ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年08月

 
  その名は迷走
 
 {迷走、逆走せず進む}
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27665135.html
 
 
迷走そして逆走している、彼、シャローム氏が、この記事を転載したのは、とても不可解です。今もなお、人に向かって、こんなことが言えるつもりなのでしょうか。自分に向けて、ということなら、転載する必要はないのです。人に教えることより、自分が読んで、ひたすら、反省してほしいのです。今は、それだけが必要です。人に教えようとする姿勢は、自分は間違えていない、あるいは、自分が間違えるなら、人はもっと間違える、という優越意識にしかならないのです。
 
台風の迷走と、車の逆走から、信仰について語っています。はっきり言って、それだけの記事です。どういうことが、信仰における迷走・逆走か、また、信仰について、間違えるとき、または間違えないために、どうすればよいか、については、何も述べていない、という記事のようです。正しいならよいが、正しくないなら、正しくなれ、という、反省でもなく、教訓にもならない記事・・。
 
恐らく、聖霊への信仰を持っている人は、道を外れる心配というのを、あまりしないのではないか、と思います。何故なら、聖霊が付いていて、いつも自分を正しいほうへ導いている、と思っているから。つまり、一生涯、自分は安心、という信仰になります。こういうスタンスが、信仰にとって、最も危険だと私は思っています。既に記事がおざなりになっていますし・・。
 
安心してしまう人は、密かに、信仰から離れやすくなっていることを知らないのでしょうか。何故なら、人は、その本性として、すべてOKという安心を求めて生きているからです。この点は、世俗の人も、信仰の人も、同じです。多かれ少なかれ、そういう方向を向いているのです。早く、ただの、つまらない一人の人に戻ってほしいです。信仰は、そういう人を導くものだからです。
 
>逆走や迷走というのは、信仰のあり方においても、あまりいい感じではない
>向かうべき方向からの離脱であり、危険行為でもあるからだ。
 
いい感じではない、という表現でよいのかな・・・という気がします。2行目の、離脱、危険行為と、書いていることとバランスが取れていません。いい感じではないけど、神の導きが、聖霊が、正すから心配いらない、と言うのでしょうか。神の導きが、道を正すとしても、その導きを、逐一、モニターすることなど、人には出来ないのです。少なくとも、神の導きは、自動的に総てがよくなっていくというようなものではなく、自分がどう反応して考え、苦しんだか、ということに密かに反応した神の業であり、秘められたものは、迷走し逆走していると気づく者にとってだけ、迷走や逆走の背後にも、秘められて動いているかもしれないのです。
 
 
 (箴言、口語訳)
4:14
よこしまな者の道に、はいってはならない、
悪しき者の道を歩んではならない。
4:15
それを避けよ、通ってはならない、
それを離れて進め。
4:16
彼らは悪を行わなければ眠ることができず、
人をつまずかせなければ、寝ることができず、
4:17
不正のパンを食らい、暴虐の酒を飲むからである。
4:18
正しい者の道は、夜明けの光のようだ、
いよいよ輝きを増して真昼となる。
4:19
悪しき人の道は暗やみのようだ、
彼らは何につまずくかを知らない。
4:20
わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
わたしの語ることに耳を傾けよ。
4:21
それを、あなたの目から離さず、
あなたの心のうちに守れ。
4:22
それは、これを得る者の命であり、
またその全身を健やかにするからである。
4:23
油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。
4:24
曲った言葉をあなたから捨てさり、
よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。
4:25
あなたの目は、まっすぐに正面を見、
あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。
4:26
あなたの足の道に気をつけよ、
そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
4:27
右にも左にも迷い出てはならない、
あなたの足を悪から離れさせよ。
 (箴言4:14-27、旧約聖書)
 
 

私たちは間違った方向に進んでいるとしたら、立ち止まって、方向を確かめて、もう一度元の道に戻っていく必要がある。私たちはイエスから離れてしまっては何事も出来ないのだから、いつもイエスが必要なのだ。

 
このことが、誰よりも必要なのに、このことを、誰よりも無視している者が、この記事を転載しています。
 
どうやって確かめるのでしょう。神を讃美して、聖書語を並べる記事に、いつも感じることです。実際には、安穏としているだけなのです。堕落や罪や偽善から自分をやすやすと除外する前提を作ってしまう、という
信仰者の危惧を感じます。
 
方向を確かめるために、聖書を読むのでしょうか。内省でもしてみるのでしょうか。一番大事なことは、安穏の実質を持つ安心や平安から脱することです。自分を安全地帯に置くことこそが、堕落の第一歩なのです。安全地帯に置かなければ、そこから歩み始めることになります。そこから学習し始めることになります。それが一番大切で、学んで信じた立場に立ってはいけません。いつも学び信じる立場から出発して、その都度、裸にならないといけません。
 
キリストを離れては何も出来ない信仰者は、聖なるものの臨在を常に欲しています。だから、キリスト、神、聖霊、この聖三位が、いつもそばにいると言うことは、罪深き人の場合、だから安心、に結び付きやすいのです。神の平安は、一度与えられたら、ずっと安心という賜物ではないはずです。聖書の中で、人がどれだけ主を裏切ったを考えるべきです。そこに、キリスト者の安心材料はありません。私たちが、それでも、安らぎを得るのは、自分の言動に対して、秘められた導きの後、結果が表れ、その反応としてしかないのです。今までの経験から、恒常的平安の境地を唄う信仰は、殆ど信用できません。何故なら、信仰は、こんなにも小さく弱く低く罪深い、という自覚に表され、いつも安心という自覚からは遠ざかる方向にしかならないからです。平安はその都度、神と人の関わりの結果として与えられる、そのときだけもので、いつも安心・・は、それを自分の持ち物としている証拠だからです。
 
「見るべきものをシッカリ見て」
「みことばをガイドラインとし」
「導かれる御霊に教えられ」
「確かな目当て、天の御国に向かって」
 
こういうのは、信仰者の美辞麗句、キリスト教の通念的常套句、信仰者のリップサービス~苦し紛れ、いつ書いても何だかいいこと書いたような気分にさせてくれる聖書語、だと思います。具体性に欠けている言葉・・。これを、いや、幼稚でも書くことが大事なんだ、書くことで、主の取り成し、神の導きがあるのだ、と言う人は、あったかどうか、あるかどうかを、確認できない神聖に託けて、自らの安易さを認めたくない人で、信仰らしく見せるための常套手段であります。何でも・・することが大切です・・というだけで根拠を示さない言説には警戒してください。
 
信仰について、文章を書き、それを人に見せようと思うなら、立派なことを書く必要はないが、少なくとも、上のリップサービスを排除することから、始めるべきでしょう。別に文学的にするとか論文のようにするとかいうことではありません。リップサービスに陥るくらいなら、むしろ日常的なことを書いて、日々の出来事を書く日記にしたほうがマシだということです。日記には、ヒントが隠れているかもしれないからです。そこから始めるべきです。それはブログに最適でもあるでしょう。
 
また、私たちの信仰生活は、事実上、迷いながら、歩き、ときに慌てるように走ることです。それを、迷いはなくなり、慌てることなく進めるのが信仰だと勘違いしている人は、いかにも平安を得ているような外面だけを装います。信仰は、迷う心と慌てる心とを捧げる先を与えてくれる賜物です。信じれば、そこから先、迷うことが全然なくなるという約束ではありません。
 
彼、シャローム氏は、信仰についての記事を、深いことが書かれているということではなく、誰が読んでも表面的には意味が分かり、優しく丁寧な言葉で書かれていて、神を讃美する記事、という基準で選んで転載すると思います。そして、誉めそやします。注意してください。
 
認識するべきことがあります。私たちは誰も、神を、キリストを、聖霊を、正しく表す文章など書けません。このことを認識していないと、以上に書いたようなことを内省することなく、安易に、信仰の記事を書いた、書いてもよい、そういう気分になるのです。私たちは、人間について書く態度からしか、信仰を見ることは出来ません。
 
 
(2016年08月31日、同日一部修正)
 
託ける(かこつける)
慌てる(あわてる)
 
 
 
 

 
  世間体と体裁
 
 
今も、世間体大明神信仰や、体裁大権現信仰から、逃れられず囚われて、・・それらは、既に人間を苦しめる世俗の代表みたいな神?であるが(※1)・・、それら、巷の道徳から生まれた、本意を無視した、見かけだけの判断から、キリストを信じると言いながら、見かけを気にして、真の信仰からは、大きく外れた行為を平気でやって、しかも、ずるずると、言い逃れしか言ってこない者を、日常的に見せられてしまうのは、どういうことだろう。
 
※1:
古来の神道や仏教という意味ではない。何故なら、日本の昔話などに表れる、勧善懲悪が、日本の、そして日本人の、最初の公共の道徳であった可能性を否定できないからだ。そこから生まれてくるものが厄介、というのは、16世紀に伝わったキリスト教においても同様だからである。
 
 
この世と、神に、両方に仕えることは出来ないと、書いてあるのに、分からないだろうか。
 
 
キリスト教には、問題となる2つの側面というか印象がある。
 
欧米らしく、曖昧さを嫌い、合理的で、厳密であるように見えること。それは、何やらスマートな感じさえ与えるということ。
 
でありながら、ありのままでよい、というような東洋的な、緩い許容の印象もあること。それは、聖書にある、多くの逆説的な表現かもしれない。キリストの優しさであるかもしれない。
 
これらの、相反するような印象は、日本において、キリスト教が広まるために、それぞれ、いい加減ではいけない方向と、無理を要求しない方向とを、併せ持つかのような要素として、必要だったのだろうか。
 
厳密に見えるのは、神が、特に旧約では厳しい御方として書かれているから。だから、キリストは、旧約の神の怖さを克服した慈愛のような印象を与える。それが、ありのままでよい、という印象を当てるのだろうか。
 
しかし実際には、厳密な旧約の神は、厳しいだけではなかった。神が喜ばれるのは、生贄ではなく憐れみだ、といったような教えにも表れている。キリストは、旧約の神の教えを、否定したのではなく、成就するためだ、と言っている。・・これも、逆説的だ、という向きもあるだろう。また、聖書の中のキリストは、優しいだけではなく、何でも受け入れるわけでもない、厳しさを持っていた。
 
こういう、相反するような方向の印象が、いずれも一面的で、そういう捉え方は善くないと言っているのに、印象めいたものとして残ってしまったのが、そうさせてしまったのが、人の不全ということにもつながるのである。
 
神、聖書、宗教、信仰、それら全体にわたって、人の不全、つまり、いい加減さは、惜しみなく働いて、それもこれも、特徴だと、あちこちで言われたために、それが背教か殉教かも弁えないで、広まっていったのだろう。
 
その背景には、聖書を分かっていなければならないという強迫観念であったかもしれない。無理をして、こじつける者がいたのだろう。同時に、分からないと言えない気風も育ってしまったかもしれない。現代に生きて考えている人たちは、聖書について、神について、分かっているから物を言うのではなく、分からないから物を言い、分からないから知識を集め、分からないから話し合い、分からないことがあると分かる人であって欲しいと切に思っている。
 
神と、この世に、同時に仕えようとして、失敗することが、結局、信仰の目覚めになるように。苦難と不幸が試練に、そして恵みになることが分かるように。陶酔や有頂天気分が、信仰にとって、プラスにならないことが分かるように。いつまでも見かけ大事に凝り固まって、不正を働くような者にはならないように。さらに信仰の公義において、隠したりすることのないように。背いておきながら、間違っても、言い訳がましいことを何度も書いたりすることのないように。さらに、その言い訳に、誰も乗せられることのありませぬように。
 
 
(2016年08月31日、同日一部修正)
 
巷(ちまた)
曖昧(あいまい)
併せ持つ(あわせもつ)
生贄(いけにえ)
 
 
 
 

 
  まさかの言い逃れ
 
 
 「まさか」の福音
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27661063.html
 2016/8/29(月) 午前 8:01
 「まさか」へ飛躍の道
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24739561.html
 2013/8/19(月) 午前 9:50
 
 
彼の前の記事について、
 
>イエスは人の道を歩くことを期待した弟子たちやすべての人々に反して、
>人の道の行きづまりである十字架の道を歩まれたのです。
>人の道の行きづまりと破綻の中に「まさか」という驚きの道が開かれてくるのです。
>生ける神による「まさか」のいのちの道なのです。
 
が、今回、削除されたようです。理由は書いてありません。人の道の行き詰まり=十字架、と取られると語弊があるからでしょうか。現実と理想を、同じ言葉で表すと、ときに、間違ったような、変な文章になることがあります。十字架は行き詰まりではない、と、人の道が行き詰まると、十字架の話と信仰に至る、ということを弁えて分ける、というのは、なかなか難しく、弁えず、避ける、というのが精々になるのは、・・と、ここまでは、無理からぬことですが、
 
 
>「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。
>「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。
 
パリサイ人や偽善者が、キリストから厳しいことを言われ否定される記事がありますが、これも、人の道(悪の道)の行き詰まりです。パリサイ人や偽善者に、そのまま、悔い改めることなく、まさかのいのちの道がありましたか。
 
彼、シャローム氏は、自分が、人に対しても、神に対しても、ひどいことをしたけれど、悔い改めることなく、まさかのいのちの救われる道があると信じたいのです。問題に対して何もしなくても、悔い改めも、解決もしなくても、自分が正しく救われる、という、自己中心の自己正当化を、わめいているのです。往生際が悪いというか、身勝手もいい加減にしてくれ、ということです。
 
彼、シャローム氏の場合、「まさか」が、起こりうる状況ではないのです。むしろ、偽善を、今でも隠して、それでも、「まさか」のいのち道で救われる、と言い続けるのは、反省も何もないわけだから、ますます神に背き、ひどいことになっています、1つ記事を書くたびに、背教を深めているのが現状です。
 
 
>だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。あわてない。辛抱強い。
>奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。「まあ、こんなもんでしょう」は、
>一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。
 
引用の、辛抱強さは、捕虜になった体験、つまり、被害体験からの忍耐強さでしょう。「まあ、こんなもんでしょう」は、奴隷でなくても、多くの人々が、日常で、ちょっと疲れたとき、何かを諦めるときに、言うのではないでしょうか。「まあ、こんなもんでしょう」は、一種の諦めの表現かもしれません。
 
彼、シャローム氏は、加害者です。加害者が、真実によって加害を明らかにされつつある現状で、自分を被害者だと思っているとは、ますます、例えば殺人犯の「殺すしかなかった」「殺す気はなかった」という言い逃れよりも醜いものです。彼を被害者と見なす材料は何もありません。彼の、自己正当化、言い訳、言い逃れは、みな話にならないものとして、今までにことごとく、否定されてきました。だから、彼は、直接には何も言えなくなっており、コメント欄を閉鎖するに至っているのです。今の状態が、彼の悪を証明しているのです。
 
だから、今シャローム氏が、慌てないでいられるとしたら、それは、シャローム氏の悪意の強さがそうしているということになるでしょう。悪意に支配されている間は、悪魔のごとく、平気でいるのでしょう。どこまでも、自己正当化で、救われる、と言い張ることは醜い。どこまでも、自分に甘い人です。依存心の強さでしょうか。今も、彼は、神に対して、見捨てないって言ったじゃない、救ってくれるって言ったじゃない・・とか、言っているのでしょうか。
 
 
>原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、多くクリスチャンになった。
>現状は変換クリックできないと諦めていたのに、
>現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。
 
歴史的に、このような背景があることは推測できることです。そこから神に拾われ救われた人々が、隠し事や偽善に走るでしょうか。このことを引用した、彼、シャローム氏がしているようなことを、彼らは、故意にすることは決してないでしょう。
 
仮に、彼、シャローム氏の、思うとおりになって、そんなやり方がうまくいくとしたら、それは、とんでもない悪の成就ですから、彼の台詞は「まさか」ではなく、「しめしめ」でしょう。
 
しかし、神の業である「まさか」は、神を欺こうとする言葉を発する人には、決して、起こりません。それは、偽善者の仕事だからです。聖書で最も嫌われた罪なのです。
 
>それがキリストの福音だ。「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。
>社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、
>社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。「まさか」と狂喜しながら。
 
こういうことなのです。「低いところ」・・。これが、彼、シャロームの、最も不感であるところ。いつも相手より勝っていると思いたい、彼、シャローム氏は、いつまで、他者の記事を、悪用することで貶めるつもりなのでしょう。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
4:1
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 4:6ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
 (ローマ4:1-8、新約聖書)
 
ここには、働きによる報酬として義とされるのではなく、不信心であっても、行いによらなくても、信仰によって義とされる、ということが書いてあります。ここで「不信心」とは、信仰がないことではなく、信仰者らしく見えないこと、と解釈するべきでしょう。キリスト者は、必ずしも、信仰者らしく暮らしているわけではありません。信心よりも大事な信仰があり、神は、そこを見逃さず、ちゃんと見てくださる、ということでしょう。
 
神を恐れないのでしょうか、彼、シャローム氏は、毎回、恐ろしいことを書いてきます。自分も今のまま救われるという欺瞞の根拠をこの聖句に求めるとは。キリスト信仰者は、少なくとも、偽善を、いけしゃあしゃあと、やっておきながら、その偽善を、神に義とされる理由にしたいのでしょうか。偽善にもかかわらず、救われると言いたいのでしょうか。この聖句には、そんなこと一文字も書かれていません。聖書のどこにも、悔い改めることなく偽善者が救われる話は、書いてありません。
 
自分の周りに、独裁国家と同じような情報統制の壁を作り、分け隔てを作り、言論の自由を踏みにじり、あらゆる批判を拒否して、なきものにしながら、その表では、詭弁によって、絶対の民主主義者のように語り、絶対の信仰者のように語り、自分を正しさを訴え、分け隔てのない信仰に見せかけ、空しく飾り立てた言葉と勘違いの聖句によって、自分の無罪を認めてくれる自我の弱い腰の低い人を求めて、誉めそやして利用して、救いを、今のまま思い込もうと、今のまま思い込もうと、繰り言を続ける、唯我信仰者、彼、シャローム氏です。
 
詭弁の夥しい証拠が積まれている内側を隠し続けている、彼、シャローム氏は、とても、醜く、卑しいことに彼自身だけが気づかないでいます。彼が分からないなら、他の人が影響を受けることのないように、私は努めるしかありません。
 
 
だんだん、彼、シャローム氏は、いわゆる、女子供のような、とか、女々しいとか、今は語弊のあるような言い方で表すような、退行して、駄々をこねるような幼稚さになってゆくような気がします。信仰の妄想的確信と執着による狼狽化と、退行と、崩壊過程が見られるようです。太字で書いても、中身は同じですし、ますます強調されるようです。神に対する態度を悔い改めることなく救われた人は、一人もいない、ということを再確認させる、彼、シャローム氏の醜い記事でした。
 
「まさか」の救いの奇跡は、神から与えられるものですから、神を欺こうとする言葉を発する人には決して起こりません。それどころか、背きが増し加わるだけです。
 
「まさか」の救いの奇跡は、神の前に正直で低い人々に起こります。そういう人は多くはなく、人から見ると、救いから遠いように見えるけれども、神様にとって大切で尊いのかもしれません。
 
 
(2016年08月30日)
 
貶める(おとしめる)
語弊(ごへい)
欺瞞(ぎまん)
台詞(せりふ、科白)
業(わざ)
欺く(あざむく)
詭弁(きべん)
夥しい(おびただしい)
 
 
 
 

 
  ペロッと偽善?
 
 
なぜ、どういう経過をたどったら、神を讃美し、福音を語っているつもりでありながら、その裏の顔で、ペロッと舌を出すかのように、偽善を施すことが出来るのだろう。さらに、どう考えたら、隠せば分からない、ばれなければいい、などと見なして、偽善を続けることができるのだろう。
 
確かに、人間離れは、道理も何もなく、常識はずれの忍耐を示すことがある。つまり、周りのことを、完全に無視する力は恐ろしいものがあり、それは、非人間から、無頓着、無関心、不応、という性質を桁外れに持っているからだろうと思う。さらに、自分信仰は、それを助長するだろう。
 
しかし、真顔で文章を書いて、人に見せながら、裏で、まるで逆のことをするという性質は、脅威であり、恐怖である。既に、私はそれを非人間と書いたのだから、まともな人間だとは思っていないが、心とか意識とか、人間ならではの機能が、全く異常を阻止するためのブレーキになっていないのである。元々の人間らしさの乏しい体質を、絶対の神から自己絶対化へと、信仰と名付けたものによって、無制限に強化した結果だろうか・・。
 
本来、信仰の倫理は、偽善という最悪の罪に対して、最も強い抑制となるはずだが、それが、自己絶対化によって、正反対の方向へ人を向
かわせているのだ。ここまで行ってしまうのかと、しばしば呆気に取られるほど、信仰の勘違いが、徹底して、分裂した行動パターンを破壊的に決めている。
 
本人は、前に、誰かから仕入れたアンビバレントだから(正しい)とする、奇妙な解説を、行き過ぎたお世辞のように、浮かれるような調子で言っていたことがある。アンビバレントは、何かを正当化するためにあるのではない、心のよろしくない病理を、愛と憎しみといった相反する感情の葛藤として、説明するために考えられた言葉である。両価性、両価感情、両面価値、とか言われる葛藤を表す用語である。アンビバレントだから正しい、などと言う説明はあり得ないのだ。
 
人からもらった言葉を、理解もしないで、間違った使い方をしていたのは、言葉や文章の読解力の問題だろうか、しかし、能力の問題だけで偽善には走らないだろう。やはり、目先の困難を避けるために、姑息に場当たり的に、利用できるものを見境なく利用していると解釈するべきだろうか。
 
私も、人のことばかり言っていてはいけない、人の問題は、常に自分が陥るかもしれないリスクとして、考えようという姿勢を少しはもっているつもりだが、このことについては、自分の心と頭の中でシミュレーションが出来ない。いくらなんでも、そこまでは行かない、というか、行けないだろうと思ってしまうのである。多くの人にとって、無理なのである。
 
やっているうちに、これちょっと偽善的かな、と思うことはあるだろうけれど、偽善というのは、自分をよく見せるために、または、自分の利益のために、大方、故意に犯すものだと思う。意図的に偽善を企て、実行しようとするときに、また何かを書いてアップするときに、聖書の記憶が気にならない、キリストのお姿が気にならない、気にしないでいられる、無視できる、ということが、とても信じられないのである。いいよ、偽善、おやりなさい、あとはまかして、と言う神のイメージでも浮かぶのだろうか・・絶対おかしい。
 
あらゆる悪と罪から自分を完全に除外している、非を認めることがない、ということから、罪悪感を持てないのではないかと疑い、サイコパスのようなものを考えてみ見た。それは、かなり当てはまるようだった。
 
何らかの心理的原因があるのではないかとも思うが、偽善を犯す場合の心理的なものと言えば、牧師としての立場、体面、見栄、体裁、を守ろうとする気持からの、避けられなかった行為、という見方になるが、この、体面、見栄、体裁、というのは、この世の富と誉れの象徴であり、信仰によって、始めに克服するべき欲望であり、そのことを、牧師でありながら、知らないできた、ということが信じがたい。知らないでいるとすれば、彼に信仰を伝えた伝道師、牧師、教会、神学校さえも、疑うことになるのである。彼の教師だった人物も同様だったのか。教会も同様だったのか。
 
高校のときに洗礼を受けて、まあ、勉強不足で、欠点だらけで、まともな人生だったとは言えない私が、人のことをとやかく言うのは、罪ではあるのだが、この問題ばかりは、信仰が深くかかわっており、こころと信仰の問題として、私は無視することは、恐らく一生出来ないだろう。
 
 
(2016年08月29日)
 
 
 
 

 
  罪の言葉だけ
 
 カインの末裔
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27657523.html
 2016/8/27(土) 午前 10:23
 
 
彼、シャローム氏が、ようやく罪についての記事を書いたか、と思ったら、やはり前に書いた記事のコピーのようです。他者を断罪し、自分を責めない筆致は、そのままです。
 
 (創世記、口語訳、適当に改行を入れています)
4:1
人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 4:2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4:4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
主はアベルとその供え物とを顧みられた。 4:5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 4:7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。 4:10主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 4:11今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 4:12あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
4:13
カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。 4:14あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
4:15
主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。 4:16カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
 (創世記4:1-16、旧約聖書)
 
 
創世記の話は、福音書のようにすんなり入って来ない難しいところがあります。人類最初の殺人事件と言われ、多くの作品に引用されているところの、ここもその一つです。
 
2つの大きな疑問があります。
1.なぜ神は、カインに冷たかったのか。
2.なぜ神は、弟を殺したカインを殺されないようにしたのか。
 
聖書日本語口語訳には、文章としては、はっきりした理由は書かれていないようです。
ネットでも、様々なことが書かれているようです。
 
1.について
聖書本文には、神がカインを義としなかった理由が、言葉としてはっきり書かれてはいません。正直言えば、正解は、分からない、ということになります。そこに立ったうえで、こういう場合、書かれていないところを、推測した解釈として、示す、つまり、こういう解釈はどうでしょう、という書き方は可能です。
惜しむ人だった、妬みがあった、性格の違い、などが推測されているようです。
カインは「地の産物を持ってきて、主に供え物とした」
アベルは「その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。」
アベルは、選んで主に捧げた。つまり、極上のものを選んだのではないか。それだけの心があった。しかし、カインは、選ばずに、これくらいでいいだろう、という捧げものだった、という解釈があるようです。
 
2.について
これも、聖書本文に、その理由は書かれていませんから、推測になります。
神は、カインとその一族及び末裔に、消えない呪いのような刻印を刻んで、生きて報いを受ける者とされた。・・・という解釈、どうでしょう。
あるいは、逆に、神は、カインが悔いているのを見て、赦した、あるいは、それなりに赦した、という解釈もあるようです。
 
私は、上に書いたように、分からないことは分からないと言い、保留することが大切だと思っているので、前に、分からない箱、疑問の箱、おかしいと思う箱、などに入れることを、書いたような気がします。私は、こういうとき、一番大事なのは、良い解釈を見出そうとすることより、分からない正直な自分を大切にして、神に捧げることだろうと思っているのです。そのうえで、人の書いたものを、ネットもありますから、読んでみる、ということです。
 
いろいろな解釈があるようですが、自分の解釈で、出来た、と思って、人に聞かれるたびに、これが正しい、と主張しているところから、独善は生まれてくると思います。解釈は、解釈に過ぎない、という扱いを知るべきで、そっと差し出す謙虚さ、ということは、前にも書いたと思います。
 
分からないと言えない者が、無理やり、呑み込んで、分かったことにしてしまう無理な信仰と、それを固定してしまって、分かっている人のつもりで、いつも人前に押し出してくるという傲慢が見えてきます。
 
 
>なぜアベルのささげ物が神の目に良いものであったかは明らかです。
>それはカインのささげ物は自分の汗の結晶、手のわざであり、
>アベルのささげ物は信仰のささげ物だったからです。
 
と書いて分かったことにしてしまう者もいます。一番大事なことは、解釈は、決めつけてはいけない、ということです。それを、自説で、決めつける、シャローム氏の筆致に注目してください。
 
>神はイエスを私たちの罪のあがないの犠牲の神の子羊として遣わされ、
>アベルが羊をささげたように、ご自分の命を、私たちの罪の支払うべき代価として、
>十字架という祭壇にささげてくださったのです。
 
>アベルは神の前に自分の罪に気づいていましたので、
>自分の努力と汗の結晶である手のわざである最上のささげ物をもってしても、
>神のみ前に立つことが出来ない罪人であることを知っていました。
 
>アベルは神の心にかなう献げ物は何よりも自分の罪を認め悔い改めの心を表す
>献げ物であるであることを知っていたのです。
>ですから自分の罪のあがないのための犠牲として羊をささげたのです。
>これは聖書全体を貫くメッセージであり、イエスの十字架の犠牲をあらわしています。
 
創世記に込められたものを解釈するのに、新約聖書の十字架を引用したいようです。創世記の著者は、新約聖書を知っていたでしょうか、もちろん知らなかったでしょう、という無理がありますが、全能感に浸っている人は、解釈にも手段を選ばず、長い手を伸ばすのでしょう。
 
>さて、カインとアベルの二人の兄弟の性格の違いは、
>ふたりの名前に暗示されているようです。
>カインが生まれたとき、エバは「私は主によって・・・得た」といい、
>最初の息子をもった母親の喜びと誇りをうかがうことができます。
>ところが二人目の息子にはアベルという名をつけています。
>アベルとはへブル語で“息・蒸気”という意味があり、“むなしさ”を意味しています。
 
名称や言葉の語源によって、だから、こうなった、と言えるのは、問題が、言葉の問題に限られるときだけです。心の理由を、名前に求めるのは、心のない人のすることでしょう。
 
>なぜアベルという名をつけたのでしょうか。きっと長男カインが成長するにつれ、
>アダムとエバの喜び、誇りが失望、期待はずれになってしまったことが
>推測できそうな気がします。
 
>乱暴で、すぐ癇癪をおこすカイン。そんなカインの献げ物はいつも自分の目に良いこと、
>気に入ることを一番にしているその事実を物語っているようです。
 
シャローム氏は、一貫して、カインを、生まれないほうがよかったかのような悪役として、ぼろくそに貶し、責めています。彼の、自分を悪の圏外に置く前提が、明らかになります。この前提では、罪について、彼が、人間らしい洞察を受け取るための人間の心が失われていることをも、自分で明らかにしてゆくでしょう。・・こういう解釈を喜んで声高に吹聴するのか、そうか、道理で、人間性や共感を否定して、教理話と奇跡に執着するはずだ、・・と読み取れる方向です。
 
>カインはいつも自分を認めさせようとする態度で、自分の罪を認める心がなかったようです。
>一方、アベルは自分が神の前にも両親に対しても罪人でしかない心の悲しみを抱いていました。
>その悲しみと悔い改めのささげ物がアベルの羊のささげ物だったのです。
>神はアベルの砕かれた心から献げられた信仰の献げ物を喜んで受け容れられたのです。
 
どれも、推測ですし、聖書に書いてないことを、断定しているのです。しかし、推測に過ぎない、という態度を、彼、シャローム氏は、持ちません。彼が持ちたいのは、我、神意を得たり、という高みです。これが、この解釈の是非にかかわらず、信仰のすべてを無にしてしまう、という弁えを、彼は、感じ取ることが出来ない人なのです。
 
>しかし、カインは神の心を知らず、逆恨みをして腹を立ててしまうのです。
>それはカインのアベルに対する嫉妬となり、憎しみとなり、ついに・・・殺人へと
>エスカレートして行ったのです。
>両親の間に初めて生まれた子が次に生れた妹弟をいじめたりすることは今でもよく見られます。
>だから有島武郎は『カインの末裔』という作品を書いたのです。
 
こうして、カインとアベルについての断定的解釈を完成させてしまいます。
 
>カインは殺人という罪を犯したから罪人となったのではなく、
>その心が神の心を知らない的(軌道)を外れた罪の結果として殺人を犯したのです。
 
こうやって、カインは、ものすごく性格が悪く、神に対して的外れで、まるで、殺人を犯す運命にあった、という言い方をして、だから、カインに対しては、救われようのない、先天的に近い、悪者呼ばわりする解釈が出来上がって、彼は、すっきり言ってのけた、というつもりなのでしょう。
 
彼、シャローム氏は、自分を、悪からも、罪からも、除外して、平気で、人を侮辱する特徴が以前にも見られました。机上で、言葉を転がして、知識だけから語り、人間を見る目を失っている・・。だから、偽善者でありながら、同時に福音?を書けるのです。注意してください。彼の言う「罪」は、心のない、おもちゃの言葉だけです。
 
>すべての人は自分の内なる罪の性質に気づくかどうかによって、
>カインの道を歩むか、アベルの道を歩むかが決まるのです。
 
彼は、どちらを選びますか、と言いたいような、脅迫めいた文言を、ときどき表します。
 
さて、私は、今まで、私が述べてきた多くのことを根拠に申しあげます。
彼は、彼の解釈を自分に生かしていません。上の解釈の中の
 
「献げ物はいつも自分の目に良いこと、気に入ることを一番にしている」
「いつも自分を認めさせようとする態度で、自分の罪を認める心がなかった」
「神の心を知らず、逆恨みをして腹を立ててしまうのです」
 
これらは、いずれも、彼、シャローム氏に、当てはまることだと判断しています。彼は、解釈しながら、その点にだけは、気づかない人なのです。自らを省みる彼を、彼の記事とコメントの中に、見たことがありません。彼は、自分の都合で、自分と異なる意見を、言論ではなく、強制力を使って、ブロックし、削除し、自分の失敗だらけのコメントも都合が悪ければ削除して、自分が正しく、批判が来ても、適切に言い返して退かせている、と見せかけるコメント欄を捏造しました。
 
そして、彼、シャローム氏は、自分の目によいようにと、自分を認めさせようとして、罪も偽善も認めず、罪も偽善も隠して、罪も偽善も続けて、自らを見つめることなく、決して自分の非を認めず、自分の罪を認めず、神の心を知らず、逆恨みをして、善き聖書の先生であり続けるために、虚飾の世界を見せて、今では、コメント欄を閉鎖して、それが神の与えた平安だと嘯いて、隠蔽の部屋に住んでいるのです。
 
聖書についての、どんな解釈も、なかなかはっきり肯定も否定も出来るものではありません。私としては、解釈の内容よりも、解釈を語る態度にこそ、キリスト信仰の、悲惨とも言えそうな問題が表れていると思っています。多くの解釈に、自説に満悦する態度が見られると思います。そして、そこから、解釈者の慢心と党派心が生まれてくるのでしょう。
 
信仰の正しさは、解釈の正しさではありません。キリストの目に留まり、キリストに救われた人々は、キリストを殆ど理解していなかった、そして、彼らに共通してみられることは、彼らが人間としての立場から、悔いており、低く弱く、他に寄る辺のないという心から、キリストに縋った、ということです。
 
解釈を誇る者の、何様だと言いたくなるような高慢を見るたびに、たとえその解釈が言葉上正しくても、解釈を語る態度が、それを無にすることがある、というを知るべきだろうと思います。解釈は、思考の糧となるものですが、解釈の正しさに酔いしれ、高ぶって意地を張る者の心は、とてもキリスト者とは思えないことがあります。
 
救いの筋書きや仕組みなどを言葉で表して、それをもって、あなたは、どちらの道を選びますか、と聞いてくる者は、言葉を整えることに終始して、それで満足している傾向があります。
 
聖書についても、解釈の正しさにだけ、こだわる者は、自分が、いくら人間の心を裏切ってきたかについて、無頓着で、平気でいられるから、今の状況でも、まだ自分は信仰を語れると思ってしまうのでしょう。言葉の解釈から学ぶことは、一種の理屈であり仮説であります。経験から学ぶことは、心に響いて否定できず忘れられないことです。解釈は信仰の優先事項ではありません。それよりも大切なことを学ぶ立場と姿勢を養う目的で、書いています。
 
必ずしも経験だけではなく、心を学ぶ姿勢がないと、解釈も絵に描いた餅になるでしょう。経験から人間の心を学ばないで、過去に書いたものを持ち出して、解釈だけを無遠慮に主張する者がいます。人の心が分からないのに、いったい誰に福音を伝えようと言うのでしょう。
 
言論の自由には、人間の心が必要です。解釈を語るにも、人間の心が必要です。それを弁えずに、他者を無視して、敵視するか、そうでなければ、社交で味方につけることばかり考える者は、言葉をも弄ぶでしょう。人の言葉を弄ぶものは、神の言葉をも弄ぶでしょう。そして、神をも人をも決め付けるのです。神は完全だからと、全か無かの判断しか出来ないので、断定だけになり、断定を固くすることが信仰だと思っているのです。そこには、神に自らを擬した、とても醜い非人間性が垣間見られるだけになるでしょう。
 
神の心を、紙に書かれた言葉だけで読み取ろうとする者は、どこまでも、共感も共有もないところで、聖書の表面をなぞっては、何かを拵えて、自己正当化に利用してゆきます。聖書を読むとき、聖書を読む心が必要とするのは、神の心ではなく、人間の心です。偏った興味と執念が駆り立てる、身の毛のよだつような、神の心の断定で、決めつけに走る者を警戒してください。神の心は、人の心に与える動きによって受け取るしかない不全が、この地上です。
 
 
(引用いくつか・・)
 
前にも書きましたが、私は、解釈が苦手なので、少し、他の解釈も載せておきます。必ずしも私は賛同しているわけではありませんが、可能性を考える糧にはなると思います。ひどい思い込みの記事のあとは、こういうのも心の隅に置いた方がいいような気もします。今分かる必要はなく、分かったとしても人間の判断に過ぎないことを弁え、解釈は、決めつけなくてもよい、決めつけてはいけない、ということを学んでほしいと思いました。
 
嫉妬にかられたカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェにアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の監視者なのですか?」と答えた。これが人間のついた最初の嘘としている。(ウィキペディアより抜粋)
 
では、地を耕すことを生業とするカインはどうすればよかったのか? むずかしいことではない。アベルにわけてもらえばよかったのである。「アベル。主にささげ物をしたいから、地の作物と肥えた羊を交換してくれないか。」とひとこと言えばよかったのである。しかし、あえて、そう言わなかったことにカインの問題があった。カインとしては、自分が心を込めてささげ物をするのだから、神が受け入れてくれるのはあたりまえだ、という考え方をした。つまり彼の問題点は、「俺流の礼拝」を神に押し付けようとしたということである。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110829/p1
 
カインは罪を悔いています。そのカインに対して神様は完全な保護を約束され、実行されています。神様はカインを赦されたと考えていいのではないでしょうか。ですから私は、カインは極悪人であったには違いありませんが、今は赦された人と見ます。本当の意味での「カインの道」は悪の道ではなく、かつての罪人が福音の光に照らされて救われた道なのです。普通厳しいだけの神様を描くと思
われている旧約聖書ですが、違う、良く読めばすでに新約の福音的思想の芽生えがある、福音信仰の萌芽があるのです。新約聖書しか読みたくないという人も多いかと思いますが、この際見直されてはいかがでしょうか。
http://homepage3.nifty.com/eternal-life/preachings2005/05.10/10.23.htm
 
 
 彼の過去の記事
 
 カインの末裔
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20978329.html
 2011/9/1(木) 午後 3:10
 
 カインとアベル
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/2589177.html
 2009/6/23(火) 午後 9:18
 
 
(2016年08月28日、同日一部修正)
 
弁える(わきまえる)
弄ぶ(もてあそぶ)
拵える(こしらえる)
貶す(けなす)、貶める(おとしめる)
偏る(かたよる、片寄る)
執念(しゅうねん)
嘯く(うそぶく)
隅(すみ)
 
 
 
 

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