思い込みと信仰
どうも思想の思い込みの度合いが強くなると宗教的と呼ばれるような気がするのだが、つまり、宗教は思い込みだということになっている・・のだろうか。
方法として思い込むことを使うことはあるかもしれない、分からないが、それは人間の心理と試行の範囲内だろう。少なくとも、個人の信仰そのものは思い込みであってはいけないと思っている。何故なら、人が思い込んでよいこと、特に、自分で決め付けて一生変わらず思い込んでよいこと、というのは、殆どないからだ。
例えば、信仰は神を信じることで、それは思い込みだろう、という言い分があると思うが、神を信じること、というのが、もし、神について属性を具体的に決めて、神はこうだ、と信じ込むのなら、それは確かに思い込みだろう。
神聖の不変性と修正不要性と、人が不全性ゆえに時々に修正しながら求めてゆかなければならないことを考えると、神聖とその属性に対する思い込みは、神への反逆と言ってよいと思われる。
しかし、神を至高の善であり、完全・絶対・永遠・不変・全知・全能、聖典は聖書、と信じることは、思い込みではないだろう。これらの漠然なる性質によって明らかになる具体性は殆どないからだ。聖書に書いてあることからは、解釈次第になるから、これも、決定的なことが決まるわけではない・・ということ。
つまり、聖書の神は、信じ込んでよい内容を人に与えていない絶対者ということになり、創造主と言えば、創世記を信じるということになるが、その信じ方は、人間を考える上でのお伽話に近く、熱心に信じている者ほど、お伽話のような信仰になっているような気さえするのである。もちろん信仰はお伽話にとどまるものではない。ここで考えるべきは、信じる、という言葉についてである。
はっきりしないことを、具体的な物や生き物などのように、あると決めつけている状態を信仰という見方は間違っていることに気づくべきだ。聖書の神、そしてキリスト信仰においては、信じるということは、望むことであり、いてほしいと望むことであり、いないならば生きる理由が見つからないというほどに、存在を希望して止まないことである。現実を弁えるなら、きれいごとや、お伽話や、思い込みの激しさが信仰であってはならないことが明らかになる。
最初に帰ろう。神について決めつけて思い込んでよいことがあるだろうか、第5段落にあげた二字熟語の羅列のような漠然としかしてないものを含めて、ないと言ったほうがよい。そして、信仰を持つということは、何かが信じ込むことで完成することではなく、信仰を持つことから始まる道だということである。
完成した何かを、キリスト信仰が与えるわけではない。聖書とその考察と解釈、そして個人の感受することや考えることは、その時々のヒントにはなるかもしれないが、生きてゆく中で学習することであり、それはとても人間的な作業であり、神がかった不思議の国のプロセスとは大きく異なった方向だ。私たちが人間だからである。
神から学ぶこととして、あるいは、神を信じることから学ぶこととして、完全に対する人の不全、ということを何度も書いてきた。ここが始まりであり、その不全は、個人と歴史の事実から明らかである。したがってこれは、決めつけでも思い込みでもない。ここから、信仰は始まっている。なのに最初に救済と幸福の結論を持ってくる者のどれほど多いことか。
私たちは、世界の真実を十分には知らない。神の真理を知らない。それは、神が今、怒っているか微笑んでいるかさえ知らないほどだ。私たちは神を知らないのだ。だから、神は本当はいないかもしれないけれど・・、と言うべきであり、だけど、いると思わないと生きてゆけないと思うし、いると思うことで癒されることがあるのだから・・、と言うべきである。そう言うことが信仰の告白であり、そう思わないと生きてゆけないのが信仰者であり、信じることだと思う。
神はいないと言う者に対して、いや、いる!と突っ張ることは、決して神の存在を証明しないし、信仰が厚いことも証明しない。神がいないと思っている人はいるのだし、大きくも小さくも信仰をもって包むならば、分からないでしょう、証明が出来ないのだから、以外に正解はない。
そうして、禁句をなくし率直であることで、福音伝道を考えるべきだと思う。神様のことを知っていますか、教えますよ、ではなく、神様について一緒に考えてみませんか、・・でなくてはならないはずだ。
面倒だからスパッと教えてくれ、と言う人もいるだろう。その人の今の差し迫った問題についてのアドバイスなら、信仰者同士として考え、判断の手助けをすることも不可能ではないかもしれない。
しかし、信仰とは、神とは、・・という本質的な課題に、スパッと言えるなら、そもそも信仰の道を必要とするだろうか。この世には安易に流れる物も者も多いけれど、キリスト信仰は安易に流れてはいけない。歯切れよく簡単にスパッと説明できる信仰を、神も人も用意してはいないと考えるべきであり、それは詐欺師や偽善者のものだから、と言うべきである。信仰者が歩むべき人生を、その道のりを、命を、かいつまんで手短に教えることなど、どうして出来ようか。
教理から入ることより、信じることから入ることより、むしろ、思い込まなくていい、信じ込まなくていい、決めつけてはいけない、ということを、人間の温もりと潤いを失わずに、人間の感性と理性を失わずに、伝えてゆく姿勢が福音伝道には必要だ。神について、信仰について、私たちは分かっているから教えるのではない。ともに考えたいから伝えているのである。
キリストからの救いは、聖書を読んでもおらず、教理を知っているわけでもない人々に、惜しみなく与えられたことを忘れるべきではない。彼らは、奇跡を喜んだだけではない。その証拠に、十字架上の犯罪人は、死刑を免れることを望んで告白し約束されたのではなく、キリストとともに御国にゆくことを約束されたのである。人間に分かる奇跡は魂の奇跡だけである。
物や肉体の奇跡は超常であって人間が分かろうと思っても無理と知るべきである。にもかかわらず、超常の奇跡を信じて、起こってもいない奇跡を、決めつけたり、捏造したり、曲解したり、讃美したり、起こると期待したり、実に忙しく空しい者たちがいる。
聖書を読み、律法を詳しく学んだはずの者たちが、キリストから何と言われたかを覚えるべきである。彼らは、温もりと潤い、息と涙、人間の受ける心と考える心を失っていたので、行ってしまえ、と言われたのである。特に宗教と思想と信仰には、分かるという嘘が蔓延している。
(ヨハネによる福音書、口語訳)
9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
(ヨハネ書9:41、新約聖書)
一年先のことも、一か月先のことも、一日先のことも、分からない世にあって、何を見えると言えるだろう。その弱さゆえに、神に、不全の自分を捧げて頼みとするのであり、その弱さゆえに、肩寄せ合う相手を望むのが人間なのだろう。
見える、分かっている、知っている、御心に従っている、神が自分をそうさせる、などと言う者は、見ておらず分かっておらず知っておらず、御心を知ったかぶりで、神の意志と行為を知ったかぶりして、自らを高めており、高ぶっており、自ら高い位置を欲しがっており、神に対して、見える!盲人ではない!、と言い張っているのに等しい。
(その名は不思議ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
とうとうコメント欄は完全に削除されたようです。
不備と罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
悔いることなく改めることなく赦されるから
罪を気にしなくていい、という無罪信仰をキリスト信仰だと唱え、
削除や隠蔽という不実、と同時に、神を讃美する、
という二律背反の同時進行の信仰をどうして受け入れられるでしょう。
読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
(2017年03月30日)