ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年01月

 
  零的説明?
 
 罪の報酬と神の賜物
 2017/1/9(月) 午後 0:50
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27892370.html
 
 
また、霊的事実?を持ち出して、啓示の名のもとに、問答無用の説教をしようとする。何の資格があって・・。言論の双方向の場において、言い返せなかったということは、尻尾を巻いて逃げたということに等しいのに、批判を無きものにして、無かったかのように見せかけて、同じことを繰り返し言い張っている。これは、泣き止まない赤ん坊や、壊れたプレーヤーが無限ループしているのと同じということだ。話すことといったら、結局、必然的に、詭弁しかなくなるのである。
 
>主イエスを信じて、新しいいのちに生きる人とされているのに、
>その新しいいのちに生きることを妨げるのは、古き人であり、
>アダムのいのちでした。
>その古き人を支配し、影響与え、縛り、奴隷とする、
>その正体は、うちに宿っている罪でした。
>その罪の問題の解決はどこにあるのでしょうか。
>これこそ、キリスト教の神髄とも言えるテーマです。
 
アダムが善悪を知る実を食べたのは、食べる前から、神の御心に、すでにあったことでしょうか。それとも、純粋にアダムの罪でしょうか。アダムは、神からの祝福を全く受けることの出来ない反信仰者だったのでしょうか。アダムは、古い人として、神に背く者という不実の者、というだけでしょうか。では、なぜ、その末裔として、イエス・キリストが生まれたと聖書は記述しているのでしょう。
 
彼、シャローム氏の説教は、神関係の言葉を次から次に使いますが、その実、一度も、啓示らしく新しいことを、私は、受け取ったことがありません。受け取ったのは、同じことを繰り返して言い得たつもりの老醜と、礎を持たない偽信仰だけです。彼の説教は、難解な神関係の言葉で、読者を煙に巻き、聞いた人に、何やら、いいことをおっしゃられたんだろう(?)と思わせたい、という彼らしい、偽りの言説として、かえって、大事なものを、まさに彼らしく、蔽ってしまう効果を持っています。
 

ローマ6:10-11
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。(口語訳)

 
 (ローマ人の手紙、口語訳)
6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9
キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
6:12
だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
6:13
また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
6:14
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 (ローマ6:9―14、新約聖書)
 
>ここに「罪に対して死んだ」という言葉が2回も出てきます。
>誰が死んだのですか。
>罪が死んだのですか。
>罪が死んだのではありません。
>キリストを信じたあなたやわたしが死んだのです。
>一つは、キリストご自身が十字架で死んだのは、この罪に対してでした。
>もう一つは、キリストを信じているあなたやわたしも、この罪に対して死んだのです。
>聖書はそう言っています。
>何度も言いますが、罪が死んだのではありません。
>その罪に縛られ、自由を失っていた人が死んだのです。
>死んだ人間は、殴られても、けられても、何の反応もしません。
 
死んだという言葉を、ふつうの人の死のように扱っています。これが、何らかの喩えであるなら、それが分かるように話さなければなりませんが、彼には、罪に死ぬ、ということを、理解する気もないのでしょう。だから、自分も死んだ、殴られても蹴られても、何の反応もしない、と平気で言ってくる。まことに、ぼろ布を、錆びた針で、しばしば自分を刺しながら、縫い付けようとして、無駄な血を流しているのが、今の彼です。
 
さて、罪に死ぬ、ということは、殴られても蹴られても、何の反応もしないことでしょうか。彼は、毎日のように、コメントをコメント欄ごと削除しています。何の反応もしてないでしょうか。今日はまた、詭弁を弄しています。何の反応もしていないでしょうか。少なくとも、彼は、当てはまらない・・。
 
彼は、毎度毎度、迷惑な詭弁をもって、少なくとも反応しているのです。するべき反応をしないのは、出来ないからです。彼は、体質と独善によって捻じ曲げられた偽信仰によって、人間なら、おかしいと分かることが、分からなくなっているのです。
 
悔い改めによって、赦されることを、罪に死んだというわけだから、私たちは、罪に死んだと言っても、肉体も魂も生きているのです。したがって、罪に死んだ、というのは、私たちは、悔い改めによって赦される信仰の道を知っているから、罪のことで、いつまでも病んでしまうようなことにはならない、ということをインパクトをもって喩えているとしか思えません。彼の言うように、無反応の屍のようになるのが、信仰なら、誰も、神を信じたりはしないのです。
 
まず、彼が、今、死んでいるとするなら、彼の人間性において、人間の直感的理解において、また、慎重な思慮深さにおいてです。そうして死んだ信仰は、罪に対して、死んだのではなく、罪に対して無力になってしまったのです。信仰が死んでいるからです。だから、詭弁を組み立てて、これで成った、という錯覚に容易に堕ちてしまうのです。
 
>このみ言葉を信じ、このみ言葉の啓示が自分のものとなった人は、ハレルヤです。
>これは単純に信じ受け取った人だけが分かる霊的な世界です。
>しかし、分かっただけでは終わりません。変化が起こってきます。
>新しいいのちに生きるという変化です。
>復活のいのちです。
 
慎みもなく啓示だとゴタクを並べてくるのは、人間としての立場を捨てたくて捨てたくてならないのでしょうか。ハレルヤまで付けて。こういう恥ずかしさを分からないのが、分からないと言えない人々、一部の熱心に信仰を守っているつもりの、熱心に信仰を壊してゆく者たちなのです。それゆえ、3行目から5行目までは、言葉だけ並べて、説得力や説明力の欠片もない、言い張っているだけの繰り言です。苦言を平気で消すだけの強硬な態度を持っているので、主のあわれみを受けても気づかないでしょう。
 
>「罪が支払う報酬は死です。
>しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
 (新約・ローマ人への手紙6章23節)
> 
>短い簡潔な言葉です。
>しかし、この言葉は聖書(旧約・新約)全体を要約していると言えます。
 
神の賜物、キリストによる永遠の命、まさに、これを出して、全体の要約だと、分かったふうに言ってしまう心が、すでに、天上に舞い上がるかのような傲慢の姿勢なのです。神、永遠、について、人は、分かったとは言えないはずです。それを説明できたかのように語るのは、自分信仰者の特徴です。読者は気をつけたほうがいいと思います。
 
ここからの引用6段落は、読みのがおっくうになるくらい、彼の教理話べったりの病巣に、何の実質も持たずに、こびりついている垢が、落屑として散乱してくるだけです。彼の信仰の実生活における偽善と偽装と隠蔽を思えば、到底、説教とは思えず、誰の心にも、表面的な理屈と詭弁で、妙な迷いを起こさせることのないように祈ります。
 
>この言葉の罪とは何かを理解なしに、死を理解することはできません。
>だれもが死にゆくものですが、罪が分からず、死をも理解できないまま
>生きている存在ではないでしょうか。
 
これを彼が語る、ということそのものが、自分は分かっている、という慢心であるということを、何度も言ってきたのですが、こびりついて取れないのでしょう。
 
>神によって神のいのちの息を吹き込まれ、生きたものとされながら、
>生ける神を見失い、あるべき姿と生き方を見失って、死を負って生きている存在
>それが、人の的外れの姿であることを罪と一字であらわされています。
 
その的外れが、毎日のように、人の意見を、反対はゴミ箱に、賛成には世辞を、と分別して自らの安寧を偽装しているのです。
 
>それではこの世に生を受けて生きている人にとって死のみが確かなことです。
>罪の結果としての死はただ単なる肉体的な死にとどまることではなく、
>神との関係を失った霊的な死であり、
>またその結果自己の死と他者との関係の死なのです。
 
死はそんなに分かりやすくはありません。誰も経験したことがないからです。それを持ってくること自体、自分には表現力がないと言っているようなものです。言葉だけをいじって並べても、人間として感じることも考えることも、彼の訂正不能の信仰?によって捨ててきて、信仰の文章を書こうと思っても、必要な感性も思慮もなくなって、整えることも書くことも出来なくなっていると思います。訂正不能によって、信仰者として、学習して来なかった結果だと思います。
 
>罪を負い、罪の奴隷として生きる時、人は自分がだれであり、
>どこからどこに向かって生きているものであるかを見失い、
>この世という地上のさすらい人としてさ迷い歩いているのです。カインの末裔です。
 
自分が何者であり、どこからどこへ向かっているか、を求めるのが信仰であり、それは終生続くのですが、彼は、当たり前に持っているかのように語り、非信仰者は見失っていると決めつけています。そして、カインの末裔だと決めつけています。何様のつもりだ、というのが当てはまります。この彼、シャローム氏とは、恐らく、誰も話が通じないと思います。通じていると思っている人がいるなら、それは、社交の世辞です。
 
>飢え渇く霊的渇きをいやすために、
>神ならぬものを神とし、自らを神のような存在とし、
>心は自己実現の幻を追い求め、
>愛の渇望を抱いて他者を自己の欲望の対象とし、支配し、
>ただ肉体の本能を満足させることを求めて、
>際限のない欲望に支配されて生きるのです。
 
これこそ、彼、シャローム氏の、今の姿です。自己満足の沼しか知らない人が、他者をぼろくそに言うときの言い方、といっても排せつ物ですから、今、人間として信仰者として道を求めている人は、気にしないでください。彼は本当に何様のつもりだ・・。
 
>すべての人が罪によって背負っている死の現実、
>これらのことを罪の支払う報酬である死だというのです。
 
死の現実、・・実感がないので、ふつう人には語れないから、使えない言葉です。彼は、言葉だけで、つなげて語った気になっています。死の現実の具体性がなく、心に響くものを何も感じられない。彼は、追いつめられても魂が砕かれることもなく、ただ狼狽して節操もなく、吠えているだけだろうと思います。
 
>しかし、聖書は罪の宣告で終わらず、
>「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
>と宣言しているのです。
 
そして、ここで、救いを豪語するのです。私は、人間から離れて、神の立場に成り上がって、ボロボロの自分を自覚しないまま、教えようとする彼の、浅ましさを感じるだけです。何の説明にも、解説にもなっていません。これを、素敵な説教です、とか、言われて慢心して生きてきたのでしょうか。
 
この話を誉める人は、彼に習って、社交の世辞を言っているだけ、と気づかないのでしょうか。このように聖書語をべったり並べて張り付けてくる文章は、読むほどに、人の意見を読む意欲をそぐものです。彼は、そういうことも分からなくなったのでしょうか。
 

 死は私たちが犯した罪の支払う「報酬」ですが、
 私たちを罪による死から永遠の命に生きる者とされるのは「神の賜物」だというのです。
 生まれながらの古い人は罪の奴隷として死の報酬を負い、
 神によるイエスの十字架の血による罪の贖いによって、罪の赦しを与えられ、
 神の賜物である神のいのちに生かされる救いは神の恵みによって生かされることです。

 
使われている単語を見てください。どれもこれも、今まで、使ってきた、また、この記事でも使った単語を、説明もせずに、解説も出来ずに、記事の上から下まで並べているだけなのです。何度並べてきたのでしょう。生きた人間の言葉ではありません。私が、皮肉を込めて、聖書語とか教理話、とか言うのは、こういう類なのです。
 
そして、いかに自分が聖書に通じて理解しているかを誇示したいのか、聖句を載せて、読者を見下ろす立場と姿勢から、追いつめられた使徒か預言者気取りで、その名は不思議と昔は牧師でもあった彼、シャローム氏は、かえって、その名をみだりに叫び、わめきちらしているだけです。
 
以上のような、説明にも説教にもならない、教理の言葉確認作業は、彼には自分独りでやっていて欲しいと思います。人間としての在り方を信仰に求めている者にとっては、甚だ迷惑です。
 
 
キリスト者は、彼のような、分かっている信仰?など求めてはいない。私たちは、キリスト信仰者は、聖書を読み、キリストの同伴を祈り願いながら、人間らしく、信仰の道を生涯にわたって求める者である。
 
 
(2017年01月11日、同日一部修正)
 
 

 

 
  覆い隠す危惧
 
 第二百四十九回
 2017/1/9(月) 午前 10:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27892192.html
 
 転載元:永遠のいのち
 2017/1/9(月) 午前 9:37
 記事タイトル:第二百四十九回
 
http://blogs.yahoo.co.jp/gonchanoosaka/14188141.html
 
 
転載記事が多くなりました。彼は、自分で弁明するのではなく、他者の記事の言葉の必然でない一致をもって、言い逃れしようという狙いが見え見えになってきます。それは、そのまま、偽信仰のために彼自身の言葉が壊れて、もはや弁明できなくなりました、と言っているようなものです。
 

罪の赦しは神によってのみ与えられ、どんな罪でも悔い改めるならば赦されると言われています。罪は赦されると無くなるというのではなく蔽われるという表現が聖書ではされています。

 
悔い改めるならば・・とあるように、決して、自分で罪さらに偽善を隠蔽することを是とするものではありません。言い換えや比喩で、分かりやすくなることもあれば、誤解されやすくなることもあり、その誤解のほうを取って、自己正当化を謀る不届き者もいるということです。また、言うまでもないが、罪を覆い隠すのは、赦すことであり、神がなさるのであって、人が隠すことを正当化するものではありません。
 
何をやっても、ノーコンデムネーション、責められることはないのだと言い張って、根拠を示した批判をことごとく封殺して、見かけの偽装を続けながら、神を讃美する、という破壊的事態に陥っている者がいます。
 
>罪を告白しその赦しを与えられるということは、人に罪を告白するのとは違います。
 
これをもって、人に罪を告白する必要はないと、隠蔽を正当化する者が実際いるわけです。彼は、我が意を得たりと大喜びしているでしょう。神の前に、正直な祈りをもって、罪を告白した者が、人の前だからと言って、平気で、罪を犯し続け、偽善を施し続けていられるでしょうか。
 

罪は神の恵みによって覆われ、キリストの義によって覆われることによって、消えてゆくものであります。だから、パウロはキリストの義を着るという言い方で言っているのですね。ああいう言い方の中に、実に深いものがあるわけで、キリストの義を着るという、あるいはキリストを着るという言い方すら出てくるのです。われわれ自身は何でもないんです。われわれ自身は変わらないわけですよ、本来。ところが、キリストを着ることが出来る、キリストの義を着ることが出来る。そういう時に、始めてわたくし共の根本が、自己から解放されると

 
神の恵み、キリストの義、キリスト(の義)を着る、と言葉を変えるだけで、書いた人は、実に深い、と言っていますが、本当にそうでしょうか。このように、言い換えで分かったような気になっている人は、少なくないかもしれません。その理解は、自分の中でのみ完結しています。さて、罪を赦される前と後で、私たちは、変わらないのでしょうか。人間の罪性は変わらない、けれど少なくとも、罪を赦されたという記憶、自分は罪を赦された者という記憶は残るはずです。それが、さらなる罪を犯すことの抑止となるのです。罪は悔い改めなくても赦されると決めつけて、まるで予め許可されているかのように罪と偽善を重ねる者など、論外なのです。その者にとって、信仰は、最初から、免罪のための企みに過ぎないからです。
 
非を認めない者の非を、他者も黙認するということになってしまうと、地上の信仰は、悪に対して犯罪天国を約束することになるでしょう。それに文句を言うな、と彼は言っているようなものです。
 

自分に死ぬということがおこるのですね。ですから、恵みに依って、始めて、罪が消えるし、自己からの解放がおこる。聖書が言っていることは、人間の側から言えば、ただ自己から解放されること、旧き自己から解放されることであります。そして、その自己というのが、罪の塊りなんです。自分、自分、自分ということが罪なので、その自己からの解放はどうしておこるかというと、自分の罪に拘泥することによってではなく、キリストの義に固着することによってであります。

 
罪は悔い改めなくても救われると言い張り、また、そのように、罪と偽善を継続しながら、一方で、神を讃美する不埒者もいるのです。その者にとって、キリストの義に固着する、というのは、涙が出そうなほど、ありがたい言葉でしょう。自分の勝手な信仰解釈を固着して、修正不能になり、学習不能になり、独善教理を、言い広めて、キリスト信仰をけがすことが、彼にとって信仰なのですから。
 

聖書の場合、キリストにあって、神はもはやわれわれの罪を見給わない、ということなんですね。キリストというプリズムを通してだけわれわれを見給う、ということ、このことが聖書に言っている救い、ということなのです。

 
まるで、神が色眼鏡でもかけているような形容です。赦す、ということの大切さが、魂の奇跡が、言い換えによって、薄くなり、失われてゆく危惧を覚えます。罪は人にあり、罪は悔い改めて罰することから免れている、という元の言葉のほうが、よっぽど分かりやすいと思います。自分で言葉を工夫してゆくと、原義の本質が薄くなる、色が変わったようにさえ見える、それを見て、隠蔽正当化と曲解する者が出てきて自己正当化のために転載する、ということを学ぶべきです。
 
しかし、元の言葉だけだと聖書語として平坦に、つまり何の感動もなく、固着してしまうので、人が福音を宣べ伝えるということは、ひるがえって、罪を明らかにするために、罪を重ねることかもしれません。ただ、その罪については、祈りにおいて告白し、態度を改めることで、赦しと救いの道を、信仰者は既に知っている、という違いだけなのです。
 

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(ロマ四・7,8)にあり、キリストを着るというのは、例えば、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の慾を満たすことに心を向けてはならない。」(ロマ一三・14、口語訳)にあります。

 
罪があると見なされない、は、罰を受けることを逃れている、すなわち、罪を赦されている、ということの言い換えです。パウロも、言葉については工夫をしているということでしょう。少なくとも、悔い改めなくても赦されるのだ、と繰り返すような狂信に至らないために。
 
キリストを着なさいと教え、そのあとで、肉の欲を満たすことに心を向けてはならない、と戒めている。これこそが、まさに、キリストを着たから、どんな罪も悔い改める必要もなく許されているなどと自己正当化に走ることが起こらないように、戒めているのでしょう。
 

われわれ自身は変わらないわけですよ、本来。ところが、キリストを着ることが出来る、キリストの義を着ることが出来る。そういう時に、始めてわたくし共の根本が、自己から解放されると申しますか、自分に死ぬということがおこるのですね

 
キリストを着る、自分に死ぬ、・・前述のように、これらの言葉は、語る者が、言い換えることで、なんとなく説明できたかのような気分になっているだけのことが多いと思います。しかし、説明のためには、別の聖句や、比喩・誇張・逆説表現を用いることは、やはり、あるのです。それは、場合によっては、罪かもしれないのです。人の言葉とは、そういうものだと思います。
 

罪というのも、人間の心・精神活動の基本的な部分に根ざしているのではないでしょうか。人間らしさ、人間特有の心が、ほんの少しのことで、罪になってしまうことがあるのかもしれません。心は物質ではありませんが、罪に汚染された部分を切除しようとすると、義しい心の部分を傷つけたり取り去ってしまうということもあるのかもしれませんね。だから、覆い隠してくださるという療法、恵みが最良の方法なのでしょうか。

 
この表現については、前にも述べたように、実際、罪は、赦された、蔽われた、罰することはなくなった、自分に死んだ、自己解放された、と言い張って、偽善の罪を認めない者が、その合理化のために利用する、ということが起こっています。
 
信仰は、人間臭い罪から、人間らしさを取り戻すためにあります。罪を犯しても全く気に留めず、平気でいるような人間離れをもたらす信仰?など、信仰と言えないことは、全く当然のことであります。
 
 
もう一度言います。人が福音を宣べ伝えるということは、ひるがえって、罪を明らかにするために、伝道者にとっては、罪を重ねることかもしれません。ただ、その罪については、祈りにおいて告白し、態度を改めることで、赦しと救いの道を、信仰者は既に知っている、ということであり、それ以下でも、それ以上でもありません。
 
 
(2017年01月10日)
 
覆う・蔽う(おおう)
隠蔽(いんぺい)
不埒(ふらち)
 
 

 

 
  宗教と政治
 
 悔い改めて福音を信じなさい! (その者、彼、管理人、シャローム氏)
 2017/1/8(日) 午後 2:47
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27890811.html
 
 
個人的な不幸を盾に、ますます信仰を身勝手に傲慢に語るシャローム氏に対して、もう我慢ならないので、批判対象のHNを出すことにします。
 
聖書を引用して、政治の見解を導き出そうという引用文章です。この政治的見解の内容には、私は、かなり同意できますが、私は、キリスト信仰から、ダイレクトに政治についての真実が生まれるとは思わないので、こういう宗教と政治を結び付けた文章には反対です。政治の意見は、一人の人間として、発表するべきだと思います。聖書を引用したければ、聖書をキリスト教の基本的な考え方のもとになることとして、個人を支える言葉として参考までの引用に留めるべきだと思います。
 
聖書から導き出したと言いたいような文章には、反発を感じざるを得ません。人は、神の真実をはっきりとは知り得ないのです。人は、聖書に従い、神に従っているつもりでも、必ず、何らかの齟齬を来たすでしょうし、さらに、信仰を損なってゆく可能性さえも考えておくべきです。
 
>オリンピックでの金メダルやピコ太郎の金色衣装など、
>なるほど金色は誰の目にも眩しく、
>豊かさの象徴でもあります。しかしこの眩しさが曲者です。
>わたしの目に、この「金」は「虚」と映りました。
>「金」に象徴される豊かさの中には、
>軍事経済力を背景とした強い国家建設への目論見が見て取れます。
 
>「金」の眩しさに隠されている、その奥に閉じ込められた世界を露わにし、
>そこに身を置かれる神と共に、真の歴史を担う者とされることを望みます。
 
黄金律などという言葉もあるわけですから、「金」の意味を信仰から断定しているような表現は、おかしいと思います。話のとっかかりかもしれないが、それにしても、例えば、この人は、金や、金持ちに、強い反感を、元々持っているのか、というような響きを与えます。「金」が曲者、ということは、元々は、信仰とは何の関係もありません。
 
>イスラエルの民が神の計画、即ち、希望と将来の約束を知らされたのは、
> 正に捕囚の地に身を置いた時でした。
>この弱さの中に置かれたからこそ、神の歴史支配に与ることができたのです。
 
神の歴史支配に与った理由を、つまり、神の意志を、信仰の立場から語っているように思われます。しかし、その希望の将来は、キリストを殺し、イスラエルを滅ぼした、という見方もあるでしょう。歴史を語るのに、常に聖書との整合性を計ろうとするのは間違っています。
 
聖書の整合性は、人間の直感を含めて、不全ながら、キリストに憧れるほどに、アハ体験を伴うこともあるほどに、個人において成り立ち、信仰となります。人の解釈が、イスラエルの、そして世界の歴史に、普遍化できるとは思いません。人は、神の意志をはっきりとは理解したりは出来ません。だから、神の意志であるかのごとく、政治や歴史を断定してはいけません。
 
こういう書き方をするから、シャローム氏のような一部のカルト的自分信仰者に利用されることになっています。その者は、神と聖書を持ち出して、強引に決めつけて、歴史や政治などの大きなことと結びつけて、大言壮語するのが大好きなのです。
 
>お互いの弱さを想いやる、そこに優しさがあるのです。
>わたしは弱い人を犠牲にして成り立つ強さではなく、弱さの中に身を置いて、
>優しさに溢れる平和を求めます。
 
その者は、本当の優しさを持たず、反対意見を平気で封殺し、批判などされない正しいブログを偽装しています。賛同者に対しては、その主張を理解もしていないのに、浮かれたような称賛を惜しみません。つまり、社交の世辞だけで、信仰が成り立つような卑怯なブログを作り、事実を隠したまま、反対意見を削除を続けたまま、信仰について、大きなことを言いたいだけの人なのです。
 
その者、彼、批判対象ブログの管理人、シャローム氏は、断末魔のように、預言者口調を強めています。以下は、彼の文章です。
 
>イエスは「神の国はきた。悔い改めて福音を信じなさい!」と宣言されました。
>そして、イエスの言葉と御業によって生きて働かれる神の国があらわされました。
>3年後、イエスは神の民イスラエルの指導者と世界の支配者ローマによって
>十字架につけられました。
>イエスによって宣言され、あらわされた「神の国」は
>この世の支配力によって挫折した・・・
 
彼は、キリストの十字架を、救いの神のわざと信じていたように思いますが、ここでは、挫折したと書いています。彼にとって、十字架は、痛いからでしょうか(皮肉です)。また、神の国があらわされた、と書いていますが、どう表されたのでしょう、現れたのでしょうか、人はそれを理解したのでしょうか。実際には、未だ誰も理解していません。
 
恐らく彼は、今までの記事から言うと、十字架を失敗としか受け取る感性しか持ち合わせておらず、ゆえに失敗したが、キリストが復活するという、どんでん返しの奇跡によってのみ、救いが成った、と言いたいのでしょう。彼が注目するのは、人には理解できない超常の奇跡だけなのです。それで信仰を分かっているかのように、奇跡が信仰のすべてとばかり、打楽器を打ち鳴らしているのです。
 
>しかし、イエスを十字架につけたイスラエルの民は
>かつて予言されたように世界に散らされ、
>ローマの平和を宣言し、全ての道はローマに通ずと誇ったローマは滅びました。
 
>しかし、神の民イスラエルとローマによって十字架につけられ、
>よみがえられたイエスは
>絶望の中に閉じこもっていた弟子たちを通して神の国をあらわし、
>ローマの支配を覆しました。
>それはイエスによって宣言された神の国の福音の力による輝かしい勝利でした。
 
ローマが滅びたことを、神の国の福音の力による勝利だと言っています。神が、福音が、ローマを滅ぼしたのでしょうか。武力で滅ぼされたのではないでしょうか。なぜ、こういうことを、一般の人々に向けて、平気で言えるのでしょう。
  
>その後、時は流れて、この世に仕えるものと化したキリスト教は
>科学技術を生み出し、ヒューマニズム、産業革命の指導原動力となり、
>世界中に植民地支配を広げ、
>キリスト教を旗印として侵略と搾取によって繁栄し支配したのです。
>欧米キリスト教諸国によって世界中は植民地化し、人権も資源も搾取されました。
 
このような告発調は、彼の得意とするところです。自分を神の側において、あらゆる悪から自分を除外した上で、他者をぼろくそに言うのです。そういう体質は、悪いことを全部他者のせいにして、自分の非を認めない、自分の罪を認めない、悔い改めない、という彼の信条に堅く結びついているのです。
 
このあとも、彼の、ぼろくそ世界史の説教は、欧米の植民地から、難民へと、続きます。彼が書いていることは、あながち、嘘ではないような・・、と思う人もいるかもしれませんが、私が批判しているのは、彼の言論のうち、信仰に関することで、呆れるほど、彼が、無節操な独善と、言行不一致と、偽善と隠蔽に関することです。
 
つまり、彼が、知識人ぶって、聖職者ぶって、劣った人々?へ教えを垂れる姿勢と態度で語り続けていることは、彼個人の快楽原則による、ひとかどの人物として、尊敬するべき聖書の先生として、尊敬を得たいがための、信仰とは何の関係もない自尊を高めることに他ならないということです。
 
ゆえに、その彼が他者を批判し世界を歴史を批判しても、彼自身は、人の批判をごみのように捨てて、自分の見かけを偽装するような無思慮で短絡した行動をとる偽善者ですから、その言行不一致が物語るのは、本気で、信仰も、歴史も、考えてなどいない、ということです。
 
>神が与えられた神の言葉の知識による科学の進歩によって
>石をパンにしようとし、
>神の言葉の宣教と力を背景にして自己を神の国であるかのように
>世界を支配し、搾取し、
>福音をキリスト教という宗教化、偶像化して、
>サタンに膝まづいたことによって
>確かに世界の繁栄を手にし、世界を支配してきました。
 
>イエスが神の言葉によって退けられたサタンの試みに屈したのです。
 
>イエスは「神の国はきた。悔い改めて福音を信じなさい!」と宣言しておられます。
 
私は、彼を、約5年間、ここ2年ほどは、かなり密に、批判しています。彼が、キリスト者であるなら、自分の信仰を省みて、少なくとも批判者との遣り取りを、紙屑のように捨てたり、消して痕跡を隠したりはしないはずです。しかし、彼は、反論を返せなくなると黙り込んで、コメントまたはコメント欄を消してゆくことを、まるで日課のように平気で続けているのです。
 
彼の信仰は、つまり、神に対しては誉めるのがいちばんとばかり、神を誉めまくる、という、社交をうまくいかせようとする愛想笑いの、おべっか信仰でしかないのです。その神に対して殊勝な様子に見せかけた言葉を並べて、自分が批判されているのに、それを考えず、解決せず、無視したまま、人に見せることにだけ積極的になれる、という、無分別の自己顕示欲でしかないのです。
 
>「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
>それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
>そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
>わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
>わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。」
> (旧約・エレミヤ書29章11~14節)
 
後に滅ぼされ散らされる王国イスラエルの救済を約束する神の旧約の聖句を書いて、今の結論としたいのでしょうか。歴史も、前後していることなど、彼は、どうでもいいのでしょう。追いつめられたのか、ますます、預言者気取りが著しく、サタンに負けてはならない(サタンは私のことか、政治のことか、外国のことか)、、このままだと滅びるぞ!、、救えるのは自分の信仰だけだ!、、と血相変えて、破れた打楽器を打ち鳴らしているようです。
 
確かに危機を迎えている時代だと私も思いますが、彼の言説に全く賛同しない理由を書きました。そういう時代だから、自分を見つめることの出来ない偽善者に魂を預けるような愚かなことになってはいけないと思うからです。
 
私たちは、キリスト者であっても、国民の一人として、もっと政治に積極的に関わるべきだと思います。宗教人は政治に関わってはいけない、というのは先入観に過ぎません。特に、政治は、関わらなくても、政治のほうから強制力で関わってきます。しかし、私たちは、神よりも遥かに劣るところの民、すなわち、人間であることを弁えて、自分の主張に神のを唱えてはいけません。
 
シャローム氏の言説などを見れば見るほど、聖書も聖句も、神・キリスト・聖霊の名も、それを断定的に使って言説の根拠とすることの出来る者は一人もいない、と感じずにはいられません。むしろ、そこに、神が人に、与え、授け、遣わし、キリストが命を懸けたところの、人が弁えるべき信仰があるような気がします。
 
私たちは、宗教でも、政治でも、学問でも、何についても、人間として自由に言論に参加したら、神に比べて、自らの主張の不全と、間違いの可能性を考え、折に触れて、主張も行動も経過も結果も、祈りのうちに神の前に捧げて、その取り成しを、あくまで、その赦しと救いと導きを、乞う立場であることを忘れてはいけません。
 
 
(2017年01月09日)
 
留める(とどめる、とめる)
齟齬(そご)
遣わす(つかわす)
 
 

 

 
  詭弁に任せる者
 
 「神にお任せすること」 (転載者、彼、批判対象)
 2017/1/7(土) 午後 2:08
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27889181.html
 
 転載元:「神にお任せすること」
 2015/6/5(金) 午前 10:14
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/32709510.html
 
 
信仰者の逃げ口上として、困ったときに、やたら、神にお任せします、委ねます、と言うことがあります。問題が目の前にあるのに、考えることも、行うことも、めんどくさいときに、使われるようです。
 
転載者である批判対象の彼は、同じ言い逃れを、自分で、今回は、他者の転載で言ってきます。このような手ごたえのない文章をぶつけてくるのが、彼の特徴です。こちらが、うんざりして批判をやめることを狙っているのでしょうか。それを、いつまでも続けていられるということが、不感不応の、異常な世界なのですが、そのことを彼は、感じることが出来なくなっているのでしょうか。
 
 
私の批判記事「いのちのパン?」
2016/4/23(土) 午後 8:00
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
 
(彼のコメント) 
>誰が何を言っても自分の正当化しかできない、
>他者の非難中傷しかできないstさん、これからも
>stさんからのコメントは荒らしコメントとして削除することを伝えておきます。
 
私が、前に、彼のブログに書いていたコメントは、もちろん心が乱れて失敗したこともありますが、ほぼ私が書いてきた記事を土台として、根拠を示しています。彼が反論するなら、私の批判の根拠が間違っていることを指摘するべきなのですが、それが、彼には出来ないので、コメントをいっぱい書くから非難中傷だとか荒らしだとか言って削除予告をしてくるのです。堂々と卑怯なことを書いてくるから驚きです。
 
私が、穏やかに言うと、彼は穏やかに、はぐらかしてきました。だから、批判は、だんだん厳しくなってゆくのですが、まさに、引用の「誰が何を言っても自分の正当化しかできない」というのは、そのまま、彼に当てはまることです。
  
>神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです。
 
このように、彼は、自分の罪と偽善を、認めようとせず、神に告白しようともせず、信仰の態度を改めようともしない姿勢を、裁きは神の手にあるから、という理由で、信仰の言葉?を用いて、言い逃れようとしてきました。この記事から、もう、8か月以上たっても、彼は、同じような記事を転載して、同じような言葉を当ててくるのです。不感不応の、彼は忍耐しているつもりでいるという異常世界が、間違った自分信仰によって生まれている実例です。
 
転載元にも、彼についての事情を説明したのですが、転載元は私の記事を読んでいる様子もなく、相変わらず、転載を断らずに許しているようです。仲間と見なして、批判するしかなくなっています。そういえば、彼も、そのとき、神に委ねます、とレスに書いてきました。そうだった。なんなんだ。・・つまり、この記事のテーマは、すべてのキリスト者の問題だということでしょう。・・・
 
 

ヨハネ15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 
>わたし(キリスト)を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
 
聖句のこの部分を悪用することが可能です。この一行から、自分がしているということは、キリストにつながっている、という成り立たない理屈によって、自分がしていることを正当化してしまう、という詭弁の可能性があります。そして、それを実行しているのが、転載元の意志にかかわらず、転載者である彼なのです。
 

あなたがたは以前あこの世の支配者に属して、悪い木から悪い実を結んでいたが、いまは良い木に接ぎ木され、良い実を結ぶ者となったのではないか、と。だから、後戻りすることがないように、わたしにとどまり、つながっているようにと言われる。

 
聖書解釈の詭弁というのは、多く、このような理想と現実を混同して語られるところにあります。あなたがた(信仰者)は以前、・・悪い実を結んでいたが、・・良い実を結ぶ者となった、というのは、今、信仰者が結ぶ実は良い実だ、という保証にはならないのですが、自分は神の側に立っている、という、すっ飛んだ傲慢に至って、空しく自分を正当化してしまうのです。
 

私たちは困難に遭うと、神が離れ見放していると思うことがあるし、神を忘れ、他の何かにすがってしまうことがある。けれども、その困難の中にあっても、神は私たちの味方で、どのような状況であってもともにいてくださる。

 
是としますが、神はわたしたちの味方であるということは、ともにいてくださるということであって、つまり、キリストの同伴であって、間違っても、いつも、自分を正しいと見なしてくれるとか、また、いつも正しく導いてくれるので間違いや罪を犯さなくなっているから心配ない、という意味ではない、ということです。
 
いつも同伴してくれている神は、ときには試練を与える神でもあり、懲らしめる神でもあり、戒める神でもあります。いつも同伴してくるキリストは、慰めを与えてくれるけれど、自分のために、悲しみ、さらには、自分のために、またしても十字架の血に染まるかもしれないということです。いつも味方、ということを勘違いしてはいけないのです。
 

だからわたしにつながり続けなさいと言われる。神キリストと結びつく歩みをすることで恵みを受ける。

 
この部分は、人は保証できませんが、是とするべきでしょう。しかし、そこにおいても、転載者である彼のように、神を忘れ、他の何かにすがってしまう、ということがあるのです。そういう者が、いかに神に任せても、赦しと救いを欲しがっても、得られません。何故なら、今までの記事に書いてように、すでに、彼は、悔い改めなくても救ってくれる神しか求めておらず、この段階で、キリストの父なる神の救いを拒んでいるからです。
 

もちろん、神キリストがともに歩むことは、すべてをバラ色にすることではない。苦難があり、病気にもなる。けれども、苦しみの中にも、悲しみの中にも、病の中にも、死の先にも、楽しみの中にも、永遠に私たちとおられる。私たちを愛し、神キリストがとともにいてくださる、これは大きな慰めだ。

 
神キリストが共にいてくださる慰め、という表現にとどめて正解だと思います。転載元は、キリスト者らしい、よいことも書いています。神がともにいてくださるとは、決して常時正当化による喜びと讃美ではないということです。
 
転載者である彼は、ここを、使徒に自分をなぞらえたり、教理や聖書の都合の良い言葉だけを並べたりして、強引に、自分の救いに持ってゆく、そしてボロを出す、ということを繰り返し続けてきました。
 

だからその中で受けた信仰を継続し、神の愛にとどまり、またみことばにとどまり、みことばに照らされて恵みを、励ましを、慰めを、そして戒めを受け取っていくことだと言う。

 
聖書から、恵みだけを貪ろうとし、戒めを受け取らず、懲らしめる神を信じていないのが、転載者、彼なのです。いつまで、この暴虐を、神は、見逃されるのでしょう。
 

箴言3:5~6心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

 
罪も偽善も、悔い改めなくても、自動的に赦される、これが神の、どんでん返しだ、と信じたまま固まっているのが、転載者である彼であり、このような身勝手な話は、どの世界でも成り立たないのですが、一度でも悟ったつもりになったら、嘘っぱちでも、訂正不能にしてしまうのでしょう。つまり、彼は、主を認めず、曲がったままでありたい、ゆえに、まっすぐにされることを望んでいない、だから、主は彼の道をまっすぐにされないのだと推測します。逆に聖句通り・・ということ・・。
 

私たちに必要なのは自分でことを行うことではなく、神キリストがどんなことをしてくれたのかを知り、これからなにをしてくれるのかに期待し、神にお任せすることだと教えられる。

 
自分でことを行うことではないのなら、人間は常に何かを行っているが、今自分がしていることが、自分ではなく、神が行ってくれていると、どうやって知るというのだろう。詭弁に堕しないためには、私たちに必要なことは、私たちがすることを、神につながっているからと正当化することではなく、主を思いながら、私たちは、行い、それを、祈りとともに、神に捧げて、赦しと救いと癒しと、さらなる導きを乞うことです。
 
どうか、私を含めて、詭弁で正当化した訂正不能による不感不応の人生を歩むことになりませんぬように。しばしば私も、祈っています。だから書きます、アーメン。
 
 
(2017年01月08日)
 
 

 

 
  偽善織り
 
 教会は神さまの織物
 2017/1/6(金) 午前 10:16
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27887297.html
 
 教会は神の織物
 2016/1/7(木) 午前 9:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27183582.html
 
 
一所懸命に批判記事を私が書いても、彼は、しばしばコメント欄ごと削除する以外は無反応です。彼は読んでいないだろうし、記事のコピペを、彼のコメント欄の残っている記事に書き込んでも、それは大方、読まずに削除される定めのようです。彼には、信仰の有無に関わる大きな問題があるのに、彼は、彼の神様?に従って、無視するのが信仰だと思っているのでしょう。今日も、彼の無視の経過と結果として書くしかありません。
 
排せつ物に、ペンキと唾液を上塗りして、何か製本でもしたつもりで、広場に投げてくる老いたる偽善者ですから、投げ返しても、彼の造った壁に阻まれ、彼は気づかず、ひと仕事終えたつもりで、安穏の風呂に、実は彼の排せつ物に、どっぷりつかっていられる、という仕組みを作り上げて、名付けて、その名は不思議?と呼んでいるわけだから、批判には当然、そういう彼の、聖なる?仕組み、についても、今までの経過とともに、私も壊れながら、書いてきたわけです。彼の作文の出来は、彼の偽善に水垢のように結びついて、図らずも偽善を、彼と違って、雄弁に語っています。
 
縦糸と横糸を紡ぐたとえ話、彼が語れば、偽善が、いかに絡みやすくて厄介なものであるかを語っています。
 
>キリスト信仰も、丈夫で長持ちし、毎日着こなし、
>いざというときは周りのかたに「キリストさまは、
>すばらしいお方」と証ができる信仰に織り上げたいものです。
 
白々しい願望です。彼は、キリスト信仰とは正反対の織物を人に押し付けて、幼子のように彼の言うことに従い讃美せよ、と言ってくるでしょう。彼に隷属して人間をやめて跡を継ぐか、信仰によって解放されるかの分かれ目です。
 
>つむぎ始めの糸は細く、すぐ切れやすいもの。
>キリスト信仰も、信じた最初は、おぼつかなく頼りなく思えます。
>その細い糸に縒(よ)りをかけ、引き伸ばされるとしっかりしてきます。
>着物はすべて糸でできていますから、この細い糸の縒りの強さが大事な基本です。
 
最初はおぼつかなく、引き延ばされると、しっかりして、細い糸の縒りの強さ、・・と、まともな形容で、信仰を飾っていますが、飾り言葉に騙されないでください。これらの性質は、彼から、最も遠いものばかりです。
 
実際は、無視、不感不応、無頓着、無関心、無反応、無責任、無反省、無遠慮、無恥、という経過と結果でしかない彼の信仰に、どうして、上のような、まともな形容を付けられるというのでしょう。彼の、信仰についての病識の欠如が明らかになってきます。
 
>キリスト信仰も、伸びてゆく信仰はこの縒りの基本ができているのです。
>その条件は三つ。
>第一は「毎日、聖書に親しむこと」、
>第二は「毎日、祈って神さまを仰ぎイエスさまに親しむこと」、
 
今さらのように、キリスト信仰の条件を書いてくる、一つには、びくともしていませんよという自慢、もう一つは、自分の信仰が本物で、何故なら自分が言うからです、ということが、彼の目的であり本性です。彼が言わなくても、聖書と祈りが大切なのはキリスト者なら誰でも分かっているはずです。
 
それぞれのペースで読むのですから、毎日、という条件は余計なお世話なのです。私事を言えば、聖書を読むことは大切だが、毎日というステレオタイプをあてがわれるのは好みません。読んだ後に、全然わかっていなくても、とにかく自分は読んだ、という高慢を残しやすいからです。
 
>第三は「キリスト信仰の師友と親しむこと」です。
 
師友と親しむ?、彼と親しみ続けることが好きな人は、彼と同じ本性を育てるでしょう。キリスト信仰の師友に彼を含めてはいけません。彼は、そのように人間を人間離れさせてゆく、30年のプロなのです。
 
>この三本の細い糸が縒りあわされて、強く、しなやかで、つややかな信仰の糸になるのです。
 
強く、ではなく、硬直して、へばりつくような、しつこさです。だから、しなやか、ではなく、ごわごわと、よじれ曲がって、元の形に戻せなくなります。だから、つややかな、ではなく、人間味という色つやなど、微塵も含まれず、許されず、人間扱いもされません。人間性を馬鹿にしてモノのように扱い、神の奇跡にしがみつき、罪は悔い改めなくても自動的に赦される、という、自分信仰一途に凝り固められてゆくでしょう。
 
>新年、どの教会にも、この「神さまと自分」というタテ糸と、
>「自分と隣人」というヨコ糸で織られた、自分模様の紬を着たさまざまな信徒
 
神の前に罪を悔い改めなければ、人の前に改めることもない。彼は、その道を選びました。他者の意見のブロックと削除、そしてコメント欄閉鎖が、その証拠です。
 
不実によって、罪によって、偽善によって、隠蔽によって、裏に隠したことで、彼のほうが、神に織られることを拒んだために、「神さまと自分」というタテ糸もなく、「自分と隣人」というヨコ糸もなく、自分模様を紡ぎ織るしかなく、それは、セルフィッシュな恣意の模様、人間模様を一切描けない、自分で織り、自分で出来を讃美する、不潔な排せつ物に過ぎなくなるのです。
 
>どんなに見かけは素晴らしい織物でも、
>縦糸と横糸の伸縮率が異なるとどうでしょうか。
>きっと温度や湿気で皺くちゃになってしまい、役に立たなくなるでしょう。
 
図らずも、彼は、彼自身という織物について言ってしまう、という自業自得の言説です。偽善織りには、こういう結果しかないのです。
 
>イエスさまは12人の人を弟子とされました。
>兄弟もいますが、本当に個性的で、仕事や立場の異なる人たちでした。
>もっとよく考えて人選すればよかったのにと思われる人たちでした。
 
もっとよく考えて人選すれば、と誰が思い、誰に向かって言っているのでしょう。・・あなたが判断したことでも判断することでもないよ、と彼に言いたい。
 
>3年間イエスさまと一緒に生活しましたが、
>あまり仲の良いとは言えない弟子たちだったようです。
>目立ちたがりのペテロや気の短いヨハネや頭の良いユダ・・・
 
弟子たちの欠点を論う身の程知らずの彼ですが、すべてを見抜いてうえで愛したのが、イエス・キリストであります。黙れ、と彼に言いたい。
 
>弟子たちの期待はイエスさまがイスラエルの王様となられ、
>汚れた異邦人ローマの支配から救い、ダビデ王国を再建されることでした。
>イエスさまに仕え、イスラエルを支配できることが夢でした。
 
恐ろしいことです。彼は、身の程を弁えず、キリストの弟子、後の使徒を自分で評価し批判しています。まるで、自分なら、分かっているから、あんなへまはやらない、とでも言いたいのでしょうか。彼は、弟子たちが、師でありキリストであると信じたイエスを忘れられず、去り難く、覚えていて、復活の知らせに反応できた、そのような、愚直であっても、良心の感受性の豊かなところ、やはり選ばれる資質を、キリストは見抜いておられた、ということを考えないのでしょうか。
 
聖書の登場人物を、俯瞰するように、スーパーバイザーのように、見下ろして批評する彼の視線と、彼が立っているつもりの立場を考えてほしいです。相当な評論家気取りです。何様のつもりでしょう。彼は、ひょっとして、奇跡を起こした神の立場ではないだろうか。自分に対しての批判からは拒否して逃げ回るのに、キリストの弟子たち、すなわち、使徒を平気で批評しています。愚かな弟子のお前たち・・という見下ろし方・・?
 
>イエスさまがよみがえられた!お墓は空っぽ!
>イエスさまに会った!私がよみがえったことを
>ペテロたちに伝えなさいと言われたというのです。
>ヨハネとペテロは墓に駆け付け、カラの墓を見て、その中に入りました。
 
>弟子たちは信じられず、トマスはイエスの手と脇の傷を見なければ…と言い
>まだ鍵をかけた部屋に閉じこもっていました。
>すると、よみがえられたイエスは弟子たちのところに来られたのです。
 
>40の間、よみがえられたイエスさまと弟子たちの新たな交わりが始まったのです。
>イエスさまの夢と弟子たちの夢が神さまの夢と同じ夢と変えられたのです。
>縦糸と横糸が整えられ、教会という神さまの夢の織物が織られ始めたのです。
 
このように、彼は、復活という奇跡を、肉体の復活という超常奇跡に弟子たちが驚いて、彼が好んで使っていた、どんでん返しの、奇跡的逆転によってのみ、有無を言わさず、弟子たちは目覚めた、と言い張ります。言い張るというのは、今までの記事で、人間性、情感、理性、人間的納得、というものを、彼が、全く意に介さなかった、ということから言っています。彼は、今も、どんでん返しの奇跡で、自分は救われると言いたいのです。彼には、御国において、どんでん返し待機所が必要なようです。永遠に。
 
弟子を選ぶときから、キリストは、弟子にする者について、見抜いていたのだろう、と思います。弟子たちが、キリスト御自身とは別の勘違いの目的を持っていたことも、見抜いていたのだろうと思います。ここは、解釈なので、強い表現は出来ませんが、ユダについても、裏切りそうな者として注視していたのではないか、とさえ思います。聖書では、ユダが世俗の金にこだわっていたこと、キリストの捕らえられる直前のユダに言ったこと、などを思います。
 
>イエスさまという縦糸はいつも、いつまでも変わることはありません。
>私たちという横糸はよみがえられたイエスさまと出会い、
>交わることによって整えられるのです。
>織物の裏を見るとあまりよくわかりませんが、表はきれいな織物となっているのです。
 
当たり前のことですが、今、キリストのよみがえった肉体に出会うことは出来ません。いつ出会えるか、人は知りません。彼は、どういうつもりなのでしょう。会って口でも聞いたつもりでしょうか。神なるキリストなる聖霊が直接、彼に、話しかけたと言うつもりでしょうか。彼には、聖霊体験者という自覚があります。これは前に彼が言っていたことです。それで、人間的な問題など気にしなくても、自分という織物はきれいだ、と言いたいのでしょうか。彼の主張のすべてを、ことごとく結果としての罪業の事実が否定しています。偽善織りの宣伝でしょうか。
 
 
彼は、二千年前の、キリストの肉体を持った復活を声高に唱える者であります。キリストの現在の聖なる霊に背きながら、二千年前に、自らの正当性を依存しているのです。
 
私は、肉体の復活を信じ込むことは出来ないが、それが罪である可能性を認めたうえで、二千年前の肉体より、姿は見えないが、霊であれ、聖書の感想であれ、今の、人間に関わってくれるキリストを信じる者であります。
 
 
(2017年01月07日、同日一部修正)
 
阻む(はばむ)
論う(あげつらう)
俯瞰(ふかん)
 
 

 

このページのトップヘ