信仰と議論
議論と言えば多くの人は理屈と受け取るかもしれないが
決してそうではない。
少なくとも倫理や信仰については決して理屈だけではない。
もちろん言っていることの整合性は考えるべきだが
議論の文脈の中を流れているのは
遡れば結局
人間ならば・・という直感的なことに帰結し
むしろ人間性に訴える情感を伴っている。
つまり人間性の
根源的な道理と情緒から発していることを
確認しなければならない。
信仰は
神の御心は・・ということを話すべきだと言う人もいるようだが
神の御心の具体的な詳細を人は知り得ないのであり
むしろ御心を声高に唱えるのは信仰者の傲慢と言うべきである。
神の御心だから・・・ではない
神の御心を求めている神の民
即ち、神性ではなく
人間性の発露が議論や話し合いという交流の源である。
そしてそれらを促すのは、
人間としての、また、信仰者としての共感である。
御心は
孤独から逃れて祈る人々のために
人知れず御心と御業を用意して聞いておられるのだろう。
胸に秘めて生きたい
最も苦しい艱難のとき
生も死も同値となるところで
最も聖なる時が訪れる人生を選んだ
(2016年02月22日、同日一部修正)
遡る(さかのぼる)
源(みなもと、げん)
御業(みわざ)
艱難(かんなん)