ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年05月

 
  その名は不安から
 
 その名は不思議
 不安から平安への招待
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27480820.html#27480820
   の未承認コメント。一部、語句の適不適などで、若干編集してます。
 
 
シャロム氏は、聖句と、信仰の美辞麗句を並べることが、信仰だと思っているようです。それだけは、これでもかと、牧師だから出来るというわけです。事実の経過を知っている者としては、そういう記事を見れば見るだけ、彼の白々しさが明らかになるのですが・・。今回は、前から似たようなことではありましたが、彼の放つ聖書語が、彼を斬っている有様です。
 
小細工で批判があることを隠すという偽善を行いながら、記事では福音すなわち信仰の善き訪れをやさしく語ることが、いかなる根拠なのか、できると思っていて、乖離による離れ技をやってのけている人です。
 
以下、コメント欄(未承認コメント)
 
 
私は、いくら悪人と呼ばれてもいい。あなたが、善なるキリスト者と呼ばれることがあってはならない。
 
>彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。
 
今起こっていることは、あなたが偽善に走ったことから始まっている。それは、事実を知る者にとって、必然である。神の裁きを、人がいかに知らないで生きているか、という実状でもある。自己中心の正義に嵌ってしまった者は、全ての忠告も批判も、悪に見えるのである。
 
>人々はそのおこないが悪いために、
>光よりもやみの方を愛したことである
 
まさに、あなたのことである。
 
>悪を行っている者はみな光を憎む
 
まさに、あなたのことである。
 
>そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない
 
まさに、あなたのことである。
 
こんなにもぴったりと当てはまるのに、本人だけがそれを知らない。
 
>神との良い関係に生きる者は、たとえ思わぬ出来事に見舞われても、
>罪に縛られた運命論などに陥ることなく、
>神の愛の中に希望と平安を受け取っているのです
 
神との良い関係を捨ててしまった者は、たとえ思わぬ出来事に見舞われても、
罪を知るべき新約など意にも介さず、狡猾な蛇の穴に陥って、
蛇しかいない洞窟の中に、策謀と蔽目だけを自らめぐらしているのです。
 
>神と人の関係がイエスの十字架の死とよみがえりによって回復されてはじめて
>神を見失った人の心の不安は神からの平安と回復され、
>人と人、人と自然との関係も回復されるのです。
 
まさに、あなたが出来ないでいることである。
 
あなたが聖書を自分のいいように解釈して、自分が何をしようと救われ、罪などない、という、自分中心の軸を作ってしまう無罪信仰に陥って、神と人、人と人、の関係を台無しにしたので、自己
の正当を主張して、多数を欺こうとしても、その言葉が逆に、あなたの暴虐ぶりを表すという悪の蟻地獄に、あなたは気づかぬうちに、嵌って、それを信仰の平安だと、うそぶいている。
 
回復されるべき関係が、あなたにおいては、相手のお世辞と頷きによらなけらば満足できないことによって、集まる人にも社交の気遣いしか出来ず、本当の付き合いなど出来たことはなく、しかも、あろうことか、その偽りの付き合いに満足するようになり、その偽りがそのまま、あなたの、自分をよく見せるために、反対意見を削除、または、隠蔽する、という偽善に表れ、それをさらに隠蔽しながら、悔いることのない僻みと敵意の信仰が、神の御前に明らかになってゆく。全能の神は、まさに、見ておられる。
 
まさに、あなたの言うことが、まだ終わらない、あなたの地獄を語っている。
 
すべての言い訳は、神が先んじて、すでに、ご存知である。あなたは、神を見くびった。また一つ、日ごとに、あなたの罪と偽善が、積まれてゆく。
 
隠されたものが、明らかになる日を、あなたは恐れないのか。
 
私は、いくら悪人と呼ばれてもいい。あなたが、善なるキリスト者と呼ばれることがあってはならない。
 
あなたのような的外れに対しては、私は持てる力を尽くさねばならない。キリストは、暴力の主ではなかったが、パリサイ人を批判するとき、決して手加減はなさらなかった。私の持てる力とは、信仰による信仰の言論である。私は非力だが、私が潰えても、終わらない。あなたは、とんでもない御方を敵としているからだ。信仰の残された情熱は、キリストを望む情熱である。人間としての自分を犠牲にして悔いないところの情熱である。これは、あなたのセメントで固めたような信条とは違い、キリストによって培われた信仰の情感という人間性によらなければ、あり得ないものである。あなたは、信仰を取り違えた。あなたは、人間性を取り違えた。あなたは奇跡を取り違えた。人を人間にする人間性は、まさに、人でなしを人間に育てる奇跡であり、人間にとって、これ以上の奇跡はないのである。
 
あなたにとって、個人と信仰は、人それぞれという詭弁だから、いっしょかもしれないが、個人が自分をよく見せるために、あるとき言ってしまった嘘とは決定的に違います。信仰というテーマは、誰が何を言っても、公の義、という公共性を持つのです。個人の秘密や嘘と、並列して考えることは決して出来ません。
 
 
(2016年05月27日、同日一部修正
 
嵌る(はまる)
頷き(うなずき)
隠蔽(いんぺい)
僻み(ひがみ)
蔽目(へいもく)
 
 
 
 

 
  ちから
 
 
信仰は
真面目に、真剣に、と思いつめて
我こそは、と気負ってしまうと
尋常ならざる道場に
目を剥いて張り詰めて身構えて
ふるえてしまいそうです
 
リラックスして
柔軟に柔和に対応する
というのは
力を入れないことではなく
無駄な力を抜くことで
信仰でもスポーツでも似たような
生き方のテーマになるでしょう
 
信仰者にとって
信仰生活は日常であり
不要な力を抜いてくれる尋常であるはずで
そこで自由に考え行い
そこに温かい情感を失わないことでしょう
 
収縮すれば
次は弛緩があって
また収縮が可能になります
 
その経過は全体で
伸び伸びとか生き生きとか言います
 
信仰に余計な力は要らないから
信仰は
緊張や硬直ではなく
バネの弾力を喜び楽しむことです
 
ときにカルトの宣教の
目を見開き
薄笑みを浮かべて
一方で
すぐにでも怒りに変わりそうな悟り顔ではなく
 
喜怒哀楽を感じて表し
疑問も反応も受け入れて
共に考えられる信仰の世界であってほしいのです
 
負いやすい軛と言われる信仰の節操は
圧力ではなく活性であり
抑制ではなく促進です
 
型くずれを恐れてはいけません
型に嵌った信仰は情感がありません
情感のない信仰は生きていません
 
信仰の力は温かいはずです
 
望まれているのは
生贄ではなく憐れみと言われるように
 
 
(2016年05月27日)
 
気負う(きおう)
尋常(じんじょう)
剥く(むく)
張り詰める(はりつめる)
身構える(みがまえる)
柔軟(じゅうなん)
柔和(にゅうわ)
弛緩(しかん、ちかん)
バネ(発条)
軛(くびき)
生贄(いけにえ)
憐れみ(あわれみ、哀れみ)
 
 
 
 

ひとやすみのガス抜きです・・
 
 
  もう無能 (旧作改)
 
 
丸い種はもう蒔かない
 
四角い種ももう蒔かない
 
 
実のなる木はもう見ない
 
金のなる木はすでに知らない
 
 
いっせいに飛び立つ海鳥
 
砂浜に一人
 
波が上手にさらっていく
 
足元の砂
 
踏んでいるつもりで欠けてゆく
砂の足元
 
 
光る波の一滴
 
乾いた
 
風に砂の一粒
 
去り際に払って
 
砂浜にはもう別の人々
 
 
砂をまく
 
水滴を
 
風を
 
気を
 
 
悪い種はもう蒔かない
 
木のなる実はざっくり笑って
 
果肉は誰の腹の中
 
 
かろうじて足元がある間に
 
空を仰いでいる
 
 
 
(2016年05月26日、旧作・改、投稿)
 
知識も言葉も
理解して掴んでいるつもりで
欠けてゆくものだな・・と痛感することがあります。
 
金のなる木(かねの・・)
掴む(つかむ)
蒔く(まく)
 
 
 
 

 
  心の偶像
 
 
人が神を信じることが
厳密には
できないような気がすると
いつ頃から考えるようになったのだろう
 
信仰は難しいわけではないし
何か特別の能力が必要なわけでもないのだが
 
祈るとき
神様、または主よ
と呼んでいるが
そのとき
とても優しい父のイメージだけを
心に描いているのに気づいた
 
その父は
実際の私の父と違って
いかなるときにも堂々として
私にもそうあれと
言ってくれる父である
 
その父は
世の友が私を捨て去るときも
必ず私の味方をしてくれるような
父なる神である
 
その父は
私に怒ったことがない
 
?・・・
 
思い浮かべる以上に
私にとって都合のよい神を
私は思い浮かべ
拝んでいる
 
そうじゃない
 
神もキリストも
聖書によると
優しいだけではない
 
私は
私に都合の悪い神を
懲らしめる神を思いたくなくて
無意識に除外していた
 
神は
私が思い上がったり
的外れだったりしたときには
叱って懲らしめる神であるはずだ
 
そのときから
自分に優しいだけの
慰めの神だけを信じることは
偶像崇拝だと考え始めた
 
祈るとき
心に神またはキリストを
思い描くことは避けられない
 
ならば神を
畏れ敬うだけではなく
旧約の神に対するように
恐れるべきだ
 
神を信じるということ
 
好きにやって
悔いることを忘れて
いつも安らいでいる者には
恐るべき神と
偽善に厳しいキリストが必要だ
 
でないと
神中心が自己中心になってしまう
 
生きていると
いろいろなことがあり
人を嫌いになったり
恨むこともあるが
 
そのときに
心の偶像の神では
嫌悪や恨みの感情に
神の正当性を与えてしまうだろう
 
神は直接には
姿が見えず
声を聞くこともないのだから
 
神を信じるということには
人の側に
何らかの弁えがなければ
身勝手で自己中心に突き進んで
他者も世界も敵にして
悔いない鬼になるかもしれない
それでは
信仰にならない
 
というところから始まっている・・
 
 
(2016年05月25日)
 
懲らしめる(こらしめる)
叱る(しかる)
畏れる(おそれる)
 
 
 
 

 
  改めるとは
 
 
悔い改めの
悔いは犯した罪を自覚し
神に祈り
罪を告白して赦しを乞うことです
 
悔い改めの
改めることは難しいと感じるかもしれません
 
自分の目指したことで失敗して
人を傷つけてしまったなら
取り返しのつかないこともあるでしょう
 
しかし改めるとはそういうことではないのです
 
悔い改めの
改めるというのは
この世に対してしたことを改めることではなく
神に対する態度を
もう一度、振り返って改めることです
これは新たにするということでもありますから
信仰の成長につながることなのです
 
自分に慢心があったかどうか考えるとともに
今後いっそう神のみを寄る辺にするということです
 
今までも神のみを拠り所としてきた
と言われるかもしれません
それはそうかもしれません
しかし
こういう改めは
信仰生活では日常的にすることと弁えるべきです
 
自分の信仰が間違っていることは
人間には気づきにくいことだから
常に神のほうを向くということは難しく
人間には確認することも厳密には出来ません
 
信仰生活の不断の努力によって
求め続けてゆくしかないことです
 
このように
人間は神に対して
忠実であろうと思って忠実であり得るほど
賢くはないのですから
 
悔い改めは日常の中に必要な
機会として与えられるものです
 
その機会を逃してはいけない
という自覚を持つべきことだと思います
 
それはたぶん
お赦しくださいと
お救いくださいと
祈ることと同値のような気がします
 
そうすることによって
一番するべきこともですが
せめて一番してはならないことにだけは
気づける節操を身に着けてゆけたらいいと願っています
 
 
(2016年05月24日、同日一部修正)
 
寄る辺(よるべ)
拠り所(よりどころ)
弁える(わきまえる)
 
 
 
 

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