ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年08月

 
  ホッとしてはいけない日
 
 ホッとする安息日
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27649183.html
  いかんなく偽善者ぶりを発揮しているようです。開き直ったかのように。
 
彼シャローム氏は、まず手紙のような文章を長々と引用します。信仰について書きたいのならば省略してもよいようなことを書くのは、煙に巻きたいことがあるからでしょうか。丁寧を柔和と決めて、それだけで信仰っぽく見せている彼シャローム氏の宿命なのでしょうか。
 
コメント欄の意図的な操作、つまり、ブロック、削除によって、自分のブログには、批判など来ないし、来ても反論によって退けています、という体裁を保とうとする小細工、その偽善を指摘されて、苦痛になってくると、コメント欄廃止によって、もはや、完全に他者をシャットアウトして、孤立無援の、自己主張を繰り返しながら、他者との交流があるかのごとく見せかける、殆どフィクションの世界の信仰と福音伝道をしている、しかも、しばしば、自分とほぼ同じ方向を持つ他者の文章を転載または引用して、あたかも双方向の交わりを持っているかのように、さらに見せかけている、という自分信仰の断末魔は、平気で他者を引用して巻き込もうとしているようです。他者を批判の矢面に立たせて、味方が多いと言いたいのか。ならば、何故、そういう人に話を持って行って、言論での援助を得ようとしないのか。理由は、決して弁明できないような、偽善に嵌ってしまっているからです。そのことを親しい他者に言えないからでしょう。
 
>勝ってメダルを獲得できた人の笑顔も、できずに悔し涙を流した人の顔も思い出されます。
 
勝者のみならず敗者にも、行き届いた配慮をしています、ということを言いたい?
 
>惜しくも北海高校の優勝ならず、台風の災害の中にある北海道のひとびとへの
>うれしい優勝旗とメダルをプレゼントできれば
>どんなに素晴らしい贈り物になったかと思いやられました。
 
にもかかわらず、北海道が甲子園で優勝できなかったことを「思いやられました」と書いて、前言の、行き届いた配慮を否定して、贔屓になっている文章。・・さては、引用元は、類は友を呼ぶ類か、とも感じてしまう・・
 
>安息を見失い、勝ち負けだけの世界になってしまうことの恐ろしさを感じます。
 
彼は、休んではいけないときにも、完璧に、自分に向けられた信仰についての反対意見を無視しています。それが安息でしょうか。自分の益のために、無頓着に無反省の無関係と無配慮を実行し続けていられるのです。つまり、安息日を、問題からの逃避のために、そして、自己正当化のために、利用している偽善者であります。信仰についての話において、自分の非を認めたことがなく、負けも弱みも見せたことがなく、そういう弱さに共感も持てない人なのです。負けていない、勝っている、という修正不能の思い込み、それが安息でしょうか。神は、彼のような者の目的のために、安息日を定めたのでしょうか。
 
>真の安息は人の心や手の中にないことをつくづく感じられます。
>今日は安息日についての記事を再掲してみたいと思います。
>それは神から与えられる安息が私たちの生きる力、喜び、希望だからです。
 
彼は、こういう、神から与えられる安息、という言葉を、今は、大歓迎するでしょう。申し上げますが、彼は、偽善を働き、それを告白もせず、隠し通すことで、自分勝手な安穏の日々を送っているようですが、そのことは既に、神の定めた安息日を捨てている、ということなのです。
 
>この創造の記述により、安息日は聖なるものとされた。
>もう一つの理由は、出エジプトのできごととの関係で。
>神の恵みにより、エジプトから救出され、奴隷労働から解放されたことを記念するために、
>と解説されている。
 
彼は、体面とか見かけとか自尊とかに拘泥して、卑怯な働きを今も続けているのです。彼は、解放のためではなく、自分の思い込みへの隷属のために、自分も他者も利用しています。信仰は、彼にとって、神以外からの解放になっていません。彼の捏造した王国の奴隷となり、そこに執着して、離れることが出来ず、他者に対しても、それを勧め続けるのでしょう。
 
>われわれはともすると、心身を破壊するまで働く傾向がある。
>人間とはなんと勤勉なのか、それとも愚かなのか?
>強制休息を必要とするほど、人類の歴史は自他への強制労働の例に満ちている。
 
彼自身は、どうなのでしょう。偽善とその隠蔽は、誰の役にも立たない労働です。それを企み、実行し、かつそのことさえも隠して、体裁の善さを繕う態度は、彼自身の欲望に他なりません。彼は、自尊という欲望の奴隷です。
 
>イスラエルにとって安息日は聖なる日とされ、
>そして、身体を休ませるだけでなく、神を礼拝し神と交わる時間をもうけて、
>心もリフレッシュされるようにすすめられている。
 
したがって、リフレッシュされることもないのです。彼は、真面目に全力で取り組むべき日々に、人を蔑ろにして、反省も修正も解決も、いかなる努力も怠ってきたのです。
 
このように長い引用は、時候の挨拶を入れることで、好ましい付き合いのあり方を、彼は、示したいのかもしれません。柔和で微に入り細にわたる配慮を示したいのかもしれません。しかし、上に述べたように、人の書く文章など微にも細にもわたっていませんし、彼は、柔和からは、今いちばん遠いところで自尊を捏造しているに過ぎません。虚構の理想郷を求めているだけで、神の国を求めていません。彼は、今、平安と安心の気分を求めているに過ぎません。慇懃無礼は、安息ではなく、難を逃れるための偽善の保身行動として、自己の安泰だけを目指しています。
 
 
さて彼が書いた部分ですが、・・論的根拠、などと言いたいのは、理論家ぶりたいのでしょうか。いや、むしろ、批判にも耐えうるという自分の強さを誇りたいのでしょうか。書いてあることは、引用した文章とほぼ同じです。今まで見て来た経験では、彼は、論理的思考も、情緒的反応も、殆ど不応です。彼には、敵意ある自尊心、つまり、ルサンチマン的な怨みと憤りが未処理・未解決のまま燻っているような感情しかないような気がします。
 
>安息日を聖なる日として守るべきとする創造論的根拠は、人間は神が創造され、神の目に、
>すべてはよかったと言われた世界に生かされているという信仰告白を意味しています。
>また出エジプトという出来事を根拠として、
>安息日を聖なる日として守るべきとする救済論的根拠は、
>人間は神に対する信仰、信頼を拒むという罪の結果、エジプトの奴隷生活の苦しみと滅びを、
>自ら招き、その苦しみから自分を救い出すことができない。
>しかし、神は人を愛し、奴隷の苦しみと滅びから、
>ご自分の方法と力により解放し下さるという信仰告白を意味しています。
 
・・論的根拠、などと言う必要の全くない、教理べったりのルーチンのようです。パリサイ人の信仰生活と主張に符合します。安息日に休めば、すべてはよかった、になるのでしょうか。すべてが良かった先に、安息できない私たちは、いるのですが。彼は、いつも、本質から外れた、こう言っとけばいいだろう、というような、安易な組み立てで物を言います。これらは、深みも、掘り下げる態度も感じられません。そこには、自分の未熟性から求めてゆく態度がなく、背伸びして自己満足から教える態度しかありません。それが彼の強さの正体です。彼の安息日は、彼自身が思い込んでいるだけの安息であり、安易なのです。
 
立派なことを言っているような気がする・・かな・・という感想を狙って書くと、このようになる、という典型で、神の恵みのパンくずを、その本質を語らず、見た目だけ金色にして見せびらかしているようなもので、信仰の形骸だけを追いかけて、なぞってきた結果でもあります。
 
怪しい人々も言っています。「神は偉大なり!」と。
人間性を考えない信仰は、その域を出ないと言ってもいいでしょう。
 
>真の安息のないストレス社会、過労死を生み出す日本社会は
>崩壊するバベルの塔の社会のようで、
>まさに生ける真の神に対する信仰、信頼のない世界、
>エジプトという奴隷社会?ということができるでしょう。
 
バベルの塔、ありふれた比喩ですが、日本が奴隷社会、と言うだけで、何が満たされ、何が心を動かすでしょう。こういうのを、大仰と言って、今まで批判してきました。少しじっくり読めば、いかに彼が本質を外してしまうか、いかに空疎な話をしているか、平信徒で逸れ信仰者の私でも分かるのです。そこに、完成の高ぶりはあっても、未熟からの求める姿勢がないということ・・。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
15:1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 15:3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 15:4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 15:5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 15:6人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
 (ヨハネ書15:1-6、新約聖書)
 
キリストから離れて、気に入らない意見や人と絶縁した安息のつもりで、人に勝つために、人に負け犬と呼ばれないために、キリストに背くことばかりして、キリストにつながっていないところで、捏造した果実を貪りながら、人にも、このようになれ、と執念のように、言い続けているのが、彼シャローム氏です。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:25これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 14:27わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 14:28『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。 14:29今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。 14:30わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。 14:31しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
 (ヨハネ書14:25-31、新約聖書)
 
彼は、必要なことに対しても、心を騒がせないために、冷たい石づくりの祭壇のように無反応になりながら、人の意見は賛同意見以外遮断して、聞かないが、自分の言いたいことだけを言う、という態度ですが、この態度こそが、彼シャローム氏が、自分は正しい、と無根拠に、神からの被愛妄想から、言い張っている証拠となっています。
 
キリストが殉教と十字架へ向かおうとする聖句の前に、不全の人でしかない自らの完成を、ブログという人前で、他者を指して、あれはバベルの塔だ、キリストの残した平安のうちにある自分の信仰を聞け、という態度ほど、醜く、みすぼらしく、的外れな態度はありません。
 
>神はイエスの十字架の血によって、すべての苦しみ、問題の原因である
>自らのうちに善悪の基準を置き、自らを神のようなものとする私たちの罪をあがない
>神の平安、安息を与えるために、イエスを死人の中から日曜日の朝よみがえらされたのです。
>イエスは今も生きておられ、
>このイエスによって約束された安息が与えられていることを感謝し、
>礼拝を捧げる日、それが安息日なのです。
 
自らのうちに善悪の基準を置き・・・これこそ、彼シャローム氏が、懸命に行ってきたことです。そのために、自分の基準以外を、すべて、葬り去ってきた結果が今なのです。その結果を告げているのは、他でもない、彼の書いた文章なのです。
 
無闇に感謝の言葉を並べるのは、求めるべきことを求めないで、与えられたと、与えられるから安心だと、悦に入っている偽善者の態度です。言葉の上っ面だけを珍重し、本質を見損なっていることにも気づかず、見せびらかすような、慎みのなさを、これからも、記事ごとに、露呈してゆくのでしょう。神の造った器である人が、自分で自分の器を作ろうとしてしまうと、造った御方が、ある日、予告もなく壊すという定めにも気づかずに、崖っぷちに追い詰められても、人に平安の平泳ぎを教えるような奇怪な様態となるのでしょう。
 
>ブラジルを優勝に導いたネイマールの鉢巻き?には
>〈100%JESUS〉と文字が書かれていました。
>ホットな金メダルでしたが、ホッとさせられる文字でした。
 
何か、ほっとしてよいような、安心してよいようなことなのでしょうか。こんな題材に、喜んで飛びついて、信仰の記事の結びにしてよいものなのでしょうか。異国の若い有名人の鉢巻き・・
 
・・検索すると、プロテスタントの家族の、父親の交通事故で家族が無事だったことや、また母親の願いのしるしだそうです。そういうエピソードこそが、こういう箇所には大事なのに、それは書かないという、彼、シャローム氏です。鉢巻きの文字JESUSだけで、何が安心?・・という気持ちで次の段落を私は書きました。
 
形骸だけを求めてきた結果、形骸だけで安心してしまうのが、パリサイ人をはじめとする偽善者の宿命です。つまり偽善者は、ある意味、哀れな生き物ですが、その言動が信仰を蝕んでゆく経過を見過ごすことは出来ないのです。彼のような態度を表す、美辞麗句にぶら下がっているような、余計ではないかとさえ思える者を、神がなぜ造られるのか、これは、終末まで、神の秘密でありましょうが、誰でも間違えればこうなる、という戒めと受け取るしか、今はないのでしょう。
 
 
神は恐るべきかな
と言いたいのに
 
神は偉大なり
と言って
悦に入って平安と安息を
ネット上の鍵をかけた部屋で舐め続けている者がいる。
 
信仰者とは、求める者であって、求めることにおいて共感しながら、
求めることを共有してゆく人のことである。
 
何びとも、神の恵みの予兆を感じることはあっても、
それは、神のなさることの、ほんの小さな兆しに過ぎないし、
私たちが、それに救われているとしても、
神の成就を先取りして、今あるかのように見せびらかすことは出来ない。
 
個人の終焉と、地上の終焉は、突然来るとも語る聖書を前に、
信仰の命の果ての断崖に来てしまって、胡散臭さだらけの地上で、
さらに、うすら寒い風を、きな臭さとともに、あびせられる心境では、
つくづく人の心と言葉の、無防備に近い構えで、
誰かの、はらわたと皮下脂肪の間から、
抑制もなくにじみ出てきたような粘液質に
閉口したいが、黙ってはおれない、という抵抗を示しながら、
もう終わりにしたいです、自分が胡散臭くなりそうで、と祈りながら、
他に出来ることがあるか、と問い返されているようで、
明日、何も書けなくなっていもいい、という気持ちで書いているのは、
土に埋もれて見えなくなる定めの墓標なのだろう。
 
・・やれるだけ、やってみる・・
 
 
(2016年08月23日)
(2016年08月25日、一部修正)
 
贔屓(ひいき)
拘泥(こうでい)
隠蔽(いんぺい)
無頓着(むとんちゃく)
蔑ろ(ないがしろ)
怠る(おこたる)
捏造(ねつぞう)
貪る(むさぼる)
蝕む(むしばむ)
論う(あげつらう)
形骸(けいがい)
兆し(きざし)
終焉(しゅうえん)
逸れる(はぐれる)
胡散臭い(うさんくさい)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
 
 
 
 

 
  コリント:愛の讃歌
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
これを読んで、私もだったが、多くの信仰者も、たぶん、いい気持ちになって、「素敵な教えですね。分かりました。」ということになるかもしれないが、そこで終わってはいけない。これは、どんなに美しくても、心地よくても、理想であって、現実には、こうなってはいない。事実と当為、理想と現実を、混同してはいけない。これらを、いちいち、否定してみると、・・
 
不寛容、冷酷、妬む、高ぶる、誇る、不作法、利益を求める、苛立つ、恨む、真理を喜ばないで不義を喜ぶ、忍ばないで自分勝手、信じないで望みを疑う猜疑心、耐えないで横暴、
 
これが、現実の人間世界における愛の実相であり実態であることを理解しなければならない。キリストを殺した者たちも、このようであったと思う。ゆえに、愛の讃歌は、美しいほどに、心地よいほどに、愛についての戒めと、それが失われた世界の悲劇を、浮き彫りにする。
 
現実が分かって、理想が分かったら、どうするのか。理想を目標として努める?、その通りのように思われるが、ここで、見逃してはいけないことがある。上の讃歌つまり理想は、恐らく、神の愛でないと実現できないだろう。言葉で、あまりにも完成し過ぎている。このような様態は、人において、実現することは、恐らく、終末までないだろう、と予測するのが妥当ではないだろうか。
 
だから、むしろ、理想を実現させます、と言うことに、慢心を警戒するべきではないか、という当為が生まれる。実現したように見えても、人間にとって、それは一時の達成感に裏打ちされた感慨に過ぎない。道は、まだ果てしないほど遠く、生涯続き、移ろいやすく変転して止まない人の心を考えるとき、視点を変える思考を持ち合わせておれば、理想の実現、それは終末まで、ないことと言わざるを得ないのではないか。
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 13:12わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 13:13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
 (1コリント13:8-13、新約聖書)
 
愛はいつまでも絶えることがないが、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれる、と書いている。今でも、預言や異言が、聖霊体験とともに、特別視されているようだが、そのような神性の導きを人が直接受けたなら、そのとき、信仰者ゆえにマリアのように「私などにそんなことなど・・」と言わないではおれないだろう。信仰者ゆえにマリアのように「御心のままになりますように」と言うのが精一杯だろう。
 
それ以外に、例えば、聖霊が顕れた、これは奇跡だ、などと言い張る者は、元々聖霊に値する者とは思えないような気もする。聖霊だからこそ、神秘体験だから、人に知らせるべきだ、という考え方に結び付けるのは、自分が聖霊降臨に値するのか、という節操ある自省を欠いているような気がする。あらゆる神秘について、調子に乗る勘違いや偽者は、必ず現れるからだ。自分が神にとって他者よりも特別だという意識がなく謙譲を持ち合わせているならば、聖霊を受けた者は、内輪の話として、控えめに可能性を語るに、とどまるだろう。
 
また、もし、日常的に聖霊は働いているのです、という考え方なら、その密かな働きについて、声高に人々に語る必要も意義もないということになる。
 
いつまでも存続する信仰と希望と愛の中から、最も大いなるものとして、パウロは、愛だと言いきっている。なぜだろう。神の国を思えば、御国においては、救いが成就したのだから、信仰はもはや必要なく、希望も既に希望ではなく事実となっているだろう、という理屈が可能だが、私は、どうも、こういうのが一番苦手だ。
 
「おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった」・・前に、幼子のように受け入れて、文句を言うな、という邪悪な聖職者の言い分になりやすいことを書いたことで十分だろう。幼子らしいことは、捨ててしまって、今、どうしようもない、大人になっているのだ。幼子のように、と教える資格を持つのは、キリストだけだ。
 
そのあと、その時には、見るであろう、完全に知るであろうと、終末の成就についてだろうか、語っている。それを喜んでもよいが、私たちは、今、おぼろげに見て、一部分しか知らない、この地上から、神を仰いでいる、ということを忘れてはいけない。
 
だから、愛の讃歌である。それは、人間に分かる愛ゆえに、パウロが主張しているところの、人間が共感できる愛である。そしてそれが、とても不十分で未完成の愛であることを認めることは、いつの日も、信仰の始めだろう。信仰は、いつの日も始まるのであって、日々、古いものをできる限り反省して、新しい恵みのパンくずをいただく他にない。いつの日も、始まるのであって、終わるのでも完成するのでもない。ゆえに、道と呼ばれる。
 
神の愛の本質を人は理解できない地上においても、人間の愛は、ある程度、経験から分かるはずである。信仰には、自分信仰や他の○○信仰という如何わしい信仰がある。希望は、かすかな望みであり、絶望と同時に存在しているだろう望みであり欲望も混ざっているかもしれない。
 
この地上の生涯で、いつまでも続くのは、つまり最後まで続くのは、信仰と希望の根底にある、愛、と言うべきではないだろうか。愛がなければ、信仰は騒がしい宣伝の鐃鉢の信仰となり、希望は人を騒がせる鐃鉢の希望つまり欲望か強迫観念になるのではないか。パウロの心情を察するならば、それらの人々に、パウロは、愛を感じることがなかったということだろう。
 
 
(2016年08月22日)
 
当為(とうい)≒「べき」の付くこと。
猜疑心(さいぎしん)
忌まわしい(いまわしい)
鐃鉢(にょうはち、打楽器、シンバル、とも訳されている)
如何わしい(いかがわしい)
 
 
 
 

 
  鐃鉢(にょうはち)
  
     ・・・パウロの愛の讃歌
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 13:2たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 (1コリント13:1-3、新約聖書)
 
騒がしい鐃鉢のような言葉を繰り返して、一方で、自らの罪も偽善も省みることのなく、都合の悪いこと一切を隠し続けることを批判してきました。
 
騒がしい鐃鉢のようでない言葉とは、どういう言葉でしょうか。文才を問われているのではありません。書いてあるように、愛と言ってよいでしょう。しかしそう言われても、いつも愛の言葉を語ってはいられない、だいたい、そういう言葉をよく知らない・・と言う私のような人もいるでしょう。ここで言う愛は、神から来ています。しかし、書かれている愛は、人間にも了解できるところの愛だと思います。何故ならキリストは、今、人に、すぐには分からないと知りながら、御心を宣教しましたが、一方で、二千年後の私たちが読んでも、心に響くような語り方をして、ご自身の存在を忘れさせないような言葉を語りました。ゆえに直接キリストの生前を知らないパウロの、愛の讃歌につながるのです。愛とはその言葉に込められているものなのでしょう。
 
打楽器である鐃鉢は、それだけでは、いつも同じ音を立てます。だから、やたら鳴らしても、騒がしいだけでなのしょう。打楽器は、演奏する者の手によって、時々に様々に調和するとき、美しい音に生まれ変わるでしょう。演奏するのは、ここでパウロであり、また、聞き手である私たちでもあるのです。いつも同じことを言っておれば、讃美になる、信仰になる、ということでは決してないということです。折に触れて、私たちは、様々な心境で、信仰を考えます。私たちは、安穏とした境地に固定されてはいないからです。そのようなことを信仰は教えてはいないからです。
 
何故なら、私たちは、この地上で、生きているからです。移り変わる外界と人間関係の中で、様々に反応しなければならず、また、祈ることも様々となり、神と人との関係である信仰も、生きて、新しくなってゆきます。神は変わらない、しかし、人は変わる。
 
激しく変わる地上に生きて、心が変わらないということはなく、また、言葉の示すものが変わらないということもないのです。同じ言葉に、いつも感動し続けることには無理があるのです。ゆえに、人は不全であり、人は罪人であり、ときに罪を犯す。罪を犯す前と後、という変化の中に生きているのです。それは、そのまま、祈る前と後、という変化の中に生きていることでもあります。
 
たとえ同じ言葉を語っても、すべてが同じにはならないのは、このためでしょう。同じではないのです。変わってゆくことで、私たちは成長しなければいけないのです。そのためには、聖句を見て、好い気持ちになることばかりではなく、人を見て、自分を見て、必ずしも美しくなく、好い気持ちにならなくても、そこから信仰の歩みは、日々新たに始めるのだと思います。だから、心をいつも、新しいものを受け入れられるように、修正可能にしておくことが必要なのです。
 
キリスト者は、神が与える平安を、神が与えるのだから、ゆるぐことのないもの、不変のものと思いがちです。しかし、どうでしょう。昔、救われたから、そのときの平安をとどめようとして、とどまるものでしょうか、否です。今は、今の平安を求めているのです。これを勘違いすると、昔のまま、変わらないものを求めて、言葉のみでの確認行為に走り、今、受けるべきものを見過ごしてしまうでしょう。かたくなに拒否してしまうかもしれません。
 
ひょっとして修正可能にしたら、せっかく学んできたキリスト教から離れてしまうのではないか、と不安になる人があったら、考えてみましょう。修正可能であれば、間違えても戻ることも出来るのです。一方、修正不能の人は、進むことも戻ることも出来ないということです。修正可能は、どこへでも進めます。もちろん間違えることもあるのですが、正す方向へ進むことに何の障害もないのが修正可能なのです。修正可能は自由であり、修正不能は常に束縛の中にいる、ということです。
 
 
パウロは、旧いユダヤ教から、キリスト信仰に改宗した、元迫害者です。なぜ、パウロは、そのような、人生を180°変えるような、決断をしたのでしょう。パウロは、神からの神性を持っていたかどうか、私には分かりません。しかしパウロは、人間としての豊かな感情と感受性を持っていたような気がします。彼は、パリサイ人である自分に、騒がしい鐃鉢を感じ、愛を感じなかったのでしょう。むしろ殉教をも辞さないキリスト信仰に愛を感じたのでしょう。その根源はキリストでした。パウロは、騒がしい鐃鉢のような神性を信じることよりも、愛という、人間が共感できる神性を信じることに自分の生涯を捧げたのではないでしょうか。
 
だから、現代でも「人々の言葉や御使たちの言葉を語」るだけの人はいるのです。「知識とに通じて」いるだけの人もいるのです。パウロの心情を察するならば、それらの人々に、パウロは、愛を感じることがなかったということです。
 
 
※ 
 
修正可能にするとは、どういうことかというと、何か疑問に対して、例えば、「・・というように伝統的には解釈されているようですが、一緒に考えてみませんか。」という冷静な言い方をすることであります。そのとき、伝道者は、相手を説得するのが目的ではなく、本当に共に考えてゆく姿勢がないといけません。福音伝道はそうでなければいけません。
 
そういう澄んだ光を返す代わりに、「・・ということですね!」「・・は、ただ感謝だけですね!」というような、決めつけの断定を繰り返して、脂ぎった眼と顔をじわっと寄せて、さらなる疑問を抑えつけたりしないことです。
 
疑問は、ともに考えることで、信仰の糧となる可能性があるからです。ひょっとしたら、その人と出会ったのも、偶然ではないかもしれないからです。御心は測り難いのです。
 
 
(2016年08月21日、同日一部修正)
 
鐃鉢(にょうはち、打楽器、シンバル、とも訳される)
奥義(おうぎ)
 
 
 
 

 
  レスリング女子
 
 
リオ五輪、レスリング女子
 
 
不動の王者と思われていて
顔を見ても面白くもなんともないような無表情
・・よく言えば落ち着いた強い顔・・
 
タイムアップで
崩れる、前チャンピオン、
インタビューに声を震わせて
 
「取り返しのつかないことをして・・すみません」
と言った途端、
フイーンと今まで見たことのない泣き顔噴出、
くしゃくしゃ・・
 
子供みたいな、なんとあどけない、無邪気
・・こんな泣き顔、持っておられたとは
 
取り返しのつかない??
 
人生終わるわけじゃありませんから
 
ご苦労様・・と思っていますから
 
と言いたくなるような顔
・・かわいいと思ってしまうよ
 
 
一人が勝ち続けるってことは
ありえないことなんだけど
いつ終わるってことも
誰も知らなかったわけだし
引退するかどうかは別問題だし
 
まあ、とにかく今回、ご苦労様でした
 
 
他にも、
 
デブ?・・であるはずはない、
レスラーなんだ、でも豊満な、
速くて強くて、新チャンピオン誕生とか、
 
這って逃げる相手の片足持って、
犬の散歩みたいに追っていくシーンとか
 
コーチを抱え上げて肩車で投げる
・・これが喜びの表現、しかも2回とか
 
驚くこと多く、面白い、久しぶりに人間を
退屈せずに見ることが出来ました、感謝です
 
 
(2016年08月20日)
 
這う(はう)
 
 
 
 

 
   理屈を誇る者
 
 その名は不思議
 「誇るは十字架のみ」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27642605.html
 
 
これは、転載記事ですが、良い記事なので、私も引用させていただきます。
彼は、何故この文章を転載したのでしょう。
 
「引用始め:
 
 私たちは果たして、神の御前に出る時、どのような思いでいるのだろうか。自分を誇る者としてか、いやいや、私から何の良きものが見いだされるだろうか、とするのか。
 
 イエスは自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、こんなたとえを話された。パリサイ人と取税人を登場させて、こころのあり方を点検するように。
 
ルカ18:11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」 
パリサイ人は自分丸出し、肉にある者だ。神は自らを低くして、へりくだる者を喜ばれる。パリサイ人はことばとしては感謝を現しているようだが、自慢話を神に宣べているだけ。
 
 私たちはこんなことばを聞いたなら、なんてひどい言葉だと、思うだろう。けれども、この世は私の経歴はこんな立派、こんなことが出来る、と自己を主張したり、手柄をラッパのように長く吹き鳴らすことなど、力を持つことを良しとし、力があることを自慢するように教えられて生きている。
 
 パウロは実際にパリサイ人であったとき、正しいことをしていると誇り、キリスト者を追い回し、捕まえ、投獄し、死にも至らせていた。その功績を自慢さえしていたほどに。後に、義とされて家に帰った一人とされている。
 
 自分の力、考えに頼る人は、結局は自分の限界が分からないし、知ろうとしない。限界が来ているのに「いやいや、まだ大丈夫。何とかなる。」と、自分を改善しようとする傾向が強い。だけども自分が弱いことを知り、それを認めるところから新しい世界が開けて前進することが出来るのじゃないかな、と思う。
 
13取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 
 一方で、取税人は祈るために宮に来たけれども、神の御前に立ったとき、それができなかった。自分が欠けのある者、愚かな者、神に喜ばれることなしと認めて、ただ神に頭を下げるしかない、恵みなどムリでもあわれみは受けられるだろうと、すがって、うめくしかできなかった。
 
 人間の弱さ、自分にしがみつき、自分を守ろうという姿勢はどうしようもない、避けることができない。キリストが十字架にかかって終わらせなければならないほどだった。
 
 神が求められているのは、こんな私にはあなたが必要だと、神の御前に自分を投げ出す者を。それで、イエスは言った。
 
14あなたがた言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
 
 取税人があわれみを乞うたゆえに、神に良しとされたということではない。十字架につけられし犯罪者がイエスに願ったように、行いによらず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められただけ。誇るは十字架のみ。
 
 :引用終わり」
 
 転載元: 生活の中の聖書
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/33531151.html
 
 
私が気になったところ:
 
>取税人があわれみを乞うたゆえに、神に善しとされたということではない。
 
取税人が、弱さと悔いを示さず、赦しを乞わないストーリーで、神に善しとされた、と語るだろうか。
 
>十字架につけられし犯罪者がイエスに願ったように、
>行いによらず、ただ、神の恵みにより、
>キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
 
ここは、十字架とか贖いとか、新約からの教理的なものは、まだ生まれていない頃だし、教理的なものにこだわるより、私としては、ただ、イエスが、罪びとの救いのために遣わされた救い主キリストであったから、と受け取ります。罪の贖いなどの教理が生まれたのは、もっと後の解釈でしょうし、解釈の理屈である教理より、キリストが伝え、施したのは、愛であります。
 
教理や贖いや奇跡のみを、何よりも喜ぶ者がいるので、ここの表現は好きじゃない・・
 
>価なしに義と認められただけ。
 
「・・だけ。」で済ませるには、あまりに大きな話です。私が信仰の芯と呼んでいるところに触れる話です。キリストに救われ、赦され、癒やされ、義とされたのは、十字架上の犯罪人も、パンくずを求めた女性も、サマリアの女性も、みな同じように、正直に弱く低い立場から祈り願った結果なのです。ここが、祈り願う姿勢において、パリサイ人と全く違うところなのです。
 
>誇るは十字架のみ。
 
これだけだと、本当に十字架を誇る、つまり、自説の教理と贖いと奇跡を誇る、つまり、取税人がどうであったかに関わらず、キリストは、罪を贖うために使命として、罪のどんでん返しを起こして義とする・・という奇跡話だと思う者もいるでしょう。
 
そういう者は、十字架を誇るのですと、意味も分からず、やたら言い出すかもしれません。これを転載したのは、
この
「十字架につけられし犯罪者がイエスに願ったように、行いによらず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められただけ。誇るは十字架のみ。」
という
人間の情感を含まない硬質な教理的文章だから、ではないかと思います。「神の恵み」は情感を含む言葉のようで実は、人間からは遠い超常の賜物を示す言葉として受け取っていることが多いです。神からだから、すごい恵み・・と言うことと大して変わりありません。彼は、こういう断定を、好みます。人間の情感とか、温もりとかには反応できないのでしょう。情感?反応?人間性?共感?、そんなものじゃない、と言うみたいに、否定する者もいます。そういう心性は、教理には辻褄を合わせて頷くが、人間の情感を汲み取れないということになるでしょう。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 18:11パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 18:12わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 18:13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 18:14あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
十字架の贖いと言えば救いの教理として覚えている人が多いでしょうが、ここに実感を与えるのは、誇るべき何ものも持ちえず、告白して赦しを乞うしかないほど、砕かれた人間の心であり、それに反応するキリストの愛の心なのです。それを抜きにして、いかなる教理も無意味です。
 
キリストは、罪を贖う使命だからと、そこから直に、超常の決定をして義としているのではありません。取税人の姿勢と態度と言葉から、その心を見出せるように、そこに、神の前に相応しい人間の姿を、話として語ったのだろうと思います。そのように、人間と神は、反応し合う関係です。キリストは人間に反応している、ということなのです。教理の理詰めだけで動き奇跡を施す役として地上に来ているわけではないのです。教理は解釈に過ぎません。大事なのは、救いという熟語ではなく、贖いという言葉でもなく、神と人間の、心なのです。
 
総じて人が、信仰を説こうとするなら、大事なのは、人間の心のありようです。教理を何百何千回唱えようと、いかに讃美を繰り返そうと、教理漬けの仕組みを繰り返すような、心のない文章は、それこそ、パウロが言うように、騒がしい鐃鉢に過ぎません。
 
 
(2016年08月19日、同日一部修正)
 
頷く(うなずく)
鐃鉢(にょうはち、打楽器とも訳される)
 
 
 
 

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