ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年11月

 
  弱さと強さ
 
 「鶏の鳴き声に、泣き崩れるペテロ」
 2016/11/28(月) 午後 5:07
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27822913.html
 
 転載元:
 「鶏の鳴き声に、泣き崩れるペテロ」
 2016/11/28(月) 午前 8:56
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/33721546.html
 
 
何度も問題にしてきたことを、また書くことになります。なぜ、彼、シャローム氏は、転載までして、繰り返すのでしょう。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
14:27
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
14:28
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
14:29
するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。
14:30
イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
14:31
ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
 (マルコ14:29―31、新約聖書)
 
ペテロは、深く思索するより、単純素朴で、やや直情型で感情的になりやすい人、という感想を私は持っています。聖句では29,31節のような、正義に舞い上がって、大きなことを言いました。キリストが、羊が散らされる、という話をしたので、自分たちのことかと思って、そうではないことを言わなければと、勇んで上のようなことを言ったのでしょう。死と復活を語るキリストをなだめようとする思いが働いたのかもしれません。
  
キリストは、既に、そのようなペテロの性格を見抜いておられたようです。性格を見抜く以上の、預言を、30節で、ペテロに言いました。既に上気しているペテロは、31節のようなことを言って強がりましたが、しかし、30節の預言は、その通り実現した、という66節以降の聖書の記事になっています。
 
ペテロは裏切ったけれども、キリストは、裏切ると知りながら、ペテロを一番弟子として大事にして、ずっと慈愛の目で見ていたのです。この関係は、これは、忠実だから重く用いる人間集団とは違います。裏切れば制裁を与える関係ではないのです。キリストは、ペテロを見出し、裏切りが予測できたにもかかわらず、温かい目を注いでいる。どうでしょう。これは、ただの人の人間関係ではなく、キリストの、見出したがゆえの、愛なのです。そして、ペテロは、悔い改めて、見出されたがゆえの、愛によって、使徒となってゆくのです。
 
>ペテロはイエスに他の者は危機が迫ると逃げ出すかもしれない。
>だけれども、私は最後まであなたを守り通します、と勇ましい。
 
>ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、
>あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」マルコ14:31
 
 
さて、彼、シャローム氏は、このペテロに、のぼせていたことがあります。
自分を「岩のペテロ」になぞらえて、
>このイエス様をとおして示された神様の愛を受け入れるとき、
>しなやかでありながら岩のように微動だにしない生き方へと変えられます。
 
どれだけ悦に入っているんだろう、ということで、
これを批判した私の記事が下記:「しなやかな岩?」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/10240186.html
 
 
また、同じようなことを書くことになりますが、彼、シャローム氏が、私の反対コメントを削除した後、しばらく経って、私は、削除するのは、感情的にか、冷たい感情でか、冷血によってか、などと考えていましたが、彼は、こちらへのコメントに、削除するときにも、怒る理由はないとレスしたことがあります。
恐らく、自分の行為は信仰に適っているべきだ、また、そういう資格を自分は持っている、という誤った自認が言わせたのでしょう。
 
しかし、怒らずに削除するというのは、いったい、どういうことでしょう。彼は、一貫して都合の悪いことを無かったものにするために、聞かなかったことにするために、彼自身の耳を斬り落としたのでしょうか。その後も、彼は、私の批判コメントを、ブロックまたは削除し続けてきたのです。
 
いったい、どこで、怒りもせずに、神?の絶対正義?を実行する資格を得たのでしょう。その結果が、人の意見を削除して、最初からなかったかのように偽装して、嘘で自分のブログの見映えをよくすることなのでしょうか。
 
・・神の正義を自分の判断で実行できる資格など誰も持ちません。
 
私は、彼、シャローム氏を、批判していますが、批判は言論が手段です。彼、シャローム氏は、コメントを削除しましたが、これは、強制力です。
 
キリストの教えに、剣によって立つ者は剣によって滅びる、というのがありますが、剣は武力、また、強制力とも取れます。削除は強制力です。強制力による者は、強制力によって滅びる、とか考えないのでしょうか。
 
 
>ペトロは自分に頼ることの愚か、弱く欠けのあることに気づいた。
>強さは弱さをカバーしない。
 
ペテロは、強くなく、弱かった、ということを知らされた・・で、十分でしょう。強さが弱さをカバーしない、という表現が、どこから出て来るのか分からないですが、分かりにくいです。ペテロは、このとき、強くなかったのです。・・、口が強くても、行いが弱い、とも言えるでしょうか。ペテロが信仰によって、剣によって立たない強さを身につけるのは、もっと後のことでしょう。
 
>私たちは自分のことは、知っているようで、よく分かっていない。
>それでも他人のことについては、分かると思っている。
>私たちは自分の限界を知る者でありたい。
 
他人のことを分かっていると思っている、というのは、不思議です。分かっていない自覚くらいは、あるのではないでしょうか。人によるでしょうけど・・。
 
また、自分の限界を知るためには、何をすればよいのでしょう。人を知らずに、自分の限界を知ることは出来ません。だから双方向が大切だと思います。しかし、それでも、人を知ることも十分ではないのだから、自分の限界を知ることは、人には不可能でしょう。人間に出来るのは、神と違って不全なる自分を知ることだと思います。
 
それと、ありたい、という自分の願望を表す術語だから、私たちは、ではなく、私は、だと思います。自分の、ありたい、に、他者を含める無理な表現です。自分の限界を知ることだから、多くは賛同を得るでしょうけれど、決めつけるべきではありません。
 
彼、シャローム氏のように、自分を含まない「私たち」を使うようになったら、人への決めつけ、そして神への決めつけが習慣となり、自分が思うことは、人も思うこと、さらに、神も思うこと、という詭弁を使うことになります。それを常套手段としている、彼、シャローム氏のような、詭弁家の偽善者になってはいけない。
 
>しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。という のは、
>わたしの力は、 弱さのうちに完全に現われるからである。』 
>と言われたのです。ですから、
>私は、キリストの力が私をおおうために、
>むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
> 2コリント12:9
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:5
わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
12:6
もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリント12:9―10、新約聖書)
 
弱さを誇ることについては、前に書きました。引用に「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いから」と書いてあります。弱さとは、誇るべきものを持たないこと、ということの逆説だろうと思っています。そのうえで、聖句における弱さと強さを考えると・・、弱さを自覚し、ときに痛感して、努める信仰には、しばしば気高さを感じることがある、ということではないかと考えています。聖句通りに、弱さを誇ると言ってしまうなら、それは弱さではなく、見当違いの傲慢です。
 
私の関連記事:
「弱さを・・」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18174721.html
「恵みと罪と弱さ」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18124870.html
「弱さを誇る」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17947798.html
「誇る者」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/16135566.html
 
 
>さて、神の喜ばれることを目指し、今日は何をするのだろうか。
 
こういうことを、キリスト者は、考えることが時々あります。聖霊を信じている人が、今日は何をするのだろうか、から、今日はこれこれを、はい、わかりました、ということにならないように、祈っています。こうなってしまうと、聖霊に導かれ、従っている、という、自己絶対正義の人間離れの境地に、嵌ってしまうからです。
 
 
(2016年11月30日、同日一部修正)
 
 

 

 
  平安の安売り
 
 
 神の国はいつ来るのか
 2016/11/28(月) 午前 8:35
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27822324.html
 
 セルフ・イメージの癒し
 2016/6/15(水) 午前 8:41
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27520621.html
 
 神の国はいつ来るのですか
 2015/7/11(土) 午前 6:06
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26772467.html
 
 神の国はいつ来る?
 2013/9/26(木) 午後 2:17
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24867543.html
 
 神の国はいつ来るのか
 2011/12/17(土) 午前 9:30
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21844953.html
 
 神の国はどこに
 2011/3/27(日) 午後 5:49
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19429679.html
 
 
>私たちが自分の歩みを振り返る時、いろんな試練や困難がありますが、
>しかし、自分の努力の虚しさと同時に、
>神の恵みによって生かされていることを知ることができます。
 
よく毎回、このような、人に言えば歯の浮くようなセリフ、つまり中身のない讃美を書くことが出来ます。今回の記事、過去に5回もコピペしています。新しく書けなくなってきているようです。
 
>悩みや苦しみから救われることを願って信仰の道へ入ったのに、
>かえって新たな悩みを背負わされたようで、戸惑いますが、
>実はそのような道を歩まされることによって、イエスは私たちを心の囚われから解放し、
>神の国にふさわしい者と整えてくださるのです。
 
悩み苦しみが、自己中心から来ているときも、神は、神の国に相応しい者と、整えられるのでしょうか。相変わらず、不感不応の、彼、シャローム氏は、もはや、亡者のように、今のままでいいんだ、今のままにいいんだ、と呟きながら、考えることも反省もしないで、マウスに手を伸ばしてカチャカチャと、コピペしてきたのでしょうか。
 
>なぜなら、私たちの生き方を決めるのは、私たちの心なのですから、
>私たちの生ける神を信じ、信頼しようとしない私たちの心が砕かれ、
>解放されることなしには、生き方は変わらないからです。
 
私たちの生き方を決めるのは、私たちの心なのですから・・とは、信仰は、神は、支配者ではない?・・。神が、神が、神の奇跡だけが、・・と言っていた人は、ペテン師なので、うっかり我を出してしまうようです。だから、なお、そのあとに、脈絡を無視して、心が砕かれ、開放されることなしには、生き方は変わらない、・・と言っています。本当は、心が砕かれた経験などないから、こういう継ぎ接ぎ説教を平気でするのでしょう。彼の作文は、順序も組み立ても考えないのです、とにかく、大仰に、ほめたたえればよいのでしょう。
 
>私たちの言葉や行動という生き方は私たちの心の思いや感情から生み出されるのですが、
>心の奥に傷ついた情緒や罪責感が潜んでいることに気づくことは容易ではありません。
 
自分の非を全く認めない人だから、彼、シャローム氏らしく、彼の心には、被害的念慮と他罰意識しかありません。恐らく、罪責感は・・、無いと思います。あれば、過去記事をコピペするよりも、自分が悪かったのではないかという非を認め、罪を認め、キリスト者なら、悔い改めの機会を持ったでしょう。彼は、自分のために嘘をついていると言われても仕方ありません。
 
>私たちは自分の言葉や行動という生き方を変えようと努力をします。
>でも、心が変えられて初めて生き方が変わるのです。
 
彼は、そうでしょう。人間は、まず、心も行いも、変えるように努めるのですが、彼、シャローム氏は、必要なら神が変えるのだと、何の努力もせず、被害者の立場だけを言って、あわれみを乞い、変えられるのを待っているのです。奇跡信仰者は、こういうとき、大口を開けて、空から奇跡が降ってくるのを待っているのです。
 
>私たちは必要以上に自分を気にしたり、人を恐れてしまいますが、
>それは自分の存在価値が人の評価で支えられているからです。
>人の評価ほど変わりやすいものはありませんので、いつも人の言葉や顔色を伺うのです。
 
かなり体系化?されました、彼、シャローム氏のいない「私たち」への断定の、ぼろくそ節です。私たちは、誰でも、いつも、人の言葉や顔色をうかがうでしょうか。彼、シャローム氏は、人の顔色をうかがうように、人の評価を気にして、コメントをブロックし削除し、ブログの体裁を、反対者などいない、という体裁にしないと気が済まなかったのです。一方で、反対者のことなど、人間とも思っていないようで、うるさいから去らせようと平気で侮辱してきたのでしょう。
 
 (イザヤ書、口語訳)
43:4
あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代りに人を与え、
あなたの命の代りに民を与える。
 ・・・
43:22
ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。
イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた。
 ・・・
43:27
あなたの遠い先祖は罪を犯し、
あなたの仲保者らはわたしにそむいた。
43:28
それゆえ、わたしは聖所の君たちを汚し、
ヤコブを全き滅びにわたし、
イスラエルをののしらしめた。
 (イザヤ43:4,22,27,28、旧約聖書)
 
彼、シャローム氏は、ここでは4節、つまり、聖書の都合の良いところしか引用しません。何度も書いてきたことですが、聖書の懲らしめの神を、彼、シャローム氏は、完全に無視しています。聖書には、救いと懲らしめは、両方書いてある箇所が多いのですが、彼のご都合主義?は、徹底しているようです。やはり前に書いてきたように、神に、愛されて、愛されて、・・という、神を愛のストーカーとした信仰?なのでしょうか。
 
>ですからイエスは「神の国は見られる形で来るものではない。
>また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。」と言われたのです。
 
ですから、ではなく、当たり前に、神は人の目には見えないのであって、神の居所や姿が見えたなら、大変なことです。私なら、神経を病んで、あっという間に燃え尽きて、死んでしまうでしょう。彼は、言葉しか、頭に置いていないので、とても気安い書き方をしています。
 
>私たちが人の評価ではなく、イエスをとおしてあらわされた神の愛を知り、
>体験するとき、初めて自分の真の存在価値に気づかされるのです。
 
またも、彼、シャローム氏は、神の愛を語り、神の懲らしめを無視しています。そして、自分はキリストによって、存在価値がある、と言い張っています。彼の場合は、今までの言説から言えば、神の絶対から、自分は絶対に愛される、としてしまう悪い典型例であります。神の懲らしめを無視することは、自分の非を無視することです。いつまでも悲劇のヒーロー?・・。
 
>生ける神は神を畏れることも信頼もせず、
>かえってその愛にそむき、敵対し、己が都合のよい神を作り辱め、
>その結果は死であり、滅びであるにもかかわらず・・・
>私たちの罪のあがないのために
>ひとり子エスを十字架の祭壇に犠牲としてささげられたのです。
 
一見まともなことを書いているように見えますが、彼、シャローム氏は、引用最初の2行を付けることで、罪でも偽善でも何をやってもキリストの十字架によって救われる、という、全く、信仰による救いが、信仰によらない救いになってしまうようなことも、平気で大仰に言い張るのです。
 
>イエスの誕生、生涯、十字架の死、よみがえり、聖霊の注ぎは
>神の愛があなたや私に注がれている事実を明らかにしているのです。
>それほどまでに神は私たちを愛しておられるのです。
 
懲らしめを受けながらでも、言葉上の愛だけを強調して、愛を強調されて、気分の悪い奴は、おらんじゃろう、とばかりに、彼、シャローム氏は、ますます、声高に、反対意見を皆殺しにした机上から、ほくそ笑んで書いているかのようです。
 
私は、聖霊を否定してはいません。むしろ、信じています。しかし、聖霊は三位の一つ、すなわち、神であります。ですから、自説の根拠に、聖霊の啓示だ、議論無用なり・・とばかり言い張ったりはしません。神を恐れるからです。彼、シャローム氏は、人としての身の程を知らないのです。
 
>神の言葉とその実体であるイエスに対する信仰によって、
>私たちの神と人に対する罪と傷ついた情緒や罪責感情がいやされ、
>整えられていくとき、
>神の愛と恵みが、聖霊によって、
>私たちの言葉や行動という生き方に表されるようになるのです。
 
彼、シャローム氏にとって、やはり、罪責感情は、すぐにでも癒やされるべき嫌なものであるようです。決して非を認めない彼は、信仰によってか、体質によってか、罪悪感とは無縁のように思われ、感じたことがないように思われてなりません。深い悔いの気持ちが、信仰の成長を支える、ということは、反省による学習機能のない彼には一生分からないのでしょうか。
 
罪責感情が癒されるのは、罪悪感を感じることによって、悔いて告白し、赦されたあとに与えられる恵みです。悔いない者、神への態度を改めない者には、癒しは与えられないと思います。もし癒しが罪の告白なしに与えられるとしたら、祈りと告白は無意味になってしまいます。
 
だいたい、何か病んでいる感情があるから、癒される、と言うのでしょう。傷つく前に癒されることはないはずです。彼、シャローム氏が、権威から押し付けるのは経験がありますが、傷ついて弱っている様子を、彼の言論にも行動にも、見たことがないです。だから私は、厚顔という言葉をしばしば使っています。
 
彼、シャローム氏は、反対意見を抹殺し、反対者を侮辱して、去らせようとしてきました。反対意見を聞かず、賛同意見を誉めまくって、同時に、罪と隠蔽の偽善を隠し通そうという彼の強制力による行動、という、整わない企みを続けるとき、まるで、悪霊によって、彼の怨恨が、表わされているかのようです。彼の怨恨に触れたら、神の助けなくしては、無事には済まないと思うほどです。
 
>それはただイエスを信じさえすれば万事うまく行くという事ではなく、
>さまざまな試練や困難によって、私たちの心が砕かれ、囚われから解放されることによって、
>神の国は神の恵みとして私たちの生き方にあらわされてくるのです。
 
よく言います。あまりにも言動の事実からは白々しいので、心無いペテン師の馬脚をあらわしています。彼、シャローム氏は、試練を受けて学ぼうとなど、していません。ひたすら、都合の悪い試練など、無かった、何も無かった、という体裁を偽装し続けてきたのであります。だから、自分を自分で守ろうとしている間、彼の心が砕かれることはなく、また、この世の価値基準に囚われているのだから、解放もありません。心無いペテン師は、どこまでも、騙すために嘘を惜しまないようです。彼の生き方によってあらわされるのは、偽善者の自己充足の矛盾の醜さだけなのです。
 
神の平安は、非を認めない者には、罪を認めない者には、偽善を認めない者には、心無いペテン師には、嘘で自分を飾る偽善者には、訪れません。キリストの負いやすいくびき、すなわち、へりくだった人間として平安がいただけるような生き方の姿勢、というものを拒んでいるからです。
 
 
(2016年11月29日)
 
 

 

 
  節操
 
 
自分の解釈と体験を絶対化することは
自分の信仰を絶対化すること、
ついには自分を絶対化すること。
 
神を信じるとは
神が自分を救ってくれると信じることでもある。
しかし、信仰は自らの絶対性を否定することだから
それだけだと節操がない。
 
どんなに悪いことをしても
人を傷つけ殺したときでも
神は自分を救ってくれる
と信じることが可能になってしまう。
 
信仰の節操とは、
自分が信じる神が、
何してもOK、という、おめでたい神ではなく、
救われるために、最低限の条件とか戒めとかを
人が、心構えとして、持つべきことである。
それは、神の民として、
人が
人としての身の程を弁えるための分別とも言えるだろう。
 
信仰は、
信じます、と言えば、何をやっても問題ない、
という、保険詐欺の契約とは違うからだ。
 
最低限と書いたが、
キリスト信仰においては、
福音書の中でキリストが求めたものであり、
それは必要十分条件であり、
それさえあればキリスト者であり、
それがなければキリスト者ではない。
 
信仰の節操は心構えであるから、
守ることに苦行は必要ないものである。
 
何かを達成して救われるのであれば、
何かは、神のレベルになり、不可能である。
 
達成することで神を喜ばせることは人には不可能だということを
神は十分にご存知であるから、
神はそれを救いの条件とはなさらず、
 
人間が自ら、
人の努力の及ばない大事なときに、
神よりもはるかに不全であることを認め
神ご自身にのみ救いを求めることを
神は人間に要求している
と考えるゆえに
 
そのことのみを神は
信仰の節操としたのではないかと思われる。
 
それは
聖書の中の救われた人々は皆それを持っていた
ということを根拠とする。
 
前から言っていることだが、
真実の全能の神に対して偽りは通用しない
ということを弁える必要がある。
 
神は総てを見抜かれるというのに、
現代、現実に、その節操を曲げて、
それでも信じているから恵みを受ける
と言い張っている者がいることは誠に嘆かわしいことである。
 
人は、
神に対して祈るとき、
祈り願うことが
自らを誇ることであってはならず、
神の意志と行為の断定であってはならず、
救いの脅迫であってはならず、
心なき暴言であってはならず、
真実の心ではないお世辞の讃美や感謝であってはならない。
 
しかし何よりも一言で言えば、
偽らないことが最も大事なことである。
 
神の前の人の立場は、
へりくだっていること、
他に救いのない罪人であることであり、
 
この世の利益を受けることがあっても、
信仰めいた言葉で
この世に魂の救いを求めてはならない。
 
神は、妬む神である。
 
人がキリストや聖霊を知ったと言うべきではない。
私たちは人格であり、
神、キリスト、聖霊は、神格である。
 
 
(2016年11月28日、同日一部修正)
 
 

 

 
  奇跡信仰の末路
 
 
 1コリント15章12~20節ーキリストの復活は私たちの出来事だ!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27818125.html
 2016/11/25(金) 午後 8:11
 
 転載元:
 1コリント15章12~20節ーキリストの復活は私たちの出来事だ!
 2012/9/21(金) 午前 10:32
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/30111946.html
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
15:12
さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
15:13
もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:14
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:15
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
15:16
もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
 (1コリント15:12―19、新約聖書)
 
聖句をそのまま引用したというより、聖句に合わせて、自分の言いたいことを宣べているようです。 
 
>いまの時代、復活や昇天や再臨が語られることが少ない。
 

12~20しかし、これだけは言わせてください。私たちが伝えたとおり、あなたがたが、キリスト様の死からの復活を信じているのなら、なぜ、「死んだ者は二度と生き返らない」と言ったりする人が出るのですか。もし死人の復活がないなら、キリスト様は、今も死んだままのはずです。もしそれが事実なら、私たちが宣べ伝えていることはすべてむだであり、神様に対するあなたがたの信頼もむなしく、価値のない、絶望的なものとなるのです。そして、使徒はみな、うそつきということになります。なぜなら、「神様はキリスト様を、墓から復活させられた」という私たちの主張は、もし死人の復活がないのなら、当然、うそになるからです。もし死人が復活しないのなら、キリスト様は、今なお死んだまま、ということになります。 そして、神様が救ってくださると信じ続けることは、全くばかげており、あなたがたは、今なお有罪宣告を受けたまま、ということになります。また、すでに死んだクリスチャンは、みな、滅んでしまったことになります。もしクリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はありません。しかし、事実、キリスト様は死人の中から復活しました。そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです。

 
キリストの霊的復活は、今もクリスチャンが誕生していることで、また私も信仰者の一人であり、信仰について考えていることで、疑いようもないことです。
 
福音書は、みな、キリストの肉体の復活を唱えています。その時代には、キリストの肉体を持った復活が、どうしても必要だったのでしょう。神は、肉体を復活させることの出来る御方です。
 
ですから、二千年後の現代にあって、キリストの霊的復活は信じていても、キリストの肉体の復活を信じることの出来ないことは、罪である、と書いています。したがって、私は、不信仰な罪人であります。
 
そのうえで、私は言います。肉体の復活にこだわる者たちに、ろくな信仰を見ないと。
 
肉体の復活にこだわる者たちは、そのことを強く主張しますが、彼らは、肉体の復活を信じることで、いったい、信じない者と違って、神に仕える人間として、どういう正しさが得られるのだろう、ということ・・。彼、シャローム氏も、肉体の復活を信じると言い張る者の一人ですが、彼は、どこかの国で、死人が甦ったという話を、事実を確かめることも出来ないのに、ブログで大々的に宣伝していました。
 
そして、その後、彼は、反対意見をブロックし削除し、自分の都合の良いように、コメント欄を偽装して、それら一切の証拠を隠蔽しました。彼のブログは、反対者がいないという偽装された見かけを前提に存在しているのです。
 
このようなことから何が言えるでしょう。肉体の復活という二千年前の奇跡を、超常の神のわざ、つまり奇跡の事実として信じる者は、そのような信仰の事実のみにこだわって、結局、信仰の軸を、いつどこで起こるか分からない奇跡として理解してしまう傾向があるということです。そして、その分、信仰者が弁えるべきことについて、全く感受性を持たない者が現れているということです。肉体の奇跡にこだわったから、感性が鈍麻したのか、それとも、彼、シャローム氏だけが、元から鈍麻しているのか、そこは分かりません。
 
しかし、奇跡が超常であることと、そこにこだわる人の心性を考えると、そういう傾向がある可能性は、否定できないのです。奇跡にこだわるあまり、もっと大切な、奇跡とは言えないような、しかし決して小さい問題ではない繊細なところ、すなわち、人間の感性や思考や反省力や、人間の節操としての謙虚さや、人の意見を尊重すること、などに、目を向けることが、なかなか出来なくなってゆくという可能性を推測します。このことは、今後、もっと多くの信仰者について見ていかなければいけないところです。
 

イエス・キリストは死者の中から復活したことを喜んで受け入れたあなたがたが、どうして死んだ者は二度と生き返らないなどと言うのだろうか。イエスの十字架の死が罪の赦しを私たちのものとなったと信じていながら、イエスに起こった死に打ち勝かった復活は別物だとするとはとパウロが嘆く。

 
パウロが嘆く、というのは、あなたが、パウロの何を知っている、という、反論になります。このように、聖書の登場人物に自らをなぞらえる人は、あまり信頼しないほうがよいだろうと私は思っています。自分をパウロに並ぶもの、という思い上がりが見え隠れしています。
 

死んだ者は二度と生き返らないとするなら、その希望に生きなければ何をよりどころに生きるのか。滅び去ることになるこの世に希望を置くのか。神に信頼を置く信仰はどこに行ったのだ。
もしイエスが死人うちから復活しなかったなら、死人を拝むこととなり、偶像崇拝となってしまう。それではいまなお、罪の中にいるままだ、イエスにあって先に死んだ者の死は無意味となり、滅びに至ってしまうではないかと。

 
これは、キリストの霊的復活のみによって、信仰は成り立つので、言いがかりに近いでしょう。むしろ、肉体の復活を信じ込む者には、キリストの肉体に執着して、キリストへの思い込みから、キリストの意思や行為を決めつけてしまう傾向があるだろうと思います。彼、シャローム氏は、肉体の復活を信じているようですが、聖書におけるキリストと、キリストに関わった人たちの、情感や人間性については、恐ろしく鈍感であることは、既に、私が指摘しているところです。
 
信仰の、いちばん大事なところ、その理解可能な人間性の交流を感じることが出来ないで、彼、シャローム氏の信仰は成り立っているのです。そういうのを人間離れと呼んでいます。人間離れの信仰は、人間離れの言動を喜びます。それゆえに、また、彼、シャローム氏は、誰よりも、奇跡をほめたたえるのです。
 

また、イエスの復活の喜びに生き、それを宣べ伝えていることはとてもアホくさいものとなってしまう。何故ならば、虚構を喜びそれを待ち望み、それを世に広めている生き方だ。

 
アホくさくは、なりません。キリストは、どう復活したとしても、再び地上を去り、今は天におられるということでしょう。しかし、キリストの霊は、今も聖書の中に生きているし、また、人が安易に知ったと言うことの出来ない聖霊によって、信仰者を導いているわけですから。
 

けれどもイエスにおいて決定的なことが起きたのだ。神がイエスをよみに捨て置かず、死に打ち破って復活させた。もう墓の中にいない、いまも生きて天のところにおられる。この復活はイエスだけに起こったことではない。信じて復活が約束されている私たち何千万何百万もの人の復活第一号となられたということだ。

 
私たちの復活の、ありがたさを、実感として感じることが出来るのでしょうか。私たちは、自分の死さえも、実感できないというのに。この辺は、大仰に言い張っているだけで、復活を信じている自分を誇りたいようです。
 
今もキリストが生きて伝道をしておられるなら、肉体の復活を信じたでしょう。しかし、肉体が二千年前に、死んでのち、復活した、ということを、実感して喜べる人はいないのです。
 

イエスに起こった復活は神の約束の実現であり、私たちの未来の姿を見せるものである。信じる者に最終的に与えられるのは、永遠のいのちを持ったからだの復活に生きることだ。そして私たちはこの望みに生きている。

 
未来の姿、永遠の命を持った体に生きることを、どう実感できると言うのでしょう。わけも分からないことを声高に言い張って讃美するのは、彼、シャローム氏と同じように、現実に対して感じて考えることを怠っている者に、よく見られます。いわゆる有頂天信仰です。
 
私たちは、今の現実の中で生きています。この現実の中で起きてくる様々な苦難において、くじけずに生きるために信仰を持っているのです。信仰は、そういう人間の生き方を支える力を持っているのです。大事なことは、起こるかどうかが神に任される奇跡ではなく、生きている神が、生きている人間に、神の民である人間と人間性を生かしてくださる、という、魂の奇跡です。
 
死んだ後、または、終末の時の遠い将来、肉体が復活し、永遠の命を持って生きられるよ、という超常の約束が、ありがたくて生きているわけではありません。それがキリスト信仰だと勘違いしている向きもあるようですが、私たちも、キリストのように、永遠に生きる者として、いつか分からないけど、肉体をもって復活するのだ、ということは、その時になって初めて感じることでしょう。
 
今、苦しい現実を感じて余りある身で、いつか分からない肉体の復活を約束されたから、死んだ後に望みをいだいて、感謝し讃美せよ、などという言葉をどうして信じられるでしょう。それを、すんなり信じて、讃美していられるほうが、よほど異常だと感じます。
 
 
(2016年11月27日、同日一部修正)
 
 

 

 
  恐るべき短絡
 
 
 確かなナビゲーター
 2016/11/25(金) 午後 0:38
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27817606.html
 
 人の道、主の道
 2015/2/28(土) 午後 0:04
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26429266.html
 
 確かなナビゲーター
 2012/8/19(日) 午後 0:28
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23275206.html
 
 神への信頼とは
 2009/10/28(水) 午後 3:17
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/8761083.html
 
 常に主を覚える
 2009/8/2(日) 午前 8:52
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/4711294.html
 
 
今日も、彼、シャローム氏は、決めつけの断定が、不適切な比喩と短絡を伴って、どういう怖い境地と言動をもたらすか、という結果と経過を惜しみなく表しています。しかも、彼は、訂正も修正もする気がないのです。
 
 (箴言、口語訳)
3:1
わが子よ、わたしの教を忘れず、
わたしの戒めを心にとめよ。
3:2
そうすれば、これはあなたの日を長くし、
命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、
それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4
そうすれば、あなたは神と人との前に
恵みと、誉とを得る。
3:5
心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
3:6
すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7
自分を見て賢いと思ってはならない、
主を恐れて、悪を離れよ。
 (箴言3:1―7、旧約聖書)
 
>あなたやわたしの人生の歩む道をまっすぐにしてくださる方がおられます。
>あなたやわたしはどうすればよいのでしょうか。
 
そうして、自分の道は真っ直ぐだと、そこに不感不応の境地を置いて、身勝手な安穏を平安と呼び、反対意見を受け付けなくなったのが、彼、シャローム氏です。
 
>問題は何でしょうか。
>誰に、何に頼るか、ということですね。
 
>安易に主に信頼するのと、
>「心を尽くして」主に信頼するのとは、どう違うでしょうか。
 
心を尽くして主に信頼すると言って、自分の思いに、主の冠を付けて、人々を、反論不可の隷属の下においてきたのが、彼、シャローム氏なのです。
 
主は、なんと教えてくれたのでしょう。罪も偽善も、悔い改めなくていいんだよ、神の代官、神の子としての身分があるのだから、罪と隠蔽の偽善を言ってくる者など、気にしなくていいんだよ、とでも、お告げがあった、神に教えられた、という信仰?でしょうか。・・怖くなります。
 
>私たちの生活にもどうしてよいかわからないときがあります。
>そんな時、今日の聖書のみ言葉は心強いですね。
 
彼は、詭弁によって、聖書の御言葉を、自分に都合の良いように、曲げて受け取り、自分の罪も偽善も省みない者です。このようなペテンに引っかからないようにしてください。彼は、口で讃美しながら、行いで背く者です。
 
>確かな導き手に全面的な信頼をするのです。
>たとえ、その道に困難があっても、
>いままで一度も通ったことのない道であっても、
>主が導き手として共におられることに信頼するのです。
>その道を歩くことを難しくしてしまうことがあります。
>自分や人の分別に頼ろうとすることです。
>今まで当たり前と思っていた自分の知識や経験、賢さに頼ろうとすることです。
 
彼は、主を導き手とはしていません。自分の心に飼っている聖霊と名付けた偶像によって、自分の、この世における、体面、体裁、尊敬、などをむさぼって、いい気持ちになりたいだけなのです。この記事も、彼の、いい気持ちが書かせているだけなのです。実際は、反対意見をブロックし削除し、そのことを隠蔽して、体裁を偽装して、悔いることも改めることもしない、偽善者です。
 
>私たちの歩む道はただゴールに着くことだけではなく、
>その途上にもすばらしい主の計画があるのです。
>主を見失い道に迷い、途方にくれて、
>祈るほかないような状況にたたされることも必要なのです。
 
彼は、自分のいいように歩いてきて、自らが立てた、他の意見を完全に無視できる不応不感のバリアの中にいるから、悔いることも改めることもなく、考えることもなく、素晴らしい、素晴らしい、と言うことが出来るのです。
 
この記事には、主の導きについて具体的なことは、何も書かれていません。こういう人こそが、聖霊体験を吹聴して、これが主の道だとばかり、信仰の考えを自分の思い通りに向けてゆくのであり、そうしてきたのでしょう。逆らう者を侮辱して去らせながら。
 
彼は、道に迷い、途方に暮れているのでしょうか。ならば、道に迷っている自分の信仰を書かず、なぜ、こんな白々しい記事を書いて、人に見せようとするのでしょう。
 
祈るほかないような状況で、彼は、本当に神に祈っているのでしょうか。彼、シャローム氏は、善と、悪とを、自分で決め付けて、悪からお救いください、と祈っているだけではないでしょうか。そういう自分の正しさの前提で祈る姿勢は、カルト的自分信仰の特徴です。
 
何よりも、偽善を隠蔽したまま、「祈るほかない」などと書けることのほうが、彼の、神をも、自分の利益のために利用する、という、人並み外れて凶暴な自作信条のなせるわざなのです。毎度、信仰は腐るとここまで来てしまう、という実例を見せてくれます。
 
>急いで得た富は災いをもたらすという聖書の言葉もあります。
>私たちはあまりにも自分の目先の都合や利益だけで道を選ぼうとしますが、
>主は私たちには思いもよらない最善の計画によって導かれるのです。
>私たちの信頼できるナビゲーターは主であり、み言葉なのです。
 
安易に得た思い込みの導きも、彼、シャローム氏において、災いをもたらしています。目先の都合や尊敬や体裁や体面という利益だけで道を選ぼうとして、こともあろうに、そこに、神のお墨付きを当てはめる、という重罪を重ねてきたのです。
 
>弟子たちも良く見失い途方にくれました。
>イエスが十字架のつけられて死なれた時にはまったく絶望してしまったのです。
>しかし、その後、弟子たちはよみがえられたイエスに再会し、
>自分の知識や体験ではなく、み言葉と聖霊に従う人と変えられたのです。
 
彼は、悲しみを感じたことがないのではないでしょうか。だから、悲しみに暮れる、ということが理解できずに、絶望と書いてしまうのでしょう。悲しみは複雑ですが、絶望は有無の言葉です。悲しみについてじっくり味わい考えることのない者は、有無の思想を持ちやすいと思います。だから、それを、どんでん返しの救いにするためには、よみがえり、という奇跡でないと納得しないのでしょう。彼が感じてきたのは、苦しみ、恨みと憎しみ、だけではないか、と思うことがあります。人間の明け暮れに、また立ち直りの朝のために、悲哀という、みずみずしい情感を、彼は、持ち合わせていない・・と思えてなりません。
 
人間の考える正しさは相対的です。だから、人間は、いろんな意見を受けて反応することによって成長するしかありません。だから、私のブログは、コメントを書き込めるように開けて、殆どのコメントを承認しています。100コメント以上の噛み合わないやり取りで疲れたこともあります。そのやり取りは無駄のようですが、そこに晒される自分を鍛えることにはなります。無駄のように思えることも、相手が何を言いたいかを探りながら、自らの忍耐を養うのには役立つかもしれません。総ての人に勧めるわけではないですが・・。
 
シャローム氏のブログは、反対意見をブロックし削除してきたブログで、今は、コメント欄が閉鎖されており、即ち、読者が彼に意見する、という、権利を奪ったうえでないと成り立たないブログです。彼は、その強制力に頼って、ブログを頑迷に維持しているだけです。
 
神は、次はこれをして、その次はこれをして、まもなく人間交差点です・・と、手とり足とり、ナビのように案内してくれるわけではありません。神の導きをナビに喩えること自体に無理があります。その無理に短絡して信仰を語ることが、彼、シャローム氏の、コメント欄を閉じていながら、訂正不能の口を開けて、具体性がないのに、聖なる絵に描こうとして、空疎な讃美を無遠慮に押し出す結果になっています。言い換えると、偽善者の喩えは、キリストの喩えとは大違い、ということを教えています。
 
彼、シャローム氏は、神をナビのように見なして、自分は、神に導かれて間違いのない道を通っている、と言いたいようです。これこそ、神についての美辞麗句です。これこそ、神へのお世辞です。そして、実際は、自分の判断を絶対化する、という方向しかなくなって、これこそ、神に対して犯す最も重い罪であります。それが、彼に、人に対する不感不応をもたらし、そして偽善と隠蔽をもたらしているのです。彼のナビは、彼の壊れた思考と感性を、そのまま行動に移してしまうショートサーキット(短絡)なのです。
 
 
(2016年11月26日)
 
 

 

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