バカになれない者
イエスのバカたれ
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27766481.html
2016/10/26(水) 午後 9:2
まだ書くつもりでいる、書ける、書いていい、書くのが使命だ、と、まだ思っていることが不思議でならない。書けば書くほど、キリストから離れた自分を表すようになっているというのに。
>イエス様の働き人になるためには
>ペテロのように
>プロの常識を捨てて
>「イエスバカ」の心でみ言葉に従わねば
>働くことが出来ない
「イエスバカ」という言葉が何を言おうとしているかは、何となく分かるような気もします。「○○バカ」という言葉は、一途に一つのことに打ち込んでいる人の生き様かもしれません。
しかし、彼、シャローム氏が書けば、いかに彼が、イエスバカでありえなかったかも知らせることになります。彼は、世間体や見栄えのほうを信仰より大事にしたので、反対意見を、ブロックして不可視化し、削除し、さらにコメント欄を閉鎖して、強制力によって、イエスバカになることを拒否し続けています。代わりに手に入れようとしたのは、明らかに、世の人々に、他のキリスト者に、正しいことを書いているブログという体裁で、善い評判をもらい、また守ることでした。反対意見がないという嘘をついたのと同じですが、彼は、証拠の大半を隠蔽しているので、読者はそれを見ることが出来ません。「未承認」マークがコメント欄に並び、いずれ、コメントごと消されるのでしょう。
コメント欄を閉鎖して、しばらく経ってから、彼、シャローム氏は、ほとぼりが冷めたと思ったのか、ブログについているゲストブックではなく、「ゲストブック開設の案内」という記事を書いて、承認制コメント欄を再開しました。そこに、いくつかのコメントがあり、今の段階で、そのあとに、私のコメントが未承認のままブロックされています。コメントの内容は、大方、私の記事をコピペしたものです。何度も削除されましたので、また、これらも削除されるのでしょう。
彼の、逆らう者は消す、という横暴さは、狡猾に、強力に、続いています。そのうち、「ゲストブック開設の案内」という記事ごと削除するのではないかと思います。彼は、そこだけ徹底しています。ブログというサービスを利用するにあたって、信仰という公義の問題を言論で訴えるのに必要な良識がないようです。彼個人の機嫌を損なう内容なら、根拠を示したコメントも削除してきました。彼に通用するコメントは、賛同意見か、社交のお世辞だけだと思います。まさに、どこかの悪い政治家にそっくりです。だから、彼が民主主義的な転載をしても、私は全く信用しません。強制力で双方向を拒否して、自分の言いたいことだけを言い続けるのですから、検閲と情報統制に等しく、彼は、反民主主義者だと思っています。快楽原則で人を斬るサイトです。
>まさにペテロのように、お言葉ですからと自分を捨てて網を打つ、
>イエスバカであれと言われたのです。
>それはイエスさまが歩まれた十字架の道を歩むこと、
>ただ聖霊とみことばに従いなさいという勧めだったのです。
>それは信仰の歩みそのものでもあるようです。
「たれ」は悪口などによく使う接尾の「垂れ」ではなく、文語の助動詞「たり」を使った「イエスのバカたれ」=「イエス(を慕う)バカであれ」の文語表現のようです。彼、シャローム氏は、いったい、何を聞いて、何をここで言おうとしているのでしょう。述べたように、イエスを慕うバカの道から、もう遠く隔たっているというのに。
キリスト信仰は、自分に非を認めるところから始まります。そこから罪人の意識と、祈りと救いの道を学びます。自分に非を認めない人が、近づいていいところではありません。
どうやって潜り込んで、どうやって罪と悔い改めと赦しのことを分からないまま過ごせたのか、前に少し書きましたが、未だに、はっきりとは分かりません。
教会に来ても最初から分かる人はいないだろうから、来るだけなら、拒む必要もないでしょう。しかし、彼は、結局、牧師まで資格も取っているわけです。教会と神学校にそういう危険な人を見過ごす弱点があったとしか思えません。
そして、30年間、牧師を務めたことになり、その間、何を教えてきたのか、空恐ろしいと前に書きました。恐らく、罪と悔い改めの話を避けて、讃美するような説教ばかりして来たのだろう、ということは、彼が書く記事から推測されます。怖いのは、その間に出会った信徒と求道者のことです。次に、私の経験をまとめておきます。
彼に、私のような信仰者が、疑問を呈すると、まず、はぐらかしてきます。信仰からは外れるので、あまり適当な例ではありませんが、彼が、完全数は天地創造の7だと書いていたので、完全数は、数学では6で、それとは別に、聖書的完全数というのがあるのか、と私は聞きました。彼は「完全数は、ユークリドが発見したそうですね」と返してきました。そんなことを聞いているのではない、・・しかし、彼は、聖書的完全数があるともないとも言いません。・・これは、この人は、おかしいぞ・・と、初めて思ったことでした。虚心坦懐に人の言うことを聞いて答えるつもりがない、冷静に答えているのではなく、自尊心で、知ってるよ、みたいな気持ちで、答えにならない余計なことをぶつけてきただけ・・。それが、最初の違和感でした。それで、そのあと、信仰の話についても、私は、しぶとく突っ込んでゆくことにしました。
彼に、疑問を呈し、反対意見を書き続けて、とどのつまりは、唐突に「コメントは終わりにします。お元気で」と返して、承認制でブロックしてきました。その間、分からないとも、保留にするとも、コメントをそろそろ終わりにしたいとも、彼は言わなかったのです。
「お元気で」・・相手の意見を聞かないと決めたときに言える言葉でしょうか。彼の言葉のセンスはこういうものです。柔和であることを、言葉だけ丁寧語と勘違いしています。教える人が、これでは話にならないと思い、私は未承認のまま、コメントを書き続けて、もう、既に批判になっていました。それらは、私の記事、「讃美の家」批判、~24、までの記事に書いています(「讃美の家」は「その名は不思議」ブログの以前のタイトルです)。あのときは、かなり感情的でした。彼は、コメントの遣り取りに疲れたなら、保留にする、してよい、ということを、知らなかったのか、とも思いましたが、その後、長い間、私のコメントが承認されたことはありません。彼は、批判を一切認めない人でした。・・これはもう、パリサイ人か祭司のようです。これが、約5~6年前のことです。
牧師も人間だから、個性はあり、感情もあるでしょう。しかし、彼のような体質の牧師に出会ったのは初めてです。それで、たくさんの未承認コメントと、24個の批判記事を書いて、気力がなくなり、いったん止めて、時々に、断続的に批判記事を書いていて、1年前から、また、批判を再開しています。彼は、全く変わっていません。また、同じように、削除し、今度は、さらにコメント欄閉鎖という事態になっています。私としては、前の二の舞は御免だから、今度は折れないぞ、というつもりでいるわけです。
こういう感じで、牧師として、求道者に接していたら、まず、私なら、洗礼を受ける気になどなっていないし、知っていたら、あの教会は、牧師がおかしいから行くな、と言っていたでしょう。近づいた者が逆らったら、不快にさせ怒らせ去らせる・・これが、たまたまではなく、そうさせる何かが、彼にはあるのです。ひょっとしたら、彼は、そうやって去らせることで難をしのいでいたのではないかとさえ思います。ずっと、そうしてきたのではないかと・・。
彼に、本気で、信仰の話をぶつければ、返す言葉で、不快にさせ、怒らせるものを彼は持っています。彼は、言い返せないときは、例えば私にぶつけてきたのは、コメントをたくさん書くから荒らしだと決めつけたり(それで荒らしなら議論とかできないわけです。彼がはっきりした返答をしないからです)、私が彼に依存したせいだと言ったり(彼はどれだけ自分が愛されていると思っているのか、彼のような牧師はいてほしくないから書いているのです)、私を被虐待児が長じて虐待者になったと決めつけたり(私は虐待された体験はありません。幸い愛情には恵まれて育ったと思っています)、自分を見つめなさいと言って終わろうとしたり(彼は自分を見つめる内省ということが出来ない人です)、エホバの証人に似ていると言ったり(エホバの証人の家庭訪問の、おばさんたちは、腰も低く何か耐えているようで、彼よりはキリスト者として余程マシだと今は思っています。私はエホバの証人ではありません。彼は、さぞかし、おばさんたちを、笑って?もてなしたことでしょう・・これもちょっと怖い)、前と同じように去らせるために故意に言ったのではないか、としか思えないほど、バラエティに富んだ侮辱をしてくるのでした。
行こうと思っている教会には、ひょっとしたらモンスターがいるかもしれない、という気味の悪い話でしたが、キリストに興味のある人は、もし教会に行こうと思うなら、予備知識をネットからでも、ある程度、身につけて、もし牧師が変な人だったら、去る勇気を持つべきです。
私は、17歳で教会に通うようになり、20代半ばで、転居とともに、教会に行かなくなりましたが、当時は、自分は教会という集団には向かない、という判断で、むしろ、自分を責めていたと思います。だんだん、批判的な気持ちが強くなってきましたが、彼、シャローム氏に出会ったことで、教会組織への信頼は、決定的に崩れ、自分発信の信仰の記事と合わせて、批判記事のほうがメインになってきています。彼、シャローム氏は、一見、オーソドックスな信仰のように見えて、深く突っ込めば、罪も悔い改めも分かっていないカルト的自分信仰者です。
前に別のところから批判されたのは、盗人が、信仰によって、盗みを働かなくなったら、たとえ信仰は1%でも、信仰の成果ではないか、ということがありました。盗みを働かなくなったのが信仰によるのならば、それは、1%どころではありません。また、言うまでもなく、信仰は何%で・・と測れるものではありません。
しかし、盗みを働かなくなったのが、本当に信仰によるものなのか、どういう考え方で信じているのか、同じ信徒として、注意深く見てゆかなければなりません。盗みを働かなくなって、その分、思い上がってしまったら、前より、宗教がらみで神の意志を振り回すようになれば、よほど、厄介な災いをもたらすことになるでしょう。
どんな人にも、信仰者であるために、教理や解釈よりも、罪の意識と罪人の自覚と、過ちを犯したら悔いて神に対する態度を改めることと、神の前に正直であることは、キリスト者として、欠けてはいけないことだと思います。こういうことは、信仰の初期に、難しいことではないのだから伝道~訓育するべきことです。これらは、彼、シャローム氏に、欠けていることでもあります。
大切なことは多くはなく、信仰の芯は、決して難しくはないのですから、難しい教理の理屈を優先して身につけさせようとするのは、よくないと思います。また、讃美を熱心に唱えているからといって、信仰が厚いのだろうと安易に見なすべきではありません。
(2016年10月28日、同日一部修正)
(2016年10月31日、一部修正)