ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年07月

 
  あなたは愛?
 
 
どのようなことを書き、どういう記事を転載するか、ということから、見えてくること。
 
>神様はあなたのことをぜんぶ、OK!☆といってくれるんですよ
 
>神様の愛はあなたをみすてることがないどころか、あなたのすべてを、愛し、
>あなたがじぶんのことを「ちょっときらいだな」と思っているところだって、
>神様からみればすべてがOK!なのですよ。
>もっとじぶんを楽しませてもよいのよ。
 
冷静な思慮ではなく、陶酔感が言わせた言葉、という印象を否めないし、冷静に考える立場からは、妙に偏った不自然な、違和感を禁じ得ませんが、こういう無条件の救いの言葉だけを求めて止まない者が、書いたり、持ってきて転載したりしている、ということです。ちょっとでも冷静に思慮するならば、既に、ぶっ壊れそうなくらい、明らかな事実が、有罪と背教を示しているということでもあります。その不都合を、何の脈絡も必然もなく、視野の外に、質量のないものとして、一挙に放り投げて、なきものにして、愛されている実感気分だけに浸りたい者が書いています。だから逆に、そのことによって、自分は断末魔です、と宣言しているようなものになっているのです。そのことによって、自らの質量のなさを暴露してしまっています。
 
>にんげんはふかんぜんで、罪人です。
>だから、
>イエス様はそんな私たちのことをOK!といってくれるんですね。
 
ここは興味深いと思います。信仰が厚く、しっかりしているから、OKではないということ。
不全だから顧みてくださる、これを理解できるのは、キリスト者の一つの特徴だと思います。
 
>あなたのためにいのちをすて、あたらしいいのちをくれる人はいますか?
 
キリストのことを言っているわけです。このことを曲解して、どんなときにも、どんな罪でも偽善でも、キリストが罪を背負って・・と、よく考えもせずに、何度キリストを死なせても、罪と偽善を犯すことを繰り返して悔いない者が書いています。もし悔いているなら、このような文章を載せることは出来ないからです。罪と偽善にもかかわらず、なおも無根拠に自分の正しさを言い張って、信仰の道に沿っている、と言いたい者が書いています。
 
>イエス様の十字架の血潮はすべてのあなたの罪をゆるし
 
キリストの赦しを、罪でも赦しでも何でも、何をやっても許されると思う他はなくなっているのでしょうが、そのことが、どうしようもなく、はるか遠くまで、信仰から外れてしまった自らの位置を示しているのです。
 
>神様によってあたらしく変えられよう
 
ここを読んだのでしょうか、読んだのでしょうか、、、
 
>イエス様があなたを愛しているから。
 
ここを、自分は、特別に、神の敵からの攻撃という受難があり、特別に赦される、特別だから、いつでも、どんなときでも、どんなことでも、どんな罪でも、どんな偽善でも、赦される、愛される、と勘違いしている、節操のない耳が共鳴し、うどんをすするように口に入れて、ここで節操のない口から出そうとしている、という話です。強烈な被愛妄想的確信に信仰も我も忘れて、身勝手な愛のストーカーとなっているのは、神ではなく、自分のほうだと知るべきでしょう。
 
キリストの愛に共鳴と共感が出来るのは、砕かれた魂が心から罪を悔いる心です。
キリストの愛が共鳴し共感が出来るのは、砕かれた魂が心から罪を悔いる心です。
 
 
 その名は不思議
 あなたは愛されています
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27600961.html
  彼は、性根を改めないまま、病んでしまった信仰の症例で、
  しかも彼は、精神の病気ではない。
  もっとひどい病気だと判断している。いかなる薬も効かないだろう。
  魂を徹底的に砕かれない限り、治らないだろうと判断している。
  約5年間の根拠に基づいて言うが、彼は、
  黙って、じっくり自分を見つめたほうがよい。
 
 
(2016年07月27日、同日一部修正)
(2016年08月02日、一部修正)
 
 
 
 

 
  憑霊崇拝
 
 
彼は
聖霊の話を思っているときに
たまたま味わった陶酔気分を
人が神からの聖霊だと決めつける
という最も重い罪を犯した
 
そして彼は
神からの聖霊と思い込んだがゆえに
それを何より大事にして
そのことばかりを思うようになり
そのために近くも遠くも
人のことを考えなくなった
 
人を疎かにしたので
人に対して罪を犯し
しかも神の前に
罪を隠してよく見せよう
という偽善に至った
 
彼は偽善の常習者となって
聖霊の導きゆえに罪を犯さない
という信念のもとに
罪と偽善を重ねて
しかもそれを悔い改めもしないのである
 
明らかなのだ
人に対して罪を犯すことは
神に対して罪を犯すことである
 
彼は聖霊の決めつけに囚われて
人を人とも思わず
罪を罪とも思わず
ゆえに罪と偽善は増し加わり
彼はだんだん人としてよりも
聖霊に導かれる者として
生きるようになった
 
しかし明らかなのだ
聖霊に導かれて罪を犯さないと
考えること自体が罪である
 
神から与えられた悔い改めの機会を
ことごとく彼は無にして生きている
 
彼は人であるのに罪を犯さない
そのようなことを神が赦すはずはない
 
彼は恵まれたと同時に試されていることを知らない
 
聖霊であればなおのこと
彼は恐れを持って自らを慎むべきだったのに
明らかなことは
彼は聖霊の導きにのぼせ上がっているが
 
明らかなのだ
聖霊が人を疎かにしてよいと導くはずはない
 
彼は
聖霊に従い神にお任せするのが一番と
昨日も今日も毎日のように
聖霊の陶酔気分をどうにかして保とうと
人を完璧に無視し続けることに専念している
 
憎しみや怒りであったなら
まだ増しであっただろう
 
世辞を言う者に世辞を返すだけで
 
憎しみでも怒りでもなく
彼は憑霊の奴隷となって
人の正直な苦言を聞かない
 
明らかなのだ
彼は人であるのに罪を犯さないからと
聖霊を讃えて人を無視するが
そのようなことを神が赦すはずはない
 
人を疎かにすることは神を疎かにすることである
 
 
 「子としてくださる御霊を受けた」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27598421.html
  表面的に体裁を装っているが、事実を知っている者として言うなら、
  書くことが、自分にとっても、人にとっても、神にとっても、
  未だに善いことで、整ったことだと信じている今の彼は、
  著しく歪んで奇妙に変色した生もの、という印象です。
 
 
(2016年07月26日、同日一部修正)
 
憑霊(ひょうれい)
崇拝(すうはい)
疎か(おろそか)
慎む(つつしむ)
世辞(せじ)
生物(せいぶつ)、生き物(いきもの)、生もの(なまもの)、・・
 
 
 
 

 
  永遠の今?
 
 
過去も未来も考えたくなくて、今を永遠としたいのでしょうか。どこかにすっ飛んで逃げたいのでしょうか。それとも、苦し紛れに、信仰による永遠が、偽善を生業とする今のどこかにあるとでも言いたいのでしょうか。自己絶対化と正当化に走ってしまう狂信は、いったい、どこに向かっているのでしょうか。
 
自分が救われる民の一人であることが、自分の偽善によって、怪しくなってきた者は、前に書いたことを何度も繰り返して、そのときの思いを取り戻そうとするのでしょう。しかし、そのときの思いが、その者に返すのは、同じことを考えても無駄で、そのとき正当化できたと思っていることが、既に間違っていて、全く新しい思いに生きなければならないのに、それは今の自分が砕かれることでしかないのに、ということ、しかし、かつて貪った安穏にしがみつく者は、それが分からず、分からないとも言わず、懐に溜まっている埃を、舐めたり、さすったり、するしかないのでしょう。
 
> 今日が特別な日なのは、この日は主が備えられた日、主がつくられた日だからです。
> 今日、主があなたやわたしのために何かをされることを信じ、期待できますか。
>だから、喜び祝うのです。
> 喜び踊るような気持ちをもてますか。
> 目に見える現状がどうであっても、喜びの先取りです。
 
過去に目を向けたくないのでしょうね。今日だ、今だ、今しかないと、過去にしでかしたことを一切無視するために、喜べ喜べと、自分に叫んでいるようです。これだけ偽善を重ねておきながら、喜び祝うのだそうです。目に見える現状がどうであっても、というのは、否応なしの不遇のときのことですが、他者を巻き添えにして自分が招いた、とんでもない今の状況を考えずに、とにかく、すべての原因を無視することで、喜び踊る、ということを、なりふり構わず、選んでいるのです。そこには、自分は絶対正しい、何故なら聖霊に導かれているのだから、という、とても異常な確信があるのでしょう。信仰の勘違いによる偏りは、これくらい異常な有り様になってしまうのでしょうか。
 
>これはお金があっても無くても、能力や才能があってもなくても関係ありません。
> 実はそれが信仰です。
>このことで励まし合う仲間がいますか。
 
仲間が欲しいでしょうね、こういう者は。何と言っても、正義があってもなくても、神の裁きががあってもなくても、関係なく、それが信仰という、脅威の自信に身を置いたからです。でも、身勝手で自己中心的なものに、本当の仲間などいるとは思えません。何故なら、本当の仲間は、手放しで賛同したり、よいしょしたりして、持ち上げて悦ぶだけではないからです。
 
成り行きとして不思議はありません。何でも救われるという信仰を持つ者だからこそ、仲間だろうが、聖書だろうが、手段を選ばず、何でも自分のために利用しようとするのです、それでも、赦され救われると思っているのでしょう。
 
> 時間は流れていますが、私たちの手の中には“今”という時しかありません。
> 過ぎ去った時もこれからの時も私たちの手の中にはないんですね。
> 今こそ、今だけが私たちに与えられている時ということです。
 
今以外の時間を、手の中にないからと、無視しようとすれば、今度は、すぐ先の、また、もっと先の、未来にさえ無視されることになるでしょう。
 
>ふと自分が過去に囚われ、過去に生きていることがあります。
>また、今の時ではなく、未来に生きていることもあるようです。
>思い煩いは過去と未来に生きている“重い患い”だと聞いたことがあります。
 
過去を反省する姿勢を失っていることを、過去に囚われることだと見なしているようです。こういう勘違い以上の曲解や思い込みに走って、未来が不安になると、今度は、過去や未来を思うことは、現在の自分が過去や未来に生きることだと、いつの間にか、以前に他者を病気と断定して侮辱したことなど忘れて、何やらドクターになったつもりで、今度は自分を診断して、治療しようとするのでしょう、それは「重い病気」だから、一切の後悔も反省もしてはならぬと、また絶対律を作り上げて、人を人とも思わぬ自分の世界を勝手に築いてしまいます。しかも、それを・・聞いたことがあります、と婉曲に言って、いったい誰のせいにするつもりでしょうか。
 
> 私たちは過去も未来も神にゆだねて、永遠の今を生きることができるのです。
> 今は神のみ手の中にあり、私たちは神のみ手の中に生かされているからです。
 
今の悲惨さを忘れたいと思う者は、それを、もっともだ、と思ってもらおうと思って、今を永遠ということにして、神に生かされている、と豪語するしかないのでしょう。しかし、それをもってしても、悲惨な今が、望ましく生かされる時間に変わることはないでしょう。何故なら、今を欺いて、近い未来も、遠い未来も、望ましくはならないからでしょう。そういう自己正当化だけに必死な者が、次に考えることは何でしょうか。今の正当化と、それが不変だということを、自分に言い聞かせるしかないのでしょうか・・。
 
> 使徒パウロは獄中から次のような言葉を私たちに書き送っています。
 
 (ピリピ人への手紙、口語訳)
4:4
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
4:5
あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6
何事も思い煩ってはならない。
ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、
あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、
あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
 (ピリピ4:4-7、新約聖書)
 
自分信仰で讃美を捧げ続けてきた者には出来るのです。いいことが何もなくても、喜ぶことが・・。それは、とても気色の悪い異常な心性ですが、その者には出来るのでしょう。そして、もうすぐ、約束通りの救いの主が来て、自分が寛容で正しく、よく耐えたと褒めてくれるのだと、思い込み、また、思い込もうとするのです。これが、その者の信仰なのです。自己中心の絶対化による結果、自分の非を認めて反省するなどということは、自己の絶対性において決してできない相談なのでしょう。
 
だから何も思い煩ってはならない、と書いてある聖句を引用するのです。実際は、多くのことを考えなければならないときに、何も思い煩わない、それは、ふつう、出来ないことですが、その聖句にしがみつき、このとき、その者にとって、聖書の一部でしかない聖句が、人生の絶対律となって、どんな罪も偽善も考えないし反省もしないことが、信仰になってしまうのです。
 
そして、その者の求める身勝手な救いの欲望を、神に訴え続けるのです。そうすれば、いつも信じているように、罪や偽善を犯そうがお構いなしに、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、その者の心と思いを守ってくれると思い込むのです。人知を超えた神の意志を、人知さえ危ういその者が決めてしまう、という、呆れるほどの矛盾を押し通そうとしているのです。信仰を勘違いすると、こういうことも起こるということです。他者のことなど、また、神の下での平等も、反省の余地も、悔い改めも、微塵も考えていません。その堂々巡りの繰り返しを、その者は、死ぬまで続けるのでしょうか。その者と同じような信仰を持つことが、いかに身勝手な人を作り、自己崩壊を招くことであるかを、ここで学ぶことが出来るでしょう。
 
思い煩わずに今を生きる、ということは、本来、神が与え、信仰がもたらす、恵みとして、語られているのです。それは、思い煩うな、というキリストの教えがあることからも分かるのです。そして、それは、過去と未来を十分に悩んだ末に、信仰者がたどりつく、救いの平安でもあるのです。
 
しかし、その教えを、自分の罪と偽善を考えたくないために悪用して、罪と偽善を犯すたびに、すべてを無視し忘れることで、何の反省も修正もなく、生きてきたのだろうと推測される者が、思慮を欠いたまま人にも伝えようと語るのを見ると、過去の都合の悪いこと、現在の都合の悪いこと、未来の都合の悪くなりそうなこと、それらを一切考えたくないために、考える、悩む、悲しむ、という人間らしい感情を伴う入り口さえ、完全に遮断して、無視して、不利なことは考えないのが一番、それが信仰、という無神経な心性によって、教えが汚されている、ということを書かざるを得ないのです。だから、偽善の事実を知るならば、偽善者によって、今を生きる、ということが、とても便利な自己中心の処世の技術のようにしか感じられず、聖句を何だと思っているのだ、という話にしかならず、深い思索も悩みも感じられない文章が、他人事のように繰り返されているだけ、という評価にしかならないのです。ここにも、信仰を自説の教理で、ゆがめてしまった者の、情感の欠如が、表れていると言わざるを得ないからです。
 
 
 その名は不思議
 永遠の今を生きる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27598456.html
 
 類似の過去記事は、
 
 今日を生きる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27284785.html
 
 今日を生きる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26904240.html
 
 今を生きる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26638795.html
 
 あばたもえくぼ?!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22980337.html
 
 
(2016年07月25日、同日一部修正)
 
どうも、勢いで書いてしまって、話が一面的になる傾向があって、どうにもならないような気持ちで、今日も、また、追加、補足、修正している。(嘆息、苦・・)
 
偏り(かたより)
貪る(むさぼる)
懐(ふところ)
溜まる(たまる)
埃(ほこり)
褒める(ほめる、誉める)
 
 
 
 

 
  全能の救い
 
 
神様は死人を蘇らせることが出来るんだよ。
 
 だろうね。
 人が生まれる時と死ぬ時を定めるのだから。
 
神様は湖の上を歩くことが出来るんだよ。
 
 だろうね。
 湖をカラにして空に蒔くことだって出来るだろう。
 
分かってないな。
神様は空を飛ぶことだってできるんだよ。
 
 だろうね。
 空を飛ばすことだってできるだろう。
 
花が咲くのも実が成るのも
神様がそうさせるからなんだよ。
 
 だろうね。
 花が散るのも実が落ちるのも
 神様がそうさせるからだろう。
 それも尊いことだ。
 
 そんなことを論って君は神を信じているのかい。
 
だって神は全能だから。聖書で読んだんだから。
 
 聖書を読むのなら
 一番大切なことを見逃してはいけないよ。
 
 その全能の神が人間の心に
 深く共感して反応してくださるということだ。
 
 

 
記事本文は直感的に書いています。
 
神と人とは双方向であり
それが可能なのは
神性が人に
神性の理解ではなく
人間性を与えたからです。
 
そこを勘違いしている人は案外多いような気がします。
 
人間性は神性に遠く及びませんが
神性は人と
人間性を共有しているから
共感しあう双方向が成り立つのです。
それを思わないで信仰を考えることは出来ません。
 
ここは、かなり理屈っぽくなっています。失礼。
 
 
(2016年07月24日)
 
蘇る(よみがえる)
蒔く(まく)
論う(あげつらう)
 
 
 
 

 
  渇きの行方
 
 
マタイによる福音書によるキリストと
取税人だと言われているマタイとの出会いの記事:
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:9さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。 9:10それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。 9:11パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 9:12イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:9-13、新約聖書)
 
とあります。引用後半は心に残る内容ですが、キリストに従って来なさいと言われてマタイが従った、というのは何だか素っ気ない書き方になっています。マタイとイエスの間に、何らかの語らいがあったけれど、省略されている、という見方もできるだろうに、二千年前の事実を決めつけて信じ込まないとないと気が済まない者は、これをもってか、マタイはキリストにあった途端、魔法にかかったように、キリストを信じた、みたいに書くのかもしれません。
 
>イエスの選び、されることは今も私たちの常識に反することが多いようです。
>しかし、新約聖書の冒頭にマタイによって書かれた福音書があるのは
>イエスに招かれ、イエスにある神による救いを体験し、その喜びを誰よりも先に
>自分を憎み軽蔑していたイスラエルの人々に真っ先に伝える者とされたのです。
 
>マタイはイスラエルの人々のために、イエスが確かに神が遣わされた救い主であることを
>預言者たちによって約束された方であることを旧約聖書の言葉を数多く引用しながら
>イエスの誕生と生涯を記録し、新約聖書の初めに掲げられる福音書を記録したのです。
 
>マタイは神の救いの約束をイエス・キリストによって体験し、
>かつてマタイは神の救いに無関係な者、神の裁き、呪いを受けるべき者と軽蔑し、
>決して関係をもとうとしなかった人々のために福音書を書いたのです。
>マタイはまさに神の愛は
>愛されるにもっともふさわしくない者に注がれることを証言しているのです。
>マタイはイエスとの出会いによって体験したのです。
 
また、その出会いに、魔術的な奇跡を当てはめて、このとき、とんでもないことが起こったのだ、と決めつけ、そのマタイが福音書を書いたと断言して、福音書の神秘性を主張して、それ以外の可能性を考えず、ゆえに書かない者もいるでしょう。
 
私は読書が苦手で嫌いですが、少しは聖書に関する本を読んだこともあります。それらによると、マタイによる福音書は、紀元70年ごろに書かれ、その著者は、聖書に登場するキリストの弟子マタイではない、と言われているようです。
 
しかし、弟子マタイに何らかの関わりのあった人か、その影響を受けている人が書いたという可能性もあるので、また、聖書を二千年前の書物として受け取るか、それともキリスト教の聖典として、神秘の関わりの可能性を否定しないという見方もできるでしょう。ここは、決めつけるのではなく、一方を書けば、もう一方の可能性も添えて書くくらいのことを心掛けるべきだとも思います。私たちの信仰は、二千年前の事実に依存するでしょうか、否、そういう事実関係よりも、はるかに人間にとって重要なことを聖書は語っていると私は思います。
 
その人間にとって重要なことを汲み取れない者が、往々にして、神秘的な話を好み、魔法のような奇跡話に持って行って、人々を、人間離れの神がかりの超常信仰に誘導して、自らの言説を神秘的な奥義に見せかけようとするのです。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
4:7ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。 4:8弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 4:9すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 4:10イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 4:11女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 4:12あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 4:13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 4:15女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
 (ヨハネ書、4:7-15、新約聖書)
 
次に、聖書は女性の個人的事情について言及し、
イエスはキリストとして信仰と救いについて語ります。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
4:16イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。 4:17女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。 4:18あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。 4:19女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 4:20わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 4:21イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 4:22あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 4:24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
 (ヨハネ書4:16-24、新約聖書)
 
そして、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
4:25女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 4:26イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
4:27そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。 4:28この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 4:29「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
 (ヨハネ書4:25-29、新約聖書)
 
イエスは、自分がキリストであることを、サマリヤの女性に告げています。結構、重要な部分だ、と感じたことでした。ユダヤ人に蔑まれていたサマリヤの女性の、低い姿勢に注目するべきでしょう。パンくずの奇跡と同様に、キリストは、このように自らを低くできる人には、慈しみを惜しまなかったのです。
 
>その女は井戸に水を汲みにきたことも忘れて、水がめをそこに置いて
>自分を嫌い軽蔑しているサマリヤの人々に
>イエスの事を知らせるために走り出してしまったのです。
 
>ひとりの女の人がイエスと出会うことによって起こったことなのです。
 
救いの奇跡のどんでん返しを強調するために、サマリヤの女性がその個人的事情によって同郷の人々によっても軽蔑されていると書いても、キリストがその女性に共感して示した慈しみに反応したその女性の、キリストに対する低い姿勢には注目せずに、すべてをキリストに出会ったからだ、という奇跡話にしないと気が済まない者は、女性の、誰のせいか分からない不遇を強調して、自分も蔑まれて苦しんでいるが、キリストに会えば、こんなに顧みられ救われるのだ、キリストに会えば、どんな悪者でも、どんな罪を犯していても救われる、ということを強調したいようです。
 
この女性が、たとえユダヤ人であっても、今も罪と偽善を犯していて、それでも非を認めず、悔い改める気持ちもないのに、自分には神の霊が注がれているから救われる、などと言ったら、女性がそういう人だったら、さて、どうなるでしょう。
 
>私たちもイエスに「主よ、わたしがかわくことがなく、
>また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。」
>ということが出来るのです。
 
無条件に、こういうことが言える、ということになるでしょうか。
 
無条件に、信じると言う総ての人が、神の奇跡によって、人間には分からないままに、一方的に、魔法のように、人間にとって何の道理もなく、救われる、ということなら、キリストが、人間として、人間の姿と心を持って、現れる必要は、どこにあるのでしょうか。
 
ここに、前に書いたパンくずの奇跡と同様に、神に憐れまれ、赦され、救われるための、人間としては、また信仰者としては、当然のことを思い出させ、信仰の芯とも言えることが暗示されているような気がしてなりません。
 
 
(2016年07月23日)
 
蔑む(さげすむ)
軽蔑(けいべつ)
顧みる(かえりみる)
 
 
 ノドの渇きと心の渇き
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27594873.html
 2016/7/22(金) 午前 6:46
 
 イエスと出会う
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22694509.html
 2012/5/2(水) 午後 4:48
 
 

動画は、
韓国のオンヌリ教会というところの聖日礼拝の様子。
(「オンヌリ」とは「私たちの住む世界全体」の意味のようです。
 オン:すべての、ヌリ:世界、という意味だそうです。
 エキュメニズムEcumenism:世界教会主義、全キリスト教会主義
  の流れだろうか、私は、よく知りません・・失礼。)
大きなホールに、大勢のクリスチャンが、全員で
讃美の歌を歌っているようです。
・・私には、あまり縁のなさそうな場面ですが、
韓国には政治的なことで
信徒にも、日本より危機感があるようにも感じます。
その歌の中に、
私たちは、弱い者、罪を犯します
という告白のような歌詞もあるのですが、
シャロムshalom氏に、どういうつもりで聞いている?と問いたい。
説教は、使徒行伝27章の話でしたが、
シャロム氏は、いったい、
「揺り動かされない人生」・・どこに堅く立って、罪と偽善を続けられるのだろう・・
いかなる錨を、どこに下ろして、荒らしの中の被害者の自覚だけで、
誰の声を聞くと言うのだろう・・偽善者に寄り添う救世主の夢でも見ているのなら、
それは、貪欲のなせるわざです。
 
錨(いかり)
貪欲(どんよく)
 
 
 
 

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