ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年11月

 
  パンくずの
 
 
人がキリストを信じるようになるのは
多くの場合、
聖書を読んで癒やされた
という体験を持つからだろう
 
それはそのまま
キリストとの縁を感じることであり、
それが忘れられないものとなるからだ
 
聖書のキリストに癒される
という体験の共感と共有において
キリスト者は交わりを求める
 
聖書のキリストに出会うことの幸いを知り
キリスト者は福音伝道の志を持つ
 
 
それで十分なのに
 
 
何故か一部の者たちは
キリストが救い主であるだけでは飽き足らず
その御方に関わる自分を高めないと気が済まない
 
すなわち
神の領域の言葉を欲するか
神の領域からの働きと
自分を直結させようとする
 
言葉が欲しいのだ
 
異言、預言、啓示、
さらに、神と一体、神の子の資格、
そして、聖霊の注ぎ、
 
これら特別のものを
特別の言葉で
自分に結び付けないと気が済まない
 
神格の言葉が欲しいのだ
 
神格を自分に結び付けたら最後
次は自分の言動の絶対化につながってゆく
 
しばしばこの世を敵視し
この世の人々を上からぼろくそに言い
自分は違うと言いたい
 
自分と同じにならないと
罪の報いは死だという脅しに近くなる
 
自分の背きを罪を偽善を棚に上げる
 
かくして
神格にまつわる言葉は
自分というキリスト者だけが分かっている専門用語となり
 
この世の一段高い所から
人々を見下ろすようになり
福音伝道は上の自分から下の人への憐れみの施しになる
 
信仰?の完成を讃美する
 
カルト的自尊信仰の完成を讃美する
 
・・いつのまにか地上は
 傲り高ぶった悟り顔の預言者だらけ・・
 
 
これらすべては
与えられたものにただ感謝して
与えた御方を救い主と信じて
パンくずの奇跡に感謝する信仰に反している
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
15:23
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
15:24
するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:22―28、新約聖書)
 
※ いくらなんでも、ここを読んで、パンくずの霊力を信じる人はいないでしょうから、解釈は省きます。キリストの言葉に反応して、へりくだる女性の態度に、キリストは反応して義を与えているのです。
 
「子供たち(イスラエルの民)への恵みを小犬(異邦人)に与えるのは、よろしくない」というキリストの言葉に対して、カナンの女性は、「小犬もその主人(主なる神)の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と返している。これ以上ないほどに、へりくだって、かつ、言うべきことは言う、すなわち、一途に救いを願う、という信仰の態度である。キリスト以外に頼るあてがなく、誇るべき何ものもなく、隠し事も偽りもないから、女性は言えるのだろう。
 
なかなか言葉に尽くせないが、キリストの言葉に反応した人間の言葉と態度に表れたところの、人間が共感できる心、それを受け取ることのみが信仰である。それは、教理よりも、はるかに、人間が知るべき大切なものである。それが分からない者は、新しい皮袋に入れるものを、知らないか、失っている者である。
 
 
(2016年11月25日)
 
 

 

 
  福音をけがす者
 
 神の目と人の目
 2016/11/23(水) 午前 10:06
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27813976.html
 
 目は大丈夫?
 2015/5/4(月) 午後 3:43
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26600697.html
 
 神の恵みを体験するには
 2009/4/23(木) 午前 4:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/584119.html
 
 
 (詩篇、口語訳)
81:10
わたしはエジプトの国から、
あなたをつれ出したあなたの神、主である。
あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
81:11
しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、
イスラエルはわたしを好まなかった。
81:12
それゆえ、わたしは彼らを
そのかたくなな心にまかせ、
その思いのままに行くにまかせた。
 (詩篇81:10―12、旧約聖書)
 
>漠然とではなく、神に具体的に求め、大きく求めることを主は願っておられるのでしょうか。
>口を広く大きく開けよ、と言われています。
>大口をたたくことではありません。
>できますか。主はそれを満たすと言われます。
>今、このみ言葉が自分に語られているものとして受け取り、今の置かれている現実の中で、
>主に向かって口を大きく開けるとするなら、それはどうすることでしょうか。
>それによって主の大きな恵みを体験すると言われています。
 
神に対して、具体的に求め、大きな恵みを体験することを説いています。さて、具体的に求めたら、恵みを体験するのでしょうか。そううまくはいかないことを誰でも知っています。この解説に欠けているのは、それこそ、神に求めれば恵みが来る、というご利益信仰を否定しえていないことでしょう。つまり、この聖句は、神が恵みを与えるほどの信仰を持つことを説いているのでしょう。そう解釈しないと、現実に合いません。こういう聖句は、他にも多々ありますが、悪用されやすいのです。
 
ところが、彼、シャローム氏は、聞かず、悔い改めの機会を逃しました。それゆえ、彼は、
そのかたくなな心にまかせられ、
その思いのままにいくにまかせられた・・・と言うに相応しいのです。
 
>神の民、イスラエルは主のみ声を聞こうとせず、求めることもしませんでした。
 
彼は、主のみ声を聞こうとせず、求めることもしませんでした。・・と言うに相応しい。いかなる忠告も批判も聞かない彼は、自問自答の孤独な世界に住んでいるのです。
 
>どう思いますか。
 
どう思いますか。コメントをいくら書いても、彼は、前にブロックし削除したように、今もブロックし続けるだけで、全く反応がありません。「ゲストブック開設の案内」という記事に、もう何週間になるか、コメントを書き続けていますが、おびただしい私のコメントが、隠されています。本来のゲストブックは、もう、ずっと前から、隠されて利用できないようです。
 
>この世界は神が創造されたはじめから今日に至るまで
>神は神の目で良しとされる創造のわざを片時も休んではおられないのです。
>人の目で見るなら、混乱と無秩序が支配しているように見えます。
 
彼の目は、創造のわざを見るのでしょうか、神の目で?。
 
まるで、誰の言うことも聞こうとせず、思いのままを神と結び付けて、社交の世辞を語りながら、この世を悪者にして、ぼろくそに言う、彼、シャローム氏ですが、私という人の目で見ても、彼の心は、混乱と無秩序が支配しているように思えます。そして、コメントをブロックし削除して、ブログの体裁を偽装し、その偽善をバレないように隠蔽する偽善を働きながら、一方で、そういう何の秩序もないところで、彼は、相変わらず教えてあげるとばかり、説教を書き込んでくるのです。病気なのか、この自己矛盾は、どうしようもないです。
 
>「神の民、イスラエルは主のみ声を聞こうとせず、求めることもしませんでした」
>この言葉は神の民イスラエルの人々の姿だけではなく、
>神のかたちに似せてつくられた私たちの姿ではないでしょうか。
 
シャローム氏は、前に何度も指摘した詭弁をまた使っています。この「私たち」に、彼は、彼自身を含めていません。含めているなら、記事を書く立場を維持するなんてことは出来ない事態なのです。これは、彼、シャローム氏が、説教を書くときの詭弁なのです。
 
>この世界を人の目で見るなら、主なる神ではなく、
>便利屋のような神に求めるのは当然ですね。
>それは自分を神のようなものとし、神を自分に仕えさせようとすることでもあります。
>神の目で見ることが礼拝であり、人の信仰のあるべき姿なのです。
 
シャローム氏は、聖霊体験を振り回し、自分の言説を神の啓示だと言い張り、どんなに矛盾を指摘しても、直接は答えられず、その代わり、インプットをシャットアウトして、昔、勉強したらしいことを自分の都合の良いように改変して、無謬で不変と信じ込んで、繰り返してくるのです。
 
>イエスさまに私たちが見失っている信仰の完全な姿を見ることができるのです。
 
それより、彼は、彼自身に、最低限も見失っている彼自身の信仰?を見るべきですが、人のことばかり、神の立場で語って、人の目さえも失っている、彼、シャローム氏を、批判しています。
 
>十字架につけられているイエスさまの姿に、
>私たちは生ける神に向かって口を広く大きく開かれた信仰を見ることができます。
>神は“私は渇く”と言われ、その大きく開かれた口を満たされたのです。
 
彼が言うと、なんて白々しいんだろうと感じます。彼は、本当に渇いている自分を知らず、体面とか尊敬といった、この世のものに、大口を開け、人々に向かって、大口をたたいています。
 
>今、私たちの飢え渇き、口を広く大きく開くなら
>イエスさまの口に注がれ、満たされた、聖霊の働きによって
>私たちの目を神の目で見ることのできる目と変えてくださるのです。
 
まだ、神のようになりたがり、神のようになっているのだと言いたいようです。いったい、どれだけ、神を欺き、人を欺き、おごり高ぶれば気が済むのでしょう。神の目に変えてもらったら、その目で言えばいい・・彼は何も言えない人であることを、彼の言説が語っています。今の、彼、シャローム氏は、カルト的独善の自分信仰に落ち込んで、神の目で見ると言いながら、遠くも、近くも、自分さえ、見えなくなって、大口だけ意地で盛んに動かして、大口ばかり叩いているのです。
 
>とは言え、私たちはこの世に生きている限り、
>人の目と神の目で見て生きている弱さをもって生きているのです。
>その弱さをとおして神の愛と恵みを知らされるのです。
 
神の目で見て、と言ったら、弱さを言えなくなるので、人の目と神の目で見て、と書いています。神の目についての、とても、いい加減な見なしで書いていることが分かります。私たちは、神の目を持つことは出来ません。・・できると思い続けていると、彼、シャローム氏のような偽善者になります。このような思い上がった言説に、騙されないように願います。
 
それに、彼、シャローム氏は、一度も本当の弱さを見せたことがありません。いつも、ふっ何を言っとるか、という人を食ったような舐めたような尊大さで、特に反対者には対します。言ったとしたら、賛同者に対する節操のない世辞で、謝罪もするし、お礼も言いますが、そのあとの記事で、まるで分かっていないことが明らかになったことがあります。そのときも、彼は、答えられないので何も言わなくなりました。そして、コメント欄閉鎖の現在に至っています。こういうのは、社交として彼が前から、自分のために見せる芝居です。彼は、社交の丁寧語だけを覚えて、今日に至っているのだろうと推測しています。
 
私たちは、分からないときや、困ったときは、弱音を見せざるを得ず、相手は、それに答えて心遣いや心配りを心掛ける交わりに生きるべきですが、彼には、その痕跡すら見当たりません。だから、不当なことを平気で言い、悦に入り、反対意見を受けた途端、態度を変えて、人を人とも思わなくなる、という彼、シャローム氏、という人物を見たことは、一生忘れない負の知識となるでしょう。その観点から、逆に、信仰を考えることが多くなっています。
 
彼を鵜呑みにしてしまう人は、彼と同じような、社交しか中身のない、深みも洞察もない、思い込みの人になってゆくのです。私の言説が伝道の要素があるとすれば、それは、彼という危険な人と、危険な信仰について、その本性を出来る限り明らかにして、警戒を促すことだろうと思っています。表す言葉には不自由していますが・・、彼を見ることは、人間不信を見ることであり、彼に従うことは、人間不信と自尊妄想に神を言葉だけ取り込んで、大仰に語るようになってしまうことです。
 
 
(2016年11月24日)
 
喚く(わめく)
騙す(だます)
舐める(なめる、嘗める)
 
 

 

 
  不全を嫌う者
 
 ヘブル13:20~21ー私たちの力の源泉は内にいるキリスト!
 2016/11/22(火) 午後 3:18
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27812457.html
 
 転載元
 ヘブル13:20~21ー私たちの力の源泉は内にいるキリスト!
 2011/6/22(水) 午前 11:58
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/28054797.html
 
 
シャローム氏が、なぜ、この記事を転載したか、など考えてみます。
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
13:20
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、
13:21
イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。
 (へブル13:20―21、新約聖書)
 
転載元の記事の訳:
すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。
新共同訳:
御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。
口語訳:
あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるように
 
前者の訳は、自分を完全としたい偽善の自分信仰者に悪用されやすいと思う。人について「完全」は、批判か否定以外、禁句ではないかと思える。ましたや、神が人を「完全」にするなどという言い方はするべきではない。人の信仰は、「不全」から出発するべきだろう。
 

神はそのために御子イエスを遣わし、敵に勝利した戦う神である。その神が私たちとともにいるのだ。そのために御子イエスを遣わし、イエスにおいて私たちと神との関係を取り戻された。イエスにおいて、もう私たちは園の木々の間に隠れることがなく神とともに住む者とされたのである。

 
このように、神は勝利して、関係は取り戻され、人は、神とともに住む者とされた、というような、すでに救いは成就したかのような、解釈を招くことになる。救いが成就していないことは、今の自分と世界を見れば明らかである。
 

イエス・キリストは私たちと同じ罪ある人となって、罪からの報酬を受けて十字架で死ぬことを良したされたのだ。イエスの流された血潮は信じる者も信じない者にも永遠を決定する契約となったのだ。

 
永遠を、どう決定する契約となったのだろう。永遠を道理か死できると言うのだろう。聖書を読むに意気込んで、中身があるかどうかを確認することなく、聖書だからと、やたら大仰な言い方に終始すると、このような書き方で満足するようになるのだろうか。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
5:1
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4
忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
 (ローマ5:1―5、新約聖書)
 

私たちは神との間にはもうすでに隔てる壁がなくなった者とされている。部屋の中がグチャグチャでどこに何があるかが分からない状況ではなく、スッキリ整頓された状況だと言うことだ。

 
神はスッキリでも、私たちはグチャグチャだと思います。神が絶対者で、人は不全なのだから、隔てる壁、というより、見えざる境はあるのです。全能者と隔てがない、というのは、大いに誤解を招く書き方です。人が、直接、好きなだけ交わって相談できるような神ではありません。神は人に反応し、人は神の導きに反応する、という双方向が、信仰として恵まれているということです。
 

シャロームである平和の神。いのちの源なる神。恵みに満ちた神。その神がイエスにあって私たちを完成へと導かれている。いま、神の祝福に与る者となっている。

 
「シャロームは」、ここでは「平和」の意味のヘブル語です。私の批判対象が、これをハンドルネームHNにしていますが、たいそうなことが好きで大言壮語する、彼、シャローム氏らしい。その分、彼は、自分を見つめることが出来なくなっている。それを見抜かれるのが嫌で、彼は、隠蔽体質を身につけていると思う。
 

信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っている。平和の神のものとされた。それで神を大いに喜んでいる。私たちはもはや神の敵ではなく、神が私たちの味方となられたのだ。これほどの幸いは他にはない。

 
この記事全体にわたって、人間らしい書き方ではなく、理想も現実も一緒にして、大仰に神を讃美する特徴を持っている。神は、平和の神だが、人の世界で、神の平和も、人の平和も、未だ実現していない。「神が私たちの味方となられた」というのが最も問題のある発言で、この意識から、自分に反対する者は敵、しかも神の敵と見なしているのが、彼、シャローム氏です。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:31
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
8:32
ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
8:33
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
 (ローマ8:31―35、新約聖書)
 

誰も敵対することが出来ない。この世も悪魔も敵対してくる。けれども神は私たちに和解を与えてくれた、罪から引き離してくれたのだ。誰も私たちを罪に定めることが出来ない。

 
このように、神の力で完成した、というような解釈からは、讃美しているつもりで、誰も敵対することが出来ない、罪に定めることが出来ない、という、被害者意識の強い、自己防衛的な、言説を専らとする言説を生み出してきます。そして、彼、シャローム氏のように、罪を認めない、非を認めない、という信仰につながってゆくのです。
 

私たちは自分の力で完全な者となることなど無理な話だ。私たちはイエスにあって義とされた者。新しく生まれた私たちは神の子どもとされた者。後は栄光から栄光へとキリストの似姿に変えられる時を待ち望み、完全とされる時を喜ぶのである。

 
人が完全ではないことを、ここで言うなら、なぜ、完全であるかのような、大安心のような言説を、書いてしまうのでしょう。神は偉大だが、私たちは偉大ではない、ということを弁えるなら、神の偉大さに人が沿えるような文章ではなく、偉大ではない人、罪深い人の、有り様をテーマとし、問題とするべきなのです。でないと、ただの、宣伝になります。まさに、こういう文章だけを、いかなる考察よりも、好んで漁ってくる、彼、シャロームのような、カルト的自分信仰者に、好きなように利用されている現状になっているのです。
 

私たちはすでに祝福のうちに置かれている。あとはそのことを気付き、感謝をもって神とともに歩むことなのだ。

 
祝福という言葉を、実感もなく、信仰だからと、安易に、かつ、無理に、使ってしまうと、こうなります。「あとはそのことに気付き」・・今は気づいていないのですか、ならば、なぜ、祝福のうちに置かれていると書くのですか。神の側についてのことを、人のことのように、なぜ、書くのですか。事実と当為を、現実と理想を、混同していませんか。
 
>エペソ6:10
>あなたがたの力の源泉は、
>あなたがたの内におられるキリストの全能の力にあることを忘れないで下さい。
>(リビング・バイブル)
 
私たち人の力が、キリストの全能の力にある、というのは偽キリスト者がいることを踏まえると、いつでも私たちがキリストの全能の力をふるえるという意味には取れない。キリストは全能であり、私たちは、そのキリストの偉大な力に与れることもある、という意味になるだろう。
 
ちなみに
同エペソ人への手紙6章10節の
新共同訳:
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
口語訳:
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
 

私たちの力の源泉は内にいるキリスト。その力は私たちに益となり神の計り知れない力が働く。それを私たちは忘れることなく、神の恵みを受けた者として、神のご計画に、みこころに生きることを喜びとして、歩み続けて行きたい。

 
パウロは、迫害の時代、すなわち、迫害者というはっきりした敵のいる時代に、敵の振るう迫害という強制力に負けないために、信徒を強く励ます必要があり、激励を込めて書いています。
 
今の時代には、パウロの時代と違って、敵がいても、どこか誰か、はっきりしていない時代ですから、もっと思慮を促す言葉が必要です。そこを引用のように、神すなわち私たちの偉大なる味方に恵まれ守られているからと、益となり、力を得て、御心に生きる、などと、簡単に言いきれるものではないのです。今のキリスト者には考え方が安易で甘い人が多いような気がします。
 
誰も神の計画も御心も知らない、ということを弁えておかないと、彼、シャローム氏のように、自分の独善教理の言説の絶対正当化に走って、自分を反省も修正も出来ず、反対者の滅びを祈り願い、自分の正しさを神に感謝し神を讃美するような、思い込みの断定によって、訂正不能の信仰に向かうのです。彼の信仰は、自分の正しさを前提としてしまった信仰です。だから彼のように節操のない者は、言うに事欠くと、都合の悪いコメントなどは見えなくするか消して、前提だけを、手を替え品を替え、転載し引用し、手段を選ばすに、単方向の出力を重ねているだけなのです。彼は、考えることをせず、他者の意見を糧にせず、野良犬のように都合の良さと姑息な快感を嗅ぎまわり、自分と似たような意見の言葉を漁っては利用しているのです。
 
私たちは、みな、神の下にある不全の人であります。その意味で、神の下に平等です。信仰も、独りで思いにふけっていると、独善と自己満足に陥りやすいことを知ってほしいです。人間として神の民としての共有と共感を目指す双方向によって、違ってよい部分と違ってはいけない部分を弁えるようになって欲しいです。訂正不能の糞尿のような境地で、いつまでもズルズルと空約束をまき散らす者とならないように、自分の信仰の絶対化を、折に触れて否定してゆくことが肝要です。罪も偽善も弁えないような者の丁寧語の世辞に騙されることのないように。
 
 
(2016年11月23日)
 
糧(かて)
嗅ぐ(かぐ)
漁る(あさる)
 
 

 

 
  子供だまし
 
 子どものように
 2016/11/21(月) 午後 0:15
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27810454.html
 
 神の国と子ども
 2010/1/9(土) 午前 8:19
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/11365833.html
 
 
>人々は子どもをかわいがりもしますが、自分の都合次第では、
>うるさがったり、じゃまにしたりもするわけです。
 
他者が反対意見を言うと、自分の都合で、うるさがって、意見をブロックしたり、削除したりするような、厚顔無恥の牧師もいるので、注意してください。
 
>「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
>決してそこに、はいることはできません」(マルコの福音書10章15節)
>と言われたように、子どもたちの心にこそ、神の国がある
>とご覧になっておられたからでありましょう。
 
>そのように子供には疑う心も、危険を察知することも、
>理性も知性も経験もありません。
>ただ親を信じ信頼してすべてを任せるしかなく、
>それが最善だと信じているのです。
>イエスは「そのような子供のようになければ神の国に入ることはできません」
>と言われたのです。
 
前に何回も書いてきたことです。引用聖句はそういう箇所なのです。こういうことを言って、幼子のように、文句言わずに、逆らわずに、従え、と言いたがる牧師がいるのです。
 
>吉川英治という作家は、「我以外はみな師だ」と言いましたが、
>子どもたちも私たちの学ぶべき立派な師、先生だと言えます。
 
こういうことを言って、賛同者を社交のお世辞で、分かってもいないのに、誉めまくる一方で、反対者を、人とも思わず石ころのように見なして、人間として扱わない牧師もいるのです。そして、反対者など、いるはずがないと思い上がり、反対意見を強制力で消して、何の反対もなかったかのように偽装して、証拠を隠すような、偽善一途で、学ぶことをしない牧師もいるのです。
 
>ある日、イエスはパリサイ人で、ユダヤ人の教師であるニコデモに言われました。
>「よくよくあなたに言っておく。
>だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」
>(約・ヨハネによる福音書3章3節)
 
新しく生まれることを、言葉だけ説いて、信仰に至ることを説明できないものだから、変わることのない平安に至っていると得々と語って、変わることのない、ということを、詭弁の不変不感不応の正当化の根拠にして、人を無視し続けている訂正不能の牧師がいるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
1:9
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
 (ヨハネ書1:9-13、新約聖書)
 
「神の子となる」については、良識あるキリスト者は、いくらなんでも、キリストになれるとは受け取りません。キリストは、私たちの飼い主そして救い主なのですから、それになる、など、誰も言えないはずのなのです。神の家族として、迎えられる人間として期待される、ということを言っているとしか思えないのですが・・
 
その悪しき誤解~曲解のほうをを取って、神の子となる力を与えらえたとばかり、教理を受け入れた自分が、並ではなく、信徒を導く力のある牧師だと気取って、その立場から、決して非を認めず、反対者を侮辱し、虫か何かであるかのように無視して、何も聞かない、何も見ない、しかし、言いたいことを言う、という、子供だましの神?からの、終身特別扱いを得たかのように、考察という考察を、思考という思考を、感受という感受を嫌って、上から一方向の同じセリフの独善教理を繰り返して、いつでも平安?の救い?の中にいるかのように見せかけている牧師がいるのです。
 
>イエスはニコデモに言われました。
>「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」と。
>人の知性や理性、経験を超えた神の言葉だからです。
>それは今も変わることはありません。
 
そのことから、自分の信仰は、知性、理性、経験、などの人知で説明できない議論不要の啓示だと、言い張っている牧師もいるのです。
 
>人の手によって十字架につけられながらも、
>イエスは神の御手によって十字架の上に差し出されていることを
>神の幼な子として信じ受け容れておられたのです。
>それが神のみこころであり、最善だと信じておられたからです。 
 
幼子の比喩を、彼、シャローム氏は、ここで、キリストが言った言葉をキリストに当てはめます。どんな表現も、どんな罪も、啓示を得ている自分が勝手に扱ってよいと思っているのでしょうか。そして、自分が言わなければ・・とでも思うのか、神の意志を決めつけるのです。彼に語られるキリストは、彼の教理の中のキリストであって、彼によってどのようにでも表される彼の分身なのです。そのように、自分を聖化してしまった、彼、シャローム氏の、言説は、幼児語と丁寧語と詭弁という、偽善の誘惑しか持ち合わせていません。
 
わけの分からないことを、不変の真理として全肯定して信じ込むことは、信仰ではありません。信仰には、人間が共感を持ちうる真実があります。人間は、何らかの感動を動機として信仰の世界に入るのだから、言葉に表すのは難しいけれど、努める価値のある、人間ならば分かるだろう、という、わけがあるのです。それを、私は、甚だ不充分ながら、書いてきた、というより、求めてきたつもりです。そういう共感を、まるで理解できないために、魔法と奇跡の超常を繰り返して自説を広めようとする者がいるのです。
 
 
(2016年11月22日)
 
 

 

 
  神と悪魔と自分
 
 
神様のほうを向く、主イエスの道を歩む、聖霊に身を投げる、・・これらを言うことで、信仰を語っているつもりで、何の恥ずかしさも感じない人は、恐らく、自分信仰の偶像崇拝という、危ない方向に向かっている可能性を考えるべきだと思います。
 
聖書語、つまり聖書と教理からの言葉というのは、こういう説諭を可能にしてしまいます。実際、こういうことを言う人は少なくないと思います。恵み、癒やし、救い、に満たされていると言うのは、悪魔でもなく自分でもなく、神に従っていると信仰を誇ることになりやすいと思います。祈りでも、罪の告白とは、大きく異なるところです。
 
現時点での、結論から言うと、人は、神と悪魔の区別もつきません。
 
信仰を語っているつもりで、神の平安に感謝しているつもりで、いつのまにか、悪魔の誘いに乗って、自分を高めたり、自分の信仰を誇ったりしています。しまいに、神と悪魔と自分との区別もつかなくなった人もいます。区別できると高をくくるのは、とても見方が甘く、危険です。
 
悪魔は人間より賢いのです、悪魔は自分の中に常在しているのです、といったようなことを、前に書いたことがあります。だから、悪魔と自分の区別がつきにくいので、実際、自分がするべき行いとして罪や偽善を犯す危険があります。
  
善と悪は、容易に分けられるものではありません。しっかり見極めて・・、という言葉も、しばしば聞きますが、見極めも、区別も、むしろ出来ないこととして、考える必要があります。
 
となると、信仰の祈りは、自分を高めず誇らない方向を心掛けるべきでしょう。人が、祈りの場で、神に対して取れる立場は、どこまでも、不全で、覚えていなくても、罪を犯している人間という立場になります。あくまで、人という下の地上から、神という上なる天上へ、切なる思いを述べることが、祈りであり、それが、敬虔ということの芯になると思います。
 
恥ずかしがるべき祈り:
 大仰な讃美ばかりを唱え、教理的文言を繰り返す祈り、
 信仰生活の実感ではなく、実感のない、
 まるで、罪滅ぼしであるかのように、
 具体的な実体もなく、感謝のための感謝の言葉だけ盛んに唱える祈り、
 こういう祈りは、信仰の芯となる罪深さを理解していない者に多い。
 何故なら、パリサイ人の祈りの例にあるように、
 心のない讃美と、嘘の感謝は、神の最も嫌う偽善だからです。
 
恥ずかしがらずに積極的に唱えるべき祈り:
 罪の告白、神の前に態度を改める祈り、信仰生活の実感を伴う祈りと叫び、
 赦しを願う祈り、癒しと導きを願う祈り、折に触れての感謝の祈り、
 自分のための祈り、他者のための祈り、・・そして、叫び、・・。
 
神にお任せして、神に導かれて、今の自分が、神の平安の中にいる、という祈りは、一見、感謝と讃美として、相応しいように思われますが、神がどう導いて平安を与えたか、知り得ないのが人間なので、神の意志と行為を、その成就の今の時点の成果を自分が感じることのみによって、断定してしまう、という、神に対する不遜となることがあります。パリサイ人の祈りが、典型的です。ゆえに、神の意志と行為を確定的には知り得ない立場を弁える必要があります。
 
自分が信仰によって与えられたと思い込んだ平安の中にどっぷりつかって、人の意見を裁いて、強制力をもって排除し、それを批判されると、逆に、批判者が自分を裁いていると言い張って、結局、話にならなくなって、信仰の先生という立場と自尊にしがみついて、何も聞かなくなっている者を知っています。
 
そういう堕落に共通しているのは、自己中心の訂正不能の思い込みで、そこに満たされるのは、何か完璧に完成した不変のもの、ということのようです。それゆえ、信仰者が最も忌むべきは、完全と完璧を期するところからの、慢心、不遜、傲慢、偽善、自分信仰、学習不能から、訂正も修正も不能の亡者になってしまうことです。そうなると、もはや、不信仰より、さらに非信仰よりも酷く、信仰者でも人間でもなくなり、邪悪なものを身につけた病原となるだけです。
 
キリスト信仰において、芯とも節操とも呼べる一番大事なことは、神という絶対者の前に、人が絶対肯定できる確信は、何もないということです。
 
偽善者は、啓示や聖霊体験を押し出して、無謬を唱えてきますが、彼らの言う聖なる無謬は、キリストや聖霊に相応しい洞察が全く見られず、何の感動も共感も与えることの出来ない絵空事、空約束、常套句、詭弁の類に過ぎないものです。
 
私たちの信仰に必要なのは、神のようになることではなく、神に近くなることでもなく、人にまさることでもなく、人に敬われることでもなく、何かが整うことでもなく、ただ、ほんの少しだけ、神に顧みられて、憐れまれる人間であることだけです。聖書において救われた人々と同じです。
 
神の前に、何の言い訳も出来ないほど、空しい存在で、無力で無知で無価値で不全の、神を恐れることしか出来ない、飾ることなど決して出来ないほど弱く、正直な証言と告白しか出来ない、小さい魂でありうるなら、その理由のみによって、救われたと聖書に書いてある人々と同様に、ひとりの人間として、正直な告白の祈りのみを通して、神によって憐れまれるような、いつの日も、砕かれた心でありたいと願って止みません。
 
 
(2016年11月21日、同日一部修正)
 
 

 

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