不気味な婉曲
今の時代の表層を流れるところの
最も不徳というのは
分からないと言うことらしい
私は、最大の徳だと思うのだが
だから今の時代の偉い人々は
分からないと言わない
分かるはずのないことまで
余裕の痙攣性の笑みで口角をあげ
相手を下に見て、
余裕で否定するために頷いて見せるようだ
信仰者の中にも
分からないと言えない者がいて
代わりに何と言うかと言えば
そういう見方になるのですね
というような婉曲的な言い方をして
・・ちなみにこれは
理解を示してはいない・・
これで
相手を否定も肯定もしなかったことで
悪い言葉を使わなかったことにして
自分の柔和さを示したつもりらしい
最悪の物言いである
婉曲が分からないわけではない
しかしこちらのお題ではなく
あちらが放ったお題であったとき
辛気くさいとはこのことだ
あちらは辛気でかわそうとする
こちらは思わぬ辛気を送られて
不快、迷惑、落胆、・・
分からないとは言えないのは
言ったら負けだと思うのか
負けたらいかんと思うのか
誤りがあってはいけないと思い込んで
自分の言葉から
誤りという言葉を除いているのか
負けでも勝ちでもないことを
不快な塊にして返す者たち
そういう見方になるのですね・・って
・・これは、いかなる理解も、
受容も、柔和も、示していない・・
・・言葉に表れた気持ちは、
婉曲の、否定と、そこから先の拒否だ・・
そちらがこちらをそういう見方と思うなら
そちらの見方を説明するべきだろう
などなどあって
結局あちら
そのことについては何も言わなくなる
こちらに向けて言い訳できないものだから
聖句や教理話のルーチンを強く押し出す
それによって
自分には神がついているのだぞ
という悪態の叫びになる
何故なら
こちらに神がついていることを
無根拠に否定しているから
ひとつひとつが
自分が言い放って終わりの
無反省と無修正と無責任の言論に生きる人
祈っているのかしら
神に祈っている?
敵への復讐を?
神の敵なる私への復讐を?
悪魔払いを・・・?
どこが柔和なんだ?
分からないと言えば修正可能だ
分からないと言えば
分からないことを共有できるかもしれない
その共感で求めることが出来るかもしれない
分からないと言えない
共感と修正可能というあり方より
最初から神の完全に擬している強迫信仰だから
分からないと言わない
入口を閉ざし
闇の門番となる
沈黙は金、口は禍の門、ではない
言いたいことを言うことだけ
忘れない常在ルーチン付きだ
毎回、言い放って終わり
キリストのもとで学ぶべき低さを知らず
正直も率直も裏切って
どこにキリストの血が通う?
強迫信仰は
怨念信仰から
調伏信仰へ向かう
温もりと潤いを払いのけ
血と汗と涙を捨てながら
勘違いの丁寧語は
信仰を
不通の偽善に置き換えてゆく
(2016年08月27日)
痙攣(けいれん)
頷く(うなずく)
塊(かたまり)
率直(そっちょく)
強迫(きょうはく)
怨念(おんねん)
調伏(ちょうぶく)
口は禍の門(くちはわざわいのかど)