批判してきたこと
「神と人の関係が
イエスの十字架の死とよみがえりによって回復されてはじめて
神を見失った人の心の不安は神からの平安と回復され、
人と人、人と自然との関係も回復されるのです。」
このような記事を自分が書くことを考えると、教理の丸写しで、あまりにベタで、ありふれていて、美味しいことだけ書いている印象を受けるので、書きかけても途中で止めてしまうだろう。やはり私は、自分で考えたことや、自分の経験で生きたことを書きたいと思うからだ。
しかし、私が批判する理由は、ありふれた記事の内容ではない。このような記事は、クリスチャンのブログには、感謝と讃美とともに、しばしば見られることだ。
罪の意識がなく、罪人の自覚もなく、悔い改めの必要も感じないで、
キリスト信仰はあり得ないと思う。
いったい誰が、神に向かって、自分は罪がないなどと言えるだろう。
ヨブも、ダビデも、ペテロも、パウロも、皆、悔い改めを通して信仰を回復した人である。
キリストは罪人の救いを宣べ伝えた。罪がないという者を厳しく批判した。
信じる者は、皆、神そしてキリストの赦しが必要なはずだ。何に対する赦しであるか。人自らの罪の赦しである。それが信仰である。キリストの愛も厳しさも弁えないキリスト信仰はあり得ない。
救われたと信じるの甘さというだけでなく、そこに尊大に凝り固まり、他者の言うことを意に介さず、まともな信仰を持っている自覚だけが、状況に関わりなく、不変の信仰、というより、不変の権威で、人に信仰を語り、不変の平安を語り得たつもりでいるなら、そういう信仰の話を聞かされる側は、堪ったものではないのであり、ましてや、そういう信仰を、自我が弱いゆえに、鵜呑みにする人が、同じような自己完結と自己満足のの平安と、さらに権威を持ってしまうなら、それは悲劇と言う他はないのである。
聖書は解釈次第で、いかようにも歪曲が可能なほど多様な表現で書かれている。そこにキリスト教の怖さがある。
罪は苦しいが、キリストに救われて、罪もなくなり、間違いのない平安に暮らすことが出来る、という信仰は、キリスト信仰ではないと思う。何故なら、そのようなことを語る人を見て、平安よりも、安易な安穏の思い込みを見ることが多いからである。
言論の人として表現を工夫して信仰を言葉に表すかどうかは、神に与えられる役割つまり使命はそれぞれ違うということもあり、誰もがそうするべきとは言わないが、信仰は、決して揺るがない平安を得るために誰にも負けない不動の聖者になることではない。
キリスト信仰は、罪からの解放であっても、罪がなくなったから解放されるのではない。キリスト者は、罪について深く自覚して、生き方を学んでゆく道を選ぶ人々である。キリスト者の歩みと成長は、キリスト者である自分を自覚するときに、その都度に始まるのだから、そこで人間性の翼を広げて、多くを感じ取り、多くを考えてほしい。そして、その思いを、祈りにおいて、正直に神に捧げてほしい。それが、信仰による解放であり、絶対孤独の闇からの解放である。
私たちは、人間である。それ以上でもそれ以下でもない。
(2016年05月31日)
尊大(そんだい)
堪る(たまる)
翼(つばさ)
鵜呑み(うのみ)