ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年05月

 
  批判してきたこと
 
 
「神と人の関係が
 イエスの十字架の死とよみがえりによって回復されてはじめて
 神を見失った人の心の不安は神からの平安と回復され、
 人と人、人と自然との関係も回復されるのです。」
 
このような記事を自分が書くことを考えると、教理の丸写しで、あまりにベタで、ありふれていて、美味しいことだけ書いている印象を受けるので、書きかけても途中で止めてしまうだろう。やはり私は、自分で考えたことや、自分の経験で生きたことを書きたいと思うからだ。
しかし、私が批判する理由は、ありふれた記事の内容ではない。このような記事は、クリスチャンのブログには、感謝と讃美とともに、しばしば見られることだ。
 
罪の意識がなく、罪人の自覚もなく、悔い改めの必要も感じないで、
キリスト信仰はあり得ないと思う。
 
いったい誰が、神に向かって、自分は罪がないなどと言えるだろう。
 
ヨブも、ダビデも、ペテロも、パウロも、皆、悔い改めを通して信仰を回復した人である。
 
キリストは罪人の救いを宣べ伝えた。罪がないという者を厳しく批判した。
 
信じる者は、皆、神そしてキリストの赦しが必要なはずだ。何に対する赦しであるか。人自らの罪の赦しである。それが信仰である。キリストの愛も厳しさも弁えないキリスト信仰はあり得ない。
 
救われたと信じるの甘さというだけでなく、そこに尊大に凝り固まり、他者の言うことを意に介さず、まともな信仰を持っている自覚だけが、状況に関わりなく、不変の信仰、というより、不変の権威で、人に信仰を語り、不変の平安を語り得たつもりでいるなら、そういう信仰の話を聞かされる側は、堪ったものではないのであり、ましてや、そういう信仰を、自我が弱いゆえに、鵜呑みにする人が、同じような自己完結と自己満足のの平安と、さらに権威を持ってしまうなら、それは悲劇と言う他はないのである。
 
聖書は解釈次第で、いかようにも歪曲が可能なほど多様な表現で書かれている。そこにキリスト教の怖さがある。
 
罪は苦しいが、キリストに救われて、罪もなくなり、間違いのない平安に暮らすことが出来る、という信仰は、キリスト信仰ではないと思う。何故なら、そのようなことを語る人を見て、平安よりも、安易な安穏の思い込みを見ることが多いからである。
 
言論の人として表現を工夫して信仰を言葉に表すかどうかは、神に与えられる役割つまり使命はそれぞれ違うということもあり、誰もがそうするべきとは言わないが、信仰は、決して揺るがない平安を得るために誰にも負けない不動の聖者になることではない。
 
キリスト信仰は、罪からの解放であっても、罪がなくなったから解放されるのではない。キリスト者は、罪について深く自覚して、生き方を学んでゆく道を選ぶ人々である。キリスト者の歩みと成長は、キリスト者である自分を自覚するときに、その都度に始まるのだから、そこで人間性の翼を広げて、多くを感じ取り、多くを考えてほしい。そして、その思いを、祈りにおいて、正直に神に捧げてほしい。それが、信仰による解放であり、絶対孤独の闇からの解放である。
 
私たちは、人間である。それ以上でもそれ以下でもない。
 
 
(2016年05月31日)
 
尊大(そんだい)
堪る(たまる)
翼(つばさ)
鵜呑み(うのみ)
 
 
 
 

 
  はかる
 
 
ガチガチの
物差しで測るような
格子を組み立てるような
三角定規を並べるような
「ならば」「ならば」で
組み立てられた枠によって
理解を定義する者は
 
それが成り立たないと言われても
分からないと言わずに
相手を否定して
感動とは無縁に
人の気持ちを測ることが出来ずに
レッテルを貼り付けるだろう
 
それが成り立つと思ったら
分かりましたと
うわべだけのお世辞にさえ騙されて
感動とは無縁に
悪意を測ることが出来ずに
真実を見逃してしまうのだろう
 
そこに欠落しているのは
共感という情緒的心性である
 
自分の物差しが他の人々に通じず
理由が分からないで
不満になり突っ張った結果
薄情だとか奇人変人だとか言われると
 
孤独の王国を作るしかなくなって
人を貶めるために
謀るしかなくなるのだろう
 
冷たい人、コールドハート、
冷血漢、などと呼ばれる人は結局
自我の弱い人を見つけて
隷属させて頷かせ
自分を高めたつもりの人生になるのだろうか
 
それほどに共感性は大切で
その有無が人間性と離人を分ける
 
と言ってよいとさえ思えるくらいだ・・。
 
 
(2016年05月30日)
 
理解は理屈ではない
という、前にも書いたことです・・。
 
はかる
(計る・測る・量る、計る・図る、謀る)
騙す(だます)
貶める(おとしめる)
隷属(れいぞく)
頷く(うなずく)
 
 
 
 

 
  悪魔
 
 
神を信じることで
神に近くなったと誇る人がいる
 
神を信じることで
神の正しさの決めつけで
自分の悪に気づかないまま
正義の味方の絶対から
他者の是非ばかり語る人がいる
 
これらのことは人に
稀ではなく起こっている
 
人が悪魔になるのではなく
悪魔は常在菌で
まるで人の一部のように常在している
 
神よりも人は
悪魔と親しいかもしれない
 
神よりも人は
悪魔にしばしば会っているかもしれない
 
神よりも悪魔は身近にいるかもしれない
 
人は悪魔には勝てない
 
悪魔は人よりも人を知っている
 
悪魔は人よりも神を知っている
 
悪魔の世界もまた超常だ
 
悪魔に勝てるのは神だけだ
 
神の実在よりも人は
悪魔の実在を感じることが多いかもしれない
 
悪魔は神の知恵を
すり替えて利用するかもしれない
 
ときにそれに
信仰という名を付けるかもしれない
 
神の御心だと人が思いそうなものを
悪魔は容易に似せて作るだろう
 
いつでも働けるように悪魔は
人に常駐して潜在している
 
人は悪魔との戦い方を知らない
 
完全な正義は神だけのものだから
人は完全な正義の立場に立てない
 
不全の人は完全を目指すのではなく
完全の神の存在を待ち望んで
結果を任せて努めるだけだ
 
神を信じることで
自らの低さを覚えるべきだ
 
神を信じることで
自らについて考えるべきだ
 
神を信じることで
赦しと導きと裁きを神に任せて
人は努めてゆく以外に何が出来よう
 
そこに悪魔がいるなら
人の思いの他であるなら
 
最後には祈りだけが残る
 
 
(2016年05月29日)
 
かなり比喩的に書いています・・。
 
稀(まれ)
常在(じょうざい)
常駐(じょうちゅう)
 
 
 
 

 
  倍数判定の基本から
 
 
7の倍数判定については、
一の位から、桁の数値に、
1,3,2、-1、-3、-2、を掛けてゆく方法を
下記に示した。この6つの掛ける数は、循環する。
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18488369.html
比較的に覚えやすいので、まあ、使えるかと思う。
 
今回は、私が考えたことではなくて、ネットから学んだことですが、
もっと一般的な考え方があるようです。結構、私としては
興味深かったので、分かった範囲で記しておきます。
 

(n+1)桁の整数Aは、AnAn-1・・・A3A2A1A0、
  =An×10^n+An-1×10^(n-1)+
    ・・・+A3×10^3+A2×10^2+A1×10+A0
  =Σ(An×10^n)  と表される。
 
私の方法と違って、
もっと一般的に、一桁ずつの余りを足してゆく方法である。
 
そこでは、まず位を表す10のn乗、つまり、10^nを
1,10,100,1000、・・
つまり、10^0,10^1,10^2,10^3、・・を
それぞれ7で割った余りを求める。
 
そこで例えば、1000を7で割った余りは、
100を7で割った余りに、10を7で割った余りを掛ければよい
と言うようなやり方で余りを求めてゆく。
 
10^(k-1)=7M+a、10=7+3、とすると、
これらを掛けて、10^k
   =10^(k-1)×10=(7M+a)(7+3)
   =7^2×M+3×7M+7×a+3a
   =7の倍数+3a、となり、余りは、3a、から求められる。
つまり、10^kを7で割った余りは
 10^(k-1)を割った余り×10を割った余り3
  =3a、で求められることが分かる。このことを使って、
 
1は、7×0+1として、余りは、1
10は、7+3として、余りは、3
100は、10で割った余りを2回かけて、3×3=9=7+2、余りは、2
1000は、
 100で割った余り×10を割った余り=3×2=6=7-1、余りは、―1
10^4は、
 1000を割った余り×10を割った余り=(-1)×3=-3、余りは、-3
10^5は、
 10^4を割った余り×10を割った余り
  =(-3)×3=-9=-7-2、余りは、-2
10^6は、
 10^5を割った余り×10を割った余り
  =(-2)×3=-6=-7+1、余りは、1
10^7は、
 10^6を割った余り×10を割った余り=1×3=3、余りは、3、となり
 
余りが、1、となった時点で、そこからは、
計算過程が同じなので、1,3,2、-1、-3、-2、を繰り返す
ということが分かる。
 
ゆえに
 整数A=Σ(An×10^n)
  =Σ(An×((7で割った商)+(7で割った余り)))
  =Σ(An×(7Kn+それぞれの桁の余り)) となるので、
 =Σ(An×7Kn(7の倍数部分))+Σ(An×余り(倍数判定部分))
7の倍数部分を除いて、
倍数判定部分である「Σ桁の数An×余り」だけを下1桁から表すと、
 A0×1+A1×3+A2×2+A3×(-1)+A4×(-3)+A5×(-2)+・・
となって、このように、
 1,3,2、-1、-3、-2、を循環して、
 一桁ずつに掛けて、それらを足して、判定することが出来る。
 
この方法だと、7の場合に限らず、
上と同様の手順で、倍数判定をすることが出来そうです。 
ネットでは、13で割ったときの判定法が載っている。

結果を言うと、13の倍数判定は、1,-3、-4、-1,3,4,1、・・となる。
1、が出たら、繰り返すので、1、-3、-4、-1,3,4、を繰り返すことになる。
少し紛らわしいが、覚えられないわけではないだろう。
循環する桁数が多くなるし、手間はかかるようになるが、
倍数判定法の基本原理として、より一般的と言えるだろう。
 
 
(2016年05月28
日)
(2016年05月29日、一部修正)
(2016年05月30日、一部修正)

 
  語るには
 
 
聖書から語れることは多いだろう
しかしそれは
「かもしれない」という思いであり
決定事項ではなく
人が考えた推測に過ぎない
 
神の絶対の言葉として
教えられるかもしれないが
神の絶対は地上の言葉では語れない
 
神が施した神事も
人は人の世界の人事としてしか受け取れない
 
私たちが聖書から
また信仰生活の経験から語れるのは
神の力と恵みと試練と導きから
人の世界が受け取ることの解釈であり
人事を超えるものではない
 
私たちは
神の聖なる領域を
正確に語れる能力も言葉も持たない
 
神がどのように導き
どのような奇跡を与えたか
正確に語ることは人には出来ない
 
私たちは
ただそっと差し出すように
人の信仰の思いを語るのである
 
驚くべきことが起きたと
もし語りたいなら
「ひょっとしたら・・かもしれない」
といった推測や
考察や仮説を語ることは出来るが
 
「かもしれない」
と書いたように人には
神を確信を持って具体的に語れる言葉はない
 
驚くべきことを
奇跡と断定した途端
人は自ら
神を理解できる
という傲慢を纏うことになる
 
神の意志と行為を
人が確定して語るのは罪であり
神が分かる・・の延長は
これが神の意志だと言うことで
罪だけでなく偽善やカルトに
結び付きやすいことを知るべきだろう
 
人事を超えてはいけない
 
折に触れて自ら戒めるべきである
 
神の名をみだりに唱えてはならない
 
一方例えば
聖書の解釈について
宗教と信仰の諸問題について
信仰生活や信仰者の規範について
語りたい人は
語ってよいというより
語り合うべきだと思う
 
神聖を思い
信仰を語り合い
人間性が事を判断してゆく
 
結果が良くても悪くても
その経過は祈りとともに
神の御前に捧げるべき日々の収穫である
 
 
(2016年05月28日)
 
人事(じんじ)
途端(とたん)
傲慢(ごうまん)
纏う(まとう)
規範(きはん)
 
 
 
 

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