ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年01月

 
  共感(2)
 
 
神を信じる人はバカだ
と言う人に
 
教理的なことを
べらべら喋るのだけはやめて
 
はい・・私はバカです
 
「神を信じる」は入れなくていい
入れれば本気で言ってないことになる
まだ守ろうとしている姿勢だ
 
無条件で自分をバカと言えるなら
 
その人が弱っている人の場合
 
哀しい世界を共有することが出来ます
 
哀しい世界で共感することが出来ます
 
そこからしか始まりません
 
 

自分の弱さを知っている人は
どんなに弱い人に向かっても
自分が教える立場などとは思えないはず・・
 
 
(2016年01月31日)
 
喋る(しゃべる)
 
 
 
 

 
  情熱と狂気
   コメントの中で叫んだことの断片
   大まかには、相手に向かって、
   別の人(彼)のことを言っています。
   少し言葉遣いなど編集・修正しています。
   それでもまとまっていないところがあります。
   順序は前後しているところがあります。
 
 
彼は罪を認めない、彼は神様のつもりかもしれない、まだはっきり分からない、それは彼が聞くことをせず、かつ言うことだけは大仰だからだ、讃美ばかりの信仰なんてくそくらえだ、整った説教なんてくそくらえだ、私はこうやって命を縮めている、あなたはどうやって縮めているか、私は神にさえ駄々をこねる、殺してくれと毎日祈っている・・
 
そう私は異常だ、神経も異常だ、ある程度分かっている、鬱と言うより思考障害だろう、ネットオタクのような軽いコメントは書かない、聖書は全部は読んでいない、読書は遅くて間に合わない、今の私で人間でいられる道を求めている、あなたはどうなったら満足するのか、私は満足などしない、神の許へ行くと思い込んで死にたいのだ
 
 
私は人間になりたいのです
私は人間でありたいのです
だから(18歳からの)信仰を求めているのです
命を縮めながら書いているのです。
それを聞かない人を批判しているのです。
私は求めながら狂ってゆくのです。
 
教理の理屈を振り回す人、大嫌いです。
鬱も治っていません。
睡眠障害も治っていません。
頭もおかしいでしょう。
統合失調症かもしれません。
崖っぷちは辛いのです。
しかし振り絞って書いています。
あなたのように・・アハハは・・と笑いたいのです。
頭を横において、心をゴミ箱に捨てて、笑いたいのです。
あとどれくらい生きているか分からないけど
私は血迷いのふれ姿です。でも書くことはあるんだから
私を止められるのは神様だけだ・・
 
 
本音ですが、叫びに近い言葉の原始的なものでしょう、情けない人間だから信仰が必要なのです、人の話を聞かない人は平気で人を傷つけます、彼を変えるのではない、彼に関わってほしくない、彼を称賛してはいけない、彼には隠し事がある、私は悟っているなんて書きましたか、ではあなたは悟っているから人に文句を言わないのですか、ここにいっぱい書いていますけど、私は悟らない貧弱な人間もどきとして書いている、私が悟って聖人の立場で書いているとでも思ったのか、あなたの言うことも風のように過ぎ去って、私の言うことも風のように過ぎ去って、消え失せる前に、知りたいことがあるから、私はこのようにあなたにも耐えて、返しているが、自分の高みにふんぞり返っている彼は実に軽く考えている、彼は私の信仰の道に立ちはだかる、あなたの言う悟りなど、私には一生ないだろう、彼を正すためではない、私の死活問題だ、あなたには分からないだろう、今の救いよりも大切なものなど・・
 
彼は信仰は人それぞれだという、だから批判するなという、趣味ならそれでもいい、学問でもそれでもいい、あなたの信仰ではそれでいいのか、私の信仰はそういうものではない、最低限守るべき節操も、罪を犯しても決して犯してはならない偽善も、彼はお構いなしだ、好きなように神を信じて救われると思っている、そういう人に命を懸ける信仰を語ってほしくない、命を捨てる信仰を語って欲しくない、あなたの言っているのは社交の付き合い方だ、社交を考えている余裕はない、人間の知るべき真実がいくつもあってはいけない、大切な一つを彼はまるで気にかけていない、思いやりを考えるべき段階にないのだ、彼の信仰は・・キリスト者なら身についてゆく弱さが彼にはない、分からないだろうね・・
 
違う宗教なら私も知らないから何も言わないでしょう。しかしキリスト信仰という名で彼に語ってほしくはない、彼は罪人の立場で語っていない、聖書を受け取っているとは思えない、砕かれた魂の救い難い状況でのキリスト信仰を彼は知らない、彼の魂は砕かれていない、彼の魂は最初に救われたと思ったときから何も変わっていない、砕かれた魂で語らなければ何を書いても傲慢だ、彼は砕かれなければならない、私が砕くのではない、彼の信仰はあなたの言う社交と処世のエチケットで出来ている、信仰のみのろくでもない阿呆としての立場がない、どうしようもない自分から語っていない、罪深さを知らず、救われやすさを語っているだけだ
 
つまり彼は、神を、社交の友として、処世を助ける親切な先生として、楽しくやろうとしている、話は大きいが、中身はまるで内省していない、死ぬまでに人が為すべきことについて、多くのキリスト者は努めて考えているのに、悩んでいる人もいるのに、彼は放っておくと、その人たちをも彼のガサツな文章で斬ってしまうだろう
 
 
キリスト教について言えば
信仰は縁(えん)のようなものかな・・と思っています。
 
 教義、教理というのがありますが、大方それらは人が作ったもので、それを疑わずに信じ込むことが信仰だと思っている人が多いのは嘆かわしいことです。しかも信じ込むと訂正不能になって、何を言われても聞かない、しまいには相手を神の敵と見なす始末で、これが宗教の怖さかなと思うことが多いです。
 
 縁なのだから一生付き合っていくわけですが、恐れと敬虔・謙遜を持たないと、中には何をしても許されるというとんでもない信仰に陥っている人もいるようです。
 
二つの記事の四字熟語(色即是空、空即是色)は多くの人が知っていて、私は最初、性欲は空しいの意かと思っていました。(苦・汗)しかし後にテレビで現象と実体という話を聞いて考え、そういうことならクリスチャンでも考えるべきことはあるだろう・・という思いから書いたものです。
 
 信仰は縁だから、とてもシンプルだが言語化できないものだと思います。しかしそこから考えるべき対象つまりテーマは善と悪、正義と不正、愛と憎しみ、従順と背教、救いとは何か、などという複雑で難しいものです。しかしある程度は言語化できる可能性を持っています。恐らく結論は出ないでしょう。
 
あるとき目覚めて何か悟ってもそれを不変の言葉には言語化も出来ないでしょう。人間の言葉には誰であっても能力の限度があるからです。・・だからこそ折に触れて考えることと、双方向で意見を交わすことが必要になるのだと思っています。
 
 人によっては本当に勝手に自分の意見は書くけれど、他者と意見の交換しながら考えることをせず、自己満足だけで、聞かないで自分の意見だけを押し出して賛同を求めて、いい気分になっている人がいて、私にはクリスチャンとは思えないです。
 
なお双方向で議論したら真理が得られるかと言えば否だと思います。議論して考えること自体に幾ばくかの意味があるのだろうと思っています。結論は出なくていいだろうと思います。考えることだけでなく、感じて反応することも・・人間は止めてはいけないのでしょう。
 
 私たち人間のやるべきことは、間違いを指摘されながら、決して真理ではなく、共感を求めてゆくことだと思います。だから双方向の窓は小さくても開けておく必要があるのでしょう。
 
私が今まで批判してきたようなことは
 キリスト者なら誰にでも起こり得る間違いなのです。
 誰にでも起こりうる間違いを
彼が意に介せず共有していないようだから
彼にとっても彼に関わる人々にとっても危険だと判断しています。
 
 
(2016年01月31日、同日一部修正)

 
 
 
 

 
  「傷つける」
    他のブログに書いた私のコメントから編集
    引用は、A様(仮称)。「相手」=「彼」もHNを伏せます。
    「STさん」は私です。
 
 
傷つけていると思います。傷つけるほど書かないと反応しないと思いました。まあ今でもそう思います。それでもいつものように記事を書いて、砕かれた魂の欠片もない、と私には思えます。だから怒りが持続しています。根拠を示して指摘した分、罵詈雑言ではないと思っていますが、指摘は告発調ですからね・・
 
「STさんが相手を傷つけているという自覚をお持ちなら、
 それは明確に相手を傷つける意図があるということですよね?
 ううむ、それは議論としてはルール違反ではないでしょうか?」
  という御意見をいただきました。
 
重要なテーマをもらいました。難しいですけど・・
ネットに限ると言論ということになる、
また、傷つくと傷つけるのそれぞれ自動詞と他動詞の違い、
傷ついたことの確認、などの問題があります。
 
私の「傷つけていると思います」というのは、批判に手加減をしていない、手加減したら批判にならないもんな・・、ということの推測される結果についての感慨のつもりで、この場合、「(相手が)傷ついたかもしれない」もほぼ同義で使うだろうと思います。だから自動詞と他動詞の違いは明確ではないです。
 
例えばA様のような人が相手の場合、双方向ですから、反応した相手の筆致と内容から感じ取って、傷つくようなことを書いたか、あるいは、疲れさせてしまったか、と思ったら、私から聞くことも出来るでしょうし、相手から言うことも出来るでしょう。問題は、双方向の成り立たない場合、また相手が強がっている場合だと思います。
 
私は、A様とのかかわりなどから、批判するにしても、今は不十分でも、お互い、精神衛生を損なうほどの過激な批判が望ましくないことは弁えたいと思います。
 
相手を厳しく批判して、その反応として表れるのは、承認制でブロック、削除、コメント欄廃止、の3つを経験しました。レスがなく、双方向が成り立たない。
傷つけたろうな・・と思うことはあります。しかし、そのあとに出てくるのは、次の記事ですから、それを読むと何にも気にしている様子がないのです。それは私には、よく平然と書ける・・と、上から目線に思えてきます。記事だから、ということもあるでしょうけど・・。
 
コメントにおいても、「読んだ途端に怒り出す理由は私には全くありません」と書いてきました。それで私は、怒っていないという意味なら、怒らずに私のコメントを削除したというのか、と聞き返すことになります。(この時、私は、明らかに怒っていました。:記事「顛末」コメント欄参照)
そして私はコメントを書き、指摘しますが、彼は何も答えなくなります。
 
記事でも、コメントでも、いつも彼はそういう感じの、ぜんぜん応えていない、と見える人なのです。怒らずにコメントを削除したのなら、その精神は、まさに神の裁きではないか、いや、神も怒りを示す・・ということで、決して弱みを見せないこの人は、人間じゃなく鉄骨スーパー保身マシンか・・私は、何らかの配慮をする気が、その瞬間、失せてゆくのです。
 
彼のいつも余裕綽々と見える態度は昔からです。MLから約十年、ブログで5年、断続的ですが、よくも悪しくも、関わってきました。
 
もし相手が私だったら、当然のこととして言えると思うのです。「そんなひどい言い方しなくても」とか「ひどいこと言いますね」、もっと軽く「今日は疲れてきたので」・・言えます。私は弱みを見せます。彼は弱みを見せないことが信仰だとでも思っているのでしょうか。弱い人間という共感が彼との間には成り立ちません。それが強がりなのか、彼の信仰なのか、敵視しているためなのか、怖い権威主義なのか、記事では分からないし、上に書いたように、たまにコメント書いてきても、分からないのです。
 
それで、私は、少し優しくなって反省モードになっては、次には、かっと怒って批判モードになるので、私は情緒不安定ですが、さらに大きな振幅を繰り返しています。
 
それと、彼はどうも自分が今生きている罪人という自覚がないように思えるのですが・・救われた話ばかり書きますし、十字架について書いても、私から見ると安易に、救われる話に帰着させて置き換えてしまうような気がします。
 
強がりでなく一時的な敵視でもなく、罪人の自覚がないなら、また信仰からの権威主義なら、それによる敵視なら、同じキリスト信仰という名前でも全く違う信仰だし、私はそういう信仰は信じる気はないですから、和解はあり得ないです。というか、可能だとしても異教との和解になるでしょう。
 
 
(2016年01月30日)
 
弁える(わきまえる)
顛末(てんまつ)
余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)
 
 
 
   

 
  (批判)救いの条件
 
 批判対象ブログ:その名は不思議
 批判対象記事:御前に静まる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27227370.html
 
 
 (聖句)
「汝等しづまりて我の神たるをしれ」
(詩篇第46篇10節)
 
>この十戒はイスラエルの人々の救いの条件として与えられたものではなく、
>約束の地で神の祝福と恵みのなかで生きるために必要な戒めでした。
>なぜなら、神の祝福と恵みあふれる地にも、
>異邦の民が住んでいて、自然災害も起こる地でした。
 
必要な戒めは救いの条件ではないのか。
 
「救いの条件として与えられたものではなく」
とサラッと否定して済ませてよいのだろうか。
 
>神に対する信仰と畏れをうしなうなら、どんなに働いて食べ物、富を蓄えても、
>それは腐り、人の心をも腐らせてしまうのは今も変わることがないようです。
 
戒律だけでは人は神の民とならなかった
という重要なことを示しているのに
 
これでも旧約の時代
十戒、戒律、律法は救いの条件ではないと言うのだろうか。
十戒が救いの条件として与えられたことを否定する根拠があると言うのか。
それはどこに書いてあるのか。
 
旧約の時代には律法が救いの条件だったから
多くの罪を意識せざるを得ない人々が
聖職者によって救いから見捨てられた者と見なされた
という聖書の中の歴史を書くべきではないのか。
 
また言説を整えようとしていると思う。
 
>それは私たちの身近な現実であり、
>世界の厳しい現実ではないでしょうか。
 
そうです。
どんなときにも自らが権威であることを否定できず
砕かれた魂になることが出来ずに
手段を選ばず権威の体裁を守ろうとすることによって
もたらされた現実なのです。
 
>神は罪なきご自分の御子イエスをお遣わしになり、
>私たちの罪をご自分の罪として裁き、
>私たちに罪の赦しを与え、
>生ける神を畏れ、静まるものとしてくださいました。
 
作者は昔キリストの「静まれ、黙れ」を
人を黙らせる当てつけとして書いたが、
・・信じられない。今回彼は
いったいどんな心境と立場で聖句を引用して
この記事を書いて人に公に向けるというのだろう。
 
 (聖句)
「汝等しづまりて我の神たるをしれ」
(詩篇第46篇10節)
 
そうです。
主の前に静まるのです。
神の前に静まるのです。
 
人の権威の前に静まってはいけません。
偽善の前に静まってはいけません。
 
 
(2016年01月30日)
 
 
 
 

 
  うつわ
 
 
聖書から人を喩えて「土の器」というけれど
 
自由な思考を失っていない人は
様々な形に喩えてもいいだろう
 
聖書はそして信仰は
人の発想を縛るものではない
 
1.器 ・・に人を喩えると
 
2.土の器
 
3.脆い器
 
4.罅割れた器
 
5.壊れた器
 
6.飛び散った器
 
7.欠片
 
これらは皆、人に当てはまるだろう
 
日々、神の前にに、そして人の前に
捧げているのは、これらである
 
2.のみが正しいと思うのは
聖書をいつも同じことを教えるマニュアルと見ている人
 
大方は、2.としての自らの性能に疑問を持ち
3.~7.を連想せずにはいられない
 
美しく形の整った器を
神に、人に、捧げ、見せているつもりの器は
人の正直な器ではなく
見せるための、見せかけの、器を拵えている
 
もし仮に
人の世界にそんな綺麗な器があったら
信仰など必要ないはずだ
 
見栄っ張りの信仰者はしばしば
聖書から「土の器」という言葉を拾って
盛んに言うけれども
その裏で自分の信仰の器を
傷を隠して飾って見せかけている
 
ひどいのになると
品評でもしようものなら
見るな触れるな傷つくじゃないか
と文句を言いながら
見せることだけは忘れない図々しさだ
 
人の前に捧げられる器は
捧げられた器と隠し持っている器に
正反対の違いがあれば偽善であり
 
神の前に捧げられる器は
まさに、どこまでも正直な
脆く、壊れた、または、壊れかけた、
さらに、欠けて、砕けて、砕け散った欠片の、
何の飾りもない、裸の魂でなければいけない
 
砕け散ったのでは・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:27
イエスは言われた、
「人にはできない事も、神にはできる」。  
 (ルカ18:27、新約聖書)
 
神に任せるしかない・・ということ
 
 
(2016年01月29日)
 
喩える(たとえる)
脆い(もろい)
罅割れた(ひびわれた)
欠片(かけら)
拵える(こしらえる)
 
 
 
 

このページのトップヘ