ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年06月

 
  離人
   ・・信仰の病理
 
 
中身の矛盾と混乱が
自らの裏切りによって壊れたことを
すでに示しているのに
 
至高の賜物のはずだから
という「筈」のみに囚われて
 
伝える正当性の執念と化した観念が
 
 もうすでに
 伝える資格が虚像に過ぎなくなっているのに
 
 どこにも波風を立てない安寧の波動
 という矛盾・・!
 
何も成り立っていない自分を
すべて整っている気分に
塗り替えてしまうスプレー缶の衝動が
 
知性と感性を
再生だけの
プレーヤーに
スピーカーに
リピーターに
 
機能を売り渡し
構造をすり替え
 
余裕の笑みのつもりの薄笑いは
強迫観念とも気づかず
怨念とも気づかず
離人とも気づかず
 
無傷を装って
人界から
架空の超常へ乖離してゆく
 
かつて柔和だったもの
かつて湿度だったもの
かつて温度だったもの
かつて色彩だったもの
人間として感受したすべてのものと引き換えに
 
 
(2016年06月28日)
(2016年06月30日、一部修正)
 
離人(りじん)
筈(はず)
賜物(たまもの)
囚われる(とらわれる)
安寧(あんねい)
衝動(しょうどう)
無傷(むきず)
人界(じんかい)
乖離(かいり)
 
 
 
 

息抜き、ガス抜きで・・・
 
 
  憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に足を置き直して進む
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
 
目を閉じる
 
 
(2016年06月27日)
 
他にもいろいろあると思うのだが・・
 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
 
 
 

 
  その名は不思議?
 
 
彼の記事を読むと、いつも感じるのは、ベタな救いの記事であっても、傍らで罪と偽善を犯し続けながら、何故こんなことを、いけしゃあしゃあと書けるのだろうということです。よほど、曲解を正義と思い込むような体質的な精神を持っているのだろうと思います。その精神は、罪の意識を全く欠いているのですから。だから、コメントを削除しまくりながら、このような記事が書けるのです。
 
>神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください
 
人を食った態度で、自分には上から優しく?教える資格だけがあると確信し、人々は自分より劣るので聞く必要だけがあると確信している者には、このような謙虚な姿勢はないのです。つまり、彼は、また嘘で固めようとしています。
 
>外側のいろいろなことがあっても、心の内側に喜び、楽しみを経験する人です
 
自分の犯した罪や偽善を外側のいろいろなこと・・としか考えない人です。だから、喜び楽しむ・・などと書けるのでしょう。反信仰が、信仰を装う場合、こういう悟っているようなことを、平気で書いてきます。
 
>主を尋ね求める人です。その喜び、楽しみが主によって与えられるのです
 
主から顔を背けたか、元々主を信じてなどいなかったか、いずれにしても、主を信じているなら、これはしないだろう、ということをして、今も続け、全てを隠して、バレなければいい、と思っている人です。
 
>信じる者の内におられる主を尋ね求めることです
 
>自分の弱さ、足らなさはそうであっても、
>それだけを意識するのではなく、内住の主を意識するのです
 
そういう者の心のうちに主はおられるでしょうか。彼が、好きなようにするために、拒んだが、宣伝のために、それでもいることにしなければと、ひどい二枚舌で、空を指して、いますよね・・、ということに、何のためらいも感じない人です。
 
>外側から来る喜びはいつも一時的な喜びでしかありません。
>心の渇きには何の役にも立たないのです。
 
外を気にするあまり、体裁や見かけというものを、信仰よりも大事にして、自分が答えることのできない他者の反対意見などないと見せかけるために、反対意見を書かれるたびに、ことごとく削除し続けている人です。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
16:20
よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。
16:21
女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。16:22
このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
16:23
その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。
16:24
今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。
 (ヨハネ書16:20-24、新約聖書)
 
 
>それはイエスから与えられた喜びのためでした。
>その喜びはイエスの死と絶望の中から与えられたのです。
>人の思いの及ばない神からの喜びだったのです。
 
彼はイエスの救いから、徹底して、人間の共感を排除してゆきます。イエスが残した弟子たちの心に残る深い情感と真実を葬ってから、救いは人知の及ばない神の奇跡だけだと言う信仰を広めようとしているのです。人間の思いや情感など、汚いものだから、そんなものは捨てて、誰にも共感せずに、奇跡を信じるのが、信仰だと言っているのです。人間の共感のないところに、どうして、人間の救いがあるのでしょう。人の話を一切聞かず読まず、自分の非を決して認めず、自分が教えるということだけは厚かましく繰り返し続けて、こういう超常話にしないと気の済まない人が書いています。
 
>イエスは迫りくるご自分の苦難と十字架の死を前にして、
>怖れ戸惑う弟子たちに人には語りえない不思議な約束をされたのです。
>自分の死を前にして、だれがこのような約束と慰めを与えることができるでしょうか。
 
このような超常的な不思議な約束をもって、人々を惑わし、人間離れを促し、神の世界に住め、神の世界に住め、と摺り込んでゆくのは、だれでしょうか、それは、カルトが常套手段としてしばしば語ることなのです。人間が人間らしくあってはいけないという教えを垂れるのです。
 
そして、それに都合のよい聖句
「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」
「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」
といった、曲解して、自分の救い話といっしょに伝えると、もっともに思えそうな、いくらでも悪用され得る聖句の美味しさを、抜け目なく添えるのです。
 
人間の深い情感と共感を、捨ててしまったか、元々分からない人が書いています。彼にとって人間らしい情感も共感も敵なのでしょうか。彼が人間について書くことは、的外ればかりで、しまいに「誰とも共感する必要はありません」と前に彼はコメントで言っていました。自分のコメントも都合が悪いと削除してしまう人なので、今はもう、見れないかもしれませんが・・。
 
神に求め、主の御名によって、偽善を施す、などと言う信仰が、どこにあると言うのでしょう。
 
 
 「その名は不思議」ブログ
 今回のタイトル: 不思議な喜びに生かされる 2016/6/26(日) 午後 1:15
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27543764.html
 
 : 二種類の喜び 2012/5/13(日) 午後 4:28
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22757807.html
 
  偽善を隠しながら、超常の自分信仰を広める伝染者が書いています。
  読むのは構わないが、好意的に関わり続けると、怒って去るならまだマシですが、
  だんだん染まってしまって、先生と呼ばれたい非人間性の後継ぎになるでしょう。
 
 
(2016年06月26日)
 
 
 
 

 
  信仰と人道
 
 
信仰は
この世の支配からの解放であり
価値観の成長であるけれど
人に生きる道を示すのだから
信仰も道であり
人道と矛盾したり
対立したりするものではない
 
信仰も人道も道であり
状況や役割という点からは
求められるものの違いによって
人それぞれに違うと言ってよいだろう
 
しかし信仰は
公義のあることとして
人それぞれにばらばらということはない
何故ならキリストはただ一人だからだ
 
信仰者になったばかりの頃は
個人によって違うところから
経験や考え方を持ち寄って
話し合うことによって
節操というべきものへ収束してゆく
という努め方が望ましいだろう
 
信仰がばらばらに
人それぞれで違っていいということはない
自分の恣意を通すだけなら
自分信仰にしかならないからだ
 
双方向の反応を捨てた信仰は屍である
 
 
信仰と人道はどう違うのだろう
 
信仰は神と信じるところからの
神の民としての生き方
人道は人だけを見ている場合
神をその根拠に含まず
主に生まれ育ったところの
直感と直観から組み立てられる
 
信仰には
聖書に表された大きなストーリーがあり
そこに救いの根拠がある
 
しかし信仰も
人間としての直感的なことを軽んじてはいけない
 
信仰が人間離れしやすいことを書いたが
そういう信仰というものに
人間としての共感が正す働きがあるからだ
 
言い方を変えれば
信仰は
人間としての直感を促進し
情感を豊かにして
民が神にならないように
人間離れを防ぐのでなければ
教理の理屈のもつれの先にあるものは
多くのカルトに見られるように
非人間的な判断を可能にする暴虐だけである
 
信仰が人間性を失うことは
人間を停滞させ固着させ
脆く壊れやすくさせ
ときに暴走させて
人道を踏み外す危険を倍加させる
そのときには
いかなる美辞麗句や救いのメッセージも
人間の思想を是正する特効薬にはならない
 
そこは
人を傷つけまいとする優しい配慮が
最も傷口を広げる作用を持つところである
 
 
信仰は
人間を促進することによって
人道を歩ませる
 
人道に似た言葉として道徳があるが
道徳には道という概念が乏しいので
一つ一つの当為とでも言うべきか
 
したがって道徳には
戒律的なことや処世的なことや
社会通念などが紛れ込みやすい
 
信仰は
人道という人の道を歩ませる拠りどころであり
またそれに使命を与えるものであり
そこから生まれた当為によって
道徳というものから
余計なものを取り去ったエッセンスとして
人間に
透徹した光を、色を、香りを、与えて、
人を高くではなく、真っ直ぐにする可能性に溢れている
 
傷つくことはあっても
豊かに感受し
真実の深遠を求めて
深く真っ直ぐに思考できる人間になりたい
 
信仰は
人道が人の生きた道であるための
生きた必須の養分として
人の精神生活に遍く行きわたる
これを信仰生活と言う
 
 
※ 
 
私たちは
真実の大切なところを心に感じながら
私たちの人の言葉という方法で表現しているから
比喩的、逆説的、例えばの話、など
今は一対一対応のない曖昧な世界しか描けないけれど
そこに真っ直ぐに求めたい光の道への標として
祈りの道を受け取ってほしい
という願いの結晶に
人の言葉は
いずれ個々に尽きるまで続くのである
 
一方
そうではなく明確に
小学校の理科の実験のような割り切りで
人間への考察を抜きにして
救いのプロトコルを並べて
曖昧ではないと言い張る者もいるが
そこには
見てみれば見かけ美味しそうなだけで
味もなく香りもなく
およそ人間の手に負えない大変な言葉を並べて
つまるところ何も書かれていないのと同じか
人間を壊してゆくだけの悪しき臓物を見るだけなのだ
 
人間を捨てた信仰は人道でも道徳でもなく
油脂成分と錆びた金属の軋みに過ぎない
 
 
 ※ (警鐘)
 油脂と金属が権威を帯びたみたいに超常信仰を語るブログ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
  コメントを削除して、次々にコメント欄を廃止している。
  丁寧な言い方とは裏腹に、形式的で頑迷で訂正不能であり、
  批判禁忌であり、疑問や異論を唱えれば、
  手のひらを返したように、恐ろしく陰険な当てつけを返すか無視で、
  読むのは構わないが、間違っても見かけの丁寧さに惹かれて
  好意的に関わったりしてはいけないサイト。
 
 
(2016禰06月26日)
 
屍(しかばね)
遍く(あまねく)
当為(とうい)≒「べき」の付くこと
脆い(もろい)
曖昧(あいまい)
軋み(きしみ)
標(しるべ)
惹かれる(ひかれる)
 
 
 
 

 
  その名は恵みを騙る
 
 
彼(=シャロム=あなた)の偽善に対する私の批判は
だんだん緊急度を増してきているようです。
彼の言い分は、益々カルトの自分絶対信仰らしくなっています。
 
私は45年前、洗礼をうけたが、
5年前、彼のような嘘つきに対しては、
へりくだることを捨てた・・。
 
 
 (詩篇、口語訳)
11:5
主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、
そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
11:6
主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。
燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。
11:7
主は正しくいまして、
正しい事を愛されるからである。
直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。
 (詩篇11:5-7、旧約聖書)
 
 
私は言論を手段とし、彼は強制力を使っている。
 
彼は、不正直で、偽善を認めないし、
彼は、全く悔い改める気がない。
 
何をしても救われると汚点なしと
思い込んで自らの平安を誇り続け、
いい気になって広めようとさえしている。
何をしても救われるという安い信仰なら
信じる必要がどこにあるだろう。
それは信仰告白だと言うならば
早い者勝ちで救いが決まるとでも言うのか。
 
自分は
他のキリスト者よりも特別に選ばれた
という優越意識に気づかないのか。
内実は全く伴っていないのに。
 
キリスト者の、そして人間の
平等意識さえ捨ててしまったのか。
 
 
 (詩篇、口語訳)
11:2
見よ、悪しき者は、暗やみで、
心の直き者を射ようと弓を張り、
弦に矢をつがえている
 (詩篇11:2、旧約聖書)
 
 
今日も前の記事のコピペで弓矢を繕い
放ってくるようです。
神からの啓示だと、言うには言うが、
神からの啓示だから、人の言うことは聞かない、
聞く必要もない、という信仰なのです・・。
キリスト信仰は沈黙の宗教ではありません。
またキリスト者は、そして人間は、
シャロムの言うことだけを聞いて頷くような
度外れた愚か者でもありません。
 
神は私たちの愚かさをご存知ですが、
それは神を信じるがゆえの低さと弱さであり
 
独りだけ特別扱いのように慎みのない口が
罪と偽善を犯してもしゃあしゃあとしゃべり続けるような
思い上がりの愚かさではありません。
 
コピペで前の記事を貼り付けた記事・・
聖霊体験で神の啓示を語ると前から言っているが
彼の信仰の啓示が成就したためしはない。
やたら自分に都合が良いだけではないか。
だから、やたら讃美している。
 
言論では、悪口や当てつけしか返せなかった。
共感など要らないと宣う。
ならば何故、それを人に伝えようとするのか。
ブログに書けば、神の奇跡の導きがあって、
記事に頷き、プロトコルのように信者になると言うのか。
人間性を無視するなら、人間に影響してはならない。
人間よりも啓示によって高く聖化されたなら、
納得できる解説をするべきなのに
批判に何も答えられなくて、
コメントを毎日削除して、
私の意見を、見たら消して、見たら消して、
知らぬふりで、平気で語れる啓示など
誰が正当に信じると言うのか。
 
あなたを信じる者がいたら、
それは犠牲者ではないか。
 
レギオンを率いたいのか。
崖に向かって突進したいのか。
 
 
>誰かに嫌われ、敵意をもたれて、日々暗い思いをさせられることがありますか
 
誰かを嫌い、敵意をもって、黒い侮りを向けたことを書かないのですね。
 
裁きを行うのは、神である。
嫌われて敵意を、何故、持たれたのか、考えない者よ。
卑怯な強制力ばかり使って、何も言えない者よ。
 
>その相手に自分も同じように敵意をもつなら、
>神に従う人としては失格者となったでしょう
 
あなたは、容易に人を病気と見なして侮辱したが、
それは、敵意ではないと言うのか。
あなたの言葉には、いつも当てつけと悪意と敵意がある
ということを私は知っている。
あなたは、「私たち」と呼べないほど、特別に失格である。
二度と、罪の話を書くときに「私たちは」などと書くな。
あなたは・・・違うのだ。
 
>今、その思いをあなたの十字架にもっていきます。
>その人のことをすべてあなたにゆだねます。あなただけが正しい方です
 
これが偽善者のやり方で、
コメントに答えられないから邪魔になって削除して
あとは神に委ねるという綺麗ごとで済ませようとする。
邪魔者は消せ、と善人が言うだろうか。
邪魔者を消す、というのは悪人の台詞だが
あなたは、いったいどこが正しいのか。
 
>自分が正しく、相手が間違っていると思えば、
>私たちはふつう間違っていることを指摘したり、
>さばいたりします。そんな自分が間違っている
>・・罪人とは思いもつかないものですね。
 
あとに暗に「えっへっへ(うす暗い笑い)」が
付いてきそうな言い方。
彼がこういう丁寧語で当てつけるたびに虫酸が走る・・。
こういう丁寧な言い回しは、ずっと彼の特徴だが、
慇懃無礼の小汚い丁寧語と私は呼んでいて
陰湿な罵詈雑言相当である。
 
「殴られるより悪いことがある」
(三島由紀夫原作映画「午後の曳航」より)
 
ゆえにこれは、明らかに攻撃だが、
普通するレスを、あなたも何度かしようとして、そのたびに
指摘と言説の不備の指摘によって跳ね返されたではないか。
 
このような、嫌らしい言い方が、あなたの当てつけだ。
「(相手は=私は)思いもつかないものですね」
このような当てつけしか出来ないことが、
あなたが、自分の罪に思いもつかないことを証明している。
 
私は主の赦し以外に救いの可能性を持たない罪人です。
 
罪人としての自覚を持たない者を批判しているが、
批判する動機が、毎日、増えるばかりで
減ることがないので、続けるしかないのです。
 
返すことは出来ないのに、
前にも言って、返されたことを、また言ってくるのも、
彼が批判者のコメントも記事も読まないことの特徴だ。
 
あなたが書いていることは、
クリスチャンが
日々の出来事と信仰と祈りを書く信仰日記とは違う。
まるで信仰の奥義でも教えているような書きぶりだから、
その教えが成っていないなら一大事であり
信仰は気軽に好き勝手なこととして
公表してよいことではない。最低限の公共性があるからだ。
 
信仰という公義ついて人間同士の合意のために
できれば議論と、批判と批判の許容と、
また少なくとも何らかの双方向は必要なのです。
批判禁忌としてきたのはキリスト教会の瑕疵であります。
批判禁忌を言い続けるのは彼の偽善の企みであります。
批判されると何も言えなくなるからです。
彼から、はぐらかしや当てつけ以外の、
納得のいく説明を聞いたことがありません。
詭弁で人々を欺き騙し、自らの優位を得ようとしている。
 
>「心のまっすぐな人」ということは
>自分の正しさによって生きるのではなく、
>主の恵みの業に信頼する人なのですね
 
この「ですね」の詭弁に騙されてはいけません。
強制力を用いて自尊の利益を図り、
自分の小手先で有利な状況を作ろうとする者が、
どうして主の恵みのわざに信頼していると言えるでしょうか。
 
>主なる神は私の罪をご自分の罪として負ってくださり、恵みのわざによる赦しを与え、
>さらに私の罪、弱さ、過ちのすべてのことを相働かせて益としてくださる方です。
 
彼は、自分の罪の後始末を、自分に出来ることもせずに、神に任せようとしています。
彼の言い分だと、いかなる過ちも、故意の偽善も、オートマチックに、益となる
ということになってしまいます。
信仰は、人が神の関わりを信じて、祈り待ち望むことです。
人が何もしなくていい・・というような信仰などありません。
神と人とは、反応しあう関係にあります。
 
>私たちに対する生ける神の愛とめぐみの業を証ししているラブレターなのです
 
神と人とは、反応しあう関係にあります。
神の私たちに対する愛と恵みは
ストーカーのように愛されちゃってしかたがないんだ、
ラブレターも来るんだ・・という変質者の偏愛ではありません。
もう一度書きます・・
 
神と人とは、反応しあう関係にあります。
 
 

 
批判対象「その名は不思議」
偽善者シャロムshalom のブログ
(彼、あなた、=シャロム)
 
今日の記事
恵みにわざに生かされる
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27539494.html
2016/6/24(金) 午前 8:06
 
恵みの業に生かされる
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26306215.html
2015/1/13(火) 午前 8:58
のコピペ
 
見るのは構わないが、決して好意的に関わってはいけない。
 
彼のうわべの丁寧さではなく、彼の本性が分かってくると、
彼の記事やコメントを読むたびに、物を投げつけたくなるほど
怒りを感じるようになります。それで、罵詈雑言など書いてしまうと、
これ幸い、してやったとばかり彼は
自分は罵詈雑言など書きませんと
嫌らしい決めつけの見なしを当ててくるでしょう。
彼は言論には全く向かない人だと思っていますが、
彼は卑しく勝ちを求めるところがあります。
だから彼に対する批判を他の人には勧めないでいます。
 
 
(2016年06月25日)
 
騙る(かたる)
宣う(のたまう)
頷く(うなずく)
瑕疵(かし)
綺麗(きれい)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
罵詈雑言(ばりぞうごん)
遭う(あう)
奥義(おうぎ)
 
 
 
 

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