読み方書き方
前のほうの記事で、私は、無罪信仰のシャローム氏のことを
「聖書によって正しく理解する読み方を彼は知りません。」
と書きましたが、語弊のあることでした。
まるで私は知っているかのような・・(汗)
つまり、私も聖書の正しい読み方、厳密には知りません。
むしろ、知らないということを知っている、ということです。
彼が知らないのは、正しい読み方を
神ではないのだから知らない、ということを知らない、ということです。
ここは、聖書について勉強するときに、
人間が共有し共感できることなので、とても大切なところです。
だから、神を信じると、こんなに善くなります、こんなことが出来ます、という伝道は、愛の信仰を、欠片も伝えたことにはならないのです。弱さを誇る、という聖句は、まさに、このことを言っているのであって、文字通り誇るのではなく、私たちが不全の営みに悩み苦しむときの涙を、それゆえに顧みてくださる御方に、捧げることであります。
心のない信仰は最悪です。心のない読み方と書き方は最悪です。何故なら、人間の心を見ないまま決めつけてくるからです。例えば、創世記を読んで、命の木、と書いてあるから、それはどんな意味でしょうと、自分が知っているかのように、聞いてくる愚かさがここにあります。命の木、それは神が管理しているものです。人に何が言えるでしょう。
想像だけなら、キリストの言うところの永遠の命を連想してもいいでしょう。しかし、命の木を理解するのに、それは一歩も近づいてはいません。人間には、永遠の命は理解できないからです。キリストが名付けた永遠、としか言いようがないからです。
にもかかわらず、心のない人は、何かに因縁付けて結び付けて、悟ったようなことを書いてくるのでしょう。それを、私は、言葉面~文字面の信仰と呼んで、批判しています。言葉の表面だけを受け取って、幼稚な理屈だけで、他の言葉面に引っ掛けてくるのです。そういう教え方は、そもそも、神の管理するものを、分かっているということを前提としている点で、偽物と判断するべきものなのです。それは、まさに、「見える」と言っているに等しいからです。境地自慢には、くれぐれも注意してください。
(ヨハネによる福音書、口語訳)
9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
(ヨハネ書9:41、新約聖書)
誤解のないように、こういうことも言わなければなりませんが、信仰者になって、いつも、分かりません、分かりません、と言っておればよい、ということではありませんので・・。つまり、私たちは言うまでもなく分かるための努力をしなければなりませんが、私たちの生きる世界はあまりにも限定され、さらに私たちの知性も感性も限定されているから、神の理解には程遠く、その理解をもって、理解した、分かった、と言える代物ではない、という謙虚さは、特に信仰者には必要だということです。
心のある信仰とは、どういうことでしょう。私たちの心のどこだ、と言えるでしょうか。当然ながら、それは説明の出来ないことです。信仰のある心は、正体不明です。しかし、私たち信仰者の心には、信仰があって、心が動くときに、何らかの小さくない影響を及ぼしています。
そこには、正しくないものもありそうで、邪魔をするものもありそうで、でありながら、その影響を受けたいと思い、作用していることに、気づく人は少なくないと思います。しかし、その正体は不明です。言葉で心を完全に表すことは不可能です。またしかし、それは、やっぱりある、と思っています。心のある信仰も、心にある信仰も、正体不明のまま、私たちは頼りにしています。
善きものが、ひょっとしたら神からのものが、あるからといって、確定は出来ませんから、人が確定してしまってはいけないので、正体不明、だから完璧なものとして保存し修正不能にすることは不可能であります。
AゆえにBゆえにCというような理屈の論理立ては、さらに数字としての経過と結果の理屈は、しばしば、いつの間にか、心を失っていることがあります。人が観念や数字に支配されやすいのは、そのためです。元々人間に与えられた心は、分かち合いを求め、同じような心を求めます。それが、人間同士にとって最も大切な、共感と共有であります。
人の心の中のものなど罪の原因だから全部破却して神の御心すなわち聖霊によって語り行うべき、などというのは、神が人に与えた心の善きものまでゴミ屑のように扱う者たちで、そういう人は、心を見つめることの出来ない者たちでしょう。しかも、神の御心を、人の心から区別できるという思い上がりも、そこにあります。
神が人に邪悪なものだけを与えるなんてことは考えられないし、心の善きものを実感することも多いはずだからです。何より、信仰に入るとき、私たちは、何らかの感動を伴っていますが、そうさせたのは、神の働き掛けがあったかどうかを知らないまま、私たちの心がそうさせているのですから。神の導きを、人間から、かけ離れたもののように語る人たちを警戒してください。
ちなみに、カルト的な教理や誤った信仰を見分けるのに、それは御心に反していると言うだけでは、その断定によって、こちらがカルトか、と言われることになります。そういうカルト教理の欠陥は、それが広まって総ての人が実行した場合を考えると、とんでもないことになる、という、人の世界での矛盾を見つけて追求することにあります。こんな酷い世界になることを神が望むと思うのか、ということが説得力になるということです。つまり、誰が見ても聖書に反することになる、あるいは、人間を滅ぼす結果になる、という矛盾を突くことになります。そして、このことこそが、信仰は人間から離れることではない、という主張にもなっているのです。
キリスト信仰は、愛の宗教と呼ばれますが、その神の愛は、その下にある神の民である人間が神を思えば痛々しいほどに不全であることによって、神に愛されていることを恵みとする宗教であり信仰であることを表しています。
キリスト信仰は、神を正しく語ったかどうかではないのです。神の前に、人の正しさなど取るに足らず、意味を成さないほどのものです。神を正しく語れる人はいないと言ってよいでしょう。それほど、人間は、限られた時間と空間に生きて、その一生懸命と一所懸命をすべて捧げたとしても、神の知恵に及ぶべくもありません。信仰の命は、神がそのような人の不全の嘆きを憐れみ愛してくださることにあるのです。だから、私は前に記事で、
よろこび よりも かなしみ
わらい よりも なみだ
と書いたのです。それは聖書にもあるところの
いけにえ よりも あわれみ
ということに基づいています。そしてそれは、
戒律よりも心、言葉面よりも情感、形式よりも人間、ということです。
また、神は、恐らく、喜んでいる人よりも、悲しんでいる人に、寄り添うだろうと思うからです。喜んでいる人は、今すぐ助けを必要としてはいないからです。
(マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
(マタイ9:12―13、新約聖書)
キリスト者は、信仰者になったのだから喜ばなくてはならない、感謝し讃美しなければならない、という不自然なことを自らに強いる必要はないのです。感謝は、感謝しなければならないから感謝するのではありません。感謝したいときに感謝するのです。
感謝と讃美を信仰の中心であるかのように勧めてくる人は、そうするのが信仰が厚い人と思っているのかもしれないが、パリサイ人のように自己満足で感謝と讃美をしまくっている白々しい偽善者もいるのですから。キリスト信仰は、人に無理な重荷を負わせることはありません。だから、どうか、神の前に、正直な人間になってください。それだけが救われるための必要十分条件なのです。
罪という病の自覚のない者になってはいけません。
(2017年03月27日)