ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年03月

 
  読み方書き方
 
 
前のほうの記事で、私は、無罪信仰のシャローム氏のことを
「聖書によって正しく理解する読み方を彼は知りません。」
と書きましたが、語弊のあることでした。
まるで私は知っているかのような・・(汗)
 
つまり、私も聖書の正しい読み方、厳密には知りません。
むしろ、知らないということを知っている、ということです。
彼が知らないのは、正しい読み方を
神ではないのだから知らない、ということを知らない、ということです。
ここは、聖書について勉強するときに、
人間が共有し共感できることなので、とても大切なところです。
 
だから、神を信じると、こんなに善くなります、こんなことが出来ます、という伝道は、愛の信仰を、欠片も伝えたことにはならないのです。弱さを誇る、という聖句は、まさに、このことを言っているのであって、文字通り誇るのではなく、私たちが不全の営みに悩み苦しむときの涙を、それゆえに顧みてくださる御方に、捧げることであります。
 
心のない信仰は最悪です。心のない読み方と書き方は最悪です。何故なら、人間の心を見ないまま決めつけてくるからです。例えば、創世記を読んで、命の木、と書いてあるから、それはどんな意味でしょうと、自分が知っているかのように、聞いてくる愚かさがここにあります。命の木、それは神が管理しているものです。人に何が言えるでしょう。
 
想像だけなら、キリストの言うところの永遠の命を連想してもいいでしょう。しかし、命の木を理解するのに、それは一歩も近づいてはいません。人間には、永遠の命は理解できないからです。キリストが名付けた永遠、としか言いようがないからです。
 
にもかかわらず、心のない人は、何かに因縁付けて結び付けて、悟ったようなことを書いてくるのでしょう。それを、私は、言葉面~文字面の信仰と呼んで、批判しています。言葉の表面だけを受け取って、幼稚な理屈だけで、他の言葉面に引っ掛けてくるのです。そういう教え方は、そもそも、神の管理するものを、分かっているということを前提としている点で、偽物と判断するべきものなのです。それは、まさに、「見える」と言っているに等しいからです。境地自慢には、くれぐれも注意してください。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
誤解のないように、こういうことも言わなければなりませんが、信仰者になって、いつも、分かりません、分かりません、と言っておればよい、ということではありませんので・・。つまり、私たちは言うまでもなく分かるための努力をしなければなりませんが、私たちの生きる世界はあまりにも限定され、さらに私たちの知性も感性も限定されているから、神の理解には程遠く、その理解をもって、理解した、分かった、と言える代物ではない、という謙虚さは、特に信仰者には必要だということです。
 
 
心のある信仰とは、どういうことでしょう。私たちの心のどこだ、と言えるでしょうか。当然ながら、それは説明の出来ないことです。信仰のある心は、正体不明です。しかし、私たち信仰者の心には、信仰があって、心が動くときに、何らかの小さくない影響を及ぼしています。
 
そこには、正しくないものもありそうで、邪魔をするものもありそうで、でありながら、その影響を受けたいと思い、作用していることに、気づく人は少なくないと思います。しかし、その正体は不明です。言葉で心を完全に表すことは不可能です。またしかし、それは、やっぱりある、と思っています。心のある信仰も、心にある信仰も、正体不明のまま、私たちは頼りにしています。
 
善きものが、ひょっとしたら神からのものが、あるからといって、確定は出来ませんから、人が確定してしまってはいけないので、正体不明、だから完璧なものとして保存し修正不能にすることは不可能であります。
 
AゆえにBゆえにCというような理屈の論理立ては、さらに数字としての経過と結果の理屈は、しばしば、いつの間にか、心を失っていることがあります。人が観念や数字に支配されやすいのは、そのためです。元々人間に与えられた心は、分かち合いを求め、同じような心を求めます。それが、人間同士にとって最も大切な、共感と共有であります。
 
人の心の中のものなど罪の原因だから全部破却して神の御心すなわち聖霊によって語り行うべき、などというのは、神が人に与えた心の善きものまでゴミ屑のように扱う者たちで、そういう人は、心を見つめることの出来ない者たちでしょう。しかも、神の御心を、人の心から区別できるという思い上がりも、そこにあります。
 
神が人に邪悪なものだけを与えるなんてことは考えられないし、心の善きものを実感することも多いはずだからです。何より、信仰に入るとき、私たちは、何らかの感動を伴っていますが、そうさせたのは、神の働き掛けがあったかどうかを知らないまま、私たちの心がそうさせているのですから。神の導きを、人間から、かけ離れたもののように語る人たちを警戒してください。
 
ちなみに、カルト的な教理や誤った信仰を見分けるのに、それは御心に反していると言うだけでは、その断定によって、こちらがカルトか、と言われることになります。そういうカルト教理の欠陥は、それが広まって総ての人が実行した場合を考えると、とんでもないことになる、という、人の世界での矛盾を見つけて追求することにあります。こんな酷い世界になることを神が望むと思うのか、ということが説得力になるということです。つまり、誰が見ても聖書に反することになる、あるいは、人間を滅ぼす結果になる、という矛盾を突くことになります。そして、このことこそが、信仰は人間から離れることではない、という主張にもなっているのです。
 
 
キリスト信仰は、愛の宗教と呼ばれますが、その神の愛は、その下にある神の民である人間が神を思えば痛々しいほどに不全であることによって、神に愛されていることを恵みとする宗教であり信仰であることを表しています。
 
キリスト信仰は、神を正しく語ったかどうかではないのです。神の前に、人の正しさなど取るに足らず、意味を成さないほどのものです。神を正しく語れる人はいないと言ってよいでしょう。それほど、人間は、限られた時間と空間に生きて、その一生懸命と一所懸命をすべて捧げたとしても、神の知恵に及ぶべくもありません。信仰の命は、神がそのような人の不全の嘆きを憐れみ愛してくださることにあるのです。だから、私は前に記事で、
 
よろこび よりも かなしみ
 
わらい よりも なみだ
 
と書いたのです。それは聖書にもあるところの
 
いけにえ よりも あわれみ
 
ということに基づいています。そしてそれは、
 
戒律よりも心、言葉面よりも情感、形式よりも人間、ということです。
 
また、神は、恐らく、喜んでいる人よりも、悲しんでいる人に、寄り添うだろうと思うからです。喜んでいる人は、今すぐ助けを必要としてはいないからです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)  
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12―13、新約聖書)
 
キリスト者は、信仰者になったのだから喜ばなくてはならない、感謝し讃美しなければならない、という不自然なことを自らに強いる必要はないのです。感謝は、感謝しなければならないから感謝するのではありません。感謝したいときに感謝するのです。
 
感謝と讃美を信仰の中心であるかのように勧めてくる人は、そうするのが信仰が厚い人と思っているのかもしれないが、パリサイ人のように自己満足で感謝と讃美をしまくっている白々しい偽善者もいるのですから。キリスト信仰は、人に無理な重荷を負わせることはありません。だから、どうか、神の前に、正直な人間になってください。それだけが救われるための必要十分条件なのです。
 
罪という病の自覚のない者になってはいけません。
 
 
(2017年03月27日)
 
 

 

 
  古い皮
 
 
 新しい葡萄酒は新しい革袋に
 2017/3/25(土) 午後 9:33
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28008250.html
 
 新しい葡萄酒は新しい革袋に
 2009/11/13(金) 午前 9:01
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/9382208.html
 
 
彼、シャローム氏は、聖句から、新しい葡萄酒を入れる新しい皮袋が必要だと言いたいようですが、さらに、それで、政治も解決すると言いたいようですが、その改革を、いちばん邪魔している自分に気づかないのです。
 
>今日の聖書の言葉です。
>イエスは言われた。
>新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ。
>(新約・マタイによる福音書9章17節)
 
>新しいぶどう酒は発酵力が強いので、古い皮袋に入れると、
>袋に弾力性がないので張り裂けてしまう。
>同じように、新しい原則があっても、
>相変わらずの古い価値観や生活スタイルに執着していると、
>いつまで経っても、新しい展開はない。
>物事を新しくする時は心の弾力性が必要である。
 
>ところが私たちはどうかすると、
>古い皮袋に新しいぶどう酒を入れようとしている。
>古い皮袋は、今まで古いぶどう酒が入っていたので、
>いかにも安全そうに見える。
 
>しかし、弾力性を失っている。
>その結果、皮袋は破れ、新しいぶどう酒は損じる。
 
彼、シャローム氏は、心の弾力性が必要だと言いながら、彼が何十年も使っている硬くて破れている皮袋を後生大事にして、新しい意見にも、他者の意見にも、耳を貸そうとしないばかりか、それを抹殺してきました。よくこんな記事が書けるものです。破れるから危ないのではなく、すでに破れているのです。中に入っている彼の唾液混じりの安い毒入り葡萄酒がダラダラ漏れてきているのです。
 
>新しい原則、考えがあっても、古い心の枠を壊すことに億劫になって、
>従来のままなにもしないなら、なにひとつ新しくならない。
 
まさに、彼、シャローム氏のことであります。さらに、彼の場合、悪意によるサディスティックな故意であります。
 
>戦後日本は民主主義の国となり、」アメリカの軍事力の傘の下で経済復興をした。
>しかし、日本の民主化は古い革袋に新しい葡萄酒を入れたのです。
>バブルがはじけて新しい葡萄酒はこぼれ去った。
 
>そして、戦争で破れたはずの古い革袋が息を吹き返し、
>平和と安全保障法をはじめ、特定秘密保護法、共謀罪・・・など
>新しい革袋が幻想であることを自覚しないままただひたすら経済復興のみを追い求め、
>破れた古い革袋の痛みを味わうことなく民主化の道を歩み続けたツケが回ってきている。
 
彼は、この聖書の話から、彼の常套手段ですが、いっぱしの評論家気取りで、戦後の政治を批判したつもりのようです。宗教が宗教のまま、敬虔を失って、政治に口を出すと、こういうことしか言えなくなるのでしょう。弾力性が必要と当たり前のことを言うだけで、彼の個人的な事実にも、歴史解説にも、新しいものは見られません。聖書にこじつけて、悦に入っているだけです。
 
何度注意しても、彼、シャローム氏の傲慢癖が治りません。自分をあらゆる悪から除外して、上に立つ賢者気取りで、社会と政治と歴史を単純に解釈して、ぼろくそに言う、彼独特の、遜る姿勢とは逆の、ボロクソ節という癖が治りません。彼は、反民主主義の権威主義者です。自ブログでの独裁者です。彼は、言論者たる資格を持ちません。言論の正義を真っ向から踏みにじる者です。罪悪感も後悔も感じることのない、ネットの言論コメントのシリアルキラーと言ってよい、という事実・・。
 
>新しい皮袋に入れることは一種の冒険である。信仰の冒険である。
>冒険するためには、考え方や行動に弾力性がなければならない。
>また結果がどうであれ、その結果を受け入れる勇気が必要である。
 
彼、シャローム氏は、消しゴムほどの弾力性も持たず、新しい結果を受け入れる気など、さらさらなく、ゆえに、自らの気に入らないコメントを次から次に、なきものにしてきたのです。もう彼のブログのどこにも書き込むコメント欄がありません。彼の病原は、ブレーキを外して、抑制因子も働かず、野に放たれ、世に洟垂れています。消しゴムが必要になる結果だけが、彼、シャローム氏のものです。
 
>日本は大きな歴史の節目で、いつも自己の古い皮袋に新しい葡萄酒を入れ、
>自ら内なる変革を避けながら、上手にうまく適応してきたようである。
>しかし、歴史の節目を、初めのうちはうまくやっているように見えていても、
>必ず古い皮袋が破れてしまう状況になると、いつも古い皮袋に古いぶどう酒を求めるか、
>新しいぶどう酒を自分に合わせて変質させ、古い皮袋に入れようとする。
>決して皮袋を新しくすることはない。
 
彼が納得している、この文章が、彼の不法を際立たせています。それに、彼だけは、気づかないのです。いままでも、そうであり、これからも、そうでしょう。彼は、古いまま、変わらないのが信仰だと思っているからです。
 
>それは新しいぶどう酒を新しい皮袋ではなく、古い革袋に入れたのです。
>日本人の皮袋は表向きは柔軟性に富んではいるが、古い皮袋であることは変わらない。
>かつて、戦国時代にキリスト教ともに、西洋文明が伝えられ、文物は取り入れられた。
>しかし、古い革袋を破る新しい葡萄酒の危険に気づき恐れ、激しい迫害に転じたのです。
 
彼は、古い皮袋に無理に、新しい葡萄酒を送られても、袋を破られる危険に気づき恐れ、激しい迫害に転じて、コメント皆殺しという暴挙に至っています。彼は、詭弁という毒の混ざった古くて酸っぱい葡萄酒だけを好むからです。
 
>日本人は科学技術の進歩と古い因習、習俗という古い葡萄酒に
>心をとらえ続けられています。
>人の手によるぶどう酒がもたらした繁栄は腐敗し、
>世界が古い皮袋の柔軟性の限界を迎えている。
>さあ、皮袋を新しくするか、古い皮袋が張り裂ける時を待つか。
 
彼、シャローム氏の皮袋は、すでに張り裂けています。彼、シャローム氏が書くたびに古い汚物と唾液が、噴き出して、その非道をほしいままにしています。もはや、神が、彼を止めるのを待つしかないのかもしれません。それまでの間、私は、人間として、できることをしてゆくだけです。
 
>「だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。
>そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
>だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、
>その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。
>だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば
>両方とも長もちがするであろう。」
> (新約・マタイによる福音書9章16~17節)
 
キリストの教え、神の警告を、引用しながら、このような残酷な言動の矛盾の事実に耐えていられることが、既に、彼が、人間とは思えない根拠です。そのような証拠を、彼は、今後も、露呈してゆくでしょう。表で美味しい文章を書きながら、裏でコメント殺戮を繰り返して、下のようなことが書ける、彼、シャローム氏のような人を、現代のパリサイ人、そして、偽善者と言います。彼は、新しいことを全く言えなくなっています。彼は最初に古い酒を至上と決めつけて、たらふく飲み、今も酔いしれているからです。
 
>神の平安がありますように!
 
彼、シャローム氏のためにある、合理化と詭弁による偽りの平安など、葡萄酒も皮袋も腐らせるだけです。彼は、古い皮からの分泌物のみに陶酔して安楽を得ているからです。
 
彼は、政治の記事をたくさん転載しているようですが、全部理解したのでしょうか。私は到底、全部理解することは出来ません。彼が、転載するだけで、それをもとにした自分の意見を記事に書かないのは、今回の彼の記事のような低い次元にとどまっているからでしょう。何の遠慮もなく、そういう他者の記事に並べて今回のような記事を、平気で書いて載せてくることが、彼の、未消化と未熟と不全と稚拙の自覚がないことを示していると思います。
 
信仰についての記事に日ごろ集中しているキリスト者は、自分の不全と知識不足の自覚から、政治については慎重に、つまり断定を控えめにするものですが、彼、シャローム氏には、その敬虔が見られません。事実の考察と検討において、今回の記事の断定は、あまりにもお粗末過ぎる短絡です。彼がいつも豪語するところの、悪いことが起こるのは自分と同じ信仰?を持たないからだ、という安易な断定と同じことです。
 
彼は、これからも、ずっと、裏切りの汚い唾を飛ばし続けるでしょう。私は、これからも、ずっと、彼の唾液が人に移らないように、人が誤って飲むことのないように、反発性の理路と直感性の情緒をもって、甚だ不充分ながら、できるかぎり明確に、卑怯な彼の唾液の毒々しさを伝えて、証拠を積み重ねてゆきます。
 
 
(2017年03月26日、同日一部修正)
 
 

 

 
  言葉面
 
 
文字面という言い方のほうが一般的だが
文字が集まって概念を形成するのが言葉
概念を言葉で並べて表すのが文章
その概念と言葉の与える情感は
人によって違うし
時と場合によっても変わってくる
 
そういうことを一切気にせず
ぺらぺらの概念の形式だけを
あるいはその言葉尻だけを好きなように
組み合わせて作った中身のない謎の文章で
伝えた気になっている人の言葉が
言葉面
 
つまり言葉面とは
理解してもらうための一切の工夫をせずに
伝えれば言葉が分かるはずという傲慢な口から
放たれる洟垂れのようなものであり
言葉の持つ深みや情緒や情感や概念の広がりもなく
言ったことにして自己満足する者が常用する石灰質言語。
 
キリスト教を信じなくていいと言う。
キリスト教ではなくキリスト信仰だと言う。
キリスト御自身だと言う。
 
誰がキリストを見られると言うのか
と言えば
人の目ではなく神の目だと言う。
 
次から次へと
ときに造語までして
神聖にまつわる言葉の文字面だけの
言葉面だけを好きなように並べてくる。
 
何を聞いても答えられず
インチキで言い逃れようとする。
このような詐欺的手法を
元牧師と言う者が続けているのだ。
 
疑問質問には十分に答えられたことがない。
神の啓示だと言い逃れようとする。
自分だけに掲示が下るというのか。
しかしその啓示なるものを
説得力をもって説明し得たことがない。
 
さらに突っ込めば
コメントを削除し始める。
さらにコメント欄ごと徹底的に削除して
自分で沈黙の世界を作って
神の平安と呼ぶ。
 
言葉を舐めきっている。
言い逃れが矛盾だらけになるものだから
言葉面もさらにおびただしくなり
支離滅裂に場当たり的に姑息的に
その場で反応して反応をまた間違えて
紙屑をやたら投げているようなもので
言うそばから奇天烈な宗教もどきが出来上がる。
 
言葉面で讃美し
言葉面の文章を書き
言葉面で説明したつもりになって
中身がないから
人間の思路も整合性も秩序も情感もハートも知らないまま
無関心無反応無反省のまま
神を知ったつもりで語り続けることをやめない。
 
まさに語っている本人が沈黙して
刺激遮断の鉄壁の内側にいるから
好きなように滅裂を語っていられる。
他者の反対意見などは
存在しないことにすればいいらしい。
見かけの体裁と自己満足の欲望のためには
すべてを無視できる習慣を身につけている。
それが下手な説法でも
名誉欲による世辞で手段を選ばない保身を営んでいる。
 
もはや配線のない単方向の漏電に感電しっぱなしか
締まりのない蛇口であろうか
脳ミソからのダイレクトの尿便失禁であろうか。
省みないということの災いが
言葉面という形式をもって垂れ流されている。
 
そのまた表面では
同時進行で社交の泡を飛ばして
灰汁のような世辞の無節操を与えようとする。
それが最大の侮辱だと気づかない者に
理解皆無でも穏やかな聖書の先生
という印象を噴霧して
煙に巻きながら吹き込んでいる。
 
染みついてくれるのを待っている。
誰でも欠点はあるからシミはむしろ好きだなどと
話をすり替えて説教に見せかけている。
そうやって30年も信徒の目をくらませてきたのか。
在宅で福音伝道という看板を掲げ
わざとらしく濃厚な膠の柔和粘着で歓迎し
賛同者を褒めちぎり
批判者には侮辱だけを与えて怒らせて去らせる。
 
いつまでそれで欲求不満をしのげると思っているのか。
既に関わった仏教哲学系の人が消えていて
自分の意見だけが残ったコメント欄があったが
それも削除すれば
最初から真っ白ですとでも言うのだろうか。
自分の都合に合わせた飼い神をするが
至高の神への回心だけはしない偽善者は
言葉面を讃えるが
命と情感と理性に与るための
人間の言葉をいたるところで潰しにかかるだろう。
 
唾液をまき散らして突進するイノシシの暴力的無節操と
ごそごそ陰でで餌を漁るドブネズミの飢えた姑息を併せ持ち
人間の情感と理性を持たず
神を信じる弁えと情感を持たないまま
悔いもせず改めもせずゆえに成長せずに
いつまでもどんでん返しの奇跡によって救われると信じて
今に見ていろという敵意だけで
他者へのボロクソ節は
仲間への手垢のような世辞と言葉面を武器に
見え隠れしながらまた自らの神を讃美しにやってくるのだろう。
 
聖書と他者の記事から
神の言葉面と言葉尻を空しく論って
自らの正当化と権威づけに利用しようとする欲望は
自己顕示の外分泌をだらしなく垂らし続けているが
自らを制御する内分泌を潰してゆく無節操である。
 
言葉と御言葉をおびただしい瓦礫に変えて
いつまで実直に信仰を求める人々を
鼻息のような詭弁臭に耐えさせるつもりなのだろう。
 
 
(その名は不思議ブログ
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰を装うサイトです。
 
 実際に約30年も牧師だったというから
 よほど世辞がうまいのでしょう。
 
 コメント欄は、ほぼすべて、削除されています。
 コメントに社交以上に答える意思は見られません。
 社交の世辞によって褒められて味方する者もいますが
 そこに妥当と思われる文脈は一筋もないことから
 無条件に贔屓してくれる人を求めているようです。
 
 逆らうとだんだん軽視と無視と軽蔑と侮辱を返してきます。
 
 でありながらキリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 
 自分のインテリ気取りで記事を書くと
 偏狭な宗教思想にしか結論し得ない自意識がバレるので
 しばしば政治の記事を転載します。特に最近は頻りです。
 
 不備と罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 罪は悔いることなく改めることなく赦されるから
 罪を気にしなくていい、という無罪信仰をキリスト信仰だと唱え、
 削除や隠蔽という不実、と同時に、神を讃美する、
 という二律背反の同時進行の信仰をどうして受け入れられるでしょう。
 
 読むことがあっても
 決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年03月25日)
 
言葉面(ことばづら)
洟垂れ(はなたれ)
灰汁(あく)
瓦礫(がれき)
詭弁(きべん)
論う(あげつらう)
贔屓(ひいき)
 
 

 

 
  鴨と白鷺
 
 
 おそれ多い「鴨ねぎ」の話
 2017/3/23(木) 午後 0:29
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28004722.html
 
 転載元:
 2010-03-29 人間様が、鴨の鴨にされる
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20100329
 
 
転載記事です。鴨がネギしょってやってくる、という鴨ネギの話をモチーフに、信仰を語って・・、否、語ろうとして何も語り得ていない話です。
 
>驚いたことに、つぎつぎ4、5羽の鴨が仲間の声を聞きつけてか、
>しりをふって雪の上をやってくる。「そちらにもやって」の声に、
>わたしは、かみ砕いた菓子を新参の鴨にもまいた。ああ、なんのことはない。
>人間様が「鴨の<いい鴨>にされている」のだ。
>それに気づいて笑ったころ、投げる菓子もなくなっていた。
 
鴨に鴨にされるという話は面白いと思うのですが、そこで終わってしまって、それに福音伝道がどう関係しているのか、分からない記事になっています。余談か雑談程度の意味しかないようだが、聖句引用もして、まともを装っているように思えます。
 
>「お人よしが、こちらにとって利益になる材料を持ってやってくること」
>「うまい話が、二重、三重になってやってくること」だ。
>(「ことわざ大辞典」小学館)
>聖書にも「鴨ねぎ」の話がある。
>ナバルの妻アビガエルが、ダビデに救援物資を持ってはせ参じたのもそうだ。
>(「サムエル記上」25章)。
>おそれ多いことながら、イエスさまの十字架も同じだ。
 
アビガエルの信仰の話なのでしょうか。正直言って、私には難解です。長いので引用も控えます。うかつに引用できる話ではないと思います。ナバルの妻アビガエルがダビデの味方をし、ダビデがナバルを滅ぼしたのちにアビガエルを妻にした、という話です。これを、鴨ネギの話だと書いて、信仰とどう関係があるのか書かないでは、ダビデの欲張りにしかならず、全く信仰の糧になっていません。
 
>いまから120年ほど前の明治24年ころ、
>大阪の江藤清助(尚美堂創業者)が福音を聞き、
>「ぼろい話やな」(元手なしの大得の話)と驚き信じたという。
>いかにも大阪商人らしい表現だ。
>「うまい話が、二重、三重になってやってくる」と感じたのだ。
>「ほんまでっか。だまされとんのとちがいまっしゃろな。
>わてのかわりに、エスさんちゅうお方が、十字架に、はりつけにされて
>死なはって、そのエスさんを信じて拝むだけで、
>天国に入れてもらえるんでっか」。
>(藤尾「ほっとしなけりゃ福音じゃない」所収、「ぼろい話」)
>おそれ多い「鴨ねぎ」の話。
 
ぼろい話、うまい話、大阪商人、と分中にもあるように、この世の利益についての話です。こういう話を、補足することもなく出して、福音伝道に持ってくる人の気が知れません。こういう話を、補足して信仰の話にするのではなく、そのまま書いてしまえば、転載元のシラサギさんの話は、白々しい詐欺の話になるのではないかとさえ思われます。信仰は、決して、鴨ネギです、よかったですね、という話ではありません。
 
キリスト信仰が福音であるのは、人間に無理な重荷を負わせないこと、人間性の本来あるべき姿を告げていることにあります。しかし、信仰には信仰の節操というものがあり、神に対する偽りは赦されません。また、信仰の良さというのは、この世の基準で計れるものではないのですから、ちまたに、また、ネットに、鴨ネギ話をばらまいて、鴨ネギを待っているような、詐欺師がいっぱいいる世にあっては、よいことばかりですよ、というような話のまま福音伝道とするべきではないと思います。
 
>「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、
>その信仰が義と認められます」(ローマ4・5)
 
殆どここだけが、彼、シャローム氏の気に入ったのでしょう。不信心でも信仰が義とされる、という聖句を、彼は、彼の罪と偽善と、罪を悔い改めなくても救われる、という自分信仰に結び付けようとしています。それが狙いの転載・・、全く自分信仰者というのは、聖句を、こんなにも悪用する、という例になります。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
4:6
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
 (ローマ4:2―8、新約聖書)
 
キリスト信仰は、行いによって義とされるのではない。つまり、労働の対価ではない、と書いてある。
 
信じることによってだけ義とされると書いてある。
 
働きがなくても、義と認められると書いてある。
 
不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである、と書いてある。
 
罪を主に認められない人は、さいわいである、と書いてある。
 
しかし、このことを悪用して、信じるということを非常に気安く考えて、キリストの十字架によって罪から解放されることを罪がなくなったと悪用し、信じると言うだけで信じたことになるという考え方で悪用し、罪はおおわれるから神も罪を見ないのだと悪用し、罪を犯したまま悔い改めなくても救われると悪用し、罪が罪を苦しめるなどと被害者気取りで言って悪用し、罪を気にしなくなったのが救いだと悪用し、平気で人をなきものであるかのように無視して悪用して、神の御言葉の悪用を積み重ねて、神の正しさを自ら決めつけて人をカモにしているとしか思えない稚拙な詭弁と滅裂な理路でいっぱいの記事を並べて、神とキリストを自らの正当化と保身に悪用して、どこまでも整うことのない魔界に誘い続ける、彼、シャローム氏は、このままでは、どこまでも災いです。
 
信じるだけで救われるというのは、カルトでも言っていることです。天国が約束されていることを何よりもの喜びとする人を疑問に思います。天国はいいところなのでしょう。しかし、人は地上に生きている間、天国を知りません。望んではいますが、知らないまま望んでいるのです。それは、すがりつく縁にはなりますが、この世を生きる喜びにはならないと思うのですが。
 
キリスト信仰が負いやすい軛と言われるのは、神よりも遥かに不全である人間としての自分を認め自覚し、ゆえに生きる指針となる価値基準を神に委ね、ゆえに当然、神の御心を知り得ない人間である自分の犯した罪を包み隠さず、祈りによって神の御前に捧げ、悔いて告白し、赦しと癒しと導きを乞い願い、神への態度である信仰を日々新たにしてゆく道に、絶対孤独からの解放が約束されているからです。
 
 
(2017年03月24日、同日一部修正)
(2017年03月27日、一部修正)
 
鴨(かも)
白鷺(しらさぎ)
縁(よすが)
軛(くびき、頸木)
 
 

 

 
  混乱と合理化(2)
 
 命=言=神=イエス
 2017/3/21(火) 午後 5:31
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28002063.html
 
 
もう一つ、ひょっとしたら、ということを思いついたので・・、前回の私の記事でも少し触れたが、いくらなんでも・・、と思って、そこで前回は終わったことです。しかし、改めて、次から次に幼稚な詭弁を出してくるものだ、と思ったことです。
 

 
「アダムとエバは罪を犯した後、エデンの園から追放されました」とありますが、
だれがアダムとエバをエデンの園から追放したのでしょうか?
 
それは神だ!と考えられていますが、本当でしょうか?
私は罪が罪に対する裁きをしているのではないかと思います。
アダムとエバが罪を犯した後、神は“あなたはどこにいるのか”と呼びかけておられます。
「そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」と
書かれています。
皆さんは同じようなことをしたことはありませんか?
わたしにはあります。
私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させているのはだれでしょうか?
神ではなく、人でもなく、私自身の罪ではないでしょうか?
 

 
前の記事では、私の批判が罪、と彼が言っているのか、ということを考えましたが、もう一つ、・・彼、シャローム氏は、懲らしめる神を信じていませんので、
 
>神はいつも、今も“あなたはどこにいるのか”と呼びかけておられます。
 
つまり、ここを、都合の良いように受け取っている、ということです。
 
そのことから考えたことは、彼、シャローム氏は、神が、アダムとエバを、そして自分を、追放するということが信じられずに、詭弁の大風呂敷をさらに広げて、苦を与える罪、という、超常生物?なる第三者の存在をでっち上げているようです。
 
>私は罪が罪に対する裁きをしているのではないかと思います。
 
>私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させているのはだれでしょうか?
>神ではなく、人でもなく、私自身の罪ではないでしょうか?
 
彼は、ずっと前に、「罪には今もあえいでいます」とコメントに書いたことがあります。彼にとって、罪は、自分のものではなく、自分を苦しめる自分外のものなのです。そのことが、今回、はっきりしてきたのではないかと思います。
 
「罪には今もあえいでいます」が、なぜ間違いなのか、罪の自覚は苦しいから、あえいでいてもおかしくないのではないか、と思う人もいるでしょう。しかし、重きはどこにあるでしょう。罪を犯した者が、罪にあえいでいる、自分で悪いことをしていながら、それに自分があえいでいるという感慨が、あえぐほどなら、ここから後悔や反省の言がないということは、おかしいのです。喩えるなら、人をぶん殴りながら、殴った本人が苦しい苦しいと言っている、または、苦しい、ああ罪は苦しいと言いながら、人をぶん殴っていることになります。
 
自分で選んで行ったことが罪であるということですから、神に対して的外れのこと、人に対しては何らかの害悪であり、罪を犯した者があえぐのは罪を犯した結果の苦痛です。悔い改めもしないならば、ますます、罪の結果が酷くなってくるということです。
 
自分が犯した悪いことが、自分に結果として返ってきているのに、自分が犯した悪いことが、自分を追放した、と被害者のような物言いになっていることが、まさに白々しい詭弁なのです。自分の罪と言うことは、自分が悪いということを表しています。自分の罪と言うことは、自分が罪を犯したということであり、加害者の意識であり、決して被害者の意識にはなりません。
 
また、彼は、180°の勘違いをして、それを、信仰の説教として語っているつもりなのです。ここまで来ると、もう、彼が赦されるという見込みがあるのでしょうか、また、彼に出会うことが不運の災いじゃないのか、と言いたくなるのです。
 
自分の罪を認めたかのような書き方で、実際は、存在に何の妥当性もない罪という名の超常生物のせいにしている、という、彼の、恐ろしく幼稚な詭弁解釈の言い逃れになっています。この詭弁で、彼、シャローム氏は、何やら奇抜で逆説的に表現できたとでも思ったのでしょうか、いちいち否定する手間の分だけ、迷惑です。
 
罪というものを人間から引き離したら、キリスト教もキリスト信仰も成り立ちません。罪というものは、人間だからこそ人間が犯すものとして存在するのです。それを、自分じゃない、自分じゃない、と言って聞かないのが、今回の彼、シャローム氏です。
 
人間というものを考える、ということが出来ないと、このような妄想解釈をひねり出してしまうということでしょう。このような解釈は私は聞いたことがないので、これは、キリスト教でもキリスト信仰でもないわけで、彼、シャローム氏は、いよいよ、本格的に、異教の異次元のカルト教祖になろうとしているのでしょうか。
 
彼は、自分の体質と洞察力と理解力と感受性と説得力を考えて、身の程を弁えるべきです。彼には、自分なんて・・という謙譲や思慮の欠片もないのでしょうか。人間をろくに語れない人が、神の領域の新説を語れると思うのでしょうか。もしそう思っているなら、彼は妄想家で、言っていることは、新説でもなく珍説でもなく、ただ稚拙です。しかも神とキリストと聖霊と信仰に対する冒涜です。常識的に言って、罪を自分外の自分を苦しめるもの、などと考えるキリスト者は、偽者以外、いないはずです。
 
彼、シャローム氏は、これはどう見てもキリスト信仰ではない、という、反面教師として、結果的に、信仰を考える上で、人間性がいかに大事であるかを示しています。人間性を無視して、人が神を、人の手に負えないはずの超常的理屈で考えれば考えるほど、却って、人間には理不尽で奇妙な人格破壊の独善妄想を捏造してしまう、ということです。彼、シャローム氏は、そこにしがみついて、今回のような話を作ってしまったのです。罪を自覚しないなら、もう一度、
 
>私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させているのはだれでしょうか?
>神ではなく、人でもなく、私自身の罪ではないでしょうか?
 
いえ、そうさせているのは、あなたの罪ではなく、あなた自身です。
 
あなたを苦しめているのは、罪を認めない、あなた自身なのです。
 
 
(2017年03月23日)
 
捏造(ねつぞう)
 
 

 

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