ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年09月

 
  踏み荒らす者
 
 「背負い、抱き、運ばれる神」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27709489.html
 2016/9/23(金) 午後 9:44
 
 
豊富な記事の蓄積のあるサイトから、しばしば、彼が、最近好んで転載してくるようです。
 
>私たちは神キリストがともにおられることを喜びとし、新しい身分とされて、
>この世にあっては寄留者、旅人として歩み続け、目指すは御国、神の国だ。
 
一人のキリスト者が信仰について語った言葉として、何ら、おかしなところはなく、特に優れているわけでなくても、内容的に、うなずける文です。こういう文章について、うるさく言うつもりはありません。しかし、この文章を転載した人が、問題のある人の場合、どういうつもりで転載したのか、ということを考えることになります。
 
転載した彼にとって、「新しい身分」は、聖霊を賜って罪を犯さなくなった特別の上級の人、という受け取り方ではないのか。「寄留者、旅人」は、よそ者のように今は虐げられているが、いずれ、来たるべき世で、重要人物となる自分、ということではないか。「目指すは御国、神の国」は、神の前に、他者に対して何の共感も持ち得ない彼自身の、今の、平安と呼んでいるもの、実は、安穏の、延長上に、生命保険として、既に保証されているもので、今のまま、何も考えないで、もらえる資格として、彼は指しているのではないか、・・等々、彼のネットでの言動は、その根拠としての事実によって、彼の信仰とその考え方を、信仰と受け取ることの出来ない要素で満たしてしまったのです。彼が、負けないで書き続けるつもりで、事実と真実にそぐわない妄想的言辞を弄すれば弄するほど、彼に対する評価をも妄想的に、うがったものにならざるを得ない、という事態が起こっています。
 
 (イザヤ書、口語訳)
46:3
「ヤコブの家よ、
イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、
胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
わたしに聞け。
46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 (イザヤ46:3-4、旧約聖書)
 
4節は私の大好きな聖句です。年を取るほどに身に心に沁みます。引用前半は、イスラエルの民のことですが、民族にこだわることはなく、神を信じる総ての人に向けられていると解釈します。神が人を背負う、という大切なテーマが込められています。人が世界中で暴力をふるうことも、人がネット上の言論に強制力という暴力をふるうことも、感じさせない聖句です。
 
>私たちの力で行くことは出来ない。神がそれをなしてくださる。そこに希望がある。
>私たちを形造ったお方は、決して苦難の場に追いやるお方ではなく、
>新しく生まれ変わらせてくださり、私たちを背負い、永遠の喜びの場、御国へと運ばれる。
 
>あの砂の上の足跡にあるように
>「わが子よ いとしい子よ 私がどうしておまえを忘れることがあろうか 
>あなたの試練の時苦しみの日に一組の足跡しか見なかったのは 
>私があなたを背負って歩いていたからだったのだ。」と背負って運んでくださる。
 
この後半部は、「フットプリント( foot print 足跡)」という、よく知られている宗教詩です。これを記事に書き、私に教えたのは、皮肉なことに、彼、シャローム氏なのです。宗教詩を紹介する、聖句を紹介する、他者の記事を紹介する、日常的感慨を信仰生活の近況として紹介する、それだけをしてくれる人であったなら、私が、ここまで、批判をする事態は起こらなかったでしょう。
 
フットプリントの詩が、彼には、懐かしかったのかもしれませんね・・。キリストが信仰者を背負うから、足跡は、二人分ではなく、一人分、という詩です。さて、どうでしょう、私は、また、辛辣にならざるを得なくなります。
 
他者の発言を、気にくわないからと、そのわりに反論も出来ないから、承認せずに不可視化し、それで足らなければ削除し、ついにはコメント欄を閉鎖し、残したコメントをもって、自分が堂々と対応し弁明し、批判に反論をして退けた、という偽善を為し、しかも、そのことを読者に対しては、ひた隠しにしてきた隠蔽という事実と、神の前でも、悔い改めることなく、批判者も読者も軽く見て、それでやってゆけると思ってか、さらにずっと、白々しい言説によって、相変わらず神の御心を伝え教える教師として、お手本でも見せるかのように、神を讃美しまくってきた、という傲慢不遜の経過から見ると、キリストのフットプリントを、彼はせっせと、その荒々しい獣性をもって、消してきたのではないか、彼のフットプリントは、彼が、キリストのフットプリントを荒らした無数の乱れた足跡だけになっているのではないか、という気がします。
 
 
 (イザヤ書、口語訳)
63:9
彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、
そのみ前の使をもって彼らを救い、
その愛とあわれみとによって彼らをあがない、
いにしえの日、つねに彼らをもたげ、
彼らを携えられた。
63:10
ところが彼らはそむいて
その聖なる霊を憂えさせたので、
主はひるがえって彼らの敵となり、
みずから彼らと戦われた。
 (イザヤ63:9-10、旧約聖書)
 
>私たちは日々で悩み、苦しみを背負い込んでしまう者。
>けれども、ここにあるように、神はそれを知ってただ傍観するお方ではない。
>神もともに苦しんでくださると言っている。
>私たちの神はいつもこころに留め、必要を満たすお方だ。
 
傍観せずに、いつも、何をやっても、自分の味方をして、さぞかし、敵に攻撃されて苦しかろうと、憐れみこそすれ、自分の罪や偽善など、気づく必要など全くない、という、都合の良い、彼の神?の、自分に対するストーカー的偏愛による、依怙贔屓の救いと、敵への復讐を願う調伏信仰の、呪いのような、彼の丁寧語の世界を強めるための転載でないことを祈ります。
 
>何よりもイエス・キリストは私たちのすべてを背負って、十字架についてくれた。
>イエスは苦しんでいる私たちとともに、苦しみを共有される。
 
イエスという名の人間の肉体を持って30年余の伝道生活を過ごされたキリストの最後は、十字架による処刑でした。人間の苦しみを、御身の死という苦しみによって、共有した。キリストは、人間の苦しみに共感し、苦しみを共有するために、生まれてきた、という解釈を取ります。そして、前にも述べたように、キリストが、十字架以外にも、伝道において人間に向けた共感と共有こそが、人間にとって、キリストを忘れられない御方として伝える力となったのです。いちばん大切なそのことを、聖書は、解釈され活かされるために、語り続けています。
 
それを、人間としての共感性を否定し、実際、持っているとは思えない人は、契約がどうの、罪の贖いがどうの、計画として最初から決まっていたからどうの、肉体の復活の事実なしではあり得ないだのと、超常の奇跡の言葉だけの、教理という理屈に閉じ込めて、また、御言葉だからどうの、啓示だから議論無用だの、結局自分を高める方向にしか言葉を語れないで、結局、人間の心の琴線に触れるところを、みな、見逃してしまって、それを人知を超えた神の奇跡と讃美し、信仰だと言い張っているのです。そこに生じる齟齬は、人間らしい言葉を全く理解できないほど感性を破壊されたまま、その自覚さえ持たない顎の無遠慮な常同運動なのです。
 
 
>罪と死の恐怖は、神を無視し、的外れの生き方をしていることによるもの。
>だから、方向転換をして、神との関係を正し、ともに歩むことで、
>本来あるべき私たちの生き方に戻るために。
 
努力しているつもりでも「罪と死の恐怖」を感じて「神を無視し、的外れの生き方をしていること」が多いのが人間です。2行目「方向転換をして、神との関係を正し、ともに歩む」は、説教などでは、よく聞かれることですが、調子のよい言葉を宛がったような、かなり、お座なりな言い方になっています。シャローム氏が、何でもかんでも神を讃美することに結び付けるのにも似ています。
 
上に書いてあるようなことを志すことが信仰です。言ってすぐに達成できるような、スイッチを切り替えればよいかのような知恵ではありません。しかも、このことは、念じれば通じる、という性質でもないようです。なぜ、このような、言葉を紡ごうとすればするほど、かえって真実味が薄れ、実態から遠くなるようなことになるのでしょう。事実と当為、理想と現実を分けることが、なかなか出来ないで書いてしまうからでしょう。誰でも、そういうところがあるのは、それが、人の伝達手段としての言葉だからでしょう。
 
ですから、この地上に生きておれば、自らの至らなさに気づくことのほうが多い、ということです。つまり、この地上に生きることは、神に対する人の不全に気付く機会に満ちており、人の不全の自覚こそが、神の前に唯一無二の捧げものになるのです。達成しようと努めて、力至らず倒れることによって、その都度に、私たちの生き方の至らなさを、そのまま、神に捧げることにつながるのでしょう。それが、本来あるべき私たちの生き方に戻ることになっているかもしれません。
 
それがなかったら、・・少なくとも、神の前に、至らず失敗した自分を隠すなど、大切な機会を無にしていることで、論外なのです。
 
全知全能の神の前に、愚かな自分を差し出さないで、いったい、何を捧げるつもりなのでしょう。
どれほど成功して立派になった自分なら、差し出せる、と言うつもりなのでしょう。
 
ちょっと、話の筋が、ズレたような気もしますが、そろそろ結びで・・
 
神は、人が成功した暁の結果や貢物がほしくて、人に信仰を与えたのではないはずです。成就は神の仕事です。人は何が成就かさえも知りません。なぜ、神の前に、立派な自分、言い間違いをしない自分、整った自分、この世からも尊敬される自分、うまく言える自分を見せようとするのでしょう。
 
私たち人間は、神の成就に一役買って、神の前に恥ずかしくない人になるために、信仰を持っているのだろうか。私たちの努力は、神の前に、どれほど、よくやったと褒めてもらえるものになり得ると言うのだろうか。不法の者どもよ、言ってしまえ、と言われても仕方ない、と諦めてもいいような絶望的な私たち一人ひとりを、神が救うと約束されたのは、ゆくゆく立派になることを、今さら、望まれるからだろうか。・・否である。神に捧げるものを、勘違いしてはいないか。私たちは、どうしようもなく弱り、いかなるすべも失い、小さく低くなった。まさに、そのとき、それゆえに、神の目に留まったのではないのか。
 
このように、人間というものは、正しさをいつでも、半端な心で求めるゆえに、神の前に、低く、小さく、弱い者として、人間としての身の程を弁える、ということが、実に難しい存在なのです。
 
 
※ 
 
不実の証拠が山のように溜まってきて、御心を讃美すればするほど、破綻が明らかになるのに、物を言うのが御心なのかどうかさえ弁えられず、物を言っては返せなくなっているのに、なぜ、記事を書いたり、他者の記事を転載したり、性懲りもなく、見苦しく立ち回っては、まともを装おうとするのだろうか。
 
 
(2016年09月25日、同日一部修正)
 
弄する(ろうする)
依怙贔屓(えこひいき)
調伏(ちょうぶく)
琴線(きんせん)
齟齬(そご)
暁(あかつき)
 
 

 

 
  偽善の発症
    ・・おもに経過報告(?)
 
 
私は、彼のしてきたことを、プロとも呼び、生業とも呼んだ。彼のしてきたことには、他者に表面的に、よく見られるための、また、対立者を追い払うための、ノウハウがあると思っているからだ。
 
彼は、恐らく、若い頃に苦労したのだろう。そのどん詰まりの苦しみから救ってくれたのが、キリスト教だったのだろう。そこには、教会と牧師の何らかの働きかけがあったのだろう。苦しんでいた彼は、それに飛びついたのだろう。そして、ついには牧師の資格までも手に入れた。彼は、聖書について、勉強したのだろうけれど、そこに大きな落とし穴があったのだろうと思う。信仰は、特に教会で教えられる信仰は、初期の学習で誤解すると、そこで固定して、人の言うことを聞かなくなる特性を残念ながら、しっかり持っている。苦労は、気遣いを起こさせることはあるが、いかなる苦労も、信仰を正当化する根拠にはなり得ない。やたら体験を振り回すことは、信仰者なら、むしろ、控えるだろうし、控えるべきである。彼に対して気遣いをする段階は既に過ぎたと思っている。
 
彼は2つのことを勉強した、といっても、彼は、自分によく分かって、自分の都合の良いように、意識的か、無意識にか、会得したつもりで、それは、とんでもない誤解~曲解だったと思われる。
 
2つのうち1つは、聖書の解釈であり、何を言えば誉められるかということだったのだろう。彼は、とにかく、いつも話すときは、優しい穏やかな言い方をすることを身につけた。そして、決まって、感謝と讃美ばかりを語るようにした。それによって、彼に疑問を抱く人も、彼の讃美を聞いて、熱心なのだろうと、それ以上の理解を深めることを要求しなかった。それによって、神学校でも、それこそ思いやりによって、彼は、誤りを見過ごされてきたのだろうと思われる。
 
2つのうち、もう1つは、彼が、牧師として説教をするうえで、またネットでは、意見を求められたときのレスについてのことで、それは実に、処世の知恵でしかなく、信仰とは関係のないことである。彼は、考えて議論することの好きな人がいちばん苦手だったのだろう。いろいろ正論を言ってくる人の言い分を理解することが出来なかったと思う。それで、感謝と讃美だけを強く言うことを、生活の知恵として、覚えたのだろう。
 
しかし、それでも、引き下がらず、ますます、彼の弱いところの、深い罪の理解などを言及する人がいたのかもしれない。(今では、まさしく私だ)・・それで
 
そういう人を、彼は、元々快く思っていなかったし、答えられないと失格と言われるのが嫌だったので、彼は学習した。誰にも責められることのないような丁寧な言葉を使いながら、いかに、相手を侮辱し、怒らせて、常軌を逸した状態にして、そこを異常だと突いて、去らせてゆくか、というやり方である。さらに、最も侮辱的な内容として、相手を、自分への依存者と見なすこと、そして、精神の病人として対するときの決め台詞が「あなたは、もっと自分を見つめることですね」・・・自分の責任を回避するのにも都合がよい、この言い方は、怒っている相手を、さらに怒らせて、去らせるのに、十分な効果があったのだろう。彼は、学習して、次々に訂正不能にして、繰り返すようになっていったのだろう。この処世術は、信仰の義からは、むしろ逆方向である。
 
彼は、精神医学と心理学に興味があるらしく、依存の精神病理と、被虐待児が長じて虐待者になる病理、などを付け焼刃で知っている。それらのことは、自分の責任回避のために使い勝手がよく、使うと、相手は、怒りのあまり、そのせいで、ますます心を乱して、精神の病らしい言動が目立ってくる。そして怒って、彼のことを何て奴だと思いながら、去ってくれるのである。そうすることによって、彼は、いつもの、平安の沼に帰って寛ぐことが出来るから、自然と学習したのかもしれない。
 
何年か前は、認知療法にも興味をもって、心理学サイトから転載し紹介していた。私は、これはたまらないと思って、決して治療面接をしないように、相談に用いないようにと批判したものである。
 
こういう、精神療法も、上の精神病理も、素人がやってうまくいく確率は極めて低い。のっけから、彼の性格だと、決めつけの断定をぶつけて、病気だと短絡的に決めつければ、侮辱にしかならないだろうと予測できるからだ。精神科医でも難しいことを、彼は、決めつけで気安く、やってしまいやすく、かつ、その結果に責任を負わず、失敗を相手のせいにするのが目に見えるような気がした。
 
(私は、昔、精神科の医者でしたが、不眠と鬱で辞めて久しく、結局、初志貫徹できすに挫折した者なので、その立場で言っているのではありません。それこそ、議論は苦手だが、人の表出や筆致や文脈から、性格や感情を推測したりとか、要するに、人間を見て考えるのが好きだ、という立場だけです。なお、相手を汚いと思ったときに、「汚い」を繰り返すよりは、何か、汚い物に喩える、という書き方は、私の性分としての思考と嗜好と志向としてあります。)
 
彼についての経過報告みたいに書くことがある私だが、クリスチャンは、クリスチャンのことを、厳しく言わないという、それは自分が厳しく言われることを考えるからで、根拠のない、見なしや、断定や、決めつけての批判は、人を傷つけるだけだから、よくないということだろう。しかし、逆に、相手が、根拠もなく、見なしをやって、断定的に決めつけてくる場合は、どんなに丁寧な言い方でも、むしろ、それだけに、話は別、ということになるのである。
 
彼のレスには、まことに、根拠がなく、不快や軽蔑などの、ネガティブな感情と、道理を弁えているとは思えない訂正不能の結論だけが書いてあった。それに対して、反論をすると、彼は何も言えなくなる。そして、コメントのブロック、削除、などを始める。今ではコメント欄を閉鎖している。しかも、そのことについて、怒る理由はありません、などと言ったことがある。怒らずに、人の意見を削除するなら、そのほうが、いっそう、ホラーである。
 
彼は、議論にも、話し合いにも、分かち合いにも、徹底して向かない人だと思う。そういう人がクリスチャンとして生きる方法は、逆に徹底して、口数を減らし、行為においてのみ慈愛を示すのがいちばんだと思う。それ以外にはないとも思う。しかし、彼は、その自尊と自己顕示欲から、そういう腰の低い生き方を望まないのだろう。常に、人々より上に立って、私たちは・・ではないでしょうか、と言いながら、その「私たち」に自分を含まないことをよく知っているようで、「・・」の部分には、悪とか罪とか、ときに信じられないことに、偽善とかも、含まれるような、ぼろくそな言い方の、全か無かの、断定的否定を語ることが多い。常に、上から教える立場であり、教えられる必要など全く考えず、また、共感や共有を一切考えていないのである。
 
彼は、ふつうの人というのは、悪口を好まないから、丁寧な言い方さえすれば、容易に、良き人と見なしてくれる、ということを知っている。それゆえ、この記事の最初に書いたように、長い年月をかけた、職業的処世であると思っている。しかし、それを、いつまでも許容して成り立たせていたのでは、彼に関わる人は、そのとき真実から遠ざかるだけでなく、罪びとの自覚や、神の前に低く弱く小さい存在である真の敬虔や、聖書を読んで、経験を通じて、共感と共有を目指して、自由に話し合うキリスト信仰には、永遠に到達することはないわけだし、彼と彼の言説が、信仰とは逆方向への必然であることが明らかになったからには、彼に対する批判をやめることは出来ないのである。といっても、私は、彼よりは若いとはいえ老人であり、健康状態も最近よくないので、時間的に、もう、そう長く批判を続けられるものでもないだろうと思っている。
 
私も、批判や比喩が辛辣だとか、欠点はいっぱいあるが、丁寧に問えば、丁寧に、はぐらかすだけの彼に対して、根拠を示しながら、インパクトを強くして、彼にぶつけて、今では、彼の反省を待つというより、彼に近づく人を減らす方向に、少しばかりの期待をするしかないだろうと思っている。といっても、彼がコメント欄を閉鎖している現状では、読まれなければ批判にも何にもならないので、絶望的な言論の闘争である。私にとって、自分の出来ることをする、ということを超えるものではない。私の記事を読んだ人で、自信のある人は、批判に加わってほしいのだが、あくまで、自信があって、根拠を示して指摘する姿勢を保てるクリスチャンということになると、あまり期待できないし、無理は言えないし・・、というのが現状です。
 
 
(2016年09月24日)
 
生業(なりわい)
虐待(ぎゃくたい)
付け焼刃(つけやきば)
寛ぐ(くつろぐ)
 
 

 

 
  耳なき口
 
 
信仰を語るのに
人間的な関係性の考察が出来なくて
 
使い古しの煉瓦を並べては
悦に入って
感謝ですねと
伝えたつもりになる愚かさは
 
決して文才云々ではなく
信仰生活の態度において
聖書の先生として
自分は神の言葉を伝えるのだからと
自分が心遣いをする必要を感じずに
 
耳ある者は聞くがよい
という
聖句の救い主の記憶だけで
驕り高ぶった位置に安住してきたから
 
心遣いをどうすればよいのかが分からない
だけでなく
 
伝えるにはどうすればよいか
というような言葉についての
基本的な心の向け方ひとつ
学ぼうとしなかったからでしょう
 
 
それはそのまま
人間と人間関係についても
不全の意識も
学ぶ姿勢も持たないで
 
神の言葉を教える教壇に身を置いて
そこから人の言葉も人間性も
見下ろしてきた結果なのです。
 
これこそは
神の聖なる立場に思い上がり
自分の善悪の判断で心を固めてしまい
善悪を知る木の実に飽食してしまった者が
受けることになるとともに
人にも配りかねない苦い果実に他ならないのです
 
 
※ 
 
私たち信仰者は
神を知ることを求めることよりも
いかに神を知らないかを学ぶべきだ
 
 
(2016年09月23日)
 
煉瓦(れんが)
悦に入る(えつにいる)
心遣い(こころづかい)
驕り高ぶる(おごりたかぶる)
 
 

 

 
  誰?
 
 その名は不思議
 生活の断捨離
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27706455.html
 2016/9/22(木) 午前 8:35
 
 
まず、彼の記事を読んでください。
そして、これまでの記事と比べてほしいと思います。
 
同じ人が書いたとは思えない・・。
 
前半の引用は、今まで、よく引用されてきた日記の
shirasagikaraの日記
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20090914
からです。「2009-09-14」をクリックすると分かるようになっている。
 
文章の中に出典が明記されていない。
 
その日記が、2016年3月で終了したという告知も書いてない。
 
 
shalomのコメントの文章は、
 
同じ人が書いたとは思えない・・。
 
誰かに頼んで書いてもらったのではないかと思うほど・・。
 
日常中心で、随筆のようで、
 
いつもの「ですね」調ではなく、「だ・である」調・・
 
聖なる立場から見下ろす姿勢もない。
 
断定の強さに辟易とすることもないし、
 
だから自前の教理の押し売りもない。
 
教理による無理な辻褄合わせもない。
 
キリストと神への白々しい讃美で結ぶこともない。
 
聖句を書くだけで、どうだとばかり、解説のない無責任引用もない。
 
※ 
 
読んでも嫌にならない、人間の書いた、人間らしい記事です。
今までの記事より、はるかに、読める記事になっています。
引用記事よりも、よいと思うくらい・・。
 
毎回、読むたびに、事実関係との酷い矛盾に吐き気を催していましたから、
今回は、別人が書いたかのように、私の不快度が減っています。
 
これが、シャローム氏の書いたものなら、
是非、この書き方を続けてほしいと思います。
 
ひょっとして、誰かに書いてもらったのなら、それを続けてほしいです。
 
(書き手が代わったのなら、言わないと、また、偽装になります)
 
 
後半は、信仰というより、原発反対の記事のように思われます。つながりは、前半の、断捨離、捨てることから、そして原発廃炉、ということでしょうけれど・・。
 
 
(2016年09月23日)
 
辟易(へきえき)
辻褄(つじつま)
 
 

 

 
  暴虐の偽善
 
 生活の中の聖書
 「正しく聴く者でありたい」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/33607488.html
  のコメント欄
 
 
シャローム氏の記事の
転載元サイトのコメント欄に、彼が書き込んだコメントです。
彼の特徴的な筆致、押しつけがましい語尾の「ね」付きのコメント。
彼が行ったおびただしい偽善の事実を、彼は全く無視しています。
 
コメント欄:
 
善悪を知る木の実を食べると死ぬ・・・とは聴く耳と心を失うということでしょうね。なぜなら善悪は神の御手の中であるのであって、人の手の手の中にはないのですね。
 聴く耳と心を失ってイエスを十字架につけている私たちのために、父よ、彼らをおゆるし下さい彼らは何をしているのかわからないからですと十字架の上で祈られたイエスはまさに神の御手に委ねられた姿なのですね。その赦しをあたえられ生かされているのですから感謝ですね。
 
2016/9/14(水) 午前 9:55 [ shalom ] 返信する
 
 
>善悪を知る木の実を食べると死ぬ・・・とは聴く耳と心を失うということでしょうね
 
こう書いているシャローム氏は、コメントをブロック~削除することが善で、人の言うことを聞くことが悪だという判断をずっと実行してきました。そのあげく、言い返せないシャローム氏は、コメント欄を閉鎖して、言いたいことだけを言う、という現状に至っています。
 
>なぜなら善悪は神の御手の中であるのであって、人の手の手の中にはないのですね。
 
ここで、また、シャローム氏は、善悪は神のみの知ることだから、という詭弁を語ります。神の判断に委ねるのなら、何故、自分の都合で、ブロック、削除、閉鎖、というコメント操作を実行してきたのですか、と返します。
 
>聴く耳と心を失ってイエスを十字架につけている私たちのために、父よ、彼らをおゆるし下さい彼らは何をしているのかわからないからですと十字架の上で祈られたイエスはまさに神の御手に委ねられた姿なのですね。その赦しをあたえられ生かされているのですから感謝ですね。

 
聞く耳と心を失っている、イエスを十字架につけている、何をしているのか分からない、というのは、私たちの罪の現実ですが、シャローム氏においては、確信犯として100%故意に、神を無視して、キリストの十字架を無視して、神もキリストも決めつけて、神の御手に委ねるのではなく自分の手で何とかしようともがいている姿に過ぎないのです。それを、彼は、「赦しを与えられた」「生かされている」と言って感謝しているのです。
 
この信仰とは正反対の白々しさは、キリストの教えの意味など全く理解していないシャローム氏が、教会の牧師として過ごしてきた年月とその後の、裏切りを正当化するために養ってきたのでしょう。罪人としての自覚を持たない、というより、罪びとの自覚ということが全く理解できないでいる彼の、信仰ではなく、処世としてこの世という神?の前に、自分のちゃんとしていて瑕疵のない正当性を装う姿なのです。
 
シャローム氏は、この世の自己顕示欲と見かけ大事の奴隷です。決して信仰者ではありません。
 
シャローム氏は、正しく聴く者ではない。彼は、恐らく、神を聴く、ということが、全く分かっていない。閉じられた耳と、体裁だけの感謝で、神を褒め上げればよいと、暴虐に身を委ねています。つまり、神に感謝し、神を讃美しているのではなく、自分信仰の神つまり自分自身に感謝して讃美を続けているのです。彼に、聖書の善悪を知る木の実の話をする資格はありません。彼は、まさに、その木の奴隷として、善悪を自分で判断し、強制力をもって、人を裁く者であります。
 
シャローム氏からの、削除要請が来ても、断ってください。彼は、答えられないので、削除を繰り返してきたのです。暴力的な人が、返す言葉がなくなったとき、目先の不都合な意見を見なくて済む、という強制力に訴え、邪魔者の削除という魔性の暴虐に至っているのです。
 
以上、 [ st5402jp ]wrote、~2016/9/20(火) 午後 8:04 [ st5402jp ] 返信する
 
コメント日時省略、また、誤字など、一部修正編集しています。
 
 
(2016年09月22日)
 
瑕疵(かし)
体裁(ていさい)
褒める(ほめる、誉める)
 
 

 

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