ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年01月

 
  上に投げて下を潰す者
 
 上に投げる。(2012.1.2)
 2017/1/25(水) 午前 11:17
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27918315.html
 
 上に投げる
 2012/1/2(月) 午前 11:33
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21949753.html
 
 
「上に投げる」とは、自分の手に負えないことを神に任せること、「神さまがこれから、どうされるか楽しみ」とは、これから神がどう導くか、導かれる自分にとって楽しみ、という意味でしょうか。いずれも、思い煩いは神に任せよ、神が導き助ける、という話ですが、
 
>「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と、ペトロが言ったとき、
>彼は「任せられなかった自分」を恥じていた(第1ペトロ5・7)。
 
 (ペテロの第一の手紙、口語訳)
5:6だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 5:7神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
 (ペテロ5:6―7、新約聖書)
 
自らを低くする人にとって、の話です。思い煩いとは、考えないことではありません。考えて疲れて、わずらっているという段階です。最初から、何もしなくても、神が何とかしてくれる、という思い込んでいる人は、さすがに、聖書の時代でも、いなかったのでしょう。これで、十分通じるのですが、彼、シャローム氏は、なおも自説の、悔い改めないまま赦される≒何でもしたい放題、という信仰?によって自己顕示欲を満足させたいのでしょうか。書けば書くほど、詭弁が繰り返され、発言が幼稚なものになってゆくようです。
 
ペテロが手紙を書いたとき、恥じていたと解釈しているのは、続く次の箇所ということで、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
14:26
 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27
しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
14:28
するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
14:29
イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
14:30
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
14:31
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
14:32
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
14:33
舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
 (マタイ14:26―33、新約聖書)
 
水の上を歩く、という奇跡の話です。このようなことを信じなければ救われないなら、この世は、シャローム氏のような奇跡信仰者だけになるでしょう。そして、上に書いたように、何をしても無罪という信仰?ばかりになり、この世は、地獄と化するのです。
 
ペテロは、信仰の薄い者よ、と、キリストに言われます。しかし、キリストは、人間らしく欠点を持つ信仰の薄いペテロを、決して見捨てず、最後まで、あとを託すほどに慈しんだのです。
 
>ペトロが「主よ、もし、あなたでしたら、水の上を、あなたのもとへ行けるよう、
>わたしに命じてください」とお願いする。
>しかし、この「もし」(アイ)がよくなかった。半分信じ、半分信じていない。
>こんなものは信仰ではない。だから彼は水に沈んだ(マタイ14章)。
 
まるで、ペテロは信仰が薄かったので溺れかけた、信仰とは、どんなに奇妙なことでも疑わないことだ、ペテロのようにならないことが大事だ、と教えているような記事です。ペテロはキリストに対して低くあるしかなかったが、まさに、その低さゆえに、キリストはペテロを慈しみました。ここが大事だと思います。・・水上歩行の奇跡話で、信仰が薄いから溺れたというのを、今の私たちの信仰として語ったつもりでいるなら、かなり胡散臭いので、鵜呑みは禁物です。
 
確かに、神以外のものを、恐れるな、ということは確かですが、それは、キリストがおられるときです。今の時代、キリストを唱えていても、彼のような、愛とも希望とも呼べない自分のための無罪信仰を持っている者もいます。彼の記事を読むたびに、キリスト信仰を取り巻く世界の暗澹たることを思います。キリストが肉体を持っておられた時代とは違います。
 
忘れてはいけません。キリストに救われた人たちは、厚い信仰など持ってはいなかったのです。ただ、神の前に、自分を低くした人たちだったということです。水の上を歩く信仰より、そのことのほうが大事なのです。人間を考えない超常奇跡信仰の悟り顔に惑わされてはいけません。
 
彼、シャローム氏は、奇跡信仰者なので、こういう話が大好きで、しかも、ペテロは信仰が薄かったので沈みかけた、ということを、信徒を従わせるために、言いそうな人です。そんなに奇跡が好きなら、これからは、水の上を歩いて信徒に見せればいのです。物や肉体の奇跡を伝えて気持ちよくなることは、キリスト信仰とは関係ありません。大事なことは魂の奇跡です。
 
自らの訂正不能の独善教理の奇跡信仰で、いつまで神とキリストと聖霊をけがしたら気が済むのでしょう。いつまでキリスト者を惑わしたら気が済むのでしょう。彼の教理?は、すでに地獄を招く危険極まりないものであることを私は書きました。彼は、私の記事をコピペしたコメントを削除するだけで、まともな反論一つ返せないままです。言い返せないことを、人間について考えるでもなく、神?の絶対を盾にして、問答無用に、言い張っているだけなのです。
 
>さてペトロが「お任せ」と言った言葉は、
>「上に」(エピ)「投げる」(リプトオ)が原意だ。
>だから「任せる」とは「放り投げる」ことだ。
 
シャローム氏は、そんなに奇跡が恋しいなら、罪を悔い改めもしないキリスト信仰?なら、グダグダ詭弁を弄しないで、いっそ、水の上に、自分を放り投げたらいいのです。
 
>よく弱い…ほど良く・・・と言われますが、人間的にはそうですが、
>主への信頼と明け渡しによって与えられる支えの力、平安を改めて体験できました。
>なお、神さまがこれから、どうされるか楽しみです。
 
家族を引き合いに出して、このようなことで、彼は、自分が救われることを確信していきたいのでしょう。これから、これを奇跡として、宣伝することでしょう。神の意志と行為を決めつけることは、キリスト信仰においては、禁忌と言ってもよいくらい、罪深いことだと思います。彼は、治療がうまくいったことも、聖書の登場人物に起こった奇跡と同様に、また、自分がいかに聖書に忠実であるかを顕示するために、奇跡だ恵みだと、言ってくるようです。
 
彼は、文句を言わせないために、不幸さえも利用する、という危惧をいだきます。そう思いたくなるような、彼、シャローム氏の異常な言説と行動があるからです。手術が無事終わったことを神に感謝する、というキリスト者の一般的な気持ちは分かります。しかし、彼のような人の場合、幸と不幸の、ものすごい因縁付けが始まりそうで、悲しみを、悲しみとして、悲しめない人のような気がして、かなり怖い気がします。
 
もう一度、書いておきます。キリストに救われた人たちは、厚い信仰など持ってはいなかったのです。ただ、神の前に、自分を低くするしかなかった人たちだったということです。水の上を歩くことより、このことのほうが大事なのです。
 
 
(2017年01月26日、同日一部修正)
 
潰す(つぶす)
胡散臭い(うさんくさい)
暗澹(あんたん)
弄する(ろうする)、弄る(いじる)、虐げる(しいたげる)
 
 

 

 
  人の世界と神
 
 
私たちはこの地上に生きているから
私たちは神の世界を見ていないし
私たちは神の世界を終末まで見ることはないだろう
この地上で私たちは
自然の情景と不全の人を見るだけである
 
神が永遠から永遠まで存在しているとしても
人が人の必然によって神を必要として求めなければ
人の世界に信仰は生まれないということ
 
つまり神の真理がどう働くのであれ
また奇跡を起こせる神が
人に対して奇跡を起こし
その人を働かせたとしても
私たちはその神を見るのではなく
その人を見るに過ぎないから
その人の言動によって
自分を含めた人に何が起こるかだけが問題である
 
つまり人の世界では
人がいて
人が求める神を
人が認めて信じるということ
 
そうさせている神が元々いるという考えは
神を信じた者だけがするということ
 
したがって
人についての考えなしに
例えば人が嫌いで
神?を信じるなら
それなりの
人嫌いの神?への信仰しか生まれないということ
 
人が悪が好きなら
悪を求めよという神?を
人が欲が好きなら
欲を求めよという神?を
人が自分だけが好きなら
自分だけを愛してくれる神?を
人が何かを破滅させたいなら
破滅させる神?を信じるだろう
 
したがって
神について考えることは
人について考えることなしには
ありえないということ
 
でないと
とんでもない者に
その者にとってだけ都合の良い神?を
押し付けられることになる
 
命を大切にしたい思いから
人について考えて
自由・平等・公正そして愛を求める人がいたから
愛と赦しの神への信仰にたどりついて
 
自分の愛が神の愛ではないことを承知の上で
神を待ち望み愛する人々は
今も愛の神を信じているのだろう
 

 
人間の共感も共有も求めない者たちが
共感など必要のない神?を信じている
 
罪と悔い改めなど考えたくなくて
安楽だけを求める者たちが
罪は悔い改めなくてもそのまま赦して
好きなだけ義を与える神?を宣伝している
 
※ 
 
一応、念のために、「神?」は、私の信じる神ではないということです。私の信じる神は、聖書によって表された神であります。そこには当然、私の解釈が入りますが、解釈を絶対化せず、誰かが、私を説得して、その説得力によって、私が納得したら、私は、自分の解釈を改めるつもりでいます。
 
信仰は、人間性の豊かな人が求めるだけではなく、人間性の乏しさの自覚から信仰を求める、ということもあります。上に書いた中の悪い例に自分が当てはまるものがあるのではないか、という思いから、信仰を考える必要をずっと感じていて、書いてきました。
 
信仰は、人間を超えることではありません。自分が人間として優れていることを自慢することでもありません。信仰は、今の自分がどうであっても、神を信じて、人間らしさを求めることであります。
 
 
(2017年01月25日、同日一部修正)
 
  

 

 
  荒んだ偽善の祭壇
 
 荒野で築かれる心の祭壇
 2017/1/23(月) 午後 2:53
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27915126.html
 
 神の道 人の道
 2016/8/5(金) 午前 9:49
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27620437.html
 
 神の祭壇 人の祭壇
 2012/6/12(火) 午前 10:03
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22933438.html
 
 
彼は、悔い改める必要はないと言い、電動自転車に乗るように軽く務めを果たせると言い、今日も昨日も都合の悪いコメントをコメント欄ごと削除して批判はないという体裁を偽装し、恐ろしいほど、露骨に神に背いていながら、なおも、人々に信仰と従順を説こうとするのでしょうか。何も分かっていないのに、分からないと言えない人です。背いているのに、他者には従順を説くのです。
 
彼の信仰は、悔い改めを必要としない信仰で、そんな信仰は聖書のどこにも書いてない偶像信仰なのですが、彼は、再三の批判による警告にもかかわらず、彼は、人の言うことなど聞かない権威主義者として、反省もなく、何故か、この世の権力者を、彼特有のボロクソ節で批判しているのです。いつものように、悪から自分を安易に除外した正義の味方気取りの、信仰の立場から言うと、とても異常な自尊を今日も唱えています。
 
彼の偽善は、いつでもどこでも、治ることなく、改まることなく、全開のようです。彼は、訂正不能の信条と心臓から、今の自分は神の助けを得て、何の落ち度もないという前提で、それゆえ、どんな状況でも、神の御心を伝えようとするのでしょうが、彼は自分に火がついていることに全く気づかない人だということを明らかにしているだけです。この無反省を、信仰者は、罠そして敵として自戒し警戒するべきです。その根拠は、彼が今まで行ってきた偽善の事実と、彼の書いた文章が、書くたびに証ししてきましたし、これからも証しするでしょう。
 
彼という偽善者そして偶像崇拝者は、今回、預言者エリヤと、偶像崇拝者の王の話を引用しています。非常に奇妙です。この世の誉れに執着して見かけにこだわり、一方で人を人とも思わない偶像崇拝者である彼が、偶像崇拝を戒める記事を書いているのです。固く固く凝固した言語の血液が、硬直した石灰の心臓をさらに締め付けて、脳も心も行き届かない循環のために、言い古された言葉を大仰にわめき、自分だけ、まともなつもりで、迷惑な矛盾の様態を繰り返し振り回しては、触れる人々に、彼の無罪信仰という毒と、悔い改めない偽善という病原を伝染することを止めないのです。
 

ここに書き記されていることは生ける神の預言者エリヤと
偶像神バアルとアシラに仕えるアハブとイゼベルとの対決の前哨戦なのです。
生ける神は先ずエリヤに生ける神への信仰と従順を求められたのです。
生ける神への信仰と従順は人の力のおよばない逆境の中で養われるのです。
生ける神への信仰と従順こそが最善であり勝利の道であることを
エリヤもザレパテのやもめも知るのです。
イエスもその道が平和の道であり、命の道であることを示されたのです。
 
そのような生ける神への信仰と従順によって、
私たちの心が砕かれ、整えられた時、生ける神の確かな導きと助けによって、
今もこの世の偽りの神に仕えるアハブとイゼベルとの戦いに勝利できるのです。
 
神ならぬものを神として仕えるアハブとイゼベルに象徴されるこの世の権力者は
必ず腐敗し、民を食い物にし、生ける神に立ち向かうのです。
アメリカをはじめ、この世界の混乱と腐敗はまさにそのことを示しています。
その勝利の道は主の言葉に聞き、神の祭壇に自己をささげることであることを
十字架の道を歩まれたイエスと預言者エリヤは証言しているのです。

 
この箇所の解釈についてなかなか述べる気になれません。偶像崇拝が悪いことは、信仰者は知っています。知っているけれど、日常的に偶像はありますし、その共感を信仰者は分かち合うことが出来るでしょう。それを踏まえたうえで、偶像の話というのは成り立ちますし、私もいくつかの記事を書いてきました。
 
ところが、彼は、偶像を他者に戒めるけれど、隠蔽によって、彼が偶像崇拝者であることを認めないままです。罪を認めないのだから、悪に徹しているなら、あり得ることではあります。しかし、なぜ、ここまで厚顔になれるのか。なぜ、ここまで来て、それが信仰?であるかのような言い逃れに、神を盾にするという恐ろしい真似が出来るのか。かえって彼の理由なき誇大志向と安穏思想が信仰?として受け取られることの脅威を示す材料にしかならないのに。
 
>生ける神への信仰と従順こそが最善であり勝利の道であることを
>エリヤもザレパテのやもめも知るのです。
>イエスもその道が平和の道であり、命の道であることを示されたのです。
 
預言者エリヤも救い主イエスも平和と命の道を示したから、・・何なのでしょう。そう彼が言えば、何かが収まるどころか、彼自身の背きの事実と文章が彼に矛盾を突きつけるのです。その命の道に、彼は、いないではないか。いないばかりか、愚にもつかない記事を書いて、うそぶいて、異常な無反応によって、福音を伝えられると思っているのか。何をしのごうとしているのか。見下すように、へらへらと笑ってふざけて書いているのか、そう感じてしまうような彼の記事です。
 
彼、シャローム氏は、もはや、聖職者ではないのです。彼が手に入れた牧師職は、彼自身によって偽善の伝道でしかなくなったのです。もはや、福音伝道は、彼とは何の関係もないところでしか語られないだろう、ということです。
 
いかなる大きな罪も、悔い改めることによって、祈りを通じて、赦され癒やされ救われ導かれる信仰によって生きることの糧と変わり得るのです。それほど、キリストの軛は、出来ないとは言えないほどに軽いのです。そして、十字架上の犯罪人の話のように、信仰によって救われることは、大方、この世での利益には結びつきません。それでも、そこに、人生を支えるほどの愛の力を感じた人は、この世的にぼろ布のようになっても、信仰者であり続けます。
 
罪深いぼろ布は、ぼろ布である自分を神の前に隠しません。何故なら、それが、神に赦される唯一の必要十分条件だからです。
 
自分がぼろ布であることを認めず、依然として福音伝道者や説教者ぶって、自分のボロを棚にあげて、壇上から、くどくどと、言い古されたことを繰り返して、務めを果たした気になったりするなど、あり得ないのです。偉そうで高そうでいて、それでお手本になるぼろ布など、あり得ないからです。
 
神の前に隠し事をもって、信仰者であり続けることは、あり得ません。嘘をつく人は嘘つきです。信仰?によって信仰について嘘をつき続ける者は、いかなる義にも赦しにも値しません。いつまで事実を知らない人々を騙し続けられると思っているのか。
 
 
(2017年01月24日、同日一部修正)
 
荒んだ(すさんだ)
軛(くびき)
 
 

 

 
  伝道を飾る者
 
 伝道者の書3:9~15ー私たちには永遠への思いがある!
 2017/1/21(土) 午後 9:45
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27912514.html
 
 転載元:伝道者の書3:9~15ー私たちには永遠への思いがある!
 2009/10/29(木) 午前 10:50
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/21932748.html
 
 
伝道者は、本音を叫ぶように、まるで落胆するかのように、書いています。ところが、それを記事にした転載元は、神の讃美へと飾ってしまったのです。優等生のように。そして、それを喜ぶように彼は転載しているのです。
 
ずっと本音も理解も隠蔽してきたのが彼で、神への讃美だけ、言葉面だけ、並べてきました。これはそのまま、彼、シャローム氏好みの転載記事です。
 

9 働く者は労苦して何の益を得よう。
10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
15 今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。

 
上の引用の前には、この書の始まりとして、何ごとにも時があり、神が定める、というようなことが書かれています。そのあとの箇所から少しばかり引用してみます。
 
 (伝道の書、口語訳)
3:16
わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
3:17
わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
3:18
わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
3:19
人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。
3:20
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21
だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22
それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
 (伝道3:16―22、旧約聖書)
 
この世の有り様、とでも言うべき、惨憺たる様子を書きながら、神の支配の絶対を説き、この地上で楽しむ、ということを書いています。人の有り様、神の支配、人の取り分、という話のようです。獣は地に下るのでしょうか。地に下る人もいるのでしょうか。いるのかもしれません、分からないけど・・。
 
 (伝道の書、口語訳)
4:1
わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。
4:2それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。
4:3
しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。
4:4
また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
4:5
愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う。
4:6
片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。
4:7
わたしはまた、日の下に空なる事のあるのを見た。
4:8
ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。
 (伝道4:1―8、新約聖書)
 
しえたげ、つまり、虐待の有り様を書き、死んだ者のほうが幸い、さらに、まだ生まれない者で、悪を見ない者が、もっと幸い、とまで言っています。ここまで言っている、この伝道の書は、聖書の中でも、特異な書と言ってよいでしょう。
 
この書を読んで、それを、平板な、神への讃美にしているから、彼、シャローム氏は、転載したのでしょうか。全く聖書を分かっていないのに、分からないと言えない者は、このように、日々、聖なる言葉を、自分が気持ちのよい言葉面に替えてゆく作業に勤しんでいるのです。
 

人は時を知らない、知り得ない。しかし、時至ってなされる神の時、わざはすべてが完全なものとなる。それは私たちには分からないが、神の最善なのである。私たちはそれをそのままに受け取って行く。

 
> 
 創世の初め神はこう言われた。「Good!」すべては良しと!それで終わるのではなく、神は永遠から永遠を備えられている。

 
神の時、完全、最善、受け取って、よし!、永遠から永遠、これらを感想として、神を讃美するのは、果たして、伝道の書を読んだことになるのでしょうか。分からないが、神の最善、こういうことはあると思いますし、神の秘密です。そのまま受け取ってゆく、といっても、分からないままで、私たちに生きてくるのかどうか、疑問ではありますが、短絡して、気合いで出来るかのように強引に、シャローム氏のように讃美に変えるのではなく、私たちは、人間ならば、人間とは、と考えてゆきたいところです。
 
 (イザヤ書、口語訳)
44:6
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、
万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終りである。
わたしのほかに神はない。
44:7
だれかわたしに等しい者があるか。
その者はそれを示し、またそれを告げ、
わが前に言いつらねよ。
だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。
その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。
44:8
恐れてはならない、またおののいてはならない。
わたしはこの事を昔から、
あなたがたに聞かせなかったか、
また告げなかったか。
あなたがたはわが証人である。
わたしのほかに神があるか。
わたしのほかに岩はない。
わたしはそのあることを知らない」。
44:9
偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。 44:10だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
 (イザヤ44:6―10、旧約聖書)
 
ここまで引用すると、偶像を戒めていると分かるのですが・・
 

私たち人間は有限であり、その永遠を見ることが出来ない。だから私たちはこのいまを喜び楽しむのである。またその楽しみは「すべての労苦の中にしあわせを見い出すことも神の賜物」だと。
喰うために働くだけのむなしい労苦ではない。しかし、キリストの内に生きるその時、生きる労苦が恵みの実を結び初め、その中に神の力が働く。それを見出す喜びに歩むことになっていくのだ。
神はいつでも変わらないお方であり、完全なお方である。私たちは創造主なる神の偉大さを知り、私たちがちりに等しい者でしかないことを知るのだ。であるから、私たちにはその永遠の計画に対して、あれこれと指図したり、勝手に取り除くことは出来ないのである。

 
人間は有限、労苦の中に幸せを、空しい労苦ではない、神の力、見出す喜び、神は、変わらないお方、完全、偉大、永遠の計画、という信仰のピンと来ない美辞麗句です。何も語っていない讃美の空しい誉めまくりです。
 
そして、ここに、キリストを登場させ、転載元のの足らざるを補おうとしています。あれこれを指図したり勝手に取り除くことは出来ない、と言っています。さて、引用に当たり、どこを引用するか決めたり、また、解釈に当たり、キリストを持ち出してつじつまを合わせたりしたのは、誰なのでしょう。取捨選択を、ほしいままにしたのは、誰でしょう。
 
そこを責めているのではありません。自分がいじっているにもかかわらず、いじってはいけない、というような戒めを書いてしまうことを批判しています。これは、根本的な、何を罪とするか、という重要な問題に触れてくるからです。このような執筆態度は、人にせいにしやすい態度と結びつきやすいのです。シャローム氏が、そうでありますが、だから、彼は、この文章を気に入って転載しているのでしょうか・・。
 

永遠は私たちの希望、喜びである。その完成の時を待ち望んでいる。イエスの十字架で救われることが出来る。けれども、もしわざは提供されていても、信仰者が起こされなければ、そのまま、止まってしまう。信仰者がいることが永遠に結びつけることになるのだ。
この地上で生きている間にイエスを信じた者はからだは死んでもたましいは死なない。ここに希望があるからこそ「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言うことが出来る。この希望がなければ死を受け取ることは容易ではない。そして私たちは再び会うことが出来る、これが永遠の別れじゃないことを知っているから、悲しみの中にあっても神を賛美し、神を恐れるのだ。

 
信仰の救いについて、信仰者が起こされなければ止まってしまう、信仰者がいることが永遠に結びつける、と書いています。永遠は喜びでしょうか。私たちの時間感覚で永遠は、むしろ地獄かもしれません。分かりようのない超常を説いて、私たちの今にどう結び付くのでしょうか。終末まで分からないのではないでしょうか。
 
信じたら、体は死んでも魂は死なない、ここに希望、これは、理解しないまま、信仰らしく豪語して見せたに過ぎません。理解せよ、ではなく、理解できないことを知るべきですし、それを書かなければいけません。
自分の至らなさや不全を考えないで、どうにかして、都合の良い綺麗な文章にしようと飾っている態度でしょう。もう一度、伝道の書を部分的に引用しますが、
 
 (伝道の書、口語訳)
3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
3:12
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
3:13
またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
 (伝道3:11―13、旧約聖書)
 
「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言えるのは、死んでも死なないから、その希望があるからだと言いたいようです。
 

私たちは再び会うことが出来る、これが永遠の別れじゃないことを知っているから、悲しみの中にあっても神を賛美し、神を恐れるのだ。

 
あの世の再会のために、神を讃美し、神を恐れている、ということだけではないはずです。そのために悲しみが癒えることもありません。転載元は、あの世の約束という、やはり、彼、シャローム氏と、似たような体質によって、超常だけを慰めとしているのでしょうか。そこを、彼、シャローム氏によって利用されていることに、そろそろ、気づくべきだと思います。彼の、おだてや、わざとらしい誉め言葉は、早く忘れてください。
 
信仰は今の世を生きるためにあります。この世に生きる人間と、神との、関係です。ときには、天国での亡き人との再会を考えてもよいのですが、それが信仰の根拠ではありません。キリストと人間の関わりは、神と人間との関わりは、超常にあるのではなく、この地上における関わりでなければ、どうして信仰が成り立つでしょう。 
 
キリスト信仰は、悲しみのこの世を生きるための支えです。死んだ後のことは、もはや、神のみに任されることです。死後のことを、人の言葉で表したつもりでいると、シャローム氏からの誘惑のように、幻想に頼って生きることになるでしょう。
 

2コリント4:18私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 
見えないものにこそ目を留める、というのは、そう簡単ではないはずです。神を見たかのように言うのは、シャローム氏などの自分信仰者の特徴です。見えないものは、見えないのです。見えないものがいつまでも続く、というのは、信仰による希望と神の愛を喩えているからです。たとえられていることが、今、完成しているでしょうか。人間の信仰の道というのは、生きている間は、成就のような完成の喜びを讃美するのは、シャローム氏のような、知ったかぶりをしたい人だけです。
 
神は讃美される必要はありません。しかし、彼、シャローム氏は、自分の後ろめたさの反動のように、以前から、神を讃美しまくってきました。彼は、この記事の転載という行為によって、また、一つ、罪と偽善を重ねましたが、私たちは、今この世を生きている時間を、賜った信仰と人間を考えてゆく務めのために、与えられています。それは、キリストの愛に支えられて生きることですから、空しい超常の幻想や空約束のために誘ってくる者を避けなければいけません。
 
 
(2017年01月23日、同日一部修正)
 
 

 

 
  キリストの教え
 
 
またキリストの教えについて書くのですが、今回は、罪について、マタイ5章を中心に、もう一度、考えてみたいと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 (マタイ5:18―20、新約聖書)
 
これは、キリストが、パリサイ人と対立したことを考えると、パリサイ人のように、古いやり方で、または、それ以上に厳格に守れという意味ではない、と考えるべきでしょう。つまり、この教えは、教えを守る基準が、古い律法の基準から、キリストの新しい律法成就の基準によって超克されたということを告げているのではないか、と思います。そういう意味での20節だと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27―28、新約聖書)
 
ここは、私が前から書いてきたところで、情欲をいだかず女を見ることは、健康な男には不可能です。だからといって、自分で勝手に、教えを割り引いて守りましょう、と言うのは、ごまかしだと思います。もちろん、欲に走ってよいということではないのですが、このことは、キリストが出てくるまでもないことです。
 
キリストは、守れない罪人に寄り添い救いました。およそ守れそうにない、この教えは、罪なき者は一人もいない、ということにつながります。守れという教えなら矛盾するのです。ここは、キリストの行動との一致を考えて解釈するしかないのです。
 
誰が情欲をいだかずに女を見ることの出来るだろうか。即ち、私たちの誰一人として、姦淫の罪がないと言える者はいない、ということを伝えている、と解釈します。キリスト信仰の教えが、ふつうの法律や道徳とは違うところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:33
また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 5:35また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:33―37、新約聖書)
 
ここに感動を覚えます。自分は出来ている、キリスト者として平安を受けている、と悦に入る人を見るのは、境地自慢のように思えて、食傷していましたから。
 
人は、誓えるほどには守れない、意図したほどには行えない、そして、人は、神の保護下になければ生きられないほどに、善を目指して、悪を行うのだ、何に向かっても、人に誓えるだけの資格があると思うのか、否である、という私の解釈を書いておきます。
 
実際に、否、否、と言い続けても、それを、歯牙にもかけず、ゴミ屑のように捨てる者を知っています。その彼の最近の記事が、信仰を電動自転車に喩えて、自分が何もしなくても、主が動かしてくれる、自動症的信仰でしたし、悔い改めることを拒否して、悔い改めなくても赦されるという、予約した保険の付く無罪信仰なのです。信仰を讃えながら、信仰からどんどん外れて悪い種をまき続けてゆく典型です。
 
神は生ける神です。人間は生きる人です。生きながら死んで無反応になってゆく道を選んではいけません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 (マタイ5:43―44、新約聖書)
 
ここも、愛せるなら敵と呼ばない、愛せないから敵と呼ぶ、ということから、守れない無理難題の教えです。
 
キリストは、こういう無理難題を言って、守れ、というのではないく、守れない自らを知れ、と言っているような気がします。なお、慇懃無礼な態度で、柔和と優しさを装うことは、この教えを守ることとは何の関係もない、偽善に属することです。
 
私は、他者を批判をしています。私は、この教えを守れません。即ち、私は、主の前に罪人です。だから、毎日のように、ため息をついて、罪を認め、神への態度を改めようとしますが、お赦しくださいと祈っても、守る気もないのです。ここまで来ると、結果は、神の裁きにお任せします、という祈りにしかなりません。神の裁きに任せるのは、この段階だと思います。最初から何もしないで、神に委ねますと言って、キリスト者らしいと思っているなら、大きな勘違いです。
 
キリストの命を賭した救いの姿勢を思うべきです。キリスト以外、誰か敵を愛せるだろうか。人が敵を愛することは不可能です。その不可能は、神の前で、罪であります。
 
それほどに神の御心は気高く、人は、どう努力しても、あがいても、もがいても、低いのです。敵を愛せよ、という教えを守って、罪はないと言える者は、一人としていない、と伝えていると解釈しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 
挨拶をするなと言っているわけではありません。社交と世辞に留まることは、愛したことにはならない、ということです。完全でありなさい、というのは、もはや、キリストの命を賭した救いの姿勢を思うしかないでしょう。出来なければ、罪の赦しの祈りをすることになります。悔い改めるための祈りを必要としない者は、一人もいません。敵を憐れんでいるつもりで、最悪の侮辱を与える者もいます。いかなる場合でも、罪を認めて赦しを乞う祈りが必要なくなることはありません。それは人間の不全です。
 
以下は、前にも書いたことで、5章ではないですが、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16―22、新約聖書)
 
そんなに悪でもなさそうな裕福な青年は、パリサイ人などに比べると、救われてもよさそうな気がします。ここで、青年が犯したミスは一つだけです。「(教えは)守ってきました」と、神の前に言える人は、一人もいないのです。これは、この青年が、古い律法の、守れば義、守れなければ罪、という考え方に囚われている証拠です。
 
キリスト以後、救われるか否かは、教えを守ったか守らなかったによるのではなくなりました。実際、キリストが救った人たちは、教えを守れなかった人、信仰についても知識が豊かとは言えない人であり、かつ、罪びととして卑しめられていた人たちだったのです。どうしようもなく、低く、価値なく、弱く、小さく、見なされ、そして、本人も、そういう自分なんだと、思わざるを得なくなっていた人たち、彼らを、キリストは、優先的に救ったのであります。
 
次の聖句を思い出しました。引用まで。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:28
あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29
すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30
また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31
このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
 (マタイ21:28―32、新約聖書) 
 
話を戻して、悲しみながら去った青年が、この後、怒って迫害者の群れにいたか、悲しみながらも、キリストの話を聞き、キリストの群れにいたか、キリストの群れをサポートする人となっていったか、聖書は述べていません・・。
 
自分は、主にあって熱心で、主の熱心が自分を正しく動かしてくれる段階にあるから、皆もこうなって欲しいなどと思っている者には、神の前に、焼き尽くて捧げるべきものがあります。そのような者の熱心の誉れは、ことごとく焼き尽くすべきです。神の前に、そのような熱心など、糞尿ほどの価値もありません。神は高く、人は低いのです。神は完全であり、人は不全で罪深く欠点だらけなので、安穏の境地に留まるのではなく、成長しなければ、キリスト者として生きることにはなりません。
 
 
自分信仰者は言葉を漁り、言葉を見て、言葉面を組み立て、言葉面だけで人を操ろうとする。
 
キリスト信仰者は、言葉から、主の御心を、そして、人の心を見ようと努める。
 
 
(2017年01月22日、同日一部修正)
 
 

 

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