ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年03月

 
  「人の夢・・?(5)」
 
 批判対象ブログ:その名は不思議
 批判対象記事:人の夢と神の救い
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27338806.html
  のコメント。大意を変えない範囲で少し編集したところもあります。
  私のコメントは、日時省略、HNのないのが私st5402jpのコメントです。
  なお、私のコメントは、シャロム氏によって削除されています。
 
 
> shalomさん
 
土台が同じであるかどうかは聖霊が教えてくれるということでしょうか?しかし、それが聖霊の働きであることはどのようにして分かるのでしょうか?それも聖霊が教えてくれるということでしょうか?・・・なんだか堂々巡りになってしまいますね。これが人間の限界ということになりますか。
なぜ私がこんなことにこだわるかと言いますと、誰かが「私は聖霊によって導かれた」みたいな発言をすると、他の信徒はそれに対して反論できない雰囲気になることがよくあるからです。そこで私が場の空気を読まずに「本当にそれは聖霊ですか?」なんて聞くと「不信仰なやつめ!」と言われたりします。
おそらくshalomさんも牧師として同じような場面に遭遇されたことがあるのではないかと思い、お考えを聞いてみたくなりました。
 話を戻しますと、shalomさんはstさんと同じ土台の上におられると聖霊によって判断されました。しかしstさんは「いや、私はshalomさんと同じ土台の上にいない!」と反論されるかもしれません。その場合、shalomさんは「stさんには聖霊の働きがない」と判断されるのでしょうか?
 
2016/3/24(木) 午前 9:32 vernunft 返信する
 
 
> vernunftさん
 
「土台が同じであるかどうかは聖霊が教えてくれるということでしょうか?
 「shalomさんは「stさんには聖霊の働きがない」と判断されるのでしょうか?
 
そういう判断はしませんし、できません。
しかし、すべてのことが主の御手の中にあり、主を信頼し、ゆだねていることが最善だろうと思います。
しかし、自分の中の肉性は黙っていることができないので、裁いたり、批判的な言動をしてしまうことはあります。争いの種です。
 肉性は支配か依存の関係になりがちで、人との距離が取れず、お互いにありのままを受け容れあうことができません。
それは教会のみならず、夫婦や親子関係、あらゆる人と人との間で起こります。
 主はいつも罪は受け容れられませんが、その人自身を拒絶されることは決してありません。
 
2016/3/24(木) 午前 10:24 [ shalom ] 返信する
 
 
> vernunftさん
 
「おそらくshalomさんも牧師として同じような場面に遭遇されたことがあるのではないかと思い、お考えを聞いてみたくなりました。」
 
 言われたこともありますし、思ったことも、言ったこともあります。
たいていむなしい批判、議論になことが多かったことを覚えています。聖霊と聖霊の御業については議論の対象にはなりません。なぜなら神→人の事柄ですから。
 私もどちらかというと社交嫌いではっきり言う方ですから。(苦笑)
 
2016/3/24(木) 午前 10:42 [ shalom ] 返信する
 
 
> shalomさん
 
>肉性は支配か依存の関係になりがちで、人との距離が取れず、お互いにありのままを受け容れあうことができません。
 
 最終的には「霊か肉か」という戦いになりそうですね。人間は自分の中の「肉性」に無自覚になって「自分は霊的だ」と思っているときに間違いを犯してしまうと思います。
 
 人間学というのは自らの「肉性」に自覚的であるあまりに「霊的」な部分については何も語らない(語れない)という立場を取ります。その結果として、肉の言葉で語ることになってしまうという欠点があります。shalomさんには必要ないと申し上げた理由もそのあたりにあります。決してshalomさんを排除するとか、そういう意図はありません。誤解を与えてしまったら、申し訳ありません。
 
いろいろ不躾な質問を続けてしまいましたが、丁寧にご回答下さり、ありがとうございます。
 
2016/3/24(木) 午前 10:58 vernunft 返信する
 
 
>それが聖霊の働きであることはどのようにして分かるのでしょうか?
 
このことについて、シャロムさんは答えていません。シャロムさんの信仰では、答えられないでしょう。自分は分かると言えば自分信仰だし、聖霊が教えてくれると言えば、神の業だから文句を言うな、ということになるからです
 
>聖霊と聖霊の御業については議論の対象にはなりません。なぜなら神→人の事柄ですから。
 
議論の対象にならないということは、問答無用に正しいということです
では、御霊の助けを受けたシャロムさんならば、どんな、癒やしや、温もりや、美しい信仰を表したかと言えば、余計な病気の忠告や、教理一辺倒の話や、温もりのない聖書解釈です。何も、関わる人が聖霊が確かに降りたと思えることは起こらず、むしろ、その逆のことが起こっています。こういうことから、嘘か思い込みか自己満足だろうという推測は可能なのです。
 
>「土台が同じであるかどうかは聖霊が教えてくれるということでしょうか?
> 「shalomさんは「stさんには聖霊の働きがない」と判断されるのでしょうか?
 
>そういう判断はしませんし、できません。
>しかし、すべてのことが主の御手の中にあり、
>主を信頼し、ゆだねていることが最善だろうと思います。
 
けれど、コメントは、全部、削除するシャロムさんなのですね。委ねていない証拠です。
 
>主はいつも罪は受け容れられませんが、その人自身を拒絶されることは決してありません。
 
聖書から、主はいつも罪を、さらに自分をよく見せようという偽善を受け入れることはないでしょう。シャロムさんが、その人自身を拒絶しないというのは、どういうことでしょう。罪を受けれないのに、罪を告白もせず、偽善を改めることもしない人を、拒絶しないというのはどういう意味でしょう。その人が罪と偽善を犯し、悔い改めもしてないのに、主は拒絶せずに受け入れるということでしょうか。シャロムさん、自己弁護のために、キリストの話まで、捻じ曲げないでください。キリストは、辛抱強く、悔い改めを待つのでしょう。それでも、あなたは、自分を正当化し続けている、というより、指摘してきたコメントを削除しまくっている・・この場合、どうなるでしょう。
 
欺瞞と言い逃れも、いい加減にしてくださいね・・また、削除ですか。
 
述べましたように、聖霊が降りたという聖霊体験については、それに相応しい言動や出来事があるかどうかで、暫定的にも、真偽の推測で判断するべきなのです。それがないならば、聖霊体験を認めないで、保留とするべきなのです。でないと、聖霊が言っているというような言い方で、聖なる啓示を語るような、偽聖霊体験者が、次から次に現れるからです。これは、教会をはじめとするキリスト教組織の歴史的怠慢なのです。
 
それと、聖霊体験を経た信仰者というのは、誰よりもキリスト者らしく、謙虚なはずです。反対意見を切り捨てるなどと言うことは、しないはずなのです。・・おかしいでしょう・・
 
 
(2016年03月24日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  「人の夢・・?(4)」
 
 批判対象ブログ:その名は不思議
 批判対象記事:人の夢と神の救い
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27338806.html
  の私のコメント。日時省略。
  シャロムshalom氏の一方的な断定コメントに対し
  私も相当激しく抗っています。
  なお、私のコメントは、すべて未承認か削除済みになっています。
 
 
>残すに値しないコメントはこれからも削除します
 
信仰についてのコメントを、その値の有無をシャロムさんが判断するのですか。シャロムさんの機嫌で判断しているようです。シャロムさんの感情で判断しているようです。シャロムさんは裁いています。それが都合悪く、不快だから、また裁いています。魔王の居心地はいかが・・?
 
>「神→人」という《土台》の上に「人→神」という信仰が成り立つと考えています。
 
あなたの信仰は、氷結教理振り回し(あなた)→魔王(あなた)の独断で削除という信仰ですね・・ 
典型的に、教理を振り回し、聖句を引用しまくる、どちらも的外れです。
 
>土台と隅のかしら石さえ一致していれば、
>その上にどのような資材を使い、どのような家を建てるかは自由ということです
 
あなたは、隅のかしら石を蹴ったくり、その口と唾液で汚し、穢しつつ、欺瞞と偽善の家を建てようとしています。
 
>起こっている出来事によって、ひとりひとりの信仰の土台と隅のかしら石が唯一の一致した土台であるか、隅のかしら石であるかどうかをみことばによって聖霊の点検と矯正が行われていると考えています

 
点検と矯正を、間違っても、あなたがすることのないように、祈ります。点検と矯正に、あなたが、引っかからなかったのは、痛恨事でありましょう。
 
>聖霊様はブドウの木である枝の選定の御業をされるようです。
 
魔王も、ここで今、やっています。恐ろしいことです。
 
>神は聖霊によって、結構厳しく肉の働きを取り除くために
>手入れをされるようですね。
 
魔王は、暴虐的に、今ここで、やっています。
 
>イエスとともに十字架につけられている自分との出会いに
>導かれているとも考えることができると思います。
 
十字架を救いではなく、自分に都合のよい排他的懲罰として書いているシャロムさん、あなたは、自分が取り除かれる可能性を認めますか。認めませんか。認めなければ、排他的自分信仰です。
 
魔王と化したシャロムさんは、人を裁きまくり、選定をしているつもりで、自分の可能性を、ご丁寧に、斬り落とし、焼いているのです。暴虐の魔王は、かしら石を壊しているのに、守っているつもりの勘違いで、今も、律法学者に食って掛かるのです。自分だけが正しいと思い込むと、こうなってしまうという戒めとしましょう。
 
もしシャロムさんが正しいなら、血も涙もない、石板のような、今シャロムさんが書いているような、人間の教理言葉至上主義でお経のようなことを繰り返すことを美徳とした、凶器のような信条の、冒涜キリスト経になるでしょう。人間の心ある者は抗うべきです。
 
削除魔、魔王、自分信仰、氷結教理信仰、・・が、裁きに裁いています。自分の言うことを聞け、自分の言うことが正しい、自分の言うことを聞け、と叫びながら・・やめればいいのに・・中身はないが、書くことと言うことだけは忘れない、シャロムさんは、魔界から、帰って来ないのでしょうか。 
ひとりひとり自由な・・というシャロムさんは、自由を削除し続けるのでしょうか、自分の自由は主張しても、人の自由は削除するシャロムさんは、いつまで、魔界から、神の裁きを真似るのでしょう、もう、シャロムさんの、偽善も、罪も、罪の継続も、冒涜も、あからさまです・・
 
>「神→人」という《土台》は聖書は私について書いてあると言われた方イエスがイスラエルの歴史をとおしてご自分の父である神が預言者によって約束されたことをイエスは成就されたのですが、これは神の一方的な神→人に対するみわざですから、人は聖書の証言とイエスの死とよみがえりと聖霊の注ぎという出来事に対して、またそのことによって成就された人間の罪に対する贖いと罪の赦しによって、神と人と関係が回復された、これを神の義認といいますが、それを人は信仰によって信じ受け容れ、その通りですアーメン!と告白することが信仰告白であり、神が与えられた土台の上に信仰によって生きることができるのです。
ここには人の考え方、見方が入る余地は全くないのです。

 
信仰を言葉で表そうとして必死なシャロムさんが言えば、読経的常套句です。逆らう者は赦さない戒律です。
 
>霊的な選定ン御業をしておられるのです。
この世に生きている限り、これで良しといえる人はどこにもいないでしょう。しかし、イエスによって罪贖われ、神によって義とされたことが取り去られることは決してないとイエスはあなた方を捨てて孤児とはしないと言われたのです

 
その貴重な機会を、誰にも伝わらない、血も涙も温もりもないことを、繰り返し言い張ることで台無しにして、一方では、削除しまくっているシャロムさんは、次は何をするかと言えば、やはり、同語反復的繰り返しと、削除なのでしょう。
 
>ペテロがイエスの苦難の予告を否定し、イエスをいさめた時、なぜペテロを叱るばかりで、弟子として首にしなかったのかといわれる人もおられるようですが、ペテロの未熟な信仰告白でも天の父から与えられたとイエスは言われているのですから、イエスがそんなことをされるはずはあり得ないのです。それは人間の肉の働きである情緒的な事柄を超えたことなのです。

 
私が、記事に書いて、人間らしさを信仰に求めたのが気に入らないらしくて、ここにまた、シャロムさんは、こともあろうに天上の理屈を書いています。シャロムという人が、何の恐れも、遠慮も、思慮もなく、神の道理を、押し出す醜さは、戒めになるでしょう。
 
>言葉や考え方だけで、このことを理解しようとしても、わかるようでわからない、わからないようでなんとなくわかるような気がすることはあっても、アハ!現象に似たようなハッ!と啓かれる聖霊によって与えられる理解があるのです。

 
何でもかんでも神的奇跡と神の業にしないと感動できない人がここにいます。この人が感じているのは、人間離れした思いの上に載せる悲惨な臓物なのです。人間でなくなってゆくプロセスが、目の前に繰り広げられているようです。
 
>土台が同じであれば教派、教団の対立、混乱は少なくなりまたみことばと聖霊の導きによって克服され、初代教会が迫害され散らされましたが、それが神のみ心であるエルサレム、ユダヤ、サマリや、さらに地の果てまで異邦人への福音宣教となったようなことが起こるのではないかと思います。

 
自分と同じ土台に立て、そうして、世界のキリスト教を統一しようと、必死で、叫んでいるシャロムさんは、支配欲、剥き出しです。
すでに、シャロムさんが、口酸っぱく語るような、読経的教理は、ここで叫んでみても、喧しい打楽器のようであることに、シャロムさんだけは、気づかないのでしょうか。困惑発信者、これを付け加えましょう。
 
 
(2016年03月24日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  永遠の
 
 
自分信仰者は
飾る言葉を求めます
 
どこで仕入れたのか
「永遠の汝」などと言って
辻褄が合ったと思うのか
言い得たと悦に入るのですが
 
永遠の汝?
永遠において汝と呼ぶ相手
つまり神のことでしょうか
 
人は永遠に到達できるか
少なくとも地上では不可能ですから
 
言い換えると
永遠に汝と呼べない相手
という意味になって
 
この地上では
神の不可知を意味することになります
 
あるいは
永遠に汝と呼ぶ神
という意味なら
人は地上で永遠ではありません
 
つまり自分信仰者が
「永遠の汝」と言うとき
この世ではなく
あの世のことでも語っているのか
というところに落ちています
 
自分信仰者は
この地上では分からないことを
あの世の言葉で表したつもりになり
口にすることを好みます
 
この世を馬鹿にして
この世に生きているときも
あの世を生きる者として振る舞う
それが自分信仰者です
 
恐らく
「永遠の命」あたりから
持ち出してきた言葉なのでしょうけれど
 
キリスト信仰者にとって
「永遠の命」の「永遠」は
キリストが名付けた善きものとして
受け入れるしかないのです
何故なら
キリスト信仰者は「永遠」という言葉が
この世では具体性を持たないことを知っているからです
 
キリスト者が
あの世を望むことはあります
 
この世で希望を見出せないときに
この世を生きるために
崖っぷちにおいて
キリスト者は神を望むのと同じように
あの世を望むでしょう
今を生きるためです
 
ですから信仰の分別を持つ人は
あの世を生きているわけではありません
 
神、神の国、聖霊、永遠、・・
この地上で概念把握できない言葉を
既知のごとく並べて
あの世に従うように得々と語るのが自分信仰者です
 
あの世の闇に引き込まれることのないように
 
この世に生きている人々に
あの世の言葉を振り回す自分信仰者が
力を持つことのないように祈ります
 
 
※ ネットで検索してみました。人間学の言葉のようです。
 
「永遠の汝」とは神乃至絶対者のことであると述べたが,簡単にそう言ってしまうのは,本当は無意味のように思われる。重要なのは,神が歴史上様々な呼び名で呼ばれてきたにもかかわらず,ブーバーが何故神を「永遠の汝」として言い表すかということである。ひとつには,ブーバーにとっての問題は,神が何であるかということよりもむしろ,人間と神との対話性にあったからであろう。ブーバーは『我と汝』のあとがきで次のように述べている。
 
むろん私が語りうるのは,神そのものについてではなくて,神が人間に対する関係において何であるかについてだけである(1-S168).
 
たとえ個々の「我―汝」関係が終息し「汝」が「それ」化しようとも,いつまでも「それ」となり得ない「永遠の汝」であるということである。したがって,われわれの考察の範囲も,神が人間との関係において何ものであるのか,という域を出ないことが前提である、
 
永遠の汝と出会うために,人間は世界の事物から離行することはできない。具体的な世界にとび込むことをとおして,あらゆる存在の汝である神との永続的な出会いへと至るのである。・・・世界は,神との出会いへの架け橋である。ブーバーの存在論的・人間学的な思想の中心となる考え方は,関係が人間形成の場所となっているということである。すなわち,世界や神や人間との対話的な我―汝・関係によって,人間存在は人格存在として顕わとなる。
 
出典:
その他のタイトル:  Der padagogische Aspekt des ewigen Du bei Martin Buber
著者:  今井, 伸和
著者名の別形:  Imai, Nobukazu
発行日:  2000年3月31日
出版者:  大阪府立大学大学院人間文化学研究科・総合科学研究科
引用:  人間文化学研究集録. 2000, 9, p.120-131
URI: 
http://hdl.handle.net/10466/10895
ISSN:  0911-8683
出現コレクション: 第9号
 
 
なんとなく分かるような・・という程度の私には、
「神そのものではなく」は分かるとしても、
「神との永続的な出会いへと至る」という誤解を招きやすい表現とか、
ちょっと難しい人間学の言葉らしいのですが、
「対話性」というのは、神と直接対話できるという意味ではなく、
「我―汝」という「関係」ということでしょう。そして
「具体的な世界に飛び込む」ことで、人格形成として顕れる
ということだろうか・・と思ったりします。
 
「永遠の汝」は、少なくとも
初歩的な考え方さえ分かっていない自分信仰者が
目の前にいて人と人が呼び合うかのような神?として
永遠に自分の味方であるかのように
曲解によって自分の言説の正義の保証のように
安易に振り回してよい言葉でないのは明らかでしょう。
 
 
(2016年03月24日)
 
 
 
 

 
  未知の真実
 
 
キリスト信仰が
イメージと解釈を信じ込む偶像信仰にならないために
心の中の偶像と
解釈の筋書きと信条を神そのもののごとく
訂正不能に信じ込む信仰にならないために
 
 カルトのように
 非現実を有無を言わさず絶対真理として
 訂正不能に信じ込ませることのないために
 カルトと区別できない信仰にならないために
 仕組みとしてカルトと区別できず
 中身が正しいと言い張るだけの信仰にならないために
 
心の中にキリストの理想像があり
自分の解釈と信条があっても
なお真実が
それらを超えたところにあると
認められる信仰になるために
 
イメージと解釈を信じ込むことは
自分の想像と自分の解釈を絶対化することだから
 
自分の思い描くイメージと
自分や人の解釈を絶対化しないために
 
イメージと解釈があっても
なお真実の深遠なるところを
未知として待ち望むことが出来ますように
 
イメージと解釈という人の業を
訂正不能として信じ込むような
カルトとの区別が出来ますように
 
いつか総ての人が
身についた自分のものを信じ込むのではなく
真に恐れ畏んで
神を待ち望むことが出来ますように
 
思い込みから自由になれなくても
(それは実際困難だから)
イメージと解釈を修正できて
信仰者が成長も出来るように
 
真の敬虔と謙遜を
人間ならば弁えることが出来ますように
 
 
(2016年03月23
日、同日一部修正)
 
業(わざ)
弁える(わきまえる)
畏む(かしこむ)
 
 
 
 

 
  「血も涙もない信仰」
 
 その名は不思議
 人の夢と神の救い
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27338806.html
  のコメント欄。自分信仰カルトの言説。
 
 
(※ シャロムさんは、別の人が調子合わせで、合意を得て、融和を図ろうとして、説得のために書いたコメントに対して、述べています。)
 
 
「つまり、人間のその限界の中にイエスが入って来られたことが福音であり、突き破られたというのも神→人間の方向に突き破られたのであって、人間→神の方向に突き破られたわけではないと思うのです。」
 
 神と人との関係と交わりは神によって成り立っています。
 神は土にチリで人を形作り、神の息吹が吹き込まれて人は生きたものとなったという創世記の言葉によって明らかにされています。
 
その関係と交わりを失った原因は人によって起こされました。
 人は神と神の言葉を退けて善悪を知る知識の木の実を食べることによってです。
 人が失った神との関係と交わりの回復は人のわざによる解決の道はなく、神の側からのわざによってのみ回復され、神からの人に対する導きと働きかけは決して途絶えてはいないことを、アダムから始まるイスラエルの民の歴史によって旧約聖書は明らかにしています。
 
そのような神の導き、助けの恵みにもかかわらず、神の導きと助けを退け続けるイスラエルの歴史に人間の姿が明らかにされています。
それでも神は恵みによって悔い改めに導き、働きかけを辞められることはありませんで
 
2016/3/22(火) 午後 7:24 [ shalom ] 返信する
 
これらのこと神→人間の方向は天地創造以来、人の罪によって人間→神の方向への道、働き掛けの方法である信仰は失われて途絶えてしまいましたが、神→人間の方向は途絶えたことは一瞬たりともないということを明らかにしているのです。
 
 失われた人間→神の方向は信仰なのですが、そのために障害となることが善悪の知識の木の実を食べて生きる人間信仰を砕くこと、罪の裁きがどうしても必要不可欠なのです。
 人間信仰を砕くことなしに信仰による人間→神の方向の関係と交わりの回復の道はないのです。
 
イエスの十字架につけられたことは人間信仰に生きるすべての人の罪に対する裁きであり、呪いを神の御子である罪なきイエスが罪を贖いためにささげられた神の子羊としての死であります。
 
 私たちに対する罪の報酬である裁きである死をイエスは完全な一人の人として負ってくださったのです。
それは人間→神の方向の関係の回復のためでした。
 
2016/3/22(火) 午後 7:25 [ shalom ] 返信する
 
その人間→神の方向の関係の回復の証拠として、神の律法を成就されたイエスを死人のなかからよみがえらせてくださったのです。
しかし、イエスの死とよみがえりを弟子たちは見て、イエスに会いましたが、その意味を理解することができず、人間→神の方向への信仰を回復できず、戸惑っていました。
 
そのような弟子たちによみがえられたイエスはご自分の死とよみがえりを繰り返し予告されたように、十字架の苦難を前にして、すべてのことを教え、導き、助けてくださる聖霊が注がれることも予告し、約束されました。
 
2016/3/22(火) 午後 7:26 [ shalom ] 返信する
 
弟子たちは進退窮まって、人間信仰を砕かれてしまい、ついに、イエスの約束のみを信じて聖霊が注がれることを信仰によって待ち望み始めたのです。信仰を回復された弟子たちに土塊に過ぎなかったものに神が命の息吹を吹き込み、生きたものにされたように、信仰によって、人間としての死を受け入れ、信仰によってすべてを明け渡しゆだねた弟子たちに命の息吹であり聖霊が注がれ、ですたちは神のかたちを回復されたものとして生かされるものと作り替えられたのです。
すべては神→人間の方向のわざによって人間→神の方向への信仰が回復されたのです。
 人間→神の方向への信仰が回復された人は神の言葉と聖霊の導きと助けによって生きるものと変えられたのです。
 
 夕食の知らせがありましたので、見直さずに送ります。
 
2016/3/22(火) 午後 7:27 [ shalom ] 返信する
 
神と人との関係について人間の限られた知性や理性では説明がつきません。
そのために、神は天地創造から始まり、神の証しの民イスラエルの歴史によって、さらにイエスの生涯と弟子たちに対する神のわざによって必要なことを明かししてくださいました。
そしてすべての人が信仰によってみことばと聖霊の助けと導きによって聖書に証しされていることを、神のみ心と御業を恵みの賜物として体験し、生きることができるようにしてくださったのです。
 
2016/3/22(火) 午後 7:29 [ shalom ] 返信する
 
 
シャロムさんが、得意げに話すのは、人間→神の方向への信仰を、自分が受けているという野望と欲望に過ぎません。その証拠として、その信仰なるものの結果として、シャロムさんは、破滅的な自分信仰の道を歩み、今は、もはや、人間性の欠片も持たない、リヴァイササンとして、人間界に君臨することを、納得させようとしているのです。総ての人が、リヴァイアサンになったら、どうなるでしょう。シャロムさんは、王になりたくて、今、裸の王様の悲喜劇を作っているのです。このような、口から出まかせの、独善的冷血教理話には、血も涙もありません。読む者は引き込まれないように、注意するべきです。
 
2016/3/22(火) 午後 8:06 [ st5402jp ] 返信する
 
人間離れの化け物は、いずれ、その正体を、神によって、裁かれるでしょう。その前に、きざしとして、シャロムさんの言説が、めちゃくちゃな妄想として、人間に知らせている破綻と崩壊の人格を忘れないようにしてください。ようやく、シャロムさんが、自分信仰の正体を現して、吠えるように、その誇大妄想を、豪語しているのですから・・神の計画の、禁断を恐れましょう。
 
2016/3/22(火) 午後 8:10 [ st5402jp ] 返信する
 
キリストは、人間を求めました。決して、シャロムさんのような、成りあがりの超人を求めたりはしませんでした。それは、聖書において明らかです。気をつけましょう。ここに示されているのは、戒めです。シャロムさんという、ヒト形の化け物になってしまった被造物を、血も涙もないものを、真理などと受け取らないでください。人にとって、大切なのは、神の民としての、温もりのある僕(しもべ)なのです。決して、人ひとりを選んで、人間を超えたものになれと言うことはないのです。そうでないと、この地上を創造した意味がないからです。
 
2016/3/22(火) 午後 8:15 [ st5402jp ] 返信する
 
キリストは、全ての超常を持ちながら、すべての罪びとを惹きつける限りない温もりを持っていました。シャロムさんは、冷たく超常を語るだけです。シャロムさんの言説を信じれば、同じように、冷たく、誰とも温もりを共有も共感も出来ないような、狂信的冷血漢になるだけです。気をつけてください、シャロムさんだけではないかもしれません。シャロムさんは、牧師として、何十年か、人を教えていたのですから。
 
2016/3/22(火) 午後 8:29 [ st5402jp ] 返信する
 
 
※ この間、私のコメントは、殆どが未承認のままでした。
 
※ シャロムさんのような人が、二人以上現れたら、さらに権力を握ったら、恐らく、訂正不能の、血も涙もない信条によって、言うことを聞かない人々を、また互いに、滅ぼし始めたでしょう。日本において、キリスト教がメジャーでないことは幸いだと私が思うのは、こういうことが理由です。すでに、そのような信仰の信条が、世界中で、人を殺しまくっているのは周知の事実です・・。
 
 
(2016年03月??日)
 
リヴァイアサン(リバイアサン、レビアタン):
 聖書に登場する海獣(に喩えられる専制君主)のこと。
 
 
 
 

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