ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年06月

 
  その名は信じて?
 
 
今日、彼が自説の正当化のために引用するのは、
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
1:18
するとザカリヤは御使に言った、
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、
妻も年をとっています」。
1:19
御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、
この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20
時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、
あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
 (ルカ1:18-20、新約聖書)
 
>時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから、と言っています。
 
>年老いた夫婦から子どもが産まれることについてわたしは信じられません。
>しかし、そのことについて主なる神が約束しておられる、その言葉は信じたいのです。
>それはわたしが主なる神を信じているからです。
 
>信仰について学ぶ人には、この違いは重要です。
>聖書の信仰とは何でも疑わずにただ信じるということではありません。
>多くの場合、語られている神のみ言葉を信じることが人に求められています。
>ですから、人には信じられないようなことが起こる場合、
>主なる神は前もってそのことを予告しておられることが多いのです。
 
ザカリヤの当惑は、人間として当然なのですが、御使いが直接言った言葉に、どうして分かるでしょうかと、異を唱えたので、物が言えなくなったという話です。神は奇跡を起こせる御方、しかし、人は奇跡をなかなか信じない性質を持っているという話でもあります。
 
さて、聖句は、神が起こると言った奇跡を信じなかった、という罪のようですが、比べてほしいのです。神が起こるとも授けるとも言っていないことを、聖書の浅薄な知識から、分かる、信じる、そして言い張って悔い改めないならば、どちらが罪は重いでしょうか。後者は、神の言動を捏造する行為なのです。
 
私たちは、神に対して、思っているよりもしばしば罪を犯していると思います。その罪に対して、少なくとも気づいた罪に対して、祈りと告白と悔い改めによって、赦しと救いをいただく、というのが信仰です。聖書は、それを新しい契約として約束しています。
 
奇跡を信じなければ永遠に救われないとは書いていません。罪ならば、救いの道があるのです。悔い改めの道は、常に用意されているのです。今ここに、悔い改める気の全くない者が、奇跡を信じると言っていて、一方で偽善を続けているとしたら、その者は、同じ信仰者として認められていいのでしょうか。批判されることは何もないのでしょうか。罪と偽善を告白して、やり直さなくても、今言っていることを続けるだけでいいのでしょうか。ザカリヤと違って、奇跡を信じているから、偽善者でも、神は、義を与えるのでしょうか。もし信仰が彼の言う通りなら、私は決して信仰者にはなっていないし、生きていたくもないし、実際、もう死んでいるでしょう。
 
この記事を書いた彼は、御使いにでも、前もって、何かを告げられたのでしょうか。彼が、信仰の伝道者か、預言者にでもなって、神の御旨を成就するから伝えよ、とでも教えられたのでしょうか。そして、コメントで批判をブロックしたり、削除したりして、彼に都合のよいように、つまり彼が、自分は批判されることは稀で、批判されたときも、ちゃんと弁明して、批判を退けている、というように見せかけるようにしなさい、それをしても罪にはならない、何をしても罪にはならないよ、とでも、告げられたのでしょうか。おかしいでしょう。
 
神の御使いが、偽善によって神に背いてもいいよ、などと教えるはずはないのです。もし彼が、このことを持ち出して、自分は悪いことなどしていない、と言うのなら、彼は、神と御使いで教えが違ってもいいと思っていることになり、自分は、神ではなく、御使いにつく、と言っているようなものであり、それは、そのまま、神が唯一であることを信じていないことになります。(ここは、理屈を言えばの話です・・)
 
自分を何とかして聖化しているように見せかけようとする偽善者は、手段を選びませんし、聖書の悪用も遠慮なしに行う、ということを示しています。前にも書いたことを、また持ち出して言うのは、彼が、何度でも言うが、自分はこういう聖なる者だぞ、頭が高い、とでも言いたいのでしょうか。
 
彼が、何かのお告げを受けたという話は、聞いたことがありません。しかし彼は、自分の言うことを、啓示だ、啓示だ、啓示だから議論無用だ、と繰り返し言い張ってきました。そして、彼は、コメント欄を閉鎖して批判を全く受け入れず読まないし聞かないが、自分の言うことは啓示だから聞いて従え、と書き続けているのです。彼は偽善者ぶりだけを発揮してきたのです。お告げつまり聖なる啓示を受けるのに全く相応しくない偽善行為を今も日常的にやっています。
 
批判も忠告も聞く必要はないが、人々に言う必要はあると、彼は、自分で書けないものだから、他者の記事から、自分に言葉面だけ似ていて、利用できる記事を、自分のために引き合いに出すことには熱心なようです。弁明も反論も出来ず鋭い感性の洞察も出来なくなった彼は、これからも、あらゆる手段を講じて、今までと同じように、超常崇拝の、婉曲的で、慇懃無礼で、正面を向かないで済む話を、讃美として、聖書から、他者の意見から、でっち上げてくるでしょう。その都度、讃美でも何でもない、彼の自己防衛という実質を見逃さないようにしたいと思います。
 
>私たち日本人の宗教、信仰についての考えは
>聖書によって証しされている生ける神に対する信仰とは異なるようです。
>決定的な違いは神の啓示に対する信仰か、
>人によって作られ、言い伝えられたものかの違いのようです。
 
(言い換え)彼の信仰観は
聖書によって証しされている生ける神に対する信仰とは異なるようです。
決定的な違いは、彼のように、説明できなくなると、神の啓示だと言い張る信仰で、
彼によって作られ、我執によって言い広めようとする性質のもの、という違いのようです。
 
聖書による、と彼は言っていますが、その聖書が解釈次第であること、そして、彼のように、人間であることを弁えずに、自分が気に入るように、超常の話として、およそ人間離れした解釈をして、しかも、自分の解釈に過ぎないのに、それを絶対として、神の啓示だ、啓示だ、と言い張る、という人間としての身の程を弁えない信仰観を語っています。
 
神の言葉に対して、人は、人の言葉を一対一で対応させることは出来ません。そういう、人の、神に対する低さというものを、全く無視するところから、文字通りを絶対としたり、自分流の解釈傾向を絶対としたりすることで、熱すれば熱するほど、信仰を守ろうとすればするほど、項が固くなって、どうしようもない繰り言になる信仰が生まれてくるということです。
 
何故、自分の不完全で貧相な世界観を、そのまま神と信仰の世界に当てはめて、通用しない信仰観を、繰り返し吹聴して悔いないのでしょう。それは、神の啓示だから、と信じてしまった時点で、そこを絶対不変と定めてしまったからです。絶対不変は神の性質であるのに、人が思い上がって人の世界に当てはめてしまうと、もっともっと考えることが、人からも聞くことが必要なのに、絶対不変の信念と安易な平安気分を保つために、絶対不変だからこそ成長も進歩もしなくなる、という殆ど病気か障害に似た様相を呈してきます。
 
 
狭き門はそれでも、いつでもフルオープンで用意されているのに、
 
内側の、夥しいクモの巣や、どす黒い闇や嫌がらせのあとを隠して、
外に向かって、広き門を開け、
門を飾り、ポスターを張り、宣伝することをやめない人・・・
 
 
 その名は不思議
 信じて生きる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27551578.html
 2016/6/30(木) 午前 10:56
 
 同じ内容の記事:
 何を信じるのか 2015/12/21(月) 午前 11:31
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27146752.html
 何を信じるのか 2014/12/31(水) 午前 9:13
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26265297.html
 
 見ることがあっても、
 うわべの丁寧さを、柔和、親切、と勘違いして、
 うっかり関わってしまうと、
 人間性などには共感しないと言う偽善者の
 訂正不能の信条によって、実は成長不能を広めるばかりで、
 新鮮な感性も知性も失わせる固着宗教だと思うので、
 決して好意的に関わらないでほしいサイトです。
 
 
(2016年06月30日)
 
弁える(わきまえる)
項(うなじ)
繰り言(くりごと)
捏造(ねつぞう)
御旨(みむね)
婉曲的(えんきょくてき)
夥しい(おびただしい)
 
 
 
 

 
  恐れよ
 
 
懲らしめる神を信じていない者が多い
 
神への畏れは
ときに神への
震えるほどの恐れである
 
畏み敬い讃える神への信仰は
いずれ神の恐ろしさを忘れる
 
神に比べれば
私たちは一本の髪の毛のようなものだ
 
天と地を造り
人を造った神は
人を滅ぼすことなど造作もないはずだ
 
神は
人を滅ぼさないと言ったか
 
救いの条件としての
滅ぼさない約束は
神を信じる限りにおいてだ
 
神は
その民を殺さなかったか
 
聖書を読めばそうではない
 
人はいつも正しい信仰を持っているか
 
聖書を読み
人を見ればそうではない
 
人が神に背く
これは古きより人の属性である
 
ゆえに人は反逆の民である
 
神は人に何をせよと
その都度に語ることをしない
かつ
人は何をするかを
大方自分で判断している
 
ゆえに人は反逆の民である
 
背かぬことより
背いたときに気づくことが大事だ
 
ゆえに人は信仰において
いかなる麗しき平安も
言葉によって固定できると思ってはいけない
 
決して人の自在の所有にはならない
という最たるものが信仰である
 
神の名をみだりに唱えてはならないとはこのことである
 
信仰の節操とはこのことであり
 
まさにこの弁えがあるかぎり
信仰の救いに与るに必要十分であり
これがなければ信仰は成り立たないということだろう
 
神の名を唱えて
神を優しい父とだけ信じる信仰の平安は
何をしても救われるという自分信仰に陥りやすい
 
懲らしめる神を信じないで
愛してくれる神だけを信じるのは
神の全能を人が限定する行為だ
 
恵みには試練を
愛には戒めを
反逆には懲らしめを
どちらも受けて学び生きて成長するのが信仰である
 
懲らしめる神を信じなくなりやすいのは
むしろ人の属性であり
 
信仰は人の自在とならないことだから
神も信仰も決めつけてはいけない
私たちは
神を理解したからではなく
ただ神への思いによって生きている
 
反逆の民であることを心得ず
悔い改めを覚えずに
取り違えて
神の名によって偽善と悪を働くことにならないために
 
悔い改めることのできる人間でありたい
 
パリサイ人の讃美の祈りより
取税人の赦しを乞う祈りのほうが義とされるのは
まさにこのことである
 
私たちは取税人と同じように赦されたい
 
最後には祈りしかないが
神と人の違いを弁えたいからだ
 
私たちはパリサイ人のように悔い改めない反逆の民ではなく
取税人のように悔い改めて赦されたいからだ
 
 
(2016年06月30日)
 
懲らしめる(こらしめる)
畏れ(おそれ)
恐れ(おそれ)
畏む(かしこむ)
敬う(うやまう)
讃える(たたえる)
与る(あずかる)
 
 
 
   不信仰告白
      (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(96年、またはそれ以前、再録)
 
 
 
 

 
  その名は御霊?
 
 
自分の解釈に凝り固まって、自分の罪や偽善さえ見えなくなった者は、批判されても悪口しか返せず、しまいに黙って批判コメントを削除するしかなくなり、自分で書けなくなったら、今度は、信仰の話も転載記事を載せるようになったようです。ここに表れてくるのは、彼は、自分に都合の良さそうな記事を探して、その真意が何であれ、都合が良いと思ったら載せて、神からでも、自分ででもなく、とうとう他者の記事によって自己正当化を謀ると言うことです。
 
今回聖霊についての記事を載せています。勘違いする者にとっては、いかようにも利用できそうな記事です。そして彼は、まさに、その通りだ、とでも言いたげに、自らの罪や偽善を反省するのではなく、相変わらず、自己正当化を主張して止まないのです。
 
それこそ、いかようにも利用されやすい記事だと思います。こういう記事を書くから、キリスト教は、カルトが生まれるのを防ぐことができないでいるのでしょう。
 
>神は私たちを御前で聖く、傷のない者とし、ご自分の子とし、
>御子のかたちと同じ姿とすると定めておられる。
>そのためにすべてのことを益とされる。
 
危険だと思いませんか。そうだとばかり自分を御子と同じかたちで、何をやっても益とされる、と言い出したら、もうその人を止められないでしょう。こういう断定だけ書くことが、いかに危険かを知ってほしいと思います。
 
 (コリント人への第2の手紙、口語訳)
3:17
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。
 (2コリント3:17-18、新約聖書)
 
これは、神の新約についてのパウロの説明です。すぐにでもそうなってゆくのが分かると言うわけではありません。勘違いも曲解もあるわけです。それを、聖霊体験によって証明されたとばかり、
 
>聖霊は私たちの内側から、聖めてくださいます。
>天国に行くまで、栄光から栄光へと変えられていきます。
>御霊の変化とは、輝きが内側から外側へとあふれてくる変化なんです。
>「主の御霊がうちで働いてくださるにつれて、
>私たちはますます主に似た者となるのです」とあります。
 
変えられたと、どうやって分かるのでしょう、主に近くなったと、どうやって、分かるのでしょう、いったい、いつ分かるのでしょう。その者が、私は聖霊によって変えられた、と言ったときでしょうか。もしそうなら、信仰者は、信仰を誇るとき、主に近くなる、と言ってるようなものです。これだけでは、まるで、自分信仰やカルト化への道を開いているようなものです。そして、このような記事を、彼のような自分信仰者は求めているのです。この記事は思慮を欠いていると言わざるを得ません。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
3:9
互にうそを言ってはならない。あなたがたは、
古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10
造り主のかたちに従って新しくされ、
真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11
そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、
スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
 (コロサイ3:9-11、新約聖書)
 
この聖句は、キリストによって、旧き世の掟に縛られない、新しい自由の人になったことを伝えています。そして、あらゆる差別からも自由になったと伝えています。
 
>これが神のみこころであり、御霊の働き。
>救いの栄光からキリストの姿へと変えてくださる、
>イエス・キリストの人格を持った者となるとの約束。
>神は私たちを日ごとに新しくされていくと語られる。
 
「救いの栄光からキリストの姿へと変えてくださる」「イエス・キリストの人格を持った者となるとの約束」・・これらは、暴言に近い。いつそうなる、とか、どうやって分かる、とか、全く書いていない。人知の及ばない神の領域に人が等しくなると言っています。殆ど、自分は神になる、と言っているようなものです。実際の人の姿、現実の問題、罪と偽善のこと、何も書かずに、言ってよいことではありません。言ってそのまま信じれば、日ごとにモンスターになってゆきます。
 
神になりたがる人が多いこの地上で、このような文言を最も喜ぶのは、カルトでしょう。そういう人が、こういう記事を悦んで転載するのです。そういう人を批判しています。
 
超常のことばかり考えて、超常のことばかり書いて、現実離れしてゆくと、勘違いを聖化と思い違いやすく、目に見えて聖化されてゆく実感と裏腹に、実際は、自分の目にだけは見えない、神の奇跡の聖霊の、と語りながら、人間の気持ちの分からない人になってゆくのです。
 
>私たちの努力ではない。私たちには、何も良きところがない。
>ただ、御霊がなそうとすることに、こころを向ける、
>そのところに御霊が私たちを新たにすることを喜び、感謝していく。
>これが私たちの最善。今日も御霊の支配と取り扱いに、
>働きにより頼み、信頼して、御霊に明け渡し歩む一日としたい
 
人には何も良きところがないと言いながら、にもかかわらず、聖霊によってオートマチックに事が運ぶような言い方です。また、御霊が為そうとすることの方向が分かるような言い方です。そして、御霊が自分を新しくすることを喜び感謝するとは、新しくなったことが分かると言っているようです。最終2行は、讃美を飾り、そのために醜く思い上がった陶酔です。
 
私たちには何もよいところがない・・こそが、信仰の原初的真理なのです。信仰を語るのに、よいことばかり言うのは、大切なことを言い得ていない証拠です。
 
説教者または発言者が、人間としての弱さの共感を持ち得ないところに、福音はありません。
 
このような有頂天説教をする人を警戒してください。この人の文章に、必要なこと、何より大切なことは、何一つ書かれていません。彼の文章と同じです。間違いやすいところについて、その違いを明らかにするという思考が欠如しています。だから、彼は転載しやすかったのでしょう。大切でない、言葉の上だけ、美味しい話を、彼は何よりも好むからです。
 
この記事のように、聖なるものを理解するように勧める説教を聞いたら、人間として、具体的に何が言いたいのか、具体的にどうすればよいのか、本物と偽物をどう区別するのか、などが書いてあるかどうかに注目してください。書いてなかったら、怪しいと思ったほうがいいと思います。人間としての立場を忘れて、聖なる境地を誇って讃美している可能性があります。
 
自分が、のぼせ上がって、いい気分になることが、聖霊体験など聖なる直接体験と思い込む性質が、人間には、しっかりある、ということを覚えてください。もし本当に人が、聖なるものに関わられたら、敬虔な信仰者が、まず、覚える感情は、恐れだと思います。聖なる御方は、人知を超えているのです。そう誰にでも簡単に、受け取りやすいものを賜るとは思えません。導きは多く、人間らしい心に響く温かいものとして響きます。
 
キリスト信仰は、人知の及ばない神を信じる信仰です。超常の夢のような記事ばかり書いて、いい気持ちになってゆくと、いつのまにか、自分が超常の世界に住んでいるような錯覚と抱きやすいのです。それが固定化してゆけば、主に近くなるどころか、主に似ても似つかぬ思い上がりに舞い上がった自分絶対正義になり、罪も偽善も見えなくなり、輝きに満たされた有頂天に浸り、実は、人間でさえなくなり、偽善が内側から外側へと溢れるようになるでしょう。主イエスを信じる人は、まず、この恐ろしさを弁えないといけません。
 
聖なる体験や啓示を肯定してしまうと、そのときから、その人の言うことは、議論無用の絶対になるリスクがあることを忘れないでください。特に聖なる体験が、謙虚とは思えない人によって、文句を言わせない高圧な態度で主張される場合、特に警戒してください。
 
聖霊体験や異言や神の啓示を強調する者がいたら、その人物を見てください。一つ覚えみたいに、盛んに言うけれど、その言動において、不一致や矛盾があって、こちらの話を聞いても何とも思っていないような、分かっているとは思えないような、はぐらかしや、隠し事や、うらおもてがあり、人に対して権威的な姿勢や態度や、慇懃無礼などあって、ろくでもない人物で、とても尊敬などできないならば、その人は、偽者だと思います。神の御心を表す言葉の真偽は分かりにくいですが、人間を生かす言葉であるか、言った人が聖なる働きを受けるに相応しいか、つまり神を畏れて、聖なる体験を恐れて、見せかけではなく、へりくだっているか、といったことで判断するしかないでしょう。
 
 
 その名は不思議
 「御霊なる主の働きに明け渡す」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27550005.html
 
 
(2016年06月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

こういうことは最後に書くべきかとも思いましたが、
最後がいつになるか分からないので
現時点での暫定的なまとめのようなものとして書いておきます・・
 
 
  伝統宗教とカルト
 
 
カルトは
新興宗教という意味らしいが
ここでは
この世離れした説を
絶対真理と生涯にわたって信じ込むこと
という意味で用いる
 
そういうカルトは
多くの場合
幸いよりも
人々と社会に災いをもたらしている
 
唯一神宗教は一般に
あるかないか分からないものを
あると思い込み信じ込み
信じたのちは
あると言う前提で生きてゆくこと
と思われている
 
だとすれば
キリスト教も他の唯一神信仰も
結局はカルトと同じ構造なのか
という疑問を考えてきて
 
私は
そういう思い込み信じ込みによって
他の考え方を排除してゆく人生が
よい人間と人生を形成するとは
現実を思えば、到底、考えられなくなって
 
そういう考え方に大いに反発して
 
少なくともキリスト信仰は
あるかないか分からないことは
分からないことをもって前提として認めたうえで
 
でも自分は
あると信じないと生きてゆけません
という切なる希望を告白することをもって
信仰告白とする
 
ゆえに信じると言う行為は
信じる対象が絶対者である場合
大方が情熱的な希望に近いことになる
 
というようなことを主張してきたつもりです
 
そのために
「人が主張する神」には
赦し、恵み、救い、いずれにも
真の神の聖なる根拠は
人が断定的に主張し得るものとしては存在せず
 
人が神を信じるとは
それらの幸いを来たらせたまえ
という
祈りの拠りどころとして神を待ち望む姿勢
以外には考えられない
ということ
 
また
唯一神を信じた原初の信仰者たちに思いを馳せれば
唯一神信仰は
彼らが命と存在を熱望するゆえに
そのためには
神が存在しない世界には人間として生きられない
という彼らの不可避の心情を信条とするものであった
であろうということ
 
神は絶対だと言う主張には多く
自説を絶対正しい
と言いたい野卑な自己顕示欲が含まれている
ということ
 
それは
神の言葉として
聖書が絶対だと言う主張でもあるが
絶対の聖書を
いかに人が恣意的に解釈しているか
という事実から
聖書が聖典であっても
聖書は解釈次第だから
絶対化することは解釈を絶対化することであり
すなわち自らを絶対化することに他ならない
ということをもって
解釈を絶対視する信仰は否定されるべきで
解釈という人の言葉は
決して信仰の信条になりうるようなものではなく
解釈は人の言葉として
人生とともに揺れ動きながら
絶対ではない人の信仰の大切な糧である
ということ
 
つまり
人の言葉は
神の言葉を表せるほど優れてはいない
ということ
 
聖霊体験などの
聖なる直接体験を主張する向きには
それによって絶対化されてしまう人
または人の主張について
必ず現実検討が必要であり
聖霊を受けた人に相応しくない言動を表す偽者を
蔓延らせてはいけない
ということ
 
以上のことをもって
 
信じれば救われると宣伝し
誰かの作った筋書きのみを信条として与えて
辻褄を合わせて理解したかのような
一時の思いを生涯にわたって
訂正不能とすることを要求するカルトと
キリスト信仰は本質的に異なり
区別できるだろうとも主張してきた
つまり
神の絶対に対する人の低さからの
敬虔を弁えの中心とするキリスト信仰は
カルトとは明確に一線を画するものである
と暫定的に結論した
 
今のところ
この私の考えを覆すか
修正させる説得力を持つ言説には巡り会っていない
と同時に
私自身も定まらない人の言葉で
信仰について表現してゆくことには
哀しいほど困難を感じている
そしてそれは信仰を人の言葉で表すとき
必然である
 
 
超常の不可思議な
絶対者の世界を理解することが信仰なのではない
 
分からない超常の下にあって
その超常が
すなわち神が
人のことを愛するゆえに赦し救い
ときには叱り戒め
人の言動に反応してくださって
聖書とともに歩む生き方を人に与え
個々の人の
肉体の命が召される時まで
人間として生かしてくださることを切に願い
そして
人間として不自由な心と言葉を抱えて
人それぞれの共感する情感と
弁える思慮とをもって
いとおしく、また、痛々しくも、
祈りに生きて希望し続けることを
神に与えられる信仰の人生と信じている
 
と・・今のところ書いておきます
 
 
(2016年06月29日、同日一部修正)
 
馳せる(はせる)
恣意(しい)
糧(かて)
蔓延る(はびこる)
覆す(くつがえす)
弁える(わきまえる)
 
 
 
 

 
  その名は失望に不安
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
1:29
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、
この人のことである。
1:31
わたしはこのかたを知らなかった。しかし、
このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、
わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32
ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、
御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33
わたしはこの人を知らなかった。しかし、
水でバプテスマを授けるようにと、
わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、
『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、
その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、
あかしをしたのである」。
 (ヨハネ書1:29-34、新約聖書)
 
 
洗礼者であり預言者であるヨハネさえ
わたしの言うことは神の言葉だから、文句言わずに黙って信じよ、とは言わなかった。
つまり、根拠を示している、説明責任を果たしている、説得力がある、
ということを覚えてください。
 
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」という言葉は、
 
イエスに、聖霊の導きを、ヨハネは感じたのです。
どんな罪でも偽善でも、奇跡的に取り除かれて聖となるなどとは言っていません。
 
自分に都合のよいことなら、他の人が言ったことでも、どこからでも持ってきて、人々に広め、そのことによって、自分が正当であることを主張したがる者の言説に惑わされてはいけません。
 
>それは私たちが罪の支配と力から解放され、私たちに平安を与えるためだったのです。
>どんなに豊かそうでも、罪の支配するところに平安はないのです。
>罪は罪なき命の代価を払われなければならないのです。
 
罪の支配するところに平安はないと言っています。ましてや偽善をや・・ということです。
罪と偽善を犯して、何でも許され救われると、悔い改めもしない者は、命の代償を払わなければならないのです。
彼が自分のために引用した文章が、彼の不法を明らかにしているのです。
 
>私たちがイエスを心に信じ受け容れると、イエスは私たちの心を掃除し、
>少しずつ平安を注ぎ込んでくださいます。
>この平安はどのような出来事によっても奪い去られることのないものです。
 
そうです。少しずつ平安を賜るためにも、掃除のプロセスが必要です。それが信仰です。それを受け入れない者に、ましてや、最初から約束され完成されたかのような平安がいっぱい与えられて、誰の言うことも聞かなくていい、など、あり得ないのです。
 
>この世にあっては試練も苦しみもありますが・・・
>それさえも益としてくださるのです
 
苦しみを経て、耐え忍んで、悔い改め、祈りを経て、神が与える益としてもらえるのです。神が定めた人のための益であって、人の都合のよい益とは限りません。言い換えると、益となるのは、神の民である人間として、精一杯、生きたからこそ、ということです。主イエスの訓練を受けた信仰者は、決して、何でも許され救われるなどとは考えない、ということです。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
5:1
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2
わたしたちは、さらに彼により、
いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、
神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4
忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5
そして、希望は失望に終ることはない。
なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
5:6
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、
不信心な者たちのために死んで下さったのである。
5:7
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。
善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
5:8
しかし、まだ罪人であった時、
わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、
神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9
わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、
なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、
御子の死によって神との和解を受けたとすれば、
和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
5:11
そればかりではなく、わたしたちは、
今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、
神を喜ぶのである。
 (ローマ5:1-11、新約聖書)
 
 
「平和を得ている」から「さらに、彼により」と続きます。彼は、主イエス。
 
ゆえに「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」とは、希望ですから、
神の栄光に与って、誰が何と言っても、ずっといつも平安がある、という意味ではありません。
人が、神の意志を確定すると、人は完全を自分に引き寄せたがるのです。
 
「いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ」が先立ち、
 
しかもそれは洗礼を受けたときに、万能になるではなく、完成するのでもなく、終末に向かって、希望となるのです。
 
「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っている」とは、
 
私たちは、神によって鍛えられることで、希望を抱くことが出来るということです。決して、一度に完成して、人の意見など無視しても成就する、というのでないことは明らかでしょう。
 
「わたしたちに賜わっている聖霊によって、
 神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」というのも
 
超常の聖霊が自分には注がれているから正しいので自分の言うことを聞け、他の人の言うことは、信仰者は、そして自分も、聞かなくてよい、ということではないと分かるでしょう。
 
「御子の死によって神との和解を受けたとすれば、
 和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」
 
神との和解が、一度受けて、あとはオートマチックだから、何をしてもよい、ということはないのです。和解を受けている今は現在完了形と進行形と、継続を拒まないかぎり「であろう」の未来形という恵みの約束であり、それを無にするかどうかは、人にかかっています。何か特別なことをしなければならない、ということではなく、神の民として、不全の罪を自覚し、それによって、さらなる悪である偽善を避けることだと思います。
 
特別でない当然するべきことをしないで、当然してはならないことをしているのは、聖書によれば偽善者であります。そういう者こそが、せっかくの救いに至る道を外れて、キリストの負いやすい荷さえも拒んで、逆にキリストをまたしても十字架につけようとしている者です。
 
他者の説教を引用して、自らの正当性を確保し、自分と自分の言ってきたことを、見境もなく高めようとする卑しい企てに惑わされることのないようにしてほしいです。
 
いい説教だから引用しただけ、という言い訳は成り立ちません。今までのことを考えると、いい説教だと思ったら、自分の今までの説教の過ちに気づかないではいられないからです。正直な人なら、そのことを記事に書かずにはいられないからです。今までずっと、その一点が、いつも欠如している人を批判しています。
 
 
 その名は不思議
 失望に終わることのない平安
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27547952.html
  見るのは構わないが、決して好意的に関わってはいけないサイト。
 
 二種類の平安
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21500212.html
 失望に終ることのない希望
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/13082472.html
  のコピペのようです。
  自分を特別視すると、断りもなく、神の啓示だから、
  何度、同じことを言ってもいいと安易に思っているようです。
 
 
(2016年06月28日、同日一部修正)
 
 
   序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
(20代中ごろ~96年頃、再録)
 
信仰は道であり、終末に至るまで、求める学習の、
経験による継続です。
 
自説から、信仰はこうだ、神はこうだ、
神の啓示だから議論の余地はない、などと思い込んでしまうと、
逆に、全能の絶対者である神を言葉だけ引き寄せて、
自分が何をしても、なついてくれる飼い犬にしてしまいます。
・・犬でさえ、人の横暴には、逆らうこともあるでしょうから、
ましてや神を、何をしても、どんなときも救い・・と
決めつけることなど出来るはずもありません。
 
 
(2016年06月28日、同日一部修正)
 
 
 
 

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