ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年12月

 
  高ぶる嘘ばかり
 
 新しい命に生きるかぎ(2)
 2016/12/30(金) 午前 9:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27873482.html
 
 
>主イエスを信じるあなたやわたしも聖霊によって新しいいのちが与えられました。
>ただ問題は、そのいのちに生きているかどうかです。
>そのいのちに生きることを妨げているものが、「アダムのいのち」です。
>その問題の解決は十字架にあることが分かってこられたでしょうか。
>このみ言葉は知っていても、それを信じて、自分のものとしている、
>あるいは自分のものとしようとしているクリスチャンたちは意外と少ないようです。
 
聖書の中の、キリストと、その時代の生きている人々との関わりも、その情緒も、感じることの出来ない者は、前にも言ったように、神のわざである奇跡にのみこだわり、超常についての独善的断定のみに注目し、ここでは十字架に注目し、新しい命に生きる、という言葉だけを言って、しかも、それを自分のものとしているクリスチャンは少ない、と豪語しています。自分がそうだ、十字架の贖いによる新しい命を自分のものにしている自分を見習え、と言わんばかりに。
 
>ローマ6:6
>わたしたちは、この事を知っている。
>わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
>それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、
>罪の奴隷となることがないためである。(口語訳)
 
罪の奴隷となることがないため、と聖句が語っているのに、一番やってはならない罪である偽善にまみれて、それを人にも神にも隠蔽しようと謀りながら、この聖句を挙げるとは、大した根性・・。
 
>主イエスが2000年余り前に十字架につけられたことは歴史的な事実でした。
>しかし、それはまた、全宇宙的な出来事であり、霊的な出来事でした。
>あなたやわたしの「古き人」もその十字架に一緒につけられて死んだのです。
>死んだという実感がないのですか。
>わたしもそういう実感はありません。
>しかし、実感があってもなくても、十字架で「古き人」のあなたは死んだのです。
>これも信仰によって受け取らなければならない霊的な事実です。
 
二千年前に死んだと言われて、そうですかと、その超常の意味を分かる人がいるのでしょうか。言葉だけを受け入れて、それで、自分は実感がなくても受け入れると、信仰によって受け取るのだと、断言する者は、何か大切なものを言葉だけ、実感があってもなくても受ける、とまで言ってしまうときに、人間らしく罪びとの不全として正直に、分からない、と言う謙譲と温もりを捨てています。彼は、その辺の信仰の芯が全く分かっていない。そして、言葉の辻褄合わせばかりやっている・・。
 
実感のないものについては、実感がないと言うべきで、分からないのかと言われたら、分からないと答え、それは神に対する罪であると言われたら、確かに私は罪人ですと答えるべきなのです。
 
>主イエスが十字架で流された血によって罪が赦されたことはどうして分かりましたか。
>実感がありましたか。
>実感はなくても、主イエスを信じ、み言葉を信じて受け取った後、
>平安が与えられ、少しづつ分かってきたのではありませんか。
 
私たちに信仰の平安が与えられるのは、十字架が贖いで、今の人も、一緒に死ぬ、という、わけが分からないが生まれ変わりで、古い人として罪を犯す者ではなくなり、罪が赦されるから、犯すこともない、と聞いたからでしょうか。教理話の神の超常の辻褄だけに、人は感動できるでしょうか。私たちは、人間の情感も理性もなくなるのが良いのでしょうか。頷くだけの顔と口と顎関節と、事柄の表面だけをなぞって、分かったふりが、救いなのでしょうか。それで、、彼のように、聖書語だけをしゃべり、逆らう者を闇から闇に葬り、隠し事の上に、神を讃美する以外何も考えず、薄笑いを浮かべて物静かに悟ったふうのジジババになればよいと言うのでしょうか。
 
人間として感動できる心と、人間としての思慮があるからこそ、能力にかかわらず、信仰者は、余計な自尊の支配を受けないので、分かる所は分かり、分からないところは、分からないと、正直に言えるようになるのです。
 
そもそも、聖書を読んで、惹かれるのは、教理話の辻褄合わせではなかったはずです。聖書に惹かれるのは、キリストを好きだから、キリストに興味を持つようになったからで、このような人がいたのかと驚いたからではなかったでしょうか。その気持ちは、決して超常ではなく、人間ならば誰でも、その心にも響くだけの愛と慰めを、聖書が語るからです。
 
>古き人が十字架で死んだことも同じです。
>何かある度に、絶えず、この古き人は頭をもたげてきます。
>しかし、その都度、その古き人は十字架に死んでいることを認めるのです。
 
古きままの人である彼にとっては、罪とか偽善とか隠蔽とか、そういった話題が、自分を指してくるので、邪魔になっているだけです。だから、相手を、返事する価値もない荒らしと見なして、侮辱したのち、無視し続けているのです。古い人、俗の欲と価値基準を持ち続ける人が、この世での自尊を損なう反省をしなくて済むために、二千年の重みではなく、頭の中の軽石に、誰も理解はできない神とキリストの言葉面だけの辻褄を乗せて、さも聖なる尊い話に見せかけているだけなのです。神もキリストも裏切って、偽善の罪を犯し続けていて、バレないように人を無視し続ける自己完結自分信仰者が、ごわごわの衣を振り回しては体臭をまき散らし、文句を言うなと汚い唾を飛ばしているだけなのです。
 
>十字架の後に何がありますか。
>そうです。復活です。
>あなたやわたしの古い人が死ねば、復活のいのちの希望があります。
>神の新しいいのちに生きることが可能になります。
>ハレルヤです。
 
そう言う偽者たちは、ことさら、奇跡、特に、肉体の復活にこだわります。そして、肉体の復活を信じている自分は尊く、信じない者はこの世に毒されていると見下し、その分、高ぶっています。
 
既に、キリストについては、霊的精神的、そして不可知的導きによって、私たちは、既に、キリストの、霊的精神的、そして不可知的復活を信じる者であります。
 
死人の肉体の蘇りは、人間にとって分かるはずもないこと、神は、わざわざ、そのことを信仰の有無を測る基準となされるでしょうか。
 
あとは、聖句引用です。
 
>しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
>その測り知れない力は神のものであって、
>わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
 
それを知りながら、自分のブログ上の強制力をもって、反対意見を削除し、コメント欄を次々に閉じているのは誰か。
 
>わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
>迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
 
反対意見を、自分に加えられた艱難と見なして、窮しない、行き詰らない、と聖句を盾に、彼は言っています。これを、自分中心の信仰による、被害者意識と呼んでいます。自分の至らなさを考えることが出来なくなっているのです。こういう者の闘う敵は、神の敵とは関係なく、すべての彼に対する反対者であり、反対者と手段を選ばず闘い、反対者を封殺し無視することを耐え忍ぶと言い、その滅びを願うのです。それは、神の計画とは全く関係なく、彼は敵をいっぱい作り、反対されることを迫害と呼び、反対者を迫害者と呼びます。つまり、彼は、神の名をみだりに唱えて、偽善の大罪を犯しながら、自分のための偽りの三文芝居を、神に見せているのです。
 
また、神を、絶対の神ではなく、神を、いつも自分の味方をしてくれる、自分の守り神と信じているのです。信仰は、神を絶対と信じ、ゆえに自分を相対化することですが、彼は、自分の信仰の、相対化ではなく、絶対化に至っているのです。それは、自分自身の絶対化に他なりません。
 
>いつもイエスの死をこの身に負うている。
>それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
>わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
>それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
>こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
>(新約・コリント人への第2の手紙4章7~12節)
 
彼は、イエスの死を負うてはいません。負うていたら、神に対する自らの不全も恥ずかしさも知っているはずですから、他者の異なる意見のブロックや削除など出来ないはずです。彼は、イエスのために死に渡されてはいません。何故なら、彼は、自分の正当性を、他者のブロックや削除という汚い強制力の手段で守ろうとしています。キリストのいのちは、彼のうちに働いていません。言ったように、彼は、この世の価値に仕え続けているからです。
 
それと、この聖句は、パウロが書いた書簡です。身の程を弁えず、同じことが、自分にも成り立つと思うのか、パウロと肩を並べるかのように、預言者である使徒パウロに自らをなぞらえている、彼なのです。どこまで高く思い上がるのでしょうか。
 
あくまで推測に過ぎませんが、彼は、すでに、神によって口を奪われているのかもしれません。だから、口を開き、言葉に表せば、反信仰の、心も思慮もない、おかしな記事になるプロセスなのかもしれません。・・という恐るべきことを、最近は感じています・・。
 
この記事を読まれる方は、批判の部分だけでなく、それよりも、所々に挟んでいる、信仰についての私の信仰観の文章を読んでいただきたいと思います。そして、よかったら、返事を書けるかどうかはわかりませんが、感想をお寄せください。また、私の至らぬ作文ですから、誤字脱字、入力ミスや変換ミスもしばしばあり、ご指摘いただければ助かります。以上。
 
 
(2016年12月31日)
 
 

 

 
  新しい命に吐かれる嘘
 
 新しい命に生きるかぎ
 2016/12/28(水) 午前 9:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27870411.html
 
 
新しい命というテーマなのですが、はっきり言って、信仰者になって生まれ変わった、という気持ち以上に分かっている人はいないと思います。自分は特別だと思い込んでいる者は、そこがカギだと、さも分かっているふうに言うのですが、読んでみると退屈するのがオチというくらい、聖書語の常套句を並べるだけなのです。
 
>主イエスを信じ、バプテスマを受けた人には、
>聖霊によって神の新しいいのちが与えられていますが、
>与えられているだけではなく、
>その新しいいのちに生きることが期待されています。
 
新しい命に生きるとは、ということの説明の出来る人はいないと思います。私にとっては、祈りによって告白し、願うということが出来るようになったこと、それによって、救いがたい自分にも、悔い改めて赦される道がある、ということ以上には、分かりません。
 
>問題は、長い間身に着けてきた「アダムのいのち」を生きる「古い人」です。
>その「古い人」が邪魔をしています。
 
何をもって古い人というのでしょう。生まれ変わったと言っても、どう見ても、自分は前の自分です。別のものに生まれ変わるわけではありません。新しい命は、古い命から入れ替わるのではなく、新しい目覚めとして生きるということでしょう。「アダムのいのち」を生きるとは、自分の善悪で生きる人の意なのでしょうが、これを書いている者が、まさに、自分の善悪と価値基準で、人を扱って、退けたり、ほめ上げたりしている人なのですから、聞いて呆れます。
 
古い人が邪魔をする、というのは、以前大事にしていたこの世の価値基準が邪魔をする、ということのようです。信仰による価値基準の更新によって、囚われなくなる、という自由世界があるのでしょう。それは、彼の言う世界ではありません。彼は、以前の、そして、卑しい、俗の基準に従って、結果、偽善に走っているのです。
 
>キリストの死にあずかるバプテスマ(洗礼)を受けた人は、
>キリストと共に死に、キリストと共に葬られた
 
このように、キリストとともに死んだのです、という聖書語による説明は、正しいように見えて、誰も具体的に受け取れる理解などないのです。分かることより、分からないということを弁えるのが信仰です。神は全知、人は不全です。
 
>問題の答えは十字架です。
>主イエスの十字架はあなたやわたしのすべての罪のゆるしのためでしたが、
>それだけではありません。
>あなたやわたしはキリストと共にその十字架につけられて死んだのです。
>「死んだ」というのは極めて決定的なことです。
 
答えは十字架です、と言われて、何か新しく目覚めがあるでしょうか。キリストの十字架は、信仰者なら誰でも知っていますが、どこが答えなのでしょう。むしろ、十字架が大事なことです、と言うのと殆ど変わらないのです。分かったことにしないと気の済まない者たちは、決定的、という言葉まで使って聖書語を打ち鳴らしますが、結局、この、死んだ、生まれ変わった、よみがえった、新しく生きる、などという教理的文言を並べることしか出来ないのです。何の糧にもならないのです。
 
>イエスに対してほかの多くの人たちは
>自分の思いや考えでイエスについて言ったのですが、
>ペテロのイエスに対する信仰告白はペテロ自身の思いや考えから出たことではなく、
>天の父なる神から与えられたのですと言われたのです。
 
自分の思いや考えでイエスについていった、と書いています。でも、そこには、何の共感もなく、つまるところ、自分は神からの啓示でいった、と見栄を張っているに過ぎないのです。その証拠に、分かっているような説得力のある内容や表現など、一つも見られません。聖書を理解するのではなく、聖書語に毒された者たちは、聖書を振り回して高ぶっているだけです。
 
>信仰告白したペテロに授けると言われた「天国のかぎ」は
>この世である地上で信仰によって生きる時、
>天国の扉を開けたり、閉じたりする鍵です。
>その鍵は人からではなく、イエス自ら与えられるというのです。
>その鍵を与えるために、イエスは十字架ご自分の命をささげ、
>私たちの罪を贖い、罪の赦しを与え、神の子としてくださったのです。
 
この話は何なのでしょう。比喩にしては響くものがなく、比喩でないならば、いったい何を見て語っているのか分からないような話です。彼は、天国の扉を開けたり閉じたりする鍵、持っているのでしょうか。彼は天国の管理人なのでしょうか。人間の信仰を語っているとは思えない絵空事、ふざけないでくれと言いたい。
 
>さらに、イエスを信じる私たち自身もイエスとともに十字架につけられ、
>死んでいることを信仰によって受け容れる時、聖霊の働きによって
>新しいイエスの命に生かされるという天国の扉が開かれるという約束なのです。
 
これも聖書語を教理通りに並べているだけです。読む人は、ここを読んで、分かったような気にならないでください。彼は悦に入って陶酔し、のぼせた頭で聖書の言葉の表面だけすくって並べているだけです。表面だけの信仰で、どんどん思考と感性が低劣になってきた証拠の一つを彼は表しているだけです。
 
>十字架という天国のかぎは天の父から与えられた信仰によって生きる時
>天国の扉を開き、
>信仰告白しても、なお生まれながらの人間性である、古き人という
>肉の働きによって生きる時、閉ざされるようです。
 
信仰告白して、人間性を捨てた者が、人間離れして、犯してはならない背きの罪と、隠蔽による見かけづくりという偽善を働き、それを今も改めていない、ということをずっと私は言い続けています。彼は、古き人ではなくなったのか、否、彼は、未だに、この世の世間体に隷属して、体裁を繕うことを信仰よりも優先しています。
 
彼のブログには、記事一覧表示にはコメント数が表示されているのに、見てみるとコメントがない、という記事が多くなっています。最近の記事にはコメント欄が閉鎖されているため、私が昔の記事のコメント欄に書いたものを多いのですが、彼は、ずっと、次から次に、そのたびに、都合の悪いコメントを削除、またはコメント欄を改めて閉鎖してきたからです。都合の悪いコメントに対しては、コメント欄を、彼は、改めて、いちいち記事ごとに削除してきたのに、神の前に、少しも自分を改めることだけはしません。
 
>イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。
>だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
>肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
>あなたがたは新しく生れなければならないと、
>わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
>風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、
>それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
>霊から生れる者もみな、それと同じである」。
>(新約・ヨハネによる福音書3章5~8節)
 
ここを引用するだけで、読む人が分かると思っているのでしょうか。信用した彼は、分かっているのでしょうか。それとも、分からないから引用だけなのでしょうか。この聖句の、風のたとえ・・風、思い、音、聞く、きて、行く、知らない、・・誰か、自分は分かっていると言えるのでしょうか。
 
未だに、分からない、ということの大切さを知らないで、分かったかのように語る者たちの、聖書の言葉面だけをなぞって言い得たかのように言い張るのは、盛りのついた蛙のような、うっとうしい雑言が、聖書に表された神と人の切なる思いも福音も、損なってゆくのを感じさせるだけの、受けない大道芸に過ぎません。。
 
聖書は十字架によって、新しい命に生きることを勧めています。それは、生まれ変わって別ものになり、神の生きものとして生きることではありません。同じ人間が、価値基準の変革によって目覚め、いちばん大事な、ただ一つのものに憧れ、それを求める道を与えられたということです。何も完成はしていません。固定した平安の境地などありません。福音は、どんなに小さい身近なことからでも、私たちの信仰生活によって、行いと、祈りを通して、表されることを期待されているのです。
 
聖書語を並べただけなのに、人類で初めて真理の奥義を語ったかのように、強い断定で宣伝している者は、古き人を捨てよ、ということを勘違いして、何やら自分が、新しく神の国にでも生きているかのように、無感動の言葉の羅列によって吹聴したがりますが、実際の彼は、この世の価値に、なおも拘泥しており、いちばん大事なところで、今もなお、毎日のように、とても卑しい小細工をもって、反対意見を封殺し、コメント欄を賛成だけで偽装し、人を欺き、すべてを隠蔽したつもりで、ただ御一方、欺けない御方にも、真実の告白も悔い改めもしないで済むと思い込んで、そのうえで、背きの罪を、讃美の大仰さによって、誤魔化しているのです。それは、この地上で私が見た、最も醜い人の姿、偽善者でしかなかったのです。
 
 
(2016年12月30日、同日一部修正)
 
奥義(おうぎ)
拘泥(こうでい)
欺く(あざむく)
 
 

 

 
  偽善者の知恵
 
 
 神の知恵と人の知恵
 2016/12/27(火) 午後 3:18
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27869297.html
 
 しるしを見分ける
 2011/1/28(金) 午前 10:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/18810564.html
 
 天からのしるし
 2009/10/20(火) 午前 10:22
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/8447339.html
 
 
自分の益のために手段を選ばない者は、批判されて言い返せなかったことを、持ち前の、人を人とも思わない不感不応の無頓着によって、何度でも繰り返し言い張ってきます。この無反省無神経の厚顔を相手にするのは、非常に疲れるのですが、偽善者のまま、悔い改めないまま、救われる、という彼の主張には、私は無抵抗ではいられません。
 
それは、この記事の中の次の言葉に表れています。
「いかなる宗教も人の罪の解決をもたらすことができない」
「人は自らの罪をあがなうために、罪深い自分の命をもってあがなうことはできず」
「人の知恵を超えた神の知恵であり、神による救いの道」
 
神の一方的な救いだから、人の思慮や情感など何の意味もなく、ゆえに神に愛された自分は、何をしても、どんでん返しの救いが与えられ、誰が何と言おうと、人の共感とは一切関係なく、罪も偽善も赦されて救われる、という主張に、聖句も教理も、結び付けようとしてきます。
 
>パリサイ人とサドカイ人は
>神と人々の間に立ち、神の民の歩みが常に神との正しい関係の中を
>歩むために大切な勤めをしていたのです。
 
ここに、頼まれてもいないのに、神の人々の間に立ったつもりで、自前の超常奇跡の信仰?を広めようとする者がいます。
 
>しかし、神の民が繰り返し罪を犯し、繰り返し罪のあがないの犠牲をささげても
>神の民の罪は繰り返され、決して人の罪の問題の解決にはならず、
>また神と人との関係も、人と人との関係も正すことはできなかったのです。
 
彼の言い分からは、まるで、人を救うためには、贖いの犠牲では足らず、人の罪の問題を解決するために、神が奇跡によって人に罪なし、としなければならないかのような書きぶりです。それは、偽善と隠蔽の罪を犯した彼が、信仰?によって自らを、罪なし、という結論にしないと著しく都合が悪いからです。人を人とも思わず、罪を罪とも思わないゆえに、こういう主張を繰り返します。
 
>その結果、ついにそれはユダヤ教という宗教になり、形骸化してしまったのです。
>神はそのことによっていかなる宗教も人の罪の解決をもたらすことができないこと、
>罪によって断絶した神と人と、
>人と人との関係が正されることがないことを示されたのです。
 
ユダヤ教が形骸化してしまったから、いかなる宗教も人の罪の解決をもたらさない、と言うのでしょうか。彼がしばしば言っているところの、キリスト信仰は、キリスト教という宗教ではない、という主張を言っているようです。キリスト信仰とキリスト教、彼は、言葉を変えただけで、説明を一切していません。彼は、ここに書いているような具体性のない常套句と美辞麗句を呪文のように繰り返すだけなのです。
 
>それでは神が神の民に与えられた律法は
>無意味なものでしかなかったのかというとそうではありません。
>神の律法は神のみ前における人の罪をあらわにし、
>その罪が人を罪の奴隷とし、
>罪の結果が人のすべての苦しみと死の原因であると告げているのです。
 
罪が人を罪の奴隷とする?、だから罪を無視する、という彼の信仰観?になるようです。彼の主張は、伝統的なキリスト教とも大きく異なっています。罪は人のものです。罪の奴隷となる罪は、人が犯す罪です。彼は、人間に関心がないために、人間を無視して、罪を指摘されて、苦しむのが嫌で、いい気持ちになるように、信仰を改変してきたのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:20
あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21
その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22
しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
 (ローマ6:20―23、新約聖書)
 
>人は自らの罪をあがなうために、罪深い自分の命をもってあがなうことはできず、
>ましてや、いかなる犠牲や供え物をささげる宗教によっても
>あがなうことはできないのです。
>罪の支払う報酬はただ“罪なき神の御子の死”のみなのです。
>(新約・ローマ人への手紙6章23節)
 
「罪の支払う報酬はただ“罪なき神の御子の死”のみ」とは、どういう意味なのでしょう。この聖句23節は、人の罪の報いは死である。しかし、キリストの贖いと赦しによれば、永遠の命である、と言っているのではないのでしょうか。
 
>神は律法による罪のあがないの約束を成就するためにイエスを遣わされたのです。
>ところが神の律法のプロであるパリサイ人とサドカイ人は、
>イエスを受け容れようとせず、
>神から遣わされたイエスに天からの超自然的なしるし、証拠を要求したのです。
 
>それがパリサイ人とサドカイ人とがイエスを試み、
>神による天からのしるしを見せてもらいたいと要求したいう意味なのです。
 
「超自然的なしるし」・・まさに、彼の信条である信仰を超常の奇跡とみることに合致しているので、私は、彼を、現代のパリサイ人と呼んでいます。その彼が、パリサイ人を批判しているのは滑稽です。彼は、パリサイ人も偽善者も救われると言っていたのですから。彼はキリストを受け入れた?けれど、そのキリスト?は、彼の分身または奴隷という偶像に過ぎません。だから、人間性を無視して、彼自身が超自然を吹聴するのです。彼は、とても危険です。彼こそ、天からのしるし、すなわち、奇跡のみを信じ、自ら思考停止を訂正不能にして、それが信仰だと言い張っている者です。
 
>その要求にイエスは答えられました。
>「邪悪で不義な時代は、しるしを求める」と。
>それは自分の善悪の基準による批判と議論による正当性、
>納得を求めることを示しています。
>それがアダムとエバが善悪を知る木の実を食べた人間の罪の本質なのです。
 
邪悪で不義な彼は、恐らく彼に反対する主張を「自分の善悪の基準による批判と議論による正当性、納得を求めること」だと言っているのでしょう。今までの記事とコメントから、それに対する、神の基準は、彼の主張によると、まさに、彼の善悪の基準による絶対律となっています。そして、神の啓示なり、と、批判も議論も拒否して、正当性も、納得も、必要ないものとなっているのです。アダムとエバみたいにならないように、正しさを判断するな、納得のために考えることをするな、と言っているわけです。それが彼の信仰です。もう十分ではないでしょうか。彼は、ここにおいて、馬脚を露し、邪悪な魂胆を惜しみなく表しています。
 
>そのことがイエスを十字架につけて死に至らしめたのですが、
>ところが、その罪なき神の御子イエスの死(血)が全ての人の罪をあがない、
>すべての人に罪の赦しを与える神の律法の成就であり、救いの道だったのです。
>神の民イスラエルは救いのために与えられた律法を空しい宗教的戒めとしてしまい、
>かえってイエスを拒絶して十字架につけたのです。
>神はそのイエスの死によって約束された救いを成就されたのです。
>人の知恵を超えた神の知恵であり、神による救いの道でした。
 
救いが二千年前の十字架によって既に成就し、救われて罪のない者となった、と言いたいようです。今、罪がないかどうか、誰でも、胸に手を合わせて考えれば、否、罪はある、これからも犯すだろう、と分かるはずですが、彼は、人間も、自分も、見つめることが出来ないので、埒もなく無罪信仰をでっち上げて、自己満足によって傲慢になり、社交の世辞以外の、交流も意見交換も、考えることも、感じ取ることも、損なってしまいました。そういう彼に近づくことは、ましてや、信仰と聖書の先生として従うことは、彼と同じ無罪信仰という、人間ではなくなるような道を選択することなのです。
 
私たちは、洗礼を受けたから、キリストの罪の贖いによって、それ以後、罪なし、となったわけではありません。今でも信仰者でも罪を犯します。私たちが罪を赦されるのは、聖書の中で赦され救われた人々と同様に、神の前に、隠し事が出来ないほど、心を虚しくして、すなわち、正直以外何も持ちあわせず、罪を悔いて告白し、神に対する態度を改める、という信仰の道を与えられたからに他なりません。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:21
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
 (1コリント1:21―25、新約聖書)
 
自分の知恵によって神を認めるに至らなかった、と書いてあります。これは、人が頭と心で考えて、神はこうだと、神の意志と行為を決めつけることなど出来ない、ということを表しています。私たちは、聖書を読むことによって、また、他者の意見や信仰生活の体験を聞くことによって、その都度、完全ではないが、判断して生きてゆくしかありません。ゆえに、無罪信仰の無反省に陥ってはなりません。折に触れて、自分の心も頭も、思うところも行いも、正直に神に捧げて、赦しと癒しと救いと導きを乞うことが不可欠です。
 
それが出来なくなって罪を犯し偽善を働いて、悔い改めることも出来ず、その代わりに、自分の頭で、聖書に詭弁の解釈を加えて教理を捏造し、訂正不能に固定した者の詭弁の自己正当化に惑わされてはなりません。
 
 
(2016年12月29日、同日一部修正)
 
馬脚を露す(ばきゃくをあらわす)
埒(らち)
捏造(ねつぞう)
 
政治ブログも大変そうで・・
 http://blogs.yahoo.co.jp/eigyou111sekiyann
 
 

 

 
  利用する者される者
 
 コロサイ1:13~14ー愛する御子の支配の中に移された!
 2016/12/26(月) 午後 10:15
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27868365.html
 
 転載元:コロサイ1:13~14ー愛する御子の支配の中に移された!
 2010/12/16(木) 午後 6:09
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/26788560.html
 
 
困ったときには、恵みばかりを強調して、罪深い自分というのはキリスト以前のこと、と思わせる手口になります。それによって、自分の仕出かしたことを、それでも赦される、と主張したいのでしょう。
 
そういう者が利用しやすい記事を転載しています。以前、彼が引用した文章の中に、キリストを信じた後でも、つまり今でも、罪がある、というようなことが書いてあったと思うのですが、それは無視したのでしょうか。こういう人の言葉に対する使い捨て精神を物語っています。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
1:13
神は、わたしたちをやみの力から救い出して、
その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14
わたしたちは、この御子によってあがない、
すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
 (コロサイ1:13―14、新約聖書)
 
罪の赦しを受けている、というのが、現在進行形ではなく、現在完了形になって今は罪はなくすべて赦される、と言っている人を批判しています。
 
>エペソ6:12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、
>主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
>また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 

ここにあるように、この世を支配しているのはサタンである。生まれながらの私たちの主人はサタンで、私たちは奴隷なのだ。それでそのままでは永遠の滅びに至るしかない者である。しかし私たちの造り主の神は私たちが暗闇にとどまっていることを良しとはしないのだ。だからイエスが来たのだ。神が救いの道を備えたのだ。

 
こういう説教をすると、この世は、どこまでも敵になりますね・・。生まれながらサタンの支配だと言っています。キリストを讃えるためとはいえ、現実を無視して、この世を悪役にしています。しかも、その悪から、自分を除外するという態度が見え隠れしている、さらに、信仰者は救いのみに生きえているかのような転載元と転載者です。
 
キリストを受け入れたのは、紛れもなく、この世の罪びとたちなのです。
そして、この罪びとたちは、訂正不能の偽善者とは決定的に異なっていたのです。
 
人間理解の出来ていない者にとってのみ、このような極端な単純化が成り立つのでしょう。残念なことに、キリスト教においては、珍しいことではないのです。
 

神はイエスのいのちと引き換えに、私たちに永遠の滅びに至る道から、永遠のいのちの道にもたらされるプレゼントを用意されたのだ。それがクリスマスである。このプレゼントは誰でもが喜んで受け取ることが出来るのである。

 
誰でもが喜んで受け取ることが出来る?、誰もが、ではないでしょう?、現実にはキリスト教徒にならない人もいる、と考えるべきでしょう。・・極端な単純化のもたらすこととして、このような、全か無か、の断定があります。だから、こういう人は、往々にして、非信仰者を、軽蔑を込めて、憐れむのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者と同等の存在であることを忘れてはなりません。このことは、実に、しばしば忘れられます。わがキリスト信仰は・・、と、のぼせ上がって誇るようになってはいけません。
 

私たちキリスト者は今まで罪の奴隷であり、サタンの奴隷であったのだ。キリストから離れていた私たちはこの世にあって望みもなく、神もない人たちだったのだ。
 
そのような者を神はイエスを自分の救い主キリストとしたことによってサタンの支配から救い出されたのである。罪の奴隷から神の奴隷に戸籍が変わったのである。

 
今は違う、と豪語する響きなのです。そして、キリスト教の現実の問題などには一切触れず、問題の共有など全然する気もなく、勝手なことを言って、ひたすら、自分の信仰の正しさを、永久不滅のものとして、誇り続けるのです。伝道でも何でもない打楽器です。
 

奴隷が解放されために払う身代金を神が支払ってくれたのである。それがイエス・キリストの十字架で支払ったいのちだった。御子イエスは私たちの罪の罰を受けるために来たのだ。事実、それを成し遂げてくれたのである。

 
すべてが為し遂げられたわけではありません。まだ途中です。というより、おかしなキリスト者の思い込みによって、歪曲され、単純化され、他者の意見を聞きもせず、コメント欄を閉鎖したり、コメントを削除したりして、全く無謬の魔界とされたところからの宣伝によって伝道は妨げられているのです。
 
>だから、神はイエス・キリストを自分の主とした者を罪なき者とし、肉体の死はあるが永遠の死へのさばきから引き離されたのである。

 
キリストを主としたのなら、キリストは厳しい現実の中で伝道し、厳しい現実に生きている人々を救ったのに、どうして、現実の問題を無視して、人間から離れて、超常は素晴らしいとばかり、説教したがるのでしょう。まるで、ほめ上げる機関銃・・。讃美も、このようになってしまっては、信仰の現実離れ、人間離れとなって、愛のないもの、情感のないものになってしまいます。
 

エペソ1:7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

 

この神からの恵みを受け取った者は、新しい生き方に生きる者となるのである。なぜなら、恵みは本来、それを受けるに価しない者に対して、にも関らずの愛をもって一方的に無償で神から与えられるもののことであるからだ。

 
この部分を利用して、偽善者のまま、悔い改めなくても救われる、と主張している者を批判しています。ずっと、彼の仲間、偽善者の仲間でいるつもりなのか・・。
 

私たちはあわれみと愛の恵みによって救われている。その視点に立って日々に救いを喜び、感謝する者である。私たちには何一つ良きことがなく、また良きことが出来ない者でありながら愛され、神の聖徒とされている者だ。ねばならない、と言う強迫観念ではなく、神との関係の確かさを喜び、恵みをより確かなものとしていくことなのだ。

 
私たちは何一つ良きことがない、と言いながら、愛され、神の聖徒とされている、と神の領域を持ち出して誇っている文脈は、あなたは、救われて今は偉くなったのですか?、という疑問しか生みません。さらに、ねばならない、という強迫観念を戒めながら、具体性もなく、恵みをより確かなものとしていくことなのだ、と、漠然とした当為か理想だけを押し付けて、肯定せよ、というつもりなのでしょうか。このほうが、よほど脅迫的です。いったい何を伝えようとしているのでしょう。
 
このような、信仰の美辞麗句だけ語って、現実を語らない信仰の説教めいた記事が蔓延っています。こういう隙だらけ、穴だらけ、という空っぽ満載だから、とても利用しやすい夢物語の空約束として、信じると言えば偽善でも何をやっても救われると言う偽善者に、その本性を見抜けもせずに、転載されてしまうのでしょう。
 
 
(2016年12月28日、同日一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
 
政治ブログも大変なようで・・
 
  

 

 
  信仰の逆説
   ・・コメントから編集したもの
 
 
信仰は、信じることではない、と前に書いたことがあります。
 
キリストの教えをただ信じて守る、というのは、信仰ではないと思います。何故なら、キリストの教えは、守れないからです。キリストの教えは、守れないことも承知の上で、罪なき人はいない、ということを教えていて、ここがキリスト信仰の中心ではないか、というのが、今のところ、私の考えです。
 
キリスト教は、信じ方によって、信じることが、天と地というか、信仰のみならず反信仰へも行きやすい宗教ではないかと思っています。
 
例えば、苦しいときに思いがけない幸運によって救われた人が感謝して、これは、神の奇跡だ、と信じ込んだとき既に、神の意志と行為を決めつけているわけです。これによって、これからも、苦しいときには必ず奇跡が起こる、と信じ込む要因になるでしょう。
 
信仰は、自分に超常的な奇跡が起こると信じることではありません。奇跡が起こるかどうかは神に任されているからです。人間が讃えていい奇跡は、せいぜい、人間にも理解できる魂の奇跡だけです。魂の奇跡を理解できない者に限って超常の奇跡をほめたたえるのです。
 
 
自分の考え方が正しいかどうかは、神を思えば、分からないという結論しか出てきませんが、少なくとも、批判対象の信仰観では、私は救われない、と、これは、強く思っています。私も、信仰を表現し伝えたい、という気持ちがあるなら、黙っているわけにはいかない、ということで、私もPCに向かうのだろうと。
 
感じ方や考え方は人それぞれだということは分かりますし、私は別に同じように感じ同じように考えよ、と言っているわけではありません。理屈めいたことも書いてはおりますが、私は、本来、論理は、あまり好きではありませんし、キリスト信仰は理屈ではない、ということで、批判をする一番の動機と理由は、コメントの遣り取りの中で、批判対象があまりに「汚い」「狡い」ことする、ということで、これでキリスト者だなんて・・と思ったことです。これは、疑問を呈したり反対意見を言ったりしたときに、はじめて分かることです。おっしゃる通り、怒りが動機であり、それをエネルギーとして出来る限り集中力に変えて、批判しているつもりです。
 
ストレスが原因というのも分かるのですが、批判することのストレスという意味なら、批判しないで関わらないようにしよう、を繰り返すことのほうが、心がつぶれてゆく感じがします。ですから、使命とか、私、どこかに書いたと思いますが、神の御心に沿うているかが不明なこの世では、使命感を具体的な拠り所には出来ません。それで結局は、自分の心が、人の前でも、神の前でも、比較的、伸び伸びできるほうを選んでいるつもりです。
 
仏教のことは、勉強もしていないし、疎いのですが、ときどき少し似ている、と思うこともあります。でも、仏教の人は、どうすればよいかを求めているような印象があります。何かをやってみる気力はある、という出発点ではないかと。私は、気力もなく、おびえきった心で、どうしようもない、というところから、今でも、キリスト者のつもりなんだろうと思っています。
 
 
(2016年12月27日、同日一部修正)
 
 

 

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