ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年01月

 
  笑う偽善者
 
 閑話休題・・・初笑い
 2017/1/15(日) 午前 8:27
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27901824.html
 
 初笑いをどうぞ
 2014/1/7(火) 午前 10:24
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/25192072.html
 
 
彼に騙されて隷属している人は除いて、この記事、ジェジェジェ、ウヘェー、ドドン、パチパチ、オヨヨ、ケッケッケッ、トホホ、サスガ!パチパチ、・・誰でも、この状況で、お笑いの記事だからと、笑えるものなのでしょうか。昨日、彼は、身内の不幸について続報を書いたばかりで、それに、ただでさえ、毎日、批判されているのですが。問題に真剣に向き合うことをしない彼の特徴です。
 
初笑いといっても、新規文書ではなく、引用部分は過去記事からです。感性と思考が、おかしくなると、笑いのセンスも、おかしくなるのでしょうか、彼は、この状況においても、お笑いらしい?記事を引用して、正月だから初笑いと、何も応えていないと、季節を愛でる余裕があると、示したいのでしょうか。そのことが、彼の不感不応を表していて、笑える状況かどうか、分別を付けることが出来なくなった人格を表していて、さらに異常に感じるのですが。
 
少なくとも、昨日書いた、不幸の報告を、気にしなくていいと言うことでしょう。そして、ならば同情を引くために書いたのか、ということになります。少なくとも、彼の不幸に対する、いかなる気遣いも無用だということが分かります。
 
最近は、自分で考えて文章を書く、ということが出来ないようです。自分で文章を書くと、破綻百出です。今度は、文章の引用のしかたに、破綻が表れます。今回の文章は、この世の法制度的なことは、信仰については関係ないというようなことを書いています。また、教会は、民主主義でなくてもよい、と暴言を吐いています。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
12:13
群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14
彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15
それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
12:16
そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 12:17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 12:18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 12:19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20
すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21
自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
 (ルカ12:13-21、新約聖書)
 
この箇所は、富に執着することの愚かさを説いている大事なところです。
 
>イエスの仕事ではありません。
>イエスが富について語られる時は、その処分の過程に介入するためではありません。
>法律と社会の問題だからです。それよりも、いかに使うべきかを明らかにするために、
>また、富の持ち主に課せられた義務を説明するためです。
 
彼にとって、法制度と、信仰は全く別のものだと、すっぱり言って斬っているようです。彼は、どちらも、人倫という深い問題に関わっていることを知らないのです。どちらも、人はいかにあるべきか、という問題に関わってくるということを知らないのです。
 
法制度は、その最小限を文章にしたものです。法制度は、人間が作った者だから完璧ではありません。だから国によって違うのでしょう。しかし、神は、人が正義を考えることを、全く無視されるでしょうか。彼は、また、常軌を逸しました。
 
彼の本音は、恐ろしいものだと推測します。
 
彼の本音は、恐らく、正義は、自分の中で、すでに決まっており、動かない、というのでしょう。その正義とは、彼の自己中心による偽善を、彼の神?が、彼に対しては特別に、許しているもので、批判など受けるいわれはない、というものでしょう。これまで、彼がやってきたところの、彼の都合のみによるコメントそしてコメント欄の削除、批判の拒否、経過の隠蔽、それらによるブログの正当性の偽装、この偽善が、彼が、神?と呼ぶものによって、悔い改めることなど無用で、許されていると言うのです。彼は、自分を中心とする権威主義者以外の何者でもありません。
 
>特に、争っている二人の兄弟に向けて、
>富という問題についての教えに導くことになるからです。
>「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われます。
>この兄と弟の二人に実際必要なことは、話し合うことによって、
>どのようにして自分たちの富から心を離すかを学ぶことなのです。
 
このことを書く資格は、彼にはありません。彼こそ、話し合う、という双方向を拒否しています。彼は、心の富である尊敬と聖職という立場を守るために、すなわち、保身のために、自我を総動員して、批判を受け付けないために、これからも削除してゆくでしょう。
 
>一方の貪欲はもう一方の貪欲と必ず対立するからです。
>争いや戦争の絶えない人類の歴史の中で、
>人びとは、たびたび、イエスを自分の側に立たせようとしました。
>自分たちの弁護者としようとしたり、軍勢に組み入れようとしました。
>わたしたちも、いろんなあいまいさの中にイエスを引き入れようとします。
>同じことが、今日でもおこっているのです。
 
上に述べた彼の背教の事実は曖昧ではありません。彼こそ、批判に答えず弁明せず、にもかかわらず、賛同者には、呆れるほどの無理解であることを示すような文言で、呆れるほどの称賛を送っています。分からないと言えない人の宿命です。彼の賛同者の中の一人二人は、彼を弁護して、私を攻撃してきました。信仰を持たない人も、彼は賛同者にしてゆきます。彼の武器は、聖書語と丁寧語と、吐き気のするような褒め言葉です。そこだけ彼はプロなのです。味方を増やし、自分の言説に神とキリストをくっつけてきたのは、彼に他なりません。
 
>この危険について、問答という形で修道女たちに警告しています。
>世間が、「あなたの修道院では、政治に反対する習慣がありますか。
>政党から離脱せずに、僧衣を着ることができますか」と質問しています。
>修道女への助言は、「答えを探さなくて結構です。笑うだけで十分ではないでしょうか。」
 
引用のようですが、これだけでは、ちょっと意味不明です。しかし、彼の狙いは、はっきりしています。批判をするな、と言いたいだけです。ユーモアと書いても、彼が、批判者に向けた笑いは、あざ笑いでしかありません。この引用とは甚だしく異なっています。彼の特徴です。全然違うところから、言葉面だけを当てて、自分が正しいと言い張ります。言葉が壊れてきても同時に言い逃れをするなら、こういうことになります。あざ笑うだけで何も弁明の根拠を持たない人、それが、彼、シャローム氏です。
 
>あるキリスト教信者が、「あなたは進歩的ですか。
>私は完全を求めています」と尋ねます。
>これに対しても、同じ助言です。
>「答えを探さなくて結構です。笑うだけで十分ではないでしょうか。」
 
これも、あいまい、というより、さっぱりわからない文章でしょう。進歩的、完全、笑う、これらが、文脈でどういう意味を持つのか、説明していません。恐らくこれも、言葉面だけで、笑って済ませろ、と言いたいのでしょう。彼が批判者をあざ笑うように。
 
分かるような説明が出来なくなった彼は、元々説明などする気はないのかもしれません。引用しても、自分で書いても、彼の、他者をあざ笑って生きる姿勢は、表れてくるでしょう。無根拠の権威主義とはそういうものです。
 
>もし、だれかが、教会を民主主義組織にしようとしたり、
>   神の国を社会主義国家にしようとしたり、
>   福音を政治的なものにしようとして、
>   あなたを巻き込むなら、
>何か言おうとして答えを探さなくて結構です。
>笑うだけで十分ではないでしょうか。
 
政治的なことをたくさん語って、自分と同じ信仰を持たないからだと豪語していたのは他でもない彼であります。自分の信仰観?を政治に絡めて喋りまくって、人々を巻き込もうとしたのも彼に他なりません。「福音を政治的なものにして」・・これは、まさに、彼自身であります。自分の卑怯卑劣と偽善を、笑うだけで済ませようとしているのは、まさに、彼自身であります。
 
政治思想と法制度というものの土台には、人間のあるべき姿を考える、ということがあります。彼は、それを考えず、笑うだけで十分だと言っているのです。やっぱり、彼は、信仰ですべてを説明し、それ以外と彼が思う倫理的なことを、極度に軽く見ています。信仰が、彼にとっては、信仰と自分が関係ないといったら関係ないのだ、ということのようです。自分の非を認めないくせに、神の言葉気取りで、批判拒否の言葉面を並べることを止めない、彼は、少なくとも言論人としては、狂っている、と言っていいのではないか、と思います。
 
彼、「その名は不思議」の管理人、シャローム氏の、空恐ろしさは、これだけではないと思います。彼が、牧師として説教壇に立っていた30年間と、ここまで、偽善によって信仰に背きながら、なおも信仰を説いているつもりの自尊は、間違い、勘違い、という、一時の印象のある言葉では済ませられないような気がします。サイコパスか、サイコパスが自分に都合のよい信仰を持ったのか、単なる信仰の曲解か、まだ分かりませんが、だんだん、ただの過ちではないような気がしてきました。こうなると、批判も言論も無力ですが、私には、批判という言論の手段しかありません。
 
私は、批判記事を大ざっぱに段落に区切って、彼の、まだコメント欄が開いている記事に書き込んできました。ここまでするのは、信仰という大きなテーマだからです。彼のブログは、全部調べたわけではないが、大方、私が書いたコメントがコメント欄ごと、削除されています。下記アドレスの中には、記事のタイトルにコメント数を表す数字が書かれているものがあります。その記事からコメント欄がなくなっているのは、ほぼ間違いなく、彼が、コメント欄ごと削除したということです。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=35
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=34
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=21
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=20
 
彼は、他にも、いっぱい、コメントを削除しています。彼と仲良くする方法は、彼の機嫌を取ることです。社交の世辞以外書かないことです。決して、コメントで、彼に疑問を提示したり、彼に反対意見を書いたりしないことです。そうすれば、彼から、信仰の理解とは別の、溢れるほどの褒め言葉をもらうことが出来るでしょう。アクセス数が増えているようだから、賛同から信頼してしまって隷属に近くなっている人は、増えているようです。一方、彼が削除するのは、そういう常時安穏を乱す者に対してで、それが信仰者かどうかなど関係ありません。
 
しかし、言うまでもなく、それは、信仰という大きなテーマについて、1ミリも深めることにはなりません。彼は、偽装と偽善で生きてきて、言葉面だけを追って褒めまくり、ときには転載さえする、という、いつも笑っていて、自分の機嫌以外、何も感じることのない、自尊絶対信者です。彼が信じている対象は、決して、在って在るもの、ではありません。だから、彼は、平気で、どんなときでも、笑っています、あざ笑っています。悪意ある先生が劣等性を笑うように。それが信仰による柔和だと思っているのです。それが、彼の信仰?です。
 
社交以上には、決して非を認めない者が、笑いながら紡ぐ言葉は、人に分かるように整える思考もなく、共有できるものもなく、人の気持ちを察する感性もなく、共感できるものもなく、ただ、自分に有利な言葉面を並べるだけなのです。以前付き合いのあった哲学系と仏教系の人が、既に呆れたのか、離れているようです。特に、考えることを旨とする人々を、狂わせるだろうと思われるブログと管理人です。でありながら、あらゆる災いを隠蔽して、今も、まだ、彼は、ユーモアと称して、笑っていられる人なのです。恐らく、窮地に陥ったときの彼の感情は、怒りと恨みだけのような気がします。「悲しいことです」という言葉では表せない、本当の悲しみを、彼は、感じたことがないような気がします。
 
 
(2017年01月16日、同日一部修正)
 
 

 

 
  自尊絶対の生き方
 
 いのちを与えるパン
 2017/1/13(金) 午後 6:37
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27899280.html
 
 いのちのパン
 2016/4/21(木) 午後 4:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html
 
 イエスはいのちのパン
 2011/4/24(日) 午前 7:42
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19694661.html
 
 いのちを与えるパン
 2010/2/24(水) 午後 1:59
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/12669226.html
 
 
彼の正当化は、手段を選びません。人の弱点を突きます。奥さんが癌ということなら、批判も鈍る、ということを百も承知のようです。彼が自己正当化に利用してきたものは、聖句、他者の記事、賛同者のコメント、反対意見がないかのように見せかける削除などの強制力、苦労話、そして、家族の不幸、・・だからこそ、信仰について改めて考えてみるべきなのに、彼は手軽に手に入る目先の安楽に手を伸ばして、それを自分で神?に結び付けて過ごします。彼は、刹那的な安楽をつないでゆくことでしょう。彼は、あらゆる批判と罪と偽善を、ことごとく無視して、批判者や敵対する者をいつも迫害者に見立てて。彼は、それが信仰だと思い込むに至っています。
 
>今日まで守られ、来たりしわが身
>つゆだに憂えじ、行く末などは
 
守られてきたとは、彼にとって、自分の好きなように、人を傷つけても、けがしても、無視しても、気にせず、そのとき、一番安易な行いを選ぶということです。つまり、世辞を言うこと、はぐらかすこと、当てつけること、ブロックすること、侮辱すること、そして、削除すること、そして、隠すこと。自分が安楽な気分でいられれば、それを神の与えた平安と、感謝し讃美するのです。
 
>つゆだに憂えじ、行く末などは
 
それは、憂えないでしょうね、他人のこととなると、なおさら。だから、他者に言うとき、まるで本気がなくて、浅さが見えてきて、称賛が世辞に、忠告が、おおかた、侮辱になってしまうのです。
 
>いかなる時にも 愛なる神は
>すべてのことをば 良きにしたもう
 
人がどう思うか、また、自分が何をしたのか、について、無関心そして不感不応になれるので、自分に都合のよいすべてのことを神がよくしてくれた、と感謝し讃美するのでしょう。
 
このような、信仰ではなく、その時々の安楽をつないでゆく生き方は、満足できないときの結果が、怖いことになります。それを防ぐ条件反応のように、どんなときにも、合理化や無視と思い込みによって、感謝と讃美に結び付ける心性が養われてゆくでしょう。そこに、他者が巻き込まれると、おかしい、おかしい、なぜ、が続くことになります。本人は、それを感じることが出来ないか、感じることをしないので、神に感謝し讃美するたびに、よほど従属的な人を除いて、人の世界に、通じない関係が生まれ、傷つく人が生まれることになります。人間関係を犠牲にする生き方と言えるでしょう。
 

 
キリスト信仰は、罪の自覚を考えるところから、始まります。罪を感じなくなるところからでは決してありません。信仰者は悟った人ではありません。悟れない人を認めた者であります。そこから、我ならぬ頼み、そして、人ならぬ頼みとして、神のみを信頼し寄る辺として生きることであります。そして同時に、神を恐れる態度を身につけます。神の領域の聖なる御方に当てられた言葉は、いずれも人のための仮称に過ぎないからです。そして、神を、見た、知った、分かった、ということを慎みます。それは、身の程を知らない人の決めつけだからです。神はすべてを支配しますが、人は身のまわりさえ支配できません。
 
神に正直である人は、神の前に嘘はつきません。もし、別のものを神よりも恐れて、嘘をついたときには、反省し、告白して改めます。常に、神と人の関係は双方向です。神は何も直接には教えてくれないけれど、全能と自分の違いによって、自分には過ぎること、的外れの罪、というのは、ある程度、分かるからです。人の本性として、時間的空間的に限られた人にとって、神の正しさは分からないが、人の不全は、それを無視する者以外は、分かることがあるからです。
 
キリスト信仰の聖典は聖書ですが、読んで理解するときに、自分の理解を絶対とはしません。これは、つまり、修正可能にしておかなければならず、それは、人の言葉の相対性と、人の心の相対性とによって、人は、不全でありながら、成長してゆく務めがあるからです。絶対とした時から、成長はなくなります。これは、相対が、絶対に対するとき、いつも、必要不可欠のことです。
 
キリスト信仰は、人を生涯にわたって支える信仰でありますから、ある時の幸福や不幸を決めつけません。そこから、神の判断と意志は、人には、本質的には分からないからです。刹那的幸福感に陶酔することを戒めます。ご機嫌取りのように、いつも神をほめたたえ、それが成ったと思い込むことによる多幸感を戒めます。また、絶望感に対して、最終的に残るものとしては、祈りのみを手段とします。祈りを、人が神に対して行える唯一のことと考えます。
 
以上のように主張するのは、これ以外の、神が分かる、奇跡が分かる、聖書が分かる、などと言ったところからの、信仰のメッセージは、ほぼ間違いなく、人の神聖に対する決めつけによるもので、創造主である絶対の神を信じ、救い主であるキリストを信じる立場からは、この地上での現実から逃避する方向しか持っていないと考えるからです。
 
また、人は、努めて双方向でなければいけません。また、キリスト信仰が、自分信仰になってしまうような動きに対しては、言論をもって、自分信仰が来たす神がかりと人間離れの種々の矛盾に対して、その意欲のある人が、それを指摘することをもって闘うことが必要とされます。キリスト者は、一部の者が、人の限界を弁えず、一時的幸福を宗教的に解釈して大仰に、また、いつでも起こる奇跡であるかのように吹聴することを戒め、人間としての心得と節操をもって、自他ともに戒めてゆくべきであります。
 
そして、このような闘いにおいては、批判者が犠牲になったり、逆に苛々や感情に任せて悪魔化することもあるかもしれません。祈るしかありません。そのような場合に、もし文章が残っていたら、批判的に見ていただくことが必要であるとともに、その中に、真実の欠片でもあれば、拾えるだけ拾っていただければと願っています。信仰の本質に触れる問題は、有無の問題になりますから、手加減は出来ないのです。以上。不具。
 
 
(201701月15日)
 
 

 

 
  無恥と無知
 
 私は福音を恥とは思わない!
 2017/1/12(木) 午前 11:48
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27897281.html
 
 
誰か、福音は恥だなどと言ったのでしょうか。不気味です。私は、批判対象が言っていることは福音ではないと言っているのです。それとも、強意のつもりでしょうか。でも、読んでみると、実際は、前と同じことを繰り返し言って、しかも、どんどん乱れてゆくだけのようです。
 
>ローマ1:16~17ー私は福音を恥とは思わない!
>私は福音を恥とは思いません。
>福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
>信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
>なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、
>その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
>「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
彼は、福音を伝えてはいません。彼は、自己正当化の無罪信仰の言い逃れに、神の義を利用している冒涜者です。信じるすべての人にとって、救いを遠ざける彼自身のための欲の力です。何故なら、彼自身の言動に偽が明示されていて、その偽は、嘘に始まり偽善に進ませるからです。彼は、信仰は偽善によって生きる、と言い張っているのと同じです。
 
>福音は罪の奴隷からの解放を告げる神の力あることばなのである。
>それだけではない。さばきからの解放であり、義とされるのである。
>それを得る唯一の道は信じることなのだ。
 
あらゆる信仰者の資格を失っても、自身の欲と自尊の言葉を信じると言って聞かない彼は、信仰も思考も失って、まだ言おうとする、無反省の極み・・。彼は、罪の自覚ではなく、義でもなく、無神経を告げている。神の裁きも受けなくていいのだとさえ言っている。彼は、信じたら、悔い改めなくても救われるという、一回で完了する救いを騙る不埒者だ。しかも、その宣伝のために、聖書をとことん利用し悪用する。
 
>1コリント1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
>救いを受ける私たちには、神の力です。
> 
>福音の働きは救いをもたらす神の力であるよき知らせをすることである。
>ゆえに、私は福音を恥とは思いませんと言うのである。
 
彼は、福音ではないもののために、聖書を悪用しているのだから、彼の言説は、よき訪れ、どころか、命を滅ぼす不幸の手紙である。彼は、正常人なら、とっくに恥じて悔いているところだ。
 
>1コリント1:22~24ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
>しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
>ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
>しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、
>召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。?
>私たち人は神に背いたので罪に定められた。その罪には私たち人は無力なのである。
>解決することが出来ない。ペテロはそのために神が何をされたのかを
>声を大にして語ったのである。
>イエスの十字架の死と復活の出来事が私たちに救いをもたらしたと。
>人が救われるのは福音だけである。
 
彼は、聖句を人のために語るのに値しないと判断する。また、自分を除外した「私たち人は神に背いたので罪に定められた。その罪には私たち人は無力なのである。」などと、一見、罪を認めて、無力を認めたようなことを書いているが、その実、今も、反対者の意見を強制力で削除し続けている。これは、自分は無力ではないと言うのと同じである。彼は、誰よりも、いったい自分が、どう召されたのかを考えることが出来ない。行いにおいて既に神を裏切った者は、語れば語るほど福音に背く。
 
 (使徒行伝、口語訳)
2:36
だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
2:37
人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38
すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
 (使徒2:36-38、新約聖書)
 
悔い改めなくても救われる、と主張する彼は、わざわざ墓穴を掘ることに定められているかのように、悔い改めなさい、と書いてある聖句から、その一部だけを載せている。
 
>ローマ3:23~24すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
>ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
>価なしに義と認められるのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
3:21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
3:27
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
 (ローマ3:21―28、新約聖書)
 
彼は、常套句である、キリストの十字架の贖いを強調し、それで、すべて、救いが成った、自分は何もしなくてよい、罪の悔い改めもしなくてよい、と安心したいのでしょうが、それは、神に、彼が、悔いることもなく、罪を告白し祈ることもなく、彼の言説に従って、罪の見逃しを要求していることと同じです。彼は、救いを受ける以前の人の姿のようです。神は総てを見ておられるのだから、いつまでも神が見逃し続けるわけではないでしょう。
 
神の前に無恥であってはいけません。自分を見て、神の前に無知を認める自覚が大切です。
 
義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだから、神の救いの福音に対して、人からの反応が信仰なのでしょう。彼は、まともな反応をしないで、反対者を平気で葬ることを信仰としてきた者です。
 
>罪は神に対する背きであるから、神は許されない。
>しかし、人へのあわれみのゆえにイエスにあって、神が福音を備えたのである。
>私たち誰でもが価なしに受け取るためである。
 
彼は、あわれみのゆえに、と書いて、なにゆえの、あわれみかを書かない。前にも書いたと思うが、神が人を憐れむのは、人が、魂を砕かれ、いかなる強制力も失って、弱くなり、この地上で助けとなるものを持たず、神以外に寄る辺がないと認めるからです。それが祈りなのです。
 
彼は、未だに、偽善と隠蔽を続行しており、強制力を行使し続けており、自分が強いつもりで、今も、こうして、言い訳と言い逃れのために、我を張って、あがいているのです。彼は、弱さを認めていません。認めているなら、行いに表れるからです。
 
>ローマ10:14
>しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
>聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
>宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 
宣べ伝える人は必要です。しかし、宣べ伝える人が偽善者であって、偽善を施し、その言い逃れに、この世の欲と知恵を用い、他者の意見を封殺するような者であってはいけないのです。彼は、彼の偽善のために、宣べ伝える資格を失い、さらに、言い逃れを続けているので、福音を受け取る機会さえも逃しているのです。彼の特殊なひいき筋以外、誰も、彼などに、宣べ伝えてほしいとは思わないでしょうし、彼の語る福音は、駄弁と詭弁の、灰と塵に堕してしまいました。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14―17、新約聖書)
 
彼は、キリストの言葉について、自分と異なる解釈を許さず、全く聞こうとしません。彼という人の思いの中に、こびりついている固い遺残物だけを、いつも削っては持ち出し、求められてもいないのに、繰り返し表面をなぞるだけで自己満足するのです。だから、今も、このように、聖句を持ち出して、偽善に染まっている自分を、なおも、宣べ伝える者の麗しさをもって伝える者として、慢心しているのです。聖句をよく読むだけでも、彼が信仰の本質から外れていることが明らかになるでしょう。彼は、キリストの言葉を語りましたか。いえ、とんでもない、彼は、自説にキリストの言葉を貼り付けているだけです。キリストの言葉は、生ける神の言葉です。彼の石膏細工の、脆く崩れた残骸ではないのです。
 
宣べ伝える人に誠意がなく悪意があって、ずっと誤魔化していて、言い逃ればかりで、この世の名誉に執着して、事実と反する綺麗ごとばかり並べていて、悔いることも改めることもない偽善者であるなら、どうして、どうして、彼に会ってよかったと思えるでしょう。どうして、感謝して福音を喜ぶことが出来るでしょう。彼は、福音と偽って、常時安楽訂正不能人間を作る教えを広めようとしているのです。罪を知らず、恥を知らず、偽善を認めず、人の意見を聞かず、なのに、自分の言うことを聞け、福音だから、と言う。福音に反することを述べている彼は、悔い改めることが出来ないなら、黙るべきです。いつまで、ごまかそうとするつもりですか。
 
>ローマ10:14
>しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
>聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
>宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 
宣べ伝える人が嘘つきで、どうして聞くことができるでしょう。
正直でない人が偉そうに話すのを、どうして信じることが出来るでしょう。
間違って信じたことを、どうして信仰と呼べるでしょう。
 
神の前に無恥であってはいけません。自分を見て、神の前に無知である自覚が大切です。
 
 
(2017年01月14日、同日一部修正)
 
 


 

 
  混乱と滅裂
 
 イエスの死と古き人の死
 2017/1/11(水) 午後 11:29
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27896740.html
 
 
本人は・・彼は・・前よりも実のあることを言っているつもりでしょうか。だとしたら、前の文章に不備があることを認めたのでしょうか。実際は、同じような駄弁と詭弁の繰り返しです。収拾がつかなくなっているようです。言い逃れの断末魔の暴走です。
 
>聖書の言っていることは、それはそれで本当でしょうし、疑いませんが、
>その霊的な真理と自分の具体的な問題とはつながっていないのです。
 
本当でしょうし、と書くなら、これは、その人にとって真実にはなっていません。前に書いたように、言葉だけ、真理なんだろう・・、と拒まなかっただけです。
 
霊的な真理と自分の具体的な問題とはつながっていない、これは私も同感ですが、これも、人の言葉の限界だろうと思います。言葉だけからの実感は、永続しないのが人の世界です。だから、おかしな解釈をして平気でいるようなカルトが出てくるのでしょう。
 
>わたしの中の、自分でどうしようもない、この古い人は
>十字架で死んでいるという霊的事実です。
 
この霊的事実が、その人に分かったとして、伝えるのに、同じような言葉を使っているのだから、解説しようがないと言っているのと同じです。これは、ある程度、不可避のことで、キリスト教一般に言えることだと思います。
 
>その度に十字架に死んでいることを認めるようにしてきました。
 
>罪は人を縛り、奴隷としますが、真理は人を自由にします。
 
十字架に死んでいる、と認めたら、自由になったと書いていますが、結局、真理は人を自由にします、という書き方では、何も伝わらないでしょう。罪に死んだ、という意識が、訂正不能の、自分絶対化につながっている人の言い訳になっている、という事実によって戒められます。気軽に書いてよいことではないと。
 
>その後も、わたしなりの別の問題が起こってくると、
>その度に十字架に死んでいることを認めるようにしてきました。
 
実際に、行き詰まったとき、追い詰められたときに、警句的表現によって、ピンとくることはあります。しかし、
 
>罪は人を縛り、奴隷としますが、真理は人を自由にします。
 
こう言ってしまうと、霊的事実は、平板な言葉になってしまうのです。平板な言葉を神秘を見つけたかのように振り回すのは、自己顕示欲の強い者が、分からないとか、難しいとか、言えない人が、しばしばすることです。
 
そして、以下、彼の発言ですが、
 
>罪を犯すなら、だれもがその報酬から逃れることはできません。
>生ける神は全知全能であり、汚れなき聖、愛、義なる方です。
>私たちはそのような神によって命の息吹を吹き込まれ、生きたものとされています。
 
生ける神は全知全能であり、けがれを隠し、けがれなき者のように偽る者を、決して見逃しはしません。その者が、いくら、命の息吹を吹き込まれた、と言っても空しいばかりです。
 
>私たちは生ける神に対する全き信頼、信仰によって生きる礼拝者として
>善悪の基準を神のみ心とご支配にゆだねて生きる存在なのです。
>生ける神は常に全知全能、全き聖、愛、義なる方としてすべてを支配しておられます。
 
彼は、生ける神に対する全き信頼など、持っていません。彼は、恥をかきそうになると、都合の悪いものを隠し削除し、けがれがないように偽装して、その痕跡を隠蔽しました。そのような者が、生ける神に対する全き信頼を寄せていると、どうして思えるでしょう。そして、白々しくも、神を、全き聖、愛、義なるお方と、讃える嘘をどうして見過ごせるでしょう。今日も昨日も、彼は、見えないところで、不法をなしているのです。
 
彼は、善悪の基準を神の御心とご支配に委ねて生きる存在、と自分のことを言っていますが、その生き方に、自己の見かけを装う、偽装や、他者を省みない罪と偽善が、あるというのでしょうか。御心だから、そうしたと言うのでしょうか。神を盾にして、自分を無罪にしようという、自分の責任を、神に転嫁しようという、最も悪質な言い逃れです。
 
>それ故に、私たちはただ神への信仰、信頼のほか自らのうちに善悪を判断し、
>自らの生き方を選び取る必要はありません。
 
信仰を持っているから、善悪を判断したり生き方を選んだりする必要はない、と言っています。彼は、そうして、善悪の見境なく、罪に偽善を、偽善に偽装を、偽装によって、さらなる罪を、重ねる生き方を選んでいるのです。彼は、これを、信仰によって与えられたと、暴言を吐いているわけです。
 
>しかし、神の愛のゆえに、私たちの信仰を支配されず、
>自由な意志による信仰を喜ばれるのです。
 
自由な意志は、何をするでしょう。神の下にあって、自由な意思は、善悪を判断する分別を持ち、自分の生き方を選び、ゆえに、信仰者が誕生し、生きてゆくのです。そして、不全なる身ゆえに、正直に告白し、悔い改め、癒しと救いと導きを祈り願うのです。信仰者の当り前の分別も持たない人が、次から次に自己矛盾を露呈しています。また、彼は、善悪を判断せずに反対意見を削除した、とでも言うのでしょうか。
 
>私たちが自由な意志による信仰によって神を喜び生きるか、
>自分の自由な意志によって、善悪の基準を判断を自分自身のうちに持ち、
>神から独立して生きることができる自由を与えられたのです。
 
神が手とり足とり教えてくれるわけではないのだから、信仰者でも必ず善悪を判断します。善悪の判断をしなくてよい、などと言うことは、終末までないのです。それにしても、初歩的な道徳的な善悪の区別もつかない者が、神から独立して生きることが出来る自由、などと言っているが、彼は、いよいよ自分から信仰者の立場を勝手に逸脱して、自分の境地を天国?にしたいようです。
 
>「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、
>賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、
>また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記36節)
 
>ここに書かれていることは、今もテレビ、ネット、新聞にいっぱいです。
 
次に、また、彼の、ぼろくそ節です。創世記の失楽園の話を持ってきて、自分を圏外に置いて、社会批判か、テレビ、ネット、新聞を、悪の誘惑と断じています。
 
>つい油断して、甘い香りで誘われ、つい食べてしまうと
>私たちの心と生活が吐き出し捨てられない苦さでとらえられてしまいます。
>罪の支払う報酬による死の苦みです。
 
先ほどから、自分が信仰によって完璧であるようなことを言っていたのに、つい油断して、・・・捉えられてしまうのですか。ではなぜ、自己正当化をするのでしょう。やはり、いつものように、これを、自分以外のこととして言っているのでしょうか。
 
>私たちは罪の報酬である死から逃れることができません。
>罪の奴隷というのは空虚な言葉ではなく、現実です。
>私たちの罪の重荷、負債は死の代価によって支払わなければ負債です。
 
死は、もはや負債も貯金もないでしょう。あとは、書いて何になるのか、特に3行目は、意味不明・・。
 
>しかし、死は滅びを刈り取ることです。
>生ける神は私たちが負い、私たちが支払うべき死の負債を支払うことによって、
>私たちの罪を贖い、罪の赦しを信仰によってうくべき賜物として与えてくださいました。
 
ひどいと思うのは、彼は、このあたりの文脈を、罪、滅び、負債、賜物、といった、彼の言うところの、霊的事実を書いているつもりのようですが、読んでみると、全く、人間として共感できない、ピント外れの、ピンと来ない、表面教理の零的?言語になっている、ということです。人間離れが進むと、こういうことを繰り返すようになるという典型を、ここでは、フル回転させてループしている彼の悲惨さを受け取るだけです。
 
>あるひとりの人を知っています。多重債務で追われ、苦しみ、逃げ回っていました。
>いつも両親が支払い、退職金、結婚の準備金、老後の貯えも使い果たしてしまわれました。
 
>私たちにいのちを与え、愛しておられる神はその聖、愛、義なる方であるがゆえに、
>ご自分の独り子であられる御子イエスの命、血によって私たちの負債である死、
>罪の代価を支払ってくださり、ただ信仰によってうけることのできる賜物とされたのです。
 
>ご両親の愛によって罪の代価である多重負債から自由にされながら、
>その人はついまた同じことを繰り返してしまう、自分の弱さに気づいていました。
 
何を言いたいのでしょう。一つの例をもって、一般を結論してはいけないのですが、どうも・・実例を挙げているようで、神の賜物、それが成就した話なのかと思えば、同じことを繰り返してしまう弱さ、主張が見えません。
 
>私たちも神の限りない愛によって赦され、愛されていても、
>弱さのゆえに罪を犯してしまいます。
>イエスさまが私の罪のために死の代価を支払ってくださったのは
>神の不退転の愛であり、赦しです。 
 
神の不退転の愛と赦しが、自分に注がれていると豪語しています。なぜ、豪語と書いたかというと、キリストの贖いによって信仰を与えられたものが、偽善を平気で行い、そのことを悔いもせず、改めもせず、偽善を続けることは、あり得ないからです。こんなことを書くから、また、偽善が増し加わるのでしょう。神の愛は不退転でも、彼は退転して反対方向に遠ざかっているのです。
 
>その信仰の歩みにおいて、イエスさまの死とともに、私という自分自身も
>イエスさまとともに一緒に十字架に釘づけられ、死んでいるという霊的な事実によって、
>滅ぶべき死の身体を生かすために生きておられる聖霊に導かれて生きることが信仰の歩みです。
 
不適切な比喩も文脈も霊的事実と言えば通じると思う安易さを感じます。また死んでいる、を繰り返してきました。にもかかわらず、滅ぶべき死の身体を生かすために、と続いて、聖霊に導かれて生きる、と言っています。逆説的表現のつもりが、混乱表現になっています。
 
つまり、前の彼の記事では、自分は死んだから無反応だ、と言ったから、削除と詭弁の継続で反応していることを指摘しましたが、今度は、聖霊に導かれて生きる、という居直り的な宣言になっています。無反応の言い訳に、聖霊を持ってくるという、奇妙な流れで、今の彼の生活が、聖霊によるのだと、自分の罪を否定できると思っているようです。
 
矛盾だらけで、どこにも整合性がないし、滅裂になってきているのだろうと思います。少なくとも混乱して、説教にも弁明にもなっていない。毎回、こういう記事を、見せる価値があると彼は思って公に出してくるのですから、真摯に信仰を求めている人にとっては、甚だ迷惑であり、無駄であり、やかましい騒音のようです。まことに、おぞましい始末で、批判者を疲れさえようとする戦術ではないか、とさえ思えてきます。
 

 「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、
  からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
  もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、
  キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、
  あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、
  生かしてくださるであろう。」
  (ローマ人への手紙8章10~11節)

 
イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、と書いてあります。つまり、信仰があるなら、でしょう。そこを問題としているのに、同じ慢心と傲慢によって、聖句さえも返してくる彼なのです。この引用の少し前に、
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:3
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
8:4
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
8:5
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7
なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8
また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
 (ローマ8:3-8、新約聖書)
 
聖霊に導かれて、批判コメントに対して削除という強制力を発動したと言うのか。信仰に従って、隠蔽と偽装で見かけを繕ったというのか、神の意志で、他者の意見を殺し続けているというのか。余りにも見苦しい。肉の思いによって保身に走ったシャロームさん、それを全く悔いることのないシャロームさん、改める気持ちもないシャロームさん、いくらあがいても、言ったこと一つとして成り立っていないシャロームさん、今度は、これで、自分は分かっているが、神の恵みがないと分からない、聖霊体験がないから分からないのだ、とか言ってくるのだろうか。・・勝ち負けではなく、うっとうしい・・
 
 
(2017年01月13日、同日一部修正)
 
 

 

 
  独善の凶器
 
 ノー コンデムネイション
 2013/2/2(土) 午後 8:58
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24007442.html
 
 
今日は、彼が新規投稿した記事ではなく、私が、彼のブログにコメントを書き込むために、コメント欄のある記事を探していたときに見つけた記事についてです。外面を、良さそうに見せている彼ですが、心の中は、以下のような聖句と教えの偏狭な解釈による独善の信条に染まっているのです。
 
> 従って、今や、
>キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
> (ローマ 8:1)
 
これで、何をしても、ノーコンデムネーションだと言っています。罪を犯しても責められることがない・・のだそうです。こういうことを教えている教会が現実にあるということなのでしょう。道理で、彼は、平気で、コメントとコメント欄削除を続けることが出来るわけです。彼は、それを信仰だと思っているのです。かれは、人を傷つけながら、神をけがしながら、神の御心を行っているつもりなのです。私が、以前は、直感的に感じた、胡散臭さの元凶が、ここにあったのです。常識など全然通用しない恐ろしい世界です。
 
罪に定められることがない、というのは、告白によって、罪を悔い改め、罪の赦しと、癒しと救いと導きを、神に祈り願うのが、キリスト信仰だからです。しかし、彼の信仰?は、正反対の解釈です。彼は、どうやら、キリストの同伴ではなく、ほしいままやって悔いない信条を同伴として生きているようです。
 
※ 
コンデムネーションcondemnation :
非難(すること)、有罪の判決、罪の宣告、宣告の根拠
condemn :
強く非難する、とがめる、だめだと決めつける、非難する、責める、有罪の判決をする、判決を下す、宣告する、有罪と思わせる、(…に)運命づける
 (
http://ejje.weblio.jp/content/condemn より。)
 
さぞかし、好きなように悪さを働きたい者が、信じると言って、入って、染まって、あまりの都合の良さに嬉々として出てゆくでしょう。こういうことを考えれば、直感的に、とんでもない解釈だと気づくのですが、考えないところが驚きです。彼は、まさに、このように実行し、また信徒に教えてきたのです。
 
>自分を責める思いはほっておくと、人にも向けられ、
>人を責め、裁く思いへと向けられていきます。
>自分の思い、考え、力ではどうしようもない思いですが、
>そこから解放される道があります。
 
カルトは怖い、ということが、そのまま当てはまります。自分を責める思い、これは、罪悪感または罪責感ですが、これを、傷を深くし裁くことにつながるからよくないと、まるで、害悪のように見なしています。
 
自分を責める思いを放っておくと、人を責め、人を裁く思いへ向くと言ってます。おかしいです。自分を責める思いが長く続くと、葛藤を抱えることになって、自分の心の病のほうに向かうことはあるでしょう。その症状によって、周りが心配することもあるでしょう。
 
しかし、自分を責めなくなることのほうが、はるかに、危険なのです。無条件に自分を責めなくなる人は、好ましくないことが起こると、人のせいにするのです。特に、宗教的確信によって、自分を責めなくなると、自分に反対する者に対して、それこそ、神の敵、信仰の敵として、異教の取るに足らない者、ゴミ屑同然のように、蔑みます。どう侮辱しても、何も罪悪感を持たず、代わりに、使命を果たしているという確信に満ちて、訂正不能の無反省な人になってゆきます。すごい詭弁です。
 
彼の言説だと、確かに自分を責めないのだから、楽にはなるでしょう。しかし、代わりに、人を責めることになり、これでは、信仰?の集まりは、誰が何と言おうと不感不応の凶暴な偽善者大量生産工場になってしまいます。彼の、依存や虐待についての、付け焼刃でしかない、安易で短絡的な精神病理学?も、心身症ならぬ「霊心症」や、民主主義ならぬ「神主主義」などという、名前を新しくすればよいというような幼稚な彼の造語も、そういうカルトだから生まれたのだろうと推測します。自分を責めないことを身につけてしまった人は、自分の過ちや落ち度や罪に気づくための感性も捨ててしまうことになるでしょう。
 
自分を責めることは、人間が生きてゆくうえでは、避けられないことだし、人間の修正機能として、むしろ必要なことです。そのための気づきの感性も、気づくための思考も、併せて大事なのです。信仰者においては、罪責感が長引かないために、反省し、告白の祈りと、赦しを求める祈りが、重要になります。信仰は、そのために、悔い改めによる罪の赦しの道を説きます。そして、罪責感を乗り越えて、日々新しく成長してゆく生き方を進めます。
 
罪責感もなく悔い改めもしないのは、むしろ、徹底した自己中心の人格と育てることになります。・・・ずっと、それを見ている思いです。
 
>自分の思い、考え、力ではどうしようもない思いですが、
>そこから解放される道があります。
 
どうか、キリスト信仰を勘違いしないでください。この点について、キリスト者の救いの道は、罪を犯しても、悔い改めることによって、自分を過剰に責め続けることからの救いであり、自分をいつまでも責め続ける、という病からの癒やしなのです。
 
正常な罪悪感は、罪を自覚し、祈りへと導く救いの道です。罪悪感を感じなくなることは、むしろ、キリストによる救いから、果てしなく遠ざかる方向です。彼はキリスト信仰を全く理解していません。逆に、長い間、ずっと反信仰を教えている、と言ってよいと思います。反社会思想につながる信条だと思います。
 
>罪に定められることはないとは、責められ、裁かれることがないという意味です。
>英語ではノー コンデムネイションです。
>キリストに結ばれている人は、もうその問題から解放されたのです。
>こんなに簡単に言いきっていいのでしょうか。
>これが福音です。
>信じて受け取りますか。
>クリスチャンと言われる人であっても、
>そう簡単に信じて、受け入れない人もいるでしょう。
>しかし、これは重要な信仰的事実です。
>受け取っておられますか。
 
彼の言説は、引用も含めて、もはや、これが福音です、信仰的事実です、と決めつけるだけで、福音伝道どころか、カルトの伝染活動になっています。無思考と無罪信仰の勧めをしています。今まで誰も忠告も批判もしなかったのでしょうか。他者をいくらでも舐めてかかっていい、という信仰なのですが。・・ここまで決めつけているとは思わなかった。罪と偽善と犯罪の精神的温床になるでしょう。彼の信仰は凶器です。
 
>それはだれでも神の愛を見失うと互いに愛し、
>受け容れることが出来ないことに気づかされるからです。
>そして自分を愛し、受け容れることのできなかった人も
>神の愛を見失っているからだと知らされ、
>さらに神は十字架につけられたイエスによって
>無条件に愛し、受け容れておられることを知らされて、
>自分を傷つけた人も自分自身をも
>赦しあるがままで受け容れられるようになるからです。
 
恐ろしいことを彼は言っています。これでは、神の愛を回復するためにと、逆に、罪悪の勧めをすることになってしまいます。信仰の名のもとに、ほしいままで、誰が何と言っても、どんな罪を犯しても、自分を責める必要はなく、いつも堂々として、罪悪感など感じなくていい、という人生が、至高の善の神への信仰になるわけはないです。
 
とても大事なこととして、あるがままで、というのは、罪を犯し偽善を施して、悔いもせず、改めもしないまま、という意味では決してありません。罪を犯したら、罪とともに、あるがままの情けない罪人の自分を、神に告白して、信仰の態度を改めるという救いの道がある、ということです。
 
>しかし、イエスを信じて生きていても、
>人の言葉や行為によって過去の傷が疼き、よみがえり、
>人への怒り、不信や自己嫌悪に混乱させられる
>という信仰の霊的戦いもありますが、
>神の言葉を聴きつづけ、祈り、聖霊の導きと助けによって
>次第に心の傷の痛みも思いも癒されていき、
>神との交わりが深められことにより、
>神の愛に生かされる者と変えられていくのです。
 
信仰によって、過去の傷からは解放されるでしょう。そのままの自分を神の前に投げ出すのが信仰です。そこに癒しがあるのです。
 
しかし、間違っても、彼、シャローム氏が、熱心に実行しているような、他者の反対意見を封殺して、見かけを偽装し、その痕跡を、次から次に隠蔽して、なお、身勝手な自説に固執して、悔い改めることなく、信仰のお手本の自覚で、さらに罪と偽善と隠蔽を継続しながら、自分の好きなように振る舞い、神を讃美して伝道してよい、などということには決してなりません。
 
彼の今までの言動は、このカルト的自己中心信仰の記事の理屈の特徴で、すべて説明がつきそうです。彼は、まさに、自己中心が認められることに気をよくして、彼は、信仰?の道に入ってきたのでしょう。このことによって、人をけがし、キリスト信仰をけがし、神をけがしていると、はっきり言ってよいと思います。
 
 
(2017年01月12日、同日一部修正)
 
 

 

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