情を持つ・・など
 
 人格的存在
 
1.を満たすとしても
2.を満たさなければ
人にとっては無秩序でしかない
 
したがって
1.を満たし
2.をも満たす御方を神として
 信じると言っているのだろう
ならば
 
2.を満たすなら神は人格を持つが
それは
人格がすべてではなく
人格そのものでもなく
人格をも持つということであり
 
何故なら
2.と同様に1.をも満たすのだから
そのような1.の絶対者が
人格がすべて
という括りに縛られることは不可能だからだ
また
1.の全能を持つ絶対者が
人間が持っている人格だけでは
全能を制御できないからとも言えるだろう
 
つまるところ
神を信じる信仰は
1.と2.を満たし
かつ
人知の及ばない存在を信じていることになる
 
神の人格性というのは
神は人の気持ちも分かるという共感性を持っている
ということであって
神を人が人を探して見つけるように
人の意志で会いたいときには
いつでも見い出せるということではないだろう
 
神は人の前からいつでも姿を隠せるが
人は神の前でいつまでも丸出しなのだ
 
悪を隠してよく見せようという
あらゆる企みは神の前で無駄である
 
神を恐れない人は
いったいどこまで思い上がるのか
 
人がその心と頭で
神についてどんなに思いめぐらせようとも
神を知り得たと思ってはならない
 
神は近くに住んでいる優しいオッサンではない
 
神を知るよりも
人が神を知るどのステップにおいても
神は人のステップよりも
遥かに大きいことを知るべきである
 
神の前で人は
もうどうにでもしてください
としか言えなくなるほどの
大いなる御方が神であり
言い換えれば
そう言うことが神への服従
つまり信仰である
 
 
以上はもちろん推論に過ぎません
神も信仰も理屈ではない
では考えてほしい
人の理屈つまり道理で考えても
神の行動は測り難いのに
どうして人に
唯一最も大いなる真なる神の言動を
確定的に測れるというのか
 
例えば
人が及ばなくても
神のほうが教えてくださると主張する者は
神がその言動を知らせる人は預言者ということになるが
神がそんなに気軽に
頻繁に多くの人を
預言者として立ててくださると言うのか
そんなことを言う人は
どこか自分を他の人とは違う特別の者だ
と見なす自己顕示欲があるのではないか
(特別というのは数が少ないから特別なのだ)
何故そこで神への経験ではなく
敬虔を示さないのか
 
言い換えると
人が
いかようにも解釈が出て来る聖書の言葉や
人自らの直観によって
その言動を確定的に知り得るような神は
本当の神ではない・・ということです
 
 
(2015年12月23日、同日一部修正)
 
弁える(わきまえる)
 
 
 
 

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