混乱と合理化
命=言=神=イエス
2017/3/21(火) 午後 5:31
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28002063.html
彼は混乱しているのでしょうか。信仰の記事としては支離滅裂に近いと思います。あるいは、ここに来ても、なお、合理化を謀ろうとするのでしょうか。
>「アダムとエバは罪を犯した後、エデンの園から追放されました」とありますが、
>だれがアダムとエバをエデンの園から追放したのでしょうか?
>それは神だ!と考えられていますが、本当でしょうか?
>私は罪が罪に対する裁きをしているのではないかと思います。
彼は何を言っているのでしょう。
神ではなく、罪が罪に対する裁きをしているのが失楽園だと言っているのか・・。
罪という神とは別の主体を持ち出すのか。
神が罪を創造した記事でもあるのでしょうか。
悪魔のことを言っているのでしょうか。
罪というのは生き物なのでしょうか。
彼、シャローム氏の精神は正常でしょうか。
>アダムとエバが罪を犯した後、神は“あなたはどこにいるのか”
>と呼びかけておられます。
>「そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」と
>書かれています。
>皆さんは同じようなことをしたことはありませんか?
>わたしにはあります。
>私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させているのはだれでしょうか?
>神ではなく、人でもなく、私自身の罪ではないでしょうか?
「私自身の罪ではないでしょうか」と
自分の罪のことを人に聞くのでしょうか。
おかしいですね・・。
自分の罪を認めたのなら、早く悔い改めればよいのです。
それだけのことが彼は出来なかったし、しようという気もなかったのです。
だから私は批判をしてきたのです。
>神はいつも、今も“あなたはどこにいるのか”と呼びかけておられます。
>イエスさまを遣わし、探し求めておられるのです。
>イエスさまは「私を恐れさせ、裁き、…を避けさせ、身を隠させている」
>私の罪をご自分の身に負い、ご自分の命によって、
>私たちが支払うべき罪の代価を支払うために、十字架にその命をささげられたのです。
>もし、神がエデンの園という神の恵みと祝に満ちたエデンの園から、
>私たちを追放し、罪の裁きをされたのだと恐れているなら、それが誤解です。
キリストがシャローム氏自身の罪を身に負い十字架にかかったと言っています。かもしれませんね・・全く悔い改めようとしないシャローム氏のために、キリストは血の海に沈んでゆくのかもしれません。それで、
人を追放し罪の裁きをしたと恐れるなら誤解だと言っています。
単純に、文脈がつながらす、意味が不明です。
それに、途中から「私の罪」が「私たちを追放し」と変わっています。
自分の罪と言ったのなら、人を巻き添えにしないでください。
相変わらず、卑怯としか言えないような、すり替えです。
しかもそれは誤解だと言っています。ますます変です。
>神はいつも、今も“あなたはどこにいるのか”と呼びかけておられます。
>イエスさまを遣わし、探し求めておられるのです。
その通りですが、罪を悔い改めない者は、そのたびに、キリストの救いを拒否しているのです。彼、シャローム氏は、何が言いたいのでしょう。
この彼の文章を理解することは不可能だと思います。推測してみますが、邪推になるかもしれません。私のコメントにさえ耐えられず削除した、彼、シャローム氏が、その批判をしている私の記事を見ているとは、なかなか思えませんが、ひょっとして、
罪が罪に対する裁きをしている、というのは、私が、彼の罪を指摘して、裁いているのは私の罪だから恐れることはない、という意味でしょうか。そのことは、もうずいぶん前に、書いたと思いますが、私が、彼を裁いているなら、彼が私のコメントを強制的に削除したことは裁きではないのでしょうか。しかも、私は言論、彼は強制力なのですが。
それに、批判は裁きではありません。おかしいと思ったところを指摘することです。私が丁寧に言うと、丁寧に、はぐらかしてくる彼、シャローム氏に対して、批判は辛辣になってきました。彼の書いたことについて、あまりにも問題が多く大きいので、何を言ってるんだというふうに、怒りを集中力に変えて批判してきました。
それは私の罪かもしれません。しかし、指摘をやめると、シャローム氏は、あざとい社交の世辞の世界を信仰として伝道のつもりで言い続けるでしょうから、私は、やめることのほうが、さらに大きな罪であろうと判断して、批判を続けています。
そのような私の批判については、私は言論サイコパスなのだろうかと思ったりもした、などということも、前に書いたことです。私の判断として、批判を続けていることは、最終的な裁きを神に委ねるしかない、ということです。批判をやめれば罪ではなくなるというような単純な問題ではないという見方です。
彼、シャローム氏は、前そうであったように、私の記事を読まないだろうと思うのですが、仮に読んでいてその反応だったら、という仮定で書きました。書いたとしても、以前からの経験から言えば、彼は、他者の意見を理解することも記憶して文章を考えることも出来ないのではないかと思います。だから、彼は、何度も、既に私が批判して、彼が答えられなかったことを、平気で繰り返してくるのです。だから辛辣になったとしても改めるつもりはありません。さらに推測ですが、
>私たちを追放し、罪の裁きをされたのだと恐れているなら、それが誤解です。
つまり、自分が罪を裁かれて追放されようとしていると恐れることはない、と彼、シャローム氏は、言いたいのでしょうか。ということは、私が罪なのであって私が裁いているのだから恐れることはない、と言いたいのでしょうか。裁きは神の専権事項です。彼、シャローム氏は、今の状況が、神の裁きではないから恐れない、と言いたいのでしょうか。確かに、私は人ですから、裁きのつもりで書いてはいません。しかし、不正を告発することは、必要なことなので、人であっても、する気のある者がするのです。
それにしても、彼は、どこまでも、自分の非を認めないようです。そのために、また、自分の罪を神ではなく他者の罪が裁いているのだから、恐れない、ということにしたいのでしょうか。自分の罪を認めたかのような記事の文面にした上で、逃げ道を捏造して、恐れなくてもいいという言い逃れるつもりとは、これほどの、聖書も神も無視した詭弁があったでしょうか。私は神ではないので恐れる必要は全くありません。しかし、書いているうちにだんだん、私の推測が私の中で真実味を持ってきて、これを、これからの批判の動機にしようと思っています。
毎度毎度、彼、シャローム氏は、どこにも通用しないような言説を、出してくるものです。これをキリスト信仰の記事だなんて思わないでください。彼は、彼の執着する、この世の名誉や立場を守る保身のために書いているだけです。それが彼の信仰?なので、彼は、自分の罪をどこまでも認めないのです。
罪が裁いていて、神の裁きではないから恐れなくてもよい、・・確かに、対人を恐れることはありませんが、なぜそんなことを書くのだろうとは思います。示威なのでしょうか。なお、神の裁きは、終末なのか、死んでからなのか、それとも、この世の成り行きで既に表れて来るのか、私には分かりませんが、キリスト者は、誰でも、最も強力で、有無を言わせない、聖書に書かれている神と神の裁きを、恐れています。そのことは、神の前に偽ったり、人に対して悪を為したりすることのブレーキになるのでしょう。
それに、彼、シャローム氏は、神を神とも思っていません、というより、彼の神?は、彼の言うとおりに頷いてくれる神であって、戒めも懲らしめもしない神?です。そんな信仰?を信じる者は、よほど特殊な精神の環境を持っているものです。
前に彼に聞いて答えのなかったことですが、彼、シャローム氏は、罪悪感を感じることが出来ないのではないでしょうか。だから、罪について書くと、途端に、今まで以上に、何を書けばよいか、何を書いてはいけないか、ということが分からず、混乱するのでしょう。
罪の意識は、信仰によって、悔い改めを通して、赦しと導きへと、また苦悩を癒やして平安へと導かれる切っ掛けとなるものです。信仰をさらに成長させる機会なのですが、彼にそれが見られないわけも分かるような気がしますし、言葉の皮相な意味だけをいじくることしか出来ないのも分かるような気がしてきました。人の言うことを聞かず、自分の安楽を求める方向一途だと、混乱と酷い合理化の蟻地獄に陥るのかもしれません。
(2017年03月22日、同日一部修正)
酷い(ひどい、むごい)
陥る(おちいる)