ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年03月

 
  混乱と合理化
 
 命=言=神=イエス
 2017/3/21(火) 午後 5:31
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28002063.html
 
 
彼は混乱しているのでしょうか。信仰の記事としては支離滅裂に近いと思います。あるいは、ここに来ても、なお、合理化を謀ろうとするのでしょうか。
 
>「アダムとエバは罪を犯した後、エデンの園から追放されました」とありますが、
>だれがアダムとエバをエデンの園から追放したのでしょうか?
 
>それは神だ!と考えられていますが、本当でしょうか?
>私は罪が罪に対する裁きをしているのではないかと思います。
 
彼は何を言っているのでしょう。
神ではなく、罪が罪に対する裁きをしているのが失楽園だと言っているのか・・。
罪という神とは別の主体を持ち出すのか。
神が罪を創造した記事でもあるのでしょうか。
悪魔のことを言っているのでしょうか。
罪というのは生き物なのでしょうか。
彼、シャローム氏の精神は正常でしょうか。
 
>アダムとエバが罪を犯した後、神は“あなたはどこにいるのか”
>と呼びかけておられます。
>「そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」と
>書かれています。
>皆さんは同じようなことをしたことはありませんか?
>わたしにはあります。
>私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させているのはだれでしょうか?
>神ではなく、人でもなく、私自身の罪ではないでしょうか?
 
「私自身の罪ではないでしょうか」と
自分の罪のことを人に聞くのでしょうか。
おかしいですね・・。
自分の罪を認めたのなら、早く悔い改めればよいのです。
それだけのことが彼は出来なかったし、しようという気もなかったのです。
だから私は批判をしてきたのです。
 
>神はいつも、今も“あなたはどこにいるのか”と呼びかけておられます。
>イエスさまを遣わし、探し求めておられるのです。
>イエスさまは「私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させている」
>私の罪をご自分の身に負い、ご自分の命によって、
>私たちが支払うべき罪の代価を支払うために、十字架にその命をささげられたのです。
>もし、神がエデンの園という神の恵みと祝に満ちたエデンの園から、
>私たちを追放し、罪の裁きをされたのだと恐れているなら、それが誤解です。
 
キリストがシャローム氏自身の罪を身に負い十字架にかかったと言っています。かもしれませんね・・全く悔い改めようとしないシャローム氏のために、キリストは血の海に沈んでゆくのかもしれません。それで、
人を追放し罪の裁きをしたと恐れるなら誤解だと言っています。
単純に、文脈がつながらす、意味が不明です。
 
それに、途中から「私の罪」が「私たちを追放し」と変わっています。
自分の罪と言ったのなら、人を巻き添えにしないでください。
相変わらず、卑怯としか言えないような、すり替えです。
しかもそれは誤解だと言っています。ますます変です。
 
>神はいつも、今も“あなたはどこにいるのか”と呼びかけておられます。
>イエスさまを遣わし、探し求めておられるのです。
 
その通りですが、罪を悔い改めない者は、そのたびに、キリストの救いを拒否しているのです。彼、シャローム氏は、何が言いたいのでしょう。
 
この彼の文章を理解することは不可能だと思います。推測してみますが、邪推になるかもしれません。私のコメントにさえ耐えられず削除した、彼、シャローム氏が、その批判をしている私の記事を見ているとは、なかなか思えませんが、ひょっとして、
 
罪が罪に対する裁きをしている、というのは、私が、彼の罪を指摘して、裁いているのは私の罪だから恐れることはない、という意味でしょうか。そのことは、もうずいぶん前に、書いたと思いますが、私が、彼を裁いているなら、彼が私のコメントを強制的に削除したことは裁きではないのでしょうか。しかも、私は言論、彼は強制力なのですが。
 
それに、批判は裁きではありません。おかしいと思ったところを指摘することです。私が丁寧に言うと、丁寧に、はぐらかしてくる彼、シャローム氏に対して、批判は辛辣になってきました。彼の書いたことについて、あまりにも問題が多く大きいので、何を言ってるんだというふうに、怒りを集中力に変えて批判してきました。
 
それは私の罪かもしれません。しかし、指摘をやめると、シャローム氏は、あざとい社交の世辞の世界を信仰として伝道のつもりで言い続けるでしょうから、私は、やめることのほうが、さらに大きな罪であろうと判断して、批判を続けています。
 
そのような私の批判については、私は言論サイコパスなのだろうかと思ったりもした、などということも、前に書いたことです。私の判断として、批判を続けていることは、最終的な裁きを神に委ねるしかない、ということです。批判をやめれば罪ではなくなるというような単純な問題ではないという見方です。
 
彼、シャローム氏は、前そうであったように、私の記事を読まないだろうと思うのですが、仮に読んでいてその反応だったら、という仮定で書きました。書いたとしても、以前からの経験から言えば、彼は、他者の意見を理解することも記憶して文章を考えることも出来ないのではないかと思います。だから、彼は、何度も、既に私が批判して、彼が答えられなかったことを、平気で繰り返してくるのです。だから辛辣になったとしても改めるつもりはありません。さらに推測ですが、
 
>私たちを追放し、罪の裁きをされたのだと恐れているなら、それが誤解です。
 
つまり、自分が罪を裁かれて追放されようとしていると恐れることはない、と彼、シャローム氏は、言いたいのでしょうか。ということは、私が罪なのであって私が裁いているのだから恐れることはない、と言いたいのでしょうか。裁きは神の専権事項です。彼、シャローム氏は、今の状況が、神の裁きではないから恐れない、と言いたいのでしょうか。確かに、私は人ですから、裁きのつもりで書いてはいません。しかし、不正を告発することは、必要なことなので、人であっても、する気のある者がするのです。
 
それにしても、彼は、どこまでも、自分の非を認めないようです。そのために、また、自分の罪を神ではなく他者の罪が裁いているのだから、恐れない、ということにしたいのでしょうか。自分の罪を認めたかのような記事の文面にした上で、逃げ道を捏造して、恐れなくてもいいという言い逃れるつもりとは、これほどの、聖書も神も無視した詭弁があったでしょうか。私は神ではないので恐れる必要は全くありません。しかし、書いているうちにだんだん、私の推測が私の中で真実味を持ってきて、これを、これからの批判の動機にしようと思っています。
 
毎度毎度、彼、シャローム氏は、どこにも通用しないような言説を、出してくるものです。これをキリスト信仰の記事だなんて思わないでください。彼は、彼の執着する、この世の名誉や立場を守る保身のために書いているだけです。それが彼の信仰?なので、彼は、自分の罪をどこまでも認めないのです。
 
罪が裁いていて、神の裁きではないから恐れなくてもよい、・・確かに、対人を恐れることはありませんが、なぜそんなことを書くのだろうとは思います。示威なのでしょうか。なお、神の裁きは、終末なのか、死んでからなのか、それとも、この世の成り行きで既に表れて来るのか、私には分かりませんが、キリスト者は、誰でも、最も強力で、有無を言わせない、聖書に書かれている神と神の裁きを、恐れています。そのことは、神の前に偽ったり、人に対して悪を為したりすることのブレーキになるのでしょう。
 
それに、彼、シャローム氏は、神を神とも思っていません、というより、彼の神?は、彼の言うとおりに頷いてくれる神であって、戒めも懲らしめもしない神?です。そんな信仰?を信じる者は、よほど特殊な精神の環境を持っているものです。
 
前に彼に聞いて答えのなかったことですが、彼、シャローム氏は、罪悪感を感じることが出来ないのではないでしょうか。だから、罪について書くと、途端に、今まで以上に、何を書けばよいか、何を書いてはいけないか、ということが分からず、混乱するのでしょう。
 
罪の意識は、信仰によって、悔い改めを通して、赦しと導きへと、また苦悩を癒やして平安へと導かれる切っ掛けとなるものです。信仰をさらに成長させる機会なのですが、彼にそれが見られないわけも分かるような気がしますし、言葉の皮相な意味だけをいじくることしか出来ないのも分かるような気がしてきました。人の言うことを聞かず、自分の安楽を求める方向一途だと、混乱と酷い合理化の蟻地獄に陥るのかもしれません。
 
 
(2017年03月22日、同日一部修正)
 
酷い(ひどい、むごい)
陥る(おちいる)
 
 

 

 
  与太話
 
 この木なんの木、気になる木・・・命の木とは?
 2017/3/20(月) 午前 8:53
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27999776.html
 
 
引用とシャローム氏のコメントです。砕けた話の的外れから、ガサツで押しつけがましい話へと、ひどい話の進め方の悪い見本だと思います。
 

寝たままで床ごと運ばれてきた中風の人にイエスは「起きて歩きなさい」と言われました。
すると、その人は立ち上がって、寝床を取り上げて、歩いて皆の前を出て行きました。
この話は、イエスの言葉にいのちがあることを表しています。
どう思いますか。

 
命について聖書を語るのに、中風の人が歩いた、という奇跡の話を先に持ってくる人の信仰に疑問を覚えます。信仰って奇跡で病気が治る話ですか、もちろん皮肉です。
 
>“この木、なんの木、気になる木”ですね。
>“見たこともない木ですから・・・”
>日立のコマーシャルに出てくる、大きな傘のように枝葉を広げている木は
>ハワイ・ホノルル郊外の公園にあるのを見ました。
 
CMソングの木を旅行で見た話まで書いていますが、聖書の語る命と何の関係があるのでしょう。大きく広がって、人が集まったり、雨をよけたり、という話がネットにはあるようです。また、検索してみると、歌詞の他の部分に、
 
「 見たこともない花が咲くでしょう
  ・・・
 いつか葉が繁って 幹が大きく育って
 根を広げて 森になる日が未来
 その日を その日を みんなで待ちましょう
 夢見て 夢見て その日を待ちましょう
  ・・・
 なんともふしぎな木になるでしょう
  ・・・
 みんながあつまる実がなるでしょう
  ・・・
 その日も その日も あなたに会いましょう
 この木の この木の 下で会いましょう
  ・・・
 見たこともない花が咲くでしょう
 
 花が咲くでしょう 」
 
といった言葉が並んでおり、信仰の比喩に、何となくですが、よいような気もしないではありませんが、彼、シャローム氏は、自慢話と、この木なんの木、の引用以外には関心がないようです。詩心とまでは言わないが、情緒や情感を味わうという感じ方を持たない人なら無理もないと言うべきなのでしょうか。彼は、
 
>善悪を知る木だけでなく、これも食べてはならない木だったのでしょうか。
 
ということから語り始めます。
 
>神の言葉である聖書の言葉は聖書によって理解した方が良いようです。
 
聖書によって正しく理解する読み方を彼は知りません。聖書から、無罪信仰なんて、あり得ませんから。
 
>善悪の木の実を食べた結果、正しいと思う人の言葉である知識や理解では
>もっともらしい理解は出来ても、否定しあう相反する理解も必ずできるのですから、
>論争になるばかりです。そのためにたくさんの神学論争が起こり、
>教派、教団が生まれ、ついには血で血を洗う宗教戦争も繰り返されてきましたし、
>今も互いに批判し合うことで、分裂と争いの種となり続けています。
 
批判を忌まわしいものと思って嫌っている彼の見方がよく表れています。言論である批判も論争も、あってはならないものとして否定している、彼、シャローム氏は、代わりに言論ではなく強制力によって、彼のブログにあったすべてのコメントとコメント欄を削除してしまいました。
 
そして、こともあろうに、互いに批判し合うことで分裂と争いの種となる、と言っています。詐欺師の詐欺師らしい詭弁です。血で血を洗う宗教戦争も、そのせいにしています。恐ろしい曲解と矛盾です。論争になることではなく、論争を拒否する勢力がキリスト教内部にあって、まさに、彼、シャローム氏が、その典型のようですが、それによって、論争どころか、議論も話し合いもしなくなり、批判禁忌という不文律がまかり通ってしまったことを考えるべきです。
 
議論には、議論の作法とかやり方がありますし、また話し合いが民主的であるためには、批判を許容することが大きな要素として含まれているのですが、彼、シャローム氏は、論争はいけないと言論を戒めながら、強制力で自分のブログに有無を言わさない言論統制を敷いている、ということになります。彼は、今まで見てきたことから、民主主義も自由な言論も認めない権威主義者です。
 
>命の木・・・どんなに医学、医療技術が進歩し、
>鋭利なメスや顕微鏡が進歩しても、命そのものを解明し、
>命そのものは神ご自身に属する領域である命を造ることは
>出来ないのではないでしょうか。
 
どう思いますか・・「出来ないのではないでしょうか」と、新提案いかが?というように書いてくる白々しさ、分かるでしょうか。常識的に、出来ないだろう、ということくらい誰でも推測していることでしょう。こんなことをわざわざ書いてくる彼の幼稚さを覚えてください。それでも、彼、シャローム氏は、微塵も反省する気などないのです。彼の記事は、読者が真剣であればあるほど、無駄に疲れさせる要素で溢れています。
 
それと、また詭弁に利用されては困るから言うのですが、「神ご自身に属する領域である命」とは、神が命を創造したという創世期に基づいていることで、そういう、人間にはとても届かない神の領域のことです。間違っても、人間の命は神の領域にあるから、神のようになれる、といったような、詭弁が出てきても頷かないでください。
 
ここで次に、彼は、唐突に話題を代えて、バイメタル、サーモスタット、ブレーカーなど電気の話をします。電気製品の危険性でも言うのかと思ったら、それを、強引に、創世記の話に持ってゆこうとするのです。
 
>電気ではなく、神からの命の流れを調整するバイメタルと考える時、
>神が張り合わせて一体とされたものがありますが…なんでしょうか?
 
>アダムとエバ、男と女、夫婦、結婚・・・が思い浮かびます。
>神のみことばを喜び、受け容れて生きているときは
>神との関係もアダムとエバの関係も、神の被造物を思いのままに喜び、楽しむ、
>エデンの園は神とともに歩んでいたアダムとエバの姿がありました。 
 
>「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」
>(創世記・2章25節)
 
>しかし、神のみことばを退けてしまい、
>善悪を知る木の実を食べた時、神の恵みと祝福を失い、神を恐れ、自分を恥じ、
>アダムとエバの関係も破たんし、地は呪われたものとなりました。
 
>アダムとエバの子カインは弟アベルを殺し、
>カインはエデンの園での生き方を失い、人と死の恐怖を抱え、苦しみ呻きながら、
>地上の放浪者となりました。私たちはカインの末裔なのです。
 
罪を犯す前と、罪を犯した後の、人間共通の在り方の話が失楽園ですが、その前と後を、バイメタルのサーモスタットやブレーカーに喩えたつもりなのでしょうか。
 
アダムとエバの話は、遠い昔の先祖のこととして受け取るのではなく、根も葉もないお伽話として受け取るのでもなく、根も葉もある今の人間の存在の由縁と今の在り方に通じるものとして受け取るべきことです。この実存的解釈というものについては、私が求道者であった高校生のときに教会で学んだことで、今も、他に考えようがないということで肯定している解釈です。
 
自分の罪を一切認めない彼、シャローム氏としては、罪を自分に結び付けたくないので、アダムとエバ、あの者たちが罪を犯したばかりに、その後の歴史は悲惨になった、という他罰的思考に徹しているようですが。ということは、残念なことに、彼、シャローム氏のもとに集まった信徒たちは、この実存的解釈を学ぶ機会はないわけですね。しかし、代わりに無罪信仰をすり込まれるなんて、それこそ悲惨で、可哀想です。出会いが、一生を決めてしまう実例になりそうです。
 
アダムとエバの関係が、助け合うべきところを、罪のために、うまくいかず、関係が破たんして、罪が引き継がれた、という話になるのでしょうか、ブレーカーのように?・・。よしてくれ。・・いったい、何のために喩えという表現方法があると思っているのでしょう。別のものになぞらえることで伝わりやすく分かりやすくするためです。金属ブラシで歯を磨くようなことは止めてください。
 
罪というものを、自分に当てはめたことのない者の言です。比喩表現も話の進め方も全くの思い付きでしょう。小学校レベルの連想ゲームでももっとマシじゃないか、と思える話です。
 
金属に喩える必要がどこにあるでしょう、人は意思を持つ生き物です。神が自らに似せて造った、という聖句の箇所を引用したことがあるのに、どうして、こんな愚にもつかぬ話にしてしまうのでしょう。金属と電気で喩えて、譬えない場合と、どのように分かりやすくなると言うのでしょう。思いつき、でまかせ、与太話・・に過ぎないでしょう。作文としては、主旨不明、表現悪ふざけ、0点ではないでしょうか。よくも書けたものです。また、それをよくも投稿したものです。彼は、まさかと思うが、インテリジェントな話をしたつもりなのでしょうか。
 
ちなみに、私は専門分野に進もうとして挫折した者であり、インテリとは言えない者ですが、それゆえに、言葉についても、信仰についても、真剣に考えているつもりです。非常に腹が立ちます・・と言っておきます。少しさかのぼって
 
>昔フランケンシュタインという映画があり、人間が人造人間をつくり、
>人造人間フランケンシュタインが人間に逆襲をするという映画だったと思いますが、
>私はその舞台であったと伝えられるドイツの城跡に行ったことがあります。
 
何のために、この話を、わざわざ挿むのでしょうか。彼は、そういう人、・・というのが、どんどん、表れてきています。ドイツに行ったことがあるのですか、すごい、とでも言われたいのでしょうか。
 
>命の木とはなに?
>私の全く的外れな、まただれから聴いたことでもないのですが、
>最近、あることがず~っと心にかかっています。
>思い切って書いてみます。
 
虚栄心と自慢癖が常軌を逸して激しいシャローム氏、あなたは、的外れだと思うなら尚更、少なくとも信仰について、思い切って書いてはいけない人だと思いますよ・・。
 
>さて、命の木とは何でしょうか。
>今日の聖書のみことばの黙想とのかかわりがあるように感じますが、
>あなたはどう思いますか?
 
命の木について、彼のこの滅裂な理路の記事で分かる人はいないし、そもそも反省する気もなくて、学ぶ気のない訂正不能の人に問われたくもないし、学ぶ気のない人から教えてもらう気もない、ということです。彼は、ただただ信仰について語る者としての不適を向けられるしかなくなっているのです。人が与えなくても、神が語る自由を与えると思っているのでしょうか。
 
彼は、神に対しても罪を犯してきたことは既に何度も書いてきました。そのたびに詭弁をぶつけてきますが、今も神に対する偽りを止めません。よくも何もなかったかのように、ふざけたことばかり書いてくるものだ、とでも言うべき厚顔ぶりです。表現の自由は、自由に対する責任を果たす者にのみ与えられます。無責任の者に与えられる自由は、どこからもありません。
 
彼が、これで分かった気になり満足しているなら、彼は、カインの末裔ではなく、カインそのものになりそうな気がします。命なき気、シャローム氏、人と神をモノ化して語る・・彼に当てはまりそうです。あえて言うなら、彼こそが、人間の心と信仰の流れを遮断する、自動調節の利かない錆びたメタルの遮断器つまりブレーカーでしょう。
 
彼、シャローム氏は、今までも、無益な造語の与太話や、露骨に突拍子もない嘘を書いたり、あざとい詭弁と妄想を吐いたりしてきましたが、何度吐いても、今回も、彼は懲りないのです、平気でいるのです。そして、作文の練習ではなく、福音伝道をする聖職者のつもりなのです。こういう人に、30年も牧師職を任せていた教会があったというのは、キリスト教もキリスト信仰も、天国や終末ではなく、おしまいに向かっているのでしょうか。彼、シャローム氏の、丁寧語の裏側に巣食っている傲慢不遜な人格を見抜けなかったのでしょうか。
 
 
(2017年03月21日、同日一部修正)
 
与太話(よたばなし)
頷く(うなずく)
尚更(なおさら)
 
 

 

 
  耐え忍ぶ被害者気取り
 
 
 「その名は不思議」ブログ
 2ペテロ3:14~18ー最後まで耐え忍ぶ者は幸いである!
 2017/3/19(日) 午後 0:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27998470.html
 
 転載元:「生活の中の聖書」ブログ
 2ペテロ3:14~18ー最後まで耐え忍ぶ者は幸いである!
 2011/2/12(土) 午前 10:48
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/27232488.html
 
 
彼、シャローム氏が、なぜ、この記事を転載したか、かなり明らかだと思います。彼は、自分の非を認めない人ですから、この期に及んでも、自分が批判されることについて、こんなに迫害を受けている、という被害妄想的意識があり、その意識しかないのでしょう。それで、迫害されている自分を聖句によって励ますような記事を他者に求めているのではないかと思います。私は、彼があまりに汚いことばかりして、あまりに幼稚な詭弁ばかりを出してくるので批判しています。
 
実際には、根拠のない言いがかりや決めつけで、批判者を、荒らしと見なしたり、病気と見なしたり、異教と見なしたりなど、ひどい言葉を返して、さらに強制力を使って無視し抹殺し、侮辱して去らせようとしたのは彼のほうなのです。
 
彼、シャローム氏は、どこまで、自分の非道と醜さに気づかず、自分を正しい聖職者として、悪い奴にいじめられている義人として、神に仕える聖職者として、被害念慮と他罰意識で、相手をおとしめ、自分を高める妄想を出してくるのでしょう。根拠は何もありません。彼の性根の悪さを示す結果になるだけです。
 
 (ペテロの第二の手紙、口語訳)
3:14
愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
3:15
また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
3:16
彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
3:17
愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。
3:18
そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。
 (2ペテロ3:14―18、新約聖書)
 
まるで彼のことが書いてあるようです。
 
「しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」
 
自分のシミと傷だけは見ようとせず、刺激がなくなったことを安らかといい、神の御前に隠し事だらけの、彼、シャローム氏です。
 
「無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」
 
彼が、どれほど聖書のことを勉強したかは知りません。しかし、ふつうの良識と感性で分かるはずのことが、彼には分かりませんし、さらに、それを無視して自説の無罪信仰を言い続けています。こんなことも分からないのか、と言いたくなるようなことですが、それを指摘しても、全く引っ込める様子も訂正する様子もありません。信じると言っただけで、洗礼を受けただけで、何をやっても無罪、一生無罪、と信じ込んでいる、という、まるで悪のための信条みたいな妄想信仰です。
 
「非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。」
 
人が神について確信してよいことは、つまり、人および人の持ち物で神の御心に適っていると確信してよいことは一つもない、ということです。
人が神について絶対としてよいことは、つまり、人および人の持ち物で神の御心のように絶対だと言えることは一つもない、ということです。
 
あるというなら、その根拠を示してほしいです。彼、シャローム氏は、神の意志も行為も御心も、自分の頭で、確信し絶対化していますが、自己絶対化にしかなりません。しかも、その理由を、神の啓示だと言いますが、その彼の神の啓示なるものは、とてもお粗末で、矛盾だらけだったのです。彼に指摘しても、彼は反論できないまま同じことを言い張る、という、駄々をこねることしか出来なかったのです。
 
神は絶対、人は神よりも遥かに低く神に支配される者、では、人は、・・相対化以外にはないのです。
 
この聖句の確信は、信仰ゆえに、神を唯一の望みそして頼りとすることです。ゆえに信仰の対象である神を決め付けてはいけません。神に仕えているのならば、時々の判断を絶対化してはいけないはずです。神に対しては、恐れ多い創造主として、導きを予定調和にしてはいけません。神を信じる人は、自分にとって刹那的に良い悪いにかかわらず、ただ導きを待つ身なのです。このことが敬虔ということにつながります。
 
しかし、自己絶対化の、彼、シャローム氏は、独善信条の無罪信仰ゆえに、信仰の対象である神を自分の頭で自分に都合の良い絶対者として確信してしまうに至っているのです。しかも、訂正不能に完成しているつもりなのです。このことによって、敬虔を人に対する慇懃無礼にすり替えてしまったのが、非道の者、彼、シャローム氏であり、彼の惑わしの無罪信仰に誘い込まれることのないようにしてください。
 

 
いつかこの世界の終わりが来る。いま言われているような2012年人類滅亡だというものではない。それはただ滅びを煽るだけで、この福音から目をそらせようとするものなのだ。
 
この世界の終わりを決め、実行されるのは創造主なる神の御手のうちにあること。そしてその時はただ滅びが待っているのではない。イエス・キリストにある者の救いの完成の時なのだ。
 
なぜ神がこんなにも長く待っておられるのか、それは私たちに与えられているイエス・キリストの証し人という務めによる。新しいいのちに生まれることのすばらしい良き知らせを、御国の福音を、本当の希望を、イエス・キリストを知らない私たちの周りに宣べ伝えるために時間を与えておられるのだ。
 

 
宣べ伝え方と宣べ伝える内容の是非について、思考停止のためなのか、沈黙している人は、彼、シャローム氏の言っているような非道を見抜くことが出来ません。それは、人間として、人間の心を見ることが出来ないからだろうと思います。だから、彼、シャローム氏に、いいように利用されています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
24:5
多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8
しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14
そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
 (マタイ24:5-14、新約聖書)
 
これは、終末についての、キリストの言葉です。
 
自分の都合の良いように、言葉面でキリストや聖霊を決めつけて語り、神の側に自分を置いて、無罪信仰という幼稚な詭弁を弄して、人を惑わしているのが、彼、シャローム氏です。
 
6~7節は、大きな戦争もあり殺人効率が昔より桁違いに高まって大規模になって戦争やテロの範囲も全世界的になっている現代を思わせるかもしれませんが、その危惧を思い考えるのは妥当だとしても、この聖句をもって終末が近いと現代を断定するのは、かの時代も、あの時代も、同じようであったことを思えば早計と見るべきでしょう。人は、人類は、大昔から、忌まわしい戦争の歴史だらけです。
 
それについて、キリストは預言し、多くの争いや艱難があること、偽者が現れること、人の愛が冷えること、つまり温かい情感が失われる時があること、そして、信仰によって耐え忍ぶことの必要を教えています。偽者の持ってくる信仰の偽物についての発言が多いような印象を受けます。終末に向けては特に注意が必要なことなのでしょう。
 
彼、シャローム氏のように、人と共感する必要がないと思い、そう言っている者は、そういう情感を持とうとしないので、うっかり受け入れると、温かい情感も共感も失ってゆく可能性を、私は真剣に案じています。彼の信仰は偽物としか言えないものです。
 

聖書が、また使徒たちが語っていることは、イエス・キリストについてであり、罪の滅びからの救いがあるということであり、永遠のいのちを得る約束であり、御国が待っていると言うことなのだ。

 
救いがある、ということだけを言って、何か説得力があるでしょうか。
 

信仰はたとえボロボロであろうともイエスが私たちを愛していること、平安を得ていること、イエスにある希望に生きていることの喜びを確信することなのだ。私たちのアイデンテテーはキリストにあることなのだからである。

 
ボロボロという言葉は、例えば、彼、シャローム氏の語ることの幼稚で滅裂な理路とか情感のなさ、など、悪い意味で使うべき形容です。信仰がボロボロ、というのは、たぶん、不十分という自覚を言いたのでしょう、と補足しておきます。
 
つまり、明らかに間違っている場合や、背いている場合は、ボロボロであろうとも信仰、とは言えないということです。彼、シャローム氏は、この、ボロボロでも、という言葉に惹かれたのかもしれませんが、反信仰の彼はボロボロの中には含まれないということです。彼の信条を信仰に含めてしまったら、キリスト信仰は不浄の種の存続を認めることになり、いずれ不浄の信条に支配されて滅びるからです。
 
また、平安を得ていることについては、彼、シャローム氏が、刺激を遮断することで批判を聞かないだけなのに、それを、神の平安と呼んでいる、という、とんでもない例があることを付け加えます。
 
本文に戻りますが、上のボロボロ、のように、遜っておきながら、アイデンティティーがキリストにあるなどと、どうして言えるのでしょう。アイデンティティーという難しい用語がわかるのでしょうか、日本語で同一性のことだというくらいは分かるとしても、人が、人の同一性をキリストの所属とすることは、終末まで、目標として努めるべき信仰の道であり、今そうだと言えるようなことではありません。神がどう見なしているかということを、既成事実のように語って根拠にするのは、信仰における不謹慎と言うべきでしょう。
 
似たようなこととして、神が人を見ている、ということは、信仰として肯定するべきことですが、人が神に従っている、ということは、神の判断ですから、人が言えば自分を誇ることになります。また、神が人を、自分を、愛してくださる、ということは言ってよいように思えますが、神が人をどのように導いて愛を示すかは人には分からないことですから、神の前に遜って敬虔である人は口にすることを控えるでしょう。
 

サタンは神の愛を受けるキリスト者から切り離そうとする。だから私たちはこの神の愛を、恵みの支配を喜び、信頼して忍耐していくのが、与えられた信仰なのだ。そこに生き続けるのが幸いなのである。

 
彼、シャローム氏の、訂正不能の無罪信仰は、妄想といってよいくらい、間違っています。彼は反論できたことは一度もありません。だから彼は、削除、削除、と続けて来て、結局、コメント欄を全部消してしまったのです。批判を、自分が見たくない、また、人に見せたくない、という目的だけのために。
 
無罪信仰は、神の愛を、その恵みを受けるキリスト者から切り離そうとするものです。
 
この転載記事のような、当たり前だが根拠を掘り下げていない文章は、掘り下げて考えるということが皆無と言ってよい、彼、シャローム氏が、最も好んで引用するものです。それゆえに、掘り下げていないことを問題にしたり、体裁だけ整えようとしている傾向を指摘したりすることで、人間なら分かるだろうということが分からない彼、シャローム氏に対する無罪信仰批判の材料にはなるのでしょう。ここにおいて、キリスト教やキリスト信仰で当たり前と言われていることの中には、どうしようもない人間の固定観念や先入観が多く含まれているという主張にもなるかもしれません。
 
 
(2017年03月19日、同日一部修正)
 
艱難(かんなん)
遜る(へりくだる、謙る)
 
 

 

 
  永遠の一瞬
 
 
人生が終わったような瞬間がある
バキっと音さえ聞こえたような
 
一瞬で大事なことが崩壊散乱消失して
突き落とされる
 
眼が浮遊して拡大し離れてゆくような
 
行き場がなくなるようなとき
地獄の入り口だろうかと・・
 
しかし一方で
 
お仕着せの愛され体験や
被愛妄想とは違う
 
琴線に触れる
心をふるわせる出来事
感動
アハ体験
なかったわけではない
 
そのとき
何か果てしない深みに触れた
 
人間が感じることの出来る
永遠
 
誰もいなくても
そのとき独りではない
 
そのとき心を配る何ものもない
 
そのとき季節も自然も
通りも部屋も一体となって
満たされて
その一部になって
いや全部になって同時に無である
 
生き死になど問題ではなくなり
 
苦もなく
楽という形容もなく
 
存在している
 
無条件に
 
温もりも潤いも
息も涙も一体となって
 
生きたいと死にたいが
生きてもいいと死んでもいいが
いっしょになるような
 
それが地上で味わえる
永遠なのか
 
あったと思うのだ
 

人間が
かろうじて生き残っているのは
きっと
そのとき自分を揺さぶったものが
そして揺さぶられた自分が忘れられないから
 
 
(2017年03月19日)
 
 

 

 
  無視の
暴力
 
 失われた人を救うために
 2017/3/17(金) 午前 10:57
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27995198.html
 
 
彼は、いつも、まるで何ごともなかったかのように書いてきます。これは、凄いことです、もちろん、いい意味ではありません。何故なら、人は、何らかの衝撃を受けることで、それに反応し、ときにはつまずきながら、立ち直るからです。ところが、彼、シャローム氏の場合は、衝撃も、つまずきも、なかったことにする信仰?を持っているようです。
 
コメント欄がなくなって、他者の意見を聞くことが出来なくても、批判されていることを気にしなくてよいことのほうを好む、という非社会性なのでしょう。私も社会性は乏しいけれど、社交家でなくても、既に墓の中にいるような自閉と完全な単方向は耐えられないのですが。
 
このような信仰は、染まってしまうと、本人にとっては、本当に救いに思われるかもしれません。いつでも思い通りの自分であり続けられるからです。まずいことがあっても、なかったことに出来る、という魔術のようなものですから、本人にとっては好都合です。しかし、周りにとっては、これほど厄介なものはないのです。何を仕出かしても、叱っても反応せず、直らないし変わらないからです。
 
それは、本人に過失があり、許してやろうかと思っていても、本人の、何も気にしていない様子で書いている記事を見ると、問題が解決するどころか、今後、本人、彼、シャローム氏が、ますます確信を強めて、災いを振りまくことを覚悟しなければならないからです。その災いを、本人があれほど隠蔽するのであれば、もはや、救いようもない、ということくらいは分かるのです、見ようとする人にだけですが。
 
まことに、今回も、彼、シャローム氏は、その魔術か呪術のような信仰をもって、立ち直ってはいけないところで、無秩序に立ち直って、白々しい記事を書いてきています。そういうのは、厚顔無知と言うのでしょうか、なかなか言葉も見つからないようです。出会って関わったら、災いが約束されるような人だと思っています。そういうことのないように、一瞬も関わらないことをお勧めします。
 
>今の自分が自分であるはずなのに、
>自分をどこかで見失ってしまっているような気がしたのです。
>自分を見失っていると、いつも人を恐れ、気になり、自分だという実感がなく、
>強がってみたり、恐れたり、正義を振りしたり、嘘をついたりします。
 
彼は、完全に自分を見失っています。にもかかわらず、神も、人も、恐れているとは思えない所業を繰り返している、彼、シャローム氏です。むしろ境地自慢や信仰自慢をしたり、強がってみたり、嘘をついたり、汚い隠蔽偽装工作をやったり、何より平気でやっているのが、彼、シャローム氏です。不感を平安と呼び、怖いほどに白々しい異常心理か病理に支配されています。
 
>まさに
>迷子の子ねこちゃんのような人です。
>「なまえ-をきいてもわからない」
>本当の自分のことが分かりません。
>「おうち-をきいてもわからない」
 
迷子であることに気づかない、彼、シャローム氏だから、こんな説教が出来るわけです。あとは、ふざけているに過ぎません。このような自分信仰で、びくともしない、揺るがない、という無視力の信仰?を誇って、人に教えようとするのです。
 
>自分の居場所を失って、自分がどこから来て、
>今、どこに行っているのか分からない迷子の状態です。
 
自分のブログを書いていても、今、彼に正当な居場所はないのですから、人に説教している場合ではないのです。記事を書くよりも、自分を見るべき時だということが分からず、却って、不都合をもたらした批判者に、自分を見つめなさい、と言ってくるような、彼、シャローム氏です。悪が板についているようです。この記事が、それを物語っています。
 
>いつもあちこちに気を配り気が休まる時がありません。
> 
>裸でありのままの自分を愛し受け容れていることを見失うと
>だれでも自分を見失い、居場所を見失ってしまい、
>自分をイチジクの葉っぱや木陰に隠したり、
>不信と怒りを隠して生きていくようです。
 
彼は、どこにも気を配っていません。ブログのコメント欄は全部閉鎖して、自分を失っているだけでなく、場所も時も失って、ただ、刺激のない沈黙の中で、元気を装っていられる、無罪信仰者なのです。常軌を逸して、人間性を捨てたからこそ可能になる異常神経を持ってしまった者の日常労作なのです。
 
>聖書にはそんな人がたくさん登場しています。
>遠い昔話ではなく、今の自分のような人でいっぱいです。
>イエスさまはそんな人のところにいつも来てくださいます。
 
無反省で悔いることのない、安穏のうちに高ぶる者のところにキリストが来る、という話は、キリスト信仰にも聖書にもありません。
 
>イエスさまと出会うと、“あなたはどこにいるのですか”と
>探し求めておられる方と再会できるのです。
 
これこそ、彼の無罪信仰の教理?の中心です。神が自分を愛して止まず、ストーカーのように追いかけて来るのだそうです。悔い改めることを捨てた時点で、彼、シャローム氏は、キリストの救いを拒んでいるのです。キリストの前に、低い者となれないということであり、悔い改めないでも自分を愛するキリストに感謝し讃美しますと、キリストに向かって言っているようなものだからです。
 
>宗教というイチジクの葉っぱや
>人や物陰に隠れる必要がないことに気づかされるのです。
 
隠れる必要がないというより、彼、シャローム氏の場合は、隠しおおせているつもりで堂々としている、という姿勢を、今まで、嫌というほど見せてきました。
 
>「そのような失われた人を探して、
>救うためにイエスはこの世に来られた」のです。
 
今になって、失われた人の話をするのは、しかもそこに自分ではなく他者を当てはめようとするのは、彼、シャローム氏の、悪意からとしか思えません。彼は、どんなに崩れた話をしても、感性も理性も通らなくても、独善教理の確信という前提だけは捨てないようです。ということは、巻き添えにする他者を漁ることだけは、やめないでしょう。キリスト教という名前からは、このような異型細胞も生まれてくるということです。
 
悪の幅員伝道に巻き込まれたら、無罪妄想が植え付けられて立ち直れない必然が生まれます。何故なら、彼の無罪信仰の独善教理が、人間として悔い改めることを阻止するからです。彼は、その必然の上にいるゆえに、変わろうとしないし、できないのです。ということは、これからも無罪信仰の犠牲を求め続けるということです。
 
私が何を書いて批判しても、彼はどんな批判に対しても無関心で、または読まないでいられるのです。そのような精神性は、もともと人間にはありません。人間は傷つきやすくできています。彼は、その傷つきやすさが一番嫌いで、それを避けるために、妥当性など無視した妄想の訂正不能によって固定している、それが、彼、シャローム氏の無罪信仰というものです。
 
信じると言えば救われ、いつも罪など気にしなくていい、という正しさ?を約束する無罪信仰は、前にも書きましたが、信者が増えれば増えるほど、勝手な無罪が増えて、法律や裁判制度さえも成り立たなくなるほどの無秩序な世界が必然となり、収拾がつかなくなるだろう、ということさえ分からない者たちが、捏造した自己満足カルトなのです。
 
そのような自分中心であるのに、恐れ多くも神の名を使って、やりたい放題にやっている、というのは、世界を騒がせているテロと殺人と戦争に見ることと似たような根を持っています。しかし、その群れの内側では、正しさからは遠くても、掟を守らせているであろう者たちとは違って、その掟さえも、無罪信仰指導者の無謬?性だけを言葉面だけで肯定して認めておればいい、という収束しない性質を持っているのが、彼、シャローム氏の無罪信仰です。万一、広がれば将来的にはテロより怖い無秩序的混乱を生む宗教となるでしょう。決して広がらないように、出来ることをするべきだろうと思って書いています。
 
この世は、予期できない出来事に人が反応する世界です。無罪信仰は、予期できない未来を、彼らの捏造した救いの色へと強引に染めてゆきます。そして、ただ、ありがたや、ありがたや、と感謝し讃美するだけで、裏で何をやっていても救われる、という信仰になります。まさに、性根の悪い人のための信仰と言うべきものです。
 
相手の言うことを気にしない、または、見ない、考えない、聞かない、という、病的な無視の力を持ち、一方で、強制力を節操もなく手段を選ばず使い、相手の言い分を、自らの領域から抹殺して体裁を装い続ける、というのが、彼、シャローム氏の、常同行為であり、暴力に頼る不感の無罪信仰なのです。不感なのに誘惑し侵略する、彼、シャローム氏は、全身全霊を、嘘という神?の鎧で固めています。
 
動物園で動物を見ていても、ちょっとかわいいと反応してしまうように、ちょっと優しい言葉で、神?とか語られると、聞いてしまう、という、人の弱みに、つけこんできます。話し合う余地などありませんから、どうか、関わらないでください。
 
 
キリスト信仰者は、この世の予期できない幸いや災いの出来事を受けて、世界と我が身までを見つめながら、赦しと癒しと導きを願う祈りのうちに立ち直り、個人の終末までを懸命に過ごしています。
 
 
どうか道を間違えないでください、騙されないでください、彼らの無罪信仰は、悔い改めもせず、反省もせず、したい放題やりながら神の義が得られるという身勝手な美味しい嘘で成り立っています。彼、シャローム氏は、その無罪信仰の異常な無視力にしたがって、実際は、心の奥深く内燃する怨念の炎を原動力として、仲間以外の人々を、密やかに踏み拉ぐことで、偽装安穏の延命を謀っているのです。
 
彼、シャローム氏は、これからも、何事もなかったかのように不感の道を説いて書いてくるでしょう。私は、彼の出してくる偽信仰の説教の矛盾と暴虐を書き続けて、その証拠を文章にして積み重ねてゆきたいと思います。彼が持ち前の無責任で言い放って終わりなら、私は私の責任で言い返して積み重ねます。そうやって、ろくでもない私の人生も使い果たして過ぎてゆくでしょう。老骨ながら祈り、また、誰も彼に関わることのないように努めて祈っています。
 
 
(2017年03月18日、同日一部修正)
 
拉ぐ(ひしぐ)
謀る(はかる)
 
 

 

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