ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年02月

 
  罪を気にしない詭弁
 
 神の目と人の目
 2017/2/23(木) 午後 4:48
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27961769.html
 
 
二日ほど空いて記事を書いたと思えば、またしても、彼、シャローム氏は、自己正当化のために、神を利用しています。信仰とは、逆のスタンスになります。つくづく、彼には、神の前にひざまずく姿勢がないことを痛感します。どうしようもなく私は、どうしようもなく彼が言い逃れのために作った詭弁をまた批判するわけです。
 
今回の詭弁には、別の人の書いた、気にする、気にしない、どちらも能力、という安易な言い方を、彼、シャローム氏が、悪意と欲望のために利用して、神の目で見ると、自分の罪と偽善など、気にしないのが正しいと言っているのです。全く神を恐れぬ人です。日本語の基本的な文脈も意味も分からなくなった作文を出してしまうようです。
 
>新約聖書に出てくる、ユダヤ教ファリサイ派は「気になる能力」のかたまりだ。
>一点一画をおろそかにしない。自分が「気になる能力」を持つのはいい。
 
パリサイ人は、律法の言葉面に執着し、それを一言一句違えないことを、人をおとしめるのに使います。引用元は、皮肉で書いているのでしょうか。これは、正しい能力ではありません。これは実に、聖書の言葉面を見て真実を見ない、彼、シャローム氏にそっくりです。
 
>しかし「気になる能力の人」は、他人の「気にならぬ能力」が「気になって」しかたがない。
 
「気になる能力」「気にならぬ能力」で対比して信仰を語るのは不適切だと思います。正しい能力、不正の能力、などということは判断材料として用いないからです。引用元は、彼、シャローム氏の師なのでしょうか。前から、文章が安易で、表現が軽すぎると思っています。
 
>イエスに「なぜ安息日に病人をいやすのか」
>「安息日に麦の穂を揉んで食べてはだめじゃないか」と。
>イエスは、飢えた(エパイナアセン)弟子<空腹の翻訳は誤り>が
>「律法違反を気にもしないで」生麦を食べるのを、
>また「気にもしないで」見ていられる(マタイ一二章)。
 
気にしないのは、以下の12章7節からでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:1
そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3
そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 12:4すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。 12:5また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6
あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8
人の子は安息日の主である」。
 (マタイ12:1―8、新約聖書)
 
キリストは、彼、シャローム氏のような、おおよそ不変という確信で凝り固まった信仰観、とりわけパリサイ人の硬直した表面的な律法解釈による戒律への執着に対しては、明らかに敵対して、「あわれみ」という彼らによって失われている神の御心をもって律法を超克するために遣わされたと言っても過言ではないでしょう。
 
それを、気にする、気にしない、という主語を代えればどちらも言えるような軽口で、解説したつもりの言説には、嫌悪を覚えます。比喩が比喩になっていない例だと思います。彼、シャローム氏は、こういうのが大好きのようです。彼は、いい加減な曖昧な言葉を好みます。言葉面を引っかけて詭弁を作りやすいからでしょう。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:27
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
2:28
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
 (マルコ2:27―28、新約聖書)
 
>いま一番大事なのは「飢えた弟子を救う愛」だ。
>いま一番がわかれば、二の次、三の次がわかる道理。
 
彼、シャローム氏が、これを引用した理由は、彼自身の自己愛に他なりません。彼には、人間らしい「あわれみ」の愛の信仰を感じたことは一度もありません。
 
>「気にしない能力」の弟子を「気にしない能力」で見ているイエスはすごい。
 
言い換えれば、上の引用聖句の「あわれみ」を気にしない罪を気にしないパリサイ人を、キリストは気にして問題としているのです。このような、いい加減な表現をするから、彼、シャローム氏が、壊れた心性で、分かった!?かのように、言い逃れに使うのです。さて、シャローム氏の文章ですが、
 
>神はすべてのものを“良しとされた”と繰り返され、
>さらに、人を造り“はなはだ良かった”と言われましたが、
>その前に、いつも、“神は見て”と書かれていることを
>忘れてはならないと思います。
 
>私たちはすべてのものを見て、神がご覧になられたようには見えません。
>なぜでしょうか。
>それは自分の目で見るからではないでしょうか。
 
神が見て、良し、と思われ、そのままそれが続くなら、神もキリストも、信仰も、必要なかったでしょう。なんて稚拙で邪悪な見方なのでしょう。彼、シャローム氏は、聖書の至る所に溢れている、戒める神、怒る神、懲らしめる神、を完全に無視しています。人を無視するだけでなく、自分のためには、神をも無視しているのです。
 
>イエスさまはいつも神がご覧になられるように、すべての人をご覧になられました。
>ある人たちが自分の目で、自分の物差しで罪人、汚れた人だと裁いても、
>イエスさまはいつも、この人もアブラハムの子だと言われました。
 
人がアブラハムの子であったら、神は無条件に愛したでしょうか。上と同様です。
 
>イエスさまはどんなに人の目で見て、、物差しではかると気になる人でも、
>神の心、神の目でご覧になられ、気にされることがなく、
>私たちの弱さ、心の痛みを負い、ご自分の心とされ、十字架につけられた御姿で
>いつも、どんな時にも、私たちに父なる神のまなざしを注いでおられます。
 
ここに今日の詭弁の中心があります。何を言われようとも、それは、人の目、人の物差しであり、父なる神の目で見るのとは違うから、気にしなくてよい、と言うのです。ここには、人には分からない神の目で自分は見られているのだ、という神がかりがあります。しかも、その神の目には、彼、シャローム氏の罪と偽善の言動が気になることはないのだと、神の判断を自分で決め付けているのです。笑止であります。彼の詭弁は、焼き尽くされるべきです。
 
>私たちはどちらの目を気にしているでしょうか。
 
人間は、人の目でしか見れないのですが、彼はどちらか分かって、使い分けているのでしょうか。彼は、神の目を気にしているとは思えません。人の目だけを気にしているから自分に不都合なことをいっぱい書いてあるコメント欄を猛烈な勢いで削除しているのです。
 
>人の眼差しであれが、他人や自分が気になります。
>神の眼差しであれば、私たちの心に信仰が与えられます。
 
彼は、人の眼差しだから他人の言うことは気にしなくてよい、
神の眼差しだから、いかなる罪も偽善も、悔い改めないまま信仰だ、
と言っているのです。
 
それを、信仰が与えられ、というような、当たり障りのない、どうとも取れそうな曖昧だが信仰めいた美味しい言葉面でごまかしているのです。ここに書いてあるのは、信仰を与えようとした神の眼差しを裏切って、削除という罪と隠蔽という偽善に至っても、なお悔い改めず、自分で何とかしようと足掻いて狼狽えて聖句と解釈を貪っては堕ちてゆく醜い自己正当化の遠吠えです。
 
まだ懲りないようです。神をここまで自分の都合の良いように振り回す者は、むしろカルトにも珍しいかもしれません。何をやっても、何を言われても、自分は神が味方だから、気にしない、という、彼、シャローム氏の偽信仰が、はっきり表れています。
 
こんな話が通るようになったら、キリスト信仰は、悪の正当化のルーチンになってしまうでしょう。暗雲を招くのは、政治だけではなく、宗教も似たようなものだと感じます。彼の詭弁は、傲慢と隠蔽という点で、自己正当化のために狼狽えている悪い政治家のそれと、そっくりなのです。彼、シャローム氏は、当てる言葉も、付ける薬もなくなって、もはや、間違っているという段階ではなくなって、邪悪な詭弁以外思いつかなくなってしまったようです。
 
彼は、彼の幼稚な理屈を通して、自分のために働くバーチャルな神?を飼っています。「?」を付けたのは、それが決して神ではないからです。いつまで子供みたいな屁理屈を並べれば気が済むのでしょう。自分の言ったこと、捏ね上げた理屈が、いかなる結果をもたらすかということを全く考えずに、ひたすら、聖句を、自分が無罪になるように、罪も偽善も気にしなくていいように、捻じ曲げているだけです。書けば書いただけ、ウンコみたいな詭弁になるのに、予測も出来ずに、垂れ流しの老後を過ごしながら、腐った自尊の泡を吹きながら、人の言葉の崩壊に堕してゆく彼、シャローム氏を止めるすべはあるのでしょうか。
 
パリサイ人は、彼、シャロームと同じように、律法の言葉面だけしか受け取らないので、対するキリストが神の言葉の真実を語っていることが際立ちます。その真実が人にとっても説得力があるのは、他でもない、キリストの人間に対する鋭い洞察力と、人間に対する深い共感性にあるのです。パリサイ人も、彼、シャローム氏も、その教えが、キリストの説得力によって嘘っぱちだと分かるのは、まさに、神が、決して人間性を否定するのではなく、人間性のすべてを包含して余りあるからです。人の神がかりは、人間離れ、そのような者に騙されてはいけません。
 
 
(2017年02月24日)
 
狼狽える(うろたえる)
捏ね上げる(こねあげる)≒捏造する(ねつぞうする)
足掻く(あがく)
貪る(むさぼる)
堕ちる(おちる)≒堕落する
包含(ほうがん)
騙す(だます)
 
 

 

 
 妄覚
 
 
人間が、こういうふうに変わろうと思っても、なかなか出来ることではない。何度も言ってきたことだが、人間は不全だから、変わろうと思って、思うように変われるものではない。その難渋さを知っているから、逆に、変わらずにいることのほうに心を向けようとする。特別なものでありたい自己顕示欲や他者を見下ろす超然願望は、どんなところにもある・・。
 
何かとても良いものに一気に変わることは出来ないから、逆に、善いものを得て、それを不変とし、変わらないものを得ている自分でありたい、という欲望が湧く。それが出来るのが信仰だと安っぽく考えてしまう。キリスト者とて例外ではなく、このように、考えてみれば、気安い欲望が動かしている。このようなことがあるから、気安く欲望に隷属することのないように信仰があると言ってもよいだろう。
 
信仰は、人を超える特別な何かになるためではなく、人間らしい人間になるためにある。むしろ人間を超えないための、人間を失わないための、人間の息と涙を失わないための、温もりと潤いである。
 
人間は変われるか、というよりも、人間は放っておいても変わり果てる、と言ったほうがいいだろう。放っておいたら、いつのまにか、よろしくない方向に変わり果てるのが人間だろうと思う。そういう人間が、変わることを拒み、変わらないことを目指したら、本人が変わったことに気づくセンスを拒んだのだから、変わったことに気づかないばかりか、変わったのに、変わってない、不変だ、不動だ、揺らぐことがないのだ、という、妄覚の持続になるだろう。
 
(※ 妄覚 : 妄想的な偽りの知覚、または認識。造語か。)
 
真理に従っているつもりの者は、恐らく、人間が知るべき身近な真実さえも見ることが出来ていない。変わろうと思っても変われない、と同時に、変わらないと思っても変わり果ててゆく、ということ・・。
 
彼らは、偽善と偽装によって、嘘を吐くしかなくなる。一度変わって、救われ、二度と変わらない、という嘘に向かう。嘘の根拠に、超常なる神と聖霊を持ち出す。
 
キリストの超常部分つまり奇跡については人間には共感がない。キリストの人間性の部分つまり優れた洞察力そして温かい共感性、これらにのみ、人間も共感できる。物や肉体の奇跡の超常は、人間にとって、驚くとともに呆れるばかりのことだ。・・こんなことをなさっても、できない私たちはどうしたらいいのだろう・・と。このことに、超常の力を信仰だと思っている者は気づけないでいる。
 
偉大なる神、つまり、神とキリストの、超常とその存在と、その御方が包含する人間性の深さに、驚きをもって共感した記憶が、キリスト者にはあるだろう。あらゆる宗教は、この御方という顕れ方に、表し方に、含まれるのかもしれない。あるいは、私たちの信仰が、あらゆる善と見なされた異教の絶対者に包含されるのかもしれない。これは、キリストの父なる神を信じる、神ならぬ私たちが相対的であるための謙譲を申しあげたのである。
 
神の前では一本の髪の毛のように燃え尽きて跡形もないような存在である私たちは、救いの神について、それほどに知らないのであり、知ることに耐えられない存在なのであり、知らないことが幸いなのだ。知ったかぶりは戒められるべきだ。
 
私たちは、いつも妄覚を見ている。だから偏見や先入観が幅を利かせる。しかし、私たちは、この世の妄覚から自由になりたくて仕方がない。それは、とことん求めて得られるもののように思われた。数歩は近づけるのだろうか。・・しかし、その前に、この世の荒ぶる潮に呑み込まれ跳ばされ振り回された者は、自ら追いかければ追いかけるほど、どうしようもなく、敗北し撤退してゆくしかなかったのだろう。
 
どん底においては、キリスト信仰ほど、負いやすい軛はないだろう。何かをしろ、とは言わない。何かをすれば、とも言わない。ただ、神の前に謙る人間であれ、ゆえに、人の前にも傲慢であってはならない、という。
 
どうすれば、ではなく、どうしようもなく、というところに、キリストは立ち、キリストは倒されて、十字架に対して、独立ではなく、従順をもって、最も低いところから、救いの約束と、救われる者との契約を表したのである。
 
 
(2017年02月23日)
 
謙る(へりくだる、遜る)
潮(うしお、しお)
軛(くびき)
 
 

 

 
 悪貨と良貨
 
 
驚くべき神のみわざである奇跡については大仰に語り讃美するけれど、驚くべき自らの罪と偽善と偽装と隠蔽については、ひた隠しにしてバレないように証拠を隠滅することに熱心な者がいます。一方で讃美、もう一方で偽善の罪を犯し続ける、という相反することを同時にやっている、これを人間離れ技と呼んでいます。人間に出来るとは思えないからです。
 
獣のような乱暴なことをしながら、それを隠して、信仰の模範となるような人と思われようと偽装の柔和な人格芝居をする白々しさと厚かましさとを続けている者には、やはり単純な罪ではなく、明らかに作為的な偽善の名を当てる他はありません。
 
その者は、偽善も罪だから、偽善も罪と同様に、悔い改めなくても救われる、と言っていました。結果を考えれば明らかに間違っています。総ての人がこのような信仰?を持ったらどうなるでしょう。罪も偽善も悔い改める必要がない、これが正しいなら、その成就の結果が、偽善者と乱暴者だらけの世界になってしまうのです。
 
つまり前に書いたように「悔い改めなくていい」も「偽善も救われる」も、とんでもない背教にしかならないということです。その者は、無思考に陥り、自分のいかなる非も認めない信仰?だから、狂ったようなことを、姑息的な言い訳として、言い続けてきたに過ぎません。
 
 (テサロニケ人への第一の手紙、口語訳)
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
5:19
御霊を消してはいけない。
5:20
預言を軽んじてはならない。
5:21
すべてのものを識別して、良いものを守り、 5:22あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
 (テサロニケ5:17―20、新約聖書)
 
いつも喜び、すべてのことについて感謝する、出来るでしょうか。不自然だと思います。聖句がこのように言っているのは、今日明日のうちに命が奪われるかもしれない迫害の時代で、死が近いかもしれない今こそ、逆に、感謝を示すべきだと言って、結束を強めるためなのかもしれませんが。
 
この聖句も、やはり、迫害によって殺される、という、悪が神の名によって行われていたという特殊な時代背景を考慮して読むべきことだと思います。迫害者が人間離れした神がかりだから、尋常の覚悟ではいけないと考えたのでしょうか。
 
この聖句のような何でも感謝することも、幼子のようであることも、他には、いつも讃美すること・・なども、出来の悪い聖職者が、説明できなくなって、めんどくさくなったときに、聖書に書いてあるという言葉面の根拠?だけで吐いてしまった、逃げ口上であり、実質、捨て台詞に過ぎない文言です。
 
こういうことは、人間性を考えれば、このまま一般的に受け取ってはならないことだと、無思考でない人なら分かるのです。説教が出来ないのに、人の上に立って説教することをやめない傲慢な者だけが、言葉面を振り回して、聖書に書いてある、と主張すれば通る、という、安易な短絡道に住んでいるのです。
 
聖職者がいつも優れた説教をする、と思っている信徒は、そうはいないと思います。そう思っている信徒は、自分で修正しなくてはなりません。つまり、聖職者であっても、いや、聖職者であればなおさら、出来ない、分からないと、はっきり言うことが、いかに大事かということになります。その共感の上に立てば、話し合いの機会を持ち、ともに掘り下げて修正してゆく、という道が開かれるでしょう。
 
人が不全だということは何度も書いてきましたが、信仰の芯として、信仰の弁えとして、何よりも大切なことですし、このことは、不全の共感から、弱さの共感、罪深さの共感、ということに、一対一で結びついてゆくことなのです。
 
ここを人間として考えて理解し受け入れない限り、人騒がせな、いや、それ以上に、有害な脅威となり得る自分信仰や無罪信仰は、広き門から、近道の短絡道路を突っ走って、いつの間にか生まれて、最悪の場合、主流になる可能性さえもあると考えるべきでしょう。悪貨は良貨を駆逐するとも言われます。
 
そして、いつの日も、聖書の言葉面は利用されます。
 
私が書いてきた批判記事もそうでない信仰の記事も、多くは、信仰の言葉面以外、受けようとしない、感じようとしない、考えようとしない、ということを、こともあろうに、信仰によって正当化してしまった結果の危惧と実例なのです。
 
偽物は本物に似せた言葉面を使い、本物より優しく易しいと思わせるものです。その優しさは言葉面だけ聖書に因む丁寧な言葉で、その易しさは鵜呑みの安易と気安さに過ぎません。信仰は一度に結論の出るテーマではありません。誰も、今、結論など持ってはいません。結論も結果も真理は神のものです。
 
真理は、神のみの持ち物です。私たちに与えられる様々なものの中で、神の領域のものは人には理解できないもので、神の専権に属するものです。私たちは、私たちが対象と出来る人間性において共感できるものを、出来る範囲で考えるべきです。
 
いつも感謝して笑っているような不自然で一面的な情意にならないために
 
いつも讃美しているからと模範的信仰者を自負することにならないために
 
幼子のように逆らわず鵜呑みにして騙されやすい信仰者にならないために
 
いつも自分を自分で神に結びつけて非を認めない者にならないために
 
聖書を読んで教会にも行くから大丈夫などと思わずに、自分の頭と心と魂を使って、信仰について、人の意見も聞いて、よく感じて、よく考えて、日々、信仰とその糧を、新しくいただけるように、修正可能で学習可能な思慮と情感を心に用意して、この地上を歩んでゆくことが大切だと思います。
 
 
(2017年02月22日)
 
駆逐(くちく) 
騙す(だます)
 
 

 

 
 妬む神と偶像
 
 
人は決して絶対ではない
ゆえに人は人を完全には救えない
 
神は絶対である
ゆえに神は人を救える
 
ゆえに神しか人を救えない
 
神が人に望むのは
しっかりしていない人が
神に命を委ねる信仰であるはず
 
にもかかわらず
しっかりした信仰とか
揺らぐことのない信仰とか
言われることがある
 
いつのまにか
神を信じたから人は神に近づき
他者よりも
物事のよく分かる者になったと
自負してしまい
そんな自分を守ろうとする
 
おかしい
 
それは最も戒められるべきことだ
 
委ねるとはどういうことか
 
人が自分の都合で
神の導きを決めつけて委ねるつもりなら
御自身を決めつける人を
神は妬み
人は砕かれるだろう
 
そうして砕かれた魂は
過ちに気づいて
自らの身勝手の決めつけを悔い
信仰のあり方を改めるのだ
 
神が全能で絶対だと信じたのなら
この世の目先の人の都合に
神を合わせるような人中心の不遜を
人も許してはいけない
 
キリストが神に殉じて
その肉体が死の門をくぐったほどに
信仰には気安さを許さないところがある
 
神は命の重さとして信仰を与えるからだ
 
神は
人が神の意志と行為を
決めつけることを許さないだろう
  
神の民であるために
人にとって必要なのは
神に対して
愚かな自分を認めることであり
愚かな自分のまま
自分を神に投げ出すことである
 
人の敬虔が
へりくだる相手は
まさに信じる相手である神であり
人に対する態度は
そこから養われるべきものである
 
敬虔と慇懃無礼を混同してはならない
 
神は超常の御方だが
神は人に超常であることも
超常を理解することも望んではない
と考えるべきだ
 
その根拠は
何千年経っても
人が愚かな殺し合いをしている歴史であり
それぞれの人の不全である
 
それが信仰者の分別であり
弁えであり
信仰の芯である
 
ゆえに神は人に対して
人が神を知らないまま
分からないまま
愚かなまま
救うことを是とされると考える
 
ありのまま生きるとか
弱さに生きるとかが言われるのは
 
誇るためではなく
誇れない私たちを捧げるためである
 
その態度は
ときに気高く見えるかもしれない
 
そのことをパウロから告げ知らされたのであって
パウロ自身のように
言葉で誇ってよいと言ったのではない
 
つまり捧げる私たちがまともなら
決して誇ることはない
 
しっかりしない人が
神によって赦され救われるのが信仰であり
信仰によってしっかりしましたと確認するのは信仰ではない
 
(どうしても言葉で言いたいなら
 助けられ支えられたと言うべきことだ)
 
言葉の問題だと言われそうだが
あとの者が言葉から真似することを考えるべきである
 
神によって
人はしっかりしていなくても
救いの希望があることを知るのであり
そのことに尽きるのである
 
しっかりしていないままなら
しっかりしようとか
揺らぐことのない信仰を
とかは言えないはずだ
そう言った途端に言った者は恥ずかしくなるはずだが
実際には豪語している者が多いのは
人と神の違いについて甘く考えているからだ
 
このことにおける甘さは
信仰にとって致命的である
 
信仰は社交ではない
つまり人は
隣人との社交のように神と仲良くすること出来ない
甘さが赦されない場合がある
  
全能者である神は妬む神と書いてあるのだから
弁えるべきことは
おのずと違ってくるはずだ
 
しっかりするためにどんなに努力しても
なお程遠い神を思うなら
努力して少しでも前よりしっかりして
少しは高くなったと思うときを警戒するべきである
 
高いとか強いとか誇るとかいうことこそ
神に任せるべきことである
 
つまりそういうことを人は
神が人を見るときの神の仕事と心得るべきである
 
知るべきは
自らを高めるために信じるのではなく
自らの低さを知るために信じることである
 
その低さが誰にとっても
自身のうちに
無尽蔵に湧いてくるのがこの世である
 
したがって
信仰は一生涯にわたって続く道である
 
私たちの一生は限られている
その限られた道において
達し得たところに従って歩みを続けるとき
達し得たところを完了と思ってはならない
 
自分が達し得たと評価するところで
平安の奥義を唱えてはならない
 
それは神に妬まれることだ
 
私たちは神の民
神のものである
 
私たちが神のものであるために
しっかり努めたつもりでも
 
達し得たことを完了と唱えてはならない
 
人は不変を保てない
 
 
弱さを誇ってはならない
誇るものがないから弱さなのであり
神の前で誇れるものなど何もないと知るべきである
 
平安の奥義を唱えてはならない
人の安らぎは過ぎ去るからだ
過ぎ去るものに不変の称号を与えてはならない
 
神が与えたと言って誇ってはならない
 
神は人に何を与えたかを語らない
 
神はご自身の計画によって行い
人の反応を待っておられるのであって
人に不変を任せてはいない
 
不変のように人が誇るなら誇った分
神の不要を唱えるようなものだ
 
そこに神が用意されるのは妬みである
人の不変の自覚は偶像なのだ
 
 
 (出エジプト記、口語訳)
20:5
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、
 (出エジプト20:5抜粋、旧約聖書)
 
 (出エジプト記、口語訳)
34:14
あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。
 (出エジプト34:14、旧約聖書)
 
 (申命記、口語訳)
4:24
あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。
 ・・・
6:15
あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。
 (申命記より抜粋、旧約聖書)
 
神が人に命を与えたのに
人が神に強迫的讃美や社交を返すようであってはならない。
 
 
(2017年02月21日、同日一部修正)
 
委ねる(ゆだねる)
妬む(ねたむ、嫉む)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
 
 

 

 
 信仰の奇形
 
 
今まで神の意志と行為に対する思い込みの決めつけによる自分信仰であるところの、無罪信仰、教理信仰、奇跡信仰、超常信仰、魔術信仰、史実信仰、などの言葉を用いて、矛盾に満ちた奇妙で偽善的な信仰?の特徴としての、訂正不能、自己正当化、自己絶対化、非を認めない、隠蔽体質、被害的他罰的な信仰?の性格特徴、神に仕えているつもりで実際は世間体などのこの世の利益に仕えている特徴、などを書いてきた。
 
自分信仰者は、実に、神を熱心に信じているつもりで、自分の思い込みに仕えて、そこから抜け出すことができないでいる、という嘆くべき現状にある。不動で揺らぐこともないという信仰は、彼らによって、人間世界には何も通用しないような、矛盾だらけの奇妙な道徳律とお伽話、そして、神と奇跡が手に取るように分かるかのような、とても奇怪な論理を作り出している。
 
人でさえ複雑であり、言葉では表せないほどに、善も悪も見極めがつきにくいのに、彼らは、実に、単純で短絡的な当為(「べき」の付くこと)に従っているつもりのようだ。つまり、彼らは、知性においても、情性においても、壊れているとしか言いようがない。しかも、最も問題で事態を最悪にしているのは、自分に誤りの可能性を認めないことだ。
 
どんなに奇天烈な教理を捏造して持っていたとしても、誤っている可能性を認めている人は、まだ、人に対して最低限の、謙る姿勢を持っているわけで、外面が恐くても、ただの変わり者で頑固な人として、立ち直る可能性も持っていると言えよう。
 
しかし、人が誤りの可能性を認めないことは、一対一で、神に成り上がっている証拠なのである。付き合いの表面的な社交の礼儀を持っていたとしても、それが柔和ということとは全く異なる偽善的態度であることは明らかであり、彼らの訂正不能性は致命的に信仰に反している。
 
信仰は、人が神を信じることであって、人が神の領域に住むことではない。信仰は、信じ仰ぐことである。人が神より下であるのだから、人が信仰について神を信じるのだから絶対だという判断は成り立たない、ということが分からないなら、その人は、容易に、自分の思い込みの信仰を神の意志として絶対化してしまうのである。
 
私たちは、自分の信仰を、神の御心だから疑ってはいけないという先入観から目覚めない限り、絶対化は避けられないだろう。絶対化した自分の信仰の言葉を、もはや自分の罪深い言葉として見ることができず、先入観として、訂正するなど恐れ多いと、一途に絶対化し、神の啓示だと言い張り、修正しないことが神を恐れることだと信じ込んでいる向きが多いのは嘆くべきことである。
 
私たちは、徹底的に、天上に住んでいる御方とは違うという自覚を持つべきである。その神と人の違いを弁えることについては厳格すぎるということはない。そこを知らないと信仰とは言えないからだ。神の言葉と、人が信仰について語る言葉とは、その完全性と無謬性において、決定的に違うのである。徹底的に時空も能力も限られた我ら人間は不全であり、聖なる領域は完全であることを弁えるべきである。修正することが神を恐れない態度なのではなく、逆に、修正しないでいることこそが、神を恐れない不遜であることに気づいてほしい。人間は地上の言葉しか持ってはいない。修正を重ねて成長するという本質を弁えなければ信仰は腐ってゆく定めなのである。
 
理解は、新しい理解によってしか、新鮮ではあり得ないのだ。それは、神が手とり足とり教えてくれて分かるものではなく、ただ、成り行きとして私たちが気づくべきことなのである。主のほうを向いて、主の言葉を聞いて、というのは、主の方向と主の言葉が分かると言う思い上がりであることに気づいてほしい。聖書を何度も何度も読んで、一途に訂正不能の思い込みを強くしている者もいる、ということを忘れないでほしい。問題は聖書を読む量にあるのではなく、神とキリストと聖書に対して、不全の人間である自分として向かい合っているかどうかにかかっている。
 
神の働きや神の人に対する導きは、決して、私はそれを受けている、などと人が言えるものではない。私たちは、目に見えない神に生かされているというのに、なぜ、自分が神から聞いて知っているかのように、神を知るという傲慢を続けているのか。私たちは、神に比べれば、無知というしかないほど知恵足らずである。その自覚を持たずに、得々と語る者からは何も得られないばかりか、本来持っているはずの知性と感性さえも腐らせ、破壊されるだけであることを知るべきである。
 
信仰には特別の知性や感性というものは必要ない。しかし、本来持っているはずのそれらの賜物を捨ててよいとは書いていない。そのような理性を敵として捨て去ることを勧める者たちは、ただ、自分の理性が貧弱であるために、そこで勘違いして、この世の知性的な人や感性の優れた人に対しての嫉妬と怨念によって、それらを捨てることを尊いと触れ回っているに過ぎない。
 
信仰者が持つべき、最低限で、かつ、必要十分な知識を、節操または弁えまたは信仰の芯と呼んで書いてきたが、自分信仰者の固まってしまった信条は、それを全く受け付けなかった。ここにおいて、手遅れというのは、あるのかもしれないと思ってしまうほどだが、少なくとも固まった信条からの信仰の話は、まともには聞けないほどくズレているし、さらに崩れてゆくことは確かである。
 
彼らのような自分信仰者への裁きは神がなさるだろう。私たちは、その時までに巻き込まれてはいけない。彼らは、熱心に見えても、信仰とは関係ないばかりか、信仰?の世界を自分で作って、真実を滅ぼしてゆく者たちである。
 
彼らのような自分信仰者は、知性を忘れ、感性を忘れ、恥を忘れて、その言うところ、まるで、信仰の糧にはならないほど幼稚であり、人を導く偉人になろうとして、信仰の話も、信仰の話し合いも、詭弁で満たしてゆく者たちであるから、いずれは地上での生活も、その言論と行いによって、矛盾だらけになって崩壊するだろう。
 
信仰の話において、批判を受け入れず考えない慮外者たちを覚え、彼らに近づかないようにするべきである。信仰は批判禁忌ではない。人の世界で信仰が生きるために人の話し合いは必要であり、何も文句を言われたくないために沈黙を勧める者たちに惑わされてはならない。
 
彼らのような自分信仰者は、自分の利益と自尊のために紛れ込んだ者たちであって、信仰の義など求めてはいない。話し合いと学習機能の入出力による訂正機能によって新たにする気のない者たちは、最低限の正直も誠実も、神の前に偽らないことさえも、気にしないほど、恣意的な信念に毒されているからだ。神と人の関係の有り様は地上では神によって秘されている。信仰は地上では人間同士の間に芽生えて知るものである。その人間同士の間が、闇と沈黙であってよいはずはないのである。
 
キリストが敵としたのは、知性と感性を殺して無思考の戒律にすり替えた者たちであり、当時のパリサイ人や祭司たちは、結局キリストを殺すことになる。そのような者は現代にも自分信仰の思い込み信仰者として、現代のパリサイ人として存在している。彼らは、心の中で偶像化した奇怪な論理を振り回して、いくら指摘されても無思考に無反省に同じことを繰り返し言い続ける亡者である。
 
無知が無恥になるようなことがあってはいけない。
 
信仰の知恵は無思考を招くことはない。
人間は、神の導きを受けて、考える生き物である。
 
 
(2017年02月20日、同日一部修正)
 
奇天烈(きてれつ)
捏造(ねつぞう)
謙る(へりくだる、遜る)
芽生える(めばえる)
 
 

 

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