ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年02月

 
  信仰と議論
 
 
議論と言えば多くの人は理屈と受け取るかもしれないが
決してそうではない。
少なくとも倫理や信仰については決して理屈だけではない。
 
もちろん言っていることの整合性は考えるべきだが
議論の文脈の中を流れているのは
遡れば結局
人間ならば・・という直感的なことに帰結し
むしろ人間性に訴える情感を伴っている。
 
つまり人間性の
根源的な道理と情緒から発していることを
確認しなければならない。
 
信仰は
神の御心は・・ということを話すべきだと言う人もいるようだが
神の御心の具体的な詳細を人は知り得ないのであり
むしろ御心を声高に唱えるのは信仰者の傲慢と言うべきである。
 
神の御心だから・・・ではない
 
神の御心を求めている神の民
即ち、神性ではなく
人間性の発露が議論や話し合いという交流の源である。
そしてそれらを促すのは、
人間としての、また、信仰者としての共感である。
 
御心は
孤独から逃れて祈る人々のために
人知れず御心と御業を用意して聞いておられるのだろう。
 
 
胸に秘めて生きたい
 
最も苦しい艱難のとき
生も死も同値となるところで
最も聖なる時が訪れる人生を選んだ
 
 
(2016年02月22日、同日一部修正)
 
遡る(さかのぼる)
源(みなもと、げん)
御業(みわざ)
艱難(かんなん)
 
 
 
 

 
  「何を求め・・?」
 
 その名は不思議
 何を求め、なにをしているのか?
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27276452.html
 
 
 (詩篇、口語訳)
121:2
わが助けは、天と地を造られた主から来る。
 (詩篇121:2、旧約聖書)
 
全知全能の神が
都合のよい助けと救いだけを持って来ると信じる者へ
 
 
>私たちは生きていくうえで様々な困難や苦しみの中で心が渇きます。
>しかし、多くの場合、その渇きをいやすために、生活がより豊かになり、
>また仕事や人との関わりがうまく行けば心の渇きがいやされると
>思いこんでいるようです。
 
本音を隠して
見せかけの関係を求める者は
真実ではなく
人との関わりがうまく行くことだけを欲して
味方になりそうな人を褒め上げ
自分を少しでも良く見せようとするでしょう。
 
全ての罪を批判者に帰して
頑強な思い込みが
たとえ一時的に思い悩みを凌駕しても
斬ると決めて斬りまくるたびに
闇へ闇へと引き込まれてゆく自らの叫喚を聞くでしょう。
 
>しかし、私たちの心は今も脅かされ続けています。
>いや、むしろその不安と渇きは深まっているようです。
 
罪を省みない人は
罪を省みないまま救われることに渇いて
何をしても無条件の赦しと救いを与える神を讃美するのです。
 
身勝手な救いを信じて野犬のように渇き
人を侮り脅かす者は逆に
大いなる裁きの不安に脅かされるでしょう。
 
>本当は何を求め、
>なにをしているのかわからずに生きているのではないでしょうか。
 
何をしているか何の罪を犯したか分からない人は
身勝手なことを求めて生きていて
罪を犯しても赦される救いを求めるようです。
しかし罪を認めない人の偽善の道は殺伐として
心を癒やす水もないのです。
 
ますます心が乾いて
温もりも潤いもなくしてゆくのでしょう。
 
 
渇いた心を潤すのは
罪にずぶ濡れになった心が
祈りによって悔い改めの心を神に捧げる時だけです。
 
 
(2016年02月22日、同日一部修正)
 
褒める(ほめる)
脅かす(おびやかす)
凌駕(りょうが)
殺伐(さつばつ)
 
 
 
 

 
  御前に
 
 
神の前に
ただ項垂れて
罪を深く意識するとき
すでに救いは始まっています
 
神の前に
他者を意識して
少しでも立派でありたいと
方法を考えるとき
それは救いを拒む姿です
 
人に意見するとき
穏やかではないのに
穏やかさを装うのは偽善です
真剣な誠意だけが必要です
 
人に厳しく言われるとき
相手に真剣な誠意を見出すなら
少しずつ怒りは治まるでしょう
そうでなくても
貶められることはありません
すでに十分低いのですから
 
心が激しく動くときには
動いている様を神に祈ってください
項垂れて罪を悔いるとき
神に任せた成り行きに
すでに救いは始まっています
 
祈ることは
絶対孤独を選ばなかったことだから
 
 
(2016年02月21日、同日一部修正)
 
御前(みまえ、ごぜん)
項垂れる(うなだれる)
貶める(おとしめる)
様(さま、ざま)
 
 
 
 

 
  「生ける水・・?」
 
 その名は不思議
 生ける水を飲んだ人
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27272903.html
  に書いたコメントを編集したもの。
  彼は削除魔になっているので
  私のコメントだけになっています。
  対象を「彼」で表します。
 
 
※ 罪人がキリストによって救われる話に
彼は自分の罪を託けて罪を逃れたいようです。
 
 
st5402jp wrote:
 
>「この水を飲む」とはイエスを心の中に迎え入れることです。
 
どこのイエス?が彼の心の中に入っているのですか。
偽善を見逃し、罪を無視して、彼の都合のよいように、
限りなく、彼に平安を与えるイエスとは、「Yes」マンですか・・
  
このように私と彼しか知らない隠された事実を前提に彼の記事を読むと
・・よくこんな記事を平気で書ける!・・と言うことにしかならないのです・・
 
>人目を避けることは出来ても、イエスの前にあるがままの姿を差し出すことです。
 
個人情報ではない、公に犯した罪は、神に対して犯した罪、
公を欺くことを許してくださいと祈るつもりでしょうか。
 
「あるがまま」が壊れてゆくことに気づかない人・・
 
>しかも姦淫の罪の常習者のような過去と生き方をしている自分に
>井戸の水を飲ませてほしいと頼むイエスには
>世間の正義や善意を装った裁き、悪意がないことに気づいたのです。
 
世間の正義?彼はとうとう正義までも、普遍的な正義ではなく、
世間の正義だからつまらない、無視してよい、という論法のようです。
これを許したら、いかなる常習的な罪も許されることになるでしょう。
 
サマリアの女の避けられなかった個人的な罪とは違うのです。
 
彼は節操というものがなくなったかのように
自ら思いきり、信仰を外れようとしているのでしょうか。
 
コメント欄に細工して自分をよく見せようとするような罪は
低い自分を隠して、自分を人目に高めようとすることですから
いと高き神はこのような罪と偽善を決して見逃したりはしない
ということを知らないのでしょうか。
 
彼は自分の偽善を明かさなくてよいという聖句を探しているようです
聖句を悪用する者はこういうことをするのでしょう・・
 
また何とか理屈を捏ね繰り回して自分に都合のよい解釈を見つけたいようです。
まるでハッカーが人を騙そうとして侵入するために
サーバーのセキュリティホールを探すかのようです。
 
おぞましき罪であることが彼は分からなくなっているのか
 
彼が分からないうちに深まる彼の闇は
どんどんさらなる罪と偽善の誘惑をもって
彼を神から遠い所へ連れ去ってゆくようです。
 
こういう人がクリスチャンの中にいるということは
さすがに彼を見るまで実感としては知りませんでした。
 
最近、彼はコメントで「読まずに削除します」と書いてくるのですが、
彼に読まれたいからコメントしているとでも思っているのでしょうか。
彼の愛され妄想は、信仰つまり神にとどまらず、
人に対しても訂正不能なのでしょうか。
彼は、自分がいかに醜いことを言っているのか、分からなくなったようです。
 
さらに、彼は、聖書の言葉を悪用して自分を無罪に見せかけようとしているのでしょうか。
 
さらに、それを指摘するコメントを削除して、さらに偽善の罪の淵を深めようとしているのでしょうか。
 
 
※ 結局、以上の私のコメントはすべて削除されました。
彼はレスをしても彼が正当だということを示す何の根拠もなく
私がさらにコメントを重ねると何も言えなくなるので
自己正当化も批判コメントに対して返せなくなると
削除以外何も出来なくなっている状況です。
結局、残されたコメントは次の彼のコメント一つだけ・・
 
偽善がコメントを削除することで重なってゆくと
記事の是非の検証をしなくなり
また拒むようになり
独り言だけが自己満足の世界に響き続けるのでしょう。
 
 
shalom wrote:
 
stさん 今後も記事が変わってもコメントは読まずに削除します。
 
2016/2/17(水) 午後 6:11
 
2016/2/20(土) 午前 7:49[ shalom ]返信する
 
 
※ それでも彼は記事を書き続けるのです。
キリスト信仰の素晴らしさを書いたつもりなのでしょうが
隠し事の偽善を懐に隠し持ったままで
誰にも内容を見てもらうことのない単方向では
何の説得力もなく
他者を無視して自分を押し出しても何の福音にもならないのです。
むしろ誰かが福音として受け取ることのほうが怖い
としか言えない状況を機械的に継続しているだけなのです。
 
罪人の意識がなく、罪悪感を持たないままだと、
信仰はこのように捻れた様相を呈してくるということです。
いったい彼はいかなる救いを伝えたつもりなのでしょう。
 
 
(2016年02月20日)
 
託ける(かこつける)
 
 
 
 

 
  根も葉も
 
 
花もなかった
実もなかった
 
根も葉もなかった
枝も幹もなかった
 
種として蒔かれたとき
迷える妄想へと飛び散った
 
貧乏な狂気
公害の正気
 
裸はまずいから布を纏い
少しの汚れは地球に捧げ
 
ふうっと息をつき
街の臭いに紛れ
 
橋の欄干を歩く幻を
いつもの衝動に脅かして
 
吃逆に祖先を思い
曖気に子孫を葬り
 
口と肛門の繋がりに
娼婦と医者は繋がり
 
串刺しにして焼いて
寒い外耳のポーチに捧げる
 
ざっくばらんに壊れた駅の
砂利の行軍に遅れたように
 
アーケードのシャッター街に
引っかかっている古時計
 
時刻を忘れる
月日を忘れる
 
年を忘れる
歳を忘れる
 
無いものを忘れて
今と水分が青白い
 
 
(2016年02月20日)
 
蒔く(まく)
纏う(まとう)
紛れる(まぎれる)
欄干(らんかん)
脅かす(おどかす)
怯える(おびえる)
吃逆(きつぎゃく、しゃっくり)
曖気(あいき、おくび)=げっぷ
葬る(ほうむる)
繋がり(つながり)
 
 
 
 

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