ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年04月

二つの記事に対する私の批判記事です・・
 
 
  毒草
 
 オガタマの花 (2013.4.22)
 2017/4/24(月) 午前 9:42
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28053941.html
 
 
「日本神話で、アマテラス大神がアマノ岩戸に隠れて・・(省略)」と
神道の神話まで持ち出していますが、そのあと・・
 
>「招霊(オギタマ)」とも「小香玉」とも書くが、「招霊」と書けば、
>神道の榊代わりに、この常緑葉が使われたというから神道くさくなる。
>しかし「小香玉」と書けば、花は「小さくて」「ほのかに香り」
>「玉の形で開き切らないで散る」その姿そのままの名だ。
>断然「小香玉」がいい。
 
そして、神道臭くなる、と軽蔑するわけです。そして、断然「小香玉」がいいと、自分の好みで、何でしょう、語っておいて、これで落としたつもりなのでしょうか。持ち上げることも、落とすことも、する資格のない者の言に過ぎません。
 
異教については、神が、異教について、どのように思っておられるか、キリスト者は知らないのだから、いかなる価値判断もしてはいけないのであって、知らないという立場を貫くべきだ、と言っておきます。ここにも、分かりもしないのに、知ってるつもりの権威主義的な悪癖が見られます。
 
>キリスト信仰に入る道がそれぞれあるように、
>信仰に入ったあとの信仰の花もさまざま。
>牡丹のように華麗な自己主張の強い花もあれば、
>フキの花や、ニラの花のように、ひっそり咲く花もあり、
>葉隠れの吉祥草もある。
>しかし、すべて主キリストを賛美している。
>歌っている。笑っている。
 
花だけでなく、常套句の聖書語で世辞のように白々しい讃美をして、安心してしまう、という、彼、シャローム氏のような毒草が育つ可能性もあるということです。嘘の讃美を唄い、意地悪く笑っている者もいるということです。彼は、批判者が、何を言っても、目の前にいなければ、笑っていられるだけの根性の悪性を持っています。神の権威を守るつもりの自分の権威主義に毒されて、人の気持ちが分からなくなっているのです。
 
批判を削除するということは、賛同意見以外聞く気がないということであり、弁明できないということであり、また毛嫌いに近いものを動力として、強制力をもって人を裁き、そのことを隠して知らないふりをするために、削除しているということです。
 
>そして花が散るとき、かならずあとに実を残してゆく。
>後継者にバトンを渡すのだ。花は散りながらキリストを仰いでいる。
 
彼、シャローム氏は、このままでは、散るとき、多くの自分信仰の種を残すことになるでしょう。何故なら、彼は、罪を悔い改めなくても救われる、という無罪信仰を唱えているからです。どこまでも、福音伝道の妨げとなることしか出来ないようで、執拗に、それを続けています。
 
>「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。
>草は枯れ花は散る」
> (ペトロ第1の手紙1・24)
 
 (ペテロの第一の手紙、口語訳)
1:22
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
1:23
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24
「人はみな草のごとく、
その栄華はみな草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
1:25
これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
 (ペテロ1:22―25、新約聖書)
 
人の言うことに全く耳を貸さない、彼、シャローム氏は、コメント欄を廃止して、好きなように書いていますが、互いに心から熱く愛し合いなさい、という、ペテロの教えに、最も背いて、自分の気に入らない者に対して、はぐらかし、軽視し、侮辱して去らせることしか出来ず、その後は、超の付く悪の力をもって無視し続けているのです。
 
彼、シャローム氏の言葉は、草のごとく、その栄華は毒草の花に似ている、草は枯れ、花は散る、そして、罪状だけが残るでしょう、ペテロが宣べ伝えた通りに、とこしえに。
 
私たちは、信仰者であってもなくても、草のように花のように、いずれ消えてしまう地上の命を今は持って生きています。そして、このかけがえのない命が、何を望んでいるかを、それぞれに懸命に探し求めています。草の命、花の命であるからこそ、抱きしめたい命を、うわべの言葉面に捧げることだけはしたくないのです。
 
 
(2017年04月25日、同日一部修正)
 
 
  赦されざる者
 
 罪の赦しとは?
 2017/4/24(月) 午前 9:52
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28053949.html
 
 罪の赦しとは
 2011/11/6(日) 午前 7:42
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21537861.html
 
 
主の前に、遜って正直に告白することが出来ず、自己絶対正当化と無罪信仰を人の間に広めようとして、うんざりするような、わざとらしい讃美の言葉面しか唱えることが出来ない、彼、シャローム氏、の過去記事からのコピペのようで、転載のようですが、どこからの転載か、よく分かりません。
 
>「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
> (新約・マタイによる福音書9章2節)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:1
さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。
9:2
すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。
9:3
すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。
9:4
イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。
9:5
あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
 (マタイ9:1―5、新約聖書)
 
言葉面ばかりにこだわっている律法学者と違って、キリストが見ているのは病者への救いです。言葉面しか理解しない、彼、シャローム氏は、2節だけを引用して、自分のために、罪は赦される、という救いの言葉面だけを見ています。
 
>キリスト教では人を罪人扱いするのでいやだ、という人がいます。
>これは「罪人」を「ざいにん」と読んで、
>人倫に外れた人間と見るからではないかと思います。
>「罪」とは、新約聖書の原語ギリシャ語では「的外れ」という意味です。
 
罪は罪なのに、イメージをよくしようとして、的外れだったら、罪人ではないのか、と言いたくなります。神の御心に的外れだったら、罪なのです。つまり、総ての人は罪人である、ということに、何の変わりもないのです。私たちは、生きておれば、必ず罪を犯す人間、ということなのです。それを認めないのが、彼、シャローム氏のような人たちです。受けをよくしようとして、教えを曲げています。
 
>矢で的を狙ったつもりが、外れるということである。
>したがって人間が罪人であるというのは
>自分では事を正しく処しているつもりであるが、
>どこかひとつ足りなかったり、間違ったり、
>善と信じて行ったことが悪と化したりすることだってあるということである。
 
それは、神に対して、完全ではない、という罪なのです。それを赦されて生きるために、信仰がある、ということです。現象から、人間には、外れる必然があります。前にも書いたことですが、言い換えれば、神と違って、存在の時空が限られる人間だから、必然的に不全があるということです。
 
>要するに、人間の世界で起こることには絶対はないということを、
>「罪」ということばで表現しているのである。
 
時空についての絶対の知識のない私たちには、絶対に正しい、ということはあり得ないのです。人が考えられる可能性は、比較的正しいか、最悪を避ける程度でしかないのです。
 
>なぜそうなのか。創世記3章には、
>善悪の知識の木からは取って食べてはいけないと言われていたのに、
>それを食べると神のように善悪を知るようになると蛇にそそのかされて、
>エバはつい食べてしまうという話がある。
>人は神からその存在を造り出されたのだが、
>造られたことをついつい忘れて、自分が神に成り代わって、
>世界の主人公のようになろうとするという意味である。
 
それは、最大の罪なのです。彼、シャローム氏のように、神の代弁者に成りきっている人が、多すぎるのです。そのままでは天国へ行けないことの根拠です。
 
>ちょうど、人間が作ったロボットが、人間に成り代わろうとするようなものである。
>それこそ見当違いもはなはだしいのであって、そこからボタンのかけ違いのように
>的外れのことが起こる。だから人間のすることなすこと、
>絶対とか完全とかいうことがない。
 
ロボットに喩えるのは不適切です。神は、人に、命を与えた、ということは確かなのですから。むしろ、神の権威を身につけようとする、反逆の権威主義者こそが、さらにそれを伝えようとしている現象が、それを福音と呼んでいることが、すべて、比喩ではなく、現実において脅威の存在となっているのです。
 
>それが罪である。人間にとって必要なことは、
>もう一度造られた最初の状態に戻ることである。
>そうでないと、いつまでたっても相変わらず的外れのままである。
>罪の赦しとは、自分ではなく、
>神が世界の創造者であり、統治者である関係に戻ることである。
 
最初の状態に戻るために、と言えば、勘違いして、善悪の判断をしなくなったつもりで、ますます罪に対して鈍感になる者もいるようです。それは、惨めな勘違いです。私たちは、神の支配する民に戻るために、改革と成長を期して、キリストを信じるのです。
 
>そのとき人は、生きている世界が自分のものではなくて、
>実は神の世界の中に自分が生かされていることを知るのです。
 
ところが、神の世界に生かされている、と言っている、彼、シャローム氏こそが、自分は神に生かされていると言いながら、罪は悔い改めなくても赦され救われるから気にしなくていい、という無罪信仰を唱えて、反対意見を総て闇に葬っているのだから、結局、彼は、彼自身の矛盾をもって、罪に罪を重ねることで、生かされる道を拒んだ自分を際立たせています。なぜ、隠蔽された闇を抱えながら、一方で同時に、人の前に、讃美と説教を見せびらかすことが出来るのでしょう。そういうことは、開き直った偽善者でなくては出来ないことなのです。
 
>神の平安がありますように!
 
罪を少しでも、認める者は、正直な告白をしないではおれないのですから、神を讃美することより、神に赦しを乞うことが、祈りの大部分になる必然を持っています。ゆえに讃美には慎重になるべきです。間違えば、自分を高ぶらせてしまうからです。
 
さて、神を、隠し事をもって偽っておいて、彼、シャローム氏は、罪と偽善をいっぱい抱えて告白もしないで、この一行のようなことを、挨拶のように元気に言っている場合ではないはずです。それでも軽く強く言ってしまう悪癖の、彼、シャローム氏は、神さえ騙そうとしている者、ということになり、この讃美は、さらに罪を際立てるものです。罪の共感を持てない者の、共有できない挨拶と独善のメッセージに惑わされてはいけません。
 
人間もまた、この地上では、草の命、花の命であることを知っている人は、決して、神に安っぽい既製品のような讃美や挨拶を並べて、党派心の自己主張に任せたりはしません。草の命、花の命、という共感があれば、それが、党派や教派や宗派を超えた慈しみを生むことを知っているからです。自らを省みる思慮は、また、人間の感性において、温もりと潤いを知ることにつながるのが、信仰であります。
 
 
(2017年04月25日)
 
遜る(へりくだる、謙る)
 
 
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  あかしのまやかし
 
 神のいのちのあかし
 2017/4/23(日) 午前 7:27
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28052344.html
 
 
今回は、彼、シャローム氏が、いかなる狙いでこの転載記事を載せたかを考えます。艱難を受けても窮しない、という聖句を引用していますが、自業自得の艱難を受けても、罪を気にせず、罪を認めず、その本質を知ろうともせず、艱難と艱難があることを、全部見えないように、ひた隠しにして、動じない、揺るがない、窮しない、と言い張るわけです。もう、牧師格など、地に堕ちて虚しいのに、彼、シャローム氏は、地を這う虫のように、やって来ては、糞を残してゆくようです。それが、彼の最近の経過で、これは、彼の不応不感と無関心無反応の結果が、だらしなく続いているということに他なりません。
 
>前回は、小さな水鳥の姿に、
>また寒さの中に美しい花を咲かせている梅の木の姿に、いのちの表われを見ました。
>また、神のいのちの表れを神の独り子イエス・キリストの
>地上での人生の中に見ることが出来るという話をしてきました。
>ただ、神のいのちについて定義づけされ、詳しく説明されたからといって、
>知識としては分かっても、
>感動をもって分かるのとはまた違います。その点、聖書には詳しい説明ではなく、
>むしろ、体験的なあかしや誰かに宛てた手紙を通して、神のいのちがあかしされています。
 
ずさんな言葉遣いと断定によって、神の命を証明したかのように語って、今回は、感動をもって分かるのとは違うと言っています。要するに、感動をもって分かるのではなかった前回の理解は、考える糧に過ぎなくて、証しにも理解にもなっていなかったということです。
 
>その一つの例をあげると、パウロの手紙です。
>パウロの手紙は、まとまった何かの論文や教えの本ではなく、
>当時の教会の具体的な問題に対して書かれたものです。
>しかし、そこには単なる手紙以上に
>深い霊的な真理や体験的なあかしがちりばめられています。
 
それを、誰か特別な個人が、牧師であったとしても、断定的に理解できるわけではありません。
 
>今、わたしたちは神のいのちというテーマを追っています。
>神のいのちがどのようなものであるかについて、
>パウロの手紙にはあちこちにそのあかしを通して見ることができます。
>その一つを紹介しましょう。
>パウロは自分たちがマケドニアに着いた時の大変な状態を語っています。
>こんな言い方をしています。
 
証しは証拠と言う意味のようですが、彼、シャローム氏のような、超常信仰者は、人間の情感や思慮に無関心で、人間としての情感と共感に溢れる魂の奇跡を求めず、奇跡が起こることのみに執着します。彼らの話は、超常話として、権威をもって訂正不能に語られますが、共感がないことは、説得力がないことを意味しています。
 
それでも、聖書語をちりばめると、なんだかもっともらしく聞こえるものだから、先生が教えるのだからと、鵜呑みにしてしまう傾向が信徒にはあります。分からないと言える共感に至るまで、私などは、牧師を質問攻めにしたらいい、とか、乱暴に思ってしまいます。そうしたときの、彼、シャローム氏の言い訳がましい話は、信仰の話としては、聞けたものではなかったからです。
 
>「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。
>外には戦い、内には恐れがありました」
>ところが、一方では、このように言っています。
>「わたしは慰めに満たされており、
>どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」
 
>この手紙は西暦57年頃に
>開拓後約6年くらいと言われているコリントの教会に宛てて書かれたものです。
>厳しい周囲の状況の中で苦しい思いをしながら、
>同時に喜びに満ちあふれていると言っていますが、
>これはただ、きれいごとを言っているのでしょうか。
>この手紙をよく読んでみると、そうではなく、
>パウロはきわめて正直にありのままを書いていることがよく分かります。
>苦難の中での、その喜びこそ、まさに神のいのちです。
>ただし、その喜びは単なる霊的な心の喜びではありませんでした。
>それは極めて、現実的な喜びでした。
 
綺麗ごとを言うのは、彼、シャローム氏のような、自分信仰の偽牧師がすることです。暴かれると、他の人々にばれないように、コメントもコメント欄も削除してしまうのです。そういう牧師に出会ってしまうことは、信仰を求める者にとって不運としか言いようがないです。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
7:5
さて、マケドニヤに着いたとき、わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。
7:6
しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。
7:7
ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けたその慰めをもって、慰めて下さった。すなわち、あなたがたがわたしを慕っていること、嘆いていること、またわたしに対して熱心であることを知らせてくれたので、わたしの喜びはいよいよ増し加わったのである。
7:8
そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、
7:9
今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。
7:10
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
7:11
見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。
7:12
だから、わたしがあなたがたに書きおくったのは、不義をした人のためでも、不義を受けた人のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱情が、神の前にあなたがたの間で明らかになるためである。
7:13
こういうわけで、わたしたちは慰められたのである。これらの慰めの上にテトスの喜びが加わって、わたしたちはなおいっそう喜んだ。彼があなたがた一同によって安心させられたからである。 7
 (2コリント7:5―13、新約聖書)
 
パウロは、苦難を苦難として書いています。そして、それが慰められたことを具体的に書いて、喜びを表しています。一方、今まで、彼、シャローム氏の文章は、まるで、下手な演出のように、喜びであるために苦難であることが前提なので、苦難の多くを隠して、ぼかして書き、終わりはいつも、信仰があればこうなるとばかり、深みのないハッピーエンドの美辞麗句の讃美にしてしまうのです。
 
最初から、幸福が前提となっていると分かる、例えば、水戸黄門のようなワンパターンを何よりも好んで描くのです。だから、当然、信仰の現実においては、書けないことがいっぱいあります。そこを、書くことをしなかったことのために、彼は、救いでも平安でもなく、偽善と隠蔽による捏造された平安に堕ちてきたのです。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
4:8
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9
迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
 (2コリント4:7―11、新約聖書)
 
土の器というのも、人間を比喩した言葉で、深い意味があるのだろうけれど、それは、これからも求めてゆく問題だろうと思っています。求める姿勢を語ることが大切なのに、すでに獲得した話をしたがるのが、彼、シャローム氏です。だから、求め方を間違っていることにも気づかず、何を語っても、与えられた土の器とは、かけ離れたものになってゆくのです。
 
彼、シャローム氏の土の器は、とうに割れてしまっていると思います。何故なら、信仰者の歩みとっして不可欠な、反省をせず、双方向の遣り取りも捨て、非を認める器を壊し、罪を認める器を壊して、悔い改めなくても救われると繰り返して、ますます離れてしまっているからです。
 
彼の砕け散った土の器は、平安、平安と、念じながら、散らばった欠片だけが、ぴくぴくと痙攣しながら元の器の形骸を幻に見て、追いかけては、拾って、取り憑かれたように、ジグソーパズルのように言葉面の欠片を並べているのです。まるで、自分の罪など気にしなくても、正解の完成形があるかのように。
 
絶えず死に渡されている、という聖句も、彼、シャローム氏は、実感がないのに、十字架で自分も死んだから罪はない、という妄想と同様に、極めて気安く書いてしまうことになります。キリスト信仰の大事なものが、どんどん去ってゆくというのに、なぜか、彼自身だけが気づかないのです。そして、聖句を並べては、悦に入り、聖句フェチとして自己満足してしまうのでしょう。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:12
こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
4:13
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
4:14
それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
4:15
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
 (2コリント4:12―18、新約聖書)
 
18節の、見えないものに目を注ぐ、とは、逆説的な表現ですが、彼、シャローム氏のような人は、こういう表現さえも、ろくに理解しないで、勢いよく、そのまま、言ってしまうのでしょうね。前に、同じパウロの、弱さを誇る、という聖句と同じように、彼は、自分は弱さを誇るのです、見えないものに目を注ぐのです、などと信仰について、うれしそうに、自分の持ち物を誇るように、見えない隠蔽工作を施すように。
 
迫害の時代のキリスト者が受けた艱難は、軽くはなかったでしょう。しかし、艱難は働いて、永遠の重い栄光を得させることがある、と書いてあります。艱難を試練として受け取れば、その苦悩が恵みに変わることもあるということでしょうが、迫害の時代でもないのに、苦悩など何にも負わないで、罪も気にせず、救われたことばかり、有難がって讃美している彼、シャローム氏のような人は、どうなるのでしょう。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
4:19
しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。
4:20
神の国は言葉ではなく、力である。
4:21
あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか、それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか。
 (1コリント4:19―20、新約聖書)
 
彼、シャローム氏は、高ぶりながら、信仰のつもりの言葉を声高に語るのですが、信仰の力を見せたことがありません。恐らく、信仰の愛と柔和の心なんて知っているとは思えないし、今まで施したこともないと思います。それだけでなく、彼は、信仰の愛と柔和を捨ててきたのだと思います。それに代わる形骸だけをそろえて、愛と柔和のつもりになるから、こうなっているのでしょう。
 
彼が信仰と呼んでいるものは、無罪妄想にしても、悔い改めをしないことについても、信仰と考えると矛盾することばかりで出来ています。それらが前提となっているのです。愛と柔和に見せかけた丁寧語と聖書語のちり紙をねじり、まわし、こすり、やぶりながら、彼は、誰とも意見の遣り取りをせずに、彼にとって苦い意見に対しては、安い力で、気安い力で、無視の虫の力と、無恥の鞭の力で、ただちに排除してきたのです。いずれ、いつか、神の裁きの力が及んで、山を動かすときまで、そうするのでしょう・・。
 
言葉面にこだわる者は、神が、あれ、と言えば、ある、というように、天地創造したのは神の言葉だと言い、また、ここでは、神の国は言葉ではなく、力である、と書いてあるので、救いは力だ、と強調したいのでしょうか。何にも分かっていないということでしょう。超常信仰者たちは、御言葉だからと、言葉面にこだわって、何か特別の秘義や奥義が分かっているかのように、大仰に、聖書の言葉を振り回して、納得しているふりをして見せるのです。
 
誤解してほしくないのは、私は分かっているという意味ではないのです。せいぜい、神の言葉は天地を創造するほどの力であり、神の力は聖書の御言葉になるくらいの言葉であるのだろう、といったところでしょうか。神の言葉である聖書の言葉を、人間はそれほど理解してはいないという自覚が私にはあります。だから、信仰は境地ではなく、信仰は道であり、現在進行形であり、つまり、信仰者の進む姿を神に見てもらうことであります。
 
だからこそ、キリストの言葉は、人々が目の前にいたころも、この地上にいない今も、説得力があるのです。奇跡であってもなくても、こういう人が二千年前にいて、今も見ておられるなら、パリサイ人の偽善を暴き、信仰など分かっていなくても謙る心を持っている人を赦す御方を、私は、甚だ不十分だけれど目一杯、唯一の希望として仰いでゆきたいのです。
 
 
(2017年04月24日)
(2017年04月25日、一部修正)
 
あかし(証し、証)
大仰(おおぎょう)
暴く(あばく)
謙る(へりくだる、遜る)
痙攣(けいれん)
形骸(けいがい)
甚だ(はなはだ)
 
 
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  繰り言信仰
 
 
投げかけた問いと疑問と批判に一切答えることはなく、また、答えとなるような言説の展開もなく、前に言ったことと同じことを平気で言ってくる、神の言葉だから・・と。このような、信仰を、繰り言信仰と呼んでおきます。
 
繰り言信仰と言ったのは、単に、同じことを何度も言ってくるから、ということではありません。私たちは、本となっている聖書から学んでいるのだから、全く同じでなくても、同じようなことを自分の言葉で言う、ということは、珍しくはないのです。しかし、私たちが、少なくとも人間の心と、キリスト者の謙遜を持っているならば、同じことを言うときに、ふと思いがよぎると言うか、自分の心を切るような嘆息を感じます、ふっ、同じこと言ってる・・と。
 
その息のない、その息を感じない者たちの信仰を、繰り言信仰と呼ぶのです。些細なことのように思われるかもしれないし、現象の振幅は実際小さいけれど、そこに、信仰者の恥じらいと不全の自覚、という、信仰告白が、滴となって表れているのです。繰り言信仰者には、それがないのです。
 
繰り言を自覚するとき、私たちは、神の前に小さい自分を感じて恥じ入るのですが、繰り言信仰という自分信仰は、いつものように言うべきことを言ったとばかり満足さえするでしょう。繰り言信仰者の根底に、我は神(の代弁者)なり、という思い上がりがあるから、繰り返しても、恵んでやった根性にしかならないのです。
 
繰り言信仰は、繰り言をする信仰ではなく、繰り言の自覚のない信仰です。
 
広く自分信仰者に共通してみられる特徴として、目覚めを強調する、ということがあります。それは、何か大切なことを覚え、目が覚めたようになること、つまり、気づきです。しかし申し上げますが、自分信仰者には目覚めはありません。彼らの特徴は、既成、既得、完成、完全であることだからです。彼らは、既に完成しているという自覚しかなく、それを強調することしか頭になく、新たな気づきと目覚めは、その自分信仰の始めに否定されているからです。このことは、まさに、キリスト信仰の有無の無を表すと言っても過言ではありません。
 
超常信仰や無罪信仰などの自分信仰を批判するときに、無反省、という言葉を書きました。反省は、思慮による自らの思いを批判することで、情感を伴います。それが出来ない者は、情感と思慮を失ってゆく者です。ゆえに、今まで書いてきたところの、無反省無遠慮、不感不応、と言うのは、同根であります。
 
なぜ、批判されて、弁明を返せなかった信仰観なのに、ただ、しつこく、似たような他者の記事や、別の聖句などを利用して、載せてくるのでしょう。ふつうは、恥ずかしくて、二度と出せないはずです。その繰り言が出来るのは、恥ずかしいところを改めるという普段の営みがないからです。自分の主張に都合の良いことを加えてゆくことだけが営みとなっているからです。
 
シャローム氏の無罪信仰は、仮に、総ての人が救われたら、総ての人が、何を仕出かしても有罪を認めない人になってしまうという言説です。小学生でも分かるような、あり得ないし、あってはならない信仰成就の地獄の世界なのです。しかし、今現在も、非を認めない、罪を認めない、都合の悪い事実を平気で隠す、これだけやりながら同時に、神を讃え、人間に分かるはずのないキリストが言うところの永遠の命を、やたら、ありがたがるのです。
 
むしろ、そういう彼の有り様は、白々しさを知っているだけに、いかにブログ上で神を讃美しても、何度繰り返されても、とても、惨めで、哀れにしか見えません。言い換えると、そこまで、いじけた言い張りをする姿は、偽善者に見えることはあっても、救われた人の姿には全く見えないのです。しかし、彼は讃美し、救われたことを感謝する毎日のようです。
 
ひょっとしたら、シャローム氏は、ふつうの良識を持つ人間が、直感と道理によって学んできたはずの、善悪の判断をしなくなったのではないか。それで、最近の記事にはアダムとエバが善悪を知る木の実を食べて神を裏切った創世期の話が多いのだろうか。創世記をそのまま今の生活に当てはめる人も珍しい、というか、もしそうなら、大きな勘違いであって、呆れるばかりだ。
 
神が信仰を与えたのは、善悪の判断を全くしないようにするためだろうか、断じて、否である。聖書の人々も、キリスト者も、時々の判断をせずには、この地上を生きられないからだ。判断というのは、この地上に生まれて、経験する中で、生けることと同値と言ってもよいだろう。そしてその判断の大部分は善悪の判断を伴っているのである。
 
子供に同じことをやれと言っても出来ないような、善悪の判断の放棄だが、シャローム氏本人は、しているつもりなのだろうか。彼のような、元々感じることも考えることも好きでないような人が、できるはずのないことをするときには、必然的に、欺瞞と自己満足にしかならないのは目に見えている。つまり、信仰からでは決してなく、めんどくさいことをしたくないための、超のつく短絡である。
 
しかも、自分で考えることをやめて、選択をしないならば、大方、発言だけでなく、行為が破綻を来たすはずだ。それでも言い張りそうだな・・とか思うが、彼の場合、これも超の付く無視の力を、彼の体質と信仰から持っているわけだから、それを、今までのように、また、これこそ、神の意志だ、いつも感謝し、絶えず讃美する、とか言い張るのだろう。どんなに恐ろしい結果を招くだろうか、計り知れない。
 
彼は、人間の読み書きそして感性と思考という不全の能力が、それでも、努めて伝えようとする言葉の世界で、とうとう、人間不要の神の国の住人に成りきろうとしているのか。その名は不思議すぎるブログで、それこそ、神の世界へでもブログを書いているのだろうか。ここは、地上なのだが。
 
地上は、人間が住んでいるところで、人間が活動しているところであり、地上にいる限り、神が何を受け取り何を与えるか人には分からないところなのだが、彼は、善悪の判断を自分はしていないから、アダムのようにはならず、いつも正しい神の判断になる、とでも言うのだろうか。
 
善悪の判断をやめれば、自動的に神の判断になるわけではないのに、神の判断を自分の良いように決めつけている。人の信仰としては、呆れた大嘘である。判断しないつもりでも、生きている限り、判断している、という現実が分からないのだろうか。判断しないために考えないならば、判断が、より原始的な快楽原則になるだけである。
 
シャローム氏は、判断をしなくなったゆえに、今は神の言葉と聖霊の導きによって生きていますと言うのだろうか。自分という人間の言葉を交わりへ向けても、自分信仰のために通じなくなった心と頭と言葉で、どうして神の言葉を読み書きできるというのだろう。
 
そのような信仰活動は、活動ではなく、まとまらない慢性混乱状態になり、パニックにも似て、緘黙になれないだろうから、古いつながりの記憶だけが反復されて貼り付けられているような、本人だけが言い得たつもりになるような、単語ごとの表層の意味だけの、文脈を持たない無意味な、比喩的には一種のジャーゴンみたいな世界になるだろう。そういえば、最近、彼の文章には、文脈がないか、極めて乏しい、自分で自分の書いた文脈を把握していないような、へらへら笑いながら書いているような、命の劣化、とでも言いたくなるような傾向が感じられてならない。
 
 

 
緘黙(かんもく)とは、原因によらず、明瞭な言語反応が欠如した状態を指す。
(ウィキペディより)
 
ジャーゴン
失語症者に見られる症状。話していることが支離滅裂で、意味不明な状態。
隠語
(ウィキペディアより)
 
ジャーゴン(jargon)
仲間うちにだけ通じる特殊用語。専門用語。職業用語。転じて、わけのわからない、ちんぷんかんぷんな言葉。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%B3-524388
(コトバンク > デジタル大辞泉 > ジャーゴンとは、より)
 
ジャーゴン(ジャルゴン)
 音の誤りがあまりにも多く、目標語が推定できない
例)「かぼちゃ」と言おうとしたが、「かなめふ」になった
 ・新造語が続いて発話の内容が推定できない場合を音韻性ジャーゴン(新造語ジャーゴン)という
 例)「かなめふが ひるかのに ぎくろまいたよ」
・語性錯語が続いて発話の内容が推定できない場合を意味性ジャーゴンという
 例)「鉛筆が本に泳いでたよ」 
     (これは、必ずしも、おかしいとは言えない場合がありそう ← 私の意見)
・音の羅列としか表現できない場合を未分化ジャーゴンという
 例)「はごくとられねどなうけむさえばこふると」
(これは失語症についてのサイトです)
http://ststudy.web.fc2.com/situgoyougo.html
 
 
(2017年04月23日、同日一部修正)
 
繰り言(くりごと、繰言)
滴(しずく、雫)
欺瞞(ぎまん)
緘黙(かんもく)
 
 
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  神に近づきたがる者たち
 
 神の家族計画
 2017/4/21(金) 午前 9:45
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28049740.html
 
 
命について、転載元は、どうしても、神に近づく話にしたいようです。
 
>今日わたしたちは、人工知能が著しく進歩、発展してきた時代に生きています。
>ロボットが人に代わっていろいろなことをやってくれる時代となってきました。
>将棋電王戦と言われ、将棋の世界でも、
>人間とコンピューターが対決してどうだったかという話も話題になっています。
>これはこれで素晴らしいことだと思います。
 
AIの話をして、これはこれで素晴らしい、と言っています。どういう感想でしょう。性能が優れていることは素晴らしいということでしょうか。どうせ人間とは違うから、人間に代わることは出来ない、と安心しているのでしょうか。
 
>けれども、人間が高度のコンピューター技術を駆使してロボットを作っても、
>出来ないことが一つだけあります。
>当たり前のことですが、ロボットにいのちを入れることは出来ません。
>ガソリン燃料も持たず、電源装置もないのに、
>目的地を目指して何千キロもの距離を飛び続ける渡り鳥と、
>高速で空を飛ぶジェット旅客機と比較すると、
>その大きな違いはいのちがあるかないかです。
 
大きな違いである命とは、何なのでしょう。私には分かりません。しかし、自分は分かっている、と言いたい者たちのうち、おもに宗教関係の人は、分かったつもりになっているようです。ここにも、分からないと言えない、自分の知らないことについて遠慮する態度を持たない、という災いがあります。私は前に、中身を見ない限り、人間なのかAIなのかが分からなくなるときは来るだろう、という記事を書きました。命は目に見えないのです。ですから、命無きAIが、命のように、命ある人間とそっくりに、応対して、区別がつかなくなる可能性を書いたことがあります。
 
命と言うだけで、自分は神と同じ聖域に既にいて、モノではないことが自明であるかのように思い込んでいる高慢が、キリスト教の信徒の中には多いだろうと思います。このような思い込みは、危機意識の欠如を招くでしょう。AIを生み出している科学でさえ、危惧していることなのに、仕組みを知らないから、前提のように、心配ないと言い切ってしまうのでしょう。これから先、そういう人たちは、比較せよ、と言われて、いったい何を比較するのか分かっているのでしょうか。機械としての中身が秘されている場合には、比較する技術も、人だけでは、足りなくなるでしょう。
 
>鳥たちは、その空を飛ぶ姿、水の中を泳ぐ姿、美しい羽根などで、
>自分に与えられている鳥のいのちがどういうものであるかを見せています。
 
鳥の命のうち、どういうものであるか分かるところだけが、人に見えているに過ぎません。
 
>今もう、あちこちに咲き始めている梅の花も、寒い冷たい空気の中で、
>葉も緑もない木にいきなり、赤や白の花びらを見せてきています。
>梅の木のいのちがどういうものであるかを見せています。
 
木の命のうち、どういうものであるか分かるところだけが、人に見えているに過ぎません。
 
神の全能を恐れない者は、人以外の動植物の命ならば当然のように、分かっているつもりで、人には及ばないからと、高をくくって、恐れないでいるのでしょう。ときどき、その思い上がりは、自然の成り行きによって叩かれているようですが。
 
>同じように、イエス・キリストの33年の人生、その生きざま、死にざま、
>それは神のいのちとはどういうものであるかを見せています。
>そして、主なる神の御計画があります。

>それは、キリストの生きておられたそのいのちをもらって生きる人たちが起こされ、
>その人たちを通して、神のいのちがどういうものであるかを見せることです。
 
私たちを通して、伝えるべきは、人に及んで、人に共感可能になったところの、神の愛についてであります。神の命そのものがどういうものであるか、ではありません。実に言葉がゆるい。神の命が説明できるし理解できると誤解されやすく、神と人をはっきり区別する気のない無節操な文章だと思います。
 
>イエス・キリストは神の子と言われましたが、この御子キリストを信じて、
>新しいいのちを生きる人たちのことも神の子と呼ばれます。
 
天上の神が、地の民である私たち人間のことを、子供のように思ってくださるからと言って、転載元が、信仰者を神の子と呼ばれる、と言うことが、自分信仰の傾向のある者たちの身の程知らずの欲望を掻き立てて、大きな弊害をもたらしています。神の人に対する愛について言われたことを、人の位格にしてはいけません。
 
このような書き方をするから、神になりたがったり、彼、シャローム氏のように、神の代行者や代弁者気取りになったり、何をしても悔い改めないまま赦されるなどと、思い上がって言い張る信仰者が出てきてしまうのです。
 
>神はご自身と同じいのちを持つ、そのような子どもたちを求めておられるのです。
 
神が、この地上を探して、自分と同じ命を持つ者を探している、と受け取られそうな、この文を是とすることは出来ません。なぜ、今、人の、特に聖職者たちの信仰が、こんなにも無警戒に、締まりのない言い分に流れているのか、理解に苦しみます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
1:9
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
 (ヨハネ書1:8―14、新約聖書)
 
>神によって生まれた人に、神のいのちがあります。
>その人たちは神の子と呼ばれますが、
>主なる神はこのような神の家族をもつことを計画しておられます。
 
また、ゆるく美味しい文言で結んでいます。信仰者に神の命があると言っています。信仰者には神からの導きがある、ということと同義なのに、なぜか、神に近づけようとするのです。そして、神の家族になると言っています。神の家族は、神の民と同義であるのに、なぜか、このように、神に近づいてゆく方向で言葉を選んで、神の子、神の家族なんです、いいでしょう、とばかり、伝道と言うより、宣伝に傾いた言葉選びで、言葉を繰り出すのです。
 
神と人との、決定的な区別をしないで、ぼやけたような言い方で、神に近づける、という印象を植え付けたいのでしょうか。植え付けられた人々が、お返しに、自分信仰をたくさん実らせてくれることでしょう。
 
 
(2017年04月22日)
 
 
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  愚痴る牧師たち
 
 愚痴るのは罪 (2011.4.4)
 2017/4/19(水) 午前 11:30
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28046916.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2011-04-04 愚痴(ぐち)るのは罪
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20110404
 
 
今回の記事は、牧師が、本人の前では言えないような愚痴
 

同じ愚痴話を長々と聞かされると、これも伝道者のつとめとおもいながら気は滅入る。話の始めから終わりまでからだの不調を嘆く方がいる。お聞きして、さぞつらいだろうとおもうが、慰めるすきもなく話しつづける。「愚痴」は「言っても仕方のないことをくどくどと嘆くこと」(広辞苑)だが、「ことわざ大辞典」(小学館)には「愚痴は女の常」「年寄りの愚痴」とあり、老女に愚痴が多い。

 
こんなこと記事に書いて大丈夫なのでしょうか。老女に多く、くどくどと嘆く、とか。
 
>人間だれしも「あのとき、こうしておけば、
>こうならなかったものを」というくやしさがある。
>小野田少尉はくやしい過去の「あのとき」をふりかえらない。
>つまり愚痴は自分のおへそを見て神を見上げないからだ。
>いや、神を見上げても、なお自分中心に見上げている。
>それは「どうして神さまは、わたしをこんな目にあわせられるのか」と、
><神は冷たい>という見上げかただ。
>そうではなく、「どうして神さまは、こんなに恵んでくださるるのか」と、
><神は愛だ>という見上げかたがある。
 
神に対して、こんな目に合わせた、と言わずに、こんなに恵んでくださる、と思いなさい、と言っています。こういう信仰の特徴として、神に、よいことだけを言い、立派な姿だけ見せるように、という説教になります。つまり、神には、いい子の自分だけを見せるように、という教えになるのです。
 
この牧師は、神を誉める話だけを聞きたいのです。何故かと言うと、この人が、いつも、自分の本音を隠して、神を讃美する、または、良い話ばかりをしているからでしょう。この姿勢は、彼、シャローム氏、と同じです。神は愛だ、から、人は神の愛の話をするべきだ、に変質してゆく信仰です。ここから、本音を隠し、社交のような美味しい話しか出来なくなっているのでしょう。
 
そして、その態度は、因習として、快楽原則に忠実になり、快い話を褒め、不快な話を、この記事のように、嫌悪する、という体質となり、牧師の機嫌次第で判断して、悪いことは隠蔽するという権威主義が生まれる素地となる、ということです。
 
本当に伝えたいこと、つまり、キリストの愛は、苦悩を通してしか語り得ないことを、逆に、この反面教師が浮き彫りにしています。言っても仕方ないこと、つまり、愚痴を言っているのは、誰でしょう。
 
愚痴を言った本人に、その時その場で、それは愚痴だ、と言ったのでしょうか。直接言えないものだから、憂さ晴らしに、信仰の話に仕立てて、ここで悪口を言っているような気がします。ブログの私物化という点でも、彼、シャローム氏に、そっくりです。
 
 (出エジプト記、口語訳)
16:1
イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、
16:2
その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。
16:3
イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。
16:4
そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。
16:5
六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。
 (出エジプト16:1―5、旧約聖書)
 
キリストの父なる神は、民が、死んでおればよかった、と言っても、救いをやめることをしない神であります。
 
にもかかわらず、一人の牧師が、愚痴を聞くと気が滅入るからと、おのれの道徳観で、神の前で、正直な嘆きを抑制して、よいことだけを言いなさい、と言う。これは、ファッショの政権下で見られた言論統制と同根と言うべきではないか。
 
>国立ハンセン病療養所にいる、わたしの信仰の友、
>いや先生の「いそちゃん」から、この数十年愚痴を聞いたことが一度もない。
>彼女は指が曲がり、足はいざっている。目も、口も不自由なのに愚痴はいわない。
>不自由な目でイエスさまを見ているからだ。「参ったなあ」とおもう。
>そこには感謝と喜びと信仰の証しがある。
 
ここで、愚痴を言わない人を例に出して、感謝と喜びと信仰の証しがあり、愚痴は一度も言わない、と、よいお手本として書いている。どんなときにも、神様万歳、と言えというのだろうか。そのような不正直の世辞を神が喜ぶと思っているのだろうか。結局、自分に向かって愚痴を言うな、自分をいい気分にさせろ、と言っているようなものではないか。
 
さすが、問題山積で、ボロクソの、彼、シャローム氏の転載記事だけあって、同じように問題だらけの記事を載せてくるものだ。やはり、彼、シャローム氏は、民主主義者ではなく、文句を言わずに黙って従え、をモットーとする、権威主義者だということが、よく分かる。
 
>愚痴はその逆だ。「いやだなあ」とおもう。
>愚痴るのは罪だ。神の恵みを自分で消す罪だ。
>そうはいっても愚痴ぐせのついた人は、一生愚痴は直るまい。
>しかしその者をも主は救われる。
>ただ周りに「またか」とへきえきされていることはたしかだ。
 
駄目押しのように、愚痴は嫌だ、一生直るまい、主は救われるが、またか、と、言っているのは筆者であり、辟易としている、と言うが、その愚痴に適切に対応できないで、うんざりするだけの自分の不備と無能については、一切言及しない。これは、自己中心の特徴である。
 
こういう人とは、信仰の恵みや糧を共有することは出来ないだろう。せいぜい、彼、シャローム氏のような人が、すり寄って、ほんとに嫌ですよねぇ、と気に入られようとするだけだろう。本人に隠れて書いたのなら、隠し事をする、というところも、二人は似ていることになる。ブログをストレス解消と悪口の場にしている人々・・。こういう牧師には会いたくないものだ。
 
>「不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、
>愚痴を言う者は誰か」(箴言23・29)
 
神ではなく、人が、短い聖句を引用するだけで、不幸と言うな、嘆くな、いさかいを起こすな、愚痴を言うな、と言うだけなら、解説にも説教にもなっていません。お前こそ何も言うな、と言いたくなります。
 
 (箴言、口語訳)
23:29
災ある者はだれか、憂いある者はだれか、
争いをする者はだれか、煩いある者はだれか、
ゆえなく傷をうける者はだれか、
赤い目をしている者はだれか。
23:30
酒に夜をふかす者、
行って、混ぜ合わせた酒を味わう者である。
 (箴言23:29-30、旧約聖書)
 
それは、彼、シャローム氏のことです。批判を無視することで、ますます、事態が悪化するのに、なすところもなく、当てつけのために、聖句を引用しているようです。
 
それに、30節を見ると、この聖句は、この記事のテーマに合っているのかという疑問も抱きます。言いたいことと似ているなら何でもいいのでしょうか。これも、心ではなく、言葉面だけを漁る、彼、シャローム氏に、そっくりです。
 
 (箴言、口語訳)
23:33
あなたの目は怪しいものを見、
あなたの心は偽りを言う。
 ・・・
23:35
あなたは言う、
「人がわたしを撃ったが、わたしは痛くはなかった。
わたしを、たたいたが、わたしは何も覚えはない。
いつわたしはさめるのか、
また酒を求めよう」と。
 (箴言23:33,35、旧約聖書)
 
まさに、彼、シャローム氏は、怪しい信仰の幻を見ながら、偽りを言っています。刺激をすべて削除しブロックして、痛くない、何も覚えはない、早くこの災いから覚めたいと、またしても、自分に都合の良さそうな信仰の美辞麗句を漁っては、集めて載せてくるのです。どこまで、汚い馬脚を露す必然の道を進んで、自ら悪性を、わざわざ人々の見ているところで、高く持ち上げて見せるのでしょう。
 
現実逃避、自己満足の陶酔、無視と無反省、自分信仰の無罪信仰で、自分の罪にだけは恐ろしく不感不応のシャローム氏とその同類の、人の言ったことを受け止めるのが嫌になっている、という個人的な愚痴いっぱいの公開記事です。
 
 
(2017年04月21日、同日一部修正)
 
馬脚を露す(ばきゃくをあらわす)
漁る(あさる)
 
 
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