弱さと強さ
「鶏の鳴き声に、泣き崩れるペテロ」
2016/11/28(月) 午後 5:07
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27822913.html
転載元:
「鶏の鳴き声に、泣き崩れるペテロ」
2016/11/28(月) 午前 8:56
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/33721546.html
何度も問題にしてきたことを、また書くことになります。なぜ、彼、シャローム氏は、転載までして、繰り返すのでしょう。
(マルコによる福音書、口語訳)
14:27
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
14:28
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
14:29
するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。
14:30
イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
14:31
ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
(マルコ14:29―31、新約聖書)
ペテロは、深く思索するより、単純素朴で、やや直情型で感情的になりやすい人、という感想を私は持っています。聖句では29,31節のような、正義に舞い上がって、大きなことを言いました。キリストが、羊が散らされる、という話をしたので、自分たちのことかと思って、そうではないことを言わなければと、勇んで上のようなことを言ったのでしょう。死と復活を語るキリストをなだめようとする思いが働いたのかもしれません。
キリストは、既に、そのようなペテロの性格を見抜いておられたようです。性格を見抜く以上の、預言を、30節で、ペテロに言いました。既に上気しているペテロは、31節のようなことを言って強がりましたが、しかし、30節の預言は、その通り実現した、という66節以降の聖書の記事になっています。
ペテロは裏切ったけれども、キリストは、裏切ると知りながら、ペテロを一番弟子として大事にして、ずっと慈愛の目で見ていたのです。この関係は、これは、忠実だから重く用いる人間集団とは違います。裏切れば制裁を与える関係ではないのです。キリストは、ペテロを見出し、裏切りが予測できたにもかかわらず、温かい目を注いでいる。どうでしょう。これは、ただの人の人間関係ではなく、キリストの、見出したがゆえの、愛なのです。そして、ペテロは、悔い改めて、見出されたがゆえの、愛によって、使徒となってゆくのです。
>ペテロはイエスに他の者は危機が迫ると逃げ出すかもしれない。
>だけれども、私は最後まであなたを守り通します、と勇ましい。
>ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、
>あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」マルコ14:31
さて、彼、シャローム氏は、このペテロに、のぼせていたことがあります。
自分を「岩のペテロ」になぞらえて、
>このイエス様をとおして示された神様の愛を受け入れるとき、
>しなやかでありながら岩のように微動だにしない生き方へと変えられます。
どれだけ悦に入っているんだろう、ということで、
これを批判した私の記事が下記:「しなやかな岩?」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/10240186.html
また、同じようなことを書くことになりますが、彼、シャローム氏が、私の反対コメントを削除した後、しばらく経って、私は、削除するのは、感情的にか、冷たい感情でか、冷血によってか、などと考えていましたが、彼は、こちらへのコメントに、削除するときにも、怒る理由はないとレスしたことがあります。
恐らく、自分の行為は信仰に適っているべきだ、また、そういう資格を自分は持っている、という誤った自認が言わせたのでしょう。
しかし、怒らずに削除するというのは、いったい、どういうことでしょう。彼は、一貫して都合の悪いことを無かったものにするために、聞かなかったことにするために、彼自身の耳を斬り落としたのでしょうか。その後も、彼は、私の批判コメントを、ブロックまたは削除し続けてきたのです。
いったい、どこで、怒りもせずに、神?の絶対正義?を実行する資格を得たのでしょう。その結果が、人の意見を削除して、最初からなかったかのように偽装して、嘘で自分のブログの見映えをよくすることなのでしょうか。
・・神の正義を自分の判断で実行できる資格など誰も持ちません。
私は、彼、シャローム氏を、批判していますが、批判は言論が手段です。彼、シャローム氏は、コメントを削除しましたが、これは、強制力です。
キリストの教えに、剣によって立つ者は剣によって滅びる、というのがありますが、剣は武力、また、強制力とも取れます。削除は強制力です。強制力による者は、強制力によって滅びる、とか考えないのでしょうか。
>ペトロは自分に頼ることの愚か、弱く欠けのあることに気づいた。
>強さは弱さをカバーしない。
ペテロは、強くなく、弱かった、ということを知らされた・・で、十分でしょう。強さが弱さをカバーしない、という表現が、どこから出て来るのか分からないですが、分かりにくいです。ペテロは、このとき、強くなかったのです。・・、口が強くても、行いが弱い、とも言えるでしょうか。ペテロが信仰によって、剣によって立たない強さを身につけるのは、もっと後のことでしょう。
>私たちは自分のことは、知っているようで、よく分かっていない。
>それでも他人のことについては、分かると思っている。
>私たちは自分の限界を知る者でありたい。
他人のことを分かっていると思っている、というのは、不思議です。分かっていない自覚くらいは、あるのではないでしょうか。人によるでしょうけど・・。
また、自分の限界を知るためには、何をすればよいのでしょう。人を知らずに、自分の限界を知ることは出来ません。だから双方向が大切だと思います。しかし、それでも、人を知ることも十分ではないのだから、自分の限界を知ることは、人には不可能でしょう。人間に出来るのは、神と違って不全なる自分を知ることだと思います。
それと、ありたい、という自分の願望を表す術語だから、私たちは、ではなく、私は、だと思います。自分の、ありたい、に、他者を含める無理な表現です。自分の限界を知ることだから、多くは賛同を得るでしょうけれど、決めつけるべきではありません。
彼、シャローム氏のように、自分を含まない「私たち」を使うようになったら、人への決めつけ、そして神への決めつけが習慣となり、自分が思うことは、人も思うこと、さらに、神も思うこと、という詭弁を使うことになります。それを常套手段としている、彼、シャローム氏のような、詭弁家の偽善者になってはいけない。
>しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。という のは、
>わたしの力は、 弱さのうちに完全に現われるからである。』
>と言われたのです。ですから、
>私は、キリストの力が私をおおうために、
>むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
> 2コリント12:9
(コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:5
わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
12:6
もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(2コリント12:9―10、新約聖書)
弱さを誇ることについては、前に書きました。引用に「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いから」と書いてあります。弱さとは、誇るべきものを持たないこと、ということの逆説だろうと思っています。そのうえで、聖句における弱さと強さを考えると・・、弱さを自覚し、ときに痛感して、努める信仰には、しばしば気高さを感じることがある、ということではないかと考えています。聖句通りに、弱さを誇ると言ってしまうなら、それは弱さではなく、見当違いの傲慢です。
私の関連記事:
「弱さを・・」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18174721.html
「恵みと罪と弱さ」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18124870.html
「弱さを誇る」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17947798.html
「誇る者」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/16135566.html
>さて、神の喜ばれることを目指し、今日は何をするのだろうか。
こういうことを、キリスト者は、考えることが時々あります。聖霊を信じている人が、今日は何をするのだろうか、から、今日はこれこれを、はい、わかりました、ということにならないように、祈っています。こうなってしまうと、聖霊に導かれ、従っている、という、自己絶対正義の人間離れの境地に、嵌ってしまうからです。
(2016年11月30日、同日一部修正)
私は、彼、シャローム氏を、批判していますが、批判は言論が手段です。彼、シャローム氏は、コメントを削除しましたが、これは、強制力です。
キリストの教えに、剣によって立つ者は剣によって滅びる、というのがありますが、剣は武力、また、強制力とも取れます。削除は強制力です。強制力による者は、強制力によって滅びる、とか考えないのでしょうか。
>ペトロは自分に頼ることの愚か、弱く欠けのあることに気づいた。
>強さは弱さをカバーしない。
ペテロは、強くなく、弱かった、ということを知らされた・・で、十分でしょう。強さが弱さをカバーしない、という表現が、どこから出て来るのか分からないですが、分かりにくいです。ペテロは、このとき、強くなかったのです。・・、口が強くても、行いが弱い、とも言えるでしょうか。ペテロが信仰によって、剣によって立たない強さを身につけるのは、もっと後のことでしょう。
>私たちは自分のことは、知っているようで、よく分かっていない。
>それでも他人のことについては、分かると思っている。
>私たちは自分の限界を知る者でありたい。
他人のことを分かっていると思っている、というのは、不思議です。分かっていない自覚くらいは、あるのではないでしょうか。人によるでしょうけど・・。
また、自分の限界を知るためには、何をすればよいのでしょう。人を知らずに、自分の限界を知ることは出来ません。だから双方向が大切だと思います。しかし、それでも、人を知ることも十分ではないのだから、自分の限界を知ることは、人には不可能でしょう。人間に出来るのは、神と違って不全なる自分を知ることだと思います。
それと、ありたい、という自分の願望を表す術語だから、私たちは、ではなく、私は、だと思います。自分の、ありたい、に、他者を含める無理な表現です。自分の限界を知ることだから、多くは賛同を得るでしょうけれど、決めつけるべきではありません。
彼、シャローム氏のように、自分を含まない「私たち」を使うようになったら、人への決めつけ、そして神への決めつけが習慣となり、自分が思うことは、人も思うこと、さらに、神も思うこと、という詭弁を使うことになります。それを常套手段としている、彼、シャローム氏のような、詭弁家の偽善者になってはいけない。
>しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。という のは、
>わたしの力は、 弱さのうちに完全に現われるからである。』
>と言われたのです。ですから、
>私は、キリストの力が私をおおうために、
>むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
> 2コリント12:9
(コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:5
わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
12:6
もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(2コリント12:9―10、新約聖書)
弱さを誇ることについては、前に書きました。引用に「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いから」と書いてあります。弱さとは、誇るべきものを持たないこと、ということの逆説だろうと思っています。そのうえで、聖句における弱さと強さを考えると・・、弱さを自覚し、ときに痛感して、努める信仰には、しばしば気高さを感じることがある、ということではないかと考えています。聖句通りに、弱さを誇ると言ってしまうなら、それは弱さではなく、見当違いの傲慢です。
私の関連記事:
「弱さを・・」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18174721.html
「恵みと罪と弱さ」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18124870.html
「弱さを誇る」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17947798.html
「誇る者」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/16135566.html
>さて、神の喜ばれることを目指し、今日は何をするのだろうか。
こういうことを、キリスト者は、考えることが時々あります。聖霊を信じている人が、今日は何をするのだろうか、から、今日はこれこれを、はい、わかりました、ということにならないように、祈っています。こうなってしまうと、聖霊に導かれ、従っている、という、自己絶対正義の人間離れの境地に、嵌ってしまうからです。
(2016年11月30日、同日一部修正)