ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年03月

 
 思い込みと信仰
 
 
どうも思想の思い込みの度合いが強くなると宗教的と呼ばれるような気がするのだが、つまり、宗教は思い込みだということになっている・・のだろうか。
 
方法として思い込むことを使うことはあるかもしれない、分からないが、それは人間の心理と試行の範囲内だろう。少なくとも、個人の信仰そのものは思い込みであってはいけないと思っている。何故なら、人が思い込んでよいこと、特に、自分で決め付けて一生変わらず思い込んでよいこと、というのは、殆どないからだ。
 
例えば、信仰は神を信じることで、それは思い込みだろう、という言い分があると思うが、神を信じること、というのが、もし、神について属性を具体的に決めて、神はこうだ、と信じ込むのなら、それは確かに思い込みだろう。
 
神聖の不変性と修正不要性と、人が不全性ゆえに時々に修正しながら求めてゆかなければならないことを考えると、神聖とその属性に対する思い込みは、神への反逆と言ってよいと思われる。
 
しかし、神を至高の善であり、完全・絶対・永遠・不変・全知・全能、聖典は聖書、と信じることは、思い込みではないだろう。これらの漠然なる性質によって明らかになる具体性は殆どないからだ。聖書に書いてあることからは、解釈次第になるから、これも、決定的なことが決まるわけではない・・ということ。
 
つまり、聖書の神は、信じ込んでよい内容を人に与えていない絶対者ということになり、創造主と言えば、創世記を信じるということになるが、その信じ方は、人間を考える上でのお伽話に近く、熱心に信じている者ほど、お伽話のような信仰になっているような気さえするのである。もちろん信仰はお伽話にとどまるものではない。ここで考えるべきは、信じる、という言葉についてである。
 
はっきりしないことを、具体的な物や生き物などのように、あると決めつけている状態を信仰という見方は間違っていることに気づくべきだ。聖書の神、そしてキリスト信仰においては、信じるということは、望むことであり、いてほしいと望むことであり、いないならば生きる理由が見つからないというほどに、存在を希望して止まないことである。現実を弁えるなら、きれいごとや、お伽話や、思い込みの激しさが信仰であってはならないことが明らかになる。
 
最初に帰ろう。神について決めつけて思い込んでよいことがあるだろうか、第5段落にあげた二字熟語の羅列のような漠然としかしてないものを含めて、ないと言ったほうがよい。そして、信仰を持つということは、何かが信じ込むことで完成することではなく、信仰を持つことから始まる道だということである。
 
完成した何かを、キリスト信仰が与えるわけではない。聖書とその考察と解釈、そして個人の感受することや考えることは、その時々のヒントにはなるかもしれないが、生きてゆく中で学習することであり、それはとても人間的な作業であり、神がかった不思議の国のプロセスとは大きく異なった方向だ。私たちが人間だからである。
 
神から学ぶこととして、あるいは、神を信じることから学ぶこととして、完全に対する人の不全、ということを何度も書いてきた。ここが始まりであり、その不全は、個人と歴史の事実から明らかである。したがってこれは、決めつけでも思い込みでもない。ここから、信仰は始まっている。なのに最初に救済と幸福の結論を持ってくる者のどれほど多いことか。
 
私たちは、世界の真実を十分には知らない。神の真理を知らない。それは、神が今、怒っているか微笑んでいるかさえ知らないほどだ。私たちは神を知らないのだ。だから、神は本当はいないかもしれないけれど・・、と言うべきであり、だけど、いると思わないと生きてゆけないと思うし、いると思うことで癒されることがあるのだから・・、と言うべきである。そう言うことが信仰の告白であり、そう思わないと生きてゆけないのが信仰者であり、信じることだと思う。
 
神はいないと言う者に対して、いや、いる!と突っ張ることは、決して神の存在を証明しないし、信仰が厚いことも証明しない。神がいないと思っている人はいるのだし、大きくも小さくも信仰をもって包むならば、分からないでしょう、証明が出来ないのだから、以外に正解はない。
 
そうして、禁句をなくし率直であることで、福音伝道を考えるべきだと思う。神様のことを知っていますか、教えますよ、ではなく、神様について一緒に考えてみませんか、・・でなくてはならないはずだ。
 
面倒だからスパッと教えてくれ、と言う人もいるだろう。その人の今の差し迫った問題についてのアドバイスなら、信仰者同士として考え、判断の手助けをすることも不可能ではないかもしれない。
 
しかし、信仰とは、神とは、・・という本質的な課題に、スパッと言えるなら、そもそも信仰の道を必要とするだろうか。この世には安易に流れる物も者も多いけれど、キリスト信仰は安易に流れてはいけない。歯切れよく簡単にスパッと説明できる信仰を、神も人も用意してはいないと考えるべきであり、それは詐欺師や偽善者のものだから、と言うべきである。信仰者が歩むべき人生を、その道のりを、命を、かいつまんで手短に教えることなど、どうして出来ようか。
 
教理から入ることより、信じることから入ることより、むしろ、思い込まなくていい、信じ込まなくていい、決めつけてはいけない、ということを、人間の温もりと潤いを失わずに、人間の感性と理性を失わずに、伝えてゆく姿勢が福音伝道には必要だ。神について、信仰について、私たちは分かっているから教えるのではない。ともに考えたいから伝えているのである。
 
キリストからの救いは、聖書を読んでもおらず、教理を知っているわけでもない人々に、惜しみなく与えられたことを忘れるべきではない。彼らは、奇跡を喜んだだけではない。その証拠に、十字架上の犯罪人は、死刑を免れることを望んで告白し約束されたのではなく、キリストとともに御国にゆくことを約束されたのである。人間に分かる奇跡は魂の奇跡だけである。
 
物や肉体の奇跡は超常であって人間が分かろうと思っても無理と知るべきである。にもかかわらず、超常の奇跡を信じて、起こってもいない奇跡を、決めつけたり、捏造したり、曲解したり、讃美したり、起こると期待したり、実に忙しく空しい者たちがいる。
 
聖書を読み、律法を詳しく学んだはずの者たちが、キリストから何と言われたかを覚えるべきである。彼らは、温もりと潤い、息と涙、人間の受ける心と考える心を失っていたので、行ってしまえ、と言われたのである。特に宗教と思想と信仰には、分かるという嘘が蔓延している。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
一年先のことも、一か月先のことも、一日先のことも、分からない世にあって、何を見えると言えるだろう。その弱さゆえに、神に、不全の自分を捧げて頼みとするのであり、その弱さゆえに、肩寄せ合う相手を望むのが人間なのだろう。
 
見える、分かっている、知っている、御心に従っている、神が自分をそうさせる、などと言う者は、見ておらず分かっておらず知っておらず、御心を知ったかぶりで、神の意志と行為を知ったかぶりして、自らを高めており、高ぶっており、自ら高い位置を欲しがっており、神に対して、見える!盲人ではない!、と言い張っているのに等しい。
 
 
(その名は不思議ブログ
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 とうとうコメント欄は完全に削除されたようです。
 
 不備と罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 悔いることなく改めることなく赦されるから
 罪を気にしなくていい、という無罪信仰をキリスト信仰だと唱え、
 削除や隠蔽という不実、と同時に、神を讃美する、
 という二律背反の同時進行の信仰をどうして受け入れられるでしょう。
 
 読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年03月30日)
 
 

 
  多幸気分の霧?
 
 世界史地図 (2009.3.9)
 2017/3/28(火) 午後 9:56
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28013026.html
 
 
無反応で無礼な人たちを見ていると、手応えのなさに心を病みそうで、前回、少なからず乱れて、殆ど呪いみたいになってしまいました。失礼。
 
少し気を取り直して、今回、彼、シャローム氏のほうは、転載記事ですが、転載元に記事が見当たりません。内容的には、何だか呑気な記事のようです。
 
>1949-50年ころ、守屋美都雄先生に声をかけられ、
>国立国会図書館に勤めながら、週1回、夜、先生のお宅にうかがい、
>高校の世界史の教科書に沿って歴史地図を作っていった。
>そのため、西洋と東洋の歴史をつなぐ大きな年表をまずつくった。
>わたしはそのとき、初めて「世界史」が理解できた。
 
世界史が分かったことを伝えたいのでしょうか。そして、何が分かったか、書かないのでしょうか。彼、シャローム氏のように、あんなに栄えた国も、永続はせず、衰えたり滅びたりする、という、自分を傍観者として見下げるボロクソ節を言いたいのでしょうか。
 
>「大日本帝国」は半世紀あまりで消滅したが、
>これからの日本は、英国のような「ふつうの国」になればいい。
 
ふつうの国とはどういう国でしょう。平和の国なら、なればいい、ではなく、多くの困難があるのですが、ふつうの国になればいい、というのが、いったい、どういう有益な結論になり得るのでしょうか。
 
>気張ることはない。世界に誇れる平和憲法をもっているし、
>エコ技術も世界最先端をゆくという。身の丈にあった充実の国がいい。
>世界史地図がそれを教える。
 
日本は、気張っているのでしょうか。平和憲法は、危うくなっているのではないでしょうか。エコ技術は、十分発揮されているでしょうか。身の丈に合った充実の国がいい?・・ずいぶんと、のんびりした意見のようだが、これを、わざわざ、書く必要があったでしょうか。
 
彼、シャローム氏は、なぜ、この記事を転載したのでしょう。意図が分かりません。何も書けない者だから、転載の選択も、いい加減になっているのでしょうか。読んでみて、全く、この記事を載せる必然を感じないのですが。
 
>キリスト教会も、大きさを競わず、
>これまた、身の丈にあった充実の教会がいい。
>「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」
> (第1テサロニケ4・11)
 
キリスト教会は大きさを競っているのでしょうか。彼、シャローム氏にとって、そのことが、どれほど問題だというのでしょうか。彼は、教会のことを心配している余裕はないはずです。彼は、ずっと、信仰から外れたところにいることを指摘してきました。それを茶化すために、彼、シャローム氏は、このような記事を載せたのでしょうか。聖句の引用も肩透かしのような気がします。全体に怠くて、薄い多幸症の霧のような鈍麻を感じます。転載元に記事がない、というのは、転載元が削除したのでしょうか。しかし、彼、シャローム氏は、何らかの形でその記事を持っていて、だとすれば、いかなる感動か関心か興味があって転載したのでしょう。
 
 (テサロニケ人への第一の手紙、口語訳)
4:11
そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
4:12
そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。
4:13
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
4:14
わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
 (1テサロニケ4:11―15、新約聖書)
 
聖書を勉強しようと思うなら、13~15節のほうが興味深いように思うのですが、今も少し取り乱している私としては、ネットから引用してみることにしました。以下の引用、終末における復活のことを言っているのでしょうか、私には、よく分からないところでもありますが・・。
 
引用)
13節でパウロは、「眠った人々のことについては」と語り出す。…これは、ようするに「死んでしまった人々」のことです。
13節。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
死に対する一つの態度は、「望みなく悲しみに沈む」ということです。
愛する者を奪って行く死。大切な人を遠くへと隔ててしまう死。・・・人間の力ではどうすることも出来ません。・・・どうすることも出来ないからと、どうするのでしょうか。・・・諦めるのか。絶望するのか。何か感情的な慰めや心理的な処理をして、気を紛らわすのか。
しかしここでパウロは、そうではない。死の問題には、解決があるのだ、と言うのです。・・・死に対する二つ目の態度は、今日の箇所に教えられている、クリスチャンの態度です。
望みが無いのではなくてあるのだ。絶望ではなくて希望があるのだ。悲しみに沈むのではなくて慰めがあるのだと言うのです。
 そして、18節で、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」・・・と結ばれます。
つまり、この箇所で教えられていることは、死んでしまった人々のことについて、私達には、そんな、死によっても失われない確実な慰めがあるのだと確かめようではないか、ということです。
さて、これを書いたのは使徒パウロという人ですが、なぜパウロはこの教えを書いて、テサロニケの教会へ送ったのでしょうか。
それは、テサロニケの教会に、この教えを必要とする状況があったからです。
それはどのような状況であったでしょうか。・・・教会の仲間達が死んでしまった、という状況です。
http://www.imcj.org/message/monthly/monthly9811.html
(引用終わり)
 
先に死んでいった人々も、いずれ死ぬ私たちも、死ぬのではなく眠るのだと、しかも、死者はただ、今、眠っているに過ぎないのだと言うのでしょうか、いつか、いっしょになって、この世にいるとき以上に親しく、ぎくしゃくすることもなく、いつか、ともに集うて、永遠と呼ばれる命に生かされるのでしょうか、もはや、時の長さを問うこともなく、地を争うこともなく、地上よりも、はるかに広いところに、本当の平安を得るのでしょうか。
 
失礼いたしました。
 
 
(2017年03月30日)
 
呑気(のんき、暢気)
 
 

 

 
  蜘蛛の罠
 
 
 「蜘蛛の糸」
 2017/3/29(水) 午前 9:59
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28013678.html
 
 転載元:生活の中の聖書
 記事:「蜘蛛の糸」
 2017/3/29(水) 午前 9:09
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/33894841.html
 
 
シャローム氏に見られる一般的な傾向として、反論できないことを言われると、次の記事を、転載でも何でも、ぽっと出してくる、さらに、別の記事もかぶせてくる、というのがあるようです。かわいそうなことです。いかなる疑問にも返す答えを持ち合わせていない人なのです。
 
まず、誰でも分かることではありますが、この記事の題材は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」でしょう。それを書かないのは、転載元における引用元に対する失礼と不備ということになります。
 
>これはフィクションだが、この世の宗教をよく現している。
 
>けれども、私たちの神は天から蜘蛛の糸を垂らすことはしない。
>神はかんだただけではなく、すべての人を救い出そうとする。
>そのためにナザレのイエスとなり、十字架による死によって、
>私たちの罪の罰を受け、救いの道を備えられた。
 
なんという転載元の傲慢な態度でしょう。芥川は小説を書きました。仏教は、仏教の救いがその小説の蜘蛛の糸だと明言したわけではありません。
 
すみません、ちょっと罵詈雑言吐きます・・バカじゃないの、この身の程知らずが・・!
 
なのに、転載元は、私たちの神は・・と、自分の信仰が仏教より勝っている理由?を書いてゆくのです。転載元は、私が思うに、恐らく被害者意識に凝り固まっている人でしょう。被害者意識と他罰意識に蝕まれている自分に気づかないから、このような不用意な書き方をしてしまうのです。
 
そこに、どこまでも狡く卑怯な、彼、シャローム氏は、飛びつくのです。彼もまた、被害者意識のかたまりなのです。情けない・・、これが、今のキリスト教の世界の、一部とはいえ、実態なのです。
 
>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
>それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
>永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
 
>釈迦は何も犠牲にしていない。せっかく救おうとしたのに。
>そこには愛がない。ア~ァである。一方、十字架は神の愛の表現。
 
これは、明らかに仏教に対する誹謗中傷です。転載元は、このことについて仏教徒と仏教学者相手に論争する用意があると言うのか。仏教の方々、どうか彼をおゆるしください、彼は、自分が何をしているか、分からないでいるのです。このような未熟な信徒を、面白がって利用するのが、彼、シャローム氏です。転載元は、彼の罠に嵌っている。
 
>神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、
>いのちを得させてくださいました。
>ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
>私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
>私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
>ここに愛があるのです。1ヨハネ4:9~10
 
まことに、転載元は、神もキリストも寸分も愛してはいない。お前の傲慢とあざけりのために、キリストが、今から、どれほど自らの血を流されるか分からないとは。そんなことだから、彼、シャロームに、好きなように利用されるのだ。
 
>神は地獄へ行かせず、喜びの地に招くお方。
>垂らされた糸に一所懸命すがりつく努力を必要としない。
>ダメだったか。まあ、いいか、とはされない。
>御子イエスを救い主キリストと信じることだけで、
>神ご自身がそのままで引き上げてくださる。
>神の愛の支配に移され、本来の神と交わりに生かされる。
 
こう書くことが、どういう意味を持つか分かるだろうか。神も人も裏切り続けた、彼、シャロームが、悔い改めなくても赦され救われ愛される、という無罪信仰の誇大妄想を、どれだけ強化することか、何をしてもそのままで神が引き上げてくださる、という甘い文言は、カルトでも聞くことは稀だというのに。どうやら、転載元は、彼、シャローム氏のペテンに、まんまと騙され、その一味となったようです。言っていることが、そっくりになってきました。前は関係ないようなことを言ってたのですが・・。残念です。
 
>私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、
>不敬虔な者のために死んでくださいました。ローマ5:6
 
>生まれながら御怒りを受けるべき者だった私たち。
>けれども、神の一方的な愛によって救いの道が備えられた。
>イエスの十字架によって、身代わりの罰を受けた打ち傷が、
>私たちを滅びから救い出してくださった。感謝である。
 
キリスト教で一般に正しいとされている教理を、彼、シャロームは、そのプロ的なペテンのわざで捻じ曲げて、無罪信仰を吹聴していることが、転載元には分からないらしい。
 
神からの愛に、人は何も答える必要などないというのか。転載元、あなたが、そんな信仰を持っているとは思わなかった。人は、神の愛に対して、人という不全のうちにも、神に対して偽らないということだけは示さなければならないはずだ。そうでなければ、人は救われたいと言うだけで好きなように救われ、人が守るべき節操を何も弁えなくてよい、という宗教、即ち、シャロームの言う無罪信仰に、感謝、感謝、讃美、讃美、ありがたや、ありがたや、という喚き声で笑いながら向かうことになる。
 
もはや、この人、転載元、「生活の中の聖書」管理人JC(jc_*rot*er)をクリスチャンとは呼ばない。シャロームが転載するたびに、シャロームの一味として、反キリスト信仰者として批判してゆきます。
 
と同時に、彼、シャロームの、他者を巻き添えにしてますます凶悪化してゆく卑怯な有り様に対して、怒り、そして憎しみを覚えざるを得ません。この憤りを、できることなら、貫いて私の生涯は終わりとしたいと熱望します。
 
憎き悪魔、シャロームは、一日も早く滅び去って、影も形もなくなり、残骸一つも残すことのないように。・・我が罪を赦し導きたまえ。主イエス・キリストの御名を通して、この祈り、御前にお捧げ致します。アーメン。
 
 
(2017年03月29日)
 
罠(わな)
嵌る(はまる)
 
 

 

 
  その名は不思議で不可解
 
 「その名は不思議」ブログ
 森友問題で政府の「逃げの一手」ならぬ「逃げの三手」
    ──「職員のせい」「大阪のせい」「矮小化」はもう通用しない
 2017/3/28(火) 午前 9:43
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28012078.html
 
 転載元:TABIBITO
 記事:同タイトル
 2017/3/28(火) 午前 1:46
 
http://blogs.yahoo.co.jp/moritakeue/15075925.html
 
 
前に、コメントだったか記事だったか忘れましたが、
彼に対して悪い政治家にそっくりだと書いたことがあります。
 
転載記事に乗っているイラスト画像はABsorryの風刺ようですが、ここでは、まさしく、現状での、彼、シャローム氏の姿と言っても過言ではないでしょう。
 
>「逃げの一手」という言葉がある。
>都合の悪い事や面倒なことを避けて通り、
>専ら自分の身の安全を考えるというもの。
 
シャロームさん、まさに、あなたのことでしょう・・。
 
コメント欄をことごとく閉鎖して、何も見ない、何も聞かない、という態度に徹して、一方では、自分の言いたいことだけを言う、繰り返し似たようなことを言う、それは、他でもない、あなたでしょう。
 
都合の悪いコメントを、ずっと前から削除してきた、五感においてのみ見なくて済むようにしてきた、それで難を避けて、神の平安のうちに過ごしています、などと言ってきた、それは、他でもない、あなたでしょう。
 
あなたがそうするのは、他でもない、保身のため。どういう保身かと言えば、元牧師であり、聖職者としての地位があり、聖書を教える資格があり、尊敬されるに値する、という立場への執着があって、しがみついている。他に何があるのでしょう。
 
罪を認めない人が、どうしてキリスト者なのでしょう、聖職者なのでしょう。胸糞が悪くなります。
 
そして、あなたは、自分のコメントで決着がついたかのような偽装工作を行った。言い合っている途中のコメントに、不自然な時候の挨拶、これは、そのあと、私のコメントをブロックして、批判があっても反論して退けました、と読者に思わせるため。
 
もはや、コメントの欠片もない、あなたのブログ、不感のどこが神の平安か。
 
>イラストとともに、「逃げの3手」として次の3つをあげている。
>1 職員のせい  夫人付職員の照会、昭恵氏の直接支援業務ではないと主張
>2 大阪のせい  新小学校設立隣家が疑惑の焦点。大阪側で調べるよう主張
>3 矮小化    国有地の売却交渉と夫人付職員の照会は時期的に無関係と主張
 
1.相手のせい、相手の病気のせい、相手の誹謗中傷のせい、・・
2.聖書を引用して無罪信仰の根拠にしようとする、罪は悔い改めないまま赦される、等々。また、転載記事が多くなった。
 まさしく、聖書のせい、神のせい。転載元のせい。
 しかし、転載するということは、賛同している証拠。
3.相手の言うことなど、つまらない人が、つまらないことで感情的に言っているだけだから、気にしない、という、不感と無関係の姿勢。
 まさしく、矮小化。キリスト者にとって、信仰の問題は、命の問題である。
 
ちなみに、キリスト者が罪による罪責感に苦しまなくてよいのは、悔い改めによる信仰の道が、常にあるからです。無罪だからでは決してありません。したがって、罪を犯しても気にしなくていい、これは、真っ赤な嘘です。
 
あなたは、恐らく、誰が証言しても、嘘をついていると突っぱねるのでしょう。不利な証言を今まで、全部消して、全部隠して、全部、神の前にも隠してきたのが、まさしく、シャロームさん、あなたです。
 
そして、罪は悔い改めなくても赦され救われると、白々しく隠蔽済みのブログ上で、何度も、神を讃美してきたのは、まさしく、シャロームさん、あなたです。
 
だから、私は、「文書の管理が大事」だと思って、たとえ、あなたが全く見なくても、批判記事を書いてきました。約2年分~批判を始めたときからは6年分。
 

書類が無い記憶が無いで済むのでは事実解明はされないので、今回については適正に文書が残されていない事、その事の責任を問わなくてはいけないと思う訳ですね

 
真面目なコメントの文書を全部消してしまった責任を、あなたは、どう取るつもりですか。ひょっとして自分の記事も、都合の悪いものは消してきたのですか。
 

事後的な検証が為されうる事は容易に想定出来た筈で、その記録が全く無いというのは非常に不自然ですし、もしこれで良いという規則なのであれば、規則を作った人の責任を問わなくてはいけないと思います。

 
これが民主主義なのです。見えなければいい、証拠がなければいい、ではないのです。
 
あなたが、まともな反論を何も、なし得なかったということなのです。その代わりに強制力による削除という暴挙に至ったのです。
 
よくもまあ、この民主主義についての記事を転載できたもの。あなたが、自分を見つめる目を全く持っていないことの証拠です。
 
>主義思想が近いというだけで首相や同夫人が共鳴することも脇が甘いし
 
あなたが、社交の世辞と、訳も分からないまま褒めることで、仲良しを作ったことと符合します。
 
 
前にシャローム氏の書いたコメントです。「・・・」は省略。
 
 私の記事:「いのちのパン?」
 2016/4/23(土) 午後 8:00
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
 
 批判対象記事:その名は不思議
 「いのちのパン」
 2016/4/21(木) 午後 4:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html
 コメントは削除され、コメント欄は閉鎖されています。
 
(※ すごい執念です。彼、シャローム氏は、二千余りの記事のコメント欄を、一つ一つでしょうか、結局、全部設定し直して閉鎖したのです。いったい、それが、なんになるんでしょう。笑い者になるだけじゃないでしょうか。)
 
 
>shalom氏のコメント引用始め
 
> st5402jpさん
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、何も得るものがありませんでしたか。
  ・・・
2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ]
 
易坊と仲が良いことを私に示すコメントであることは確かでしょう。
これも歓迎か何か知らないが、彼は、ふざけた書き方を時々向けてきます。
(私の記事の文章))
 
<引用終わり
 
 
>同、引用始め
 
> st5402jpさん
 
stさん、私はあなたと違って、あなたのコメントを歓迎していません。くりかえし削除すると伝えています。それでもコメントをするあなたは荒らしなのです。
 易坊さんは易坊さんの考えと易坊さんの責任でstさんにコメントされたのです。易坊さんからのコメントが80コメだと言われましたが、stさんが私に送られたコメントの数は数えてみましたか。
 ・・・
もともと荒らしコメントとしてstさんから送られたものなのです。誰が何を言っても自分の正当化しかできない、他者の非難中傷しかできないstさん、これからもstさんからのコメントは荒らしコメントとして削除することを伝えておきます。
 神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです。
  
2016/4/22(金) 午後 8:37 [ shalom ] 返信する
 
<引用終わり
 
彼は、反対意見を総て誹謗中傷を見なしているという証拠です。また、数の多いコメントをそれだけで荒らしと見なしたという証拠です。また、好き嫌いで判断して、歓迎しないコメントは削除していいと思っている証拠です。つまり、ブログを公共のサービスではなく自分の私物と見なして扱っている証拠です。
 
また、彼に問題が多いから、コメントの数は多くなる、ということを彼に言っても無駄でした。また、彼は、自分に都合の良いときだけ、「神の裁き」に任せているという証拠です。神の裁きに任せるのなら、なぜ、コメントを削除したのか、という反論に、彼は答えることが出来ませんでした。
 
そのときの私の記事のコメントです。
 
言論において、双方向を拒み、ブログのルール上の権限によって、コメントを、未承認にしたり、削除したりする人は、言論の常識と民主主義の常識において、一方的な態度と見なされ、法律やルールではなく、言論者として、一方的で、自己中心的な行為です。ネット上のルールや個人の自由を根拠に、信仰について、他者の意見を聞かないのは、返せないか、聞きたくないという文責を放棄する行為であり、正当化できるものではありません。もし議論を拒むのであれば、誰にも見せないことです。公表した時点で文責は生じます。あなたの言い訳は成り立ちません。
  
私は、易坊のコメントを承認しています。削除と不可視化は、言論者として不当だと思うからです。
  
本来、双方の意見を出して、判断を読者に任せるべきところを、あなたのように、恣意的に取捨選択をして、よく見せようとしたり、削除して無かったかのように見せることが、不当であり、そこをあなたが理解していない間、批判は続くのです。
 
コメントは、すべて削除されています。
 
 
政治と違って、何億の大金とか、かかってないじゃないか、個人間の話に過ぎないじゃないか、という言い訳は通用しません。問題は、ネット上の道義の問題と、信仰の問題だからです。
 
転載記事は政治の記事だから関係ないだろう、という言い訳も通用しません。私は、この政治の記事の内容を問題としているのではなく、上に述べたように反民主主義で権威主義である、あなたが、転載したということを問題としています。
 
 
(2017年03月29日)
(2017年03月31日、一部修正)
 
 

 
  黒い罠
 
 
 第二百六十回
 2017/3/27(月) 午後 0:00
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28010592.html
 
 転載元:永遠のいのち
 記事:第二百六十回
 2017/3/27(月) 午前 9:40
 
http://blogs.yahoo.co.jp/gonchanoosaka/14345122.html
 
 
彼、シャローム氏が、この話を転載した貪欲な理由を私は書いてゆきます。彼は、自分で書くと、批判される、というより、批判されない記事を書くことが出来ないから、人の記事に頼って、責任を逃れたいのでしょう。
 
科学者は宇宙に神の存在を想像し、芸術家は至高の作品または目指すものを神と呼ぶこともあるでしょう。そのよう天才たちの言葉を、さらに障害を持った人の鋭い感性を、自らの煤だらけの信仰観に結び付けてはならない、ということにこそ、キリスト者の持っているべき、神の前に遜る敬虔を発揮するべきなのです。
 
それとは逆のことをして、彼は信仰がある、クリスチャンだ、と言いふらしたのでは、はっきり言って、神が個人に与えた役割としての才能と気づきを、その人の心をよく分かりもしない人が、身の程を弁えずに、宣伝に利用する行為であり、神も芸術も人間も、けがす行為になりかねませんが、彼、シャローム氏は、そういうのが大好きなので、無罪信仰によって自分の罪も欠点も分からないまま、転載している、ということでしょう。
 

この方は自分はクリスチャンだとは書いておられませんが、書いておられる内容と参考文献として挙げておられるものから、キリスト者であろうと思います。自分ではクリスチャンではないと思われているのかもしれません。でも神とイエス様の愛と憐れみがこの方に溢れるほどに注がれていることがわかります。

 
このような推測をしても、自らのキリスト教の信仰をべったり貼り付けるようなことはしないのが、キリスト者の役目だ、とは思わないのが、彼、シャローム氏ですが、レッテル貼りは、キリスト者の仕事ではありません。すばらしい言葉に対しては、聞くにとどめ、称賛するにとどめることが、キリスト者の敬虔なのです。
 
神にも通じるような気がします・・くらいのことは言ってもよいでしょうが、きっと彼はキリスト信仰者です、などと神の御心を読んだ気になって、彼、シャローム氏は、その確信で大仰に讃美したいがために、この記事を転載したのでしょう。
 
キリスト者の何たるかを自分は知っているという前提に立っている信仰全能?の興ざめな所業に過ぎないのに、彼、シャローム氏は、遠慮も思慮もありません。それは、この世において、信仰者にとっても、とても迷惑なことです。
 

「『光』が認識につながり、『音』が感情につながるとすれば、『言葉』は魂と結びつく働きをするのだと思う。私が幽閉された『暗黒の真空』から私を解放してくれたものが『言葉』であり、私の魂に命を吹き込んでくれたのも『言葉』だった。」

 
これが聖書の話に似ているからということで取り上げたのでしょうか。音や言葉や芸術が魂に結び付いて、人を自由にする、・・それは、感性の賜物であり、そこから神へ通じるかどうかは、本人が語るべきことであって、そこに、キリスト者が、いわれもない注釈を入れるのは、はっきり言って、無礼であります。優れた言葉は、神の云々・・、優れた絵画や彫刻は、神の云々・・、と言いたくて止まないだろう、彼、シャローム氏のスピーカーの電源を落としてください。
 

ここで、彼が言っている「言葉」には通常の意味での言葉の意味もありますが、イエス様を意味していることでもあると思います。それは、また、本書のタイトルでもある「ぼくの命は言葉とともにある」の言葉にも隠されたイエス様がおられるような気がします。

 
なぜ、聖書の言葉に似ている、に留めないのでしょう。なぜ、命が言葉とともにあるのはキリストがおられる証拠みたいに、自分の信仰観を出してくるのでしょう。彼、シャローム氏においては、頭の中で、命と言葉面や文字面が密着しているからでしょうか、彼にとっては、前言っていたように、聖霊が啓示を与えるから自分は正しく間違いないという確信のレッテルでしょうか。
 
通常の意味を認めながら、この人の心をつぶさに知っているわけでもないのに、さらにキリストの言葉を総て理解しているわけでもないのに、褒めるのは構わないだろうと、イエスの言葉と思う、思うのはいいとしても、それを文章にし発表するのは、これは、・・そうそう、それそれ、それが信仰ですよ・・、と分かりもしないのに突っ込んで、吹聴して回る、カルトの宣伝と同じような胡散臭さを覚えます。
 

この時、著者は高校2年生だったそうです。そのような時に、目が見えず、耳も聞こえない状態になって<宇宙の中で自分が存在しているのは自分の力によってではない>、<超越者とでもいうべき大いなる存在がいるという想定をしないと、私たちの存在は説明できないだろうと>考えていたことは素晴らしいことです。

 
優れた感性を感じるとか、キリスト信仰に似ているかも、に留めておけばよいのです。上に述べたように、神の存在は、いろいろな人が、いろいろな状況や情景の中で、感じることです。そこに、この言葉は、自分の信じるキリストの父なる神への信仰ですと、しゃしゃり出る醜さを覚えてください。
 
その人が、キリスト者であるかどうか、またキリスト者になるかどうかは、その人が信仰を求めるかどうかであって、それは信仰だと、神の導きよりも前に出しゃばって、他者が人に言いふらす愚は、彼、シャローム氏が、奇跡と賛同記事を漁る所業に似て、見苦しいものと心得るべきです。
 

またその苦しみの意味を今はわからなくても、<まず受け止めて、そのうえでどう生きるかが問題なのだろうと意識を転換しました>というのは、私は深い信仰のあらわれだと思いました。さらに<自分の使命を考え>、自分にはこのような苦しみを与えられているが、使命も与えられているはずだというように導かれたということです。

 
その人がキリスト者であるかどうか、また、その人がキリスト者になるかどうか、私は知りません。しかし、このような記事は、実際に、手段を選ばず反対者の意見を封殺して、言いたい放題言っている、彼、シャローム氏のような偽善者によって転載され、その薄っぺらな興味をそそるものです。
 
私が長く偽善者として批判してきた、彼、シャローム氏のような者に、記事のような、そういう人を見つけたらキリスト信仰だと言って褒めて誘おう、という、本来の伝道とは、かけ離れた宣伝に積極的な文章ほど熱心に利用される恐れがあり、実際今回はそうなっているのです。私が長く批判している彼は、人間同士の付き合いなど求めないばかりか、共感する必要はないと言って、人間同士が守るべき節操を何も分かっていない者です。そして、彼自身は意見を言うが、彼に意見する者、特に反対する者のコメントをことごとく削除してきたのです。
 
障害を抱えながら生きている人が語る言葉を、その人がキリスト信仰の信仰告白をしたわけでもないのに、信仰と決めつけて、讃えるにとどまらず、また、異教のことなど気に求めず、これこそ我が信仰と同じだとばかりに誰かに、信仰の友扱いを受けたなら、ふつうの神経を持っている人であれば、あの人追い出して、と思いたくなるでしょう。
 
人間は、人に決めつけられるのを嫌う、これは、当然のことです。他者を誉めることで、それが分かる自分を高めている、これは、よくある自己顕示なのです。その典型のような、彼、シャローム氏は、まさに、神を、そして賛同者を、誉め上げ、誉め上げ、それが分かる自分を、神の執行官であるかのように高めようとします。
 

このような導き、恵みは今も生きて働いておられる超越者がなさってくださらなければ、到底あり得ないことだと思われます。

 
超越者がなさったと思うならば、なおさら、心も口も慎むべきことなのです。それを宣伝にしてしまうのは、彼、シャローム氏のような、人間としての身の程を弁えない者が、誉めてるんだからいいだろう、という気安さで、神を讃美するという正当化をもって、自分の発見を自慢することに等しいのです。
 
こういう話は、信仰を讃美する話として、彼、シャローム氏などが、最も好むかもしれません。しかしながら、これは、神が人に与える感性と知性を舐めている者が、自らはろくな感性も知性も持っていないにもかかわらず、陥りやすい罠なのです。
 
その罠に自らかかり、罠を自ら営み、人をも陥れようとする、彼、シャローム氏のような者は、自分の知らないような驚くべき人間を評価する記事に出会うと、すぐにこれは神の賜物そして奇跡に違いないと、下種な心で、言葉ではなく、言葉面で、奇跡扱いして、宣伝に利用しようと考えるわけです。しかも、その神なる存在は、言葉について何も弁えもない幼稚な彼の狭小で貧弱な精神の中に収まっている貧乏神が威張っている姿に過ぎないと来ては、これほど、情けない話はないのです。
 
彼、シャローム氏のような、モノや肉体に起こる奇跡を信仰だと思っている人は、その分、人間の魂に起こる奇跡を軽んじます。つまり、人間に興味がないのです。だから、人間性というものを信仰について考えることを最も嫌います。彼にとって、信仰は、いつも驚くべき超常でなければ気が済まないのです。
 
だから、信仰というと、神が、神が、人知を超えた神が・・云々、と言うのですが、そう言ってる自分は人知でしかないという当たり前のことを弁えず、結果、人知においても疎かで欠乏して粗雑な様態を示していることを自覚しないのです。それで、日常の人間関係に必要な、温度や潤い、情緒や悲しみ、という人間性について大方が無思考で気の使い方を知らない、というより、丁寧語を使えば足りると思い込んでいて、真心を使う気がないのだろうと思います。
 
人が信仰を実感するのは、その人自身が生きるうえで心に響いたからです。そういう信仰者は、まず、自分が信仰を語り尽くせないことを学習しているはずです。また、自分には自分の導きがあり、それは否定できないとしても、人には神の別の導きがあり、自分はそれを知っているわけではないことを弁えるはずです。
 
信仰者もそうでない人も、安っぽい宣伝をする伝道者気取りを警戒してください。この記事で気をよくしている、彼、シャローム氏に教えてあげてください。人間の感性と知性は、ときに、神の賜物ではないかというほどの驚くべき出来を見せるけれども、それに、しみったれた根性で、とても卑怯な真似を続けている偽善者が、軽薄な信仰観の煤か灰か埃のような物をかぶせて、鼻の穴を黒くするような真似は止めてくださいと。
 
 
(その名は不思議ブログ
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰を装うサイトです。
 実際に約30年も牧師だったというから
 世辞で褒め上げて引き寄せるプロなのでしょう。
 
 コメントとコメント欄は、ほぼすべて、削除~閉鎖されています。
 コメントに社交以上に答える意思は見られません。
 社交の世辞によって褒められて味方する者もいるようですが
 そこに正当と思われる文脈は一筋もないことから
 無条件に贔屓してくれる人を求めているようです。
 
 逆らうとだんだん軽視と無視と軽蔑と侮辱を返してきます。
 でありながらキリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 
 彼自身のインテリ気取りで記事を書くと
 偏狭な宗教思想にしか結論し得ない自意識がバレるので
 しばしば信仰の記事も政治の記事も次々に
 かぶせるように転載しています。
 
 不備と罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 罪は悔いることなく改めることなく赦されるから
 罪を気にしなくていい、という無罪信仰をキリスト信仰だと唱え、
 削除や隠蔽という不実、と同時に、神を讃美する、
 という二律背反の同時進行の信仰を臆面もなく言い張り続けています。
 
 もはや彼の言うことで真に受けられることは一つもないと思っています。
 
 読むことがあっても
 決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年03月28日、同日一部修正)
(2017年03月31日、一部修正)
 
今日は、歯が痛いものだから、いつもより乱暴な書き方になっているような気がします。いつも乱暴というか辛辣ではありますが・・。
 
罠(わな)
遜る(へりくだる、謙る)
陥れる(おとしいれる、落とし入れる)
煤(すす)
埃(ほこり)
褒める(ほめる、誉める)
舐める(なめる、嘗める)
漁る(あさる)
 
 

このページのトップヘ