ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年08月

 
  不気味な婉曲
 
 
今の時代の表層を流れるところの
最も不徳というのは
 
分からないと言うことらしい
 
 私は、最大の徳だと思うのだが
 
だから今の時代の偉い人々は
 
分からないと言わない
 
分かるはずのないことまで
余裕の痙攣性の笑みで口角をあげ
相手を下に見て、
余裕で否定するために頷いて見せるようだ
 
 
信仰者の中にも
分からないと言えない者がいて
代わりに何と言うかと言えば
 
そういう見方になるのですね
 
というような婉曲的な言い方をして
 
・・ちなみにこれは
  理解を示してはいない・・
 
これで
相手を否定も肯定もしなかったことで
悪い言葉を使わなかったことにして
自分の柔和さを示したつもりらしい
 
最悪の物言いである
 
婉曲が分からないわけではない
しかしこちらのお題ではなく
あちらが放ったお題であったとき
 
辛気くさいとはこのことだ
 
あちらは辛気でかわそうとする
 
こちらは思わぬ辛気を送られて
不快、迷惑、落胆、・・
 
 
分からないとは言えないのは
 
言ったら負けだと思うのか
負けたらいかんと思うのか
 
誤りがあってはいけないと思い込んで
自分の言葉から
誤りという言葉を除いているのか
 
負けでも勝ちでもないことを
不快な塊にして返す者たち
 
そういう見方になるのですね・・って
 
・・これは、いかなる理解も、
受容も、柔和も、示していない・・
・・言葉に表れた気持ちは、
婉曲の、否定と、そこから先の拒否だ・・
 
そちらがこちらをそういう見方と思うなら
そちらの見方を説明するべきだろう
 
などなどあって
 
結局あちら
そのことについては何も言わなくなる
 
こちらに向けて言い訳できないものだから
聖句や教理話のルーチンを強く押し出す
 
それによって
自分には神がついているのだぞ
という悪態の叫びになる
 
何故なら
こちらに神がついていることを
無根拠に否定しているから
 
ひとつひとつが
自分が言い放って終わりの
無反省と無修正と無責任の言論に生きる人
 
 
祈っているのかしら
 
神に祈っている?
敵への復讐を?
神の敵なる私への復讐を?
 
悪魔払いを・・・?
 
どこが柔和なんだ?
 
 
分からないと言えば修正可能だ
 
分からないと言えば
分からないことを共有できるかもしれない
その共感で求めることが出来るかもしれない
 
 
分からないと言えない
 
共感と修正可能というあり方より
最初から神の完全に擬している強迫信仰だから
 
分からないと言わない
 
入口を閉ざし
闇の門番となる
 
沈黙は金、口は禍の門、ではない
 
言いたいことを言うことだけ
忘れない常在ルーチン付きだ
 
毎回、言い放って終わり
 
 
キリストのもとで学ぶべき低さを知らず
正直も率直も裏切って
 
どこにキリストの血が通う?
 
 
強迫信仰は
怨念信仰から
調伏信仰へ向かう
 
温もりと潤いを払いのけ
血と汗と涙を捨てながら
 
勘違いの丁寧語は
信仰を
不通の偽善に置き換えてゆく
 
 
(2016年08月27日)
 
痙攣(けいれん)
頷く(うなずく)
塊(かたまり)
率直(そっちょく)
強迫(きょうはく)
怨念(おんねん)
調伏(ちょうぶく)
口は禍の門(くちはわざわいのかど)
 
 
 
 

 
  神の前に空しく
 
 
前にも書いたけど
とにかく聖書の
天地創造をなさって人まで造った御方を表すために
これ以上ないという形容を集めたのだ
 
唯一・絶対・全知・全能・永遠・不変・・
 
これを信じよと叫んだのだ
 
どう信じようがある・・
 
 
永遠の最初から終わりまで
いったい誰が把握できるというのだ
 
手に負えない御方について
人に知らせるために抽出した言葉は
やはり手に負えないのだが
 
中には
手に負えないことを並べて
分かったようなことを吹聴して
味方を増やそうとする者が現れたので
 
 
人をご自身に似せて造った創造主は
 
似せるだけではなく
御自身の心を委ねる御子を遣わした
 
早速30年余で
殺されてしまったのだが
その御子に
後の人々が忘れられないような
足跡とその心を託した
 
あとにつづく者たちが
それを表し
その御子を継ぐ弟子たちを
さらに語り継ぐ者たちが
時代を超えて表れてきた
 
 
しかし彼らは人間だった
たかが人間だったのだ
その弱みからは逃れられなかった
 
ある者は強がってエクレシアをなしたが
人がそんなことを決めていいのかと
ある者は弱くて挫折した
 
歴史上の信仰者を
決して無謬化してはいけない
つまり神聖化してはいけない
彼らは人間として命を懸けて努め
人間だったから傷だらけだったのだ
 
正しい信仰は
人の間では難題にならざるを得ない
 
シンプルに
出来ないことをお任せすればよいのだが
中には
したくないことの言い訳に
お任せするのがいちばんなのです
などと
苦し紛れに言う人もいるから難題なのだ
 
 
救いは洗礼である
 
儀式のことではない
 
救いはいつも
死にかけた人間の乾いた魂を潤した
 
祈る取税人と
サマリアの女性と
パンくずを求める女性と
衣に触ろうとした女性と
十字架上の犯罪人は
 
キリストの意思も目的も
十分に理解していたわけではなかったが
キリストすなわち神の前での弁えを
言葉で教えられることなく誰よりも知っていた
 
彼らは打ちひしがれて
決して人の上に立てないことを
弁えざるを得なかったからだ
 
 そのことを弁える者たちばかりだったら
 人の上の立つ者は必要なかっただろう
 
だから彼らは
神の前で神をほめたたえるよりも
自らの赦しと救いを求める他なかった
 
彼らには
目の前におられる御方以外に
救いがなかったからだ
その最後のチャンスだったからだ
 
 
聖書を読むときに
一つの言葉にしがみついてはいけない
 
千の表現を知る賢者の言葉を弄しても
なお救いを表すには程遠い
 
だから聖書に学び
人間として救いを賜りたいならば
 
信仰告白は
へりくだった不信仰告白にまさるものではない
 
讃美は決して
へりくだった罪の告白にまさるものではない
 
 
救われた罪びとたちは
どうあがいても
神の前に
何の役にも立たない空しい自分を知っていた
 
 
(2016年08月26日)
 
弁える(わきまえる)
弄する(ろうする)
 
どんなに書いても、本当に程遠い・・拝
 
 
 
 

宗教詩のようなもの、想像、想定に過ぎません・・
 
 
  凝固する信仰
 
 
クリスチャンは感傷的すぎると言って
情熱的に硬派を気取る信仰者がいるようだ
 
情熱は認めるとしても
熱が焦がすように
情熱が凝固することもあるだろう
 
信仰が厚く
信仰が熱いほど
 
却って熱の吸着を嫌い
情感のない冷たい言葉を好む
 
情感があると感傷的だと言う
 
流されると言うのだろう
 
かくして
血も涙もない教理が生まれる
 
しかもそこで確定してしまう
 
人の言葉で確定できるものなどないのに
 
 
情に流されず
言葉を貫けと言うのだろうか
 
聖書の人々は
情感のない言葉に惹かれたのか
 
情感のない教えに惹かれたのか
 
聖書から情感を除いたら
情感のない救いの言葉に縋ったら
パリサイ人の二の舞ではないか
 
人間から情感を除いたらどうなるか
パリサイ人の二の舞ではないか
 
同じなのだ
 
人間が情感抜きでは考えられないように
信仰も情感抜きでは考えられないのだ
 
何故なら
信仰は人間のためにあるからだ
 
 
感傷的というが
言葉に縋りつく粘着は
明らかに感情的で感傷的だ
 
人を納得させる根拠のないところに
神殿を作るなら
いったい誰のための神殿だろう
 
感傷を排除したければ
粘着する無根拠を干からびるまで乾かすがいい
 
 
(2016年08月25日)
 
縋る(すがる)
粘る(ねばる)
粘着(ねんちゃく)
却って(かえって)
貫く(つらぬく)
 
 
 
 

 
  カルト放置の危惧
 
 「信仰は神キリストとの個人的な結びつきが基本」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27652883.html
  2016/8/24(水) 午前 9:51
 
 
彼、シャローム氏は、また他者のブログを転載して、自分を正当化したいようです。
 
ヨハネによる福音書の最終章です。適当に改行と段落分けをしています。
キリストの決意と、弟子たちの無理解が、表されているようです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18
よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
21:20
ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21
ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22
イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23
こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
21:24
これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25
イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
 (ヨハネ書21:15-25、新約聖書)
 
20~21節について、引用記事は、次のように受け取っています。
 

肉にあっては他人の行動、行末などは、いろいろ気になるところ。だが、他人には他人の道が備わっている。それぞれに賜物が、使命が違う。イエスのなさる私たち一人ひとりの最善への方法は、これまた違う。
 
信仰は競争ではない。信仰は神キリストとの個人的な結びつきが基本の姿。一人ひとりがまずイエスに従っていく。イエスに一つとされていく。その集合体がエクレア呼び集められた者の群れとなるし、なっていくからだ。

 
エクレアはお菓子しか知らない、エクレシア(教会、ギリシャ語)か・・。
 
前から言っているように、聖句というのは、解釈次第で、カルトなどに悪用されるということです。人の信仰をとやかく言うな、自分の信仰だけ考えていろ、余計なお世話だ、自分は自分の信仰だけ考える、という目的に、都合よく引用する者もいるわけです。
 
私は、彼、シャローム氏の、世話をする気などありません、自分の信仰を考える上でも重要だと思うから批判を続けています。彼は、偽りのコメント欄によって自分を飾る偽善者であり、悔い改めもしない隠蔽の偽善者であり、彼の信仰は、偽りの信仰、偽善者の信仰、迷惑かつ有害だと思うから、他の人々が巻き込まれないように、反対意見があることを知らせる努力を、できる範囲でするべきだ、という判断です。
 
聖句の、ペテロの発言「どうなのですか」は、個人的な関心か興味本位だと、キリストは見なしたのでしょう。なお、この場合は、キリストがそばにいて、従って来なさい、と言っているのだから、するべきことに迷う必要はない状況です。私たちは、例えばネットでは、どうでしょう、事情が違います。相手は、目の前にはいない、かつ、キリストも目の前にはいない、という状況では、当座の是非の判断は、人がするしかないことです。
 
さらに、ペテロの問いと、例えば、この人は間違っていて、偽善者だと思いますが、いかが思われますか、それでも、自分の信仰だけ考えているべきでしょうか、という問いとは、質が異なります。こういう問いは、個人の興味本位ではありませんし、中身も複雑ですし、誰が、どういう手段を選ぶかについて、一般的な指針は成り立たないのです。
 
ここで、例えば、偽善者に対しては、キリストが、神が、何らかの手を打つはず
・・という答えを当てるなら、これは、ますます、おかしなことで、
 
何故なら、そういう場面は、実際にはなかったのだから、ない場合のキリストの判断を、
キリストなら・・はず、とキリストの意思を前提に言うことは、人には出来ないからです。
 
人が何の手も打てないときには、あるいは、その段階では、神に任せるしかありません。問題が、既に言論を超えて、実行力や強制力というところに至ると、恐らく、打つ手はないでしょう。
 
しかし、取るべき、言論、という手段があるのに、神に任せる、委ねる、ということを、主張するのは、むしろ、自分が楽な道を歩みたいからでしょう。
 
このように、欲望や誘惑というのは、あらゆる人間の心の隙間に、入り込むものです。取り分け、その大きな隙間は、驚くべきことに、善の心なのです。まことに、人は、善意で、気遣い、遠慮して、見逃してしまうのです。人の心は、深みを見ることが苦手で、善の表層を漂うのです。
 
ですから、人は、自分のやっていることに恐れを持たなければなりませんが、自分が安全地帯にいて、他者の批判に枷をかけるような言動は、善意による悪または偽善となり得ます。
 
指摘するのはその気のある人、裁くのは神、このけじめを弁えるなら、指摘することは、つまり批判することは、いかに辛辣であっても、ストレートであっても、修正可能な、悪と罪ということになります。だから、祈りは欠かせないことを付け加えておきます。
 
 
また、この聖句を、人のことは気にしてはいけない、という意味で確定するならば、キリスト者は、人には無関心であるべきだ、ということになり、何事にも人を放っておくということになって、社会問題などにも無関心ということになって、これも、おかしいと言うことになります。そうすれば、互いに褒め合う以外の、交流はなくなり、教会は社交場と化してしまって、正しい信仰を求める志さえも、見られなくなるでしょう。そして求道者は、教理の押し売りで、幻滅して去ってゆくのです。まさに、これと同じようなことを、彼、シャローム氏は、してきたのだと思います。
 
教会でも、教会外でも、偽善者を、偽善者のまま、受け入れるキリスト信仰は、あってはなりません。それは、信仰が、偽善を認めることに他なりません。偽善の手段としての虚偽や偽証をも認めることに他なりません。
 
 
>信仰は競争ではない。
 
> 
イエスが言われる「他人のことはいい。それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはただ、わたしに従いなさい。」に応答すること。

 
「他人のことはいい」というのは、聖句なのですか。キリストの言葉でしょうか。
そうでなければ、うがちすぎ、ということになります。
 
私の場合、競争で書いているのではない。
また他人のことを興味や関心だけで言っているのではない。
これは、言論による闘いなのです。
彼にも告げていますが、彼と彼の言論は、私にとって、生涯の敵なのです。
 
信仰に見合う低さを、持っているとは思えないようなことを彼はしてきたし、
今もしているということです。
誰も、彼に影響されたり、巻き込まれたりしないように祈っています。、
 
>イエスは自分と神との関係の有り様を見つめよ、と言っている。
 
それをする気がなく、同じことを繰り返しているのが、彼、シャローム氏です。
 
信仰は、神との個人的な結びつきが基本ではありますが、他者がどんな信仰を持っていても、放っておけばよい、というのは、教会でも、教会外でも、無責任です。それは、私が前から書いている批判禁忌の不文律に結び付きます。実際、その不文律は常識のようになっており、そのために、教会は、カルトの温床になってゆくでしょう。果ては、これがキリスト教か、と思うような宗教になってゆくでしょう。この記事のタイトルは、それを、こともあろうに敬虔と柔和の精神から、正当化してゆくことになりかねないと思います。また、聖書と聖霊だけに没頭して、人の言うことを聞かない自己満足を勧めることにもなるでしょう。
 
厳密な正しさは、神のみのものですし、神が正すでしょう。しかし、人間は何もしなくても、何もかも、神に任せて、うまく行くと言う考え方に結び付けば、怠慢を勧めることにもなるでしょう。神と人間は、双方向で、反応し合う関係であることは、聖書を見れば明らかです。もし神から人への単方向だけだとしたら、祈る必要も、交わる必要も、なくなるでしょう。そういう本質はあり得ないのです。神が道を備えるのは、人間の反応を待ち、人間に反応するためとしか考えられません。それが嫌で、自説に凝り固まっている者にとってのみ、こちらが何もしないで神に任せることを善しとしてしまう信仰の考え方は、敬虔を装って勝手な信仰を吹聴する向きに、好都合この上ないのです。
 
彼、シャローム氏は、まさに、自分と異なる意見を一切聞かなくなってしまった自分を正当化するのに、好都合この上ない記事として、この記事を転載していると思われます。今となっては、彼には、そういう姑息な手段しか残されていないのでしょうか。彼と異なる意見が、彼にとって、望ましくないならば、彼は、いくらでも、反論の機会があるのですが、彼は、人の話を聞くことをやめて久しいためか、批判に対して、悪意ある嫌がらせと、病気と決めつけたりとかの、相手に対する根拠のない決めつけによる侮辱しか、返せなかったのです。それでも、自己の非を認めず、共感を否定し、なお、コメント欄閉鎖によって、言いたいことだけを言う、という環境を作り上げて、自分の平安の王国に居続けたいようです。何も聞かなければよい、という短絡が、何の解決になるでしょう。そうまでして、キリスト教の先生と呼ばれ続けたいのでしょうか。もしそうなら、その段階で、キリスト教の先生としては失格だと思います。
 
 
 「信仰は神キリストとの個人的な結びつきが基本」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27652883.html
  2016/8/24(水) 午前 9:51
 
 

※ 教会について、(ウィキペディアより)
ギリシャ語の「エクレシア(ἐκκλησία)」の訳語で、「人々の集い」の意味から転じて、キリスト教における信者の集まりを意味する語である。この語は「公同の教会」、または単位となる信仰共同体を指す意味で使われ、プロテスタントの教会ではキリスト教会(キリストきょうかい)という呼称・名称もよく使われる。また、「エクレシア」の訳語ではないが、信仰共同体である教会が所有する宗教施設(教会堂)を指す意味および名称として使われる場合もある。
 
 
(2016年08月24日、同日一部修正)
(2016年08月25日、一部修正)
 
隠蔽(いんぺい)
褒める(ほめる、誉める)
志(こころざし)
枷(かせ)
 
 
 
 

 
  彼の嘘
 
 
 歴史の真実
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27650973.html
 2016/8/23(火) 午前 7:34
 
 
多くの信仰者は、信仰を神中心に考えます。
存在の位格は、神中心ということになります。
神は全能者で創造主、私たち人間は全能ではない被造物、
と信じているからにほかなりません。
 
にもかかわらず、神中心に信じようとする人々は、
聖書について、自分の、または、教えられた解釈によって、何故か、
神は・・、と神について述べて、だから人は・・、と言うのです。
何ゆえ、神は・・を、人が決められるのでしょうか。
何ゆえ、神は・・が、人に分かるのでしょうか。
分からないことを分かったと言うのは不遜ではないでしょうか。
 
それで、私は、分からないものは分からないこととして、
分かることから、信仰を理解してゆくことを書いてきたのです。
人間に分かること、それは神ではなく、人間に関することです。
人間について、出来る限り、明らかにすることで
人間が信じる神についても、示唆を得ることが出来るだろうし、
それ以上の神のことについては、神の秘密、すなわち神秘として、
人間が云々して、決めつけてはならない、という立場です。
 
今回のシャローム氏の記事は、
あるところまで、まともなことを書いておきながら、
結局、そこからすっ飛んで、自分の独善的解釈と信条に持ってゆく
という、理路も道理もない詭弁で、自己矛盾と混乱を招いているだけです。
こういう人は、出来るだけ早く、信仰を語る立場から離れてほしいです。
 
 
>聖書の中で、福音書はその霊的な意味を語る以上に
>歴史的な事実としてのイエスの十字架の死を明らかにしています。
 
>ということで、わたしたちもイエスの十字架の死について語る場合、
>福音書と同じように、その歴史的な事実を明確にする必要があります。
 
>それを曖昧にしたままで、霊的な真理だけを主張するなら、
>初心者の側から見れば、何かの独断的な教えの押し付けと見られるかもしれません。
 
まさしく、彼は独善的な教えを押し付けてきたのです。
 
彼は、歴史的な事実を明確にして・・というが、
実際は、明確にしたつもりでと、彼が主張することで、
いったい、歴史の事実のどこが、明確になるのでしょう。
 
ここに見られるのは、彼、シャローム氏の、
自分は歴史を明確に出来る、という、全能感だけなのです。
恐れを知らぬ傲慢は恐ろしい、という証拠であります。
 
人間が生きるために必要なのは、過去の事実ではありません。
今生きている人間を、導き助けてくれる働きです。
それは過去の事実によっては齎されません。
私たちは、心と体を持って生きています。過去ではなく現在が必要です。
その働きは、霊的真実によってのみ齎されるでしょう。
霊的というと誤解されやすいかもしれませんが、
 
また肉体や物に奇跡が起こらないとは誰も言えませんが、
肉体や物に起こる奇跡だけで、人は救われたことになるのでしょうか。
人が、神に似せて造られたところの霊的な被造物だとすれば、
人を本当に救い導き生かすのは、魂に起こる奇跡だと言いたいのです。
紛らわしいなら、心に働く真実のみが人間を生かすと言ってもよいと思います。
 
霊、魂、心、精神、これらを、人は明確に区別できません。
区別できると言う者は、大方、教理か魔術の言葉を振り回しているに過ぎません。
 
霊的以上に史実を求める者は、霊的な働きに感受性を持たないのかもしれません。
ずっと、彼、シャローム氏の言説を見てきて、そんな気がしてなりません。
 
 
>歴史とはだれかが過去の出来事を書き残したものですが、
>その時代の勝者、支配者、権力者によって書かれたものということができるでしょう。
 
>ですから、その歴史認識はその時代の敗者、被支配者の歴史認識とは異なったものです。
>もし時の経過によって、過去の敗者、被支配者が勝者、支配者、権力者になった時には、
>過去の勝者による歴史認識を修正し変えようとするのです。
 
>そのようなわけですから、私たちが歴史として伝えられていることは
>決して過去の事実そのものではないことを知る必要があります。
 
ここまで、まともなことを宣べているのです。
 
聖書を、そのまま歴史とみるか、歴史の宗教的解釈とみるか、
前者は、史実信仰であり、歴史が信仰対象となっています。
そうなると、
私たちの信仰は、二千年前、もっと前の、史実に依存することになります。
 
後者の立場、歴史的事実を含んだ宗教的解釈と見るべきです。
 
>ある人は、そのような証言、証拠が過去の事実を証明するものだと信じ、
>過去の出来事や事実がそうであったと信じようとしますが、
>決して事実そのものではありません。 
 
そうなのです。しかし、彼は、すっ飛びます。
 
>従って、如何なる人も普遍的な正しい歴史認識を持つことはできない存在なのです。
>この世界と人を創造され、歴史をも支配しておられる生ける神のみ手の中にあり、
>正しい歴史認識をご存知であり、正しい裁きを行われるのです。
 
何故か、ここで、彼は、神の正しさを並べ始めます。
神は知っている、というのです、確かに神は知っているでしょう。
しかし、彼が、歴史的事実を明確にすると言ったのです。
 
これは、取り方によっては、我は神なり、と言っているようなものです。
 
彼は、神が自分に啓示してくれた、と言いたいのでしょうか。
自分が特別な体験者または預言者だと言いたのでしょうか。
 
彼の罪と偽善と隠蔽という卑怯な真似の累々たる実績が
それを、意地悪く笑って、否定しています。
 
信仰は、生きる理由にはなるでしょう。生き甲斐にもなるかもしれない。
しかし信仰は、決して、個人の王国にはなりません。
 
>イエスの誕生、生涯、死、よみがえり、聖霊の注ぎと働きによって
>成就された私たちの救いは自分の民イスラエルの歴史のなかで預言されていたことであり、
>生ける神の計画であったことを聖書は証言し、今も支配し、証ししておられるのです。
 
彼は、聖書が歴史的事実だと言う根拠を聖書に求めています。
 
ここまで自己矛盾を来たすと、
どうでしょう、彼が最初に述べたことを
彼自身が、無にしているではありませんか。
どういう頭と心があれば、こういう説明が可能になるのでしょう。
なんだか、何らかの病理を考えたくなるような言説になっています。
 
>では、なぜ、そのような生ける神がこの世界を創造し、支配しておられるのに、
>この世界には不正や悪や不平等や争い、戦争があるのかとだれもが疑問を持ちますが、
>それは生ける神を畏れることのない私たちの罪によってもたらされ、
>生ける神の愛による支配、裁きの正しさの確かな証拠なのです。
 
そして、とても繊細な問題について、
災いは、人間の罪によってもたらされ、
それが神の愛による支配と正しさの証拠という、
文法か理路を間違えたのかと思える話に帰結させようとしています。
 
言い間違いにしても、度が過ぎると言うことでしょう。
勘違いとも受け取れますし、舌足らずとも言えそうです。
 
罪について、その救済について、すっ飛ばしているのです。
信仰の中心を、すっ飛ばしているのです。
 
彼は、キリストによる罪の贖いのことをすっ飛ばしてしまいました。
それは、既に知られているから、書かないだけ、と言うなら、
彼が述べる教理的文言は、彼独自の赦されて罪はなくなり
啓示を受けたとかの聖化的な独善以外は、既に知られているものばかりです。
 
信仰を言葉の上っ面だけで信じてきた者は、言葉が整わないと
めんどくさくなるのでしょうか、あと詩篇を載せて、誤魔化しています。
 
このような素っ頓狂な説教が、神を信じようとする人々に、余計な混乱を招き、余計な先入観を植え付けているのです。だから、もう書いてアップして見せることは、やめてほしいです。
 
彼の書き方は、一つの提案ですが・・という、そっと差し出す、という、謙虚さがありません。いつも、教えを垂れる立場から断定的に物を言ってきます。それが、彼の偽善の大きな原因であり要素なのです。
 
彼は「どうでしょうか」という書き方をしても、「こうだと思います」に対する、さらなる説明が出来ません。はぐらかしてくるだけです。「おかしい」と異論や疑問を呈したら、断定を繰り返すだけで、答えるだけの洞察力も聖書の読解力も持っていません。その果てには、啓示だから、と言い、神格の特別な友としての自分を出してきます。
 
罪と偽善を平気で犯し、それを平気で隠し、表面上、整っているように見せかけてきたのですから、彼は、神の言葉にも、人の言葉にも、真摯に向きあう姿勢を持ちません。めんどくさくなると、上のように、放り投げて、あとは神に委ねました、とでも言うつもりなのでしょうか。ならば、書かないで、最初から、神に委ねるべきだ。
 
 
詩篇を引用していますが、解説がありません。これが彼のやり方です。
全部をここで引用するのは、やめておきます。いくつかについて・・
 
119:69
高ぶる者は偽りをもって
わたしをことごとくおおいます。
しかしわたしは心をつくして
あなたのさとしを守ります。
 
 彼は全く守っていない偽善者です。
 
119:71
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
 
 彼にとって苦しみを避けることが第一でした。
 そのために、信仰によるのではなく、
 コメントをブロックし、削除し、都合の悪いところを隠して、
 ひたすら、自分に都合の良いコメント欄を捏造してきました。
 
119:74
あなたを恐れる者はわたしを見て喜ぶでしょう。
わたしはみ言葉によって望みをいだいたからです。
 
 神を恐れる私は、彼を見て怒りました。
 彼は御言葉を疎かにしているからです。
 
119:75
主よ、わたしはあなたのさばきの正しく、
また、あなたが真実をもって
わたしを苦しめられたことを知っています。
 
 こういうことに、可能性としても、
 彼は全く気付かない人です。
 
119:78
高ぶる者に恥をこうむらせてください。
彼らは偽りをもって、わたしをくつがえしたからです。
しかしわたしはあなたのさとしを深く思います。
 
 彼の信仰は、根深い怨念を力としています。
 彼は、偽善と隠し事が御心に適うかのように、高ぶっています。
 彼は偽りを持って、私を侮辱し去らせようとしました。
 
119:79
あなたをおそれる者と、
あなたのあかしを知る者とを
わたしに帰らせてください。
 
 神を恐れない彼を
 どうか人々のもとに帰らせないでください。
 
119:80
わたしの心を全くして、
あなたの定めを守らせてください。
そうすればわたしは恥をこうむることがありません。
 
 彼は、恥をこうむることを最も嫌い、
 偽りの善を立てて
 すべての訪れるものを騙してきました。
 それを悔いることもなく
 ひたすら隠して
 代償行為のように
 やたら神をほめたたえているのです。
 
 
神の前に、正直でなく隠し事があり、人の前で高ぶるものは、信仰者ではない
 
神の前に正直で、弱く低き者という立場で祈れば、それは立派な信仰である
 
 
彼の、過去の類似した記事:
 
 日本の七奪(2010-04-05)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26534397.html
 2015/4/9(木) 午前 11:40
 
 歴史の真実
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26497001.html
 2015/3/25(水) 午後 10:58
 
 
※ 
 
私は、
私の無意識に働きかけるものを
神だとも、聖霊だとも、
悪魔だとも、誘惑だとも、
自分自身だとも、気の迷いだとも、
分からないので、決め付けることはしません。
 
 
(2016年08月24日)
 
齎す(もたらす)
累々(るいるい)
捏造(ねつぞう)
素っ頓狂(すっとんきょう)
覆す(くつがえす)
騙す(だます)
 
 
 
 

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