罪を気にしない詭弁
神の目と人の目
2017/2/23(木) 午後 4:48
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27961769.html
二日ほど空いて記事を書いたと思えば、またしても、彼、シャローム氏は、自己正当化のために、神を利用しています。信仰とは、逆のスタンスになります。つくづく、彼には、神の前にひざまずく姿勢がないことを痛感します。どうしようもなく私は、どうしようもなく彼が言い逃れのために作った詭弁をまた批判するわけです。
今回の詭弁には、別の人の書いた、気にする、気にしない、どちらも能力、という安易な言い方を、彼、シャローム氏が、悪意と欲望のために利用して、神の目で見ると、自分の罪と偽善など、気にしないのが正しいと言っているのです。全く神を恐れぬ人です。日本語の基本的な文脈も意味も分からなくなった作文を出してしまうようです。
>新約聖書に出てくる、ユダヤ教ファリサイ派は「気になる能力」のかたまりだ。
>一点一画をおろそかにしない。自分が「気になる能力」を持つのはいい。
パリサイ人は、律法の言葉面に執着し、それを一言一句違えないことを、人をおとしめるのに使います。引用元は、皮肉で書いているのでしょうか。これは、正しい能力ではありません。これは実に、聖書の言葉面を見て真実を見ない、彼、シャローム氏にそっくりです。
>しかし「気になる能力の人」は、他人の「気にならぬ能力」が「気になって」しかたがない。
「気になる能力」「気にならぬ能力」で対比して信仰を語るのは不適切だと思います。正しい能力、不正の能力、などということは判断材料として用いないからです。引用元は、彼、シャローム氏の師なのでしょうか。前から、文章が安易で、表現が軽すぎると思っています。
>イエスに「なぜ安息日に病人をいやすのか」
>「安息日に麦の穂を揉んで食べてはだめじゃないか」と。
>イエスは、飢えた(エパイナアセン)弟子<空腹の翻訳は誤り>が
>「律法違反を気にもしないで」生麦を食べるのを、
>また「気にもしないで」見ていられる(マタイ一二章)。
気にしないのは、以下の12章7節からでしょう。
(マタイによる福音書、口語訳)
12:1
そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3
そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 12:4すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。 12:5また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6
あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8
人の子は安息日の主である」。
(マタイ12:1―8、新約聖書)
キリストは、彼、シャローム氏のような、おおよそ不変という確信で凝り固まった信仰観、とりわけパリサイ人の硬直した表面的な律法解釈による戒律への執着に対しては、明らかに敵対して、「あわれみ」という彼らによって失われている神の御心をもって律法を超克するために遣わされたと言っても過言ではないでしょう。
それを、気にする、気にしない、という主語を代えればどちらも言えるような軽口で、解説したつもりの言説には、嫌悪を覚えます。比喩が比喩になっていない例だと思います。彼、シャローム氏は、こういうのが大好きのようです。彼は、いい加減な曖昧な言葉を好みます。言葉面を引っかけて詭弁を作りやすいからでしょう。
(マルコによる福音書、口語訳)
2:27
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
2:28
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
(マルコ2:27―28、新約聖書)
>いま一番大事なのは「飢えた弟子を救う愛」だ。
>いま一番がわかれば、二の次、三の次がわかる道理。
彼、シャローム氏が、これを引用した理由は、彼自身の自己愛に他なりません。彼には、人間らしい「あわれみ」の愛の信仰を感じたことは一度もありません。
>「気にしない能力」の弟子を「気にしない能力」で見ているイエスはすごい。
言い換えれば、上の引用聖句の「あわれみ」を気にしない罪を気にしないパリサイ人を、キリストは気にして問題としているのです。このような、いい加減な表現をするから、彼、シャローム氏が、壊れた心性で、分かった!?かのように、言い逃れに使うのです。さて、シャローム氏の文章ですが、
>神はすべてのものを“良しとされた”と繰り返され、
>さらに、人を造り“はなはだ良かった”と言われましたが、
>その前に、いつも、“神は見て”と書かれていることを
>忘れてはならないと思います。
>私たちはすべてのものを見て、神がご覧になられたようには見えません。
>なぜでしょうか。
>それは自分の目で見るからではないでしょうか。
神が見て、良し、と思われ、そのままそれが続くなら、神もキリストも、信仰も、必要なかったでしょう。なんて稚拙で邪悪な見方なのでしょう。彼、シャローム氏は、聖書の至る所に溢れている、戒める神、怒る神、懲らしめる神、を完全に無視しています。人を無視するだけでなく、自分のためには、神をも無視しているのです。
>イエスさまはいつも神がご覧になられるように、すべての人をご覧になられました。
>ある人たちが自分の目で、自分の物差しで罪人、汚れた人だと裁いても、
>イエスさまはいつも、この人もアブラハムの子だと言われました。
人がアブラハムの子であったら、神は無条件に愛したでしょうか。上と同様です。
>イエスさまはどんなに人の目で見て、、物差しではかると気になる人でも、
>神の心、神の目でご覧になられ、気にされることがなく、
>私たちの弱さ、心の痛みを負い、ご自分の心とされ、十字架につけられた御姿で
>いつも、どんな時にも、私たちに父なる神のまなざしを注いでおられます。
ここに今日の詭弁の中心があります。何を言われようとも、それは、人の目、人の物差しであり、父なる神の目で見るのとは違うから、気にしなくてよい、と言うのです。ここには、人には分からない神の目で自分は見られているのだ、という神がかりがあります。しかも、その神の目には、彼、シャローム氏の罪と偽善の言動が気になることはないのだと、神の判断を自分で決め付けているのです。笑止であります。彼の詭弁は、焼き尽くされるべきです。
>私たちはどちらの目を気にしているでしょうか。
人間は、人の目でしか見れないのですが、彼はどちらか分かって、使い分けているのでしょうか。彼は、神の目を気にしているとは思えません。人の目だけを気にしているから自分に不都合なことをいっぱい書いてあるコメント欄を猛烈な勢いで削除しているのです。
>人の眼差しであれが、他人や自分が気になります。
>神の眼差しであれば、私たちの心に信仰が与えられます。
彼は、人の眼差しだから他人の言うことは気にしなくてよい、
神の眼差しだから、いかなる罪も偽善も、悔い改めないまま信仰だ、
と言っているのです。
それを、信仰が与えられ、というような、当たり障りのない、どうとも取れそうな曖昧だが信仰めいた美味しい言葉面でごまかしているのです。ここに書いてあるのは、信仰を与えようとした神の眼差しを裏切って、削除という罪と隠蔽という偽善に至っても、なお悔い改めず、自分で何とかしようと足掻いて狼狽えて聖句と解釈を貪っては堕ちてゆく醜い自己正当化の遠吠えです。
まだ懲りないようです。神をここまで自分の都合の良いように振り回す者は、むしろカルトにも珍しいかもしれません。何をやっても、何を言われても、自分は神が味方だから、気にしない、という、彼、シャローム氏の偽信仰が、はっきり表れています。
こんな話が通るようになったら、キリスト信仰は、悪の正当化のルーチンになってしまうでしょう。暗雲を招くのは、政治だけではなく、宗教も似たようなものだと感じます。彼の詭弁は、傲慢と隠蔽という点で、自己正当化のために狼狽えている悪い政治家のそれと、そっくりなのです。彼、シャローム氏は、当てる言葉も、付ける薬もなくなって、もはや、間違っているという段階ではなくなって、邪悪な詭弁以外思いつかなくなってしまったようです。
彼は、彼の幼稚な理屈を通して、自分のために働くバーチャルな神?を飼っています。「?」を付けたのは、それが決して神ではないからです。いつまで子供みたいな屁理屈を並べれば気が済むのでしょう。自分の言ったこと、捏ね上げた理屈が、いかなる結果をもたらすかということを全く考えずに、ひたすら、聖句を、自分が無罪になるように、罪も偽善も気にしなくていいように、捻じ曲げているだけです。書けば書いただけ、ウンコみたいな詭弁になるのに、予測も出来ずに、垂れ流しの老後を過ごしながら、腐った自尊の泡を吹きながら、人の言葉の崩壊に堕してゆく彼、シャローム氏を止めるすべはあるのでしょうか。
パリサイ人は、彼、シャロームと同じように、律法の言葉面だけしか受け取らないので、対するキリストが神の言葉の真実を語っていることが際立ちます。その真実が人にとっても説得力があるのは、他でもない、キリストの人間に対する鋭い洞察力と、人間に対する深い共感性にあるのです。パリサイ人も、彼、シャローム氏も、その教えが、キリストの説得力によって嘘っぱちだと分かるのは、まさに、神が、決して人間性を否定するのではなく、人間性のすべてを包含して余りあるからです。人の神がかりは、人間離れ、そのような者に騙されてはいけません。
(2017年02月24日)
狼狽える(うろたえる)
捏ね上げる(こねあげる)≒捏造する(ねつぞうする)
足掻く(あがく)
貪る(むさぼる)
堕ちる(おちる)≒堕落する
包含(ほうがん)
騙す(だます)