二つの記事に対する私の批判記事です・・
毒草
オガタマの花 (2013.4.22)
2017/4/24(月) 午前 9:42
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28053941.html
「日本神話で、アマテラス大神がアマノ岩戸に隠れて・・(省略)」と
神道の神話まで持ち出していますが、そのあと・・
>「招霊(オギタマ)」とも「小香玉」とも書くが、「招霊」と書けば、
>神道の榊代わりに、この常緑葉が使われたというから神道くさくなる。
>しかし「小香玉」と書けば、花は「小さくて」「ほのかに香り」
>「玉の形で開き切らないで散る」その姿そのままの名だ。
>断然「小香玉」がいい。
そして、神道臭くなる、と軽蔑するわけです。そして、断然「小香玉」がいいと、自分の好みで、何でしょう、語っておいて、これで落としたつもりなのでしょうか。持ち上げることも、落とすことも、する資格のない者の言に過ぎません。
異教については、神が、異教について、どのように思っておられるか、キリスト者は知らないのだから、いかなる価値判断もしてはいけないのであって、知らないという立場を貫くべきだ、と言っておきます。ここにも、分かりもしないのに、知ってるつもりの権威主義的な悪癖が見られます。
>キリスト信仰に入る道がそれぞれあるように、
>信仰に入ったあとの信仰の花もさまざま。
>牡丹のように華麗な自己主張の強い花もあれば、
>フキの花や、ニラの花のように、ひっそり咲く花もあり、
>葉隠れの吉祥草もある。
>しかし、すべて主キリストを賛美している。
>歌っている。笑っている。
花だけでなく、常套句の聖書語で世辞のように白々しい讃美をして、安心してしまう、という、彼、シャローム氏のような毒草が育つ可能性もあるということです。嘘の讃美を唄い、意地悪く笑っている者もいるということです。彼は、批判者が、何を言っても、目の前にいなければ、笑っていられるだけの根性の悪性を持っています。神の権威を守るつもりの自分の権威主義に毒されて、人の気持ちが分からなくなっているのです。
批判を削除するということは、賛同意見以外聞く気がないということであり、弁明できないということであり、また毛嫌いに近いものを動力として、強制力をもって人を裁き、そのことを隠して知らないふりをするために、削除しているということです。
>そして花が散るとき、かならずあとに実を残してゆく。
>後継者にバトンを渡すのだ。花は散りながらキリストを仰いでいる。
彼、シャローム氏は、このままでは、散るとき、多くの自分信仰の種を残すことになるでしょう。何故なら、彼は、罪を悔い改めなくても救われる、という無罪信仰を唱えているからです。どこまでも、福音伝道の妨げとなることしか出来ないようで、執拗に、それを続けています。
>「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。
>草は枯れ花は散る」
> (ペトロ第1の手紙1・24)
(ペテロの第一の手紙、口語訳)
1:22
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
1:23
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24
「人はみな草のごとく、
その栄華はみな草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
1:25
これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
(ペテロ1:22―25、新約聖書)
人の言うことに全く耳を貸さない、彼、シャローム氏は、コメント欄を廃止して、好きなように書いていますが、互いに心から熱く愛し合いなさい、という、ペテロの教えに、最も背いて、自分の気に入らない者に対して、はぐらかし、軽視し、侮辱して去らせることしか出来ず、その後は、超の付く悪の力をもって無視し続けているのです。
彼、シャローム氏の言葉は、草のごとく、その栄華は毒草の花に似ている、草は枯れ、花は散る、そして、罪状だけが残るでしょう、ペテロが宣べ伝えた通りに、とこしえに。
私たちは、信仰者であってもなくても、草のように花のように、いずれ消えてしまう地上の命を今は持って生きています。そして、このかけがえのない命が、何を望んでいるかを、それぞれに懸命に探し求めています。草の命、花の命であるからこそ、抱きしめたい命を、うわべの言葉面に捧げることだけはしたくないのです。
(2017年04月25日、同日一部修正)
赦されざる者
罪の赦しとは?
2017/4/24(月) 午前 9:52
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28053949.html
罪の赦しとは
2011/11/6(日) 午前 7:42
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21537861.html
主の前に、遜って正直に告白することが出来ず、自己絶対正当化と無罪信仰を人の間に広めようとして、うんざりするような、わざとらしい讃美の言葉面しか唱えることが出来ない、彼、シャローム氏、の過去記事からのコピペのようで、転載のようですが、どこからの転載か、よく分かりません。
>「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
> (新約・マタイによる福音書9章2節)
(マタイによる福音書、口語訳)
9:1
さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。
9:2
すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。
9:3
すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。
9:4
イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。
9:5
あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
(マタイ9:1―5、新約聖書)
言葉面ばかりにこだわっている律法学者と違って、キリストが見ているのは病者への救いです。言葉面しか理解しない、彼、シャローム氏は、2節だけを引用して、自分のために、罪は赦される、という救いの言葉面だけを見ています。
>キリスト教では人を罪人扱いするのでいやだ、という人がいます。
>これは「罪人」を「ざいにん」と読んで、
>人倫に外れた人間と見るからではないかと思います。
>「罪」とは、新約聖書の原語ギリシャ語では「的外れ」という意味です。
罪は罪なのに、イメージをよくしようとして、的外れだったら、罪人ではないのか、と言いたくなります。神の御心に的外れだったら、罪なのです。つまり、総ての人は罪人である、ということに、何の変わりもないのです。私たちは、生きておれば、必ず罪を犯す人間、ということなのです。それを認めないのが、彼、シャローム氏のような人たちです。受けをよくしようとして、教えを曲げています。
>矢で的を狙ったつもりが、外れるということである。
>したがって人間が罪人であるというのは
>自分では事を正しく処しているつもりであるが、
>どこかひとつ足りなかったり、間違ったり、
>善と信じて行ったことが悪と化したりすることだってあるということである。
それは、神に対して、完全ではない、という罪なのです。それを赦されて生きるために、信仰がある、ということです。現象から、人間には、外れる必然があります。前にも書いたことですが、言い換えれば、神と違って、存在の時空が限られる人間だから、必然的に不全があるということです。
>要するに、人間の世界で起こることには絶対はないということを、
>「罪」ということばで表現しているのである。
時空についての絶対の知識のない私たちには、絶対に正しい、ということはあり得ないのです。人が考えられる可能性は、比較的正しいか、最悪を避ける程度でしかないのです。
>なぜそうなのか。創世記3章には、
>善悪の知識の木からは取って食べてはいけないと言われていたのに、
>それを食べると神のように善悪を知るようになると蛇にそそのかされて、
>エバはつい食べてしまうという話がある。
>人は神からその存在を造り出されたのだが、
>造られたことをついつい忘れて、自分が神に成り代わって、
>世界の主人公のようになろうとするという意味である。
それは、最大の罪なのです。彼、シャローム氏のように、神の代弁者に成りきっている人が、多すぎるのです。そのままでは天国へ行けないことの根拠です。
>ちょうど、人間が作ったロボットが、人間に成り代わろうとするようなものである。
>それこそ見当違いもはなはだしいのであって、そこからボタンのかけ違いのように
>的外れのことが起こる。だから人間のすることなすこと、
>絶対とか完全とかいうことがない。
ロボットに喩えるのは不適切です。神は、人に、命を与えた、ということは確かなのですから。むしろ、神の権威を身につけようとする、反逆の権威主義者こそが、さらにそれを伝えようとしている現象が、それを福音と呼んでいることが、すべて、比喩ではなく、現実において脅威の存在となっているのです。
>それが罪である。人間にとって必要なことは、
>もう一度造られた最初の状態に戻ることである。
>そうでないと、いつまでたっても相変わらず的外れのままである。
>罪の赦しとは、自分ではなく、
>神が世界の創造者であり、統治者である関係に戻ることである。
最初の状態に戻るために、と言えば、勘違いして、善悪の判断をしなくなったつもりで、ますます罪に対して鈍感になる者もいるようです。それは、惨めな勘違いです。私たちは、神の支配する民に戻るために、改革と成長を期して、キリストを信じるのです。
>そのとき人は、生きている世界が自分のものではなくて、
>実は神の世界の中に自分が生かされていることを知るのです。
ところが、神の世界に生かされている、と言っている、彼、シャローム氏こそが、自分は神に生かされていると言いながら、罪は悔い改めなくても赦され救われるから気にしなくていい、という無罪信仰を唱えて、反対意見を総て闇に葬っているのだから、結局、彼は、彼自身の矛盾をもって、罪に罪を重ねることで、生かされる道を拒んだ自分を際立たせています。なぜ、隠蔽された闇を抱えながら、一方で同時に、人の前に、讃美と説教を見せびらかすことが出来るのでしょう。そういうことは、開き直った偽善者でなくては出来ないことなのです。
>神の平安がありますように!
罪を少しでも、認める者は、正直な告白をしないではおれないのですから、神を讃美することより、神に赦しを乞うことが、祈りの大部分になる必然を持っています。ゆえに讃美には慎重になるべきです。間違えば、自分を高ぶらせてしまうからです。
さて、神を、隠し事をもって偽っておいて、彼、シャローム氏は、罪と偽善をいっぱい抱えて告白もしないで、この一行のようなことを、挨拶のように元気に言っている場合ではないはずです。それでも軽く強く言ってしまう悪癖の、彼、シャローム氏は、神さえ騙そうとしている者、ということになり、この讃美は、さらに罪を際立てるものです。罪の共感を持てない者の、共有できない挨拶と独善のメッセージに惑わされてはいけません。
人間もまた、この地上では、草の命、花の命であることを知っている人は、決して、神に安っぽい既製品のような讃美や挨拶を並べて、党派心の自己主張に任せたりはしません。草の命、花の命、という共感があれば、それが、党派や教派や宗派を超えた慈しみを生むことを知っているからです。自らを省みる思慮は、また、人間の感性において、温もりと潤いを知ることにつながるのが、信仰であります。
(2017年04月25日)
遜る(へりくだる、謙る)
毒草
オガタマの花 (2013.4.22)
2017/4/24(月) 午前 9:42
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28053941.html
「日本神話で、アマテラス大神がアマノ岩戸に隠れて・・(省略)」と
神道の神話まで持ち出していますが、そのあと・・
>「招霊(オギタマ)」とも「小香玉」とも書くが、「招霊」と書けば、
>神道の榊代わりに、この常緑葉が使われたというから神道くさくなる。
>しかし「小香玉」と書けば、花は「小さくて」「ほのかに香り」
>「玉の形で開き切らないで散る」その姿そのままの名だ。
>断然「小香玉」がいい。
そして、神道臭くなる、と軽蔑するわけです。そして、断然「小香玉」がいいと、自分の好みで、何でしょう、語っておいて、これで落としたつもりなのでしょうか。持ち上げることも、落とすことも、する資格のない者の言に過ぎません。
異教については、神が、異教について、どのように思っておられるか、キリスト者は知らないのだから、いかなる価値判断もしてはいけないのであって、知らないという立場を貫くべきだ、と言っておきます。ここにも、分かりもしないのに、知ってるつもりの権威主義的な悪癖が見られます。
>キリスト信仰に入る道がそれぞれあるように、
>信仰に入ったあとの信仰の花もさまざま。
>牡丹のように華麗な自己主張の強い花もあれば、
>フキの花や、ニラの花のように、ひっそり咲く花もあり、
>葉隠れの吉祥草もある。
>しかし、すべて主キリストを賛美している。
>歌っている。笑っている。
花だけでなく、常套句の聖書語で世辞のように白々しい讃美をして、安心してしまう、という、彼、シャローム氏のような毒草が育つ可能性もあるということです。嘘の讃美を唄い、意地悪く笑っている者もいるということです。彼は、批判者が、何を言っても、目の前にいなければ、笑っていられるだけの根性の悪性を持っています。神の権威を守るつもりの自分の権威主義に毒されて、人の気持ちが分からなくなっているのです。
批判を削除するということは、賛同意見以外聞く気がないということであり、弁明できないということであり、また毛嫌いに近いものを動力として、強制力をもって人を裁き、そのことを隠して知らないふりをするために、削除しているということです。
>そして花が散るとき、かならずあとに実を残してゆく。
>後継者にバトンを渡すのだ。花は散りながらキリストを仰いでいる。
彼、シャローム氏は、このままでは、散るとき、多くの自分信仰の種を残すことになるでしょう。何故なら、彼は、罪を悔い改めなくても救われる、という無罪信仰を唱えているからです。どこまでも、福音伝道の妨げとなることしか出来ないようで、執拗に、それを続けています。
>「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。
>草は枯れ花は散る」
> (ペトロ第1の手紙1・24)
(ペテロの第一の手紙、口語訳)
1:22
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
1:23
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24
「人はみな草のごとく、
その栄華はみな草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
1:25
これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
(ペテロ1:22―25、新約聖書)
人の言うことに全く耳を貸さない、彼、シャローム氏は、コメント欄を廃止して、好きなように書いていますが、互いに心から熱く愛し合いなさい、という、ペテロの教えに、最も背いて、自分の気に入らない者に対して、はぐらかし、軽視し、侮辱して去らせることしか出来ず、その後は、超の付く悪の力をもって無視し続けているのです。
彼、シャローム氏の言葉は、草のごとく、その栄華は毒草の花に似ている、草は枯れ、花は散る、そして、罪状だけが残るでしょう、ペテロが宣べ伝えた通りに、とこしえに。
私たちは、信仰者であってもなくても、草のように花のように、いずれ消えてしまう地上の命を今は持って生きています。そして、このかけがえのない命が、何を望んでいるかを、それぞれに懸命に探し求めています。草の命、花の命であるからこそ、抱きしめたい命を、うわべの言葉面に捧げることだけはしたくないのです。
(2017年04月25日、同日一部修正)
赦されざる者
罪の赦しとは?
2017/4/24(月) 午前 9:52
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28053949.html
罪の赦しとは
2011/11/6(日) 午前 7:42
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21537861.html
主の前に、遜って正直に告白することが出来ず、自己絶対正当化と無罪信仰を人の間に広めようとして、うんざりするような、わざとらしい讃美の言葉面しか唱えることが出来ない、彼、シャローム氏、の過去記事からのコピペのようで、転載のようですが、どこからの転載か、よく分かりません。
>「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
> (新約・マタイによる福音書9章2節)
(マタイによる福音書、口語訳)
9:1
さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。
9:2
すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。
9:3
すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。
9:4
イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。
9:5
あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
(マタイ9:1―5、新約聖書)
言葉面ばかりにこだわっている律法学者と違って、キリストが見ているのは病者への救いです。言葉面しか理解しない、彼、シャローム氏は、2節だけを引用して、自分のために、罪は赦される、という救いの言葉面だけを見ています。
>キリスト教では人を罪人扱いするのでいやだ、という人がいます。
>これは「罪人」を「ざいにん」と読んで、
>人倫に外れた人間と見るからではないかと思います。
>「罪」とは、新約聖書の原語ギリシャ語では「的外れ」という意味です。
罪は罪なのに、イメージをよくしようとして、的外れだったら、罪人ではないのか、と言いたくなります。神の御心に的外れだったら、罪なのです。つまり、総ての人は罪人である、ということに、何の変わりもないのです。私たちは、生きておれば、必ず罪を犯す人間、ということなのです。それを認めないのが、彼、シャローム氏のような人たちです。受けをよくしようとして、教えを曲げています。
>矢で的を狙ったつもりが、外れるということである。
>したがって人間が罪人であるというのは
>自分では事を正しく処しているつもりであるが、
>どこかひとつ足りなかったり、間違ったり、
>善と信じて行ったことが悪と化したりすることだってあるということである。
それは、神に対して、完全ではない、という罪なのです。それを赦されて生きるために、信仰がある、ということです。現象から、人間には、外れる必然があります。前にも書いたことですが、言い換えれば、神と違って、存在の時空が限られる人間だから、必然的に不全があるということです。
>要するに、人間の世界で起こることには絶対はないということを、
>「罪」ということばで表現しているのである。
時空についての絶対の知識のない私たちには、絶対に正しい、ということはあり得ないのです。人が考えられる可能性は、比較的正しいか、最悪を避ける程度でしかないのです。
>なぜそうなのか。創世記3章には、
>善悪の知識の木からは取って食べてはいけないと言われていたのに、
>それを食べると神のように善悪を知るようになると蛇にそそのかされて、
>エバはつい食べてしまうという話がある。
>人は神からその存在を造り出されたのだが、
>造られたことをついつい忘れて、自分が神に成り代わって、
>世界の主人公のようになろうとするという意味である。
それは、最大の罪なのです。彼、シャローム氏のように、神の代弁者に成りきっている人が、多すぎるのです。そのままでは天国へ行けないことの根拠です。
>ちょうど、人間が作ったロボットが、人間に成り代わろうとするようなものである。
>それこそ見当違いもはなはだしいのであって、そこからボタンのかけ違いのように
>的外れのことが起こる。だから人間のすることなすこと、
>絶対とか完全とかいうことがない。
ロボットに喩えるのは不適切です。神は、人に、命を与えた、ということは確かなのですから。むしろ、神の権威を身につけようとする、反逆の権威主義者こそが、さらにそれを伝えようとしている現象が、それを福音と呼んでいることが、すべて、比喩ではなく、現実において脅威の存在となっているのです。
>それが罪である。人間にとって必要なことは、
>もう一度造られた最初の状態に戻ることである。
>そうでないと、いつまでたっても相変わらず的外れのままである。
>罪の赦しとは、自分ではなく、
>神が世界の創造者であり、統治者である関係に戻ることである。
最初の状態に戻るために、と言えば、勘違いして、善悪の判断をしなくなったつもりで、ますます罪に対して鈍感になる者もいるようです。それは、惨めな勘違いです。私たちは、神の支配する民に戻るために、改革と成長を期して、キリストを信じるのです。
>そのとき人は、生きている世界が自分のものではなくて、
>実は神の世界の中に自分が生かされていることを知るのです。
ところが、神の世界に生かされている、と言っている、彼、シャローム氏こそが、自分は神に生かされていると言いながら、罪は悔い改めなくても赦され救われるから気にしなくていい、という無罪信仰を唱えて、反対意見を総て闇に葬っているのだから、結局、彼は、彼自身の矛盾をもって、罪に罪を重ねることで、生かされる道を拒んだ自分を際立たせています。なぜ、隠蔽された闇を抱えながら、一方で同時に、人の前に、讃美と説教を見せびらかすことが出来るのでしょう。そういうことは、開き直った偽善者でなくては出来ないことなのです。
>神の平安がありますように!
罪を少しでも、認める者は、正直な告白をしないではおれないのですから、神を讃美することより、神に赦しを乞うことが、祈りの大部分になる必然を持っています。ゆえに讃美には慎重になるべきです。間違えば、自分を高ぶらせてしまうからです。
さて、神を、隠し事をもって偽っておいて、彼、シャローム氏は、罪と偽善をいっぱい抱えて告白もしないで、この一行のようなことを、挨拶のように元気に言っている場合ではないはずです。それでも軽く強く言ってしまう悪癖の、彼、シャローム氏は、神さえ騙そうとしている者、ということになり、この讃美は、さらに罪を際立てるものです。罪の共感を持てない者の、共有できない挨拶と独善のメッセージに惑わされてはいけません。
人間もまた、この地上では、草の命、花の命であることを知っている人は、決して、神に安っぽい既製品のような讃美や挨拶を並べて、党派心の自己主張に任せたりはしません。草の命、花の命、という共感があれば、それが、党派や教派や宗派を超えた慈しみを生むことを知っているからです。自らを省みる思慮は、また、人間の感性において、温もりと潤いを知ることにつながるのが、信仰であります。
(2017年04月25日)
遜る(へりくだる、謙る)
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