ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年04月

想定に過ぎませんが・・・
 
 
  信仰サイコパス
 
 
殆ど100%自己中心の場合
 
不遇と苦労の日々に
こんなに酷い目にあうのは不当だ
と思い続けて
外部の環境とか社会とか政治とかのみに
原因を想定する
 
自分の罪について
深い考察にも洞察にも至ることはなく
すべては他者のせいと思いながら
結局すべては自分の快楽原則に従っている
 
そういう者が
信仰による救いを受け入れるのは
自分に落ち度も瑕疵もなく
自分を正当化してくれる神に
救われたと讃美するのみの信仰になるだろう
 
自分について
ゆえに人間について
本質を考えることがないので
その言説は皮相で
かつ妨げる者に対しては
反論が成り立たないにもかかわらず
敵意のみを向けて
 
いかなる刺激に対しても
自らの正当な境地を守っている風情で
罪と偽善にまみれても
堕してゆく自分を認めない
 
自分の罪や欠点さえ
今となっては貴重だと誇ることがある
自分には無縁と思っているからだ
 
自分に敵対するすべてを
自分を救う神の敵と見なすことで
虚妄のうちに
平安を貪るサイコパス的人格である
 
人に良く思われるための
表層的な道徳の知識を持っていて
それを自分の信仰に結び付けて語る圧力のために
情熱と勘違いされて
見分けがつきにくいという隙間を生きている
 
そういう者は
何の理路もなく、敵を滅ぼしてください、
敵を滅ぼしてください、と
繰り返し祈り続ける末路に至るだろう
 
本当の神の敵は
他ならぬ自分に中にあることに気づきもしないで
 
 
(2016年04月30日)
(2016年05月01日、一部修正)
 
瑕疵(かし)
堕する(だする)
貪る(むさぼる)
隙間(すきま)
 
 
 
 

 
  悔い改めについて
 
 
罪は悔い改めることによって救われる
というのは実は
かなり無理があるのです
 
悔いて祈ることは誰であっても可能です
 
それに
罪に気付いたときに
改めることが出来る場合もあるでしょう
しかし
悔い改めがいつも出来るなら
その人はいつも正義に近い人として
生きることが出来ることになる
 
無理があるのです
 
悔いても
改めることの出来ないことがあるからです
 
生業において
犯罪でなくても罪の必然があるという場合が
あるかもしれません
 
言い換えれば
罪の必然の世界に私たちは住んでいる
ということも出来るのです
 
罪を犯すことなく生きることが可能なら
それは聖人以上ではないかという問題があります
 
悔いて祈りながら改めることが出来ず
日々告白によって罪人が救いを求める日々
という信仰生活はある
というより皆そうなのかもしれません
 
キリスト者のブロガーは
多くがそうしているのかもしれません
 
そういうブログなら
罪というものの本質に触れてゆく
という告白と考察の
深みのあるブログが可能です
 
ですが少なくとも
罪と偽善を隠蔽して
虚飾の日々を続けることによって
 
洗礼を受けて罪は贖われたから罪なき人になった
という自覚で
いろいろ苦労もありましたが洗礼を受けて救われてからは
どんなときにも罪を犯すことがないので平安でいられます
などという態度が
キリスト者としてあり得ないことは言うまでもありません
 
 
(2016年04月29日、同日一部修正)
 
生業(なりわい)
隠蔽(いんぺい)
 
 
 
 

 
  奇跡とは
 
 
人間が
超常の神を受け入れがたいのは
人間が
超常を理解できないからだ
 
幸いなことに私たちは
超常を受け入れるのではなく
今の自分に迫っている問題について
自分の恥と罪をキリストの前に隠さず
さらけ出す人たちが救われるのを
聖書を通じて知っている
 
処女懐妊や肉体の復活などの
奇跡を信じ込まなければ
信仰ではないという者は
事実かどうか知りようのないことを
事実として受け入れることを要求する
それこそ有無の
当たり前のように要求する
 
人間が
超常を考えて
超常を受け入れて何になるだろう
 
超常のことのは神が考える
というより
神のみが考え支配している
それが
人によって整えられることはない
 
それを整っているかのように
言い張って止まない者は
人間が整えなければならないことを
疎かにしてゆくだろう
 
整えたつもりで壊してゆく
 
神が人間に
恵みや問題や試練を与えるのは
人間が共感できることに
共感できる神だからだ
 
与えられても人間には無理で
共感もないようなことを
分かっていますと神に捧げたつもりで
人をけがす者に惑わされないでほしい
 
今の自分に迫っている問題について
自分の恥と罪をキリストの前に隠さず
さらけ出す人たちが救われるのを
聖書は語っている
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18408774.html
 
 
※ 
 
信じても
信仰によって高ぶるなら
それは信仰とは呼べないだろう
 
信じる者は救われる
ではなくて
低き者は
魂の砕かれた者は救われる
ということかもしれない・・
 
 
(2016年04月28日、同日一部修正)
 
疎か(おろそか)
 
 
   衰弱 (旧作再録)
 
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
(96年、またはそれ以前、再録)
 
 
私たちが祈るべきは
 
奇跡を起こされる神を信じて讃美します
 
ではなく、
 
神のなさる奇跡や超常を
人間であるために理解できず
信じることの出来ない私たちをお赦しください
 
ではないのか
 
・・それが信仰ではないのか・・
 
 
(2016年04月28日)
 
 
 
 

 
  奇跡を信じ込む?
 
 
私たちは聖書から
魔術を受け取るべきだろうか
 
私たちは魔術や
人知を超えた奇跡に親和するように
出来ているだろうか
 
奇跡だ、奇跡だ、これが神の業、と言って
人知を超えた奇跡を信仰の中心に据えて
それを受け入れるのが信仰だと言う者は
人知を超えた、と今言ったことを
どう受け取り得たと人に言うつもりだろうか
 
何も分かっていないから
同じ言葉を繰り返しているだけなのに
それを讃美し続ける者の話が
どうやって愛と赦しと救いの
感動に変わるというのか
 
空を眺めながらずっと
聖書のマナの降ってくるような救いだけを
口を開けて待っていろ
それが神から受ける救いだと言うのか
 
人間らしい知性と感性を等閑にして
奇跡ばかり強調して
奇跡でない人間の気持ちを
まるで汲み取ることの出来ないような
魔物になるのが信仰だろうか
 
救いはいつも
分かったふりをしないといけない奇跡だ
とでも言うのだろうか
 
私たちは人間であり
人間として生きたいし
人間として理解したい
ということが分からないのだろうか
 
理解できないことを
理解できないと言わずに
受け入れ、受け取ったと言うのは
人間らしい受け取り方だろうか
 
神は
人が超常に住めないことを知らない
とでも言うのだろうか
 
 
※ 
 
聖書には
奇跡も全能も理解しないまま
当時の救いの筋書きなど知らないまま
目の前にいるキリストに
恥ずかしい自らをさらすことで
救われた人たちの話が載っている
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18408774.html
 
 
※ 
 
信じても
信仰によって高ぶるなら
それは信仰とは言えないだろう
 
信じる者は救われる
ではなくて
低き者は救われる
また
魂の砕かれた者は救われる
 
ということかもしれない・・
 
 
私たちが祈るべきは
奇跡を起こされる神を信じて讃美します
ではなく
神のなさる奇跡や超常を
人間であるために理解できず
信じ込むことの出来ない私たちをお赦しください
 
ではないのか・・
 
 
(2016年04月27日、同日一部修正)
 
業(わざ)
等閑(なおざり)
 
 
 
 

これから3日ほど、似たようなテーマで・・
 
 
  万人救済?
 
 
キリストは罪人に対して
言い換えると低き人々に対して
惜しみない慈しみをもって
救いと癒しを与えた
 
一方
パリサイ人など
罪を認めない者に対しては
一切妥協しない厳しさをもって
偽善者に対しては
「行ってしまえ」とさえ言っている
 
パリサイ人がなぜ生まれたのか
それは神の秘密である
 
洗礼を受け
日々神を讃美しておれば
救われるだろうか
 
例えば私について
私がパリサイ人やユダのように
反キリストとして定められているなら
やはり私は滅びるだろう
 
こういうことをキリスト者は
あまり考えないだろうし
救われる気持ちで信仰を持っているのに
滅びる定めを考えるのは酷かもしれない
 
なぜ滅びる定めを持って生まれるのか
それは神の秘密である
 
ただ恐らく滅びる者は
聖書とキリストの教えを信じますと言いながら
心の中では最初から自分を高めるように
歪めて改竄して受け入れているのだろう
 
またキリスト者は救われ
そうでないものは滅びるという考えにも同意しない
 
キリストに救われた人たちは
キリストの意思を理解したわけではなかった
というより
キリストの理解者は一人もいなかった
と言うべきだろう
 
キリストに救われ癒やされ義とされた人たちは
キリストの民に相応しい低さを持っていたのである
 
教会で育った信仰も
教会の外で育った信仰も
それぞれの環境で一面的な自己満足になりやすい
 
特に教会の縛りは
牧師を聖職者とする特殊な環境において
高い所から下に教える立場を守るために
笑えない様相を呈している可能性がある
 
本当の信仰は
教会の外で生まれるかもしれない
と言うのは
 
先の者が後になる
というキリストの言葉を考えてみるのである
 
教会で育った信仰が
後になる民を生み出すことを
また救われない者を生み出すことを防ぐには
教会で
教会外と同じくらいに
忌憚のない自由な発言が許容され
議論と批判の場が用意されるか
教会の牧師が
教父ではなく同じ人間という地平に立ち
分からないことを分からないと言えるようになり
ときには信徒よりも低く地を這うように
身を低くすることが必要だ
 
 
※ 
 
万人救済を唱えて安心させるより
罪びと、低き者、弱き者、
という立場の問題の存在を明らかにするために
また問題と意識を共有するために言うべきである
 
お前こそ滅びる定めなのだ!
信仰を荒らす者だと言う者に対して
 
私は滅びるかもしれないね、君はどうなんだい
 
 
(2016年04月26日、同日一部修正)
 
改竄(かいざん)
縛り(しばり)
 
 
 
 

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