ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年10月

 
  仮説と想像
 
 
聖書に表された絶対の神は
この地上も天界も支配する
 
神は
この世もあの世も支配する
だから
この世の悲劇に見えることも
神の支配下となり得る
 
 
しかし私たちが
時が来て召されたのち
私たちは
地上の意識を持っている間は
会うとしても御使いばかりで
神には会えない
 
神を恐れるためであり
人の身の程を弁えるためである
 
神にとって人は
地上において小さい存在者であり
召されて土に帰り
神の国においては小さい霊である
 
召されたのち
人はかたちを持つ必要もなくなるのだろう
 
 
神格は人格的側面を内包しているが
神格は総てを支配する摂理でもあるからだ
 
 
人は
神を自分と同じような形態を持っている
などと断定してはいけない
 
人の思い描く神のイメージは
余りにも拙く不細工である
 
古代においては
人の認識が未熟であったため
神格は
人のかたちをもって
人に君臨することを説いたのだろう
 
それは嘘ではない
神格は人格に反応し
人格は神格の導きに反応する
 
しかし私たちの思いなど
芥子粒ほどの価値もないほど
神は雄大であるならば
 
カルトや自分信仰者などの
お粗末な天国妄想など
ただちに吹っ飛ぶだろう
 
 
神は有形であり無形である
神は形而上であり形而下である
神の下に
地上の多くの対立は同値となる
 
私たちは
神の人格に反応する一側面に縋りついて
それで十分に癒され救われるように造られている
 
カルトや自分信仰者の
神に思い上がった教条の
貧相な概念とイメージの把握など
神にとっては
糞尿にも値しないだろう
 
 
私たちは知らないことの幸いを知るべきである
 
何故なら
こう書いてもまだ著しく不足であり
誤謬なのである
 
 
(2016年10月31日)
 
芥子粒(けしつぶ)
縋りつく(すがりつく)
拙い(つたない)
 
この記事は、すべての終止形に「かもしれない」を付けるべきかもしれない・・。
 
 

 

 
  恵みの堂々巡り
 
 ただ恵みによって
 2016/10/29(土) 午前 11:0
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27770466.html
 
 一文無しの自由
 2012/10/25(木) 午後 2:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23604166.html
 
 
まず、この記事は、身を慎むとか敬虔であるとかいうことを弁えない者によって書かれています。人の意見を聞かず、無視し、ブロックし、削除し、書く場所をも廃止して、自分の言いたいことだけを言う、そして、他者の意見が読者に見えないように、また、自らの為したこの偽善がバレないように、事の経過を隠蔽する者によって書かれています。悔いることも改めることも知らない者によって書かれています。
 
>イエスさまも「一文なし」だった。しかし、一文なしでじつに豊かだった。自由だった。
なぜか。神さまと自分の垂直の関係を軸として、まかせ切っていられたからだ。
わたしたちも苦しんでまかせ切ったとき、不思議な救いが上から来る。キリスト教史はその積み重ねだ。
ルターも、日本の新島襄や、内村鑑三も、ほんとうにまかせ切って、それを体験した人々だ。
ごくふつうのクリスチャンにも、そういう人が無数にいる。
地上の宝から手を放すと自由になる。神の力がわかる。無一文でも力が出る。
「なにもかも神におまかせしなさい」(第1ペトロ5・7) <写真は庭の茶の花>

 
何もかも神に任せる、ということの出来ない、彼、シャローム氏は、自分を守るために、私が上に書いたようなことを、あくなき執念で続けています。彼の書いたこと載せたことが、彼の偽善を浮き彫りにします。彼は一文無しになる世間体に耐えられない、即ち、彼の信仰が彼にとって飾りに過ぎないことを自ら証ししています。
 
>イエスは人がどんなにご自分の言葉やわざによって救いを信じ、期待しても、
そのような信仰は必ずつまづき、イエスを見捨て、裏切ることを知り抜いておられたのです。
また決して自分の言葉や業によって人を救うことはできないことをもご存じだったのです。

 
彼は、キリストの言葉から、いちばん大事なこと、即ち、神の愛から、人の愛と弁え、ということを、学ぶことが出来ず、彼こそが、神とキリストの言葉とわざを、救いの奇跡の連なりと受け取るだけで、彼の聖書理解としてしまったのでしょう。それだけをありがたがっている彼が、神が、キリストが、と声高に言うとき、彼に見えているのは、自分は救われる、自分は救われる、という繰り言以外、何もなくなるのでしょう。そういう信仰だから、人の言うことなど聞かなくても成り立つと思ってしまうのでしょう。
 
>イエスは神の御子であるにもかかわらず、貧しさの極みである十字架の死によって、
私たちの罪の贖いの代価として、ご自分の命を捧げられ、
神はイエスを死人の中からの甦りによって、
イエスがだれであり、イエスによって成就された神の救いの恵みを証ししてくださったのです。
私たちも自らの一文無しの貧しさを通して、その恵みに与ることができるのです。
イエスは幼子を招かれました。幼子はまさに無一文だからです。

 
上に述べたように、彼は、一文無しの貧しい信徒になってはいません。この世の見栄や体面にしがみついている俗物の極みです。彼が記事を書けば、俗物根性が表れる、という繰り返しなのに、また、同じことを書いてくるのです。この世に仕えることが第一義で、その体裁で神に仕えるふりをして得意になっていた人は、真に神に仕えることを知らないのです。その報いを受けても、なお、目が覚めず、神を讃えておけば、何かいいことがあると、まるで、ご利益宗教に縋りついて何度も何度も、おみくじを引きなおす者のようです。
 
彼は、丁寧語の釣り針に引っかかった賛同者にお世辞のエサを与える以外は、いかなる意見も聞かず、カルト的自分信仰の怖い強さを見せています。キリスト者としての、我を失ってしまって、あらゆる忠告も批判も無視して、自分自身からも自分以外からも目を背けて、信仰者として弁えるべきことを抜きにして恵みが自分に来ることを無根拠に信じ込んで、それがどういう様態を示すことになるかを、盲目的に表し続けています。すべての教理と倫理と道理を無視して、道なき道で、ゼンマイが尽きるまで回り続けるオルゴールのように、独りでスピンし続けるのです。それが信仰だと、誰かに向ける媒体もなく、スピンし続けるのです。
 
 
>「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。
神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、
そこにはいることは決してできない。」
(ルカによる福音書18章15~17節)

 
前に何度も私が注意喚起した、言うに事欠いたときの、「幼子のように」(文句を言わずに従え)というやり方を、絵に描いたように、聖句だけポンと出して、注意点の指摘も解説もしない、・・彼は、その典型を実践して、記事を結んでいます。彼は、もはや、幼子どころではなく、意地の悪い子供レベルの無知によって言い張っているようです。
 
 
(2016年10月30日)
 
 

 

 
  存尾
 
 
公序つまり公共の秩序が乱れる時代には
 
公序に反する言動は慎むべき
という道徳も乱れてゆくだろう
 
生存権とか基本的人権とかが
一部の者たちによって踏みにじられる世には
公序を持つことにも耐えられなくなるだろう
 
反社会的になってはいけないと教えても
 
その時代を生きている者は
教える者を既に信用しないので
 
非社会から反社会に
自殺から他殺に
言論から暴力に
シフトしてゆくのは
まず個々の精神からだろう
 
何故そうなるのか
 
危ないところへ
何が向かわせるのか
走らせるのか
 
目には目を歯には歯を
・・の復讐だけだろうか
 
それを
法治国家は戒め
抑えているが
 
思慮によって人が弁えて抑える
ということが出来なくなるとき
 
うわべの綺麗な言葉が氾濫する
 
うわべに過ぎないことを知る者は
 
ルサンチマンだろうか
怨念だろうか
 
少なくとも
抑えようとしても
 
上から水のように溢れて
ぽたぽたと垂れる雫のように
無秩序が下りてくる
 
隠せば隠される
偽れば偽られる
強いれば強いられる
 
公序が先に抑制を失うとき
 
生存の尻尾が
そこまで否定されることに耐えられず
 
存尾は先ず
尻尾の持ち主に逆らい始める
 
生存が壊れ始めるとき
無表情が蔓延するとき
トリクルダウンは
表情を捨てて上から下りてくる
 
死ぬよりもつらい目に遭って
存尾が動き出す前に
 
公序は自らを正さなければならない
 
 
※ 
 
最も反社会的な人格は
社会の(ソーシャル)と
それぞれの社会(中規模コミュニティ)の
富と地位の序列の上と下に多くなる
 
上は少なくとも今を維持したいから
下を見なくなるだろう
 
下は上を見て恨むだけでなく
下を見なくて済むことを考え始める
 
上から下に堕ちた者はさらに恨みを募らせるだろうし
下から上にのし上がった者は二度と落ちたくないから
さらに拍車がかかるだろう
 
上は下がどうこうと
下の取り扱い方を言って済む問題ではなく
下は上がどうこうと
上に全責任を負わせて済む問題ではない
 
もちろん上と下の中間にはないという意味ではないのは
中間にはもっと細かい群れがうごめているからだ
 
公序の乱れの責任を逃れられる位置はない
 
 
利益と富の保証よりも
いかなる社会のどこにいても
 
衣食住を得て生存できて
誰にも軽しめられずに存在できて
生きがいと目的をもって生活できて
 
少なくとも小さいコミュニティの中で
自分の位置を見出せる社会づくりが大切なのだが・・
 
昔の私の記事参照
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/3510248.html
 
 
(2016年10月30日)
 
雫(しずく、滴)
存尾(ぞんび)の漢字熟語は造語です。失礼。
 
ずっとそうしてきた・・は、
ゆえに、ずっとそうするべき・・なのでしょうか。
人類の精神性は進歩しないものなのでしょうか・・
 
 

 

 
  必要悪
 
 
善であらねばならないと志し
幾分かでも成果を上げると
善であることに思い上がって
やがて成果によらず
自分を善の立場に置いて
いつも善だという思い上がりを育てる
 
人はそのように不全である
 
その思い上がりの果ては
反対や批判の意見を聞かなくなり
善を悪だと見なすようになり
悪を善だと見なすようになり
善と対立するようになり
悪に成り下がる
 
人はそのように不全である
 
善か悪かの厳密な判断は
人には出来ない
ゆえに
善であると確定する判断は
人には出来ない
 
この世の悪に対して
人が取れる立場は
善ではなく必要悪である
 
悪が平気で善のつもりになるのは偽善
 
偽善よりは遥かに善に近い必要悪
 
人の正義はせいぜい必要悪である
 
せいぜい人は必要悪をもって
不必要な悪と戦っている
 
善か悪かの最終的な判断は裁きであり
それは神のものである
 
という判断こそが信仰だ
 
 
善を信じるとは
神を信じるとは
 
自分を善の立場に置かないことだ
 
 
(2016年10月29日)
 
 

 

 
 神の前に
 
 
神様の前に出るのに
何が必要か
 
何も要らない
という人も多いだろう
 
そうではない
必要なものがある
 
捧げものだ
何を捧げるのか
 
金でもなく
物でもない
 
讃美の美辞麗句でもない
 
そんなもの
神の前には糞尿同然だ
 
人が体裁のために偽ること
神が知らぬと思うのか
 
むしろその逆
ただ一つ
偽らないことだ
 
偽りはリアルタイムで
神様にはバレバレだと思うべきだ
 
神様を
またかと
いつまでうんざりさせるつもりか
 
どんなに惨めでもいい
どんなに醜くてもいい
どんなに泣いてもいい
 
神の前に偽るな
 
偽りのない正直さだけを
神の前に示しなさい
 
神の前そこは
 
日頃気にしているところの
いかなる体裁も体面もプライドも
無意味になる所
 
お世辞の大仰な讃美など
人に巣食う寄生虫に過ぎない
 
神の前に
正直以外は意味がない
 
神の前に出るのに必要なものは
日頃気にしている不必要なものを
すべて捨て去った裸の人間
 
何故なら神の前に見抜かれて
いかに飾ってもすでに人は裸だから
 
神に見抜かれるか
自ら捧げるかの違いは
余りにも大きい
 
 
(2016年10月28日)
 
 

 

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