ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年01月

 
  至高の善
 
 
この地上の人間で、考えることを志向する人間は、必ずと言ってよいほど、すべてを説明し、すべてを善しと出来る、至高の善というものを考えるだろう。そして、同時に、その至高の善が、人の住む地上にないことも、かなりの程度、実感しているだろう。
 
ここで言ったところの考えることを志向する人間、というのは、文学や哲学や宗教や政治など学問を志向する人間という意味だけではない。何かを読んで、しばし、心を留めて、うぅむ、とでも、沈黙でも、考えてみる人は、その人、すなわち、考えることを志向する人間である。つまりは、すべての人間ということである。しかし、まれに、考えないことを志している者もいる・・。
 
聖書は、神の人との交わりについて書いているが、神がどういう御方であるかについては、書いていることは、大方、人の知恵では理解できないことである。また、聖書は、神が、この世の人に対して、いつも好意的であるとは書いていない。
 
地上の信仰者は、神の支配する領域が、すべてであるなら、死後の世界、つまり、地上の人にとっては想像と空想を書くか、聖書から記憶に残ればまだマシなほうで、そのような知らない世界について、神が支配するような言葉を書くが、しかし一方では、神は、不幸のまま終わる人々を放置しているように見えるものだから、信仰を持たずにいるか、逆に、とにかく神をほめたたえなければ、と思っているようだ。
 
人間にとって、死後というのは、すべてなくなる、とも言える。しかし、「すべてなくなる」という世界は、今、意識のある人々にとっては、言葉で表されたとしても、理解はしていないということだ。また、先に逝った者たちに迎えられるところ、という表し方も想定と想像の域を超えない。
 
至高の善を考えながら、それが地上にはないと知りながら、なぜ、至高の善の源泉、そして、人に、至高の善を考えさせるものを、何も考えないのだろうか。すでに想像くらいはしているのではないだろうか、それが、人の頭と心によって、これ以上は辿れないところの、神、ということになる。もちろん、神という名は仮称である。また、神の真理は人には分からない。
 
そこから、至高の善があるなら、存在としてあるなら、なぜ、それを今、地上に成就しないのか、ということになる。生きている今の地上の世界と人に成就していないのは、人は不全だから、と私が思う根拠で、言い換えると、そのことが、今の自分が、至高の善に値しない、という、信仰の自覚を生むからだろう。
 
はっきり言って、自分と自分の世界の不全を認め自覚するだけでも、宗教的と言える。少なくとも、自分は選ばれ救われて平安の境地を得ている、などと言い張る、カルト的自分信仰者、すなわち、偽善者よりはマシだ。
 
考えることが好きな者たちも、至高の善、すなわち、神に相当する存在の概念に到達することはなかった。何故なら、神は、概念で、また、人の言葉で、語られ得る存在ではないからだ。概念を語ることは、概念通りにはいかないことを証明するからだ、と言いながら、私は、ここで、概念を言葉として語っている。言葉に表す、ということの挫折ポイントは、考えることではなく、現実の成就と実行にあるからだ。そこには、悪より善がいい、と言いながら、ときに、どうしようもなく、私たちを、着々と悪に向かわせている要因がある。
 
その矛盾は、善がいいと思いながら、益を計るのが、存在者としての、知的霊長の本能のような必然だからである。したがって、ここまで来た者は、原罪に相当する概念まで進むことが出来る。
 
私は、哲学用語の、何ゆえに何ゆえに何・・というような観念用語の論理には、全く感受性がないのだろう、ついてゆけない。にもかかわらず、この世に見捨てられたかのような哲学に尊敬の念をいだくのは、その哲学の、何ゆえ何・・から、私が学んだところの、「ルサンチマン」とか、「当為」とかの、私でも大いに必要とする初歩的な用語が生まれてきたからだ。
 
宗教、特にキリスト教は、さらに伝道において、それらの先人の資産をほとんど無視している。だから、彼らの説くところは多く、哲学が提唱した病理的なものに引っかかるのである。そこを克服しない限り、宗教は、思い込み信仰を促進し、被害妄想と他罰意識を助長し、人格を狭小化し破壊してゆく自己満足に堕し続けてゆくだろう。
 
多くの信仰者に怨恨がベースにあるのを見る。自分が不遇であったとき、自分を不遇にした世間やこの世の、苦悩を生じさせる主体、これには社会や集団や個人が含まれるが、それらに対する怨恨と敵意である。哲学の常識部分は一般の人でも理解可能で、ルサンチマン(弱者に募る怨念)は、信仰にとって貴重な資産と言ってよい。
 
例えば、ルサンチマンから、弱者の道徳として、敵は、この世で栄えているが、自分は至高の神の祝福を受けている、という慰めを得ている例があり、これは、愛の宗教の教えるところではない。何故なら、対抗し、敵視した上での優越感によるからだ。
 
また、多くの信仰者は、当為(「べき」の付くこと)と事実を混同して語っている。分かりやすい言葉としては、理想と現実を混同して語っている。
 
至高という理想があれば、それに比べて、この地上世界と自分は至高でも理想でもない存在として認知され、間違いを犯す必然にある人、という、この基本的なところからさえ、罪というものの考え方に近くなるのである。
 
罪の認知までは、概念によっても可能のような気がする。しかし、罪の赦し、救い、となると、概念や論理では、説明困難となる。
 
至高の善を否む人はいないにもかかわらず、世界の人類に戦争が絶えない、そのたびに、悲惨な殺人が行われる。また天災も、予測することも、防ぐことも、ままならない。命が、あまりにも軽く失われる、という、どうしようもない惨劇を繰り返し目にする人々は、その背後に至高の善なる神がいることを、一縷の希望のように願わないではいられなかった、というところが、宗教の起源そして必要性ということになるのだろう。
 
神が存在するところから聖書は始まるが、その神を必要としたのは、人間に他ならない。ゆえに、そのようにして、人間は神の存在を願い、信じ、その願いを託すように、聖なる書として著していったのだろう。これは、歴史的に辿れるかもしれないが、個人においては、常に実存的である。
 
そのような必然が想定されるにもかかわらず、多くの信仰者は、自分を善しとする主体を神と信じ込んで分かったことにしてしまった。実体も知らないで語るのだから、人格的唯一神として、人が神と交流できる話を作り、奇跡の万能を唄ったのである。
 
そこから、神といえば、奇跡の超常であり、信仰の中心は超常への関心に移ってゆき、それを人が語ろうとするのである。そこには当然のごとく無理があり、人は間違えて、後には確信して、自分信仰の決めつけを、信仰だと言い張るようになった。至高の善について人が考えることは、至高ならざる者に、至高を語らせる羽目になってしまって、現在に至っている。
 
私たちは、どう考えるべきか。神に祈るとき、「神に」で示された人の祈りの方向に本物の神はいない。神に私たちが把握できる実体はない。神を恐れるべきだ。神の御心を、いかに熱心にとらえようとしても、それは出来ない。ひるがえって、いい気になって、呪文のように、神は奇跡を起こし得る、ではなく、神が奇跡を起こすと、神の意志と行為を、繰り返し決めつけている人を、漏らさず、神は、ことごとく、その掌中に見ておられるのだ。
 
至らない人が、至高の神を語ろうとして、結局、人の、至らない、あるいは、邪悪な部分が、好きなように神を捏造している世界において、罪を犯しても悔い改め一つ満足に出来ず、苦し紛れに悔い改めなくても赦されると言い張る信仰者がいる世界において、人にとって、ただ一つの不全の身を捧げる祈りだけが、救われない人の本性からの神への音信であり、救いとなっている。祈った結果は不可知であるにもかかわらず・・である。
 
信仰に、失望か、冷血の排他を見なくて済むように、私たちは、神に与えられた知性と感性の人の遺産を、可能な限り、無駄にしないようにしたい。今の、冷静よりも熱心という姿勢が重んじられ、考えることが迷うことと、疑うことが背くことと、同一視されるような宗教の防衛の悍ましさを避けたい。人間は、神を守れるように造られてはいない。神には弁護される必要はない。神を讃えたつもりで、愚かにも帳尻を合わせているのは、まさに、人である。
 
思い込みに固まった人の、思い込みの相続で、信仰の系譜が決まってはいけない。先人たち、または、聖徒、と呼ばれる人々は、必ずしも、思い込みを信じたわけではないだろう。彼らには、周囲の思い込みを超えるものがあったから、使命に命を捧げることが出来たのだろう。聖徒たちの言葉面だけを真似する者は、いつも、下賤で卑しく身の程を弁えず、うっとうしい言い分だけを繰り返す。
 
罪を犯して悔い改めずとも既に罪は赦されている、という自分の信仰が正しいと思い、何を言っても聞かない者は、福音を伝道しているつもりだ。ということは、すべての人に広めて、誰もが彼と同じ信仰を持つことを理想とする。仮に、その理想が成ったとして、すべての人が、それぞれ、自分は何をしても神の御心に適っている、何故なら、罪を犯して悔い改めずとも既に罪は赦されているからだ、という信条を持つに至り、好きなように振る舞い行うようになる、つまり、成就が地獄を招く必然について、彼は、伝道者として、いったい、どう責任ある弁明をするつもりなのか。 
 
平安のない地上に、思い込みによる無視と無思考の安穏を作るのではなく、祈りのうちに、非力を切実に訴えるためには、人間の切実を、教理を超えて共感できる必要があり、それは、絶えることのない移ろいを、その時々に生きて、人間の切なさを、悔いも、悲しみも、怒りも、悪意も、罪も、隠さず表し、赦しと癒しと救いを祈り願うことに他ならないだろう。
 
かくして、信仰における人間の務めとは、その切なさを、古今の人間が、そして、今の自分が、在って在ることを願った至高の善なる御方に、正直な祈りのうちに、さらけ出し、捧げることに他ならない。
 
もっと開かれた、自由な人間の広場で、至高の善から、不全の自覚と、聖書解釈を経て、祈りまでを、決めつけることなく、聖書と信仰者の間で、信仰者と信仰者の間で、信仰者と求道者の間で、決めつけることなく、話し合える日が来てほしい。
 
 
(2017年01月21日)
 
著す(あらわす)
讃える(たたえる、称える)
 
 

 

 
  境地と魔界
 
 電動自転車とキリスト信仰(2013.1.14)
 2017/1/19(木) 午後 4:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27909045.html
 
 転載元:2013-01-14 電動自転車とキリスト信仰
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20130114
 
 
信仰の先輩で教師でもあるべき人が、教えることに慣れた果てに、慎むことを忘れて、神の名をみだりに自分に当てはめて、こうなったら本物だ、と、本物を求めるのではなく、本物を自慢げに教えようとしています。転載元は、彼、シャローム氏の師なのでしょうか。だとすれば、彼の言説は、組織的な教理の企てということになりますが。
 
こういう特徴は、そのまま、ありのまま、彼、シャローム氏に当てはまります。いつかの彼の記事の、神の平安のうちに過ごしています、というのを思い出しました。批判を、無視して葬り去っている、まさに、その日々の中で、彼は、それを神の平安と言ったのです。神からのものだと分かった、というのは、大方、カルト的思い込みの前提から来るものです。
 
>そのとき思った。これはキリスト信仰の「熱心の段階」の変化と同じだと。
 
自分の至った境地を自慢したいのでしょうか。
 

キリストを信じた最初のころは、キリストに従って励まなくてはと、肩に力を入れて、困難があっても「なんだ坂、こんな坂」と、殉教もいとわぬ覚悟で走りまわるものだ。これはまだ「人間の熱心」の段階。しかし人間の熱心は他人を審く。「わたし一人残りました」と誇ったエリアのように(列王記上19章)、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語したペトロのように(マタイ26章)、人を審く「固い熱心」だ。

 
訂正不能の安穏を作るために、強制力をもって他者の意見を封殺し、ブログにおいて、批判に反論できないのに、和解を計らず、証拠を次から次への隠蔽して、批判がないというブログ体裁の偽装を行って、固く熱心な決め付けの中に発信だけを無遠慮に行っている者がいます。つまずいているのに、順調だと見せかける者がいます。
 
自分の至ったところを、このように信仰は、おのれの欲するところに従えども則を超えず、の論語のように、楽になると言いたいのですか。やはり境地自慢ですか。
 

その「人間の熱心」が、エリアは「わたし一人」と思ったのに7000人もの忠実な連中が残っていることがわかり、ペトロは三度も主を裏切り、二人とも、自分自身がポキット折られて「人間の熱心」から「主にある熱心」に変えられた。「おれが」「わたしが」という自分の熱心が消え、「主の熱心」に支えられている自分が見え出すのだ。

 
人を無視して、人からの情報を遮断して、人の意見を聞かず、ただ強制力で裁き葬り続ける者がいて、それを、主の熱心と、神に守られているのだと、信じて疑わない者が、この記事を転載しています。
 
神が、神が、主が、主が、・・と繰り返すのも、そういう自分が見えたと言うのも、自分は主の熱心によって守られている、という、人間の勝手な熱心による不遜な安穏です。主が熱心に守り進める、という神の行為は、待ち望むことであって、人に人の言葉で言った途端、自慢に変わってしまうのです。
 
主の熱心の段階になると、こうなるんだよ、と言った途端、悦に入って、他者をそこまで至っていない劣った者よ、と見なす優越意識が生まれていて、その時点で、人間の熱心に、いや、ただの欲望の充足つまり自慢になってしまいます。そこに、信仰を与えた主への恐れがなく、口に慎みがないからです。
 
さらにエリアやペテロの熱心の悪い例を持ってきて、彼らもそうだった、自分も昔は・・、という語り口は、彼ら預言者と同じレベルで自分を語っていることにもなるでしょう。ポキッと折られたはずのことが、ここで、舞い上がってしまうことになるのです。もはや、そこには、砕かれた魂を主に捧げるキリスト信仰はありません。
 

日本の「お神輿」は人間が神さまをかつぐ。聖書の神さまは、人間が支えようとするその手を振り落とされる。あの「ウザ撃ち」のように(サムエル下6章)。これがわかったとき「主にある熱心」が始まる。すると電動自転車のように、力まなくてもすいっと走れる。そうだ、主がいっしょに走ってくださるのだ。主に包まれて走るのだ。だから足も軽い。自由になる。うれしくなる。人間の熱心、固い熱心から、主の熱心に包まれた、主にある熱心、柔らかい熱心に入れられるのだ。

 
主にある熱心が始まって、力まなくてもすいっと走れる、という、境地自慢は、主が一緒に、主に包まれて、足取りも軽い、自由になる、うれしくなる、柔らかい熱心、と言ってしまえば、主の熱心に、まさに水をかける結果になります。人が悦に入って、自慢してはならないことですが、もはや喜悦と陶酔に至って、ブレーキが利かないようです。これを人に話して、聞いた人が、また、何十年か先に、同じ陶酔の自慢をするでしょう。とんでもない信仰に固まっている熱心な不感不応の彼のように。
 
批判対象、ブログ管理人、彼、シャローム氏が、転載する記事は、この世離れした話ばかりです。奇跡の境地とでも言うべきことに、彼が憧れる必然があるからです。彼は、人間として生きることが好きではないようです。だから、人間の熱心などクソくらえというスタンスから、神との一体感を欲しがり、高慢から来る自動症的な陶酔に聖なる御業を見ている感覚なのでしょう。
 
こういうことを言葉で愛でる人、またさらにそれを人に言う人は、多く、人の上に立ちたいか、人の上に立っている、という、いわば、信仰のエリート意識に染まった立場で、悟った者が悟らない者に、上から下への教えを垂れたがる人です。
 
電動自転車に喩えた分、ますます機械的に背中を押されている印象を伴い、言葉と御言葉の重さも軽さも分からないで、謙虚と敬虔の制動もなく、みんなも私のようになるといいね、という気持ちが見え隠れするような話は、その暗部において既に自分優位の上下関係を定めています。さて、裁いているのは誰でしょう、ということになるのです。
 
実際は、主の御名をみだりに唱えて、主の熱心が自分を動かしているのですと、神は私を守り動かしているという神と一体の自覚をひけらかす症状から、神の行為を自分で決めつけて、人々を見下ろしているのです。勝ち誇っている満足?から、ゆくゆくは、みんなも私のようになるといいね、待っているよ、と・・。
 
キリスト信仰の熱心の段階があるとすれば、自分を熱心だと思っている段階、自分の熱心を疑う段階、自分は正しく熱心になれないと気づく段階、自分の思い込みの熱心を神に捧げて悔い改めて赦しを祈り願う段階、ということになるでしょう。
 
自動的に動かされるような熱心の段階は、しかも、神が自分を動かしている、と確定する段階は、異常体験であり、もし本当なら話すことに神への恐れをいだくはずです。恐れをいだかないならば、奇跡信仰や自分信仰などの、信仰?の病理です。
 
奇跡という超常現象は、めったに起こらないから奇跡であり、人間世界では理解できないから超常なのです。そこに一体化を求める、または、一体化が得られた、という奇跡信仰は、魔界への憧れを表しているのです。
 
・・神を恐れる信仰者は、神を讃えるために人間を軽視したりしないし、このような言葉遣いはしないでしょう。聖なる御方は、人間の反応を求めるからです。
 
 

「主の熱心がこれをされるであろう」(列王記下19・31、口語訳)

 
前にも書いたことですが、決して、人間が、何もせず、してはいけない、何も考えなくていい、考えてはいけない、という意味ではありません。こういう聖句の曲解が、どれだけ、キリスト信仰をゆがめて伝えることになるのか、彼は知りません。どう考えても、あらかじめの無罪信仰など虫が良すぎるのです。人間であれば分かるはずですが。
 

信仰生活の熱意も制度や組織においては人間の熱心になりやすい。
人間の熱心は冷めやすい。

 
一度考えた教理話を、執拗に繰り返す者もいます。その者は冷めやすいのではなく、人間の熱心というより名誉にしがみつく欲によって、不変不動を信仰だと思っているようで、修正可能による成長を、拒み続けています。その結果として、彼は、人を傷つけ踏みにじることや、人の意見を葬ることや、強制力をふるうことに、何の悔いも感じない電動自転車になっています。
 

主の熱心によって洗礼に導かれて始まった信仰生活ですが、
多くの人が三年ほどで卒業?されるようです。
教会という目に見える制度や組織では目に見えない生ける神を信じるよりも、
教会の牧師や信徒との見える人間関係に心をとられ、信仰のつまずきが起こります。
牧師も礼拝に出席する人の人数や、洗礼を授けた人の数や、
どのような伝道の働きをしたか、目に見える成果を気にします。
牧師同志でくらべたり、教派、教団の間にも教勢報告が比べられます。
だれでもイエス・キリストの十字架の血潮により、罪赦され、神の子とされ、
永遠の命に生かされ始めたのは、否定できない神の恵みの賜物なのですが、
神ご自身とみ言葉に信頼するよりも、
神を知らずに生きてきた古い経験や生き方である
善悪の木の実を食べる生き方をしてしまうためにつまずいてしまうのです。

 
また、彼の、ぼろくそ節です。信徒のつまずきに関して、分析するけれども、その中に、自分が至らなかった、という内省と悔いは、微塵もないのです。これこそ、完璧無罪信仰の特徴なのです。そして、そのことに、彼は、失楽園の善悪の木の実まで持ち出す始末です。このように、人のせいにして、かつ、聖書の言葉を頻繁に持ち出すのも、特徴です。自分を見つめることの出来ない怖い宗教指導者?の記事です。
 

だれもが避けられない信仰のつまずきですが、
神はこのつまずきや試練を通して、
人として、信仰者として成長させてくださるのです。
信仰の成長も人間の熱心さによるものではなく、
神から与えられる恵みなのです。
人の熱心によるつまずきは、
十字架につけられたイエスさまとの新たな出会いによって、
主の熱心へと変えられる道なのです。

 
訂正不能を選んだ者が、どうして、成長を期待できるでしょう。彼は、成長も、神から与えられるのだと言っています。もらって自分が鵜呑みにするだけの、それって、成長でしょうか。もっとも、彼の場合、彼の神?から与えられるわけですから、今までの流れから言って、彼がそう思い込んでいる、ということに過ぎません。問題は、誰も巻き込まれてはいけないということです。彼の言うところの、主の熱心は、人の義性を全く省みません。
 
>「主の熱心がこれをされるであろう」(列王記下19・31、口語訳)
 
どこまでも神がするのであって、自分は何もしなくていい、というのは、彼にとって、罪についても、熱心についても、同じのようです。だから、平気で、人間性を無視できるのでしょう。そのくせ、自分がしたことについては、神がやったというのでしょうか。極めて、稀有な、成り行きの全部を神の責任にする信仰?です。成り行きが悪いときは?・・それは人のせいにしてきました。
 

18日、私の連れ合いの大腸がんの手術は明日20日入院、24日手術と決まりました。
平安のうちにすべての備えをすることができました。

 
彼は、びくともしてないと、善良な信仰者を気取ります。本当の信仰者は、疑問に思ったことを、神の前に隠しません。祈りは正直でなければなりません。そこに、人間の本質的な悲しみがあるからです。
 
体裁にこだわる、というあり方は、政府関係の発表によく見られることですが、彼はよく似ています。また、リップサービスのような、きれいごとを並べるのでしょう。彼の信仰?は、合理化と辻褄合わせと偽善で出来ていると、もうずいぶんと前に、私は判断しています。だから、自分が悟っていることにしなければ都合が悪いのです。彼が、神の平安のうちに過ごしていることにしなければ、悔い改めない無罪信仰は成り立たないからです。
 
 
(2017年01月20日)
 
 

 

 
  丁寧な呪縛
 
 
他者に批判されたり悪口を言われたりすると、健常な心を持っている人は、何らかのアクションをします。ひどい言い方じゃないか・・くらいは言って、話し合いの終了または保留を要求するはずです。そういう遣り取りは、しばしば、あります。疲れてくると余裕がなくなるからでしょう。そこには、互いを言論者として尊重する、一定の共有と共感の関係が成立し得るのです。
 
その人間らしい基本的な反応を全く見せず、何やら、はぐらかし、当てつけ、皮肉、さらには侮辱までもぶつけてきて、最終的に完全無視となるのは、相手を人間と思わず、敵対している悪と見なして、人間相手ではなく、気に入らないことばかり言ってくる邪悪な何かと見なしているときの処し方でしょう。
 
言い換えると、相手を同じ人間だと思えば出来ないことが、相手を悪魔や悪鬼と思えば、手段を選ばず、相手は人ではなくモノだからどんなに傷つけてもいい、つまり人間相手ではない方法が出来るということです。汚い物に触るのと同等と、そう見なした人に対して、制限ない制裁を許容し正当化してしまうのです。
 
その際に、最初は、上に書いたように、はぐらかし、当てつけ、皮肉、というのは、丁寧に説得し、共感や共有を求めるのではなく、程度の低い攻撃ながら、敵と見なした相手を焦らし腐らせる始めであり、言葉面が丁寧?でも、そこには、傷つける段階の一つしか持っていない、ということを表しているのです。
 
そこに目指す目標は、排除だけになります。だから、びくともしていないぞ、ということを示そうとすることになり、人間相手ではなく、悪魔相手に、負けないで生存する戦いと同様のホラー的体質で臨む、ということになるのでしょう。彼は、いつも、敵対者、反対者、批判者に対しては、人間とは思わず、どんなに侮辱してもいい相手と見なしてきたように思われるのです。それを傲慢ということも出来ますが、本性として、いやもっと深い、底知れぬものが働いていると思います。
 
次の彼の記事の、批判記事に書き忘れていたことですが、
 
  閑話休題・・・初笑い
 2017/1/15(日) 午前 8:27
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27901824.html
 
>もし、だれかが、教会を民主主義組織にしようとしたり、
>   神の国を社会主義国家にしようとしたり、
>   福音を政治的なものにしようとして、
>   あなたを巻き込むなら、
>何か言おうとして答えを探さなくて結構です。
>笑うだけで十分ではないでしょうか。
 
最終行に、侮る姿勢を感じないでしょうか。これは彼の本性です。
 
この文章から、彼は、教会は民主主義でなくていい、と言っているわけです。気に入らない奴には笑うだけで十分だと。悪意しか見えてきません。
 
これこそ、彼が、日々実践していることの背後にある思想です。相手の意見を聞かなくて構わない、神が治めるのだ、神の言葉の代弁者が自分だ、というところでしょう。私が、彼は民主主義者でないのに政治批判の民主主義の記事を転載していると指摘したことへの、言葉を知らない者の返しなのでしょう。
 
まことに、彼は、本当の善意がなく、悪意が勝っている人に思われます。そして、例えば、彼が賛同する先人の言葉を、彼に有利なように解釈改竄して、利用しています。思えば、彼が、まだレスを返していたことですが、返す言葉が、殆ど、悪意でしかなかったことを思い出します。
 
批判に対して、整った反論の出来ない彼は、代わりに、悪意と侮辱を返してきました。内に秘めた侮りを返して来ました。例えば、彼に依存している病気、被虐待児が長じて虐待者になった、エホバの証人に似ている、などです。
 
牧師が神の代弁者として、訂正不能になっている教会は悲惨でしょう。反論を許しません。社交の世辞を言う人と、沈黙する人が、優等生になります。反論したら、苦情を言ったら、神の敵にされるわけですから。彼は、いったい、どれだけの人々を、神の敵扱いしてきたのでしょう。
 
これは、大変なことです。他のキリスト教カルトより酷いことになるでしょう。彼は、処世としてやっているに過ぎません。彼には深い思想など感じられないからです。
 
人の世界で、一つの解釈に完全に同意する人というのは、そう多くないと思いますから、解釈の違う人というのは稀でなく見られただろうと考えると、反対者に対する彼の呪いのような人格否定の居丈高の非日常は、姿勢として日常的ではなかったかと思われます。改めて驚愕します。私の批判記事が人格攻撃のようになっているのは、彼が恐ろしい人格否定を向けてくる丁寧語を持っているところにあります。
 
今や既に、彼が改めることは、殆ど期待していません。彼については、一刻も早く、ネットから消えてほしいだけです。一切の説諭も忠告も、いかに理路を正しても、彼にとっては、神の敵からの攻撃で、その敵に対しては、手段を選ばず、強制力を使ってでも、排除することが善となるわけです。
 
信仰の記事を書いて発表してはならない者がいます。信仰に真っ向から背いている者です。彼は、洗礼を受けたら何をやってもいい、つまり、何をやっても悔い改める必要はなく、信仰者は無罪、という無罪信仰を広めています。彼の讃美は、彼の信仰観に向けられる代物です。人格の根っ子に病を植え付けたら、思い直すことも容易には出来なくなると知っている彼は、悪意だけを育てて、その根っこを人に植え付けてゆきます。薄汚い丁寧語と聖書語だけを記憶し学習し、そこだけプロになって、その仕事をずっと30年余にわたって行ってきたのです。
 
前から何度も言っていることではありますが、
 
穏やかに話せば、穏やかに、はぐらかし、
理路を説けば、軽口の皮肉を返し、
反対すれば、大口の聖書語か侮辱を返してくる。
いずれも、話し合うテーマとは全く関係のないレス。
 
人格の根っ子の上に乗っているのは、
恨みとあざ笑い、軽視と無視、快楽原則、
 優越意識、被害感情、怒りと敵意、など、
快楽的か攻撃的なものばかり。
どこにも人間らしい、悲しみや思いやりが見られない。
 
人間としての深みがない者が神の国を得々と説く。
しばしば人間とさえ思えない。
そういう批判を完璧に無視できる人が
神?の絶対に立って自説絶対の決めつけを語る。
 
何を言われても応えない100%無反応の底に無感性。
存在を無視できるところまで離れればよいが、
彼に好意的で、見習おうとする者が増えている・・!
 
既に、私と彼の、ネット上、両者にとって少しばかり知っている人が、彼によって痛い目に遭っていると推測される現状で、退くわけにもいかない。
 
また、彼の無意識の呪縛によって囚われた者は、彼と同じように、罪は一生涯、全部許されているから、悔い改める必要はなく、好きなように行えばよい、という、キリスト信仰とは思えない、戒めや懲らしめを受けることをことごとく排除した信仰に生きて、無反省で訂正不能な人生を歩むことになるでしょう。
 
自己中心の正当化に固まった人が、次から次に現れて生きている世の中のほうが、彼自身よりも、はるかに恐ろしいのです。いかなる楽観を約束する神?を信じてそういう信仰になるのか。自分は正しいと信じる者だけになった地上に、人間の社会と世界が成り立つと思うのか。十字架以前と以後と、人間の本性には殆ど変わりがないことを歴史は証明してきたではないか。
 
信仰は、人間に生きる勇気を与えますが、間違えば、世界で起こっているように、人を神の名のもとに傷つけても殺してもよいことになってしまいます。キリストを着る、神の鎧をまとう、などという言葉や聖句を見るたびに、間違っても強制力を使ってはならないことを肝に銘じます。
 
今は一人だけだけど集団になったら、今は肉体的暴力ではないけれど削除という強制力が拡大したら、・・と考えると、彼のような信仰の考え方を野放しにすることは危険です。肝腎のキリスト者が、大方、無関心のようなので・・、彼のような信仰の考え方は危険思想であると、ここで改めて記しておきたいと思います。
 
彼は、クリスチャンのMLにも、持ち前の不感不応と、謝ってはいけない、という処世と、おうおうそれはよかった・・という、人を食った舐めた調子で始まるメールをもって参加し、追放もされなかった。一貫しているのは、自分の名誉という精神の利益追求についてだけ学習して敏となった成果、信仰とは関係のないものを糧として、信仰者と非信仰者の人々の住む社会に保身を図る人格の石灰化体質である。
 
うっかり交わって受け入れれば、人間としての、潤いを失う。
 
彼から白々しい世辞をもらって、少しでも、うんざりすることがあったら、そのときこそ、彼から受けている無意識の呪縛から逃れる機会です。
 
 
(2017年01月19日、同日一部修正)
 
 

 

 
  無遠慮と無視
 
 十字架の福音はわたしの福音
 2017/1/17(火) 午後 3:25
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27905915.html
 
 
引用部分は、恐らく、聖書に書いてあることを、理想で終わらせず、実践でも行う信仰を持つように・・というような、説教かもしれません。その引用文章から、引用は前後しますが、
 
>聖書に教えられていることは、目に見えない霊的な真理であり、霊的な事実です。
 
>信仰者とは、主のみ言葉を自分のものとして信じる人のことです。
 
>わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた
 
実生活での具体性を全く持っていません。さらに、何か優れた洞察があるわけでもありません。それこそ、こういうのを、聖書語、と呼んでいます。讃美の言葉などは、殆ど、これに属します。それこそ、
 

聖書の言っていることは、それはそれで本当でしょうし、疑わないとしても、自分の問題は特別であって、また別の事だと思い込んでいるからでしょうか。
実は、そのことが問題です。

 
自分で具体性のないことばかり書いておきながら、こう言ってしまう。
実は、そのことが問題です。
 
キリスト者の実生活は、一言で言えば、祈りに尽きます。そこに、偽りのない自分をさらけ出すことこそ、信仰であります。
 

ローマ6:6
わたしたちは、この事を知っている。
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。(口語訳)

 
前に、彼が、死人は叩いても蹴っても反応しない、という暴言を吐いて、自分は信仰によって罪に死んだので、何を言われても反応しない、と自分を正当化しようとしたときの聖句です。このように、彼は、否定された彼の発言を、何度も繰り返してきます。
神がかりだから、何をしても恥ずかしいと思うことがないのです。 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18950249.html
 
>私が負いきれない、支払うことのできない負債で苦しんでいる時、
>私の負債を支払う必要のない、
>また私の債権者に対しても全く負債のない方が、
>私のすべての負債を支払ってくださったとしたら
>どんなに素晴らしい救いでしょうか。
 
キリストの贖いのことを言っています。
彼が負いきれないと勝手に決めて解決のために何もせず
悔い改める道、即ち、信仰を捨て、
代わりにキリストが払うからと、
キリストの心などお構いなしに安穏を貪るなら、
どんなに、無遠慮では済まない、反信仰であることか。
 
彼の、性懲りもなく思慮も情感もない、言葉面だけを利用する、冒涜の神がかりの信仰?が全開になってきます。
 

イエスはまさに私自身が支払うべき、生ける神に対する罪の支払う報酬である死を
罪なき神の御子イエスの命を罪の代価として、十字架の死によって支払ってくださいました。
私は私の罪の代価の支払いを要求する債権者から解放されたのです。

 
今までの流れから、彼は、いつもキリストは負債を支払ってくれるから、自分は何をしてもよいと、自己中心に信仰を曲げ、自分を正当化してきます。これでは、キリストが十字架についた意味が全くなくなります。言葉面だけの信仰による悪用です。奇跡信仰者には人間の心を考えることが出来ないからでしょう。
 

しかし、なお罪を犯すなら、再び、罪の奴隷となり、
債権者に追われる身となるのです。
そのように、私はイエスによる罪の赦しを信じ、救われても、
なお罪深く、弱さを抱えているのです。
それは信仰者にとって逃れることのできない問題であり、信仰の戦いです。

 
罪を犯すなら、再び、罪の奴隷になるでしょうか。違います。私たちには、キリストがおられ、神がおられます。何度も書いてきましたが、私たちには、隠すことなく祈り、罪を告白し、神への態度を改める、という、悔い改めの道が、信仰の核心としてあるのです。そこには、弱さも、傷も、赦され、癒やされるために、何よりも、人間性が必要なのです。そこが、無信仰と信仰の違いなのです。
 
彼は、人間と人間性に関心がなく、信仰を奇跡の経過だとしか理解していません。どうやら、彼は、そういう人間にとっての信仰の道を知らないようです。だから、彼は、神がかりになることが信仰だと思い込み、罪を犯さない信仰、悔い改めることなく罪が自動的に赦されている信仰、つまり、何を仕出かしても罪を認めない信仰、無罪信仰にしがみつくのでしょう。
 
だから、彼は、大仰に、信仰の戦いです、などと言うのです。戦いしか、彼にはないのでしょう。そうして彼が戦ってきたのは、彼に対する批判者です。人間とは思えない戦いぶりは、反対意見を封殺し、コメント欄ごと削除して、自分の正しさを偽装し、その強制力を悔いることなく、今も続けているのです。彼は、神の前に正直であることよりも、神と人々の前に偽ることを選んでいます。
 

その問題の核心はいったいどこにあるのでしょうか。
その核心はイエスの死によって罪赦されていても、
なお、信じ救われた私のうちに生きて働いている神無き古き人であるというのです。
 
私はイギリスやドイツに行き、しばらく滞在しました。
言葉もほとんどわからず、お金のこと、法律のことなどわからず、困りました。
外国に滞在しているのですが、わたしは日本人として生きていこうとするからです。


イエスを信じると、だれでもその人は神の子であり、神の国の国籍が与えられます。
しかし、外国へ行き、生活する時と同じような問題が起こるのです。
しかし、私が日本人としての古き人が死んで、国籍が変わるなら、私はその国の国民なのです。

 
外国に行ったらその国の法制度があって分からずに困ったということと、信仰と何の関係があるのでしょう。こんなに安易な喩えで信仰が語れると思っているのでしょうか。神なき古き人は天国が国籍だが、暮らす地上は、暮らしにくい、ということを言って、イギリスやドイツのような外国と同様に考えていいものなのでしょうか。
 
彼は、自分を、本来、神の国の人で、今は地上にいるから困ったことになっていると、今の自分を、またしても、幼稚な理屈で正当化し、周りが悪いのだ、と言い張るのでしょうか。
 
こうやって、彼は、大口の割に、文脈の整わない軽口で、相手を怒らせ、相手が呆れて、去ってゆくことをもって、自分の安泰を計ってきたのです。それが彼の批判者に向ける侮辱の手口なのです。
 
次に、彼の狙いが、さらに明らかになってきます。
 

古き人による問題は信仰生活しているといろんなことで支障が起こり、トラブルが起こります。
しかし、問題が起こり、それまでの古き人の生き方、考え方で問題を解決しようとするのではなく、
信仰によって、私の古き人もイエスととも十字架につけられ死んだと告白し続けるのです。

 
古き人が死んだら、神の国の国籍を持つから、この地上では支障が起こり、トラブルが生じる、と言いたいようなのです。この地上に、いったい誰が住んでるの?、この文章を書いているのは誰なの?と言いたい。彼は、思いつきの詭弁を持ってきました。どれだけ自分を持ち上げれば気が済むのでしょう。
 
この地上の人間として不全であるという自覚が、信仰に向かわせるのです。
 
彼の古い人が死んで、彼が神の国の国籍を持つなら、まず一つは、神の国の国籍は万能ではないのか、という言葉上のこと、第二は、このことを書いた彼の文章で、彼は、彼が神の国の国籍を持ち既に地上に住んでいる者たちとは違う、という、優越を示しているのです。ここまで思い上がった信仰者?を見たことがありません。
 
彼は、もうずっと前に、人間同士の共感を必要なしと否定しています。だから、彼の信仰は、訂正不能の言葉面しかなく、共有も共感もないと、書いたのは、そういうことです。預言者気取り、使徒気取りの、自己絶対肯定の訂正不能の信仰とは、こういうものなのでしょうか。
 

すると、神はその問題を通して、私の古き人をイエスの十字架のもとに導き、
私の古き人もイエスととも十字架につけれている霊的事実を明らかにしてくださるのです。
パウロもその苦しみを体験し、“私はなんというみじめな人間だろう”と嘆き、
また、“イエス・キリストにあって、神は感謝すべきかな”と告白したのです。

 
そして、彼は、よくやることですが、自分をパウロになぞらえて、・・キリストのもとにどうやって行くんだ、私たちは、祈りにおいては、いつも臨在を前提に祈っているというのに、そういう意味なら、なぜ、気取った言い方をするのか、そして、霊的真実と言って、自分は分かっているかのように振る舞うことで、また、分からないと言えない人の本質的欠陥をあらわにすることを繰り返す。
 
本当の信仰は、“私はなんというみじめな人間だろう”から、“イエス・キリストにあって、神は感謝すべきかな”の間にあります。恐らく彼にはないのでしょう。だから、自分は苦難と受けていると被害者の立場を言って、次は、何の解説もなく、神を讃美するのです。予め決まっていたかのように。詭弁による合理化は怖い、という見本です。使徒に成りきって高い立場からしか物の言えない彼にとって、聖句というのは、このように利用するだけのものなのでしょう。
 

このようにして神は私たちの霊的脱皮を助けてくださいます。
セミや蝶も幼虫から成長し、脱皮してはじめて空を舞い、セミや蝶として生き始めるのです。

 
彼は、霊的真実、霊的脱皮、というような、それだけでは意味をなさない言葉が好きのようです。そして、説明をいつも詭弁に変えてしまいます。人を虫に喩えて比喩を書いたようですが、人を無視してきた分、本題から乖離して関係なく、ぽつんと文章の中に浮いている感じです。彼の周りで舞っているのは作り話の虫だけですから、蝉や蝶は、作者を表して、うるさく飛び回る害虫になってしまうでしょう。文脈のない比喩で、うまく真理を語ったつもりになれる人です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:12
だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
6:13
また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
6:14
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 (ローマ6:12―14、新約聖書)
 
ローマ人への手紙の同じ章に、書いてありますが、罪の支配、情欲、不義の武器、を戒めています。不義と偽善にまみれている、彼、シャローム氏は、度重なる詭弁をもって、実に長く偽善の罪を犯し続けながら、言い逃れに滅びの無罪信仰を言い張って、キリストも、使徒も、聖句も、悪用する偽善者です。
 

[旧約聖書・箴言]
3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
3:8 そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。

 
主を信頼すると唱えて、知識を捨てて、人を侮る者がいる。
悔い改めなくてもいいよと言ってくれる主を認めよ、と言う者がいる。
自分を顕示する意地だけで書き続け、主を恐れず、悪に染まる者がいる。
そうして、肉の身を肥やすので、彼の骨は衒奇でしかない。
 
 (箴言、口語訳)
3:1
わが子よ、わたしの教を忘れず、
わたしの戒めを心にとめよ。
3:2
そうすれば、これはあなたの日を長くし、
命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、
それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4
そうすれば、あなたは神と人との前に
恵みと、誉とを得る。
 ・・・・
3:35
知恵ある者は、誉を得る、
しかし、愚かな者ははずかしめを得る。
 (箴言3:1―4,35、旧約聖書)
 
辱めを受けても、なお、恥を知らず、教えを曲げ、安穏を平安と偽り、まことを詭弁で偽り、恵みと誉れを得ていると偽る恣意が、最も恐れているのは、真実の信仰です。
 
正直言って、彼の書いた文章など見たくはありません。しかし、彼は、毎日のように、自己満足の記事を書いてくるので、この記事は間違いで、対立している意見があります、ということを知らせるために、毎日のように、書いています。他に批判する人がいないようですし、かえって、彼の丁寧語と聖書語に騙されて、賛同する人が増えているようなので、あちこち痛いけど、書けるだけ書くことにしています。
 
 
(2017年01月18日、同日一部修正)
 
彼は、記事とタイトルを修正したようです。
 十字架の福音とわたし
 2017/1/17(火) 午後 3:25
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27905915.html
 
 

 

 
  墓穴を掘る
 
 第二百五十回
 2017/1/16(月) 午前 10:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27903764.html
 
 
転載記事ですが、彼は、彼が罪と偽善を覆い隠すことの正当性に利用しています。彼の掘った墓穴が見えています。罪を覆い隠す、という聖書からの言葉は、それを神がなさる、ということです。自分で隠蔽してよい、ということではありません。彼は、そんなことも分からないのです。
 

神は私たちの罪を覆い隠してくださることにより、また、イエス・キリストの義を着せてくださることで罪の赦しを与えてくださっています。

 
彼は、自分の罪を隠蔽していることの正当化を狙っていることは明らかです。あらゆる弁明が弁明になっていない現状でも、彼は、悪あがきを続けるのです。そうして、彼は、前も、今も、偽善を深めてゆく道を選びます。
 

悪を取り去ったり絶滅させるというのではなく、神は私たちを悪から守ってくださいます。終わりの時には、罪も悪も、そして、死も滅ぼされると言われています。それまではこれらは存続するということなのでしょう。

 
神が悪から守る、と言っています。もしそうなら、キリスト者は、罪を犯さないはずです。現状はどうでしょうか。特別に、キリスト者だから、罪は犯さないはずだ、などと、特別扱いできる人はいないと思います。嘘をついてはいけません。カルトや偽善者の思うつぼです。
 
そう、罪は、それを犯す人々がいて、存続します。そこに、私たちも、そしてもちろん私も、例外ではないのです。人から見れば、私たち次第である、ということがキリスト信仰にはあります。これは、計らずも、問いかけです。どうか、その罪から、自分を除外しないでください。除外すれば、転載者と同様の偽善者になるでしょう。
 

神は私たちの苦しみや悲しみをなくしてくださるのではなく、大盾や御翼で私たちを覆い隠してくださいます。

 
罪が、苦しみや悲しみをもたらすものだといっていますが、ここは、ちょっとばかり、すり替えだと思います。罪は、罪を悲しみとも苦しみとも思わないものによって行われるからです。苦しみも悲しみも悪辣な罪も、自分を除外してはいけません。このことによって、キリスト者は、思いを新たにして、改めて、信仰の心構えとして、気を引き締めるようになるのです。
 
大盾や御翼で覆い隠してくれる、というのは、神が、その際、いかなる意志と行為を示すか、ということを、人の側が決めつけています。隠すのでも、覆うのでもないかもしれない。神は、見て判断されるかもしれませんし・・、神の導きに、人の安易な意味づけをするべきではありません。
 

「神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小楯。夜、脅かすものも昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。」(詩編九一・四~五)。

 
このように詩篇の都合の良いところだけを持ってきて主張する人もいますが。自分は神に守られると言っても、聖句は、様々な意味を伝えてきます。
 
 (詩篇、口語訳)
91:14
彼はわたしを愛して離れないゆえに、
わたしは彼を助けよう。
彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
 (詩篇91:14、旧約聖書)
 
ここを読んで、自分は神を愛しているから大丈夫などと言う人は、たいてい、自分信仰に傾いている人です。その典型を批判しています。信仰の結実を、そっと捧げる気持ちのある敬虔な人は、神はかばう、などと、神のことを決めつけて言わずに、ただ黙って自らの務めを考える人です。守られる私たちは、守られるための最低限の務めを努めなければならないからです。
 

わたしたちは苦難や悲しみを経験しなければ自らの罪を知り、イエス・キリストと神を知るということができない存在なのでしょう。だから苦しみや悲しみを全く取り去られるのではなく、もちろん目の前の苦しみや悲しみは取り去ってくださいますが、次から次と苦しみ、悲しみは来るものだと経験しています。

 
是とします。これが人間の生き方です。ここを常時安楽と決めつける人を批判しています。
 

取り去ってしまうのではなく、そのような苦しみや悲しみの中にあっても、心に平安を与えてくださる、そういう仕方で恵みを与えてくださるのだと思います。

 
是とします。神は誠実な祈りに答えて、慰めを与えてくださる、ということは、キリスト者なら経験しているはずです。そのような苦しみや悲しみはない、と言い張っている人を批判しています。
 

私たちは自分の力ではどうにもならないことで、悲しみ苦しみ明日のことを思いわずらいます。そのような思いわずらいを霧のように晴らして心に平安を与えてくださるだけでどんなに心が安らぐことでしょう。

 
そうです。自分の力ではどうにもならないことは、神に任せるしかないことです。祈りによって平安を得るしかありません。自分で解決できることから目を背けて、神に委ねるなどと言っている人を批判しています。
 

私たちは、苦しみや悲しみを覆い隠してくださって心に主の平安を与えてくださるうちに、原因はなんら解決していないのに、先のことを思い悩むことを忘れてしまっています。

 
自分に都合の悪いこと、不快なことを、自分で隠蔽している者を、批判しています。その者の安楽は、神の与える平安ではありません。
 

そのような主の恵みを通して私たちは、たえず、キリストと神を仰ぎ、御心に従う人生を歩んでいけるように導かれるのでしょう。

 
キリスト者と自称する皆がそうではないようです。キリスト者と自称する者の中には、人が見ても、キリスト者とは思えない人もいます。神は恐るべき御方です。私たちへの戒めとして、両方を現れさせ、見せることで、戒めとされるのでしょうか。
 

このような苦しみや悲しみについても、神の国に住まわせていただいたときには、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録二一・三~四)

 
 (ヨハネの黙示録、口語訳)
21:8
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
 (黙示録21:8、新約聖書)
 
神は恐るべきかな。偶像、偽り、を赦さない、報いがある、と書いてあります。だから、以前より、悔い改めの祈りをしなくても赦され救われるなどと言う者に対して警告を発しているのですが、彼は聞く耳を持ちません。
 
覆い隠す、の意味をすり替えて、自分の言いたくないことや認めたくないことを神の前に覆い隠す者よ。神は総てを見ておられる。
 
 
(2017年01月17日)
 
 

 

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