ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年12月

 
  永遠に改めないのか
 
 永遠に語り継がれること
 2016/12/25(日) 午前 11:38
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27865956.html
 
 
同じ話を何度も繰り返して言い逃れをすることを批判したら、彼は、同じ話を繰り返すことが大事という話を書いて、またしても自己正当化を計ろうとしています。いったい自分を何様だと思っているのだろうか・・。
 
同じ話でも、信仰者としての真実が込められているなら、聞く価値を持つこともあるでしょう。しかし、罪を偽善と偽装によって自らを飾り、悔いることもなく、改めることもない者の話を繰り返し聞かされるのは、災難以外の何物でもありません。
 

うっかり同じ場所で同じ話を短い間隔でしていることが記録にあり恥ずかしくなります。
しかし考えてみれば、福音はイエス・キリストの十字架と復活に焦点をしぼり、
手をかえ品をかえて2000年間、同じ話を世界中でしているのです。

 
この引用部分は、真実として受け取ることが出来ます。
  
>同じ話を頼むのは、忘れないように、もう一度よく聴きこんで心に刻んでおきたい話。
 
>また一度聞いただけで、生涯忘れられない話もあります。
 
>感動して聞いた話は忘れがたく、感動をもって語りつがれ、また人々に感動を与えるのです。
 
彼は、自分の説教が、何度も聞いて心に刻んでおきたい話、生涯忘れられない話、感動をもって語り継がれ、人々に感動を与える話だ、と言うのでしょうか。彼は、福音と十字架の話をしたと言えるのでしょうか。大事なことを隠して、重大な罪を隠して、いい子ぶる話が・・でしょうか。
 

今日はクリスマス!
父なる神様、私を愛してイエスさまをお遣わし下さりくださりありがとうございます。
イエスさま私のために死ぬために生まれてくださりありがとうございます!

 

この世に死ぬために生まれてきたものはひとりもいません。
でも、生まれたことはお祝いしても、死ぬと悲しみ、希望も慰めもありません。
使えば尽きてしまうものを追い求め、飢え渇く心を満たそうとむなしくさまよい、
だれもが自分がどこからきてどこに行くのか見失っています。

 

それはわたしたちが生ける神であるあなたをを見失っているからだということを教えてくださり、
イエスさまの誕生と生涯と死とよみがえりによって、見失っている生ける神の心と御姿を証しし、
私たちの姿をも回復してくださりありがとうございます。

 
彼は、悟らぬ者?をぼろくそに言いながら、キリストの生誕を、神を、誉めまくります。こうしておけば少しは気が済むのでしょうか。偽善をひた隠しにしたままで、神を欺こうとしている自分を隠して、誰も知らないから大丈夫と思えるのでしょうか。
 
まるで、罪滅ぼしでもするかのように、感謝し讃美しまくるのです。しかし、感謝と讃美で、罪は相殺されるようなものではありません。キリスト者なら、そのような欺瞞に満ちたことなど、出来ないのです。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:15
イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
20:17
イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
20:18
マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
 (ヨハネ20:15―18、新約聖書)
 
罪の女とされたマグダラのマリヤに、復活と信仰のしるしを宣べ伝えるように、という、復活のキリストの話です。ここを解説抜きで引用しているのは、自分も自分が主に会ったことを伝えていると言いたいのでしょうか。ひたすら、偽善と隠蔽の欺きの心を、讃美で糊塗して偽装を重ねながら、それでも、人は彼の説教をありがたがって、騙されてくれると思っているのでしょうか。そこまで他者を軽く見ているのでしょうか。
 
彼は、遅くとも5年前から、さらに私が改めて事実を根拠に追及した2年前からは、さらに悪質に偽善と隠蔽を続けています。それによって、元牧師という自尊を守れると思っているのです。やっていることの実際は、いかなる矜持にも値しない畜生の所業なのです。信じているから悔い改めなくても救われるという彼の信条は、もはや、宗教でも信仰でもなく、単に自分の都合を空しく言い張っているに過ぎないのです。
 
私は何度も、悔い改めが必要だということを書いてきました。彼は、あざ笑うかのように、無視し続けています。返ってきたのは、侮辱とブロックと削除だけでした。今は、何も返さず、批判者は、この地上にいないかのように、自己満足の悦に入って、何の真実も見つからないような彼だけの空想の世界を歩いています。社交の処世に騙された者たちだけに社交の笑みを送って、言葉の表面だけで、クリスマスと聖礼典を祝い、まるで讃美という神への社交?が通用するかのように、真実とも現実とも別の迷路を、実は、堂々巡りばかり繰り返しているのです。
 
神に隠れて、汚いやり口で、神と人を欺く者は、その言葉は偽善のために曲がり、その目は欺きのために濁り、その足は、心と同じように、闇を歩くしかなくなっているのです。隠した罪が白日に晒されないように、讃美で覆い隠して、日夜、そのことから頭も心も離れられない日々を過ごすのでしょう。彼は、いったい、明け暮れのどこを取って、本当の神からの平安だと言い張っているのでしょう。
 
 
(2016年12月26日、同日一部修正)
 
矜持(きょうじ)≒プライド
 
 

 

 
  神はいつも味方?
 
 
批判されて、反論が出来ないのは、
相手の言うことを否定できなかったということです。
にもかかわらず、似たようなことを言い続けるというのは、
よほどの異常な硬さを持った優越意識がないと出来ないことです。
 
相手に言葉で返せなくなって、
相手の言葉を封殺した上で、
以前と同じことを言い続けている人がいます。
 
相手に言い返せないので、
自分が、相手のいないところで、言い続けようとするのでしょう。
そのために、相手の意見を封殺するのです。
 
話す前に結論が出ていて、
話す前に、正しいのは、自分のほうだと決まっている、
という前提を持つ人が、神を盾にして勝手放題言うのですが、
それは、結局、神は自分の味方、相手は神の敵、
ゆえに、どんなに扱ってもいい、という決めつけになります。
 
そこに強制力があれば、
これこそ、裁いているということなのです。
 
そういう人に限って
批判者のことを、裁いてはいけないと
聖書を引用してくるのです
 
聖書で言うなら、
自分の傲慢による自己正当化と自己満足は
まさに聖書のパリサイ人と同じです。
 
そういう人はクリスマスを祝う前に、
自らが犯した重大な罪について
告白してそれを認め、
悔い改めの祈りによって
主に赦しを乞わなければなりません。
主の誕生を祝う前に。
 
そういう人の、
自分の言うことは聖霊による啓示だ、
神の啓示だから議論不要だ、
だから人と共感する必要はない、
だから逆らう者の意見など意に会する必要はない、
という自己正当化の言動が根拠となるのに、
 
主の生誕のクリスマスに
これらのような信仰を
主の前に捧げるつもりなのでしょうか。
 
感謝と讃美を言いながら
主よ、あなたはいつでも私だけを守るんです
とでも祈るつもりでしょうか。
 
 
神がいつでも自分の味方と信じることは非常に危険です。
 
自分が神の御心を語っているつもりになると
自分に逆らう者は神の敵となり
いかなる手段で退けても正義ということになるからです。
 
また考えれば、味方だからと
神が奇跡を起こしてでも特定の人を守るということが
そんなに一生を通じて何度もあることでしょうか。
 
さらに、神がいつでも自分の味方と信じることは、
他者を、軽視し、無視し、侮辱することにつながります。
 
このように節操もなく神を,
依怙贔屓する神?に変えてしまうような
信仰を重大な罪に変えてしまうような信仰?の特徴は
懲らしめる神を認めないことです。
戒める神を信じないで守り神だけを信じて、
平安のうちに救われていると、
いい気持ちになっていることです。
 
それは、
罪を認めて悔い改めの祈りによって赦しを求める
という信仰の姿勢に、逆行することです。
 
このような有り様は、一時的には信仰者に稀ならずあることですが、
悔い改めることをしないほどの背信にまで至ってしまうのは、
特に、神を熱心に信じているつもりの人に多いのです。
 
 
(2016年12月25日)
 
依怙贔屓(えこひいき)
 
 

 

 
  詭弁教室(5)
    ・・いのちをむさぼる者
 
 神の命と肉の命の違い
 2016/12/24(土) 午後 10:12
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27865192.html
 
 
今回も、悔い改めなくても救われるのだ、という聖書の曲解と詭弁です。毎度毎度、ひどい詭弁です。やはり、クリスマスだからといって、家族の不幸があるからといって、信仰の文章を社交の世辞に替えることは出来ないと思います。リンクも付けることにします。それほど、あまりにも、ひどい詭弁を並べています。
 

聖書には理想の教えが書かれていて、主を信じる人たちは
その理想に出来るだけ近づく努力をしている人たちだと思っている人たちがいます。
ですから、やはり問題はまだまだ自分の努力が足りないのではないか。
やはり自分の努力次第なのだ、と思う人たちが少なくありません。
わたし自身も長い間、そのように思ってきたところがあります。
そうなると、理想の教えと思っているわけですから、
聖書を読むことも少しおっくうになってきます。

 
理想でなければ守れるはずですが、実際には守れません。では理想かというと、少なくとも、キリストの教えは、守れる者が一人もいないことをもって、罪なき者が一人もいない、ということを教えています。
 
そのことが教えなのであって、守るための教えではないと思います。つまり信仰によって罪を赦され、救われるのですが、ただ、罪を認めず、キリスト者としての体裁だけを偽装し、神の前に偽る者は、罪人ではなく偽善者であり、パリサイ人と同じであり、キリストを殺した者たちと同じであり、行ってしまえ、と言われるだけなのです。
 
何故なら、信じると言ったら、あとは、何をしても救われることになります。それは、あり得ないです。罪人が赦され、さらに、偽善者も赦されるなら、何のために主に選ばれたか分からなくなります。
 
本気かどうか、また、いつまでも本気かどうか、などの問題もあります。神はそれを見抜いていても、この人はどうこう・・と教えてくれるわけではなく、人には分からないことなので、言動から矛盾かどうかを見ることにもなります。裁くのは、神です。それは、恐らく、有無を言わせない神の強制力でしょう。
 
キリスト者としての節操は、あります。それが、神の御心に適うような立派な働きが求められるということではない。神の前に何も誇るものを持たないこと、すなわち、ただ信仰者であれ、ということだけなのです。
 

ローマ7:18-20
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、
善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。
なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、
わたしの内に宿っている罪である。(口語訳)

 
>与えられている神のいのちに生きずに、別のいのちで生きようとしている、
>そこに問題があることに、パウロ自身も気づいていました。
 
それに全く気づかず、よく見られたいという欲を、信仰の善に見せかけている者がいるのです。パウロは気づき、キリスト者も気づくことを、気づかないふりをして、偽善を働く者は、なんとか、罪も偽善も悔い改めなくても救われる、という結論を引き出そうと、聖書を悪用し、都合の良い聖句の言葉を利用して、自己正当化を謀ります。
 
>「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
>いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、
>当然の支払いとして認められる
 
恩恵としてではなく、当然の支払いとして、認められる、という聖なる御方の慈愛を、書いてあるから、当然なのだと、人間の側が、そうなんです、とそのまま喜んでいいのでしょうか。「弱さを誇る」と同じようなことです、誇ってはいけません。
 
さらには、無条件の無反省のまま、罪を赦され救われる、という、詭弁の、さらなる詭弁によって、言い張っていいものでしょうか・・否です。ゆえに、あからさまに偽善によって背くなら、受ける報いはどうでしょう。これも当然の支払いなのですが・・。
 
>しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、
>その信仰が義と認められるのである。
>ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、
>次のように言っている、
>「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、/さいわいである。
 >罪を主に認められない人は、さいわいである」。
>(新約・ローマ人への手紙4章2~8節)
 
不信心、不信仰と、偽善による背きは違います。背きは、罪を犯し、偽善を働きながら、自らを罪なき者のように振る舞うことです。これは、神に直接背く最も重い罪です。詭弁に騙されないでください。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:1
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。
10:2
わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。
10:3
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
10:4
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
 (ローマ10:1―4、新約聖書)
 
救われるのは、律法を守るからではない、という話を持ち出します。そのことを、働きによらない救いと絡めて、やはり、罪を悔い改める必要はない、という方向に持っていこうとします。これまでの記事と合わせて、暗示する狙いのようです。ここまで、節操も分別もない信仰?は、今のキリスト者の中でも珍しいのですが、その報いを与えるのは、神以外にはいません。
 
私たちが、神によって救われるために、立派な働きは必要ありませんし、律法を守ることにこだわる必要もありません。しかし、信仰者であり続けるために、節操として弁えるべきことは、やはり、あるのです。彼を見ていて、それをつくづく感じます。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:5
モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。
10:6
しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。
10:7
また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。
10:8
では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
10:9
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
 (ローマ10:5―10、新約聖書)
 
私は、この地上で、信仰とは正反対の方向を主張し、それを、あたかも、キリスト信仰であるかのように、広めようとしている者を批判しています。どこがおかしいかを指摘しています。私たちは、天国についても地獄についても、知りません。天国に上るか地獄に下るかを決めるのは、神のみの仕事です。それを裁きといいます。
 
「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とあるように、信仰のみによって救われる、ということです。救われるためには、心に信じること、これは、いろいろな考え方があるでしょうが、口で告白することとは、罪びとであることを告白すること、そして、神への態度をその都度に改めること、すなわち、悔い改めることです。
 
それを、すっ飛んだ詭弁によって、信じるといったら、あとは反省も、悔い改めも必要ない、信じるといっただけで、あとは自動的に救われる、と言い張る者を、そうですね、と認めることは出来ません。その者が、好きなように言い広めるのに、何もせず、これも神の御心だから、などと、神の意志と行為を決めつけて、放置する理由にすることは出来ません。彼の記事を見ると、いつも、そう思います。
 
 
(2016年12月25日、同日一部修正)
 
 

 

 
  なぜ聖書を読むのか
 
 
批判を控えることは、やはり出来そうにありません。読めば、沸々とこみ上げるものがあって、望ましいことではなくても、批判的なことを書かないではいられなくなることがあります。今回、リンクは貼りませんが、それも、どうなるか分かりません。
 
>「なぜ聖書を読むのか?」と問われるなら、
>「そこに真理を見出すから」と答えるでありましょう。
>一方、「なぜ聖書を読まないのか?」と問われた時も、
>「実は、真理に遭遇するのが怖いから」となるのではないでしょうか。
 
なぜ聖書を読むのかと問われるなら、
私は、キリストに興味があるから、あるいは、
キリストを忘れられないから、と答えるでしょう。
「そこに真理を見出すから」などと言う人は問われます。
 
では、今、真理を得ていると言えるのか、
高齢の牧師は、真理を得ているのか、
なぜ読めば真理を見出すなどと大仰なことを言うのか。
 
真理は神であります。
聖書を読んで得られるのは、真理ではなく、
人間として生きるための真実の糧またはヒントであります。
 
聖書は、人間が読んで感じて
考えるための教えと物語に溢れているのです。
 
上の引用だけでなく、信仰者に稀ならず見られるのは、
神の偉大さの勢いに乗って高慢になること。
神がなさることなのに、ありがたがる勢いで、
誇っているかのようです。誰をかと言えば、自分をです。
 
>ヘブライ4:12に「神の言葉は生きており、
>力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、
>関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
>心の思いや考えを見分けることができる」とあります。
  
>確かに、聖書の言葉に向き合うことは
>自分の内面を明るみに出される「恐れ」に通じるものがあるのです。
 
自分の内面を明るみに出されることは必要です。というより、信仰には不可欠なことであり、恵みでもあります。いったい、聖書を前に、どんな秘密を守りたいのでしょうか。
 
>しかし、この「恐れ」の中にこそ
>「恐れることはない」との神の恵みが置かれているのです。
 
神が「恐れることはない」と言われることのほうが特殊な場合だと思います。
「恐れ」こそ、神への恐れに結び付く導きかもしれないのです。
 
>「聖書を読まない」人々は自分の心を閉ざして
>「神の恵み」を遠ざけてしまっているとも言えましょう。
 
聖書を読んで、自分の言いたいことだけを言うために、人の意見を聞かない人こそ、自分の心を閉ざして、神の恵みを遠ざけてしまっていると言えるでしょう。
 
>神は、ご自身の言葉に聴き従うことを条件に、その人を通して歴史を動かされます。
 
>神の歴史の実現に与るための条件は、只一つ、
>自我を捨て去り、神の言葉を優先する生き方、
>即ち「キリスト・イエスの僕(奴隷の意)」
>(ローマ1:1)として生きることではないでしょうか。
 
自我の欲求のために、神の言葉よりも、この世の益を優先する生き方、つまり、この世の奴隷として、神にキリストに仕えることを、疎かにする者もいます。
 
>何故なら神は御言葉に聴従する人を捜し出し、
>その人にご自身の歴史を託しておられるからです。
 
神が人に、神の歴史を託すということはないと思います。人が努力して左右できるのは、高々、人の歴史であり、それが重要なのです。ここにも、神の偉大さを表そうとして、自らを高めている人の姿があります。いちばん大事な、信仰の節操というものを失ってゆく方向です。こういう発言こそが表わしているのです。神は完全で間違いを犯さず、人は不全で間違いばかり犯している存在であるということ・・、、その自覚がないところには、いつでも、いつまでも、信仰を損なう高ぶりはついてきます。
 
 
(2016年12月24日)
 
 

 

 
  戸惑いと信仰
 
 
>もし人間が出来ることの範囲のことしか出来ない存在は果たして神であろうか。
>そんな神を私たちは必要としないであろう。
 
キリスト信仰の神は全知全能です。それだけで十分なのです。なのに、なぜ、神の品定めをする必要があるでしょう。さらに、なぜ、自分の言葉で表し、神の品定めのやり方をご披露しようとするのでしょう。また、私は、むしろ、聖書を読んで、超常の存在である神が、人間の感じること考えること行うことに答えてくださることのほうが、人間にとって、驚くべき天恵だろうと思っています。
 
>神は天地万物の創造者である。
>「神にとって不可能なことは一つもありません。」
>と言われる通りの存在なのである。
>神は私たちの人知を超えたお方である。
>ゆえにまずそのことに「アーメン!その通りです。」と認めようではないか。
  
キリスト信仰の神は全知全能です。それだけで十分なのです。同義の言葉を並べて、アーメンと認めようではないか、という芝居がかった言い回し、こんなことを言って、聞いた人が、アーメンという気になると思うのでしょうか。ここに表れているのは、前にも言った、神の偉大さに高ぶっている作者の姿だけなのです。なぜ、神の高みのように、高ぶるのでしょう。作者が高ぶらなくても、神は至高の存在です。私たちは、へりくだることだけ身につければよいのです。それを忘れている人が、または、学んでいない人が、強く大きく言わなければならないと、口だけ大きくなるのです。
 
>そしてこのことはマリヤ一人の出来事ではなく、
>いま私たち一人ひとりの出来事なのである。
>神は私たち一人ひとりに計画されたものがあるのだ。
>それは私たちにはいま分からないことなのであるが、
>分からないままに受け入れていくのだ。
>神は最初からこのようになると約束されて、実現してくださった。
 
作者は、マリヤと同じような、信じられない奇跡を待っているのでしょうか。それが、約束されているといいたいのでしょうか。こういう人よりは、祈りに明け暮れて、一生、奇跡と呼ばれるようなことを本人は経験せずに死んでゆく人間の命のほうが、よっぽど、尊いと思います。大仰にもほどがある・・。高ぶりは、自己の尊大さを伴って、思い上がりになる、という途中だろうか。
 
>そこに神の働きが起こる。それを私たちは待ち望みつつ、歩みを続けていくのだ。
>恵みはどこまでも一方的な出来事、もう既にそうなっている。
>イエス・キリストが私たちと共にいてくださることが喜びであり、感謝なのである。
 
「待ち望みつつ、歩みを続けていく」というのは正しいと思います。ではなぜ、「既にそうなっている」などと書くのでしょうか。望むだけだと、信仰として、物足りないとでも思うのでしょうか。3行目のように、キリストという永遠の同伴者がいてくださることが希望なのです。
 
>その神の恵みは誰であっても差別なく差し出されている。
>ただそれを知るか、聞くかに関わっていることなのである。
 
永遠の同伴者であるキリスト、この御方を聖書で読むか、説教で聞くか、というところから、キリストに興味を持ち、それが、生涯の同伴者として、救い主として希望になるか、にかかっているのです。神の恵みを直接知るか聞く、と言っているような言い回しは、見栄を張っているようで、頼りない信仰を糊塗するかのように、これも大仰な直接体験を暗示する言い方になっています。キリストを知る機会は、いろんなメディアによって、殆どの人に与えられている、ということです。
 
>私たちがこの良き知らせに信頼する時、
>人の歩みに何かが変化し始めることは確かなことである。
 
確かに変化が起きることは、多くの信仰者が経験していることです。神の絶対が、人の相対化、そして、人の価値基準の相対化に向かうでしょう。そして、人の信仰の相対化に向かうのが、キリスト信仰です。
 
そこで、神に近づこうとするか、神の民として、よりよい人間を目指すかによって、大きく分かれます。前者は、近づいたから一般の人よりは神を知っている、という思い込みに向かう危険があります。
 
>主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。
 
主のどの言葉でしょうか。あるいは、主が信仰者に直接語るというのでしょうか。曖昧なことを、必ず実現すると具体を装って語るのは、いつの日も、人の信仰の悪い癖です。勝手な思い込みが、必ず実現すると信じ切っている人もいるのです。
 
真偽が明らかになっていないことを思い込み信じ切って、悟って平安のうちに守られて、一生、戸惑うことなく生きられると、その後の学習も成長もおろそかにしている人もいます。一生平安?・・あり得ないです。戸惑い、迷い、考え、思い煩い、思い煩うことをやめ、進んで、ときに転び、また立ち直り、立ち止まり、また進み、血と汗と涙を、飲みながら、振りながら、生きてゆく人に、祈りという恵みの具体が示されるでしょう。動じない安心立命が欲しくて高ぶり、じれったくなって、安穏と無思考、という、代理品を作ってしまうのが人間の罪です。祈りの信仰には、代理品はありません。
 
 
(2016年12月23日、同日一部修正)
 
 

 

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