ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年04月

 
   見えない人
 
 見えない神の配慮の御手
 2017/4/29(土) 午後 0:10
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28061556.html
 
 
>コリントから帰ってきたテトスの報告を聞いて、パウロは大変慰めを受けました。
>それが大きな喜びとなったようです。
>ただし、それは「気落ちした者を力づけてくださる神」の
>配慮によるものであるとパウロは受け取っています。
>この目に見えない「力づけてくださる神」が、
>目に見えるテトスやコリントの教会の兄弟姉妹を通して、
>苦しみの中にあったパウロに慰めと大きな喜びを与えてくれたのです。
>これは神のいのちを経験している者には分かることですね。
 
神の配慮があるのだろうと感謝の気持ちをいだくのは信仰であります。しかし、神の命を経験している、という、超常風味の言葉によって、キリスト者としては普通に正常になされるはずの信徒たちの感謝を、悟りの境地のように、神の命を経験しているから、分かることですね、と言わせることになり、自分の神に対する悟りを信徒たちに自慢することになるのです。このように、神を恐れることなく無遠慮に、自らを、分かっている先生として誇ろうとすることは、いかなる信仰についての知識をも空しくしてしまうことです。
 
>イエスさまはご自分の苦難と死の時が迫る中で、不思議なことをされました。
>イエスさまは弟子たちの足を洗い始められたのです。
>弟子たちは驚きました。そして、そんなことはしないでくださいと言ったのです。
>昔の日本でも、旅人が旅籠に着くと、女中が旅人の足を洗いました。
>イスラエルでも他人の足を洗うのは奴隷のする仕事だったのです。
 
聖書は、至る所に神の配慮が表れているとは思いますが、彼、シャローム氏は、コリントの話を受けなかったのか、キリストの受難の迫っているときの話をしています。
 
>師であり、神の御子であるイエスさまが弟子たちの足を洗い始められたのですから
>弟子たちはとんでもないと驚いたのは当然でした。
>しかし、イエスさまは言われました。
>「イエスは彼に答えて言われた、
>「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」と。
>(ヨハネによる福音書13章7節)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
13:4
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5
それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7
イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9
シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
 (ヨハネ書13:4―9、新約聖書)
 
ペテロの、単純さと、実直さが、うかがえる話です。彼、シャローム氏は、こういう人間らしいことが大嫌いのようです。人間性に共感する必要はない、これが、彼の、人間性を捨ててゆき、超常に成りきろうとする信仰?の態度です。だから、彼は、少しも変わる余地がなく、ゆえに、成長の余地がなくなっているのです。
 
>私の人生76年を振り返ると、自分の思い願い、計画はすべて行き詰まりました。
>しかし、その行き詰まりによって思いもかけない道がひらかれたのです。
>弟子たちはイエスさまとエルサレムへと向かっていました。
>そこにはイスラエルの神殿があり、王宮がありました。
>弟子たちの目と思い、期待はイエスさまとともに、そこに座し、
>イスラエルを治めることでした。
 
自分の思いと計画が行き詰まったと書いていますが、シャローム氏は、自分に不都合なことを、人のせいにしてきたのです。自分を省みるということがシャローム氏には欠けているので、今も、反対意見の排除と隠蔽という同じ偽善を続けています。だから、すべて行き詰まりました、というのは、自分が失敗したという反省でも悔いでもないと思います。今までの彼の不感不応の傲慢のせいで、こういう判断しか出来ないほどの証拠が積まれているということです。
 
>エルサレムに着くと、弟子たちは完全な行き詰まりが
>待っていたのですが、知りませんでした。
>しかし、イエスさまの身に起こる苦難と死という行き詰まりと絶望によって
>神の計画とみわざが成就することをイエスさまはご存知でした。
>イエスさまが弟子たちの足を洗われたのはご自分の死によって成し遂げられる
>罪の贖い、きよめをしようとされていることを示すためだったのです。
 
キリストによる罪の贖いによって、どう曲解したのか、罪を悔いることなく、罪を気にすることなく、罪を認めず、非を認めない、ということにしてしまったのが、彼、シャローム氏です。
 
>足を洗う・・・これまでの間違った歩みから足を洗い、新しい歩みを始めるのです。
>自分で何度、繰り返し自分の足を洗おうとしたでしょうか。
>でも、また同じ道を歩んでしまう、それが私たちの生き方です。
>しかし、イエスさまが私たちの足を洗ってくださるのです。
 
偽善と隠蔽を悔いることもなく、こういうことを、他者に向かって平気で語れる、彼、シャローム氏は、自分の足を見ることが出来ないようです。彼は、キリストに、足を洗ってもらったつもりなのでしょうが、彼の足は、一度も洗われたことがないのです。彼が、最初の偽善のまま、何も変わっていないのは、前にはコメントを、今は記事を見ると、うんざりするほど分かることなのです。
 
>だれも自分で何度洗っても、
>他の人に洗ってもらってもきれいに洗うことのできない足です。
>イエスさまは私たちの罪を洗い清めるために、十字架につけられ血を流し、死をもって、
>私たちが自分で支払うべき、罪の代価である死によって洗ってくださるのです。
>その時弟子のペテロもだれもイエスさまのされていることが分かりませんでした。
>でもイエスさまが言われたとおり、わかる時が来ました。
 
弟子たちのことを言っているのなら、キリストに足を洗ってもらっても、弟子たちが、その意味を理解して、足を洗ったことに相応しく再出発して、キリストの意思を継いでゆくのは、もっと後のことです。この後、ユダの裏切りがあり、キリストと運命を共にするどころか、弟子たちも裏切って、どん底を味わいます。そして復活の主によって目覚めるまで、使徒となるまで、まだ、時を待たなければなりませんでした。
 
自分または人の、わかる時、のことを言っているのなら、私たちは、聖書を読んでいるから分かる、ということです。それでも、見栄にしがみついて、体裁を守ろうとして、この世に仕えている者がいて、キリストの意思が分かるときなど来ないのではないか、と思われるほどです。
 
>弟子たちの新しい歩みが始まりました。
>今日も私たちにはわからない神のみこころであり、御業です。
 
とんでもないことになっている自分の無罪信仰のことは棚に上げて、悔いることなく、彼、シャローム氏は、神を、神の御心を、神のみわざを、いつものように褒め上げて、信仰のつもりなのです。わからない神の御心と言っていますが、彼の説教は、神を主語にした紙の話に終始しており、人間として考えることを放棄して、超常に生きようとして、人間を分かろうという意思もなく、当然のごとく、人間が理解できなくなり、現に無理が生じてきていることにも気づかない始末です。
 
自分の罪はそのままに、悔い改めることもないのに、白々しく今まで通りの在り方を、ごり押ししているような、今の、彼、シャローム氏の、いったいどこに、他者に説教をする余地があると言うのでしょう。自分の無罪妄想を、後生大事にしている間、彼、シャローム氏は、亡者であり、牧師でもキリスト者でもありません。
 
福音伝道も、信仰そのものも、求める人たちに、多少の解釈や信仰観の違いを超えて、ただ一人の救い主であるイエス・キリストに仕えるためには、最低限の共感が必要なのです。その共感とは、神の前に、謙ること、すなわち、神の救いがなければどうしようもなく不全の身であるという共感なのです。人間の不全の共感が、人の側からは、信仰を支えるための、神への捧げものとなるのです。
 
人間としての共感の必要性を認めず、非を認めず、罪を認めず、我を張り続けていて、隠し事の上に、讃美を飾っているような者に、彼はこうなる定めなのであろうか、という危惧以外に何を感じろと言うのでしょう。どんなに大声で、神を讃美し、キリストをほめたたえても、隠そうとする不法の裏があることは、神の御心ではなく、自分の欲望を通そうとする故意のわざであり、そのような讃美をすればするほど、偽善との落差が増大するだけになるのです。
 
その罪と偽善の悪循環に気づかなければ、目には鱗、耳にはカサブタ、口には虚偽、心には隠し事の闇、頭には陰謀の作為が、おのれの欲望と保身の意志で働くのみであり、彼の無罪妄想は、キリストならぬ、キリステ教とでも言うべきものになって、出会う人ごとに、出会うクリスチャンごとに、キリストの名で、キリストに対立する自己愛を伝えて、迷惑をかけながら、切り捨てることしか出来ず、しかも、滅びの種を蒔いておきながら、それを誇るという背教の偽善にしかならないのです。
 
 
(2017年04月30日)
 
触手(しょくしゅ)
謙る(へりくだる、遜る)
蒔く(まく)
 
 
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  信仰メモ
    かなり断片的な、まとめのようなもの
 
 
神を信じる、キリストを信じる、と言っても、実際、何を信じているかは、とても不気味です。誰もが信じることとして、神の正義と愛と救済の意志がありますが、人は無限の時間と空間を知り得ないので、どのように成就するかは、厳密には分からないと言うべきでしょう。
 
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくてよい、などという、とんでもない妄想を信じている者もいます。その妄想が教えとして広まったら、何をしても無罪だから好き勝手に振る舞う者たちだらけになるだろう、という必然が、すでに人間を生かす信仰ではないことを示しています。私が名付けたところの、無罪信仰というものです。
 
神が、人間の世界で人間を駄目にするような信仰を与えるとは思えません。
 
そこまでいかなくても、似たようなこととして、過去、現在、未来の、すべての罪が、既に赦されている、などという信仰観も、似たようなものです。神の生命保険にかかっているから安心と言っていた者もいます。私が名付けたところの、予定調和の信仰というものです。
 
神は、人が、神の意志と行為を決めつけることを是とするとは思えません。。
 
これらは、既に、救いによって導かれる人生を、前もって、人が、バラ色に染めてしまっている考え方です。したがって、このことから、赦し救い恵む神を信じても、戒め懲らしめる神を信じなくなる傾向が強くなります。また、話が、神の世界のことばかりになる傾向があり、お伽話や夢物語や空約束の話になりやすく、そのため、陶酔気分や多幸気分を聖霊体験や神の奇跡と見なす誤謬に陥りやすくなる可能性もあります。
 
神が、人に対して、どう導くか、何をなさるかは、人には分からないので、異言、預言、聖霊体験、奇跡などの、超常体験がないとは言い切れませんが、超常体験はカルト的偽信仰の根拠となりやすい、ということを忘れてはいけません。推測として、超常体験者は、神の領域に直接触れたのだから、恐れのために慎み深くなるはずですから、聖体験を振りかざすようなことはしないでしょう。超常体験を唱える者に対しては、人間の間で、それに相応しい信仰者の言動であるかどうかを見てゆかなければなりません。
 
 
信仰の恵みで、人間が了解できるものとしては、祈りによる恵みとして、他者からの自由、祈りによる絶対孤独からの自由、といった解放があります。それは、神の下にいるという価値基準の自覚によって、目先の利益のために右往左往することからの解放とも言えるでしょう。気分的なものだろうと軽んじる人もいるかもしれませんが、祈ることを知らなかったら、その解放気分もないのです。さらにそれが、一生を支えるとしたら、決して気分と見なして済ませたり軽んじたりしてよいものではないはずです。
 
信仰は、ときに被害的また他罰的な念慮を伴うことがあります。これは意識して、克服してゆく必要があります。嫌いな人への復讐を神に祈ったりすることも含めて、私が名付けたところの、呪いの信仰というものです。
 
呪いの信仰は、キリストまたは神が自分を愛してくれる、という確信から、いつの間にか、自分だけを愛してくれる、と誤解するところから、自分に冷たい人や、自分より能力や財産が勝っている人を救いから除外して、信仰者である自分への神の愛を偏愛のように思い込むところから生まれます。
 
真実の神は、与える使命によって人により導きが異なりますが、依怙贔屓をするとは思えません。信仰者が敵意を持って他者を呪うのを是とするとも思えません。
 
これら、片寄った、というか、曲がった信仰は、いさかいや、敵意の原因となり得るものです。神は、いさかいを是とするとは思えません。
 
信仰は、気合いもろとも、否をゆるさず、信じ込むことではありません。このような信じ方や、信じさせ方は、カルトによく見られるものです。そのような信じ方では、誰かの信仰観や解釈を鵜呑みにしてしまうことになるでしょう。
 
神は、人が、神の意志と行為を決めつけることを、是とするとは思えません。
 
 
神を信じる信仰とは、神の存在と導きを、それなしでは生きていけないほど、強く待ち望むことであります。キリストを慕いキリストを信じることをキリスト信仰と言います。その際に、人が取れる唯一の手段は、祈りであります。キリスト信仰は、祈りの信仰であり、待ち望む信仰であります。ゆえに、祈りにおいて神に対して偽ることは大罪であります。神に祈るときには飾ることなく正直に祈るべきです。
 
キリスト信仰は、罪を認めて悔い改め、赦しと癒しと救いと導きを祈り願う信仰です。悔い改めと祈りなしでは、キリスト信仰ではありません。人は神の民として神の下にあるべきです。それは、人は、神と違って不全ゆえに、罪を犯すからです。ゆえに祈りの信仰は、罪を犯しても、神によって赦されて立ち直るためであります。
 
人間がいかなる罪を犯し得るかについては、数えきれないほどの様々な罪になるでしょうが、上に述べたことからも、少なくない罪を考えることは出来るでしょう。
 
 
以上、まとめとして、今のところ、重要なキーワードとして・・、待ち望む、祈り、罪を認める、悔い改め、赦し、癒し、救い、導き、乞い願う、人は神の下にある神の民、正直、神への偽りは大罪、・・というところでしょうか。神の、不可知だが完全なる正義、人の、知的だが不全なる正義、と付け加えておきます。
 
注意するべきこととしては、長く使われてきた「信じる」という言葉は、極めて誤解されやすいと言わざるを得ません。廃止するべきとまでは言わないが、十分、その弊害に留意して誤解を避ける必要があるでしょう。
 
神は、人が、神の意志と行為を決めつけることを、是とするとは思えません。
 
 
神を信じる信仰者とは、姿は見えなくとも、理解は出来なくとも、父なる神が、また、キリストが、絶対の正義と永遠の愛をもって、自分を見ていてくださる世界でなければ、生き甲斐を感じることが出来ない者のことを言います。
 
絶対の正義と愛が見えない世界だからこそ、まやかしの教えや、目先の利益に、惑わされないために、神の民の、キリストの群れの中に、何も携えずに、受けて反応できる心を目いっぱいに広げて、導きを待ち望みたいと思っています。
 
自分を見ている御方の厳しくも温かい視線に包まれていながら、しばしば、その視線を忘れるけれども、祈りの時と場において、それを思い出し、正直な自分を日々捧げることで、傷から立ち直り、人間として、神の民として、どんな状況でも絶対孤独ではなく、告白する相手が救いの御方であることに希望を持って生きる人々の一人でありたいと願っています。
 
嘘や偽者が蔓延り闊歩している今の世でありますが、自分の至らざるを知るように導かれた幸いをもって、余計な持ち物に煩わされることから解放され、人間としての共感と共有によって福音を伝える道も開かれるだろうと祈り願っています。
 
ときに背き、ときに怒り、ときに死を夢見るときも、孤独のうちに、悲しみのうちに、聖なる御方に祈る道が与えられていることの幸いを知ることが出来ますように。これからも、嘆き悲しむならば、主の導かれる道において、癒しと慰めが与えられますように。
 
結びに、私の愛する聖句です。※は私見です。
 
 
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。 (詩篇31:5より)
 
 ※ 究極の避け所
 
主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を救われる。 (詩篇34:18) 
 
 ※ 救われる必要十分条件
 
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに
宣べ伝えられるでしょうか。
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。 (詩篇88:11-14より)
 
 ※ 人の信仰が成長するためには
   神の前で、何らかの時に
   悲しみの共感が必要である。
 
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。 (詩篇119:123)
 
 ※ 人の信仰が成長するためには
   神の前で、何らかの時に
   悲しみの共感が必要である。
  
   人が信仰を必要とし
   信仰を知り
   成長するのは
   喜びではなく悲しみの時である。
 
 
※ これも私見に過ぎませんが・・。
 
ペテロとユダの違いは何でしょう。ワンポイントだったかもしれません。ペテロは愚直だったが、いちばん大事なところに気づくことが出来たので、裏切りから悔い改めることが出来ました。ユダは頭のいい人だったが、いちばん大事なところに気づくことが出来ず、裏切りから悔い改めることが出来なかったのです。その差は、わずかかもしれません。ただの従順ではありません。ペテロは弱いがゆえに揺さぶられ、ゆえに恐怖からも思い込みからも立ち直ることが出来ました。ペテロは、知力ではなく、受けて反応する器が豊かだったのです。
 
 
(2017年04月29日、同日一部修正)
 
依怙贔屓(えこひいき)
神の下に(かみのもとに)
蔓延る(はびこる)
闊歩する(かっぽする)
宣べ伝える(のべつたえる)
陥る(おちいる)
お伽話(おとぎばなし)
 
 
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  亡者の豪語
 
 在りてあるものと在りてなきもの
 2017/4/27(木) 午後 0:05
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28058777.html
 
 あなたは以前は…今は…
 2009/5/20(水) 午前 5:51
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/1343580.html
 
 
過去記事のコピペです。8年前は、これがブログの記事として通用したのでしょうか。私は、見逃したのでしょうか。暗澹たる思い、とは、このことです。
 

さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、
「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、
『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。
これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」(旧約・出エジプト19章5~6節)

 
3~6節のようです。こういうことを書くのは、自分の首を絞めることだと、彼、シャローム氏は、気づかないようです。神が命令し、従えば、聖とする、というような、神への従順を語る聖句に、ことごとく背いているのが、彼、シャローム氏です。神の前に、大ウソをついて、罪を隠して、警鐘を鳴らすコメントを削除して、何ごともなかったかのように、偽装しているからです。
 
>ユダヤ教は一民族の宗教として始まりましたが、
>一民族のものとして存在しているのではありません。
>ユダヤ民族は神の器として、神の祭司として選ばれ、
>全人類、世界に対する宣教者として選ばれ立てられた祭司の民族なのです。
 
これを言うことに、どういう意味があるのでしょう。世界規模で大言壮語したかったのでしょうか、あるいは、絶叫したかったのでしょうか。
 
>ユダヤ教を母体として与えられた神の救いの契約はイエスによって成就、実現されました。
>キリスト教もまた一国家、一民族の宗教ではありません。
>それは本来人から生まれた宗教ですらありません。
 
たいていのカルトは、自分の言うことは、神から超常から、と言います。また、彼、シャローム氏も、自分の言うことは神の啓示だから議論無用、と言ったのです。つまり、また彼は、馬脚を露すことになっています。彼の言うことには、人間が納得できる根拠が示されたことはありません。つまり説得力のない結論だけの一方的な偏執説教です。
 
>それを一国家の宗教であるかのようにしていることは神の計画、御心でもありません。
>その過ちのためどんなに悲惨な歴史を刻んできたことでしょうか。
 
よく言います。悲惨な歴史は、訂正不能の盲目的信条に毒された者たちによって生まれてきたのです。それら偽善者は、神の名によって、キリストを殺し、キリスト者を殺し、人々を殺してきました。今までの記事から、最も近くにいる盲信かつ妄信者は、彼、無罪信仰のシャローム氏なのです。彼は、罪を認めず、自らに向けられた意見を日常的に殺してきました。
 
>旧約聖書の神は“有りて有るもの”という万物の創造者なる神であり、
>新約聖書におけるイエスは“わたしはある”という人であり、神の御子なのです。
 
こういう、今さら言っても、何かを伝えたことにならないようなことを、大仰に言いたがるのが、彼、シャローム氏と、その仲間なのです。この豪語といっしょに、自分こそ神の代弁者という成り上がりの臭いがプンプンするのが分かるでしょう。これが、無罪信仰教祖の、彼、シャローム氏なのです。本人だけが、知らないでいるのです。
 
>すべての人は永遠なる神の被造物であって、“有りて無きもの”なのです。
>人という存在も、人の考えも、人の手のわざもすべて相対的で、
>有限な“有りて無きもの”です。
 
ありてなきもの、その意味が分かるのでしょうか。彼の特徴です。それだけ繰り返しても、逆説的で、理解しようのないことを、かっこつけるかのように、大げさに、それだけ繰り返している、彼、シャローム氏なのです。
 
>旧約聖書を通してご自分を啓示された“有りて有るもの”なる神は
>“わたしはある”と言われた神にして人であられるイエスをとおして、すべての人に
>あなたを愛し、あなたの救いを成就し、ご自分こそ、唯一の天地万物の創造者であり、
>あなたの神であることを明らかにされたのです。
 
今となっては、無味乾燥と言う他はない、彼、シャローム氏の、言い張りです、預言者気取りです、目も当てられない恥ずかしい宣教者気取りなのです。彼は、そのキリストを、ずうっと、裏切り続けて、自分の正当化に利用してきたのです。そのための豪語なのです。このような、あるのだから、ある、という、神のことを、人が言えば虚しいだけのことを、言い張って、語ったつもりの言説にしがみついて、偽善者はある、ということです。
 
>「しかし、あなたがたは、
>選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。
>それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、
>あなたがたが語り伝えるためである。
>あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、
>以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、
>いまは、あわれみを受けた者となっている。
>(新約・ペテロの第一の手紙2章9~10節)
 
恵みだけを強調する、という、彼の無罪信仰の特徴が表れています。その直前の聖句を引用します。
 
 (ペテロの第一の手紙、口語訳)
2:6
聖書にこう書いてある、
「見よ、わたしはシオンに、
選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、
決して、失望に終ることがない」。
2:7
この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8
また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである
 (1ペテロ2:6―8、新約聖書)
 
つまずいて、転んで、泡を吹いている、彼、シャローム氏は、ここを引用しませんでした。いつもそうです。聖句の、自分に美味しいところだけ載せて、すべてはこれだ、と言わんばかりに宣言して、自分はというと、戒めや懲らしめを、少しも気にしない、彼、シャローム氏の、超の付く無視の力は、神に対しても同じようですが、神に対して通用するはずがないのです。彼は「そうなるように定められていた」のでしょうか。
 
人知など及びもつかない超常の絶対の創造主である神を恐れないならば、その高ぶりの一ミリさえ、どんなに隠しても、見逃さない、どんなに正当化の美辞麗句を弄しても通用しない、その神を、恐れる機会とするべきでしょう。
 
>神の平安がありますように!
 
吐きそうです。
 
 
(2017年04月28日)
 
弄する(ろうする)
暗澹たる(あんたんたる)
 
 
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  平凡と退屈
 
 「平凡をもって貴し」となす (2012.4.16)
 2017/4/26(水) 午後 6:10
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28057648.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2012-04-16 「平凡をもって貴し」となす
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20120416
 
 
今回の転載記事は、興味深い部分を含んでいると思ったら、考えているうちに、違ってきました。彼、シャローム氏は、恐らく、自分を決めつけるな・・というような意味で載せたのかもしれませんが、自分で弁明することはしないのです。人を、敵、味方、と決めつけて、その意見を削除したり、世辞で褒め上げたりするのが、習癖になっているところの、彼、シャローム氏の、転載意図など考えながら書いてみます。
 
>「朝日新聞」は4月12日(木)夕刊で、
>9日付け夕刊に関西電力関係記事に誤報があったと謝罪した。
>テレビや新聞は、日本や世界の出来事を報道する。
>その報道は事実を伝えようと努力する。
>しかし、ときには誤報もあるし、その事実にも二つの問題がある。
>ひとつは公平な報道といいながら、記者やデスクの主観がはいること。
>もう一つは、事件性がないと面白くないから、
>平凡なことは無視されるということだ。
 
>むかし国会議員相手に仕事をしていたころ、議員会館のその部屋に呼ばれて、
>議員から当時の進歩的文化人と言われた学者、評論家100名ばかりのリストを
>わたされた。
>そして、このうちだれが左翼か、最左翼か、中間かマークしてくれといわれた。
>わたしは「立場上できません」と辞退し上司に報告して了承を得た。
>人を左右に色分けすることは、自分自身が計られることだ。
>「この方は左翼でない」といえば、わたし自身左がかっていると見られ。
>「この方は右です」といえば、わたし自身左の立場になる。
>新聞も公正な報道といいながら、記者やデスクの主観で取材の取捨大小が異なる。
 
これは、人間としての立場や考えの相対性を言っています。右か左かは、それなりの活動の実態から推測するわけでしょうけれど、避けがたい人脈の柵もあるかもしれないし、決め付けてはいけないだろうし、また人間が変わらないとも限らないのです。こういうことはしないで、平凡に過ごしなさい、という教えならば、否でありますが、安易な決めつけ、つまりレッテル貼りを戒めているのでしょう。
 
ここで申し上げておきますが、彼、シャローム氏は、批判者に対して、精神の病という決めつけで、去らせようとしてきたことがあります。
 
例えば、私に対しては、幼児期の虐待によって虐待者になっていると言いました。私は、虐待を受けたことはありませんし、また何より、彼に、私の幼児期のことなど話したこともありません。
 
また、私が彼に依存していて、依存に自分が答えないことを恨んでいる、というようなことも言いました。聖書に詳しいのだろうと彼を信頼していた数年間がありますが、冗談じゃありません。彼は、いったいどれだけ自分が依存されるような、頼りがいのある人物に見られていると思っているのでしょう。その頃、数年前、私は50代後半でしたし、これはとても気持ちの悪いことでした。事例としては、他にもありますが、この辺にしておきます。私の怒りは、彼の反信仰です。彼は、異常です。
 
シャローム氏は、依存の問題に興味があるようです。推測ですが、それは、彼の教えの異常さに気づく人が過去にも結構いたからではないかと推測します。そこで、彼は、それを反省することなく相手のせいにして、相手のどこが問題かを分かりもしないのに付け焼刃で決めつけてしまったのでしょう。・・ここに何が欠けているか・・、彼は、依存されてしまったという思い込みの意識において、自分の失敗について考えない、つまり、彼は、自分のどこに問題があるかを、全く考えない人なのです。
 
彼は、神に対しても人に対しても、非を認めません、罪を認めません、本気で謝罪することがありません。彼の祈りは、彼の記事と同様、救われた感謝と讃美だけと言ってもいいでしょう。それが、彼の思い込みの無罪信仰なのです。
 
シャローム氏は、自分が決め付けられていると思っているのでしょうか。政治的には、彼は、右でも左でもありません。ただの気分屋という印象です。思想を構築するような節度のある思考を、彼は、その強烈な思い込みによって失ってしまったのでしょう。
 
だから、シャローム氏は、以前は、この世の悪をボロクソに言って、あらゆる政治的問題に、その悪が生じる根源を、自分と同じキリスト信仰?を持っていないからだ、という短絡的結論を、何度も何度も貼り付けていたのです。書いてどうなるんだと言いたくなるような、それが彼の見解なのです。自分を、あらゆる悪から、きっぱり除外しています。ここまで、自分の悪と罪を、無視できるとは、いったい、何様のつもりだろう、と思ったのを記憶しています。
 
>一方、家庭にしても、会社や学校にしても、主婦や、社員や、先生が、
>コツコツ努力を積み重ねていることは、ありふれて、平凡で、
>面白くも、なんともない。新聞ネタにならない。
>しかし毎日、社会を支えているのはこの平凡な営みだ。
>しかもそれが社会の営みの圧倒的な部分を占める。
>地震、津波、原発事故で、シコシコ一所懸命に努力している平凡な方たちは
>話題にならない。しかし平凡が日本と世界を支えている。
 
平凡が尊い、と言いたいのでしょうか。平凡はつまらない、ということに対する戒めなのでしょうか。では、平凡でないことは、異常でしょうか。志のために、平凡な人生を犠牲にしている人もいるわけですが。平凡と、平凡に見えることを、混同してはいないでしょうか。日本と世界を支えている、と言うのなら、それは日々の努力であって、平凡という言葉では表せないはずです。
 
また、災害からの立ち直りは平凡でしょうか。いったい何を平凡で尊いと言うのでしょう。そんなに平凡というのが、ちょっと見ただけで簡単に分かるのでしょうか。平凡を見つけることは、転載元にとって、同意して転載しているシャローム氏にとって、そんなに、たやすいのでしょうか。人は、意図せず、しばしば、非凡にならざるを得ないことさえあるのですが。
 
日頃、説教や記事で、大仰に、キリストやパウロや、驚くべき奇跡の話をしていながら、お前たちは、文句を言わず平凡に働け、とでも言うつもりでしょうか。前の「愚痴る牧師たち」といい、この転載元は、相当、傲慢な感じがします。
 
>教会活動もその通り。牧師の説教や、奏楽者の演奏は目につくが、
>会計事務や、会堂の清掃、会食の準備、印刷物の発送など
>さまざまな雑用がわんさかある。それを何事もなかったかのように、
>静かに毎週つづけられる平凡な働きがあって、教会活動は進むのだ。
 
それは、日常の務めであって、毎日やっているからといって、平凡の枠に入れることは出来ないと思います。いわゆるマンネリに感じることであって、平凡にしないための努力を怠っているのではないか、という感じさえします。
 
例えば、信仰に不可欠な、祈りは平凡でしょうか。型通りの祈りしかしていない人にとっては、平凡というより、退屈かもしれません。神に捧げる自分の正直な言葉を失っている人は、祈っても、説教しても、記事を書いても、転載しても、退屈という名の平凡になるのでしょう。それを尊い、という前に、努めることがあるとは考えないのでしょうか。
 
>キリスト信徒の生活もそうだ。毎日の繰り返しの平凡のなかに、
>神のただならぬ恩寵を見つけるのだ。「平凡をもって貴し」としよう。
 
平凡の中に平凡でないことを見つける、という妙なことを言っているようですが、神のただならぬ恩寵を見つけるのなら、それは平凡ではないはずです。望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、ということか、ただ、平凡に、また、退屈に感じて、倦怠しているのでしょう。いかに、変化も成長もない世界に埋没しているか、ということでしょう。
 
 (箴言、口語訳)
13:10
高ぶりはただ争いを生じる、
勧告をきく者は知恵がある。
13:11
急いで得た富は減る、
少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。
13:12
望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、
願いがかなうときは、命の木を得たようだ。
 (箴言13:10―12、旧約聖書)
 
彼、シャローム氏の唱える世界は、何も文句を言わず、何も考えず、何も感じないで、いつも感謝し絶えず讃美することを強いているわけだから、大方、退屈さを、神の平安と呼んで、平凡が大事、などと思い込むしかなくなるのでしょう。祈りで神に世辞ばかり言って、正直な祈りを知らない者の言だと思います。
 
>「平穏で落ち着いた生活を送る」
>(第1テモテ2・2)
 
これは、平凡なのでしょうか。戦争と迫害の時代を生きた信仰者たちは、平穏で落ち着いた生活を送ることは悲願であり、少なくとも、平凡ではなかったと思いますが。
 
新共同訳1987
2:2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
新改訳1970
2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
口語訳1955
2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
http://bbbible.com/bbb/bbb1t02.html#1tm2.1-7
 
平凡とは書いていませんね。政治と社会の収束する目標と言うべきだと私が思っているところの、生存権の恒久的実現は、すべての時代において悲願であります。それが侵されてきたのが、人類の歴史なのです。転載者は、いったい、いかなる時代の、いかなる国に、生きているのでしょうか。平凡などではなく、転載者も、シャローム氏も、信仰における怠慢を、信仰のせいにして、その合理化のために、平凡が大切などと言っているようです。
 
 (テモテの第一の手紙、口語訳)
2:1
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:2
それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
2:3
これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
2:6
彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
2:7
そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。
 (1テモテ2:2-7、新約聖書)
 
神が望んでおられること、仲保者であるキリストの贖いが証しであること、使徒の役目が書いてあります。言っておきますが、贖いが証しとは、贖いが済んで今は無罪という意味ではありません。二千年前に贖われたから、あとずっと、今の信仰者の生涯も罪を気にしなくていい、ということでは決してありません。証しとは、証拠です。キリストは罪を贖う主である、という証拠です。それぞれの人とキリストの関係は、それぞれの時に築かれて、導きによって、成長を期待されているのです。
 
聖書には、平凡という言葉は見つからなかったのですが、私の持っている聖書には載っていなくて、ネット検索してみると、外典?になっているらしいマカバイ記という名の書に、次のようなことが書いてあるそうです。なんか、身につまされる感じなので引用しておきます。
 
(1:マカバイ記二/ 15章 38節)
もしこの物語の編集が巧みで要領を得ているなら、それはわたしの喜ぶところである。しかし、つたなく平凡であるとすれば、それはわたしの力が及ばなかったのである。
 
努力が及ばない、というより、努力する気もなく、的外れの盲信の訂正不能を、無視の力による不感不応で、自分の無罪を唱えて信仰だと思ってしまうような、彼、シャローム氏の書いた文章を、どうぞ読んでください。ただ、決して好意的に関わってはいけません。受け入れてしまうと、退屈を尊い信仰と呼ぶことになりかねません。
 
 
(2017年04月27日、同日一部修正)
 
柵(しがらみ)
 
 
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  人間嫌い
 
 
私は、人間があまり好きではありません。人付き合いは苦手です。生きれば生きるほど、真の望ましい人間関係を結ぶことなど、とても出来ないような気がしてきます。私は、自分という人間が、さらに好きではないようです。しかし、他の人間を見るのが好きなようです。見るだけでは関係ではないかもしれませんが、社交の世辞に溢れている地上世界の有り様は、多くのことを伝えてきます。そのネガティブな考えを書くことで、私の社会適応への寸志といたします。
 
古くからのキリスト教には、二千年もの長い間に、人と信仰集団によって固定されてしまった人工物の価値観が多く混ざっています。奇跡話、恵みの話、よい話、立ち直りの話、などは、大きく扱われ広められます。不幸や自殺や躓きや背教の話は、話題にされなくなります。はっきり言って後者の方が、よほど、信仰を深めるのに重要です。何故なら、これらの都合の悪い話は、多くの人が直面するからです。直面したのに、黙っているのです。そして、直面することにも鈍感になって来て、そうそうあるものじゃない都合の良い話を語らねばならないと、もっと重要な不都合に目を瞑るのです。
 
この傾向は、キリスト教を堕落させる作用があります。その兆候として、都合の悪い話を聞いたときに、表情を曇らせたり舌打ちをしたりすることは、問題に対して正面から向き合う姿勢がなくて、信仰を堕落させる姿勢なのです。
 
信仰者は、どんな問題や難局においても、結局、いつも問われています。
 
では、あなたは、キリストを忘れられると言うのか、と。
 
それこそが、窮極的な答えとなって、信仰者は、この地上を過ごすのです。
 
社交の世辞だけを身につけて快楽を得ようとする者が、キリスト信仰の世界にも、そのやり方を持ち込んで、付け焼刃の聖書語を乱発して、好ましい関係を築いているかのようなふりをしていることがあり、問えば、中身は何もなくて、やはり聖書語をぶつけてくるだけの有り様を見て、これは少なくとも信仰による好ましい人間関係ではないと判断しました。
 
例えば、読者の一人が、はい、分かりました、そうですね、肝に銘じます、といった完全肯定の賛同コメントを書いてきた場合、私は、肯定し過ぎではないかと、ちょっと心配して、鵜呑みにしないように、とか、レスに書くでしょうけれど、その者は、さらに優しい言葉をかけるか、何も書かないか、のようです。つまり、当然と思っていて、説教の成功に酔っていて、喜悦満面で、使命を果たしたという気持ちになるのでしょうか。これは、信仰についてブログに書くことが自己顕示になっている証拠になるでしょう。完全肯定されるというのは、それほど、心配になっても、おかしくないことなのです。
 
私は、日々、何も出来ない自分の愚かさを祈っていますが、その者は、愚かさや弱さや低さや、などといった、信仰者が共有できる自覚を持っていないようです。以前、コメントの遣り取りがあった頃は、いつも、自分が上だということを、皮肉や当てつけで、示してきました。しかも、自分の非を全く認めません。恐らく今まで一度も本気で認めたことはないのではないかと思います。
 
彼は、今、コメント欄も閉鎖して、見ざる、聞かざるのまま、言うだけは、言い続けています。過去の不備や欠点や傷や罪に対して、何の反省も解決もしないで、言い続けることに、勘違いの信仰がもたらす精神病理さえ感じて、近づきたくはないが、放っておけば、社交につられた人々が、また、ひどい目に遭うだろうと、批判を続けています。
 
時々罵詈雑言を思い切りぶつけてやりたいという衝動が湧きますが、それをやってしまうと、却って自分が惨めになるだけなので、しない・・というより、少しは控えています。根拠は示しているつもりですが、どうしようもなく表現は辛辣になります。
 
信仰者として何らかの共感か共有があれば、違ってくるのかもしれませんが、先方にその気は微塵もないようです。彼が、一つ記事を書いたり載せたりするたびに、彼の闇が暴かれ、どうしようもなく、また一つ、本来、神の法廷に捧げられ焼き尽くされるべき闇と偽善のしるしが積み重ねられます。その闇のイメージは、誰が何を批判しようと滅びるのは批判者のほうだと、訂正不能の不感不応の自分を、神に捧げて得意になっている彼の祈りの姿、その苦しいバラ色の変形です。彼は、来る日も来る日も、これでもかと、自分の首を絞めているのです。愚痴も含めて、以上。失礼。
 

聖書語:
聖書に因む言葉を、目的や意義を理解しようとしないで、その表面的な意味だけを、文脈を無視して並べること。とても安易な信仰話を作る素材に聖書が利用されている。
 
 
(2017年04月26日、同日のうちに、あちこち修正)

 
微塵(みじん)
躓き(つまずき)
瞑る(つむる、つぶる)
暴く(あばく)
辿る(たどる)
縊首(いしゅ)
鵜呑み(うのみ)
 
 
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