ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年02月

 
  遣り取り
 
 
信仰について考えて
コメントの遣り取りをするときも
人によっては
論争において負けることが嫌いで
優位に立ちたいと躍起になって
感情が先立って
教える側の先生でありたいのか
何やら唐突に設問をぶつけて
人の心を見立てようとしてきます
 
罪人と同じ地平に立つなら
質問でも意見でもいいのですが
文脈から離れて
「どうですか?」という感じの
テストで試されているような
謎かけのような質問には
愉快でないものを感じます
 
でもそういうときに
負けないぞとばかりに
完璧な答えを書こうと焦る必要はありません
 
質問の意図を尋ね
なぜ急に問題を出すのか
先生として
相手を生徒として見下したいのかと
疑問を提示しておいて
自分の回答が完璧でないことを告げ
相手も自分も同じでしょうと
貶めるのではなく
確認するようなコメントを書けばよいのです
 
同じ地平にいることを否むなら
それはそのまま
信仰者が神の下に平等であることを
認めない権威主義だと批判する根拠になります
 
教理的理屈を振り回す人は
人の限界を弁えず執拗に言うのですが
結局
自分の神を信じよ
と繰り返し言っているようなものです
 
神を信じることは
信仰について話しているのだから
当たり前のことで
繰り返しても意味がありません
 
そういうことを
教理に縛られている人は
一番大事なことを言っているつもりで言うのです
 
付き合うほうは堪りませんが
信仰を妨げる理屈や思い込みに対峙することは
弱くても信仰についての言論を志して
人間として真実を求めてゆく道なら
 
自分が問題点になることだってあるのですから
そのときに聞く姿勢を持っていられるように
問題点の指摘を怠っては通れません
 
教理的理屈に固執して
分からないのかとばかり繰り返すのですが
信仰にとって
それはむしろ危険なのです
何故なら
そういう場合こそ人間であることを忘れて
人間離れの神がかりになりやすいからです
 
そういう人は
聞いてくれる人を探していますから
聞いてくれたらその人を褒め上げるでしょう
その言葉が柔らかいものでも
そういう人は使命感の成就ではなく
自分の言説が通用することを悦んでいるだけなのです
 
神の正しさに固執して言葉に表す者ほど
自分の間違いの気づきからは遠くなってゆきます
神の正しさについて教理的理屈を捏ね続けるのは危険です
人間は愚かだから
神の正しさを言葉で表すことなど出来ないからです
 
教理的理屈は
すでに言われたことであり
そこに執着する言説は
掘り下げているつもりでも
実際は退屈な既知を繰り返していることが多い
と経験から思います
それが教理というモンスターですから・・
 
同じような不自由な思考にならないために
教理べったりに巻き込まれないようにしましょう
 
罪人としての共感で同じ地平に立つなら
勝つことも優位に立つことも意味がなくなり
人間の世界を掘り下げる努力の
経過においても結果においても
党派的争いを生むことはありません
 
 
(2016年02月29日)
 
 
 
 

 
  厄介な観念
 
 
神と地上の何かと
両方に仕えることは出来ない
 
信仰と社交と
両方に仕えることは出来ない
 
社交をしてはいけないという意味ではない
 
付き合いのすべてが社交だけになってはいけない
 
 
観念について考えはするけれど
観念をつなげば信仰になるわけではなく
観念だけでは感動からも情感からも遠くなるだけだ
 
信仰者が仕えるべきは
神・キリスト・聖霊ということになるが
 
三位一体という理屈で
一つということになっているが
 
私の中では飼い主は
キリストであり救い主でもある
 
父なる神は創造主だが
人格性のイメージはキリストのほうが鮮やかである
 
聖霊となると人格というイメージもない
 
三位一体で
分かっているつもりの人はいても
本当に分かっている人はいない
 
観念の厄介なところだ
観念に仕えてはいけない
 
 
全能だから神を信じるのではない
人は全能を理解できない
 
全ては神から来ていると安易に納得する信仰は
自分の言動もすべて神から来ていると正当化するのか
 
信仰者の作為体験・・厳に戒められるべきだろう
 
すべての人の言動は神から来ていると言うなら
他者の言動もすべて神から来ていることになり
ではいったい今の世を乱しているのは誰なのか
という矛盾に陥る
 
信仰者の言動は神から来ていると言うなら
信仰者は常に正しいのか
そうではない
と否定するのは信仰者自身でなければならない
その否定がなければ信仰ではないからだ
 
観念の厄介なところだ
観念に仕えてはいけない
 
忘れてはいけない
 
全能は正体不明のままだ
 
全能者の憐れみも懲らしめも
人に対して最善であることを信じ
切々と祈り願って止まないのが信仰である
 
 
神が全能であることは
常に
人が不全であることを表している
 
 
(2016年02月28日、同日一部修正)
(2016年03月05日、一部若干修正)
 
 
 
 

 
  「近代的自我・・」
 
 日常×非日常(Ordinary eXtraOrdinary)
 近代的自我からの解放
 
http://blogs.yahoo.co.jp/masatakahamazaki/27285616.html
  に書いたコメント。一部、間違いを修正しています。
 
 
vernunftさん
 
「自分中心に考えてしまうと、真理も自分を強く見せる手段になってしまいますが、そうではない神の真理・・・」
 
この引用は「愛国と信仰」のvernunftさんのコメントの引用ですが、今日の記事の「我惟う、ゆえに我あり」から「我なし、ゆえに我あり」へと「自我」を解放することによって、近代的自我から脱却し、その観点からキリスト教を近代の呪縛から解放し・・・「我なし、ゆえに我あり」というのが「本来のキリスト教」ではないかというvernunftさんの感じておられることに、私も同感できるような気がしてコメントしました。
 
2016/2/26(金) 午前 11:49 [ shalom ] 返信する
 
イエスの十字架の姿は神の前に「我なし」の姿であり・・・よみがえられたイエスとの出会いによって、「ゆえに我あり」という新しい我との出会いによって、「近代的自我から脱却し、その観点からキリスト教を近代の呪縛から解放する」道がイエスの十字架の死とよみがえりによって、回復され、解放されている、これが福音ではないかと思います。
 
 私はむずかしい哲学的思考は苦手ですから、伝えたいことがよく表現できているか自信はありませんが、vernunftさんの「愛国と信仰」でのコメントに私なりに感じられることをコメントしようとしていたのですが、その前に、ふと心にかかり先にコメントを書きました。
 
2016/2/26(金) 午前 11:52 [ shalom ] 返信する
 
 
たしかにイエスの死と復活は「我なし」「ゆえに我あり」として捉えることができますね。その場合、復活を見越した死であると、最初から「我あり」ということになって、近代的自我の発想に帰着してしまいます。復活という結論を最初から教えられているキリスト教徒は、復活を見越していない死を考えることができなくなっているような気がします。それがキリスト教のいろいろな間違いにつながっていくのではないかと思います。
 
ややこしい話にお付き合いくださり、ありがとうございます。
 
2016/2/26(金) 午後 1:18 vernunft 返信する
 
 
> vernunftさん
 
人が「われ思う。ゆえに我あり」という近代的自我として生き始めたのは、神が食べてはならない、それを食べると死ぬでしょう、と言われた「善悪を知る知識の木の実」を食べることから始まったとは言えないでしょうか。本来神にあるがまま受け容れられ、人も互いに恥ずかしいとは思うこともない、「我なし」であったと書かれていますが、神が食べてはならないと言われた善悪を知る知識の木の実を食べることによって、人間はそこから神の前に我なしのあるがままの姿で互いに受け容れることが出来ない、「我思う。ゆえに我あり。」近代的自我としてすべてを相対化せざるを得ない知識の囚われ人として生きていかざるを得ないものとなったのではないでしょうか。
 
2016/2/26(金) 午後 2:18 [ shalom ] 返信する
 
 
「今、いのちがあなたを生きている」
「我なし、ゆえに我あり」
言い方変えるだけで納得するのは、魅力的な言葉の響きも響きだけで、結局、詭弁みたいなもので終わってしまう可能性も感じてしまいます。
 
「近代的自我からの解放」「無我の我」という言葉も、今まで知らなかった観念の結びつきで、何か新鮮なものを感じますが、これらも観念のままだと、素人が聞くお経のように、無感動に落ちてゆく可能性があると思います。また、最初は新鮮だと思っていたものが、何度も繰り返しているうちに当たり前の先入観になって、同じ言葉だから正しいと思ってしまうと、いつの間にか、最初の感じ方とは凡そ違った呪文になっていることに気づくこともあるでしょう。気づかない人もいて、同じことを繰り返しては、感動しなければならないから、感動した言動を、条件反射のように繰り返しているというのを見ることは珍しくありません。
 
2016/2/27(土) 午前 1:29 [ st5402jp ] 返信する
 
こういう言葉は、新しくて、未知であったものを知ったように、心を揺さぶります。その多くは、警句的、格言的、端的な表現であり、また逆説的表現であることも多いと思います。実際、「あり」が「なし」になり、主客が転倒して、インパクトが強くなっているわけです。せっかくの逆説ですから、表現との対比を常に考えるべきで、その上で、実践的に、どう生きてくるかを見る必要があるだろうと感じました。
 
そして聖書の言葉も、多く逆説的表現を伴っているのです。キリストの言葉もしかりで、従来の宗教観とは逆の見方として、当時の人々には、分からないけれど、惹かれる・・ということがあったのではないかと思います。そして、キリストは、それらの言葉に、約束を守るという一貫性をもって実質を、昇華させていったのでしょうか・・
 
2016/2/27(土) 午前 1:30 [ st5402jp ] 返信する
 
観念と観念の意外な結合に新しい目覚めを期するなら、観念と観念の結合の言い古された意味や概念を繰り返して讃美しまくる人々とは違う人間的感性を開かせるために、新しい一貫性の気づきにまで掘り下げる努力は、物珍しさだけを称賛するような讃辞ではなく、日常から生まれてくる非日常が、再び返ってきて、日常を変え得るものになったとき、一つの通過点を表すのだろうと思います。ちょっとまとまりませんが・・
 
2016/2/27(土) 午前 1:31 [ st5402jp ] 返信する
 
また、元の「我思う、ゆえに我あり」は、今も存在を語る上での立派な通過点だと思います。誰が、人の言葉で、これを否定できるでしょう。この話を、失楽園の教理話と結び付けて、勝手な解釈で、単純かつ安易に否定し、罪の結果であるかのような言いがかりをつけて結論とするのは、上に述べたように対比を考える上で、「我なし、ゆえに我あり」とは、正反対の解釈になってしまい、こういう単純な否定で、先人の所産も台無しにしてしまうような、独善の教理漬けに陥らないようにするべきでしょう。まことに何でも教理話に帰着させるという、頑迷で、聖書語を絶対軸に、言葉を舐めているような、古い習慣から脱し得ない偏向の曲解こそは、あらゆる新しい知恵を陳腐にしてしまう不当で幼稚な干渉として、考察の領域から離れたところに札付きの骨董として、遺棄されるべきものと考えます。
 
2016/2/27(土) 午前 1:32 [ st5402jp ] 返信する
 
まさに
「自分中心に考えてしまうと、真理も自分を強く見せる手段になってしまいます」
を避けるために、言葉が、先入観や、聖書語や、教理一辺倒の解釈によって、短絡や、自らの偏った解釈や、自己満足や、他者を貶める当てつけや、言葉の恣意的汎用、などに利用されることにだけはないように、注意深く吟味する必要があるのだと思います。
 
2016/2/27(土) 午前 1:41 [ st5402jp ] 返信する
 
まったく、哲学の言葉から新しい言葉まで、自分勝手なキリスト信仰解釈の奴隷に落としてしまうなど、私は、信じられない思いでいっぱいです。
 
2016/2/27(土) 午前 1:45 [ st5402jp ] 返信する
 
 
(2016年02月27日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  砕かれた心(2)
 
 
砕かれた心は
失うものがないから
新しく与えられ
築いてゆくしかありません
 
自分の信仰の
形だけを守ろうとすることは
砕かれることを恐れている証拠です
何故なら信仰の本質に形はないからです
 
聖書と教理から
観念的な言葉を拾って並べて
先入観と条件反射で讃美を繰り返す信仰の
守ろうとしているものは
積み木ほどの創造性すらない児戯
 
そして自分の
形だけ整えようとする心に対しては
敵視し敵対して
内省し自戒しながら
打ち砕いてゆくことを目的とします
 
整えることも社交のためには必要なのかもしれませんが
信仰を求める心とは何の関係もありません
 
信仰を語る上で大切なのは
 
砕かれた心だけなのです
 
 
(2016年02月27日)
 
 
 
 

 
  低きがゆえに
 
 
キリスト者なら
罪人の低みに身を下ろせるはず
いや
信仰者になったときに
身を低く下ろしているはず
 
卑屈に生きよと言っているわけではない
 
低い人として語らいもするし
低い人として抗いもする
 
高いつもりの人の横暴には
抗わないといけない
 
抗うことが出来なければ
祈ってほしい
 
低きがゆえに恐れない勇気を祈ってほしい
 
信仰ゆえに身を低みに置いたから
信仰しかないゆえに囚われることなく
 
低きがゆえに世を恐れない勇気を
 
 
(2016年02月26日)
 
抗う(あらがう)
囚われる(とらわれる)
 
 
 
 

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