「人の夢・・?(5)」
批判対象ブログ:その名は不思議
批判対象記事:人の夢と神の救い
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27338806.html
のコメント。大意を変えない範囲で少し編集したところもあります。
私のコメントは、日時省略、HNのないのが私st5402jpのコメントです。
なお、私のコメントは、シャロム氏によって削除されています。
> shalomさん
土台が同じであるかどうかは聖霊が教えてくれるということでしょうか?しかし、それが聖霊の働きであることはどのようにして分かるのでしょうか?それも聖霊が教えてくれるということでしょうか?・・・なんだか堂々巡りになってしまいますね。これが人間の限界ということになりますか。
なぜ私がこんなことにこだわるかと言いますと、誰かが「私は聖霊によって導かれた」みたいな発言をすると、他の信徒はそれに対して反論できない雰囲気になることがよくあるからです。そこで私が場の空気を読まずに「本当にそれは聖霊ですか?」なんて聞くと「不信仰なやつめ!」と言われたりします。
おそらくshalomさんも牧師として同じような場面に遭遇されたことがあるのではないかと思い、お考えを聞いてみたくなりました。
話を戻しますと、shalomさんはstさんと同じ土台の上におられると聖霊によって判断されました。しかしstさんは「いや、私はshalomさんと同じ土台の上にいない!」と反論されるかもしれません。その場合、shalomさんは「stさんには聖霊の働きがない」と判断されるのでしょうか?
2016/3/24(木) 午前 9:32 vernunft 返信する
> vernunftさん
「土台が同じであるかどうかは聖霊が教えてくれるということでしょうか?
「shalomさんは「stさんには聖霊の働きがない」と判断されるのでしょうか?
そういう判断はしませんし、できません。
しかし、すべてのことが主の御手の中にあり、主を信頼し、ゆだねていることが最善だろうと思います。
しかし、自分の中の肉性は黙っていることができないので、裁いたり、批判的な言動をしてしまうことはあります。争いの種です。
肉性は支配か依存の関係になりがちで、人との距離が取れず、お互いにありのままを受け容れあうことができません。
それは教会のみならず、夫婦や親子関係、あらゆる人と人との間で起こります。
主はいつも罪は受け容れられませんが、その人自身を拒絶されることは決してありません。
2016/3/24(木) 午前 10:24 [ shalom ] 返信する
> vernunftさん
「おそらくshalomさんも牧師として同じような場面に遭遇されたことがあるのではないかと思い、お考えを聞いてみたくなりました。」
言われたこともありますし、思ったことも、言ったこともあります。
たいていむなしい批判、議論になことが多かったことを覚えています。聖霊と聖霊の御業については議論の対象にはなりません。なぜなら神→人の事柄ですから。
私もどちらかというと社交嫌いではっきり言う方ですから。(苦笑)
2016/3/24(木) 午前 10:42 [ shalom ] 返信する
> shalomさん
>肉性は支配か依存の関係になりがちで、人との距離が取れず、お互いにありのままを受け容れあうことができません。
最終的には「霊か肉か」という戦いになりそうですね。人間は自分の中の「肉性」に無自覚になって「自分は霊的だ」と思っているときに間違いを犯してしまうと思います。
人間学というのは自らの「肉性」に自覚的であるあまりに「霊的」な部分については何も語らない(語れない)という立場を取ります。その結果として、肉の言葉で語ることになってしまうという欠点があります。shalomさんには必要ないと申し上げた理由もそのあたりにあります。決してshalomさんを排除するとか、そういう意図はありません。誤解を与えてしまったら、申し訳ありません。
いろいろ不躾な質問を続けてしまいましたが、丁寧にご回答下さり、ありがとうございます。
2016/3/24(木) 午前 10:58 vernunft 返信する
>それが聖霊の働きであることはどのようにして分かるのでしょうか?
このことについて、シャロムさんは答えていません。シャロムさんの信仰では、答えられないでしょう。自分は分かると言えば自分信仰だし、聖霊が教えてくれると言えば、神の業だから文句を言うな、ということになるからです。
>聖霊と聖霊の御業については議論の対象にはなりません。なぜなら神→人の事柄ですから。
議論の対象にならないということは、問答無用に正しいということです。
では、御霊の助けを受けたシャロムさんならば、どんな、癒やしや、温もりや、美しい信仰を表したかと言えば、余計な病気の忠告や、教理一辺倒の話や、温もりのない聖書解釈です。何も、関わる人が聖霊が確かに降りたと思えることは起こらず、むしろ、その逆のことが起こっています。こういうことから、嘘か思い込みか自己満足だろうという推測は可能なのです。
>「土台が同じであるかどうかは聖霊が教えてくれるということでしょうか?
> 「shalomさんは「stさんには聖霊の働きがない」と判断されるのでしょうか?
>そういう判断はしませんし、できません。
>しかし、すべてのことが主の御手の中にあり、
>主を信頼し、ゆだねていることが最善だろうと思います。
けれど、コメントは、全部、削除するシャロムさんなのですね。委ねていない証拠です。
>主はいつも罪は受け容れられませんが、その人自身を拒絶されることは決してありません。
聖書から、主はいつも罪を、さらに自分をよく見せようという偽善を受け入れることはないでしょう。シャロムさんが、その人自身を拒絶しないというのは、どういうことでしょう。罪を受けれないのに、罪を告白もせず、偽善を改めることもしない人を、拒絶しないというのはどういう意味でしょう。その人が罪と偽善を犯し、悔い改めもしてないのに、主は拒絶せずに受け入れるということでしょうか。シャロムさん、自己弁護のために、キリストの話まで、捻じ曲げないでください。キリストは、辛抱強く、悔い改めを待つのでしょう。それでも、あなたは、自分を正当化し続けている、というより、指摘してきたコメントを削除しまくっている・・この場合、どうなるでしょう。
欺瞞と言い逃れも、いい加減にしてくださいね・・また、削除ですか。
述べましたように、聖霊が降りたという聖霊体験については、それに相応しい言動や出来事があるかどうかで、暫定的にも、真偽の推測で判断するべきなのです。それがないならば、聖霊体験を認めないで、保留とするべきなのです。でないと、聖霊が言っているというような言い方で、聖なる啓示を語るような、偽聖霊体験者が、次から次に現れるからです。これは、教会をはじめとするキリスト教組織の歴史的怠慢なのです。
それと、聖霊体験を経た信仰者というのは、誰よりもキリスト者らしく、謙虚なはずです。反対意見を切り捨てるなどと言うことは、しないはずなのです。・・おかしいでしょう・・
(2016年03月24日、同日一部修正)