見えない人
見えない神の配慮の御手
2017/4/29(土) 午後 0:10
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28061556.html
>コリントから帰ってきたテトスの報告を聞いて、パウロは大変慰めを受けました。
>それが大きな喜びとなったようです。
>ただし、それは「気落ちした者を力づけてくださる神」の
>配慮によるものであるとパウロは受け取っています。
>この目に見えない「力づけてくださる神」が、
>目に見えるテトスやコリントの教会の兄弟姉妹を通して、
>苦しみの中にあったパウロに慰めと大きな喜びを与えてくれたのです。
>これは神のいのちを経験している者には分かることですね。
神の配慮があるのだろうと感謝の気持ちをいだくのは信仰であります。しかし、神の命を経験している、という、超常風味の言葉によって、キリスト者としては普通に正常になされるはずの信徒たちの感謝を、悟りの境地のように、神の命を経験しているから、分かることですね、と言わせることになり、自分の神に対する悟りを信徒たちに自慢することになるのです。このように、神を恐れることなく無遠慮に、自らを、分かっている先生として誇ろうとすることは、いかなる信仰についての知識をも空しくしてしまうことです。
>イエスさまはご自分の苦難と死の時が迫る中で、不思議なことをされました。
>イエスさまは弟子たちの足を洗い始められたのです。
>弟子たちは驚きました。そして、そんなことはしないでくださいと言ったのです。
>昔の日本でも、旅人が旅籠に着くと、女中が旅人の足を洗いました。
>イスラエルでも他人の足を洗うのは奴隷のする仕事だったのです。
聖書は、至る所に神の配慮が表れているとは思いますが、彼、シャローム氏は、コリントの話を受けなかったのか、キリストの受難の迫っているときの話をしています。
>師であり、神の御子であるイエスさまが弟子たちの足を洗い始められたのですから
>弟子たちはとんでもないと驚いたのは当然でした。
>しかし、イエスさまは言われました。
>「イエスは彼に答えて言われた、
>「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」と。
>(ヨハネによる福音書13章7節)
(ヨハネによる福音書、口語訳)
13:4
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5
それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7
イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9
シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
(ヨハネ書13:4―9、新約聖書)
ペテロの、単純さと、実直さが、うかがえる話です。彼、シャローム氏は、こういう人間らしいことが大嫌いのようです。人間性に共感する必要はない、これが、彼の、人間性を捨ててゆき、超常に成りきろうとする信仰?の態度です。だから、彼は、少しも変わる余地がなく、ゆえに、成長の余地がなくなっているのです。
>私の人生76年を振り返ると、自分の思い願い、計画はすべて行き詰まりました。
>しかし、その行き詰まりによって思いもかけない道がひらかれたのです。
>弟子たちはイエスさまとエルサレムへと向かっていました。
>そこにはイスラエルの神殿があり、王宮がありました。
>弟子たちの目と思い、期待はイエスさまとともに、そこに座し、
>イスラエルを治めることでした。
自分の思いと計画が行き詰まったと書いていますが、シャローム氏は、自分に不都合なことを、人のせいにしてきたのです。自分を省みるということがシャローム氏には欠けているので、今も、反対意見の排除と隠蔽という同じ偽善を続けています。だから、すべて行き詰まりました、というのは、自分が失敗したという反省でも悔いでもないと思います。今までの彼の不感不応の傲慢のせいで、こういう判断しか出来ないほどの証拠が積まれているということです。
>エルサレムに着くと、弟子たちは完全な行き詰まりが
>待っていたのですが、知りませんでした。
>しかし、イエスさまの身に起こる苦難と死という行き詰まりと絶望によって
>神の計画とみわざが成就することをイエスさまはご存知でした。
>イエスさまが弟子たちの足を洗われたのはご自分の死によって成し遂げられる
>罪の贖い、きよめをしようとされていることを示すためだったのです。
キリストによる罪の贖いによって、どう曲解したのか、罪を悔いることなく、罪を気にすることなく、罪を認めず、非を認めない、ということにしてしまったのが、彼、シャローム氏です。
>足を洗う・・・これまでの間違った歩みから足を洗い、新しい歩みを始めるのです。
>自分で何度、繰り返し自分の足を洗おうとしたでしょうか。
>でも、また同じ道を歩んでしまう、それが私たちの生き方です。
>しかし、イエスさまが私たちの足を洗ってくださるのです。
偽善と隠蔽を悔いることもなく、こういうことを、他者に向かって平気で語れる、彼、シャローム氏は、自分の足を見ることが出来ないようです。彼は、キリストに、足を洗ってもらったつもりなのでしょうが、彼の足は、一度も洗われたことがないのです。彼が、最初の偽善のまま、何も変わっていないのは、前にはコメントを、今は記事を見ると、うんざりするほど分かることなのです。
>だれも自分で何度洗っても、
>他の人に洗ってもらってもきれいに洗うことのできない足です。
>イエスさまは私たちの罪を洗い清めるために、十字架につけられ血を流し、死をもって、
>私たちが自分で支払うべき、罪の代価である死によって洗ってくださるのです。
>その時弟子のペテロもだれもイエスさまのされていることが分かりませんでした。
>でもイエスさまが言われたとおり、わかる時が来ました。
弟子たちのことを言っているのなら、キリストに足を洗ってもらっても、弟子たちが、その意味を理解して、足を洗ったことに相応しく再出発して、キリストの意思を継いでゆくのは、もっと後のことです。この後、ユダの裏切りがあり、キリストと運命を共にするどころか、弟子たちも裏切って、どん底を味わいます。そして復活の主によって目覚めるまで、使徒となるまで、まだ、時を待たなければなりませんでした。
自分または人の、わかる時、のことを言っているのなら、私たちは、聖書を読んでいるから分かる、ということです。それでも、見栄にしがみついて、体裁を守ろうとして、この世に仕えている者がいて、キリストの意思が分かるときなど来ないのではないか、と思われるほどです。
>弟子たちの新しい歩みが始まりました。
>今日も私たちにはわからない神のみこころであり、御業です。
とんでもないことになっている自分の無罪信仰のことは棚に上げて、悔いることなく、彼、シャローム氏は、神を、神の御心を、神のみわざを、いつものように褒め上げて、信仰のつもりなのです。わからない神の御心と言っていますが、彼の説教は、神を主語にした紙の話に終始しており、人間として考えることを放棄して、超常に生きようとして、人間を分かろうという意思もなく、当然のごとく、人間が理解できなくなり、現に無理が生じてきていることにも気づかない始末です。
自分の罪はそのままに、悔い改めることもないのに、白々しく今まで通りの在り方を、ごり押ししているような、今の、彼、シャローム氏の、いったいどこに、他者に説教をする余地があると言うのでしょう。自分の無罪妄想を、後生大事にしている間、彼、シャローム氏は、亡者であり、牧師でもキリスト者でもありません。
福音伝道も、信仰そのものも、求める人たちに、多少の解釈や信仰観の違いを超えて、ただ一人の救い主であるイエス・キリストに仕えるためには、最低限の共感が必要なのです。その共感とは、神の前に、謙ること、すなわち、神の救いがなければどうしようもなく不全の身であるという共感なのです。人間の不全の共感が、人の側からは、信仰を支えるための、神への捧げものとなるのです。
人間としての共感の必要性を認めず、非を認めず、罪を認めず、我を張り続けていて、隠し事の上に、讃美を飾っているような者に、彼はこうなる定めなのであろうか、という危惧以外に何を感じろと言うのでしょう。どんなに大声で、神を讃美し、キリストをほめたたえても、隠そうとする不法の裏があることは、神の御心ではなく、自分の欲望を通そうとする故意のわざであり、そのような讃美をすればするほど、偽善との落差が増大するだけになるのです。
その罪と偽善の悪循環に気づかなければ、目には鱗、耳にはカサブタ、口には虚偽、心には隠し事の闇、頭には陰謀の作為が、おのれの欲望と保身の意志で働くのみであり、彼の無罪妄想は、キリストならぬ、キリステ教とでも言うべきものになって、出会う人ごとに、出会うクリスチャンごとに、キリストの名で、キリストに対立する自己愛を伝えて、迷惑をかけながら、切り捨てることしか出来ず、しかも、滅びの種を蒔いておきながら、それを誇るという背教の偽善にしかならないのです。
(2017年04月30日)
触手(しょくしゅ)
謙る(へりくだる、遜る)
蒔く(まく)
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