ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年03月

 
  復活について
 
 
イエス・キリストの肉体の復活があったと信じなければキリスト者ではないのかという問題が、昔からあったようです。聖書には、肉体を持ったキリストの復活が書かれているからでしょう。聖書の話ですから、霊的なことを比喩したのだとか、伝承に過ぎないとかいった、説もあるようです。それは、聖書の解釈として、当然、あってよい説だと思います。
 
私が大いに不満なのは、創世記の解釈と同様、どれかに決めて、信じ込まないと信仰ではないという考え方です。そうではなく、無知と言われようと、背教と言われようと、信じられない超常的なことについては、分からないものは、分からないというのが、正直な信仰だろうと考えます。
 
ですから、正直な信仰を何よりも重要視して、どれかを択一的に選ぶことが、信仰、または、信仰が厚いことだ、と見なす傾向には、これは特に肉体の復活を唱える人に多いのですが、反対します。
 
二千年前の肉体の復活がなかったというのではなく、分からないということです。分からないということは、事実かどうかの判断を保留するということです。今の信仰が二千年前の、あったかどうか、分からないことを、理由も根拠もなく、どういうわけか、無思考に、あったとすることに依存するというのは、人間の時空を超えた神秘が大好きで、神秘でなければ信仰ではない、という、赦され救われ癒やされ生かされる恵みを賜る人間性とは別の、超常的なことばかり考える、強迫的で脅迫的な、人間性から離れたがる人の信仰で、人間性から離れたがる、という一点において、すでに、間違っています。
 
復活や様々の奇跡などは、神秘であります。神秘は、神の秘密、人には、秘されていることです。これは、人が、知らず、気づかず、捉えられない、信仰の秘儀であります。しかしながら、この神の秘密を知ったと思わなければ信仰ではないという考え方が、古くからあり、これは、上に述べたように、超常を追いかけて、分かったと言わなければ気の済まない方向に、人を駆り立て、人を、人間離れさせる方向だから、反対しています。
 
人間の時空を超えた世界がないというのではなく、それがこの地上のものではないとか、この地上では起こらないというのでもなく、・・そういう超常は、どこで起こるにしても、断じて、人のものではなく、神のものであるということです。
 
その自覚を、神を恐れ、神に対する、人としての身の程を弁えることであると考え、その弁えを、神とは違う人という被造物の、謙虚、謙遜、敬虔、と呼んでいます。そして、それは、そのまま、人に対する態度に表れるものだと思います。そういう敬虔を、上辺だけの社交の、丁寧、柔和、優しさ、とは、本質的に異なるものとして主張しています。
 
 
(2016年03月28日)
 
 
 
 

 
  裏切るとき
 
 
頑固ではなく頑迷で
一途ではなく
一方向だけで
 
ペテロではなく
 
むしろユダなのだ
 
キリストを愛して
自分の理想像を作ってしまって
自分の思いに答えるキリストしか
考えられなくなって
 
贔屓の引き倒しで
キリストを殺してしまったユダなのだ
 
キリストによって
神の僕の自覚から
神の信じ方まで自分で決めて
その通りにしないキリストに不満で
自分のほうが・・とか
自分ならば・・と思うようになって
 
神が愛のストーカーなのではなく
人がストーカーなのだ
 
見えている姿よりも
光によって生まれた陰の
闇をなぞったほうが
人の形になってゆく
 
裏切りのしるし
 
愛しすぎた一体感が
一体であるはずの相手を
追いかけ
殺す
 
愛という観念にとらわれ
愛を志で
固定してしまった
 
双方向の愛の成長ではなく
一方向の一方的な
思い込みを信仰と名付けて
誰よりも知っている自分に成り上がり
誰よりも愛されている勘違いを
貫いてしまう
 
自分の知らないことを言う救い主を
知らない人として退けて
ただ去るのではなく
 
ただの他者ではなく
一体の自分を裏切ったと
自分の影を追うように
どこまでも
追いかけ
滅ぼし
殺す

 
 
むしろ愚直で
融通の利かないペテロであれば
一体でなくても
自分よりも善い人なのだろう
という漠たる感覚で
ついてゆくことも出来たであろう
 
むしろ砕けた小さい欠片のままであったなら
ついてゆくことの幸いを
ペテロのように純朴に
そのまま受けることも出来たであろう
 
 
(2016年03月28日)
 
贔屓(ひいき)
僕(しもべ)
漠たる(ばくたる)
 
 
 
 

 
  姿
 
 
リンゴの皮を剥いて
皮を食べ
玉ねぎを剥いて
涙を飲む
 
姿よりも
陰をなぞるほうが
プロフィールらしくなる
 
犬にワオッと怒鳴られ
猫にィヤーと拒まれ
牛にモーと飽きられ
午に非非ンと否まれる
 
人間と話すのは宅配の人
お疲れ様です・・と
目一杯挨拶して緊張する
 
部屋にはボール箱が増えて
中身はトイレに流す予定
 
一日が部屋の中
PCかTVの前
 
人伝に聞く消息は
付き合いのない人
TVか何かの
 
私はリンゴの皮ではない
 
リンゴの実でもないけれど
 
今日も獣のような手に捌かれ
姿と言える形がない
 
 
(2016年03月27日)
 
挨拶(あいさつ)
人伝(ひとづて)
獣(けもの、けだもの)
捌く(さばく)
 
 
 
 

 
  「聖霊体験」
 
 批判対象ブログ:その名は不思議
 批判対象記事:人の夢と神の救い
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27338806.html
 
 
>聖霊と聖霊の御業については議論の対象にはなりません。
>なぜなら神→人の事柄ですから。
 
聖霊は、
聖書に語られている、神・キリスト・聖霊
という聖三位の一つとして
信仰者を誤らないように導くと言われている。
 
議論の対象にはならないかもしれない。だからといって、聖霊体験者を自称する人を、すべて本物だと認めて、その人の言っていることが正しいと、受け入れなければならないだろうか。
 
本物がいれは、必ず、偽者が表れる、さらに勘違い人間も現れてくる、これが人間の世界だ。
 
先ず、
聖霊体験者が、自分は聖霊体験者であると名乗ることは、あまり、ないのではないか。神からの、直接の啓示を受けた人は、恐れ畏み、他の信仰者以上に、慎み深くなるだろうから。
 
聖霊体験者として、語るとしても、少なくとも、繰り返されて、うんざりするような、教理話を語ったりはしないはずだ。
 
聖霊体験者が語れば、それは、今までにないような、目覚めに導くような話になるだろう。感動も伴うだろう。
 
聖霊体験者は、この世での見かけの善さを求めないから、何を言われても、冷静で、適切な答えを返すだろう。少なくとも、反対意見を無視したり、反対意見がなかったかのように見せかける偽善的な振る舞いは、決してしないはずだ。
 
聖霊体験者だから、使命として、ある程度の裁きを行う、というのなら、裁きの理由を説明できるはずである。偽物は、決して、その理由を、説明できない。それも、神由来などという詭弁を弄するかもしれないが、納得させることも出来ず、美しくもなければ、その時点で、アウトである。偽りか、勘違いかを、問い詰めて、警告するべきだろう。
 
偽者は、身の程を弁えないから、本物のふりをする。
偽者は、人間としての身の程も弁えないから、本物のふりをして、自分の言うことが絶対正義だという神由来の立場を、議論無用に、守ろうとして、手段を選ばないのである。
 
 
私は、聖霊を否定しているわけではない。しかし、当然伴ってくるであろう、偽者や勘違い人間、という、リスクについては強く書かなければならないと思っている。
 
神秘的な美しさというのは、人間を超えている美しさと思う人も多いだろうが、人間を超えているなら、なぜ、人間は、それに感動するのだろう。人間を超えているのではない。人間に真似は出来ないが、人間に感受できる美しさなのである。
 
したがって、聖なる働きかけは、また、その産物や結実としての現象は、人間にとっても、温かい感動を伴い、共感できる美しさを持っている。
 
 
聖霊体験の真偽については、最終的裁きを神に委ねるのだが、この地上で、偽者が蔓延らないように努力する必要はあるだろう。聖霊体験の結果が美しいかどうか、感動的であるかどうか、上に述べたような、偽善的な振る舞いや、慎みのない、押しつけがましい態度といった矛盾がないかくらいは、考えるべきだ。そして、聖霊体験者として、おかしいと思ったら、暫定的にでも、本物とは認められないという判断を下すべきなのである。
 
既存の教会組織は、その点について、長い間、疎かにしてきたのではないだろうか。あるいは、全く別の、聖書の知識が豊富であるとか、丁寧な態度であるとか、そういった、いい加減な基準で、選別してきたのではないだろうか。
 
偽善者の特徴は、ちょっと見た感じ、丁寧で、知識も豊富で、穏やかで柔和で、優しく教えてくれる人・・であることを覚えてほしい。これらは、偽善者という俗を求めるものが、この地上で通用するために、身に着けた処世なのだから、一見、キリスト者らしいと受け取られ、歓迎されることが多いのである。
 
私は、決して神秘を認めないなどと主張しないし、また、神を、理性で信じることなど主張しない。神は人間の理性を超えていることを、恐れをもって、認めているつもりだ。ゆえに、神の立場で物を言う偽善などは、とても許せないのである。
 
偽善者は故意であり、勘違い人間も含めて、魂の砕けていない偽者たちである。彼らの魂は、砕かれなければならない。最終的な裁きは、神に任されるけれど、私たち人間が、できることは、怯まず、努めるべきであろう。
 
 
(2016年03月26日、同日一部修正)
 
畏む(かしこむ)
弁える(わきまえる)
蔓延る(はびこる)
怯む(ひるむ)
 
 
 
 

 
  汚れ
 
 
単純な比較として
言葉での一つの矛盾について
 
1.「汚れていない」と思うことで汚れる必然
 汚れているという自覚がないので
 慢心→汚れに対して無防備→慢心が継続する必然
 
2.「汚れている」と思うことで汚れる必然
 汚れていると自覚することで
 自覚するゆえに
 自覚したとき、汚れていないという慢心が生まれ
 それは既に汚れである必然
 自覚を持つ分、無防備ではないが
 矛盾してくるし、ジレンマでもある
 自覚は折に触れて日常的に持つことが出来る
 慢心は断続的
 
2.のほうが1.よりはマシ、
特に、1.は不可と言うべきである
 
どうしても人間は汚れる必然を持っている
という、さらなる自覚
 
加えて
自分の信仰を
思考の理路に置いて実験的に
いったん偽物として対象化してみること
 
人が確かなものを信仰に求めるとき
それに答える信仰の確かさは大方偽物だろうという推測
偽物、または、この世では、大方、仮のもの・・?
 
正しいと思っても
言葉に出せば汚れるということで
ここで言葉で信仰を語らないという選択は
事態をますます不明にしてしまうので、なおさら不可
 
結局
自分の力だけでは
信仰を正しく保つことは不可能である
 
祈るしかない
という結論に至るのが精一杯・・
 
祈ったからいい
ということでは決してないのだが・・
 
 
罪びとの自覚がなければ
そのまま高ぶり
罪びとだと自覚すれば
自覚したことで高ぶるジレンマは
 
自分を対象化して客観視することが
何よりも自分自身によって
結局は不可能であることを示している
 
だから自分が自分である間
つまり生きている間
常に正しくあることが不可能であることを示している
 
だから折に触れて反省するしかない
自分を「常に」の常態に置かず
「折に触れて」の動態に生きることが大切なのだろう
 
信仰の平安の境地なるものを得た
という完了と固定が
いかに悍ましいかを示しているのだろう
 
※ 
 
人の根源の究めがたきを思い
人の罪性の避けがたきを思います
 
 
(2016年03月25日、同日一部修正)
 
このテーマは難しそうです・・(嘆)
 
汚れ(けがれ)
≒悪の作用として、
あらゆる罪、慢心、傲慢、思い上がり、
というような意味で使っています。
 
汚れ(けがれ、穢れ)
悍ましい(おぞましい)
究める(きわめる)
 
 
 
 

このページのトップヘ