人間ならば
エペソ2:1~5ーただ恵みによって!
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27760145.html
2016/10/23(日) 午前 8:33
(コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:1
このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
4:2
恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
4:3
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4:4
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
4:5
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
4:6
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
(2コリント4:1-6、新約聖書)
>キリスト者は大きな変化を受けた者なのである。見た目においては大きな変化が見えなくても、過去といまでは雲泥の差のある生き方に変化しているのである。
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2節:「恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず」と書いてあることを忘れないでください。恥ずべき隠れたことをする者、悪巧みによって歩くもの、神の言を曲げる者は、神の御前に、すべての人の良心に自分を推薦してはいけません。この第2節は転載元には引用されていません。
神の選びには、人知では測れないものがありますが、ただ恵みによるのです、と、恵みを強調するだけでは、個人的な選民思想を増長させるだけでしょう。聖霊体験を主張する者の言は、何故、いつも、片落ちなのでしょう。
>私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―
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なぜ、私たちは、愛によって救われたのか、ということが書いてありません。少なくとも、私たちが、弱く、低く、神の民に相応しい者として生きることを期待されている、ということです。そのことを書かなければ、選民思想になってしまいます。
>私たちもともに歩み、永遠を楽しむ者とされたのだ。
片落ちが目立ちます。永遠を恐れるべきです。神の報いは、善かれ悪しかれ、永遠なのですから。
・・恐ればかりを書いたら、福音にならない?・・否、人が、恐れるべきことを、隠してはいけません。それを隠したら、福音ではなく、甘い誘い文句でしょう。
>恵みは神からの賜物である。何か良きことをしたことに対し与えられる報酬でもない。私たちはそれを要求する資格も、受ける資格もない者である。神に逆らっている者であるにも関らず、与えられる恵みなのだ。
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>私たちはイエス・キリストに出会って再び生きる者とされたのである。そして私たちには無縁なのにイエスの血を代価として罪を赦され、私たちは神の子とされたのだ。ただただ神の恵みである。
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それで、恵みを受けて、節操をなくし、何の弁えもなく、恵みばかりを強調し、ありがたがる信仰が、蔓延るようになりました。信仰の芯が抜けている解釈です。
>私たちは今一度、このクリスマスの時に「私は自分の罪過と罪との中に死んでいた者、空中の権威を持つ支配者の霊に従っていた者、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行っていた者、生まれながら御怒りを受けるべき子でした。」ということを自覚して、それが過去のこととされた、ということに喜ぶのである。
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罪過と罪を過去のこととしたときから、信仰は、気持ちのよいことばかりを探し、求め、言うようになります。その最悪な例を知っています。罪が過去のことなので、自分の非を全く認めようとしません。その結果、とても意地の悪い、機嫌次第の、都合の悪いことを隠し通そうとし、お世辞だけを歓迎する信仰?を露呈しています。
そして、よろこんで、他者の意見を抹殺・隠蔽して、信仰の務めを果たしたと思い込んでいるのです。そして、自らの、人間らしい、悔いる心や、反省する気持ちをも殺して、不応不感となることで、自己中心の安穏の境地を、神の平安と呼んでしまうのです。
>死ぬべきいのちをイエスのいのちと引き換えに新しいいのちに生かしてくださった、あわれみ豊かな神の大きな愛のゆえに救われた、恵みに感謝するのである。
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恵まれた、救われた、という完了形で、しかも、プレゼントばかりを強調して、信仰を語れば、もう修正も成長もなくなるでしょう。その通りになった信仰?を知っています。彼は、日夜、自分にとって不快なコメントを、ふっ何を言っとる、という感じで、神の名によって、削除しまくっています。昨日も今日も、ずっと・・。
神に与えられた人間性を、神に与えられた信仰によって、聖霊の導きによって深めるべきなのです。なのに、それを拒否した信仰?は、正しい信仰を、なぎ倒し、踏みにじって、虐げることで、恵みに反して、この地上において、人間の血も涙もない超常信仰の世界へと邁進するでしょう。
だいたい、当為と事実を混同して、目的と努力を混同して、理想と現実を混同して、人間であるのに、神の恵みによって、罪が過去のものになり、過ちも罪も犯さないと信じるなんて、何をやっても非がないなんて、人間の良識で、つまり、人間ならば・・という感じ方で、即座に否定~遠慮されてしかるべきです。人間性の欠如によって、人間の良識を捨てた者だけが、何も分からないのに分かったつもりになって、こういうことを平気で言うのです。
しかも、そういう者に限って、聖霊の啓示だからと、双方向の遣り取りを、当たり前のように拒否するのです。彼らの当為は、人間の世界で全く通らないことを、神の名によって無頓着に通す根拠となっているのです。そして、先ほどの、人が、罪なき完全な善人になることを、恐れもなく、真に受けて宣伝するでしょう。そして、信仰について語れば、讃美ばかりを大仰に繰り返して、いちばん大事な罪の意識からの祈りを軽視~無視する顛末になるのです。
往々にして、そういう者たちの心にあるのは、信仰ではなく、人より上に立つこと、いいお話でしたわ・・と褒められること、先生と呼ばれたいこと、などの、自己顕示欲という、他でもない、この世の欲望の、我にもあらず、自分を欺いての、自己正当化なのです。これが信仰になっていることがあるということ、つまり、今日のキリスト教の世界に、広くふつうに、勧めれていることは、脅威というより、身の竦むような恐怖なのです。
彼らの信仰は、まさに、人に対して、また神の前でさえも、筋の通らない偽善や隠蔽を、人間性の、あらゆる活性を廃して、思考と感性の停止によって、暴力的に通してしまう教条の、言論も強制力も無差別の爆撃のようです。
(2016年10月24日)
蔓延る(はびこる)
隠蔽(いんぺい)
邁進(まいしん)
当為(とうい)≒「べき」のつくこと
褒める(ほめる、誉める)
顛末(てんまつ)
身の竦む(みのすくむ)