ホッとしてはいけない日
ホッとする安息日
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27649183.html
いかんなく偽善者ぶりを発揮しているようです。開き直ったかのように。
彼シャローム氏は、まず手紙のような文章を長々と引用します。信仰について書きたいのならば省略してもよいようなことを書くのは、煙に巻きたいことがあるからでしょうか。丁寧を柔和と決めて、それだけで信仰っぽく見せている彼シャローム氏の宿命なのでしょうか。
コメント欄の意図的な操作、つまり、ブロック、削除によって、自分のブログには、批判など来ないし、来ても反論によって退けています、という体裁を保とうとする小細工、その偽善を指摘されて、苦痛になってくると、コメント欄廃止によって、もはや、完全に他者をシャットアウトして、孤立無援の、自己主張を繰り返しながら、他者との交流があるかのごとく見せかける、殆どフィクションの世界の信仰と福音伝道をしている、しかも、しばしば、自分とほぼ同じ方向を持つ他者の文章を転載または引用して、あたかも双方向の交わりを持っているかのように、さらに見せかけている、という自分信仰の断末魔は、平気で他者を引用して巻き込もうとしているようです。他者を批判の矢面に立たせて、味方が多いと言いたいのか。ならば、何故、そういう人に話を持って行って、言論での援助を得ようとしないのか。理由は、決して弁明できないような、偽善に嵌ってしまっているからです。そのことを親しい他者に言えないからでしょう。
>勝ってメダルを獲得できた人の笑顔も、できずに悔し涙を流した人の顔も思い出されます。
勝者のみならず敗者にも、行き届いた配慮をしています、ということを言いたい?
>惜しくも北海高校の優勝ならず、台風の災害の中にある北海道のひとびとへの
>うれしい優勝旗とメダルをプレゼントできれば
>どんなに素晴らしい贈り物になったかと思いやられました。
にもかかわらず、北海道が甲子園で優勝できなかったことを「思いやられました」と書いて、前言の、行き届いた配慮を否定して、贔屓になっている文章。・・さては、引用元は、類は友を呼ぶ類か、とも感じてしまう・・
>安息を見失い、勝ち負けだけの世界になってしまうことの恐ろしさを感じます。
彼は、休んではいけないときにも、完璧に、自分に向けられた信仰についての反対意見を無視しています。それが安息でしょうか。自分の益のために、無頓着に無反省の無関係と無配慮を実行し続けていられるのです。つまり、安息日を、問題からの逃避のために、そして、自己正当化のために、利用している偽善者であります。信仰についての話において、自分の非を認めたことがなく、負けも弱みも見せたことがなく、そういう弱さに共感も持てない人なのです。負けていない、勝っている、という修正不能の思い込み、それが安息でしょうか。神は、彼のような者の目的のために、安息日を定めたのでしょうか。
>真の安息は人の心や手の中にないことをつくづく感じられます。
>今日は安息日についての記事を再掲してみたいと思います。
>それは神から与えられる安息が私たちの生きる力、喜び、希望だからです。
彼は、こういう、神から与えられる安息、という言葉を、今は、大歓迎するでしょう。申し上げますが、彼は、偽善を働き、それを告白もせず、隠し通すことで、自分勝手な安穏の日々を送っているようですが、そのことは既に、神の定めた安息日を捨てている、ということなのです。
>この創造の記述により、安息日は聖なるものとされた。
>もう一つの理由は、出エジプトのできごととの関係で。
>神の恵みにより、エジプトから救出され、奴隷労働から解放されたことを記念するために、
>と解説されている。
彼は、体面とか見かけとか自尊とかに拘泥して、卑怯な働きを今も続けているのです。彼は、解放のためではなく、自分の思い込みへの隷属のために、自分も他者も利用しています。信仰は、彼にとって、神以外からの解放になっていません。彼の捏造した王国の奴隷となり、そこに執着して、離れることが出来ず、他者に対しても、それを勧め続けるのでしょう。
>われわれはともすると、心身を破壊するまで働く傾向がある。
>人間とはなんと勤勉なのか、それとも愚かなのか?
>強制休息を必要とするほど、人類の歴史は自他への強制労働の例に満ちている。
彼自身は、どうなのでしょう。偽善とその隠蔽は、誰の役にも立たない労働です。それを企み、実行し、かつそのことさえも隠して、体裁の善さを繕う態度は、彼自身の欲望に他なりません。彼は、自尊という欲望の奴隷です。
>イスラエルにとって安息日は聖なる日とされ、
>そして、身体を休ませるだけでなく、神を礼拝し神と交わる時間をもうけて、
>心もリフレッシュされるようにすすめられている。
したがって、リフレッシュされることもないのです。彼は、真面目に全力で取り組むべき日々に、人を蔑ろにして、反省も修正も解決も、いかなる努力も怠ってきたのです。
このように長い引用は、時候の挨拶を入れることで、好ましい付き合いのあり方を、彼は、示したいのかもしれません。柔和で微に入り細にわたる配慮を示したいのかもしれません。しかし、上に述べたように、人の書く文章など微にも細にもわたっていませんし、彼は、柔和からは、今いちばん遠いところで自尊を捏造しているに過ぎません。虚構の理想郷を求めているだけで、神の国を求めていません。彼は、今、平安と安心の気分を求めているに過ぎません。慇懃無礼は、安息ではなく、難を逃れるための偽善の保身行動として、自己の安泰だけを目指しています。
さて彼が書いた部分ですが、・・論的根拠、などと言いたいのは、理論家ぶりたいのでしょうか。いや、むしろ、批判にも耐えうるという自分の強さを誇りたいのでしょうか。書いてあることは、引用した文章とほぼ同じです。今まで見て来た経験では、彼は、論理的思考も、情緒的反応も、殆ど不応です。彼には、敵意ある自尊心、つまり、ルサンチマン的な怨みと憤りが未処理・未解決のまま燻っているような感情しかないような気がします。
>安息日を聖なる日として守るべきとする創造論的根拠は、人間は神が創造され、神の目に、
>すべてはよかったと言われた世界に生かされているという信仰告白を意味しています。
>また出エジプトという出来事を根拠として、
>安息日を聖なる日として守るべきとする救済論的根拠は、
>人間は神に対する信仰、信頼を拒むという罪の結果、エジプトの奴隷生活の苦しみと滅びを、
>自ら招き、その苦しみから自分を救い出すことができない。
>しかし、神は人を愛し、奴隷の苦しみと滅びから、
>ご自分の方法と力により解放し下さるという信仰告白を意味しています。
・・論的根拠、などと言う必要の全くない、教理べったりのルーチンのようです。パリサイ人の信仰生活と主張に符合します。安息日に休めば、すべてはよかった、になるのでしょうか。すべてが良かった先に、安息できない私たちは、いるのですが。彼は、いつも、本質から外れた、こう言っとけばいいだろう、というような、安易な組み立てで物を言います。これらは、深みも、掘り下げる態度も感じられません。そこには、自分の未熟性から求めてゆく態度がなく、背伸びして自己満足から教える態度しかありません。それが彼の強さの正体です。彼の安息日は、彼自身が思い込んでいるだけの安息であり、安易なのです。
立派なことを言っているような気がする・・かな・・という感想を狙って書くと、このようになる、という典型で、神の恵みのパンくずを、その本質を語らず、見た目だけ金色にして見せびらかしているようなもので、信仰の形骸だけを追いかけて、なぞってきた結果でもあります。
怪しい人々も言っています。「神は偉大なり!」と。
人間性を考えない信仰は、その域を出ないと言ってもいいでしょう。
>真の安息のないストレス社会、過労死を生み出す日本社会は
>崩壊するバベルの塔の社会のようで、
>まさに生ける真の神に対する信仰、信頼のない世界、
>エジプトという奴隷社会?ということができるでしょう。
バベルの塔、ありふれた比喩ですが、日本が奴隷社会、と言うだけで、何が満たされ、何が心を動かすでしょう。こういうのを、大仰と言って、今まで批判してきました。少しじっくり読めば、いかに彼が本質を外してしまうか、いかに空疎な話をしているか、平信徒で逸れ信仰者の私でも分かるのです。そこに、完成の高ぶりはあっても、未熟からの求める姿勢がないということ・・。
(ヨハネによる福音書、口語訳)
15:1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 15:3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 15:4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 15:5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 15:6人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
(ヨハネ書15:1-6、新約聖書)
キリストから離れて、気に入らない意見や人と絶縁した安息のつもりで、人に勝つために、人に負け犬と呼ばれないために、キリストに背くことばかりして、キリストにつながっていないところで、捏造した果実を貪りながら、人にも、このようになれ、と執念のように、言い続けているのが、彼シャローム氏です。
(ヨハネによる福音書、口語訳)
14:25これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 14:27わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 14:28『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。 14:29今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。 14:30わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。 14:31しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
(ヨハネ書14:25-31、新約聖書)
彼は、必要なことに対しても、心を騒がせないために、冷たい石づくりの祭壇のように無反応になりながら、人の意見は賛同意見以外遮断して、聞かないが、自分の言いたいことだけを言う、という態度ですが、この態度こそが、彼シャローム氏が、自分は正しい、と無根拠に、神からの被愛妄想から、言い張っている証拠となっています。
キリストが殉教と十字架へ向かおうとする聖句の前に、不全の人でしかない自らの完成を、ブログという人前で、他者を指して、あれはバベルの塔だ、キリストの残した平安のうちにある自分の信仰を聞け、という態度ほど、醜く、みすぼらしく、的外れな態度はありません。
>神はイエスの十字架の血によって、すべての苦しみ、問題の原因である
>自らのうちに善悪の基準を置き、自らを神のようなものとする私たちの罪をあがない
>神の平安、安息を与えるために、イエスを死人の中から日曜日の朝よみがえらされたのです。
>イエスは今も生きておられ、
>このイエスによって約束された安息が与えられていることを感謝し、
>礼拝を捧げる日、それが安息日なのです。
自らのうちに善悪の基準を置き・・・これこそ、彼シャローム氏が、懸命に行ってきたことです。そのために、自分の基準以外を、すべて、葬り去ってきた結果が今なのです。その結果を告げているのは、他でもない、彼の書いた文章なのです。
無闇に感謝の言葉を並べるのは、求めるべきことを求めないで、与えられたと、与えられるから安心だと、悦に入っている偽善者の態度です。言葉の上っ面だけを珍重し、本質を見損なっていることにも気づかず、見せびらかすような、慎みのなさを、これからも、記事ごとに、露呈してゆくのでしょう。神の造った器である人が、自分で自分の器を作ろうとしてしまうと、造った御方が、ある日、予告もなく壊すという定めにも気づかずに、崖っぷちに追い詰められても、人に平安の平泳ぎを教えるような奇怪な様態となるのでしょう。
>ブラジルを優勝に導いたネイマールの鉢巻き?には
>〈100%JESUS〉と文字が書かれていました。
>ホットな金メダルでしたが、ホッとさせられる文字でした。
何か、ほっとしてよいような、安心してよいようなことなのでしょうか。こんな題材に、喜んで飛びついて、信仰の記事の結びにしてよいものなのでしょうか。異国の若い有名人の鉢巻き・・
・・検索すると、プロテスタントの家族の、父親の交通事故で家族が無事だったことや、また母親の願いのしるしだそうです。そういうエピソードこそが、こういう箇所には大事なのに、それは書かないという、彼、シャローム氏です。鉢巻きの文字JESUSだけで、何が安心?・・という気持ちで次の段落を私は書きました。
形骸だけを求めてきた結果、形骸だけで安心してしまうのが、パリサイ人をはじめとする偽善者の宿命です。つまり偽善者は、ある意味、哀れな生き物ですが、その言動が信仰を蝕んでゆく経過を見過ごすことは出来ないのです。彼のような態度を表す、美辞麗句にぶら下がっているような、余計ではないかとさえ思える者を、神がなぜ造られるのか、これは、終末まで、神の秘密でありましょうが、誰でも間違えればこうなる、という戒めと受け取るしか、今はないのでしょう。
神は恐るべきかな
と言いたいのに
神は偉大なり
と言って
悦に入って平安と安息を
ネット上の鍵をかけた部屋で舐め続けている者がいる。
信仰者とは、求める者であって、求めることにおいて共感しながら、
求めることを共有してゆく人のことである。
何びとも、神の恵みの予兆を感じることはあっても、
それは、神のなさることの、ほんの小さな兆しに過ぎないし、
私たちが、それに救われているとしても、
神の成就を先取りして、今あるかのように見せびらかすことは出来ない。
個人の終焉と、地上の終焉は、突然来るとも語る聖書を前に、
信仰の命の果ての断崖に来てしまって、胡散臭さだらけの地上で、
さらに、うすら寒い風を、きな臭さとともに、あびせられる心境では、
つくづく人の心と言葉の、無防備に近い構えで、
誰かの、はらわたと皮下脂肪の間から、
抑制もなくにじみ出てきたような粘液質に
閉口したいが、黙ってはおれない、という抵抗を示しながら、
もう終わりにしたいです、自分が胡散臭くなりそうで、と祈りながら、
他に出来ることがあるか、と問い返されているようで、
明日、何も書けなくなっていもいい、という気持ちで書いているのは、
土に埋もれて見えなくなる定めの墓標なのだろう。
・・やれるだけ、やってみる・・
(2016年08月23日)
(2016年08月25日、一部修正)
贔屓(ひいき)
拘泥(こうでい)
隠蔽(いんぺい)
無頓着(むとんちゃく)
蔑ろ(ないがしろ)
怠る(おこたる)
捏造(ねつぞう)
貪る(むさぼる)
蝕む(むしばむ)
論う(あげつらう)
形骸(けいがい)
兆し(きざし)
終焉(しゅうえん)
逸れる(はぐれる)
胡散臭い(うさんくさい)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
贔屓(ひいき)
拘泥(こうでい)
隠蔽(いんぺい)
無頓着(むとんちゃく)
蔑ろ(ないがしろ)
怠る(おこたる)
捏造(ねつぞう)
貪る(むさぼる)
蝕む(むしばむ)
論う(あげつらう)
形骸(けいがい)
兆し(きざし)
終焉(しゅうえん)
逸れる(はぐれる)
胡散臭い(うさんくさい)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)