ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年10月

 
  人間ならば
 
 エペソ2:1~5ーただ恵みによって!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27760145.html
 2016/10/23(日) 午前 8:33
 
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:1
このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
4:2
恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
4:3
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4:4
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
4:5
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
4:6
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
 (2コリント4:1-6、新約聖書)
 
>キリスト者は大きな変化を受けた者なのである。見た目においては大きな変化が見えなくても、過去といまでは雲泥の差のある生き方に変化しているのである。

 
2節:「恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず」と書いてあることを忘れないでください。恥ずべき隠れたことをする者、悪巧みによって歩くもの、神の言を曲げる者は、神の御前に、すべての人の良心に自分を推薦してはいけません。この第2節は転載元には引用されていません。
 
神の選びには、人知では測れないものがありますが、ただ恵みによるのです、と、恵みを強調するだけでは、個人的な選民思想を増長させるだけでしょう。聖霊体験を主張する者の言は、何故、いつも、片落ちなのでしょう。
 
>私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―

 
なぜ、私たちは、愛によって救われたのか、ということが書いてありません。少なくとも、私たちが、弱く、低く、神の民に相応しい者として生きることを期待されている、ということです。そのことを書かなければ、選民思想になってしまいます。
 
>私たちもともに歩み、永遠を楽しむ者とされたのだ。
 
片落ちが目立ちます。永遠を恐れるべきです。神の報いは、善かれ悪しかれ、永遠なのですから。
・・恐ればかりを書いたら、福音にならない?・・否、人が、恐れるべきことを、隠してはいけません。それを隠したら、福音ではなく、甘い誘い文句でしょう。
 
>恵みは神からの賜物である。何か良きことをしたことに対し与えられる報酬でもない。私たちはそれを要求する資格も、受ける資格もない者である。神に逆らっている者であるにも関らず、与えられる恵みなのだ。

 
>私たちはイエス・キリストに出会って再び生きる者とされたのである。そして私たちには無縁なのにイエスの血を代価として罪を赦され、私たちは神の子とされたのだ。ただただ神の恵みである。

 
それで、恵みを受けて、節操をなくし、何の弁えもなく、恵みばかりを強調し、ありがたがる信仰が、蔓延るようになりました。信仰の芯が抜けている解釈です。
 
>私たちは今一度、このクリスマスの時に「私は自分の罪過と罪との中に死んでいた者、空中の権威を持つ支配者の霊に従っていた者、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行っていた者、生まれながら御怒りを受けるべき子でした。」ということを自覚して、それが過去のこととされた、ということに喜ぶのである。

 
罪過と罪を過去のこととしたときから、信仰は、気持ちのよいことばかりを探し、求め、言うようになります。その最悪な例を知っています。罪が過去のことなので、自分の非を全く認めようとしません。その結果、とても意地の悪い、機嫌次第の、都合の悪いことを隠し通そうとし、お世辞だけを歓迎する信仰?を露呈しています。
 
そして、よろこんで、他者の意見を抹殺・隠蔽して、信仰の務めを果たしたと思い込んでいるのです。そして、自らの、人間らしい、悔いる心や、反省する気持ちをも殺して、不応不感となることで、自己中心の安穏の境地を、神の平安と呼んでしまうのです。
 
>死ぬべきいのちをイエスのいのちと引き換えに新しいいのちに生かしてくださった、あわれみ豊かな神の大きな愛のゆえに救われた、恵みに感謝するのである。 

 
恵まれた、救われた、という完了形で、しかも、プレゼントばかりを強調して、信仰を語れば、もう修正も成長もなくなるでしょう。その通りになった信仰?を知っています。彼は、日夜、自分にとって不快なコメントを、ふっ何を言っとる、という感じで、神の名によって、削除しまくっています。昨日も今日も、ずっと・・。
 
神に与えられた人間性を、神に与えられた信仰によって、聖霊の導きによって深めるべきなのです。なのに、それを拒否した信仰?は、正しい信仰を、なぎ倒し、踏みにじって、虐げることで、恵みに反して、この地上において、人間の血も涙もない超常信仰の世界へと邁進するでしょう。
 
だいたい、当為と事実を混同して、目的と努力を混同して、理想と現実を混同して、人間であるのに、神の恵みによって、罪が過去のものになり、過ちも罪も犯さないと信じるなんて、何をやっても非がないなんて、人間の良識で、つまり、人間ならば・・という感じ方で、即座に否定~遠慮されてしかるべきです。人間性の欠如によって、人間の良識を捨てた者だけが、何も分からないのに分かったつもりになって、こういうことを平気で言うのです。
 
しかも、そういう者に限って、聖霊の啓示だからと、双方向の遣り取りを、当たり前のように拒否するのです。彼らの当為は、人間の世界で全く通らないことを、神の名によって無頓着に通す根拠となっているのです。そして、先ほどの、人が、罪なき完全な善人になることを、恐れもなく、真に受けて宣伝するでしょう。そして、信仰について語れば、讃美ばかりを大仰に繰り返して、いちばん大事な罪の意識からの祈りを軽視~無視する顛末になるのです。
 
往々にして、そういう者たちの心にあるのは、信仰ではなく、人より上に立つこと、いいお話でしたわ・・と褒められること、先生と呼ばれたいこと、などの、自己顕示欲という、他でもない、この世の欲望の、我にもあらず、自分を欺いての、自己正当化なのです。これが信仰になっていることがあるということ、つまり、今日のキリスト教の世界に、広くふつうに、勧めれていることは、脅威というより、身の竦むような恐怖なのです。
 
彼らの信仰は、まさに、人に対して、また神の前でさえも、筋の通らない偽善や隠蔽を、人間性の、あらゆる活性を廃して、思考と感性の停止によって、暴力的に通してしまう教条の、言論も強制力も無差別の爆撃のようです。
 
 
(2016年10月24日)
 
蔓延る(はびこる)
隠蔽(いんぺい)
邁進(まいしん)
当為(とうい)≒「べき」のつくこと
褒める(ほめる、誉める)
顛末(てんまつ)
身の竦む(みのすくむ)
 
 

 

 
  レールの上の信仰
 
 
大きな絶望は
キリスト信仰を唱える者からやってきた
 
信仰による自分の
まるで境地のような常時平安を自慢している
 
境地にしては他力が強くて
楽をして成就する道ばかりを説く
 
罪は総て赦されると
 
自分の信仰自慢をしているに過ぎないが
 
それは信仰だろうか
 
いかにも敬虔らしく言葉をあつらえて
讃美の熱心を誉められて
 
空約束と予定調和の天国を語る
 
その成果は
どんな罪も偽善でさえも赦されると
安心から安穏に至る道を率先して
こねている自らの言葉への信仰
 
揺るがないと言っても
 
悪に固まり揺るがない者もいる
 
変わらない神を利用して
変わらない信仰を説き
変わらない自分を正当化する
 
ずっと変わっていないようだ
 
偽善によって受け入れた信仰は
終生変わらぬ偽善
 
手段を選ばず
人間の存在を消してゆく
自らの内にも外にも
 
命なき者となって
命あるものを消してゆく
 
逆らう者は丁寧に侮辱されて
企む者の狙い通り
何だこいつは話にならぬと去ってゆく
 
自分のレールの上から去らせることで
神の平安を守ったと安心する信仰
 
習い覚えた社交の処世で
仲間と一見柔和らしく調子を合わせるだけ
 
そういう信仰は
固定されたレールの上を
ゆるぎなく進んでゆくだろう
 
もはや一人分の人間性も存在しない国へ
 
 
(2016年10月23日)
 
 

 

 
  読むこと
 
 
前にも書いたことだが、少しだけ改めて、
 
聖書を読むときには、読みながら、自分の感想に基づいて、
分からない~疑問の箱~保留の箱と、
分かったつもりの箱を、心に置いて読むべきである。
 
本当に分かるのは地上においてではではないから
分かる箱はない。
 
人間である自分の信仰には、多くの先入観があり、
また、人間としての限られた読解力しかない。
 
上のことを弁えていないと、
 
 
聖書を分かったつもりになり、自分の誤りを認めなくなる。
 
解釈を修正できなくなり、
何十年も前と同じことを繰り返し言うようになる。
 
キリスト信仰に反して
自分の罪を認められなくなり、
いつのまにか、
自分(の解釈)を絶対とする自分信仰に至る。
 
自分の主張に都合の良い聖句ばかりを引用することになる。
 
聖句を引用して説明せず話し合わず、
聖書だから絶対だと言いたげに
相手を見下している自分に気づかなくなる。
 
起承転結の、起、承、転、がなく
結、だけになり、
結論だけの断定で、訂正要素は失われ、
人と真剣に話し合うことが出来なくなり、
根拠と言われて神からの啓示だと答えるようになる。
 
自分の悪いことを、人のせいにする。
 
自分を正当化するために聖句を引用し、
何度も言説を披露するが、結果として、
誤りを認めないので、繰り返しになり、
自分の誤解と曲解の証拠ばかりを露呈することになる。
 
自分を理解しないで否定する相手を
神の敵として滅びを祈り願い、
ひたすら呪う。
 
自分を人よりも上に置き、
神を知る立場から
耳ある者は聞くがよい
というふうに教えないと気が済まない。
 
批判だけでなく忠告さえも
神の敵と思い込む。
 
自分信仰を改めず、カルトになる。
キリスト信仰と称して熱心にカルトを伝道するようになる。
 
優しさではなく、優しく見える言葉ばかりを身につける。
怒りを秘めた薄笑みの悟り顔を作り、やたら慇懃無礼が目立つようになり、
それらだけが手段になり、信仰の実質に取って代わる。
 
解釈を固定して、
何十年も前と同じことを繰り返し言うだけになる。
 
手段を選ばなくなり、いよいよカルト伝道のプロになる。
 
怒ったときの顔が冷たく恐ろしい。
 
傷つけられたことを訴えるが、
自分が人を傷つけていることには気づけなくなる。
 
以上すべてについて、気づかず、
反省せず、自分信仰だけが体質になる。
 
同じことを繰り返すのが信仰だと信じている。
批判者の言うことを聞かないのが信仰だと信じている。
 
精神の貧困が、地上でも明らかになる。
 
人の言っていることが何も分からなくなる・・
 
永遠に待つ国へと逝く・・・
 
 
前に記事「毒麦」を書きながら聖書を読んでいて思ったことだが、自分信仰とカルト化について、今まで、私は、私という人の言葉で、ときには比喩で、書いてきたが、聖句を参照するなら、次のような聖句になるのだろうか・・。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
13:14
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
13:15
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
13:16
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
 (マタイ13:12-16、新約聖書)
 
引用聖句は、キリストの言葉である。今、私たちは、キリストを目で見ることは出来ず、耳で聞くことも出来ない。聖霊によって聞いている、と言う者は、神の前に傲り高ぶっている。
 
というより、聖霊を信仰の前面に出せば、必ず、偽者が出てくるのは人の本性として当然なのに、予想して対策を講じないで、または、その都度に検討することもしないで、どうして、安穏としていられるのだろうか。またしても、神に委ねる、という言い訳に走るのだろうか。キリスト者は人の本性というものを、全然知らないのだろうか、知らなくなったのだろうか。
 
私の批判対象の、キリスト者としては、とても恥ずかしい人物、その人に、能力があるとすれば、それは、彼が信仰と名付けたものによって、彼にとって不都合な苦言を呈するコメントを、強制力によって削除して悔いることなく、心が痛むことなく、心においては、苦言を完璧に不在とするほどの、彼だけを守るための、不感不応の世界を作ったことです。
 
彼の神?は、その祭壇に飾ってあるようなものでしょう。良心の呵責が生まれないということは、良心がないのかもしれません。あるいは、良心が、彼の機嫌次第で、消えてしまうほど、脆いのかもしれません。一般に、信仰は、人間的共感に基づく良心をとても大事にします。彼の信仰は、良心を踏みにじることが出来るのでしょう。
 
時々書いていることだが、悔い改めることのない人が、なぜ生まれるのか、それは神の秘密である。神は、人に言わない秘密をたくさん持っておられ、それを神秘という。神の神秘を解き明かして伝えたたつもりでいるのは、自分信仰の心の偶像崇拝者である。
 
 
 ※ 
 
神を信じることが
信じ込むことになってはいけない。
 
神について信じ込めるような
確かめられるような真理を
人は知らない。
 
信仰は生きるために必要な思いである。
 
信仰の思いでも、
キリストがおられるのでなければ生きてゆけない
というほどの思いが信仰に他ならないのは、
 
神を知らない、と言っても言われても、
信条で突っ張ることなく項垂れても
 
そのあとの経過として、
やはり信仰から離れていないからだ。
 
キリスト磔刑後の、弟子たちの姿にも似る・・(?)
 
神の側に強く立つことが信仰だと思うのは間違い、
 
どうしても神の側に立てていない自分を
神に捧げるのが信仰。
 
 
(2016年10月22日、同日一部修正)
 
 

 

 
  偽りの衣
 
 
 偽りの衣を脱ぎ捨てる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27756894.html
 2016/10/21(金) 午前 10:11
 
 衣を脱ぎ捨てる時
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27423814.html
 2016/4/30(土) 午後 1:20
 
 衣を脱ぎ捨てる時
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21628510.html
 2011/11/17(木) 午後 2:57
 
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
5:21
イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。
5:22
そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し
5:23
しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。
5:24
そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。
 (マルコ5:21-24、新約聖書)
 
この後、聖書には、ヤイロの娘の命が救われるという話になっています。
 
>それまでヤイロは会堂長の衣を着て、
>人々に尊敬されている自分が本当の自分だと思っていたのです。
 
今もそう思っている者もいます。
 
>会堂長として着ている衣のために本当の自分の姿を見失っていたのです。
>そこでイエスは会堂長ヤイロとすぐに一緒に行かれたのです。
 
本当の自分の姿を見失っている人は、いつまでも、偽りの衣を捨てません。
 
>ヤイロの衣、それはだれもが一番大事にしている「人間の誇り」なのです。
>しかし、それは偽りの、仮想の誇りなのです。
 
元牧師、聖書の先生、という、偽りの誇りを守ろうとして、牧師ともキリスト者とも人間とも思えない偽装と偽善と隠蔽を続けている者がいます。「聖書の聴かず騙り」「酸味の家」「その名は不実」の管理人です。
 
>イエスと出会うとき、人ははじめて神に愛され、尊ばれている者としての
>真実の人としての「人間の誇り」に気づき、知るのです。
>人はイエスの誰かを知り、仮想の衣である「人間の誇り」を脱ぎ捨てるとき、
>信仰の世界を歩み始めることができるのです。
 
こういう記事を載せながら、未だに、キリストに出会って真実の人としての「人間の誇り」に気づく、ということがなく、知ることなく、注意した訪問者を、次から次に、葬っている者がいます。信仰の世界を歩むことなど、出来ようはずもありません。
 
>ですから、イエスは「悔い改めなさい。天の御国は近づいた。」と言って、
>神の国の福音を宣べ伝え始められたのです。(マタイ4:17)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
 ・・・
4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:10,11、17、新約聖書)
 
キリストは、悪魔を退けてから、宣教に向かいました。この世の欲望という悪の誘惑を、神の導きと勘違いして、嬉しそうに受け入れて、日々、悪の手先のように、人々を騙しては、対立する者には、独裁者のように、追放したり抹殺したり、情報統制を敷いている者もいます。裸の王様は、何も答えられないからです。
 
>ヤイロにとって娘が死にそうになったように、
>さまざまな出来事の中で、わたしたちの“私の娘”が死にそうになる時があります。
>それは偽りの誇りを脱ぎ捨て、イエスの元に来て、ひれ伏す“神の時”なのです。
>いずれ私たちは自分のからだという衣を脱ぎ捨てる時も来るのです。
 
この引用の3,4行目を、彼、シャローム氏は、どういうつもりで書いたのでしょう。いったい、どういう心境なのでしょう。彼が偽りの衣を脱ぐことが出来ないために、彼の信仰の命は死にそうなのですが。いい加減、うそぶく偽善は、やめてほしいです。
 
神の平安が遠ざかってゆくのが分からないのでしょうか。
 
 
(2016年10月22日)
 
 

 

 
  それなのに
 
 それなのに、ああそれなのに
 2016/10/20(木) 午前 10:45
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27755046.html
 
 
 (ガラテヤ人のへの手紙、口語訳)
1:1
人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、 1:2ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。
1:3
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
1:4
キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5
栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。
1:6
あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。
1:7
それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。
1:8
しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。
1:9
わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。
1:10
今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
1:11
兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。
1:12
わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。
 (ガラテヤ1:1-12、新約聖書)
 
1:6~8節
 
>あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
>ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。
>あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。?
 
彼、シャローム氏は、自分信仰によって、キリストの福音を、自分中心に、自分が何をしても救われると主張して、パリサイ人でも、偽善者でも、救われると主張して、かき乱しておきながら、この期に及んでも、まだ、自分をパウロの立場に置いて、人間によるものではない福音を自分の言説の正当化に悪用して、あらゆる偽善の罪から自分を免責しようとするのです。
 
1:3~4節
 
>私たちが救われるのはイエス・キリストの十字架と復活の恵みであり、
>神のみこころによるものなだったのだ。
>これが福音の中心的なメッセージなのである。ほかに福音はないのだ。
>神との和解と平和の関係を確立させることなのだ。
 
にもかかわらず、人を欺き、神を欺いて、おのれの主張だけを見えるようにして、反対意見を闇から闇へ葬って隠蔽し、自らの主張の正当性を、偽装したのが、彼、シャローム氏である。まさに、他に福音はないのに、その正直な道を捻じ曲げたのである。
 
>大切なことはいのちを助けることか、滅びさせることなのかである。
>聖書は言うのである。福音は「すべて信じる者に、救いを得させる神の力」であると。
 
その一番大切なことにおいて、神の前にも、人の前にも、偽りに走って、救いを受け取ろうとせず、ぐだぐだの自説を繰り返し豪語して、滅びへの道を勧めた者がいる。
 
1:1節
 
>私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、
>イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。
 
しかしながら、彼、シャローム氏が、キリストを裏切ったのは、彼という世俗の人の欲望から出た保身の欲望によるのである。この聖句、今さら彼が語るは、いっそう醜い所業。
 
1:11~12節
 
>パウロは言う。使徒となったのも、
>福音の啓示も私たちの内に人となって住んだイエスによってであり、
>父なる神からだと言うのである。救いはどんなに人間が考えても出来ることではない。
>イエス・キリストを信じる信仰によってしか得ることが出来ないのであると。
 
自分のうちにキリスト、聖霊がいる、という思い上がりが、彼をして、人を聞かない訂正不能の、神がかりの、人間離れの、冷血漢に変えた。人間は、人間であるために考えるのである。しかし、彼は、神格に等しくなろうとして、堕ちたのである。彼が、信仰と言うとき、それは、退行である。
 
>それなのに、ああそれなのにである。
>かき乱す者たちがいて、救いに至る道がただ信仰によるキリストの福音であることを忘れ、
>割礼などの行ないをプラスしなければならないという人間の教えに従っていることに
>パウロは驚いたのである。
 
批判をかき乱すことと決めつけて、それを彼が非難するのは、自説を広め、自分が満足することの妨げになるからである。偽装、隠蔽、という、背信行為は、いかなる詭弁を弄しても、正当化されることはない。かき乱しているのは、不正直な者、シャローム氏だ。事実を知れば、誰でも驚くだろう。だから、彼は、隠し続けるのだろう。
 
それに、パウロを持ち出してきても、彼、シャローム氏の、悔い改めない信仰は正当化されない。パウロは、迫害者から、悔い改めて、使徒になったのだ。弟子たちも、同じだったはず。弟子たちは、悔い改めて、使徒になった。ユダを除いて。・・ユダがなぜ生まれたのか、それは神の秘密だ、最近、自説にしがみついて全く改めない彼と、狂ったように書いている自分を思うと、そのことが、気になってはいるが・・。
 
 (ガラテヤ人への手紙、口語訳)
2:15
わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、
2:16
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
 (ガラテヤ2:15-16、新約聖書)
 
2:16節
 
>しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、
>ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、
>私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
>これは、律法の行ないによってではなく、
>キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
>なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
 
律法の行いによらない、ということを、彼、シャローム氏は履き違えて、不正直でも、偽っても、隠しても、義とされるからよい、と捻じ曲げて、自己正当化を謀った。
 
律法は、冷たい形式だけの戒律と堕していたが、キリストを信じる信仰において、偽善は、昔も今も、信仰、即ち、愛と信頼を、裏切る行為である。彼は、信仰によって・・と言うが、血も涙も人には分からない超常から、自己正当化の欺きに変えて、義と認められる者は、ひとりもいない。神格を目指し、そこに立とうとしたがゆえに、人道に背いたということ。ここで言う人道は、信仰が支えるところの、誠実と正直だからだ。
 
1:8節
 
>しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、
>もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、
>その者はのろわれるべきです。
 
救いのメッセージである聖句を、偽善と偽装と隠蔽に変え、身勝手な呪いと調伏に変え、自分を守ろうとしたのは、彼、シャローム氏である。
 
>律法の行ないによってではなく、
>キリストを信じる信仰によって義と認められるのであるから
>パウロは「それを認めず、神のみことばに混ぜ物があってはならない。」と
>強い調子で言うのだ。
>また「人の歓心を買おうと神のみことばを割り引いてはならない。」とも言うのだ。
 
まさに、彼、シャローム氏ではないか。教理の混ぜ物から偽物によって、偽装、隠蔽、まさに、彼ではないか。神と人の立場を考えれば、即座に否定するしかないことを、何度も繰り返し同じように書いてくる神経が分からない・・。
 
>終わりの日には偽教師、偽預言者が現れると言われている。気を付けなければならない。
 
まさに、彼、シャローム氏ではないか。熱心になればなるほど、人を人とも思わない、遮断、削除、偽装、隠蔽、という卑劣な保身行為に走った、まさに、彼、シャローム氏ではないか。私は、彼の、聖句悪用の、これらの白々しい言に対して、目が回りそうだ。
 
>アーメン!(その通りですの意)
 
筋も通らず、情感もなく、聖書の言葉に、勝手な解釈の決めつけで背きながら、聖書を引用し、自説を書いて、聖書と自説ひっくるめて「アーメン!(その通りですの意)」とは、この期に及んでも、信仰における自己の正しさを絶対視する宣言であり、罪深い自分を反省する気など、さらさらない思い上がりを露呈している。
 
しかも、この一言をもって、結びとするのは、厚い信仰をアピールしたいだけのスタンドプレイの自己顕示でしかない。さらに、そのあとに、説教の動画を紹介している。このような偉い説教者なら、自分と同意見だから、私に賛成してもらえるのに・・と、勝手に他者を利用して、箔を付けたがる・・・呆れた。
 
自分の心で、また、自分の言葉で、人間は、正直な信仰を表すことが出来るのに、神から与えられるその務めを、恐らく彼は知らない。分からないと言えない者は、自分を低い立場に置くことが出来ず、分かっているつもりだけで語るけれど、結局、大事なことを、何も分かっていないし、分かっていない自分を、知らない・・。
 
既に、神によって打ち砕かれているのに、打ち砕かれた状態の自分を自覚できず、砕かれたまま、まともに振る舞おうとすると、このような目も当てられない様になるのだろう。・・ちなみに、私は、ずっと、誉められるべき何ものも持ち得ず、ぼろぼろの人間の立場の自覚の、努めて、そのままの姿で、辛うじて、語り続けていることを、唯一の幸いと思っている・・。
 
 
 (ガラテヤ人への手紙、口語訳)
2:21
わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
 (ガラテヤ2:21、新約聖書)
 
私たちは、神の恵みを、キリストの愛を、自己中心の欺瞞の有頂天によって無にしてはいけない。義が、律法のように愛のないところの、パリサイ人の持ち物である偽善という、不法によって得られるとすれば、キリストの死は無駄であったことになる。
 
 
(2016年10月21日、同日一部修正)
 
 

 

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