永遠に改めないのか
永遠に語り継がれること
2016/12/25(日) 午前 11:38
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27865956.html
同じ話を何度も繰り返して言い逃れをすることを批判したら、彼は、同じ話を繰り返すことが大事という話を書いて、またしても自己正当化を計ろうとしています。いったい自分を何様だと思っているのだろうか・・。
同じ話でも、信仰者としての真実が込められているなら、聞く価値を持つこともあるでしょう。しかし、罪を偽善と偽装によって自らを飾り、悔いることもなく、改めることもない者の話を繰り返し聞かされるのは、災難以外の何物でもありません。
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うっかり同じ場所で同じ話を短い間隔でしていることが記録にあり恥ずかしくなります。
しかし考えてみれば、福音はイエス・キリストの十字架と復活に焦点をしぼり、
手をかえ品をかえて2000年間、同じ話を世界中でしているのです。
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この引用部分は、真実として受け取ることが出来ます。
>同じ話を頼むのは、忘れないように、もう一度よく聴きこんで心に刻んでおきたい話。
>また一度聞いただけで、生涯忘れられない話もあります。
>感動して聞いた話は忘れがたく、感動をもって語りつがれ、また人々に感動を与えるのです。
彼は、自分の説教が、何度も聞いて心に刻んでおきたい話、生涯忘れられない話、感動をもって語り継がれ、人々に感動を与える話だ、と言うのでしょうか。彼は、福音と十字架の話をしたと言えるのでしょうか。大事なことを隠して、重大な罪を隠して、いい子ぶる話が・・でしょうか。
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今日はクリスマス!
父なる神様、私を愛してイエスさまをお遣わし下さりくださりありがとうございます。
イエスさま私のために死ぬために生まれてくださりありがとうございます!
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この世に死ぬために生まれてきたものはひとりもいません。
でも、生まれたことはお祝いしても、死ぬと悲しみ、希望も慰めもありません。
使えば尽きてしまうものを追い求め、飢え渇く心を満たそうとむなしくさまよい、
だれもが自分がどこからきてどこに行くのか見失っています。
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それはわたしたちが生ける神であるあなたをを見失っているからだということを教えてくださり、
イエスさまの誕生と生涯と死とよみがえりによって、見失っている生ける神の心と御姿を証しし、
私たちの姿をも回復してくださりありがとうございます。
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彼は、悟らぬ者?をぼろくそに言いながら、キリストの生誕を、神を、誉めまくります。こうしておけば少しは気が済むのでしょうか。偽善をひた隠しにしたままで、神を欺こうとしている自分を隠して、誰も知らないから大丈夫と思えるのでしょうか。
まるで、罪滅ぼしでもするかのように、感謝し讃美しまくるのです。しかし、感謝と讃美で、罪は相殺されるようなものではありません。キリスト者なら、そのような欺瞞に満ちたことなど、出来ないのです。
(ヨハネによる福音書、口語訳)
20:15
イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
20:17
イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
20:18
マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
(ヨハネ20:15―18、新約聖書)
罪の女とされたマグダラのマリヤに、復活と信仰のしるしを宣べ伝えるように、という、復活のキリストの話です。ここを解説抜きで引用しているのは、自分も自分が主に会ったことを伝えていると言いたいのでしょうか。ひたすら、偽善と隠蔽の欺きの心を、讃美で糊塗して偽装を重ねながら、それでも、人は彼の説教をありがたがって、騙されてくれると思っているのでしょうか。そこまで他者を軽く見ているのでしょうか。
彼は、遅くとも5年前から、さらに私が改めて事実を根拠に追及した2年前からは、さらに悪質に偽善と隠蔽を続けています。それによって、元牧師という自尊を守れると思っているのです。やっていることの実際は、いかなる矜持にも値しない畜生の所業なのです。信じているから悔い改めなくても救われるという彼の信条は、もはや、宗教でも信仰でもなく、単に自分の都合を空しく言い張っているに過ぎないのです。
私は何度も、悔い改めが必要だということを書いてきました。彼は、あざ笑うかのように、無視し続けています。返ってきたのは、侮辱とブロックと削除だけでした。今は、何も返さず、批判者は、この地上にいないかのように、自己満足の悦に入って、何の真実も見つからないような彼だけの空想の世界を歩いています。社交の処世に騙された者たちだけに社交の笑みを送って、言葉の表面だけで、クリスマスと聖礼典を祝い、まるで讃美という神への社交?が通用するかのように、真実とも現実とも別の迷路を、実は、堂々巡りばかり繰り返しているのです。
神に隠れて、汚いやり口で、神と人を欺く者は、その言葉は偽善のために曲がり、その目は欺きのために濁り、その足は、心と同じように、闇を歩くしかなくなっているのです。隠した罪が白日に晒されないように、讃美で覆い隠して、日夜、そのことから頭も心も離れられない日々を過ごすのでしょう。彼は、いったい、明け暮れのどこを取って、本当の神からの平安だと言い張っているのでしょう。
(2016年12月26日、同日一部修正)
矜持(きょうじ)≒プライド