ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年10月

 
  バカになれない者
 
 イエスのバカたれ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27766481.html
 2016/10/26(水) 午後 9:2
 
 
まだ書くつもりでいる、書ける、書いていい、書くのが使命だ、と、まだ思っていることが不思議でならない。書けば書くほど、キリストから離れた自分を表すようになっているというのに。
 
>イエス様の働き人になるためには
>ペテロのように
>プロの常識を捨てて
>「イエスバカ」の心でみ言葉に従わねば
>働くことが出来ない
 
「イエスバカ」という言葉が何を言おうとしているかは、何となく分かるような気もします。「○○バカ」という言葉は、一途に一つのことに打ち込んでいる人の生き様かもしれません。
 
しかし、彼、シャローム氏が書けば、いかに彼が、イエスバカでありえなかったかも知らせることになります。彼は、世間体や見栄えのほうを信仰より大事にしたので、反対意見を、ブロックして不可視化し、削除し、さらにコメント欄を閉鎖して、強制力によって、イエスバカになることを拒否し続けています。代わりに手に入れようとしたのは、明らかに、世の人々に、他のキリスト者に、正しいことを書いているブログという体裁で、善い評判をもらい、また守ることでした。反対意見がないという嘘をついたのと同じですが、彼は、証拠の大半を隠蔽しているので、読者はそれを見ることが出来ません。「未承認」マークがコメント欄に並び、いずれ、コメントごと消されるのでしょう。
 
コメント欄を閉鎖して、しばらく経ってから、彼、シャローム氏は、ほとぼりが冷めたと思ったのか、ブログについているゲストブックではなく、「ゲストブック開設の案内」という記事を書いて、承認制コメント欄を再開しました。そこに、いくつかのコメントがあり、今の段階で、そのあとに、私のコメントが未承認のままブロックされています。コメントの内容は、大方、私の記事をコピペしたものです。何度も削除されましたので、また、これらも削除されるのでしょう。
 
彼の、逆らう者は消す、という横暴さは、狡猾に、強力に、続いています。そのうち、「ゲストブック開設の案内」という記事ごと削除するのではないかと思います。彼は、そこだけ徹底しています。ブログというサービスを利用するにあたって、信仰という公義の問題を言論で訴えるのに必要な良識がないようです。彼個人の機嫌を損なう内容なら、根拠を示したコメントも削除してきました。彼に通用するコメントは、賛同意見か、社交のお世辞だけだと思います。まさに、どこかの悪い政治家にそっくりです。だから、彼が民主主義的な転載をしても、私は全く信用しません。強制力で双方向を拒否して、自分の言いたいことだけを言い続けるのですから、検閲と情報統制に等しく、彼は、反民主主義者だと思っています。快楽原則で人を斬るサイトです。
 
>まさにペテロのように、お言葉ですからと自分を捨てて網を打つ、
>イエスバカであれと言われたのです。
>それはイエスさまが歩まれた十字架の道を歩むこと、
>ただ聖霊とみことばに従いなさいという勧めだったのです。
>それは信仰の歩みそのものでもあるようです。
 
「たれ」は悪口などによく使う接尾の「垂れ」ではなく、文語の助動詞「たり」を使った「イエスのバカたれ」=「イエス(を慕う)バカであれ」の文語表現のようです。彼、シャローム氏は、いったい、何を聞いて、何をここで言おうとしているのでしょう。述べたように、イエスを慕うバカの道から、もう遠く隔たっているというのに。
 
キリスト信仰は、自分に非を認めるところから始まります。そこから罪人の意識と、祈りと救いの道を学びます。自分に非を認めない人が、近づいていいところではありません。
 
どうやって潜り込んで、どうやって罪と悔い改めと赦しのことを分からないまま過ごせたのか、前に少し書きましたが、未だに、はっきりとは分かりません。
 
教会に来ても最初から分かる人はいないだろうから、来るだけなら、拒む必要もないでしょう。しかし、彼は、結局、牧師まで資格も取っているわけです。教会と神学校にそういう危険な人を見過ごす弱点があったとしか思えません。
 
そして、30年間、牧師を務めたことになり、その間、何を教えてきたのか、空恐ろしいと前に書きました。恐らく、罪と悔い改めの話を避けて、讃美するような説教ばかりして来たのだろう、ということは、彼が書く記事から推測されます。怖いのは、その間に出会った信徒と求道者のことです。次に、私の経験をまとめておきます。
 
 
彼に、私のような信仰者が、疑問を呈すると、まず、はぐらかしてきます。信仰からは外れるので、あまり適当な例ではありませんが、彼が、完全数は天地創造の7だと書いていたので、完全数は、数学では6で、それとは別に、聖書的完全数というのがあるのか、と私は聞きました。彼は「完全数は、ユークリドが発見したそうですね」と返してきました。そんなことを聞いているのではない、・・しかし、彼は、聖書的完全数があるともないとも言いません。・・これは、この人は、おかしいぞ・・と、初めて思ったことでした。虚心坦懐に人の言うことを聞いて答えるつもりがない、冷静に答えているのではなく、自尊心で、知ってるよ、みたいな気持ちで、答えにならない余計なことをぶつけてきただけ・・。それが、最初の違和感でした。それで、そのあと、信仰の話についても、私は、しぶとく突っ込んでゆくことにしました。
 
彼に、疑問を呈し、反対意見を書き続けて、とどのつまりは、唐突に「コメントは終わりにします。お元気で」と返して、承認制でブロックしてきました。その間、分からないとも、保留にするとも、コメントをそろそろ終わりにしたいとも、彼は言わなかったのです。
 
「お元気で」・・相手の意見を聞かないと決めたときに言える言葉でしょうか。彼の言葉のセンスはこういうものです。柔和であることを、言葉だけ丁寧語と勘違いしています。教える人が、これでは話にならないと思い、私は未承認のまま、コメントを書き続けて、もう、既に批判になっていました。それらは、私の記事、「讃美の家」批判、~24、までの記事に書いています(「讃美の家」は「その名は不思議」ブログの以前のタイトルです)。あのときは、かなり感情的でした。彼は、コメントの遣り取りに疲れたなら、保留にする、してよい、ということを、知らなかったのか、とも思いましたが、その後、長い間、私のコメントが承認されたことはありません。彼は、批判を一切認めない人でした。・・これはもう、パリサイ人か祭司のようです。これが、約5~6年前のことです。
 
牧師も人間だから、個性はあり、感情もあるでしょう。しかし、彼のような体質の牧師に出会ったのは初めてです。それで、たくさんの未承認コメントと、24個の批判記事を書いて、気力がなくなり、いったん止めて、時々に、断続的に批判記事を書いていて、1年前から、また、批判を再開しています。彼は、全く変わっていません。また、同じように、削除し、今度は、さらにコメント欄閉鎖という事態になっています。私としては、前の二の舞は御免だから、今度は折れないぞ、というつもりでいるわけです。
 
こういう感じで、牧師として、求道者に接していたら、まず、私なら、洗礼を受ける気になどなっていないし、知っていたら、あの教会は、牧師がおかしいから行くな、と言っていたでしょう。近づいた者が逆らったら、不快にさせ怒らせ去らせる・・これが、たまたまではなく、そうさせる何かが、彼にはあるのです。ひょっとしたら、彼は、そうやって去らせることで難をしのいでいたのではないかとさえ思います。ずっと、そうしてきたのではないかと・・。
 
彼に、本気で、信仰の話をぶつければ、返す言葉で、不快にさせ、怒らせるものを彼は持っています。彼は、言い返せないときは、例えば私にぶつけてきたのは、コメントをたくさん書くから荒らしだと決めつけたり(それで荒らしなら議論とかできないわけです。彼がはっきりした返答をしないからです)、私が彼に依存したせいだと言ったり(彼はどれだけ自分が愛されていると思っているのか、彼のような牧師はいてほしくないから書いているのです)、私を被虐待児が長じて虐待者になったと決めつけたり(私は虐待された体験はありません。幸い愛情には恵まれて育ったと思っています)、自分を見つめなさいと言って終わろうとしたり(彼は自分を見つめる内省ということが出来ない人です)、エホバの証人に似ていると言ったり(エホバの証人の家庭訪問の、おばさんたちは、腰も低く何か耐えているようで、彼よりはキリスト者として余程マシだと今は思っています。私はエホバの証人ではありません。彼は、さぞかし、おばさんたちを、笑って?もてなしたことでしょう・・これもちょっと怖い)、前と同じように去らせるために故意に言ったのではないか、としか思えないほど、バラエティに富んだ侮辱をしてくるのでした。
 
行こうと思っている教会には、ひょっとしたらモンスターがいるかもしれない、という気味の悪い話でしたが、キリストに興味のある人は、もし教会に行こうと思うなら、予備知識をネットからでも、ある程度、身につけて、もし牧師が変な人だったら、去る勇気を持つべきです。
 
私は、17歳で教会に通うようになり、20代半ばで、転居とともに、教会に行かなくなりましたが、当時は、自分は教会という集団には向かない、という判断で、むしろ、自分を責めていたと思います。だんだん、批判的な気持ちが強くなってきましたが、彼、シャローム氏に出会ったことで、教会組織への信頼は、決定的に崩れ、自分発信の信仰の記事と合わせて、批判記事のほうがメインになってきています。彼、シャローム氏は、一見、オーソドックスな信仰のように見えて、深く突っ込めば、罪も悔い改めも分かっていないカルト的自分信仰者です。
 
前に別のところから批判されたのは、盗人が、信仰によって、盗みを働かなくなったら、たとえ信仰は1%でも、信仰の成果ではないか、ということがありました。盗みを働かなくなったのが信仰によるのならば、それは、1%どころではありません。また、言うまでもなく、信仰は何%で・・と測れるものではありません。
 
しかし、盗みを働かなくなったのが、本当に信仰によるものなのか、どういう考え方で信じているのか、同じ信徒として、注意深く見てゆかなければなりません。盗みを働かなくなって、その分、思い上がってしまったら、前より、宗教がらみで神の意志を振り回すようになれば、よほど、厄介な災いをもたらすことになるでしょう。
 
どんな人にも、信仰者であるために、教理や解釈よりも、罪の意識と罪人の自覚と、過ちを犯したら悔いて神に対する態度を改めることと、神の前に正直であることは、キリスト者として、欠けてはいけないことだと思います。こういうことは、信仰の初期に、難しいことではないのだから伝道~訓育するべきことです。これらは、彼、シャローム氏に、欠けていることでもあります。
 
大切なことは多くはなく、信仰の芯は、決して難しくはないのですから、難しい教理の理屈を優先して身につけさせようとするのは、よくないと思います。また、讃美を熱心に唱えているからといって、信仰が厚いのだろうと安易に見なすべきではありません。
 
 
(2016年10月28日、同日一部修正)
(2016年10月31日、一部修正)
 
 

 

 
  肉体の復活
 
 「神のわざの最高峰」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27765484.html
 2016/10/26(水) 午前 7:50
 
 
解釈によっては別の仮説も可能ではありますが、聖書は、キリストの肉体を持った復活を説いています。これは現代の常識では、理解できないことでしょう。これは、史実か、という問題があります。史実だと信じる信仰者は、このことを声高に主張するのです。彼、シャローム氏も、その一人です。頑強に、これだけは譲れないと言いました。復活に対する私のスタンスについても述べてみようかと思います。念のため、私のスタンスに過ぎないので、私にとっても絶対ではありません。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
15:12
さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
15:13
もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:14
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:15
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
15:16
もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
 (1コリント15:12-19、新約聖書)
 
聖書が、これほど肉体の復活を説いている以上、私が、その実感を持てないのは罪であります。一方、彼、シャローム氏などが、肉体の復活を主張する者たちは、さて、どうでしょう。彼らは、肉体の復活を主張しながら、そのことに慢心して、今のことを省みない者になっています。肉体の復活へのこだわりが、彼らを、現実から遠ざけ、人間の心から遠ざけているのです。
 
肉体を持った復活を信じる、このことに、いったい誰が実感を持てるというのでしょう。二千年前の当事者以外、二千年前の出来事に実感を持つ、ということが、土台、無理な話なのです。せいぜい、そんなに言うんなら、信じるよ、に留まるなら、このことが、生きてゆくうえで、どういう幸いに結びつくと言うのでしょう。その点なのです。
 
信仰が現実の中で、人間を支えるために、むしろ、二千年前がどうだこうだと、こだわることで、要らぬ議論を巻き起こし、まるで、そのことを信じるか否かで、信仰が正当かどうかを試すような考えを持つ者が現れている。そういう騒ぎが、むしろ、一方で、今、直面している様々な、個人的問題、および、一般的問題から、目を逸らす原因にさえなっているということを考えます。
 
ゆえに、聖書は言っているが、確かめられないことだから、このことについては、実感が湧かないから、分かったとは言えない、ゆえに、前から言っているように、分からないことは、分からない箱に入れておくしかないのです。
 
肉体の奇跡にこだわる者たちは、魂の奇跡を疎かにする。
 
彼、シャローム氏を見ていると、そう思います。それが、彼という反面教師から学んだことの一つです。信仰が、大仰になり、預言者気取りになり、心を見なくなり、言葉や事実に表面的にこだわるようになり、結局、屁理屈と詭弁を生み出しています。
 
 
自分の教理にこだわる者たちは、同じように、キリストの肉体にこだわり、その結果、キリストの人格面での尊い心に触れることがない。彼らは、言葉の奇跡の事実性にのみ執着して、キリストの肉体の復活を盾にして、人を計り、執拗に、あってもなくても今の人間にとって薬にも毒にもならないようなことを、さも奥義のように唱えている。
 
そういう人間味のない信仰を持ってしまった者が求めているのは、神秘を理解し得たと人に吹聴したいがための、奇跡の実在であり、これを見よと、彼らが述べるのは、彼ら自身を高めるためである。奇跡が事実としてあったという事実を信じるほどに、自分の信仰は厚い、と誇っている彼らの醜態を見てほしい。
 
 
>イエスの遺体がなかった。けれどもそこにいた天使が語りかける。イエスは死人の中にはいない。生きておられるのだと。神はイエスを死から解き放って、よみがえらせた。

 
私たちが信仰者であるために必要なことは、へりくだり、かつ、自分に正直であり、そして、神の前に正直であること、ゆえに、次のことを言いたい。
 
父なる神様、キリストの霊は聖霊でありますから信じて、その恩恵は限りないものであると承知いたしておりますが、キリストの肉体については、二千年前の奇跡を信じよ、と言われても、実感がないのです。私たちに、肉体や物に起こる奇跡よりも、「見ないで信じる者は幸い」と、魂に起こる奇跡の大事さを教えてくださったのは、主よ、あなた様ではありませんか。肉体が復活したかもしれないし、しなかったかもしれない、と思っているのですが、どうか、
 
主イエスの肉体の復活に実感をもって信じているとは言えない私をおゆるしください。
 
(キリストを信じていなかったら、祈ったりしないだろう・・ということもある。
 キリストの霊を信じている、と言いかけて、霊と肉体?・・ひょっとしたら、
 今生きている人間に影響を与える存在というのは、
 霊とか肉体とかで割り切って分けることなど出来ないのかもしれない、私たちは、
 この世の感覚に支配されているから、そういう言い方をしているだけかも・・
 ・・危ないかな・・よく分からないので、また考えてみます、、)
 
 
彼らは、「見ないで信じる」とは、キリストの復活は二千年前だから、今の人には見えないが、見えない大昔のことを事実だと信じるのが信仰、とでも言うのだろう。それを信じることが、いかなる幸いをもたらすと言うのか。彼らは、損なっているもののほうが、はるかに多いのである。
 
「見ないで信じる」とは、物や肉体に起こる奇跡を見ないまま、物や肉体に起こる奇跡を根拠としないで、心を動かされ、魂を打たれることで、信じるに至る、ということだ。キリストの処刑に立ち会った女性たちは、そういう信仰だったと推測する。人間性の奥義において、女性たちは、悲しみのうちに主を信じていたのである。
 
人の本性の悪しきところで、不思議を自分のものにして、自分は分かっていると言いたい者たちが、二千年前のことを、誇るように、自分は見ないで信じている、などと言うのだ。その結果、最も大切な、人間であることを疎かにしたので、「うなじのかたい」者になってしまった。項部硬直の者たちは、信仰を、心で決めつけてしまったので、硬直した心の目で見ても、信仰の最も大切なところが見えないのである。まさに、奇跡を見て、人間を見なくなったのである。
 
ゆえに、彼らは、キリストの肉体の復活にこだわって、そこがなければ信仰はないかのような脅迫の態度で人に臨みながら、一方で、赦されることを拒むような恥ずかしい偽善の罪を犯しても、その罪に気づかないで、罪を認めもしない。そういう者に限って、そこがなければ信仰ではない、というような、大切なことについては、彼らは、結局、見逃してしまったままのなのだ。
 
主イエスの肉体の復活に実感をもって信じているとは言えない私をおゆるしください。
 
という祈りをしなくてもよい、自分は肉体の復活を信じているから、と思う者は、キリストが大事にした人間の心を、疎かにしていないか、考えたほうがよい。実感を持てないのに、言葉だけ信じたと言い、それが信仰のつもりになるのは、心の向く先が、人間から、超常へと変わっている可能性がある。私は、その典型を見たからだ。キリストの肉体を持った復活を強く主張しながら、同時に、偽善とその隠蔽をやめようとしない者がいるからだ。人間にとって実感がないことを信じると言って、それが正しい信仰だと思ってしまうのは、超常信仰の特徴である。
 
信仰は、神のわざである奇跡に詳しくなるために信じるのではない。信仰は、赦され救われるに相応しい人間とは何かを求める道である。いつまでも、起こるかどうか分からないことに、気持ちを奪われていてはいけない。
 
 
(2016年10月27日)
 
 

 

 
  悪あがきの詭弁
 
 
 起死回生の道
 2016/10/25(火) 午前 7:42
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27763662.html
 
 前向き、後ろ向き
 2012/4/26(木) 午前 8:23
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22658989.html
 
 
>わたしはあなたの道を教えます。
>あなたに背いている者に。罪人が御もとに立ち帰るように。
> (詩篇51:15)
 
シャローム氏は、他者のコメントを、ブロックし、削除し、コメント欄を閉鎖してまで、自分の罪と偽善を隠蔽し、自分の見せかけの立場を体裁だけ守ろうとしています。これだけ神を偽った彼が、どうして、神に背いている人々に対して偉そうに、御許に立ち返ることを説教する資格があるでしょうか。また、彼は、背教の偽善の罪を犯しました。どれだけ信仰をけがし、人々に嘘を教え、人々を自分と同じ偽りの道へ、嘘つきの道へ、誘ったら、気が済むのでしょう。誘惑は、悪魔の所業なのですが・・、悪霊でさえ、キリストの命令には従ったというのに。
 
>主に立ち返り、自責の念から解放されて、
>前向きに生きることが出来るかという「主の道」です。
>この道を知らないと、もっと悲惨な敗北の人生を生きていかなくてはなりません。
 
この道も、この道に立ち返ることも、知らないのが、彼、シャローム氏です。彼は、自分を偽るだけでなく、人をも偽って、まだ、偽善の道を教えようとするのです。もう長いこと、それを続けていて、すっかりキリストも聖霊も、言葉だけの名前を利用するだけになりました。つまり、彼の信仰が、言葉の上っ面だけになっています。実際は、鬼畜のような卑しい行いと、サイコパスのような嘘と偽善にまみれてしまいました。
 
>前向き、後ろ向き、上向き、下向き。
>あなたは生来の傾向としては、どちら向きの人生を生きるタイプでしょうか。
 
シャローム氏は、裏向き、闇向きの心で、実は真っ黒だが気づかれないように悟り顔を作るのが大好きで、それをずっと続けている人です。
 
 
ここなら、批判されないと思ったのか、長々と旧約の王の話に逃げているようです。サウルとダビデ王、そして、ダビデの罪の話です。
 
>ダビデは神を畏れ、信頼し、神の御手に自分を委ねる人でしたので、
>ダビデを守り祝福されたのです。
>しかし、その祝福の中で、心の隙が生じ、罪の誘惑に陥り、恐るべき罪を犯してしまうのです。
>神を畏れるダビデも祝福の中で弱いひとりの罪人である事を忘れてしまったのです。
>しかし、ダビデは罪を指摘されると、サウルと違い、
>すぐに神の前に自分を投げ出しゆだねたのです。
>サウルは後ろ向き、ダビデは前向きと言えるのではないでしょうか。
 
シャローム氏は、サウルのように戦うこともなく、ダビデのように、神の前に、自分を投げ出し委ねて罪を悔い改めることもしません。ひたすら、自分が正義に見えるように偽って、あらゆる指摘を批判ごと削除して、無視し続けて、かっこつけているのです。サウルは後ろ剥き、ダビデは前向き、シャロームは裏向き、と言えるでしょう。
 
>ダビデもサウルも同じく弱い罪人なのですが、
>神は罪は憎んでも人を憎まれることはないのです。
 
これで、彼、シャローム氏が、神を知らないことは明らかです。神は妬む神だと知らないのでしょうか。神ならぬものに、例えばこの世に、神より優先して従えば、その人が神の救いを求めていない証拠ですから、救われることがないのは、聖書を見れば明らかなはずです。キリスト者なら、誰でも知っていることです。彼、シャローム氏は、自らの正当化のために、聖書の教えまで曲げて、他のキリスト者を惑わしたいのでしょうか。自分を投げ出すとは、自ら悔いて、態度を改め自分の値打ちも自尊も捨て去って、神に祈ることです。
 
>私たちも他の人と比べていては決してわかりませんが、神のみ前には罪人でしかないのです。
>使徒ペテロもパウロもその点ではまったく変わることのない人たちでした。
 
ペテロとパウロは、使徒であり預言者でもありました。その資産が今も聖書に残っています。彼、シャローム氏は、使徒と自分とを比べて、罪びとという点で同じだと言っています。私は、同じだとは言いません。その二人は、聖書の登場人物なのです。彼、シャローム氏が、ときに、聖書の中の使徒のように語るのは、自分と同格だという思い上がりがあることを、自分で証言しています。
 
>神はご自分の罪なき神の御子イエスに私たちの罪を負わせ、神自らの身に負われたのです。
>私たちは弱いまま、罪を犯したまま、神のみ前に進み出て、
>すべてを委ねることが出来るのです。
 
またしても、彼は、虚しく自己正当化を謀ります。偽善を働いても、キリストが罪を負うたので、偽善者も偽善を犯したまま委ねて救われるかのような語り口です。キリストが、偽善者であるパリサイ人を、いかに厳しく批判したか、知らないのでしょうか。
 
彼は、前にも、同様の正当化を謀り、そのときも、私は、また同様のことを言ったのですが、学習機能ゼロの、彼、シャローム氏は、やすやすと無視して、白々しく、自分が救われるような教理をこねています。それに、彼、シャローム氏は、今まで一度も弱みを見せたことがありません。彼は、決して、弱い人という自覚を持ちません。偽善の遂行も、極めて頑強に狡猾に続けていて、悔い改めて神の前に自分を投げ出すなど微塵もする気はない人です。自分の非を全く認めない者が、どうして神の前に弱い者となれるのでしょう。
 
凄まじい、すり替えの詭弁です。ありのままの弱さ、ということを、罪を犯したまま、ということにすり替えています。弱さというのは、罪を悔いて自ら、くずおれている人間の心のことです。彼、シャローム氏は、弱いまま、と言いながら、罪を犯したままで、実際には、決して弱くなっていないまま、神の前に進み出ることが出来るのでしょうか。それで、神に委ねて、神が赦して義としてくれるような救いを求めると言うのでしょうか。そんなことが通るはずがないでしょう。こんなめちゃくちゃな詭弁話、初めて見ました。彼は、キリスト者ではない・・。
 
ペテロもパウロも、悔い改めたから、使徒になりました。悔い改めないシャローム氏は、前から予想していた通り、人間性も信仰も、破壊され腐れてきたようです。狂ったのか・・とも思います。これで、他の信徒にも接するなら、悪質なカルトの誘惑に他なりません。
 
人間が、本気で正直に罪を悔いて、神に対する態度を改めて、自分を投げ出して、祈るときに、神は、その祈りに応えて、反応して、人間の真実の心を読み取って、赦しと救いを与えるのです。罪も偽善も犯したまま救われるのなら、好きなだけ罪を犯した者もそのまま救われることになります。だとしたら、私たちは何のために存在しているのでしょう。神は何のために存在しているのでしょう。信仰は何のために神から人に与えられるのでしょう。
 
彼の発言が、罪の誘惑を来たらせる方向になる、と分からないのでしょうか。偽善という罪で、しかも悔い改めようともせず、しかも継続している、という状況で、それを、それでもそのまま赦されるよ、と教えているのです。悔い改めることなく偽善者がそのまま赦される、そんな話、聖書のどこに書いてあるのでしょう。これも、前に指摘したことです。乱暴ですが、口を切り取ったほうがマシではないか・・という話にさえなりそうです。(・・怒!・・)
 
幼子の話のあとのキリストの言葉
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:7
この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。
18:8
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
18:10
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 (マタイ18:7-10、新約聖書)
 
 
(2016年10月26日)
 
 

 

 
  人間と奇跡
 
 
キリストの生涯と伝道について
福音書の記述は簡略で
細かい事情や情感は目立たないことがある
 
登場人物には
それぞれの生まれ育ちがあり
今に至る暮らしがあるのだし
 
キリストとの出会う人々のことも
人間としての情感に溢れた心の動きを
補って辿ってゆく努力が必要だろう
 
福音書はキリストの奇跡物語と言われるが
救いの奇跡が中心というだけではなく
人がどう動いたかを見る目が必要だ
 
救われたい人々が救いに至るまでに
超常ではなく歩いた悲しみの道も
振り返るべき奇跡の路程である
 
 
救いの必要な人がいました
キリストが来ました
奇跡が起こり救われました
奇跡が起こったのです
キリストは偉大なり
で済ませる話ではないはずだ
 
超常の奇跡信仰者は
そこに人間性を見ようとしない
さらに人間を思うのは信仰に反する
とさえ思っている向きもある
 
そういう者の聖書の話に登場する人物は
陶器のような顔をした泥人形か
土偶のようなものになるのだろうか
 
そういう読み方をして
聖書を語る者にこそ
土偶の形容は相応しいだろう
 
神は人が勝手に御心を使うのを防ぐために
神の領域の動きを人には知らせない
と推測するならば
 
例えば聖霊は
神とキリストと同じ位格だから
人が今降りたと分かる御方ではない
 
聖霊は知らないうちに来て
人に働きかけ
悪と偽善を阻んで正しさへ導く
 
何か安らぎを得たと感じるとき
物騒な話をすれば
悪霊の欺きか誘惑であることもあり得る
 
悪霊は聖霊に劣るが
人の霊よりは賢いからだ
 
聖霊は誰にでも訪れるけれど
それが分かるのは聖人だけであり
聖人は聖人らしい言動をするだろう
 
人は背伸びしてはならない
ひょっとしたらこの世には
聖霊も悪霊も満ちているのかもしれない
 
 
人間についての理解なしに
いくら神の偉大さを説いても
読んだことにはならないのが聖書である
 
信仰は神と人との関係だから
人を見なければ関係は分からず
信仰を分かっていない片落ちになる
 
人が泥人形であるはずはない
人間が今と昔で
大幅に変わるはずはない
 
奇跡が起こるには必ず
それを必要とする人間の苦悩があり
そこを読み取ることが出来ない間は
まだ理解できていないと判断するべきだ
 
救いは突然降ってくるようなものではない
救いを必要とする人間が
キリストの救いの意思に適うプロセスがある
 
神と人の双方向と言ったのはそのことで
 
キリストによって
あなたの信仰があなたを救った
と言われる者がいて
 
キリストによって
行ってしまえ
と言われる者がいる
 
その違いを際立たせるのが聖書であり
それはときに行間に
ときにキリストの言葉として語られる
 
神は泥人形を造ったのではない
その神の前であるからこそ
心のない人間などいないのである
 
人の不全を知る立場からの祈りには
もはや砕かれた魂の叫びとして
キリストの生きた心が反応している
 
「見える」「守っている」と言う者には
その立場に高ぶりを見て
キリストの厳しい戒めと教えが下される
 
救いを必要としているか
神の民として相応しいかは
キリストによって見分けられている
 
聖書は奇跡を並べて
偉大な神の救済を伝えているだけではない
人間の本性と本質と実存を表し
情感をもって受け取るべき話に溢れている
 
聖書を読むことは
聖句の簡略な表現の向こうに
救いを必要とした人々の生き様を見ることで
救いを与えようとする神が
どう反応しているかを補いつつ進むのである
 
教えのキーワードとして
神の民、人の不全の立場、双方向、を加えて
それを一生をかけて求めてゆくのが信仰である
 
キリストと人々の
感受して反応し合う福音は
また聖書として
神と人との
感受と反応を求めているのだろう
 
 
(2016年10月25日)
 
土偶(どぐう)
阻む(はばむ)
 
 

 

 
 信仰と訂正不能
 
 
カルト信仰は
訂正不能に信じ込むことで
人が拒否しない限り
なくなることはない
 
キリスト信仰は
信じ込むことではないと前に書いた
 
キリスト信仰は
修正可能に生きることで
人が拒否しない限り
なくなることはない
 
どちらも
拒否しない限り
なくなることのない信仰だが
ではどう違うのだろう
 
キリスト信仰を名乗っていても
いかに感謝と讃美が捧げられても
カルト信仰が生まれる可能性は消えない
 
カルト信仰は
人間性を超常の名のもとに
捨てよと命じる信仰である
 
キリスト信仰は
超常たる神の御心により
温かい人間性を支える信仰である
 
したがってキリスト信仰は
決して人間性を損なうことはない
 
人間性は人が作ったものではなく
神が人の中に造った温かいもの
ここではそういうものを人間性と呼ぶ
 
神が与えた人間性によって
人は神と双方向になり得る
 
それを導くのは
やはり神性たる聖霊である
 
聖霊は
人間性の正しさと温もりを促進する
 
 
しかし人の性質が
必ずしも良いとは限らないし温かいとも限らない
 
神は全能で
人は不全だからだ
不全は魔性を含んでいる
 
人には
不思議を求める属性がある
それを得て他者よりも高くなりたい気持ちが
いつも潜在している
 
聖霊が降りたという知覚と自覚もその類である
 
聖霊が降りたと自ら言って憚らないことには
神を見たと言うのと同じだけの無遠慮があり
神を恐れて身を慎むという信仰が欠けている
 
自己顕示欲を指摘されることを避けたいなら
広めたい口の出しゃばりを慎む必要があり
降りたのだからという確信で断定してはいけない
 
限られた人々にそっと
実は・・ということがあったのですが
と言う口を養うべきである
 
聖霊は
神の声をじかに聞かないと気が済まない者たちによって
神とキリストとは別の
自覚的直接体験が捏造され促進されたと考えるべきだろう
 
神・キリスト・聖霊は
父・御子・御霊の三位一体のことであるから
 
聖霊だけが直接体験可能なら
人は聖霊の導きによって過ちを犯さなくなる
というその完全欲こそが
自覚できる神として聖霊体験を広めたのである
 
それを神が許すだろうか
それは神の御心だろうかと考えてみるべきである
 
神の領域には
人には決して近づけない秘密があり
人はそれを理解することも不可能である
 
直接神意を知る聖霊体験を勧める者の大口は
この地上で完全になりたがる野望であり
神を恐れない人の身の程知らずである
 
神の領域の超常に接した人の正常な反応は
喜びではなく恐れであり
腰を抜かしてもおかしくはないのだ
 
本気で神を思っていない人ほど
自らの不全の有り様を無視して
神に見られていることを恐れもしないで
待ったましたとばかり得意になってしまうのである
 
聖霊体験の吹聴は限りなくカルトに近い
 
聖霊体験を勧められた者や
聖霊体験者は考えてみるべきである
 
聖霊の直接体験による啓示なるものが
どれだけ信仰を
安っぽい概念の説教として固定してゆくか
 
 
聖霊は神と同様に
というより
祈る相手がそうであるように
神とキリストまさにその御方として遣わされ
 
神に対して
祈る以外に発信の術を持たない人間に
気づかれることなく
温かく共感できる人間性を備えてくださるだろう
 
 
カルト信仰は
しばしば直接体験と断定を誇らしげに語る
 
キリスト信仰は
正直な祈り以外に帰るところを持たない
 
人間は温かい人間性に
共感し共鳴する信仰のみを求めるべきである
 
カルト信仰は冷たく
継続する不実と脅迫と憎しみが支えるだろう
 
キリスト信仰は温かく
継続する誠実と情熱と慈愛が支えるだろう
 
 
(2016年10月24日、同日一部修正)
 
類(たぐい)
憚る(はばかる)
捏造(ねつぞう)
術(すべ)
 
 

 

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