ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年05月

 
  誇大的自我
 
 その名は不思議
 先のものは後に、後のものは先に。
 2017/5/30(火) 午前 8:32
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28106848.html
 
 
彼は、政治経済社会の記事に、聖書の記事を合体させることで、どこでも通用するように学問と神の御言葉を一つにして語れるようになる、と思っているようです。しかしながら、聖書は、魂の救いを語っており、神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、という聖句もあるように、キリストは政治への道を歩まなかった、ということを、自らの傲慢のために気にもしない者によって、ここでも、キリスト信仰は、無節操に、けがされています。まことに、シャローム氏は、自身の誇大妄想によって、キリストを政治の神にして、自らは大政治家になりたいのでしょうか。身の程知らずの慮外者は、ここまで来ました。症状として見てください。
 
興味深い政治の記事の長い引用のあとで、こんな話を始めます。
 
>世界はノアの洪水とバベルの塔の崩壊という
>ダブルパンチに直面しているようです。
>間違いなく人間の発想と手のわざによる無限の欲望の充足のレールは
>先細りし、消えつつある。
>それでも強権政治による一国主義によって欲望充足を追求し続けるなら、
>消えたレールの先に待ち受ける世界は想像を超えたカオスと終焉を迎えるだろう。
>人間の欲望追及の手段には政治という必要悪である権力機構は不可欠。
>その権力が人間の欲望充足の手段である限り、政治権力は必ず腐敗する。
>人間一人一人の無限の欲望充足による生活の豊かさを追求するエネルギーは
>政治権力の欲望充足追及となり、必ず腐敗し、
>世界はノアの時代、バベルの塔の時代へ向かう。
 
欲望が無制限になり、混乱して、腐敗し、それを、ノアの時代、バベルの時代に、喩えたいようです。書いてあることは、高校生にも、そうですね、それはずっと前から言われてきたことで、似たような話を何度も聞いたことがありますが、それが何か?、と言われそうな話。彼シャローム氏は、これで、何か、政治的には卓見、宗教的には預言でも書いたつもりでしょうか。
 
>壊れた消えゆく既存のレールを修復するのではなく、
>新しいレールを引き直すべきなのか、
>どちらの方向に進むべきなのかを考える個人であり、
>問うべき政治であることが急務である。
 
誰でも、言いそうな話ですが、急務と言うわりに、具体性がありません。
 
>欲望充足による生活の豊かさ追及には資源と手段、
>政治というレールが必要不可欠だ。
>しかし、ひとりの人間が生きる豊かさを追求するならレールは無限にある。
>確かにそのレールはこれまでのNO1、第一主義という偽りの前向きのレールではなく、
>見えないひとりひとりの心のありようであり、生き方の豊かさを追求する、
>Only Oneという後ろ向きレールに思われ、発想の転換はむずかしい。
 
個人の信仰の話をしたいのでしょうか、政治の話をしたいのでしょうか。
 
>果てしない欲望追及の道は必ず人間の心を支配する政治権力への道である。
>いま世界はその道へと雪崩を打つように突き進んでいる。
>ノアの洪水、バベルの塔の崩壊、次にどのような末路が待っているのかだろうか。
 
ごちゃごちゃですね。内容は、誰でも考えそうなこと。しかし、誰でも、それだけでは意味がないと分かるから、言うことに遠慮のあること。預言者気取りの身の程知らずが、以前から、書いている、自分と同じ信仰を持つことが解決策だ、という自説。その上での、末路が待っているぞ、という脅迫です。哀しいほど、新しいインパクトも、説得力も、人間を動かす力も、まるで持たない大言壮語。
 

「経済成長」至上主義から抜け出せない人たちは、私の主張を「後ろ向き」だと言いますが、歴史の歯車が逆回転した今、これまでの基準で「後ろ向き」の人が「前向き」になるのです。経済も成長を追求することで、後退する「逆説」の時代に突入しています。今まで見たことのない時代がやってくるわけですから、今あるものが「無限」に続くという発想から、転換しなくてはならないのです。」

 
これは、シャローム氏が書いた文章ではなく、前半の政治の記事からの引用です。筆致の違いが分かるでしょう。難しいけれど、経済成長が限界を迎えた今、これまでの大規模な生産と消費ではなく、これまでのやり方からは後ろ向きとも言えそうな地道で堅実なやり方で生存を計ることのほうが大事ではないか、というようなことでしょうか。私も理解とまでは言っていないようです。失礼。
 
彼シャローム氏は、言葉の表面の類似だけを持ってきて、「先の者」「後の者」という聖句にぴったりだと思ったのか、有頂天で聖書の引用をするのですが、全然違うと思います。また言います・・バカじゃないの・・哀しいほど幼稚に短絡した思路。
 

   イエスは彼らに言われた、
「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、
わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族を
さばくであろう。おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、
もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。]
(新約・マタイによる福音書19章28~30節)

 
先のものが後になり、あとのものは先になる、とは、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:31
このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。
イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
 (マタイ21:31、新約聖書)
 
後と先の問題は、この聖句と関係があり、救われる民の先頭に立つ信仰者より、救われると思われていない低められた者たちのほうが、先に神の国に入るだろう、という意味の逆説的な「先の者」「後の者」ではないかと、私は、思っています。これを、すっ飛んで、政治の誇大妄想にしてしまうような、彼シャローム氏は、いったい、後にも先にも、残れるのでしょうか。
 
>世が改まるとは、人が神の栄光の座につく時代が終わり、
>この世界と人間を創造し、
>統べ治めておられる人の見えざるいのちと心の豊かさの根源であられる方を
>人の心の思いと生き方の栄光の座に迎えるときである。
 
で、結局、すっ飛んで終末のことを、彼シャローム氏は書きたいのです。
 
>わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者
>~~を捨てる者とは、すべての人の思い、
>人の方法、手段、人による支えを手離す者は、
>その幾倍も受け、いのちを受け継ぐことが出来ると言われているのです。
 
政治の、経済の、社会の話は、どこへ行ったのでしょう。また、聖句は、信仰のために専心して、世俗的欲求の支配を受けないことを書いていると思うのですが、彼シャローム氏の言うことには、信仰のためには人の助けを借りてはいけないそうです。人を無視して侮辱して平気でいるのが彼シャローム氏ですが、それはいいのでしょうか。他の人よりも上、という神の立場へ近づこうとし、その立場でしか物を言わなくなっているようです。自ら人間であることを否定した発言。
 
>しかし、消えゆく欲望追及のレール、道を歩む多くの先のものは後になり、
>見えざるこの世界と人間を創造し、統べ治めておられる人のいのちと心の豊かさの
>根源であられる方を人の心の思いと生き方の栄光の座に迎えるあとの者は
>先になるであろう言われたのです。
 
後先を、欲望追求の問題として書き、心の豊かさの根源の神という掴みどころのない話に、ぼかしてしまっています。自分は神を迎えるのだと言いたいようです。人が迎えるのではなく、神の国は、神が御心に適った人々を迎えるところではないのか。いつから、神を迎えるほど、彼シャローム氏は、偉くなったのか。また言います・・バカじゃないの・・
 
これが、彼の聖書理解なのです。こういう迷惑な人がいて、誰よりも大仰な書き方をしてくるのです。今、関わっている人がいたら、この妄想家シャローム氏から、できるだけ早く離れてください。彼は、政治の記事を勝手に巻き込んだ珍解釈もいい加減にしてほしいし、もし何か言いたいなら、批判を許容するか、でなければ、自分の部屋に閉じこもって、誰にも見せずに、壁に向かって豪語しておればよい。
 
おかしなことを言う奇人変人と言われる人も、思い込みの強い人も、それなりに、自分はおかしなことを言っているという自覚がぼんやりとでもあり、その分、言動に小ささや低さが表れるほどの弁えがあれば愛すべき人々です。彼シャローム氏には、それが全くありません。おかしなことを言って、何度も指摘されても、いつも余裕があるかのように高ぶって人を侮っているだけです。
 
教える高みを改めない彼シャローム氏のような迷惑な人が、いちばん信仰と福音を駄目にします。鶏が何度鳴いても気づかない人です。はらわたが流れ出ても気づかない人です。キリスト者として恥ずかしくて見ていられない。今日は、この辺で。失礼。
 
 
(2017年05月31日、同日一部修正)
 
戯言(たわごと、ざれごと)
適う(かなう)
 
 
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  何に寛容?
 
 その名は不思議
 寛容な心‐神のいのちの表れ
 2017/5/28(日) 午前 8:14
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28103911.html
 
 
彼シャローム氏は、例によって、ばたばたと政治の転載記事をかぶせてくるようです。そこに書いてある不正への批判が彼自身の首を絞めることさえ気づかずに。ぼろぼろの信仰の記事を覆い隠すためだけに転載が利用されている感があります。彼が政治の記事を理解できているとは思えません。彼はボロクソ節しか書いてこなかったからです。「嘘と謀略にまみれた官邸政治」「官邸の悪あがきと腐敗臭…」ですか。それらの記事を批判する気はありません。今日も、嘘と謀略にまみれたシャローム氏の悪あがきと腐敗臭を批判します。
 
>辞書によれば、寛容とは、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
>他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とあります。
 
罪や欠点の有害度によっては、野放しでよいはずはありません。
 
>しかし、今の時代、この寛容な心はあまり評価されない傾向があります。
>なぜでしょうか。
>間違いを間違いとせず、そのままになってしまい、
>何が本当なのかがハッキリしなくなると、わたしたちは我慢できません。
 
我慢しなければならないのでしょうか。間違いを間違いと言わないでいいのでしょうか。
 
>もちろん、それは大切な場合もありますが、
>これもアダムが善悪を知る木から取って食べた結果だからでしょうか。
 
大切な場合もあると書きながら、なぜ2行目を書くのでしょう。それは、この人が、やはり何でも寛容が一番良いと言いたいからでしょう。いい加減な作文による詭弁です。
 
>聖書の言葉ではなく、孔子の言葉のようですが、
>「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
>素晴らしい言葉ですが、いくらそのように教えられても、
>実践できるとは限りません。
 
このように、すでに、寛容の実践の話に入っています。自分勝手な人というのは、自分の都合の良いように、話を持ってゆくので、注意が必要です。この人は、間違いを間違いと指摘することを、大切だとは思っていないようです、ということが、流れの中で現れてきます。大嫌いな文章。
 
>寛容な心がなければ難しいことです。
>聖書を見ると、イエスは寛容な心をもっておられたことが分かります。
>罪びと、取税人と言われる人たちと食事を共にし、その寛容な心を示されました。
 
寛容は、決して、何でも、罪でも、偽善でも、反信仰でも、ゆるすことではありません。キリストが、取税人と言われる人たちと交わったのは、寛容不寛容という問題ではなく、彼らを救う意思があったからです。この人は、すり替えをするのが好きなようです。だから、なおさら、理解からは程遠くなるのです。
 
>マルコ2:16
>「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』」(口語訳)

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:16
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
2:17
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マルコ2:16―17、新約聖書)
 
このように、彼らに対する、キリストの救済の意思が、はっきり向けられていることが分かります。
 
>当時の宗教家たちは、そのイエスの寛容な心、御霊の実が見えず、批判しました。
>社会的に見下されている取税人や罪人と言われる人たちと、接触し、
>親しくする人は、その人も同じように見られると思って、
>律法学者たちはその人たちに近づこうとしなかったようです。
>しかし、イエスがその人たちと一緒に食事をして、
>親しい交わりをもっていたのは、その寛容な心からだと言えます。
>取税人のかしらザアカイが今までの生き方を悔い改め、変えられたのは、
>イエスの寛容な心に接したからでした。
 
それ以上に、キリストが彼らを救うためです。取税人は、ローマへの税金を徴収するものとして、軽蔑され、罪人というレッテルを押されて、彼ら自身も、それを弁えていないと生きてゆけなかったからでしょう。
 
>イエスのたとえ話の中で、「放蕩息子」のお話がありますが、
>放蕩の限りを尽くして家に帰ってきた弟息子を大手を広げて迎え入れた、
>その父親の姿は、寛容な心をもっておられる父なる神を表しています。
>一方で、兄息子は、とてもとてもそのような寛容な心をもてませんでした。
>ですから、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。
>寛容な心、それは父なる神のいのちの表れと言えます。
>このような心がほしいと思いますか。
 
この父親は神を喩えているでしょうし、上のキリストといい、ここでの寛容は、信仰の核心に触れるところの、愛、なのです。寛容、寛容、と言い続けることは、不適切です。愛は、寛容であり、というパウロの愛の讃歌にもあります。聖書は、まあ、ゆるしてあげましょう、というような、気安い寛容を説いてはいないのです。
 
寛容を説く記事を引用して、シャローム氏は、不寛容に批判する者を責めたいのでしょう。しかし、上にも書いたように、あからさまなすり替えをしている文章ですから、シャローム氏の文章と同じように、これも、また、詭弁だったか、と気づくことになるわけです。私は、真っ直ぐに批判しているのに、シャロームは、真っ直ぐに答えられないために、人の記事を挙げて、ほのめかすことしか出来ません。このような卑怯なやり方を見るたびに、批判をやめてはいけないことを肝に銘じます。
 
>今、神のいのちの表れについて書かれています。
>見えないけれど実在し、神のかたちに造られた私たちに、また全被造物に対して
>どのようにかかわっておられる方かについて書かれています。
 
つまり、彼シャローム氏と引用元は、気安い寛容が信仰であり神の命の表れだ、と受け取られかねない、ということになります。そう受け取らせて、自分のことをうるさく言っている者、つまり批判者を見くびって、あざ笑っているようです。
 
>神のいのちの表れを八つの聖霊の実と述べられています。
>「 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
> 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。]
>(新約・ガラテヤ5:22~23節)
 
これは、前に書きました。9つ、いずれも、シャローム氏にはないものです。
 
 「愛なき信仰」 2017/5/14(日) 午前 0:03
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19168279.html
 
>すでに愛、喜び、平和について書かれましたが、今日は寛容です。
>だれもが聖霊の実はすばらしい実だと思われるでしょう。
>だから、これらを否定する律法はないと書かれているのですね。
 
言葉面しか書けないシャローム氏は、これらが、別々の言葉だから、別々の意味を持っていて、別々に話すものだと思っているようです。意味を深く考えないという、彼の習性が表れています。大切なものは一つだという言葉もあります。9つ全部、オーバーラップしていて、関連している言葉です。
 
>どんなに素晴らしく、良いことで、必要な実だと理解できても、
>自分にはなかなか無いな、少ないなぁと思われる方が多いのではないでしょうか。
>しかし、心配無用です。自分を裁ないでいいのです。
 
心配無用と書いているシャローム氏は、今、彼だけが知らない執念の地獄にいます。自分を全く見ようとしないからです。このペテン師の口車に乗ってはいけません。彼は、安心を語っているつもりでも、内臓からの臭い汚物を振りまくことになります。自分を全く見ようとしないからです。
 
>精霊の実はすべて神のいのちの表れであって、人の肉のわざ、実ではないからです。
>ガラテヤ5:19節~21節に肉の働きについてメニューが書かれています。
>「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
>偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
>ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、
>今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」
 
この中の、好色と泥酔と宴楽以外は、全部、シャローム氏に当てはまると思います。今まで書いてきましたし、都合の悪いことは削除と隠蔽、相手には侮辱、それで、全部当てはまるでしょう。自分に当てはめることなく、こういうことを平気で書いてくるシャローム氏、今に始まったことではないのです。
 
>聖霊の実より、肉の働きの方が身近な感じがしてしまいますが、どうでしょうか。
>だれでも神が食べてはならない、それを食べると死んでしまいます、と言われた
>善悪を知る木の実を食べると、肉の働きが私たちの心と生き方を支配してしまうのです。
 
シャローム氏には、肉の働きしか見えてきません。聖なる御方をも欺いているからです。そして、肉の働きの原因を、彼は、善悪を知る木の実、という、超常神話に持ってゆくのです。どうでしょう。この責任感と現実感のなさ。
 
彼は、聖書も神も聖霊もキリストも人間も信仰も、どれをとっても、少しも理解していないと思います。彼にとって、神聖は、罪と書いたちり紙を、お団子のように備える場所でしかないのでしょう。笑う偽善者です。そのうち、顎が外れるでしょう。
 
彼がどんなに人を侮り、あざ笑っても、私は笑ってはいない、大方、怒りを集中力に変えて、批判を書いてゆく。
 
>イエスさまの生き方、生涯を見ると、豊かな聖霊の実、
>神のいのちの表れを見ることが出来ます。
>聖霊の実は神の恵みによってイエスさまに対する信仰によって
>与えられる恵みの賜物なのです。
>ですから、イエスさまは「私につながっていなさい。
>そうすれば豊かな実を結ぶことが出来ます。」と言われ、
 
このキリストからの賜物を、自らの欲望のために、無にして、しかも、それを正当化して、人に広めようとしているのが、シャローム氏に他なりません。信仰を解説するのに、豊かな聖霊の実、こういう、一見よさそうなだけの言葉面の飾りを付けて、何が伝わるでしょう。解説できない者が、人々を煙に巻く言い方としか思えません。
 
彼は、実に安易に聖なる言葉をつないだ聖書語で、人々を、信仰に見せかけるペテンに掛けてきたのです。それで、やっていける、と思ってきたのでしょう。聖霊だけだと豊かではないのか、聖霊だけだと実にならないとでも言うのか。知ったかぶりで、余計な意味の強め方でごまかす説教より、分からない共感のほうが、信仰者として相応しいことを覚えてください。いつも分かった風味の詭弁を投げてくる彼は、それが出来ない人なのです。
 
彼はキリストにつながっているとは思えません。彼の罪と偽善と隠し事が証拠です。キリストにつながっている者なら出来ないことをしてきました。彼は、出会った罪と、ことごとく仲良しになってきたのです。弁えのない信仰は、口酸っぱく賛美すればするほど、それに増して酸っぱい腐れものを貪ることになるでしょう。
 
>さらに「私につながっていなければ
>決して実を結ぶことが出来ない。 」と言われたのです。
 
その通り、彼は、繋がりを拒んで、自らの偽善貫徹の道を歩んでいます。
 
>私たちの理性や知性、能力ではわからない、本当に不思議な言葉ですね。
>「不思議」とは読んで字のごとく、思考、思慮、議論ではわからないことです。
>ですから、聖書には神の名を「その名は不思議」と記され、
>ブログのタイトルとしています。
 
理性や知性、能力では分からない者を、気安く分かったかのように今まで語って来たのが、シャローム氏です。今日は、彼の言葉が、彼を断罪しています。思考、思慮、議論ではわからないこと、と言って、一切の思考を停止させ、自分の罪も偽善も考えなくなったのが、シャローム氏です。
 
分からないと言いながら、分からない者に相応しい信仰の態度と姿勢を全く持たないのが、シャローム氏です。不思議と言いながら、神の啓示とばかり、預言者に成り上がって、大仰に語り、不思議を裏切って、神を裏切って、人を裏切ってきたのが、心のない魔性として世にはだかる、シャローム氏です。
 
>私たちは聖霊の実をあらわすことが出来なくても、
>イエスさまにつながり、委ねていると、
>イエスさまご自身が寛容という実もあらわしてくださるのです。
>「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼を張って、のぼることができる。
> 走っても疲れることなく、あるいてもよわることがない。」
> (旧約・イザヤ書40章31節)
 
神に対する誉め言葉の安売りで、信仰だと神が勘違いして、良きに計らってくださると思っているシャローム氏です。讃美の安売りに気をつけてください。以下、同章より
 
 (イザヤ書、口語訳)
40:5
こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
40:6
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
40:7
主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。
40:8
草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
 ・・・
40:17
主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。
40:18
それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。
40:19
偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。
40:20
貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。
40:21
あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
40:22
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、
40:23
また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。
40:24
彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。
40:25
聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。
 (イザヤ40章抜粋、旧約聖書)
 
私たちは、全能の神を恐れるけれども、残念ながら、世をも恐れ、人をも恐れ、人を欺く偽善者をも恐れ、自らをも恐れるゆえに、キリストの救いを求めて、正直に告白し、祈り願うのである。偽善者を退かせてください。
 
>暑い、快晴の日が続いています。
>脱水に気を付けながら、気持ちの良い風を感じながら、
>ここ数日、30kmほどクロスバイクでポタリングを楽しんでいます。
>きのうは娘と連れ合いと買い物を兼ねてドライブをして、
>久しぶりに娘宅で凛ちゃんと息子も加わり
>少しお酒を飲んでダベリングを楽しむことが出来ました。
 
こういう記事に、こういう状況で、こういうことを書いて、恵まれているので心配ないという余裕を見せつけようとするアンバランスを平気で過ごしてしまう近況の安心事が、これまでの流れから言って、しなかった後悔をまとめてするような目に遭うことはないのさ、と、それこそ挑発的に、神に向かって言っているのと同じだ、ということに気づかない人です。イザヤ書の、美味しいところだけ引用して、彼が引用しなかった部分の、ここに私が引用した聖句の、恐るべき神を、あざ笑うかのようです。
 
私たちが、乏しいながら、知っていることとして、神は、神御自身を恐れず侮る者を、決して見逃しはしなかったし、赦しもしなかったということがあります。何を勘違いして、幸福そうに見える刹那の成り行きを、静かな祈りのうちに感謝するにとどめないで、人の言葉にして見せびらかそうとするのでしょう。
 
讃美しておけばよいのだからと安穏として、ここまで神を恐れず、これだけ神を舐めてかかる人も珍しいでしょう。駄弁はしても、まじめな告白はしない、自分に最も寛容なシャローム氏です。記事は、自分を讃えるために書いた、ということが分かります。
 
二千年前、キリストの敵であり、キリストを殺したのは、神の名を権威としていた偽善者たちでした。神の名を讃えながら、あわれみも、悲しみも、理解できず、戒律の文言の形式的理解という言葉面に固執して、偉そうに上から説教を垂れていた者たちでした。
 
そして、現代においても、キリストの言葉を骨抜きにし、とんでもない無罪信仰を広めようとしているのは、やはり、キリストの名で、訂正不能の妄想を信仰として、人を侮りながら、不感不応で、記事を何度も書いてくる偽善者なのです。
 
 
(2017年05月30日)
 
 
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  強欲と厚顔
 
 その名は不思議
 いのちの道と死の道
 2017/5/27(土) 午前 11:39
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28102810.html
 
 死の道といのちの道
 2015/11/24(火) 午前 7:59
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27085856.html
 
 二つの道
 2012/7/23(月) 午後 3:16
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23145068.html
 
 
味も素っ気もない、何やら仕掛けのある謎解きのクイズのような話を、シャローム氏は、好んで書いてきます。そして、解いて見せたつもりで得意がるのですが、ことごとく的外れになってしまいます。
 
>そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
>シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」
> (新約・マタイ16:15~16)
 
>弟子たちがイエスに対して初めて信仰を告白した時の言葉です。
>ところが、ご自分に対する信仰告白を聞かれたその時、
>「そのとき、イエスは、
>自分がキリストであることをだれにも言ってはいけない」と、
>弟子たちを戒められ、更に続けて
>「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、
>長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
>そして三日目によみがえるべきことを、
>弟子たちに示しはじめられた。」と言うのです。
 
弟子たちに、贖いと復活の話が通じないことをキリストはご存知でした。
 
>弟子たちはイエスの言葉に驚きました。
>弟子たちが信じているキリストはイスラエルを
>ローマの支配から解放する救い主でした。
>それが神が約束された救いだと信じていたのです。
>ところがイエスの言葉はそのような弟子たちが信じていることではなく、
>「イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、
>長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、
>殺され、そして三日目によみがえる」と言うのです。
 
弟子たちには、贖いのための十字架の死と復活の話は通じないことを、キリストはご存知でした。
 
>イエスに死なれては弟子たちの信じていることは元も子もないのです。
>イエスが「三日目によみがえる」と言われたことは理解できないばかりか、
>弟子たちの耳にも心にも届かなかったのです。
 
理解できない弟子たちは、また、同時に、キリストの命の心配をしているのです。シャロームのボロクソ節には、その気持ちが耳にも心にも届かなかったようです。
 
この弟子たちは、私たちキリスト者でもあります。耳にも心にも届かなかったと書いて、愚かな弟子たちと言いたげですが、キリストは、この弟子たちを最後まで愛しました。そして、彼らは、訂正可能でしたから、自らを改革し、使徒として成長したのです。
 
彼シャローム氏は、削除と侮辱という罪を犯し隠蔽という偽善を施しながら、今も訂正不能です。感情と理性が信仰の名によって放棄された精神で、揺さぶられることのない者は、また変わる可能性をも自ら否定してきた者です。よって、変わることによる成長など眼中にないということです。それはそのまま、変わる必要がなく、今が完成だという自己満足の世界に埋没してゆく穢土の悪臭と暗色に染まってゆく者なのです。
 
信仰についてのどんな話も、罪の話も、贖いの話も、悔い改めの話も、通じないのが、彼シャローム氏なのです。彼が返すのは、無視と侮辱だけでした。
 
>そこで、「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、
>主よ、とんでもないことです。
>そんなことがあるはずはございません」と言ったのです。
> (新約・マタイによる福音書16章21~22節)
 
これは、師が死ぬと言えば、弟子は驚き心配して、とんでもない、ということくらい言うだろうということでしょう。言ったのです、というほど驚くことではありません。彼シャローム氏は、「言ったのです。」と書いていますが、聖句(口語訳)は「言った。」と書いてあります。他の訳でも「言ったのです。」という強調はしていません。自分の主観を聖句に込めてはいけません。シャローム氏は、慎みも弁えも分からないので、自分の勝手にしているだけです。
 
口語訳1955
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
新共同訳1987
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
新改訳1970
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
http://bbbible.com/bbb/bbbmt16a.html#mt16.21-23
より
 
>イエスに「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と信仰を告白しながら、
>ペテロはイエスの言葉を退け、イエスをいさめて「主よ、とんでもないことです。
>そんなことがあるはずはございません」と言ったのです。
 
キリストの意図を理解していない弟子なら言っても無理はないと思われることを、シャローム氏は、信仰を告白しながら(わかっていない、信じていない)と、書いています。彼シャローム氏は、聖書を読み、キリストについて学んだはずですが、平気で、罪と偽善を隠しています。彼に弟子たちのことをとやかく言う資格はありません。
 
>このペテロの姿に私たちの神に対する私たちの姿を見ることができます。
>それは神を自分の思いや期待に合わせて信じ、自分の都合や納得できなければ、
>「そんなことがあるはずはございません」と言うのです。
 
彼にこれを言う資格はありません。彼は、自分の都合で、キリストも神も利用して、隠し事の罪と偽善を正当化しています。その上でこの記事を書いている彼には、弟子たちどころではない厚顔を感じるだけです。彼はこの白々しさで「わたしは何をしても救われないはずはございません、エッヘッヘ」と笑っているようなものなのですから。
 
>これが神が食べてはならない、それを食べると死ぬでしょうと言われた
>「善悪を知る木の実」を食べたアダムとエバの末裔である私たちの姿です。
 
彼は、罪と偽善をたらふく食べて、何回、死んだのでしょう、いまだに、見当違いの世迷言を信仰話にして書いて見せては、罪の戸口の前で、フラフラしているのです。
 
>そのようなペテロに対してイエスは振り向いて、
>「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。
>あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのです。
 
>その善悪を知る木の実は今も
>「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と
>アダムとエバの末裔である私たちの心を誘うのです。
 
彼にとって、罪と偽善は、食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましい、と感じたのでしょうか。人のことを考えないシャローム氏は、いったい、何の末裔なのでしょう。こういうことを考えるのが嫌になりますが、彼が同じようなことを書いてくるので、返すしかありません。誰かを、彼が彼の善悪を知らなくなる木の実に誘わないように。
 
>イエスは弟子たちをはじめ人々の、否、私たちの期待を知りながらも、
>その期待が失望と怒りに変わってしまうことを知りながらも、
>イエスは十字架の道を歩もうとしておられるのです。
 
>なぜでしょうか?
>私たちの前にはいつもいのちに至る道と死に至る道があります。
>弟子たちはイエスがいのちに至る道を歩まれる方だと信じ、期待していたのです。
>しかし、イエスは死の道を歩むと言われたのです。その道が命に至る道だからです。
>なぜなら、弟子たちがいのちの道だと信じている道は死の道であるからです。
 
彼が誘う道は、人間でなくなる道です。そして、その道が滅びに至る道です。その道を行くと、嘘をつくようになり、隠し事をするようになり、人を侮るようになり、神を侮るようになります。彼の書いたものから、既に実証済みで、実際に今、現れていることです。
 
>私たちの前には今も死の道といのちの道があります。
>私たちにはどの道を選ぶか、選らぶことができます。
>しかし、その結果を選ぶことはできません。
 
選ぶことは出来るのに、結果を選ぶことは出来ないとは、道を選ぶことが結果を選ぶことではないような書き方です。彼は、キリストの十字架に至る道など選ばず、生き意地だけの道を選びます。その結果、彼が滅びるだけでなく、彼に、逆らう者、巻き込まれる者、従う者に対して、いずれも、彼は、滅ぼそうとする道を進んでいます。それだけはやめてくれ、と言いたいことを、彼は、わざとするのです。
 
>ですからイエスは次のように語っておられます。
>それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
>自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
>自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
>わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
>たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
>また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
> (新約・マタイ16:24~27)
 
彼シャローム氏は、彼の十字架を負わず、人のせいにして、キリストに従わず、世俗の名誉欲にしがみついて、自らの欲と立場を救おうとして、人間の心をモノ化して、聖書をモノ化して、心のない自分に善しとして、全世界をもうけたかのように大仰に、神話の超常救い話と無罪信仰を、壊れたレコード盤のように繰り返す堂々巡りを続けています。既に否定され、彼が言い返せなかったことを、繰り言のように、また言うのが信仰だと思い込んでいるからです。その慢心において、彼は、笑う偽善者です。
 
彼は、代価を払えないばかりか、買い戻すことも、売ることも出来ず、代わりに、人を誘って、売り渡すのでしょう。キリストさえ裏切って、罪と偽善を隠して、義を得られると思っている人ですから。そういえば、ユダも、心の中で、キリストを空想し、キリストを決めつけ、期待通りのキリストの幻想を追うために、売り渡したのです。その結果、彼の情感のない心と、思慮のない頭からは、今も、彼が行った偽善のように絶え間なく、はらわたが流れ出しているのです。それを、シャローム氏に、奇しくも今、眺めている気がします。
 
>神の平安がありますように!
 
嫌がらせのように書いてきます。
 
彼シャローム氏は、罪は悔いなくていい、改めなくていい、告白しなくていい、それで偽善も罪だから赦される、と言って、訂正していません。だから、善悪の判断をするな、とも言っています。善悪の判断そのものを神に委ねよと言って、人が懸命に感じて考えることをするな、と言っているのです。残るのは、シャローム氏のように、欲望だけです。彼は、その通り、欲望のままに、言い換えると、自分のしたことを神の名のもとに正当化して、悔いることがありません。
 
ありのまま救われる、は、彼に言わせると、悔い改めないまま救われる、という意味だ、とも言っています。ということは、彼の信じている神は、恐らく、無制限に欲望と悪と罪と偽善を許可し続ける神なのです。つまり、人に、神のごとく、訂正不能に、無反省に振る舞うことを勧める神なのです。これを私は、キリスト信仰ではなく、自分信仰の一つとして無罪信仰と呼んでいます。
 
このような信仰?だから、彼は、平気で、記事を書き続けるのです。彼は、真顔で書いてきます。読む者が驚いても、彼は気にせず、まるで、嫌がらせのように繰り返して、ニヤニヤ、ヘラヘラ、または、アハァ、アハァ、と笑っているような印象さえ受けてしまいます。彼は、キリスト信仰の破壊者として、恐らく、一生変わらないのでしょう。
 
彼が福音と呼んでいるのは、人格破壊と背教です。彼は、神のことを全く思わないで、人のことも思わないで、自分のことだけを思って、思って気持ちのよい好都合な神を捏造しているのです。猫に小判、豚に真珠、シャロームに聖書、つまり、彼は恣意的な詭弁の曲解しかしない人です。彼の丁寧語による見かけの穏やかさと熱心そうに見える聖書語に騙されることのないように、祈っています。
 
法律も聖書も、解釈次第で、頭ではどうにでもなり、それを持ち出された場合、頭で考えただけでは、なかなか白黒が表れにくい、という特徴が表れてきます。つまり、解釈次第で、どの方向にも変わる、ということを申し上げたいです。この記事のように、多くの人が否定しないような美辞麗句を並べる者を、どうか警戒してください。
 
そういう恣意的に曲げられた解釈をする者は、いかにも、これ、当たり前ですよね、という言葉面の顔を持ってくるのです。その魂胆は、独裁者の煽動とすり込みと、陰謀に満ちています。そして、そういう者は、他者の誰かをぼろくそに言うけれども、何よりも、自らが責められるのを最も嫌う、という、共通の性質を持っているのです。悲しみと罪悪感を持ち得ない者が書いているのです。恨みと侮りとあざ笑いしか持てない者が書いているのです。
 
 
(2017年05月28日)
(2017年06月02日、一部修正)
 
穢土(えど)
侮る(あなどる)
捏造(ねつぞう)
 
 
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  ファンタジー信仰
 
 その名は不思議
 あとで利いてくる教育(2011.6.13)
 2017/5/26(金) 午前 7:16
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28101173.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 2011-06-13 「あとで利いて来る教育」をした教師たち
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20110613
 
 
低い自分を書きたい、という動機ではないようです。彼の性分として、こういう身の上話を書くときに表れてくるのは、現実的には恵まれなかったが、驚くべき神によって恵まれて、このようにも救われて、福音伝道者になっている、という神話的神秘的に高ぶった話に持っていくことが多いようです。神話でも神秘的でも何でもなく、彼という個人が俗の卑劣な汚いことを好きなようにやってきて後悔することさえ忘れているのに、今さら何を言っているのでしょう。
 
>私の人生はその高校での一人の先生との出会いで決まったのです。
>我が家は経済的にも精神的にもがたがた続きでしたが、
>担任の先生がクリスチャンで、
>私を家族のように受け容れ、よく食事に呼ばれたり、
>また家庭集会に誘われたりしました。
>私がその高校を卒業した後、よく高校の経営者と教職員との間に争いが絶えず、
>私の担当だった先生が教頭になられ、苦労されましたが、
>ついに廃校になってしまったのです。
>山形の独立学園のことは聞いていましたが、
>教育はやはり人との出会いだと思わされます。
>私は公立高校は不合格、評判の良くない高校入学でしたが、
>ひとりのクリスチャン教師との出会い、
>さらにイエス・キリストとの出会いに導かれる、
>赤い糸に結ばれた見えざる生ける神が備えられた最善の道だったのです。
 
シャローム氏は、ときどき身の上話をします。かわいそうですね偽善者だなんて、と同情を引きたいのでしょうか。人との出会いを大事にするようなことを書いていますが、人間のことを呆れるほど軽視~無視しているのが、シャローム氏です。大事にするのは彼を褒めてくれる人との出会いだけなのでしょう。現実は、それどころではない状況ですから、その前に、悔いたらどうだ、改めたらどうだ、反省したらどうだ、と私は思います。彼は、目を逸らしたいのでしょう。
 
表現上、赤い糸は、男女の恋愛に使われることが多いようだから、運命の糸、とでも書いたほうがいいでしょう。身の上話にも、彼シャローム氏の、自称キリスト者の自分信仰らしい決めつけが書かれています。自分の信仰は、神に運命づけられた最善の道だと豪語しているのです。つまり、ここでも、神を決めつけていて、そのせいで、神の道を外れた自分、ということが認識できないのです。
 
誰よりも自分を大事にし、神よりも自分を大事にし、キリストよりも自分を大事にし、自分と神を赤い糸で結びつけて、そのせいで訂正不能になっている、彼、シャローム氏であります。傲慢も、神がかっています。
 
(引用)運命の赤い糸
いつか結ばれる男と女は、足首を見えない赤い糸(赤い縄)で結ばれているとされる。この赤い糸をつかさどるのは月下老人(中国語版)(「月老(ユエラオ)」とも)という老人で、結婚や縁結びなどの神だという。『太平広記』に記載されたこの神にまつわる奇談『定婚店』から[1]、仲人や結婚の仲立ちをする者を指す者を「月下老」というようになった(後述)。日本では、「足首の赤い縄」から、「手の小指の赤い糸」へと変わっている。[要出典]
赤い糸に力があるという考えは世界各地に見られる。ユダヤ人の間では、邪視のもたらす災いから身を守る為に赤い毛糸を左手首に巻くという習慣(セグラ segula)があり、アメリカなどにも幸運のお守りとして広まっている。トーラーやハラーハー、あるいはカバラにもこうした習慣への直接の言及はないが、一般にはカバラに基づいた伝承とされ、ベツレヘム近郊のラケルの墓所には今も参拝者が巻いた赤い糸が多数見られる。また仏教国の中には、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところもある。日本では千人針に赤い糸が使われた。[要出典]
決して切れることのない「運命の赤い糸」は、現在でも西洋での「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの言い伝えと同じ様に東アジアで言い伝えられている[要出典]。日本や他の東アジア諸国でも、テレビドラマやアニメなど大衆文化の中に「赤い糸」は頻出する[要出典]。特に少女漫画では定番のモチーフとなっている[2]。
「見えない」のに「赤い」のは形容矛盾であり、類似した例に見えざるピンクのユニコーンがある。
(ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%A4%E3%81%84%E7%B3%B8より)
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%A9
カバラ( qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教における密教との類似性を指摘されることがある。しかし、これはもっぱら積極的な教義開示を行わないという類似性であって、教義や起源等の類似性のことではない。
伝説では、アブラハムがメルキゼデクから伝授された天界の秘密だとも、モーセが律法(トーラー)に記し切れなかった部分を口伝として後世に伝えたものだともいう。しかし、3世紀から6世紀頃に始まり、16世紀頃にほぼ現在の体系が完成したとされる。
カバラは大きくユダヤ・カバラとクリスチャン・カバラに分類される。前者が本来のカバラであり、ユダヤ教徒が旧約聖書の解釈に用いるものである。後者はユダヤ・カバラをキリスト教に応用するために考えられたが、後に近代西洋魔術の理論的根拠にされた。クリスチャン・カバラは生命の樹の活用を中心に成り立っている。
(ウィキペディアより)
 
赤い糸には、東洋から西洋まで、多彩な起源と、多彩な色付けと、多彩な影響があるようです。ユダヤ教とキリスト教の関連もあったとは知りませんでした。古今東西を問わず、人は運命に翻弄される、ということでしょうか。
 
 (使徒行伝、口語訳)
12:11
その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。
 (使徒12:11、新約聖書)
 
ペテロが、迫害から、奇跡によって救われる話です。御使いが表れて、ペテロは何もしないのに、鎖が外れて、門が開いて、という奇跡です。彼シャローム氏は、迫害と思っているところの、実は自業自得の困難から、奇跡によって救われる自分を、また、高ぶって語るのです。すごいです、彼の傲慢が。
 
複雑な起源と因縁が絡まっていそうな赤い糸を用いて、運命の赤い糸で神と恋仲になりたいシャローム氏は、現実が大嫌いで、現実にもかかわらず奇跡によって救われるという現実離れした話を、こよなく愛していて、この記事において、彼は、神話作りに励んでいます。彼は、彼が作った神話の中で、いかに自分が神に特別に愛され、奇跡によって導かれてきたかを主張したいようです。
 
このように、自分神話を作って神を讃える人は、結局、自分を讃えたい動機が見え隠れしています。多くのキリスト者は、控えめに語るか、語らずひっそりと神に感謝するものですが、彼には、奥ゆかしさというものが全くと言っていいほどないので、聖書の登場人物のように、あるいは使徒や預言者のように、特別な自分を出さないではいられないのでしょう。
 
神話好きが神話作りに励んでいるのがなぜ悪いか、ということですが、一つの方向性があるということです。シャローム氏の場合は特に、現実が嫌いで、現実離れしたくてしょうがない、ということです。現実は、神話のみによって、奇跡のみによって、打ち砕かれ、思いもよらない、すごい成り行きで救われて、後ろに見て下に見て、愚かな者たちよ、と他者を含む現実を蔑視したくてたまらないのでしょう。さらに進んで、そうなっている自分を妄想せずにはいられないのです。彼の自己中心は、ファンタジーの世界に、夢を見るだけでなく、実現しているという思い込みによって満たされているのです。
 
現実が嫌いで、つまり、人間が嫌いのようです。表面的に丁寧語を使って取り入ろうとしますが、人間関係の中で生きてくる信仰など考えてもみないようで、人間関係は適当に凌いでゆければよいのでしょう。だから、人間を大切にしません。自分の考え、というより、思いつきと思い込みのファンタジーからしか人間を見ることが出来ず、他者が彼のファンタジーから外れて批判や反対でもしようものなら、もはや、人間として接する気などさらさらなく、処理するべき対象にしかならないのではないかと思います。彼シャローム氏の信仰は、彼の勝手なファンタジーが、現実などお構いなしに、奇跡を成就してゆくことに、全面的に依存しています。
 
ファンタジーは、夢想、空想、幻想、の類です。自分についても、神についても、空想したり想像したりするのは、人の自由であり、私も好きですし、想像力を身につけることは悪いことではありません。いけないのは、それが信仰になって、現実を無視し、現実を壊し始めることです。ファンタジーは、しばしば現実を無視した神話になり、ときに病理に、ときに犯罪に結びつきます。
 
信仰は現実の中で生きてくるものです。信仰は幻想でも空想でも夢想でもありません。この区別をつけることは、ふつうに出来ているはずですが、信仰という、超常の神の関わるところでは、幻想が幻想だけではなくなりやすいという危険性があります。それは、カルトの主張などを聞くときに、首を傾げたくなるような非現実の結論から始まっていたり現実的な考察を経ていなかったりすることから分かるでしょう。
 
信仰や聖書について、想像することは、よくあります。しかし、それは自分の想像~空想に過ぎないことを弁えているのが普通です。その弁えは、結局、地上の人間であるという自覚によって支えられています。人間としての思慮と情感が支えています。それらの、人間が人間であるための性質を人間に与えたのは、紛れもなく、神なのです。そういう神を、私は信じ仰いでいます。
 
幻想を信仰と勘違いしたところには現実離れした人間の身勝手な心だけが活躍するホラーの世界が待っているのです。まさに、彼について、それを見てきた感があります。彼は、今日も、赤い糸で結ばれた神によって超常的に導かれているつもりなのです。
 
正義を、月並みな美辞麗句でしか語れない者には、往々にして、理想的な言葉を語りながら、理想に反する者を責めながら、言葉を実際には理解できないだけでなく、怒って意に介していない自らをひた隠しにしている暗部があるのです。自分は何も分かっていないのに、その不全を信仰によって克服するのではなく、逆に、すべてを分かっているふうを装い、さらに、他者を分かっていない者として、ぼろくそに言うことで、見栄を張り、憂さを晴らしているだけなのです。
 
現実の中で、神は沈黙しているように見えます。幻想の中では、神がかりがどんなに活躍しても、そこに神は存在しないのです。
 
 
(2017年05月28日)
 
褒める(ほめる、誉める)
凌ぐ(しのぐ)
 
 
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  背きを悦ぶ者
 
 その名は不思議
 祈りは感謝の領収書!
 2017/5/25(木) 午前 11:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28100030.html
 
 類似過去記事:
 感謝の領収書
 2011/3/6(日) 午前 8:44
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19227151.html
 
 
感謝の領収書とは、誰が誰に出す領収書なのでしょう。領収書に、祈りの心を表す適切な意味があるでしょうか。信仰に心を感じない者の、不適切な比喩だと思います。
 
都合の良いことについて感謝ばかりする信仰、と言えば、どんなときにも感謝するべきことはある、と言ってきそうな記事です。どうしても、感謝することが信仰で、祈りは感謝だ、と言いたいようです。また、都合の悪いことを辻褄合わせをして、感謝することを見つける、という、自分はいつも神に感謝していますと、神に自慢するような態度が癖になると、感謝できない人に対して、感謝しなさい、という殺人的なことを言ってしまうことになりかねません。人間が分かっていない人の言でしょう。
 
彼シャローム氏は、このような信仰を褒め上げて悦んで引用する人です。人間らしいことをやめて、超人的な感謝を強いるカルトの体質です。祈りが感謝だけなら、それこそ、不幸はないわけですが、実際はそんなことはありませんから、祈りは、決して、感謝と同一ではありません。祈りの主要部分は、罪の告白です。このことが分からない人の話を鵜呑みにしてはいけません。
 
>小さな当たり前と思えることの中にどれほど神様に感謝してもしきれないことが、
>たくさんあることを案外みんな知らないのよね」。
 
>どうも、私たちは、神様に、「これしてください」「あれしてください」と、
>まるで請求書ばかりを出していて、神様に対して、
>心から「ありがとうございます」という感謝の領収書を出していないようですね。
 
お願いばかりせずに、感謝しなさい、と言う人々は、恐らく、感謝以外したくないのでしょう。もう満ち足りているから、お願いすることはないというふうになりなさい、という境地自慢でしょう。こうやって、いつも薄気味悪い薄笑みの陶酔境地をカルト的信仰は増産してゆきます。人間が分からないことの予防線の結末なのです。
 
>聖書はこう記しています。
>「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
>すべての事について、感謝しなさい。
>これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」
>(新約・テサロニケ人への第1の手紙5章16~18節)
 
前にも書きましたが、迫害の時代という背景があり結束と強い激励が必要な時代に書かれたのが新約聖書です。それに、聖書が言っているのは、神がそう望んで求めておられるということであって、感謝だけになりなさい、それが悟ることだ、それが悟りの境地だ。と言っているのではありません。神は、人に、感謝できない時があることをご存知です。ここにも、人間を分かろうとしない人の、自己中心的誇大妄想的勘違いがあります。
 
>すべての事について感謝しなさい、とわざわざ記されているということは、
>私たちの周りには、感謝すべきことがあふれている、というだと思いませんか。
>私たちは「当たり前」という思いがいつも強くて、
>感謝することを見失っているようですね。
 
宗教的多幸症です。すべての悲しみを、感謝を忘れている、と言うことで済ませる信仰なら、誰にも教えてもらいたくないのです。キリストは、人の悲しみに寄り添う御方であります。キリストは、人が、いつも、おめでたく、ありがたや、ありがたや、と言う人間離れに寄り添う御方ではありません。救いを必要とする人々が、感謝しているというのは、一種のパラドックスであり、何かの勘違いか、十字架以降は、みんな悟ったのだ、とでも言いかねない者たちで、その乱暴で不当な解釈は、人間の現実と、人類の歴史が、否定しています。
 
キリストは、人の悲しみに寄り添う御方であります。
 
>あなたを愛し、あなたの最善を導いてくださる神様へ、
>先ず感謝をささげ、あなたの口に感謝を満たしていきませんか。
>感謝することを探すことも楽しいものですよ。
 
鵜呑みにしないでください。最善というのは、人の分かる最善ではなく、神が判断した最善です。感謝し讃美することを楽しむ者は、神を必要としない者たちです。だから、今の時代に、悲しみを無視して、感謝だらけにしてしまうのです。
 
>《shalomのコメント》
 
コメント削除魔で偽善者であるシャローム氏の記事内コメントです。
 
>感謝することを探すことも楽しいものとありますが、
>ひょっとしたら本当は感謝することは
>探し回ることも必要ないのかもしれませんね。
>いつも喜んでいなさい・・
>すべての事について、感謝しなさいと書かれているのですから。
 
神の心を、勝手に、妄想にして受け取って、神に感謝して、神を讃美して、同時に、他者のコメントを削除し、他者を侮辱して恥じない者、シャローム氏が言っています。・・笑う偽善者はキリストを売りわたす者。
 
>この二つの言葉は「絶えず祈りなさい」という言葉でつながっています。
>それはきっと私たちの良し悪しの判断を超えたことなので、
>自分で良し悪しを判断しないで、今よくわからい、受け容れられないとしても
 
ここに、シャローム氏の無罪信仰の詭弁の悪魔的中心があります。良しあしを判断するなと書いています。人は判断しなければ生きられない生き物です。その判断を絶対化しないのが信仰ですが、分からないと言っておけ、という、非現実の戯言です。彼は、ここまで、良識を破壊しています。彼は、分からないと言えない人です。また、彼は、コメントを削除すると、他者を無視すると、判断し続けているわけです。読む人の良識が破壊されないように、悪魔の誘惑に乗った者から、早く離れてください。
 
>神に祈りなさい、ということかもしれませんね。
 
感謝からつながっている文脈で、祈りなさい、に結び付けるのは、シャローム氏が文脈を作れないか、恣意的な文脈を作ろうとする詭弁、ということになります。キリスト信仰は、祈りが感謝だけで済むような、おめでたい信仰ではありません。深い人間性が必要です。人間性を軽視する者には決して触れることのできない神の賜物です。
 
深い人間性は、誰もが持っています。それは、知能によらず、才能によらず、地位によらず、ただ、砕けた魂で、神に祈る者に与えられ、使われます。一言で言えば、悲しみに共感できる心、とでも言うべきものだと思っています。何気ない一言が胸に沁みたりするのは、そのためでしょう。
 
>なによりも祈りをもって、神を信頼し、ゆだねてみなさい。
>そうすれば神がなぜそうするように望んでおられるかきっとわかります。
 
彼シャローム氏は、罪を悔い改めることをせず、神に委ねると言っていました。おかしいでしょう。だったら、なぜ、コメントを削除するのでしょう。神がコメントを削除することを望んだという文脈になります。幾千幾万の罵詈雑言と辛辣な比喩を書いても、まだ足りないほどの、恐ろしく悪質な詭弁です。
 
>イエスさまは弟子たちに、私が話していることは今はわからないかもしれません。
>しかし、後になればわかりますと言われました。
 
>いつもわからなくしてしまうのは自分の良し悪しの判断を手放さず、
>善悪の木の実を食べて生きているからですよと言われているようです。
 
恐ろしいことです、感謝しない人に、これを言ってきたのでしょうか。善悪の木の実を食べたから判断してしまうのがいけない、何も判断せずに待っていればわかると。自分が、できることをしていないから言っているだけでしょう。そういう、自分の罪を正当化するために、人を操ろうと、判断しないことを勧める卑怯で愚劣な信仰?は、シャローム氏一人の堕落でたくさんです。自分の無理解と罪と偽善に人を巻き込む詭弁のすり込みです。
 
彼は、正しいことを書いたつもりなら、今日書いたようなことを神に祈ればよいのです。適切な時と所で、神が彼を裁く日まで。私は、もう彼のような偽善者のために一文字も書く気にはなりません。誰も巻き添えになることのないように、という願いで書いています。
 
>今まで生きてきて、振り返るとたくさん思い当たります。
 
>イエスさまは十字架の辱め、苦しみ、死をも神の御心として受け入れ歩まれました。
>イエスさまはそれが神による最善の道であり、命の道であると信じておられたのです。
>だから、私の思いではなくあなたのみ心通りになさってくださいと祈られたのです。
 
キリストが死んだのは誰のためでしょう、総ての人のためです。シャローム氏が自分の罪と偽善を神に委ねると言っているのは誰のためでしょう。悔い改める良心的な信仰がないので、ただ自分の世俗の名誉と利益を守ろうとする彼シャローム氏の保身だけのためです。この人は、決して、牧師ではありません、キリスト者でもありません。人間とも思えません。
 
>私たちにとって最善の道は自分の良し悪しの判断を手放すという
>十字架の道であることを示し、その道は決して空しい道ではなく、
>神の恵みに生かされて生きるいのちの道のようです。
 
上にも書いたように、実際は、良し悪しではなく、自分がしたことを利己的に良しと決め付けるという最悪の思い込みに生きているのが、シャローム氏です。それを、創世記を悪用して信仰に見せかけ、良し悪しの判断を手放す、などと書いています。
 
良し悪しの判断を手放して、人は、いったい、何が出来るというのでしょう。彼シャローム氏は、人々にアホになれと言っているようなものです。彼の詭弁は、もはや、人間活動の停止と人間破壊の方向しか持たないようです。何も考えることができない無思慮の彼という自分信仰者、それこそが、判断をしなくなることの結末なのです。今回の記事は、詭弁の罠だらけです。このようになったら、信仰の破壊者にしかならないという増悪ぶりを、彼の自分信仰は示しているのです。壊れに壊れてきました。言わないことではない。
 
>神の平安がありますように!
 
彼の人工の安穏が続きませぬように。恐ろしい詭弁で、罪と偽善を気にしないことを悦びとし、神に委ねることを平気で悪用して正反対の妄想を教えるような者が、暴かれても、なお、同じことを言い続けています。気をつけてください。信仰の病原は、ずっと道連れを求めているようですから。
 
詭弁で神の目を逃れることは出来ません。それゆえ、信仰者は、神を恐れて、折に触れて罪の告白によって信仰を改め、赦しと癒しを乞うのです。そのための信仰であり、そのための聖書であり、そのための祈りなのです。祈りは感謝の領収書、などと言って、御言葉を言葉面に、赦しを自動販売機に、救いを紙切れに、変質させたがる者たちを警戒してください。彼らは、自己中心の自分信仰者です。
 
 
(2017年05月27日)
 
 
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