ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年03月

 
  手遅れ
 
 
自分が救われて
恵みを与えられているのだから
譲れないというのだが
 
その救いと恵みが
罪と偽善を
正当化してしまうことに繋がっている
 
うんざりするようなことに対して
うんざりするという心の働きを無視している分
感受性の軸が
真偽を定めがたい教条の鵜呑みに向かっている
 
どんどん堕ちていることに気づかないのは
神を見ているつもりで
人と自分を見ていないからだ
 
分からないことを分からないと
正直に言える自由を失うことを
自由と平安と言っているのだ
 
そこまで堕ちてしまうと
救いの信仰によって
ひたすら棘を隠す醜い人が作り出されてしまう
 
自分が信仰と呼ぶものによって
こうはなりたくないという人間に
なっていることに気づかない手遅れ
 
自分が信仰と呼ぶものによって
罪にも偽善にも気づかない人間に
なっていることに気づかない手遅れ
 
そうなる前に早く気づいて警戒して
主のもとにある人間であってほしい
 
信仰の芽生えが
思考停止であってはならない
 
 
(2016年03月31日)
 
繋がる(つながる)
棘(とげ)
芽生え(めばえ)
 
 
 
 

 
  「復活の・・批判(1)」
 
 その名は不思議
 復活の恵みの中で
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27352437.html
  のコメントより、編集
 
 
シャロムさんがブログに記事を公開しているということは、自分の言説を広めたい意思の表れです。つまりシャロムさんの言説は、公論ということですから、批判を拒否してはいけない性質のものなのです。
シャロムさんのコメントから、悪意を読み取ってほしいです。
 
 

> st5402jpさん
 
stさんの鋭い洞察力によって、ことごとく私の隠している悪、偽善が丸裸状態にされてしまうようですね。
そんな私のために命を捨ててくださったイエスさまだけが褒め称えられることが私の希望であり、喜びなのですから、恥はわがもの、誉れは主のものとしてくださり、ありがたいことです。
 」
 
 
恥をわがものとするなら、まず私のコメントを承認してください。
 
>そんな私のために命を捨ててくださった
>イエスさまだけが褒め称えられることが私の希望であり、喜びなのですから、
>恥はわがもの、誉れは主のものとしてくださり、ありがたいことです。
 
嘘ですね。シャロムさんは、嘘をつきました
2行目、3行目で、納得しているなら、そもそも
信仰を持つ必要はないのです。
人は、イエスを讃えるために、信仰を持つのではない。
恥に落ち込むことなく、罪を赦されて、生かされる、・・ことを望まない人はいない。
 
>イエスさまだけが褒め称えられることが私の希望であり、喜び
 
何様のつもりだ、と言いたくなるような、きれいごと、・・これは、自分を高める台詞ですから。・・また、白々しい偽善の言葉を、シャロムさんは、吐きました。どこまで、偉そうに、格好つける気なんでしょう。
 
また、都合よく見せるために、都合の悪いコメントを削除した・・また偽善を保身の術にして、信仰を虚しく穢しましたね・・
 
シャロムさんの言い分は、
 一見相手を建て、自分がへりくだるように見せかけながら、実際は、
 STは、洞察力があるが、自分は、主を褒め称えられる、と信仰において自分が優位であることを主張するという卑怯な言い回しです。言動が、どんどん悪質化してゆく、どうしようもない、プロセスを、歩ませているのは、シャロムさんが信仰だと思っている固定した精神の縛りと超常への思い上がりです。
 
シャロムさんは、今日も、「恥は我がもの」と言ったこととは、削除という全く逆の保身行為を行っています。シャロムさんには、一貫性がありません。シャロムさんの言論には、整合性がありません。人生が終わる前に、人生の結論を自分で出している信仰です。
 
 

> st5402jpさん
 
「都合よく見せるために、都合の悪いコメントを削除、偽善を保身の術、卑怯な言い回し、固定した精神の縛りと超常への人の思い上がり、一貫性がありません、整合性がありません、人生が終わる前に、人生が終わる前に、人生の結論を自分で出している信仰・・・」
 
 申し開きの言葉もありません。
 褒められても、誹(ソシ)られても、私の価値は為替相場や、原油相場のように上がりも下がりもしません。ご安心ください。
 人の評価はある人には損になり、ある人には儲けになるかもしれません。いつも温かいご忠告、助言をいただいていますが、お言葉のようにstさんのように人を評価し、裁く、正しさはどこにもありませんが、イエスの十字架の血判付きの保証書があるのですから。ご心配には及びません。
ありがとうございます。
 
2016/3/30(水) 午前 8:11 [ shalom ] 返信する
 」
 
 
>ご安心ください
>いつも温かいご忠告、助言をいただいていますが
>ご心配には及びません。ありがとうございます
 
こういう言い方は、自分が信仰と呼ぶものによって、人間らしさを失った人の、開き直りの、お礼に見せかけた、当てつけの皮肉です。シャロムさんは、とても狡猾です。こういう人は、もう手遅れなのかもしれません。私が心配しているのは、シャロムさんに関わってしまう人々のほうです。
 
>原油相場のように上がりも下がりもしません
 
こういう人は、余裕があるかのように、実際は自覚がないだけなのに、このような、笑えないユーモアのつもりのことを平気でぶつけてきます。ふざけているわけです。心は、意地悪で、・・冷凍庫・・なのです。
 
>人を評価し、裁く、正しさはどこにもありませんが、
>イエスの十字架の血判付きの保証書があるのですから
 
こういう弱者と見せかけたような言葉で、開き直ります。「正しさがない」そのままなら、正しさを目指していない証拠ですが、「十字架の血判付きの保証書」・・と、決めつけを、ここまで確信してしまうと、手遅れなのかもしれません。既に正しいと信じ込んでいるからです。訂正不能になって、いかなる学習も成長も拒否しているのです。自分信仰の最終的な言い逃れは、いつもここにあります。
 
他者のコメントを削除するということは、独善の証拠です。
 
>イエスの十字架の血判付きの保証書があるのですから
 
信仰によって悟った人が、感動して涙を浮かべ、空を見上げて神を讃美ているような、安い芝居じみた演技的表現に惑わされないでください。 悟りではなく、むさぼりの自己満悦表現です。こういう人に捕まってしまうと、同様の、悪意と当てつけでしか、物が言えない人になってしまう恐れがあります。
 
憤慨に耐えないので、こちらの記事にします。おっしゃったとおり、恥をわがものとしてください。

 
シャロムさんの信仰に、誰も巻き込まれることのないように、シャロムさんのように人間離れになる人が、この先、出てこないように、祈っています。 
 
 
(2016年03月30日、同日一部修正)
 
 

 
 

 
  超常信仰
 
 
受難と磔刑の孤独な死
という大いなる思考の門を素通りして
 
復活したと超常嗜好は
肉体も精神も蘇ったという喜びの
広い門に寄って集って
安心を求めようとする
 
救いの条件もプロセスも
神の超常のみを理由として
超常でないと感動できない者たちは
身近に訪れる魂の奇跡も
人間の関わる信仰の話も
受け取る感受性をいつしか失って
 
どこかで起こったという死人の蘇りを
証拠もなく
神の御業の奇跡だと声高に宣伝し
やたら進化論を敵にまわして
総ては最初から完全な完成の姿だったと
神の恵みを拒む輩と蔑んで
何故か極めて現実的な自らの悲惨な姿から
目を背けているのである
 
人間の感受性を失った信仰は
超越的な立場から人を見下ろし
 
次は他の人間の感受性を
真理の神の名のもとに失わせるだろう
 
超常が好きなのは自由だし
解釈の一つとしてもあり得るが
超常を
超常でない人間に宛がうのは間違っている
 
 
(2016年03月30日、同日一部修正)
 
蘇る(よみがえる)
集る(たかる)
御業(みわざ)
輩(やから)
蔑む(さげすむ)
宛がう(あてがう)
 
 
 
 

旧作で申し訳ないですが・・
 
 
   並木道
 
 並木の桜が咲いた
花鳥風月不感症の
結膜炎の鱗(うろこ)の眼には
紙切れのように咲いて
紙切れのように褪(あ)せて
紙切れのように散るのだ
桜は散って命を残す
紙切れは命を持たない
役に立たなくなった紙切れ
使い捨てたティッシュ・ちり紙
 人に見られたくないメモ?
リサイクルに回らない紙は
捨てられ焼かれる
今日も無数の紙切れが捨てられてゆく
不可抗力・やむを得ないと弁明され
犠牲にされる命のように果てしなく
紙切れは捨てられ続ける
 
並木の桜が散った
 
 
   前へ進め
 
嫌いだと言ってしまえば
自分をいちばん嫌っている自分
に出会うことになるだろう
気持ち悪いと言ってしまえば
成長していくものたちの間にいて
自分の気持ち悪さを
嫌というほど思い知るだろう
大したことはないと軽んじるなら
 いつのまにか派手な花々の
妙に重々しく厳粛な列に並んでいて
膨張し痙攣し硬直したまま
突っ立っているだけの
蚯蚓(ミミズ)の化け物になって
訝(いぶか)しげな視線を
吐物のように浴びせられるだろう
 
嫌というほど
悔いに悔いても今さら
恐れても遅いのが結果というものだ
それでもまだ捨てきれない気持ちなら
身を低くして
消え入りそうな低みに礎(いしずえ)を持ち
あらゆる視線と無視を受け入れ
一歩退いたのち
自らをも暴(あば)きながら
悔いて恐れず前へ進め
 
 
   暖冬
 
問わず語らず疑わず
安らかな感謝と賛美に
凝り固まろうと
もがいている
悟りの微笑よ
起きていることが
目覚めとは限らないのに
眠りを
眠らせるのか
暖かくなった冬が過ぎて
居眠りが大好きなこの季節に
似つかわしくない一枚の枯葉に
似つかわしく散った一枚の花びらに問う
 いつどこでどのように
 なにゆえ
舞い落ちたと思っている
 
 
   懲りない奴
 
例えば人里離れた急峻な山の斜面に
散りながら咲く一本の桜木のように
咲くことを愛でる季節には
散り続けるものを探し
営み順風に吹かれて生き続ける姿には
下血から骨までの道のりをたずね
旅立ちと別れのときには
今まで本当に出会っていたのかと
恥ずかしいときには
今まで恥じないで済むことがあったかと
問わずにはおれない
風流も風情もわきまえぬ性分に
神の独裁をうっかり与えてみよ
やはりそっくり同じ世界を造るだろう
 
 
(2016年03月30日、旧作4題、同日一部修正)
(2016年04月04日、一部修正)
 
4つ目は乱暴ですが、私という人間が
もし世界を創造する力を得たら
どんな世界を作るだろうと考えると
もっとよい世界を、もっとよい世界を、不幸のない世界を、
と考えているうちに
結局、何の面白味もない世界にしかならないだろう
と思う・・のでした・・。
 
 
 
 

 
  人間乖離
 
 
人間学者に、
人は人、神は神、
と言われたら、大喜びで
神は神なる絶対の神について
氷結した教理をだらだらと語って悦に入る
 
それは人間学とは何の関係もありません
 
知り得ないことを
知ったと思い込む信仰を批判すれば
使徒信条みたいなことを長々と書いて
信仰の考え方は自由だが
これだけは譲れません
と書いて反論したつもりでいる
 
個人が譲るかどうかは
真実とは全く関係ありません
 
信仰は
総ての人間を救うのだから
個人にとって真実かどうか
という主観とは別のものです
 
また
個人が納得するための
信仰の要素と条件は
まさに個人が人間であることだけです
だから
人間であるということだけでは
納得できないというなら
それは単にその人が
信仰に向かないということに過ぎません
 
事実か霊的か伝承か
キリストの肉体の復活について
真偽の分からない大昔の超常を
信じ込んで分かったつもりになっている
 
信仰は
聖書に書かれていても解釈の様々な
死体の甦りという復活の
二千年前に依存しているのですか
 
そのために今の真実が
疎かになっているとは思わないのですか
 
聖書の解釈を語るときには
すべて神の意志による神の業として
神、神、と聖なる超常以外認めないから
 
そのように人間の情感を無視して
冷たい解釈を言い張って
鼻息荒く目を剥いてくるような解釈には
人間の温もりが全然感じられません
 
柔らかく言えば
はぐらかし
はぐらかすから問い詰めれば
削除する
 
怒りを指摘すれば
「怒って削除する理由はありません」と
言葉でだけ怒りを否定するが
 
怒っていないのに
どうしてコメントを削除するのですか
 
分からないと正直に言えないのですか
 
分からない
という共感の立場に立てずに
支配欲と保身と
何より信仰の絶対化から
自説の絶対化に凝り固まる信仰を押しながら
 
キリスト信仰について書いたコメントを
日課のように平気で抹殺して過ごす保身が
平安な信仰生活だと言うなら
 
そんな平安を誰が欲しがるのだろうか
 
 
(2016年03月29日)
 
乖離(かいり)
譲る(ゆずる)
疎か(おろそか)
業(わざ)
剥いて(むいて)
 
 
 
 

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