ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年07月

 
  つなぎとめるのは
 
 
シャローム氏は、神の一方的な配慮だけで信仰が成り立つという信仰から、そのような神の話を好んで転載するようだ。神の一方的な恵みによって、人が選ばれ、救われる、というのだが、彼が好むのは、一度選んだら、救われることが決定しており、何をしてもしなくても救われるほうが、偽善者にとって都合が良いからだ。というより、もしそうでなかったら、偽善を続けている者にとって極めて不都合な話になるからだ。
 
確かに信仰者の誕生は、神の一方的な選びという恵みが必要であり、そこに人の意志は働いてはいないと思われる。そのプロセスは、人には、不思議な成り行きと認知されるだろう。そこから神の、選んだ人への関わりが始まる。
 
しかし、信仰の成長は、神の働きに、人がどう反応するか、ということなしには、成り立たない。人の反応を、神が全く必要としないのであれば、人がこの地上に誕生するのは意味がない。また、キリストが、人の姿と心を持って、この地上に誕生することにも意味がないのである。
 
神は、人の世界を救うために、聖書を書かせ、キリストを遣わしたのだから、人の世界に関わる神が、人の反応に無関係であるはずはない。いったい、人が反応しないで、神の、人への働きと支配が、どう成り立つと思っているのだろうか。神の救いは、神の一人芝居で、人は、それに巻き込まれて、どうしようもなく救われて、信仰は成就する、とでも言うのだろうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
1:34そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。 1:35御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。 1:36あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。 1:37神には、なんでもできないことはありません」。
 (ルカ1:34-37、新約聖書)
 
キリスト信仰が成り立つためには、キリストが誕生し公生涯を歩まれ、十字架に死に、しかし、今の人々に、聖書によって、優れた洞察力と説得力で、人間性に働きかけて、かの日、多くの人々の心を動かしたように、この日、多くの人々の心を動かしている、という真実で十分である。
 
史実にこだわり、奇跡にこだわって、決めつけないと気の済まない、史実信仰者たちは、マリアの処女懐妊と、キリストの肉体の蘇りに、執着して、それなしでは信仰はあり得ないと言う。処女の懐妊と死人の蘇り、という奇跡が、あった、なかったで、今も揉めている。それらが、あった、なかった、ということが、今の信仰をどう変えると言うのだろう。奇跡の史実に、戒律のように、こだわれば、こだわるほど、信仰は、人間性を失い、人間離れしてゆく、というのが、いつの日も変わらない、人の本性のようだ。
 
かの日には、人々は、奇跡を見せなければ、奇跡だと言わなければ、神ではないと言うほどに、世界は、まだ、未開の精神であったと言えよう。しかし、この日、つまり現代、人々は、心を大切にする準備も弁えも、ある程度は出来ている。人類は、それなりに進歩したのである。同様に、奇跡話には、むしろ、警戒が強くなっている。奇跡話のインチキを、嫌というほど、見て聞いてきたからの、良心である。にもかかわらず、未だに、大昔の、あったかなかったか、という奇跡を、あったと信じなければ、受け入れられない、という神経には、元々昔の人々の、奇跡を見なければ信じない、という未開の精神の名残りであろうか。ひたすら、奇跡にしがみつく者がいる。あるいは、自分に都合のよい奇跡でも起こらないと、キリストが最も厳しかった偽善者である自分の、救いがたさを、どうしようもなくなった者の、悪あがきか・・。
 
何が大事かをご存知の神は、今を生きる人間にとって、何が大事かをご存知である。
 
奇跡にだけ注目して、人間を疎かにする者は、大事なことを書き忘れる。
 
マリアは信仰者として、神が最も好まれる低い立場から、答えたのである。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
1:38そこでマリヤが言った、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。
そして御使は彼女から離れて行った。
 (ルカ1:38、新約聖書)
 
神の前に、この態度を忘れないことだけが、信仰に必要十分なのだ。
 
教理と奇跡と史実にこだわる信仰は、魔術のようなわざを喜び、神の立場を強調して宣べようとするだろう。人間の心を大切にする信仰は、人間の立場で言えることを言うだろう。そして、誰よりも人間の心を大切にしているのは、人間を救おうとする、神ご自身である。
 
聖霊、聖霊、聖霊と、いくら強調したところで、目に見えない御方は、目に見えない働きをするだろう。その働きを、目に見えるかのように、いくら人の言葉で、華やかに言い表しても、それは依然として、神に遠く及ばない頭の中で、辻褄合わせをしただけの、人間の心に響かない観念を打ち鳴らす打楽器に過ぎない。それを、どうして、人を神につなぎとめる信仰と言えようか。
 
 
 「イエスにも聖霊が臨まれた」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27611411.html
 
※ 自分を救おうと躍起になっている偽善者の誘いに乗ってはならない。
 
 
(2016年07月31日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  宣教の愚かさ
 
 
いかにもシャローム氏の好きそうな記事です。大仰で、断定的な派手な言葉で、実際は理解不能に近いのに、景気づけのように、気合いのように、勢いで、分かれと言ってくるような言葉です。
 
>さあ、一歩片足を引いて翻って180度回ろう
>出来る限り早い時点で心を転回させよう
>大きな声で「イエス様あなたにアーメン!」
>いち、に、さん!
>イエスさまは、いつでも大きな手を広げて受け入れてくださる
>悪魔に機会を与える隙もないほど、瞬時に
>イエス様に帰ろう
 
励ましのようにも思えるが、奇をてらった語り口で、こういうのは、だんだん、カルトに似てきそうな感じがします。回れ右、大声で呼び、瞬時に、キリストに帰る、・・・その前に、人間としての自分に帰ってから、言ってください、と言いたくなるような、さぞかし、決めつけの強い、めんどくさい人なのだろう、と思います。こういう人が、ときどき、いるでしょうね。自分を特別視していて、俺には分かるぞーと言ってるような、悟ったような態度で言い張るような者が、教会にも、ネットにも、いるということです。
 
>私の心の中心に、私の目の前にイエス様を置くならば
>真なるイエス・キリストの霊が私を支配し
>私は瞬時に闇から救い上げられる
 
何だか、元気第一の新興宗教のようだ。目の前にキリストを置く、とは、いかなる偶像だろうか。そして、3行目は、いつでも、自分のために、キリストは働くのだ、と信仰自慢をしているようなもので、これだけでは伝わらないだろうし、公に向かっては、空約束に近いが、まさに実際、これに似たような考えで、教えた気になっている者もいる、というのが現状です。
 
 
>それらの愛を超絶して、
>神が罪人を許し受け入れる愛、正しきものが罪人をあわれむ愛、
>許しがたき仇敵の為に死をとして愛する愛、
>そういう愛を「アガペー」というのです。
>そのような愛は、人間は持ちあわせていません。
>そういう愛はただひたすら、神より出るのみです。
 
神の愛は、神から出るのだから、人には分からず、人は何も出来ないということを、言い訳にして、信仰のすべてを、神の業だから、奇跡という超常に帰して、人間を見ず、自らを省みず、それを、さらに言い訳にして、自分の誤りも過ちも罪も偽善も愚かさも認めず、悔い改めることもなく、「宣教の愚かさ」の逆説にも気づかず、こう書いてあるから、今のままでよいと思い続けて、都合の悪いことを隠し続けて、神に讃美だけを呪文のように捧げ続けるが、神に対して正直さを捨てている者もいるのです。
 
神の愛を説くのに、賢さは要らないけれど、神の愛を説くのだから、愚かだという自覚については、本物でなければならないのです。神の愛にお願いするのだから、偽りがあってはならないのです。
 
そして、神の愛に答えるのだから、宣教について、信仰について、
隠し事や虚飾や偽善や故意の偽りがあってはならないと思います。
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:21この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
 (1コリント1:21、新約聖書)
 
宣教の愚かさについては
「その名は口づけ?」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18618813.html
に述べましたが、そこに書いたのは次のようなことです。
 
この聖句の「愚かさ」は、神の真理を弁えないけれど、信仰によって、信仰を宣べ伝える一途さ、とでも言うべきもので、宣教に人の利口さは必要ないと言っているのかもしれないし、人の宣教などは神に比べると、みな愚かな宣教に過ぎないと言っているのでしょう。
 
> しかし、最後に残る聖書の不可思議さは説明しきれない。商品を売ったり、
>入会をすすめたりする時のように、説明や計算でなっとくして頂いて、
>クリスチャンになってもらう事は困難である。いや不可能と言ってよい。
> ただ一方的に聖書からあなたに流れる宣教の言葉が、ある日突然あなたの
>心の壁をやぶって、あなたの心にキリストの火をやどす日まで、ただ一途に
>理解されにくい神の言を語り続けるのが「宣教の愚かさ」なのである。
> (1978.10.15週報「キリストの福音」より)
 
人は不全なので、宣教においても、至らないところがあり、そこは、どうしても、神に願うしかない、最後は、常に、神の導きと取り成しによる、というのは、真実だと思います。
 
「宣教の愚かさ」も、聖書に、よく見られる逆説的表現です。
 
しかしながら、ここで大事なのは、至らない人間である自分を本当に自覚して、自分を愚かと思っているかどうかです。
 
自分を愚かだなどとは全く思っていないし、愚かだという自覚が、言動にも全く表れていないのに、聖句や他者の言葉を持ち出しては、「弱さを誇る」ように、今度は「愚かな宣教」を誇る者もいるので注意が必要です。
 
往々にして、そういう者は、自分の努力不足だけでなく、自分の信仰の過ちをも無視して、自分の失敗や、罪や、偽善や、偶像崇拝も無視して、非を認めず、聖句から「愚か」と書いても、少しも愚かさを認めておらず、内省も反省もする気がなく、ひたすら、いたずらに、記事を重ねて、こう書いてある、こういう人もいる、分かったか、だから自分は正しい、とでも言いたいかのように、すべてを人のせいにして、動かず、感じることもなく、考えることもなく、自業自得も思わず、苦しみに対して他者への怨念を燃やしながら、慎みのない自己顕示を続けているのです。
 
理解されにくい神の言を語り続けるのが「宣教の愚かさ」であるためには、上のようにならないために、自分の、至らなさ、罪、偽善、失敗、愚かさ、を本当に認めて、告白し、赦しを乞い、そのうえで、宣教の姿勢と態度を、日々改め、祈り、新しくしてゆくことが必要です。このことも、また、信仰なのです。宣教して、よかった悪かった、とにかく今日は終わった、と思うだけではなく、人に信仰の話をしたら、自分の信仰を見直し、その成長を自ら促すことが、信仰なのです。記事を転載して、自分の正しさや立場や権威のほうを促し、自分を守るような在り方では、何をやっても空しいだけなのです。「宣教の愚かさ」を、豪語するだけで、反省もしない愚かさにしてはなりません。
 
「砕かれた魂」は、
信仰者の日常に、「宣教の愚かさ」に、いつの日も、使命として、信仰に必須であります。
 
 
 釘宮父娘 宣教3題
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27609427.html
 
 
(2016年07月31日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  富と救い
 
 
私は、自分がそこそこ小金持ちだと思っていた時期はありますが、金持ちや富裕者であったことはありません。だから私は、貧乏にも、金持ちにも、共感は乏しいかもしれません。
 
記事について、特に、おかしいというほど気になるところは、今のところ、見当たらないのですが
あえて補足的に言うなら・・ということで、
 
大きな資本を要する仕事を始めるには、たくさんのお金が必要だろうということ、ゆえに、金持ちには、金持ちにしか出来ない役割もあるかもしれない、だから、金持ちであることを、全か無かで、信仰に反すると言うことは出来ないでしょう。聖句も、そのような意味を含んでいると思います。
 
 (テモテへの第一の手紙、口語訳)
6:17この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、 6:18また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、 6:19こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。
 (1テモテ6:17-19、新約聖書)
 
物質である場合、惜しみなく施すことは、貧しい人に求めるのは酷になります。精神の糧なら、貧富に関わらず、誰でも出し合い、分け合うことも出来るでしょう。人間として共感する必要を全く感じない者以外は・・。
 
>目に見えるものに信頼をおいているとそればかりをたより、
>目に見えない神様への信仰がなくなってしまいます。
>悪魔はそういうところに攻撃してくるのではないかと思います。
>そうならないよう、目に見えない神様から目を離さないでいることが大切です。
 
目に見えるものに、つまりブログの体裁の良さに、信頼というより信仰を置いているかのような者が、転載していますので、その点は、非常に違和感があります。
 
>そのような富を持つと高ぶりをおこします。
>これは、神様が最も嫌われることです。
>神様のことを忘れてしまうので神様に頼らなくなります。
 
これは、お金だけのことではないような気がします。聖句からは少し離れることになるかもしれませんが、言い換えれば、高ぶり≒心の富み、ということも言えるような気もします。一所懸命に学んだ、これに人生を懸けている、人生または学問の知識では負けない自信、といったものも富みと言えそうな気がします。
 
また、恐ろしいことに、自分は神の啓示を受けている、というような、信仰から自信へ、さらに自己絶対化への走ってしまうと、信仰とは、まるで逆の方向を向く罪と偽善になりやすく、同時に偶像崇拝でもあります。自分の不全を隠したいがために、神の啓示だから議論無用と、他者の意見を一切聞かない者もいます。したがって、神を信仰しているつもりで、神に頼ってなどいないのです。神が、そのような彼を、快く思っているとは、とうてい言い難い状況なのに、気づかない人もいるということです。
 
それと、もう一つ、富んでいると罪に走りやすいなら、貧乏ならば救われるかというと、弱い人は肩を寄せ合うしかないことが多いから、救いに至る切っ掛けは多くなるかもしれないけれど、必ずしも貧乏ゆえに正しいとは言えないわけで、極端な貧しさは、むしろ人の心を荒ませることもあるでしょう。しかし、これは、信仰というより、政治と社会の問題かもしれません。
 
>富はすぐになくなってしまいます。頼るべきものを見失わないことです。
>富でいることが高ぶりを引き起こし神様から離れさせていくので要注意です。
 
まあ、なかなか無くならないで富を貪っている人々も、この社会には結構いるような気もしますが、お金でも、知識、学歴、ステイタスでも、権威、権力など、高い立場でも、神の啓示?、神への被愛妄想?、神による高い立場の自覚?などでも、富んでいることは、高ぶりを引き起こし、神から離れさせてゆくのは、事実です。高ぶりという富を持つ者が天国に入ることは、高ぶりを砕かれない限り、非常に困難です。このテーマで、よく引用される聖句・・
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、
「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24
また、あなたがたに言うが、
富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
 
暫定的な結論としては、貧富は、どちらであっても、救いの条件にはならない。救いは、その人の人間性と経験を、神がどのように受け取って、どのように反応してくれるか、また、それを受けて、人がどのように反応するか、また、それを受けて、神が、どのように導いてくれるか・・・という連続ではないかと思っています。信じたから救われる、これは、神は見捨てはしないこと、また、本気の度合いにつれて、真実でしょうけれど、人と神との関係において、神も人も生きているので、固定することはなく、人としては、修正可能ゆえの成長可能に生きて、祈るしかないと思います。
 
 
 確かな拠り所はどこ?
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27607073.html
 
 
(2016年07月30日)
 
 
 
 

 
  聖霊を信ず?
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。 14:15もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。 14:16わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 14:17それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
 (ヨハネ書14:14-17、新約聖書)
 
このような聖句は、聖霊によって自分を正当化したい偽善者にとって、それこそ美酒だろうと思います。何故なら、全く矛盾した行いである罪と偽善を犯していても、この聖句が、共にいて、内にいて、助け主として、望みを叶えてくれるというのですから。しかし、よく読んでみると、「わたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と書いてあります。聖霊は、主のいましめを守るように、それを助けるように、働く真理の御霊だということです。聖霊によって生きている者は、罪や偽善を犯したりはしない、たとえ間違いを犯しても、悔い改めるように聖霊は働く、ということで、そういう人の行いを聖霊は助けるのです。聖霊の働きは、罪や偽善に対して、悔い改めるように働き導くはずです。つまり、そういう働きへ向かわない者には、偽善を悔いず、改めようともしない者には、聖霊は、降りているはずはないのです。
 
>私たちを神の子どもとしての身分に生きるように、神の真理のうちに導かれる。
 
彼が小躍りして喜びそうな文言です。こういう文章だから、偽善者に乱用されやすいのでしょう。そして偽善者は、神の子どもとしての身分さえ勘違いして、人を人とも思わない尊大で、強圧的な言動を向けてくるのでしょう。そして、さらに勘違いして、真理を得て、大いなる慰めと励ましを得た気分で、強くなった自分を押し出して、他者を切り捨ててゆくことでしょう。求める、求めるべきである、求めてよい、得られる、得られた、とても微妙な、こういう言葉が、どれだけ勘違いされて、歪められて、偽善者を蔓延らせてきたことでしょう。
 
>ともに喜び、悲しみの時は慰め、苦しみんでいる時は励まし、私たちを助け、導く。
 
偽善者は、いつも聖霊に導かれている、という、共感を持ち得ず、ただ、真理が内にある、という益の言葉だけに、陶酔し、慢心して、偽善を犯して、なお、神の真理に導かれることを信じ込み、人にも語ろうとするのです。そして偽善者は、喜び、慰められ、励まされ、助けられ、導かれてきたという思い込みで、自分勝手な、決して非を認めない気持ちを、強化してゆくでしょう。今日、彼が、彼にとって都合の良い言葉の表面を持つこのような記事を引用したことが、その傍証となるでしょう。
 
 (ガラテヤ人への手紙、口語訳)
5:16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 5:20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 5:21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 5:26互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
 (ガラテヤ5:16-20、新約聖書)
 
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」と書いてあります。聖霊が降りるから、すべてOKで、もう安心、とは書いてありません。聖霊によって生きよと、いつも、完成したということではなく、これからのことを命じられています。「聖霊によって進もう」とは、そういうことです。決して、聖霊が降りたなら魔法のように奇跡が叶う、という意味ではありません。
 
私たちは、聖霊を信じると告白したのです。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」ということで、これらを行うように聖霊を与えられたのであり、与えられたからといって、それが善行の証拠にはならないのです。
 
また「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」の肉の働きに抗して打ち勝つように、聖霊は遣わされているということです。聖霊が与えられたから、それが肉に打ち勝ったという証拠ではないということです。順序を間違えないでください。偽善者は、そこを利用しますから。
 
したがって、聖霊を無視したり、悲しませたり、さらには、神の怒りを買うような、偽善だけはしない、また、たとえ、偽善を行ったとしても、そのときには、頽れるように身を低くして、悔い改めなければならないのです。最初から、聖霊に導かれているから、やることなすことは、すべて御心に適い、悔いる必要はない、などということでは決してないのです。
 
偽善は、悪であり、善を装う欺き、ということが加わって、いっそう悪性度を増して、この世に蔓延っているのです。偽善者が伝える言葉の落とし穴に嵌ってはいけません。御言葉さえ歪めて利用する偽善の罠に陥ってはいけません。
 
 
 「我は聖霊を信ず」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27602502.html
 
 
(2016年07月29日)
(2016年07月31日、一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
傍証(ぼうしょう)
頽れる(くずおれる)
適う(かなう)
陥る(おちいる)
罠(わな)
嵌る(はまる)
歪める(ゆがめる)
 
 
 
 

 
  偶像と癒し
 
 癒しと救い
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27604264.html
 
 
自分に都合の悪いコメントを、ブロックし、削除し、コメント欄を廃止してまで、自説を、自分に都合よく見せようとする偽善者が、そのことを、悔い改めることも、罪と偽善を認めることもせずに、誰とも双方向を持たずに、独り言のような記事を書いています。彼の信仰は、自分に都合の良いこと、悔い改める気のないこと、今でも聖書の先生として教えようとすること、それによって、さらに、偽善を加速させていること、等々を見ても、自分の都合に合わせた信仰、つまり、偶像崇拝の特徴を典型的に持っているのですが、偶像崇拝者である彼が、偶像崇拝について書いています。
 
ここに、自分の偶像崇拝を認めなていないことは明らかなので、ますます偽善の偶像崇拝を語ることになるのですが、それに全く気付かないし、自覚することもないという悪質ぶりになっています。自分が犯している罪について、他者に、犯してはならない、と説教しているわけですが、そのことに、気づかないで、どうして、日々新しくされる信仰の道を歩むことが出来るというのでしょう。すべての悪について、前提として、いつも、自分をやすやすと除外してしまう体質が、信仰の病理となっている人です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
5:25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 5:26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 5:27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。 5:28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。 5:29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 5:30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 5:31そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。 5:32しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。 5:33その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。 5:34イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
 (マルコ5:25-34、新約聖書)
 
この話は、キリストの奇跡物語であり、また、その奇跡が、起こると信じて触れることによって起こるという話になっています。この女性は、イエスのことを聞いて、矢も楯もたまらず必死です。そして、衣に触るということが宗教的行為かどうか分からないが、衣にでも触れば、奇跡が起こって治るか、少なくとも、奇跡を起こすと聞くイエスだから、衣にでも触れば何か変わるかもしれないという思いでやって来たのでしょう。キリストが告げる前に奇跡が起こるという珍しい話ですし、信じれば救われる、という宗教の宣伝文句を思い出しもするのですが、奇跡は起こるか、人の思い通りには起こらないだろう、ということを考えるよりも、・・考えてみると、本当に本気で、求める者のみが信仰の恩恵に与れる、ということを受け取ることは出来るでしょう。
 
ここでも、長血に苦しめられている女性の、イエスに対する低い姿勢と、治りたいという気持ちが自分のためであっても、本気の熱意が、イエスに伝わったという見方もできるかもしれません。自分を低くすることのできる人に対して、慈しみを惜しまないキリストを伝えてもいます。
 
実は奇跡について何も分かってなどいないのに、何でも奇跡で救われ、人は関係ないかのように語る超常信仰者が、起こるんですよと、空約束を信じ込ませるには、都合の良い話でしょう。そう都合よく奇跡が起これば苦労はない、という常識を知っている現代人には、信仰の本気度、という観点から、読み取るべきものはあるだろうと思います。
 
シャローム氏は、いつものように、キリストの奇跡が本当に起こったからこそ、この女性は、イエスの求めに総てを打ち明け、偶像崇拝から、癒やされた礼拝者になったという書き方をしています。
 
私たちは、大方、偶像を持っています。キリストを想えば、理想のキリスト像を思い浮かべます。祈るときも同様でしょう。思い浮かべた先に向かって、祈っているのです。キリストの場合は、イエスという人物像があり、その言行録である福音書もあるので、なおさらなのでしょう。信仰者において偶像は、常態とも言えそうなものです。神と聖霊についてもほぼ同様です。このことこそ、人が、神と違って、不全に定められていることを示しています。したがって、偶像崇拝を逃れるには、まず、偶像があることを認めることから始めるべきことなのです。
 
十戒に背く偶像など絶対持ってはいけない、もちろん、自分は持っていない、と断定した前提の上で、偶像を、自分の外の、憎むべき対象としてしか見ていない者は、自分のために女性がイエスに触ろうとしたことを偶像崇拝者と決めつけているようだが、偶像のことで、他者のことを、とやかく言えないのが私たちなのです。それこそ、姦淫を犯した女性のことで「身に覚えのない者が石を投げよ」と、キリストが言ったこととつながってくるのです。(この場合も、姦淫という罪を否定しようもなく、さらし者になっている、自分を決して高くできない女性に対して、キリストは、慈しみを惜しんでいません。)・・つまり、偶像については、人間に出来ることとして、自分も偶像を持っていることを認め、自分を修正可能にするほどには不全の自覚と持つことですし、あとは、何度も言いますが、祈りだけが残るでしょう、即ち、正直に祈ること以外に何が出来るでしょう。
 
自分のためとはいえ、癒しを一途にイエスという名の御方に求めて、触るだけでも・・というほどに本気だった女性には、信仰は全くなかったのでしょうか。偶像があったかなかったか、よりも、教訓とするべきは本気度です。本気であればあるほど、神に対して、自分を低くするしかありません。
 
偶像崇拝者ほど、自分の偶像に気づかず、それで、偶像崇拝を問題にする傾向があるようです。そして、自分は偶像崇拝などしていないという絶対の気持ちにのぼせて、他者の偶像を云々しながら、自分は、とても安穏な態度で、偶像との密会にどっぷりつかって、偶像との日々を邪魔されたくないのです。魂が砕かれず、砕かれることを欲せず、魂の周りに偶像信仰がべったり張り付いたままなのです。そのような信仰が偽善を伴うのは、ほぼ一対一の対応で、当然の成り行きなのです。
 
>自らのすべてを投げ出し、告白した時、その人は救われた礼拝者して新たにされたのです。
 
自らのすべてを投げ出し告白するということを、全くする気のない人が書いています。したがって、彼は、礼拝者として新しくされることがなく、これからも、偶像崇拝者として、偽善者として、自分の都合だけを考え、自分に都合のよい神を、即ち、自分を拝み続けるのでしょう。
 
>だれもが自分のために「癒し」を追い求め、偶像を追い求め、ひれ伏そうとします。
>しかし、偶像は偽りの一時的な癒しを与えますが、心を縛り、支配します。
>これは宗教だけではなく、政治にも当てはまるようです。
>しかし、イエスは言われます。「安心して行きなさい」と。
 
人のことを、とやかく言って罪に定めても、決して自分の、罪と、偽善と、偶像崇拝について認めようとしない姿勢が明らかです。
 
彼は、これを書いたことで、務めを果たしたような気分になり、「癒やし」を求めるのでしょう。誰に?・・言うまでもなく、彼に都合よく拵えた偶像に対してでしょう。決して、彼を叱らず、いつも彼に義を与え、どんな罪も偽善も偶像崇拝も、赦して、癒やしを与える偶像に対してです。
 
「安心してゆきなさい」と言ってくれるのは、そのような偶像以外には、もはや、いないからでしょう。ふつうは、自分は?・・と振り返る性質を持ち、学んでいるのがキリスト者ですが、これほど、自分の罪性について鈍感な人は、珍しいと思います。
 
>だれもが自分のために「癒し」を追い求め、偶像を追い求め、ひれ伏そうとします。
 
この「だれもが」に、シャローム氏は、自分を入れているのでしょうか。
 
>しかし、偶像は偽りの一時的な癒しを与えますが、心を縛り、支配します。
 
その偽りの一時的な癒やしだけで生きて、心を縛られ支配されている人が書いています。
 
>これは宗教だけではなく、政治にも当てはまるようです。
 
私は、政治について、少しは書いたことがありますが、細かいところまで書くだけの知識がないので、大きなことを言うのは、控えています。
しかし、シャローム氏は、自分を悪からやすやすと除外し、偶像はいけないと豪語したいだけでなく、信仰の話について批判に答えることが出来なかったのにもかかわらず、その勢いのまま、今まで、政治的な記事を書き、書けなくなったら転載して、ネトウヨなどからの、ちょっとした批判に対しても、はぐらかすだけで、答え得たためしがないのです。身の程を弁えるということが、信仰についても、他のことについても、出来なくなると、彼のように、声と態度だけ大きくなるのでしょうか。
 
>しかし、イエスは言われます。「安心して行きなさい」と。
 
彼が、自分はそう言われている、というのであれば、どこにその実があるのか、極めて不可解なことです。しかし、彼は恐らく、他人事のように偶像崇拝を語り、誰に対しても偶像崇拝になってはいけないと、単純な教理の短絡に満足して、ディスプレイに映る獲物を射止めたかのように、それこそ「安心して」、日々を、偶像一体型偽善信仰に捧げて「行く」のでしょうね・・・
 
>娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです
 
「せめて、み衣にでもさわれば」と行動し、その結果がもたらされ、それを知った女性は「恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」、そして、その女性の言動に反応したキリストの言葉です。信仰は、神から人への単方向の救いではなく、神と人間の相互の反応であることを示しています。
 
キリストの神性は、女性の本気で一途な行いと正直さに反応しています。信仰が、神の業である奇跡の単方向ではない、ということを表しています。また、奇跡が起こっているのだから、当然、人の正しさとか、心構えとか、努力とかいった、自力ではないことをも示しています。信仰が、神性と人間性の、相互の反応であり、双方向であることを示しています。神性は人間性に反応しているのです。いと高き神の愛は、低き人の言動に反応しているのです。人には見えないところまで、神は総てを見ておられるということです。
 
シャローム氏は、また、分かっているふうに、偉そうなことを書いていますが、いったい、いかなる低さ?と正直さ?を捧げて、いかなる?神の反応を待っているつもりなのでしょう。
 
 
(2016年07月28日、同日一部修正)
 
拵える(こしらえる)
与る(あずかる)
 
 
 
 

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