ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年09月

 
   自分を崇める者
 
 その名は不思議
 あがめられるのは主のみだ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27718744.html
 2016/9/29(木) 午前 11:20
 
 
人の意見を聞かず、封殺し、削除し、コメント欄を閉鎖して、自分の立場を偽装し、そのことを隠し続けている彼、シャローム氏は、まだ、記事を書く資格があると思っているようです。神を恐れぬとはこのことです。彼は、今、声をあげて、神を蔑ろにしているのです。
 
神は、いかなる者を用いられるか分からない、どんなに卑しく見える者も、神によって、用いられることがあり得るだろう。しかし、神は、自らを神の前に低くすることが出来ず、神に対しても人に対しても、偽りを言って、それにもかかわらず、知らん顔をしている者を、用いられることはない。偽善者は、聖三位つまり神とキリストと聖霊が、最も嫌う者である。
 
>ブルンナー先生の「信仰なしに」がどんな意味かわからない。
>しかし、あふれる喜びより低い水準であるのはたしかだ。
 
>そのとき、牧師の語る説教は、牧師自身よりりっぱだ。
>モーセの語ったことばもモーセ自身よりりっぱだった。
 
ここに、信仰なしに説教をし、洗礼を授けていた人の話が出てきます。そこで、4行目のようなこともあるという話です。
 
しかし、神が人を選ぶときに、そんなことは関係ありませんね・・。上の先生にしても、パウロにしても、信仰よりも言葉が立派だから、ということも、何か私たちが知らず、神が見込んだところがあるかどうかも、神が、例えばパウロに対するように、大きな逆転の悔い改めの機会を用意しておられるかも、聖書を読んでいる私たちが、あずかり知らぬところで起こっているのですから、とやかく言うことではありません。
 
大事なのは、聖書の話として、パウロは、迫害者から、神の導きによって、悔い改めて、キリスト者になり、使徒になったということです。
 
カルト信仰者は、人間を見ようとせず、それゆえに、人間の限界を知らず、それゆえ、何ごとにつけ、神を解釈しようとします。結果を受け取ればよいものを、結果を受けてどうするかということが人間には大切なことであるのに、神の意志を自分は知っていると誇りたいのです。そして、いろいろ説明しては、知るはずのないことまで言及して、馬脚を現し、ぼろを出すのです。
 
神は、人を選ぶのに、人に理解させる必要はありません。私たちは被造物です。
 
人は、神を信じるのに、神を理解できるわけではありません。私たちは被造物です。
 
 
>神の選びは人の選びとは異なる。
 
>使徒パウロはその手紙で、神はなきに等しいものを選ばれたと書いています。
>しかし、パウロはイスラエル社会ではエリート中のエリートだったのです。
 
パウロがエリートというのは、パリサイ人としてであって、神は、パウロをエリートなどとは思っていないでしょう。パウロは、手紙等を見ると、言論の上手な人のようです。それでも、信仰を宣べ伝えるのに、人の才能は、役に立たないことを実感して、「なきに等しい」と言ったのでしょう。しかし、偽善者のカルト信仰者は、それでは気が済まないようで、人間など関係なく神の奇跡だ!と言わなければ納得しないのです。
 
確かにパウロの回心は、目からうろこ、の諺にもなっているように、劇的なことでした。奇跡と言ってもいいでしょう。しかし、彼、シャローム氏が、言っているような、超常世界のストーリーではなく、パウロの回心は、起こるべくして起こったのだろうと思います。パウロは、いずれかの時点で、殉教してゆくキリスト者に気高さを見出したのではないか、という解釈もあるでしょう。
 
しかし、彼、シャローム氏は、彼自身の気づかないカルトの立場にしっかり立って、すべてを奇跡まみれにしてしまいます。奇跡によって、突然、目と耳が開かれたという見方です。すべてが神の奇跡だとすれば、その後、パウロが歩んだ道も、語ったことも、人間とは関係のない、神に支配によって、操り人形のように、パウロが行ったということになります。こういう解釈は、人間が何もしなくてよい、という主張になり、楽をして益を得たい偽善者には好都合ですが、もはや、回心にも、信仰にも、伝道にも、人間は何も関わらずに進むことになります。このような信仰を、人間である私たちは、どう信じようがあるでしょうか。
 
>神の御業は神によって開かれた目、耳でなければ、
>人の目で見ていては見えず、人の耳では聞こえることはないようです。
>ですからパウロも「誇る者は主を誇れ」と述べているのです。
>あがめられるのは主のみだ。
 
詐欺師独特の口調と主張です。既に「誇る者は主を誇れ」と彼に言う資格はないと批判されているのに、また、同じことを言ってくるのは、前に述べた、人間とは違う不感不応の力なのです。また、「神によって開かれた目、耳」どころか、彼は、人間らしい目も耳も持ち合わせてはいないこと、これも、前に言ったことですが、彼は、また、同じことを書いてきます。
 
信仰は、人間のために、神が人に与えられたものです。人には、分かることと分からないことがあります。ですから、人が分からないことを分からないと言うことは、とても大事なことなのです。分からないという真実を正直に言うことで、人は、神の前に敬虔であり得るのです。
 
にもかかわらず、彼、シャローム氏は、神によって開かれた、という確かめようもない、目と耳のことを言って、人に、超常の恵みがないと、見えないし聞こえないのだ、と言っています。まさに、彼が、見えず聞こえず感じないことを、神にせいにして、いずれ神がすべてを解決してくれる、という、身勝手な思い込みを広めることに躍起になっているのです。
 
彼は、思い上がって、自分の信仰についての見識が人よりも優れていることを誇りたいだけなのです。人間のことが、ここまで分からなくなると、何を言っても、その結果を気にしなくなるのでしょう。まことに、人の意見を聞く必要を感じなくなった非人間というのは、閉じた目と塞いだ耳で、口だけ、このようにも、恐るべき外道の図々しさを示してくるということでしょう。
 
 
私たち人間は、どのような場合も、ここではこうすることが正しく教えを守ったので自分は正しい、とは言えません。何故なら、原因と結果のすべてを把握して、権威をもって、正しさを決めるのは、神以外にはいないからです。
 
神の前に、私たちは正しいとも正しかったとも言えない立場を学ぶべき存在です。ゆえに、私たちが受け取るべきことは、まさに、私たちも、神には分かっていることが、分からないでいる「無きに等しい者」だということです。この自覚こそが、人が救いを必要とする所以であり、神が人を救おうとすることとして様々のかたちで聖書に語られている所以なのです。ここを読み違えて、権威や正しさを主張して、分かったつもりになることが、カルト信仰を生むのです。
 
 
(2016年09月30日、同日一部修正)
 
蔑ろ(ないがしろ)
躍起(やっき)
 
 

 

 
  クリスチャンもどきの書き捨て
 
 
 桃栗三年、柿八年
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27716858.html
 2016/9/28(水) 午前 7:48
 
 ○○3年○8年
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/3447995.html
 2009/7/12(日) 午前 7:33
 
 
彼は、3年でも8年でも、甘い根性で、渋い果実を収穫したいようです。どこまでも、偽善と隠蔽の道を進むことをやめないようです。これはキリスト者の歩んでよい道ではありません。彼は、栗を育てても、クリスチャンではありません。彼は、柿を育てても、書き捨てで、人の意見と評価を少しも求めていません。
 
彼は、コメント欄を、ブロック、削除、閉鎖、という操作をして、自分に都合の良い流れを偽装するという偽善の罪を犯し、それに私が抗議して批判しても、それを隠蔽しています。これらの偽善と、隠蔽というさらなる偽善を守ろうとする態度は、反キリストと言う他はなく、それらを継続しながら、一方で、神を讃美する記事を、過去記事からコピペしたり、他者の記事を転載・引用などして、書いているのです。神に対して、偽善を犯しながら、一方で神を讃美する、この白々しい根性に、どうしてたどりつけるのか、このことから、結局、彼は、最初から信仰を自分の名誉欲のために悪用する目的だけの、偽者としか思えなくないのであります。
 
柿の種一つほどの信仰でもあれば出来ないはずのことを、彼、シャローム氏は、ずっと、今も、しているのです。彼は高齢ですが、開き直った偽善を旨とする信仰の末路は、改める意思を微塵も見せないことから、まだ長い、むしろ、ひょっとしたら、それこそ、終わりのない呪いの永遠の魔界への道なのかもしれません。
 
>人間も新しい、甘い実を結ぶように変えられるのに、
>方法はやはりひとつしかないのです。
>どんなに環境を変え、教育などの手入れをしてみても、渋柿は渋柿、
>その本質が変わるものではありません。
 
>人を創造された神は人を見て“はなはだ良かった”と言われたのですが、
>人が神という聖、愛、義なる神との関係、交わりを失ってしまい、
>自らの罪によって渋柿となってしまったのです。
 
彼にとっての甘い実は、自らの罪を隠蔽し、言説を偽造する偽善によって得られるもの、即ち、人に見えないなら神にも見えないだろう、という恐ろしい判断をして、罪と偽善に身を任せて、そこで酔いしれて、人を盲目の、自分の言説に対する信仰、即ち、盲信に堕とす道を、ノンブレーキで猛進しているのです。これまでの彼の言動とネット上の事実を根拠として述べています。彼は、目的地不明の一方向の、暗闇の暴走車です。くれぐれも、うわべに騙されて、好意的に関わって、彼の目的地に同伴することのないように、ご注意願います。
 
>大事なことはキリスト教という宗教にではなく、
>イエス・キリストご自身といういのちの木を接ぎ木されることです。
>いかなる宗教も人から生まれたものですから人を変える力はないのです。
 
「キリスト教という宗教にではなく」(キリスト信仰)という言い方を彼は前からしていました。以前はキリスト教の古くからの教理に染まっているのか、と思っていたら、これを前に聞いたときから、伝統的キリスト教からも逸脱して語っていることに気づいたことでした。彼の宗教観は、カルトと同じ自分の解釈と教えを断定し、それに逆らわず従うことを求める自分由来の自分信仰です。何よりも、彼は人間性を理解できません。彼は非を認めません。底知れない悪意と策略をもって人に対します。一見まともに見えるのは、彼の丁寧語と慇懃無礼の成果なのです。
 
謝罪は、彼にとって、さして問題とならない事柄について、社交辞令の処世として、賛同者や好意的なコメントを入れた人など、お味方にしたい相手にだけ、語られます。
 
だから、一定期間、付き合って、疑問を呈したり批判するに至らなければ、見破ることは出来ないでしょう。よく見ると、よく聞くと、よく読むと、彼の言い方は、一方的で、訂正不能です。都合の悪いことには一切耳を貸さない無根拠かつ無思考に言い張り続ける能力があります。そのために卑劣な手段を使うことにも迷いません。それが、彼にとって、神の御心=自分の心だからです。
 
しばしば、そこで、話しても仕方のない根拠として、聖霊や、神の啓示を持ち出して、話を終わらせようとします。しかしながら、神由来のものであるなら、必ず、それが人間の世界でどう生きてくるかという、人間ならば・・という、矛盾のない整合性が必要になります。彼は、そういう話に全く答える言葉を持ちません。人間性を考える習慣がないからです。彼は、自分が人間より高いと思い込み、他者を人間の存在として見ておらず、存在を限りなく無視できるのです。しかし、状況によって、ブログを偽装するように、平気で嘘や、おべっかも言いますから、見極めにくいのです。
 
彼に従ってゆくと、人間について何も考えない金属のような圧力を、あらゆる人間の道理を無視して振り回すようになります。これは、キリスト教の世界に巣食っている単独思い込みカルトの、一つの典型なのです。伝統的なキリスト教も、教会へ行かず自分で聖書を読んで考えている人も、彼にだけは好意的に近づかないでほしいと思います。 
 
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:1
わたしはわが愛する者のために、
そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。
わが愛する者は土肥えた小山の上に、
一つのぶどう畑をもっていた。
5:2
彼はそれを掘りおこし、石を除き、
それに良いぶどうを植え、
その中に物見やぐらを建て、
またその中に酒ぶねを掘り、
良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。
ところが結んだものは野ぶどうであった。
 (イザヤ5:1-2、旧約聖書)
 
偽善者としての正体を言動に露呈しながら、しかし、彼をよく知らない人には、それを、ひたすら隠しながら、彼は、ときに、人はここが良くないと指摘しているふうで、自分を悪の圏外に置いて、こうすれば良いのですと、彼の言うキリスト信仰?を語り、今日も、キリスト者であるかのように、しかも、牧師であるかのように、神を讃えます。しかし、引用した同じ章の中に、戒めも書いてあることを彼は言いません。
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:7
万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、
主が喜んでそこに植えられた物は、
ユダの人々である。
主はこれに公平を望まれたのに、
見よ、流血。
正義を望まれたのに、
見よ、叫び。
5:8
わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、
田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、
自分ひとり、国のうちに住まおうとする。
 (イザヤ5:7-8、旧約聖書)
 
自分ひとりの王国に住んでいる、彼、シャローム氏のネット上の家であるブログは「聖書の聴き語り」→「讃美の家」→「その名は不思議」とタイトル名を変えています。その間に、私とのトラブルがありましたが、タイトル変更の真意は今のところ不明です。
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:14
また陰府はその欲望を大きくし、
その口を限りなく開き、
エルサレムの貴族、そのもろもろの民、
その群集およびそのうちの喜びたのしめる者はみな
その中に落ちこむ。
 ・・・・
5:18
わざわいなるかな、
彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、
車の綱をもってするように罪を引きよせる。
 ・・・・・
5:20
わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、
善を呼んで悪といい、
暗きを光とし、光を暗しとし、
苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。
5:21
わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、
みずから顧みて、さとしとする。
5:22
わざわいなるかな、
彼らはぶどう酒を飲むことの英雄であり、
濃き酒をまぜ合わせることの勇士である。
5:23
彼らはまいないによって悪しき者を義とし、
義人からその義を奪う。
 (イザヤ5:14-23抜粋、旧約聖書)
 
彼の欲望は、偽善と隠蔽をいくら指摘されても収まることがありません。「その口を限りなく開」くつもりなのでしょう。どうか彼といっしょに「落ち込む」ことのありませぬように。
 
彼は、偽りを持って悪と罪と偽善を引き寄せます。
 
偽善は「悪を呼んで善と」言うことです。彼、シャローム氏は、根拠をあげて指摘する批判を、荒らしと言いました。その根拠は・・コメントが多いから・・だそうです。また、彼は、自分は歓迎していないのに書き込むから削除すると言いました。批判ですから、歓迎はされないでしょうし、それは、承知の上です。まさに暴君であります。
 
彼の記事「いのちのパン」に私が書いたコメントを
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html
 (現在、コメントは削除され、コメント欄は閉鎖されています。)
 
私の記事「いのちのパン?」に書いたことがあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
 
>誰が何を言っても自分の正当化しかできない、
>他者の非難中傷しかできないstさん、
>これからもstさんからのコメントは荒らしコメントとして
>削除することを伝えておきます。
 
彼は、相手が荒らしかどうかの判断を、自分がすればよいと思っているようです。自分がそう思えば、それが正しい、これこそ自己中心の極み、罵詈雑言に匹敵する暴言です。偽善者である彼、シャローム氏が、このようなことを言うのは「おのれを見て、賢しとし」ている証拠です。私が言っていることの根拠を全く無視して、「自分の正当化」によって、丁寧語で残酷なことを平気で言ってきます。丁寧語は、使い方によっては罵詈雑言よりも酷い侮辱になるということです。彼は、批判を非難中傷と呼んでいるようです。誹謗中傷のことでしょうが、どちらが・・と言いたくなる。丁寧語に、くれぐれもご注意を・・。
 
彼は、他者との交流としては、賛同意見しか受け付けていません。賛同者に対してだけ、社交のお世辞を言います。感謝や軽い謝罪もその類ですから、彼の言説を否定するような意見は、みな、荒らしと見なすのでしょう。それが分かってから、彼の丁寧語に騙されないように気をつけています。彼が信仰についての真実の追求するための真剣な意見の遣り取りを求めていないことは明らかで、彼の姿勢は常に、自分の言うことを聞け、という内実だけなのです。
 
キリスト者の立場から考えれば恐ろしいことなのですが、真実は、彼の中で完成し、訂正不能となっていて、その根拠は、聖霊による神の啓示だそうです。これが、カルトでなくて何なのでしょう。だから、コメントを削除されるに至っても、彼が私の記事を読んでいなくても、野放しになっている彼のサイトに好意的に関わる人を一人でも少なくするために、批判をやめることは、キリスト者として出来ないのです。最終的に裁くのは神でありますが、そのことを承知の上で、私は、私の出来ることを、使命と判断して今も続けているつもりです。私のような年寄りが・・と思われるでしょうし、個人として、あくまで言論によることですが、これは、偽善者糾弾の宗教闘争であります。
 
また、彼は、キリスト者でもない理屈好きの賛同者のことを、理屈の中身も理解できないのに、浮かれて誉めそやし、次のように言っています。この賛同者は、私を攻撃し、私は、一日100コメ超の遣り取りを強いられました。
 
>> st5402jpさん
> お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、
>何も得るものがありませんでしたか。
 ・・・
>2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ]
 
シャローム氏、彼は、彼にとって都合の悪い面倒なことを、人が忘れるのを待っているかもしれないので、こういうことは、その都度、書いてゆかなければいけませんね・・以上・・。
 
 
(2016年09月29日)
 
 

 

 
   腹を満たす器
 
 その名は不思議
 生きる道
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27713370.html
 2016/9/26(月) 午前 7:52
 
 おなかと心を満たすもの
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/25066953.html
 2013/11/27(水) 午前 11:17
 
 
>一時的で終わってしまうもの。それは朽ちる食物です。楽しみも、喜びもそうです。
 
彼の楽しみは、善人として、この世で尊敬されるための、見かけ、体面、体裁、以外にはないようです。今まで彼が書いてきたものと、今まで彼がしてきたことが、その驚くべき対照を明らかにしています。弁明の余地がなくなると、このように開き直り、このように、うそぶくのだと、彼は証ししている成り行きですが、彼は気づきません。認めなくないだけかもしれません。
 
>一時的なことのためにだけ働く道と、永遠に価値あるもののために働く道があります。
 
説教者が、ときに用いる二者択一の、ある意味、脅迫めいた言説ですが、説教者だった彼は、今までに私が書いてきた偽善と隠蔽の事実関係から、明らかに前者を選択しています。そして、あらゆる矛盾を無視して、反省もせず、後者のために働いている自分を今日も偽装しています。
 
>人間は一時的なものに満足出来ないように造られています。
 
なかには、彼のように、一時的で朽ちるものだと言いながら、それに縋りついている者もいます。そのために、手段を選ばなかった履歴が、このブログなのですが、書けば書くほど証拠が積み重なってゆくのですが・・。何か、人間にとって、大事な、見分ける感覚のようなものが、彼には欠けているようです。ここまで白々しい人を、私は他に見たことがありません。
 
>神のかたちに造られているからです
 
驚くべきことに、彼は、神のかたちに造られているからこそ、今のようにしているつもりのようです。勘違いの信仰が、いかに人を醜く滅ぼしてゆくかという怖さを、学ぶべき題材になっています。
 
>その空しさを埋めるために、神ならぬモノを礼拝をしながら、
>それを満たそうとしますが、一時的で終わります。
 
神ならぬモノ、それが、自分を飾る、見かけ、体面、体裁、なのですが、信仰よりもそれらを大事にして、彼は、空しさを埋めるのではなく、空しさでブログを自分を人生を埋めようとしているのです。悲しいことに、彼は、その一時的な善悪の判断を、こよなく愛しているのです。
 
>心は見える飲み物、食べ物では満たされることはありません。
>心を見えるモノでいっぱいにしようとすればますます飢餓感は深まるようです。
>見えない心を満たそうとして見えるモノの豊かさを追い求めてきた世界は混乱でいっぱいです。
 
批判を受け入れ、彼自身の今を克服して成長してゆくことを、拒み続けている彼は、飢餓と混乱でいっぱいになり、さらに、人間らしい感覚を喪失し、人間らしい認識を歪曲し、人間らしい情感を排せつ物のように捨てて、なお、これが、神の御心だと言い張っているのです。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
6:26
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
6:27
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
 ・・・・
6:35
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
 ・・・・
6:39
わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
 (ヨハネ書6;26-39抜粋、新約聖書)
 
彼は、自尊の満腹を求め、朽ちないものを知ることがなく、信じる、信じる、といって、飢えた獣のように、向かう先が、排せつ物の溜まり場だということに気づきません。彼の器は、便器となり、彼の神様として、トイレの下を拝み、パンを食べて満腹するたびに、きな臭く胡散臭い朽ちるもののために働くことを讃美しているのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
16:24
それからイエスは弟子たちに言われた、
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
16:26
たとい人が全世界をもうけても、
自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、
人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
 (マタイ16:24-26、新約聖書)
 
彼は、自分を十字架のペンダントで飾りながら、積み重なるものを「+」の足し算にして、自分の立場を後生大事に負うて、キリストを知らない自分を、その言説と言動の背きで明らかにしながら、この世の、自己顕示欲や虚礼に従い、自分の命を救おうと、残り少ない命を虚偽で満たし続けているのです。彼は、全世界をもうけることはないでしょうが、彼の得は、目先の、美味しそうな物で腹を満たし、目先の、彼にとってだけ都合が悪いために汚れて見えるものを便器に流すことなのです。その器が、自分自身であることに気づかないで、ときおり溢れて逆流してくるの曖気の酸味に首を傾げる日々を送り続けることを信仰生活と呼び、人に勧めているのです。
 
 
神は目に見えないから非現実だと思う人も多いでしょうが、
神は、現実世界で、神を信じる人が、姑息に目先の利益を追う卑しさから、人知を超える飼い主に憧れて信仰を持つことで、気高い慈愛の心を持つようになり、目先の利益よりも真実を求めるようになる生き方が、地上に表れることを通して、御心を表すのだろうと思います。
 
神は、今の世においては、肉体や物に起こる奇跡よりも、人間を通して、顕現するでしょう。
 
今の世において、尊敬されているように見えることや、バランスの取れた人格者らしく見せることや、礼儀と社交のランキングや、数字の優秀な頭脳や、衰える前の立派な肉体や、ハゲタカを喜ばせる豊富な財産や、たくさんのイエスマンを引き連れることや、様々見かけを整えることだけを、至上のものとして追い求めて止まない人は、その弊害を指摘されても、なお、いつまでも、姑息な価値を得ようとする盗人根性のままになり、ときおり、それを垣間見せたり、暴露されたりして、人間世界に、人間存在の失望を振りまくことになるのでしょう。
 
 
(2016年09月28日、同日一部修正)
 
縋る(すがる)
溢れる(あふれる)
曖気(あいき(、おくび))≒げっぷ
傾げる(かしげる)
 
 

 

 
  悔いない牧師
 
 懐かしいおばあちゃん
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27711674.html
 2016/9/25(日) 午前 8:29
 
 なつかしいおばあちゃん
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/9661680.html
 2009/11/20(金) 午後 9:46
 
 
私の記事「踏み荒らす者」で、大好きな聖句として引用した聖句ですが、
 
 (イザヤ書、口語訳)
46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。
  (イザヤ46:4、旧約聖書)
 
彼は、また改めて引用して、牧師として、仕事がうまくいったという、かなり昔のエピソードを、コピペしています。
 
先ず言っておきますが、仮に、私が老人ホームか病院にいたとして、彼、シャローム氏が、信仰の話をするために訪れたら、あらん限りの批判をして、追い出すでしょう。年寄りだから、何でも、文句を言わずに受け入れるなどと思ってほしくないからです。
 
仮定の話でしたが、なぜ追い出すかというと、彼とは、もはや、信仰者と牧師としての基本的な信頼関係が成り立っておらず、対立関係しかないからです。彼は、今まで書いてきたように、牧師でありながら、信仰者が問い掛けた疑問や反対意見に対して、はぐらかし、答えられなかっただけでなく、答えられなかったことを隠して、なかったことにしたのです。彼は、分からないと言えない牧師であり、一切自分の非を認めない牧師です。さらに、突っ込んで問いただそうとすると、意見(コメント)をブロックし、さらに削除して、保身のために、反対意見のない、正しいブログの体裁を守ろうとしたのです。さらに、その後の、前に書きましたが、侮辱でしかないレスの数々・・。その、反対意見拒否の姿勢は、今も続いており、改める姿勢が全く見られないのです。神の前にも、人の前にも、明らかな偽善をなし、そのことを謝罪もせず、悔い改める姿勢も全くなく、なお、コメント欄閉鎖によって、隠蔽を続ける牧師を、どうして、先生と呼べるでしょうか。
 
こういう、自分の非を認めることをしない人というのは、神の前においても、社交辞令のような謙遜めいた態度と言葉を示すことは出来ても、本当に砕かれた魂で、本当の悔い改めの祈りをしたことなど、ないのではないかと思われます。
 
自分にとって不都合な状況が自業自得で起こっているときに、その状況を隠して、白々しく、自分の伝道がうまく言った話をして、一方で、失敗や反省を全く書かないならば、この人は、なおも、人を騙して、真実を隠して、よく思われたいのだな、と判断するしかないのです。
 
ネットでの説教も伝道もうまくいかない今の自分を隠して、尊敬に値する牧師だと思わせたいのです。そのための丁寧語なのです。弱っていて腰の低い年寄りに熱心に伝道する、というのは、悪徳商法やカルトが好んでやることでしょう。
 
ひょっとしたら、完全に近い不感不応の彼の記憶に残っているのは、うまくいった話だけで、失敗したり、罪を悔い改めた話は、ないのかもしれません。表面的な優しさと丁寧なだけの言葉、そして、やんわり脅迫めいた文言を挿んでくる、彼の説教のような言葉の罪深さを改めて思います。
 
このように、彼が、自分にとって、都合の良いことを書くたびに、私は、その偽善と隠蔽の罪深さを、改めて思い、改めて批判し、改めて警鐘を鳴らし、改めて稿を起こし、改めて彼の不都合な真実について、事実関係について、書いてゆく動機を得るのであります。
 
私は、彼の今回の記事のような、一見よさそうだと受け取られそうな記事を見ると、それを狙っている彼の、どす黒い怨念を思わずにはいられず、憤慨に耐えません。怒りは、危険だが、常になぜ怒るかを問うてきます。したがって、そのまま返すのではなく、怒りを思考と集中力のエネルギーに変えられるだけ変えて書いてゆきます。
 
信仰について、その芯について、何も分かっていない愚か者が、自分が愚か者だと認めるなら、愚か者の名は返上することも、立派なキリスト者になることも出来るでしょう。しかし、自分の愚かさに気づかず、愚かさを認めないで、言い張り続けるあいだは、信仰を妨げる躓きの石か、手段を選ばず強制力を使い偽善を隠蔽するパリサイ人と同様の迫害者にしかなれないのです。
 
彼は、まるで、自分だけが本当の神とつながっている、ということが大前提になっているようです。自分以外の人、特に、批判者や反対者も、キリスト信仰者として、神の御心を思い、考え、祈りによって生きている事実を、その可能性から、根拠もない決めつけの確信によって、全否定しているわけです。彼の、今に至る数々の言説と、反対意見を全くゴミのように見なして受け付けない態度を見ていると、今回も彼の記事は白々しい狡さだけで、御心に適うのは自分だけ、という前提を持ってるとしか思えません。人間の状況判断や気遣いというのは、宗教と信仰の間違った確信を放っておくと、ここまで壊れることがある、という、反面教師にしかならないと思います。
 
 
(2016年09月27日)
 
躓き(つまずき)
隠蔽(いんぺい)
迫害(はくがい)
 
 

 

 
  早食いと偏食
 
 早食い癖と塩分には用心!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27710241.html
 2016/9/24(土) 午前 10:58
 
 
 (詩篇、口語訳)
19:7
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
19:8
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
19:9
主を恐れる道は清らかで、
とこしえに絶えることがなく、
主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 ・・・・
19:12
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。
どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
19:13
また、あなたのしもべを引きとめて、
故意の罪を犯させず、
これに支配されることのないようにしてください。
そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、
大いなるとがを免れることができるでしょう。
19:14
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように。
 (詩篇19章より抜粋、旧約聖書)
 
引用前半は神の讃美です。後半の祈りが込められていることを忘れてはいけません。私たちは、本気の、偽りのない祈りを通して、召されるまでを生きてゆくのです。
 
>主のみおしえ、主のあかし、主の戒め、そして主の仰せとは、皆、神のことばの
>ことを言っています。聖書のことばを心にしっかり読み、十分蓄えると、人を生き
>返らせ、人を賢くし、人の心を喜ばせ、人の目を明るくするのです。
 
しっかり読まずに、好きなように解釈して、自分に都合の良いことばかり蓄えると、自分は生き返ったつもりになり、人には自分への反対意見の存在さえ許さず、自分は賢くなったと思い込み、人を愚かで病気だとさえ決めつけ、自分の心だけ悦に入って、人を悲しませ苦しめても気づかず、自分の目は何でも見えると思い込み、人の目は曇っていて何も見えないと決めつけて、教えを押し付けるようになります。そうならないために、注意深く、教えの解釈については、自分についてと、他者つまり人一般に対しての、両方を考えてみることだ大切です。
 
>早食いは食べる時だけでなく、読書、特に聖書を読む時にも言えるようです。
>一度に2,3冊の本を読んだりしますが、本文記事の方と同じことが多くなってきました。
 
自らの独善に染まってしまうと、自分の好きなところだけを覚えるようになり、読み方が片落ちになります。そして、自分に都合の良いところだけを引用して、こう書いてある、と文句を言わせない者になるでしょう。早食いも、好き嫌いも、要注意です。
 
>できるだけいろんな人の言葉を聞き、刺激を受けることも大事なようです。
 
自分の都合の良いところだけしか耳に入れないことの宿命のように、そういう人は、賛同者だけを歓迎し、批判者や対立者や、異なる意見を持つ人を、もはや、人とさえ思わないほど、粗略に扱うようになる、という例を、私は、書いてきました。
 
>早食いと塩分には要注意ですね。
 
好きなものだけ食べる、という偏食になると、節操のない早食いをして、何も咀嚼せず、何も身につかない結果となり、唾液を垂らしながら、食物残渣をこぼしながらも、すべて消化し終えたかのように、傲慢な口の利き方を、丁寧な口調でごまかしながら語って、信仰を求める人を、人とも思わず、神の言葉を、自分の人格と境地の自慢に悪用し、反対者の侮辱のために吐き出して、福音伝道を台無しにしてしまうのです。そして、塩分の取り過ぎのように、知らないうちに、人に対して上から高い圧力をかけてしまうことになるのです。栄養を取っているつもりで、実は、毒を食らい、毒を吐き、毒を盛ることにならないように、要注意です。
 
 
※ 
 
キリストは、人間の苦しみに共感し、人間の苦しみを共有するために、罪を犯さないでは生きられない人間のために、苦しむ罪びとを癒やし赦し救うために、この地上に遣わされた。そのことが、人間の罪を贖うために、命をなげうったことを示しているのに、教理にこだわり、教理の文言にこだわる者は、あとのほうの「罪の贖い」という言葉が出るまで不安になり、その言葉が出ると安心する、という強迫症状を示す傾向があり、言葉によって、安心というより、信仰を言葉の鋳型に納めて、ちゃんと合うと、解放感がなくても善しとしてゆくようになり、むしろ心の解放としての安心より、いつも使っている言葉以外では安心できないという病理に近くなってゆく。
 
その副作用として、聖なる言葉さえ聞けば、往時の理解は遠くなって、ぴんと来ていないにもかかわらず、納得してしまって、納得ということが、耳から脳へ、一つの型に嵌った言葉の信号のように伝えられ認知されてゆくために、新しい感動という活性化からはどんどん離れて、型に嵌らない自由度を持った話を、受け取る感受性が鈍麻してゆく。ゆえに無感動の習慣的讃美が、信仰の日記となる。・・これは、特殊な者に起こる、ということではなく、人間の言葉には、そのような鈍化のプロセスが、適応という心の作用といっしょに付いてくるのである。つまり、必然的に、心を豊かにしながら貧困にしている、覚醒しながら忘却している、という繰り返しが、人の精神生活である。
 
それは、克服できるだろうか。まず、精神は、精神によって、流動する、と言うことも出来るだろう。したがって、上のようなことを自覚したときから、人間の心は、無自覚に、別の思路と情感を求める可能性、というのがある。信仰においては、自分で決め付けて固定しない限り、前にも書いたように、人間が不全であることは、未完成でもあることとして、経験によって思い知らされ、新たな自覚として、信仰の心が、さらに新鮮な命として日々更新されてゆくだろう。
 
ゆえに、自ら、新しい経験を拒否し無視して信仰を不動不変とする向きにおいては、もはや、惨劇としか言いようがない。そのような、人間の可能性を捨てるようなことだけは、してほしくない。それは、いかなる不信仰よりも、嘆くべきことである。
 
 
(2016年09月26日)
 
粗雑(そざつ)
咀嚼(そしゃく)
嵌る(はまる)
 
 

 

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