ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年05月

 
  異土を走る者
 
 その名は不思議
 運動競技と信仰の歩み
 2017/5/24(水) 午後 9:41
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28099357.html
 
 類似の過去記事:
 わたしたちのオリンピック
 2012/6/8(金) 午後 4:40
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22910800.html
 
 
冒頭の聖句は、新約・へブル人への手紙1章1~3節ではなく、以下の12章のようです。シャローム氏は、聖句の引用箇所を間違えたのでしょうか。私が聖書に詳しくないことを知っているので、批判を書きにくいように、わざと、嘘をついているのでしょうか。
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
12:1
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
12:3
あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
12:4
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
12:5
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6
主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。
 (へブル12:1―6、新約聖書)
 
罪をかなぐり捨てることも、神の前に正直に告白することも出来ず、シャローム氏は、どういう競争に参加するつもりなのでしょうか。彼は、ただ安易に、罪悪感という重荷だけを、自分で、かなぐり捨てて、無罪を装いながら、神を讃美しているのです。
 
主の訓練を一切無視して、訓練を拒み、鞭打たれないように、身のまわりの不快な刺激を人為的に遮断して、安穏の沼に、どっぷりつかって、どうして、神に受け入れられようと言うのでしょうか。そこは、信仰の、重い病理の沼なのに。
 
近況、そして、オリンピックの話、彼が、神を裏切り続けながら、こういう話を平気でしていられることが、驚きと脅威であります。
 
>信仰生活もそんな運動競技に似ているようです。
>信仰生活は生ける神の恵みによって生かされる生活ですが、
>そこには試練もあります。
>恵みの中の試練を通して鍛えられ、ゴールまで走りぬくのです。
 
裏切りの世界に住んでいる、彼は、どこかの異土を走っています。彼は、それが信仰の世界だと思い込んでいるので、裏切りを平気で続けながら、信仰?の話を書けるのでしょう。はっきり言って、彼の話は、試練という試練を、自分の強制力で排除した後の廃墟で、独り、わめいている痩せたカラスの鳴き声のようなものとしてしか、受け取れないのです。おぞましく、わあ、わあ、と鳴けば、お前はァ、お前はァ、と木霊が返ってくるだけなのです。彼は、都合の悪いことをすべて完璧に隠したつもりなので、彼の罪と偽善が、まだバレていない前提だから、日々わめきに来るのです。
 
>途中でやはりへなへなと座り込んでしなうことも度々経験します。
 
強制力で、コメントも、コメント欄も、平気で削除した人が言っています。弱さを装う偽りも、彼の生業として続いているのです。
 
>しかし、み言葉に支えられ、祈りに励まされ、信仰の交わりに力を与えられ、
>何とか走りぬくことができるのです。
>そのようにして、苦しみや困難も試練も神の恵みだと知ることは
>大きな喜びであり生きる力です。
 
このように、自分には神がついているから、走る抜くことができると、神を自分に有利に決めつけてきます。どんなことがあっても、何をしても、神が自分を愛するという無条件の無節操の被愛妄想からの訂正不能の不感不応から、神の恵みを喜ぶのが、変わらぬ彼の筆致です。だから気楽に、試練に耐えたことなどないくせに、言葉面だけで、試練を神の恵みだと言ってしまうのです。
 
>試練によって自分の心の硬い殻を砕かれ、
>イエスさまによって与えられた生ける命の水が心をうるおし、
>すべてのことを益としてくださる神の恵みを体験できるのです。
 
彼は、今も、硬い殻の表面に、社交の丁寧語と、信仰があるかのように装うベタな聖書語を浮かせて、神の恵みを体験できると嘘をついて、誰かが引っ掛かるのを待っています。総てを益とする、という、益は、神が判断する益でありますが、彼は、彼の体裁と牧師としての名誉を、彼が何をしても、悔い改めることなく赦されるから、与えられる有形無形の世俗の益を欲望して、そういう、彼の言うとおりになる神を讃美しまくるのです。
 
>イエスがご自分の死を前にして、弟子たちに約束された言葉は真実です。
>「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
>それはただ一粒のままである。しかし、
>もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
> (新約・ヨハネによる福音書12章24節)
 
キリストは、ご自身の死の意義について伝えているのですが、シャローム氏は、キリストの言葉を、遺言と言って、キリストを故人のように語ったことがあります。彼は、それを、まだ、訂正していません。彼は、キリストの言葉に重さを感じていないのでしょう。ただ自分は救われるんだ、ということだけに固執して、そこしか眼中になく、そのために、キリストを利用しているだけなのです。その罪がどんなに重いか、考える気もないようです。彼は、実に、ふつう見えることも見えないのです。だから罪が重く、口が軽いのです。
 
私たち信仰者が、彼シャローム氏と違って、キリストの言葉を、うっかり遺言などと言わないのは、私たちにとって、キリストが、毎日のように祈っている相手だからです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:24
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
 (ヨハネ書12:24―25、新約聖書)
 
キリストは、25節のような命を賭する覚悟を、自ら示して言われているのに、彼の言説には、微塵の重さも感じられません。彼は、うるおされることだけを願って思い込んでいるのでしょう。彼から伝えられる言葉は、人を、言葉面だけの空約束と無罪妄想の理不尽へ導くだけですから、誰も影響を受けないでほしいと思います。
 
>エジプトで発見された数千年間もミイラの手に握られていた麦の種も、
>地に蒔かれ、天からの雨に干からびた麦の殻が破られて
>豊かに麦の穂を実らせたように。
 
背き続けて干からびてゆく彼、シャローム氏は、罪と偽善を実らせることにしかならない者に相応しく、言うに事欠いて、また、超常奇跡の非現実話を、実際あったのだからと、ここで豪語しています。これも神に対する決めつけです。彼は、前にも、どこか外国で死体がよみがえった話を、事実確認できるはずもないのに、嬉しそうに吹聴していました。
 
>かつて迫害者であった使徒パウロはイエスを信じる信仰のゆえに
>体験した数々の試練や困難をとおしてあらわされた神のみわざを
>次のように書き記しています。
 
パウロは、元パリサイ人で、律法に詳しい知識人でしたから、信仰に目覚めてからは、理を説くのはもちろん、それだけでなく、温もりと潤いを大事にして、愛の讃歌なども書いています。温もりと潤いを求めず、言葉上の奇跡だけをだらだら並べる彼、シャローム氏が、パウロの言ったことを理解したとは、到底、思えません。彼の知ったかぶりは、信仰の芯となるところを書けないので、聖句を挙げたり誉めたりして逃げるだけです。それが彼の説教なのです。おそらく過去の30年も。
 
>「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
>その測り知れない力は神のものであって、
>わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
 
彼がこの聖句を挙げたのは、宝は神のものであって、人からではないから、ということから、救いは人からは出ないからと、人を侮り、神が奇跡を起こすのを待っているのです。彼が日々実践していること、すなわち、考えないこと、鵜呑みにして信じ込むこと、罪を気にしないこと、などを正当化するためだと思います。このように、彼は、聖句の言葉面だけを利用し続けているカルト的自分信仰者なのです。彼の引用は、彼のインチキの解釈を通してのものですから、大きく聖句を曲げたものです。
 
>わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。
>途方にくれても行き詰まらない。
>迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
>いつもイエスの死をこの身に負うている。
>それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
>わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
>それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」
> (新約・コリント人への題の手紙4章7~11節)
 
このように、彼は、さも自分が迫害に耐えている立派なキリスト者であるかのように、この聖句を利用します。同時に、批判者を呪うために。
 
彼シャローム氏は、この聖句に相応しい行いではなく、ずるい偽善者の行いである嘘をつき、隠し事をする毎日を気にも留めません。つまり、彼は、罪悪感を祈りにつなげることもしないで、自動的に何をしても赦される無罪信仰によって、山と積まれた罪と偽善を気にせず、この世の価値だけを求める行為を為し得るという妄想信仰です。
 
彼シャローム氏は、聖句を真っ向から裏切る日常に慣れてしまっているのでしょう。信仰の目的外の聖句の引用や、ずっと続いてきた自分の言葉の仰々しい豪語の遠慮のなさは、信仰に何の実感も持てない者が、それを補うかのように、さらに、恨みと悪意によって人を裁くときに見られます。こういう含み味の悪意によって、偽善は増し加わり、さらに罪は彼にしがみつくでしょう。
 
彼の嘘は極限に達して改めようもなく、彼は、もう、自分が何をしているかも考えもせず、やたら、笑っているか、わめいているかの印象だけを惜しみなく与えてきています。そして、涙は果てしなく乾いてゆくのです。露骨な背教の果てに、何も負わない彼は、いったい、何に向かって耐え、何に向かって讃美し、何に向かって悦び、何に向かって渡されてゆくのでしょう。
 
>神の平安がありますように!
 
だから、彼のこの最後の一言に、いつも吐き気を覚えるのです。前には、仏教や哲学関係の人も関わっていましたが、彼に関わった者は、ある人は、彼のことを「頭がおかしい」と言い、そうでないほうも、正体を知って呆れて去っていったと思われます。いっぱいあった彼らのコメントは、私のコメントと同様、今、一つも残っていません。
 
 
(2017年05月26日、同日一部修正)
 
異土(いど)=異国の土地、外国。
 ここでは何度か書いてきた超常魔界妄想世界の病理とでも。
 ただし薬では決して治りません。
木霊(こだま、谺)
生業(なりわい)
 
 
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  整わない
 
 
私は決して整ってはいない
また
終末まで整うことはないだろう
 
クワっと怒ったり
意気消沈したり
それは書くものにも表れている
 
人間は決して整ってはいない
また
終末まで整うことはないだろう
 
キリストは
決して整っていない者を
弟子として選んだ
 
感情が豊かだが
愚直なペテロが代表だ
 
キリストが十字架についても
彼らは整うことはなかった
彼らのうちに生きているキリストに気づくまでは
気づくことはなかったのだ
 
その後も多くの艱難に遭い
弟子たちは使徒になっても
整わない自分に悩んだのだろうか
 
ペテロは愚直な情感によって
キリストの言葉と
裏切りの預言に揺さぶられた分
立ち直ることが出来た
 
ペテロもパウロも
悔い改めという修正が可能だった
 
しかしまさに修正可能ゆえに
ときに人間として思い悩み
もう早く自分も
御許へ行きたいと願っただろうか
 
それは整わない者が
整っているつもりの者に出会い過ぎたからだろう
自分を自分で整える者は
自分の価値基準で整えることになってしまう
 
神の与える試練にあっても
装うことで整っていると見せかけて
自分以外の価値基準では
あらゆる不都合が起こっていても
それを無視して自分の基準を
神の基準として言い張るような
みすぼらしい者になってはいけない
 
彼らは自らの罪を自分で処理するしかなくなる
という神なき世界を歩む者たちだ
 
私たちは決して整ってはいない
 
人間は決して整ってはいない
また
終末まで整うことはないだろう
 
だから成長し得るのだ
 
整わないことは
人間の本質であると同時に
人間を造り育てる神の恵みである
 
信仰は決して安定という名の停滞ではなく
 
信仰は成長という修正可能を与える賜物だ
 
 
(2017年05月25日)
 
御許(みもと)
艱難(かんなん)
 
 
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  伝道と豪語
 
 その名は不思議
 伝道者の書ー伝道者は真理のことばを正しく書き残した!
 2017/5/23(火) 午前 9:41
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28097325.html
 
 転載元:生活の中の聖書
 転載元記事:伝道者の書ー伝道者は真理のことばを正しく書き残した!
 2009/12/4(金) 午後 1:45
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/22544336.html
 
 
シャローム氏が好むところの、断定の多い人、そして、分からないと言えない人からの、困った転載記事です。シャローム氏のようになって欲しくないと心から思うのですが。
 

この書の一つの結論が「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(1:1)である。そこからの解決は人間の創造のもとに帰ることなのである。もう一つの結論はこうである。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(12:1)だ。

 
伝道の書の冒頭の聖句「空の空・・」の部分を、転載元は、解決するべき問題のように書いています。この著者は、ソロモン王とも言われていますが、神に愛され、王となった者に説教したいようです。聖書を読んでいるうちに、気に入らないことは、悪として退け、創造のもとに帰れと、人間には訳の分からないことを言って、逆に説教しようとする、このスタンスが、信仰者の思い上がりを育ててゆくのでしょう。この冒頭の聖句は、無常ということだろうか、ある意味、人間の実感であり、必要なのは、読んだ者がソロモン王に説教することではなく、共感を持ちうるかどうかということです。
 

聖書は私たち人間はすべて滅びへの道に歩んでいると教える。しかし私たち人間はそのことを知らず、名誉、社会的地位、財産を追い求め生きている。しかしその先が滅びであるとするなら空の空なのだ。

 
この人のような考え方を、全か無、と言えるでしょう。これは、彼シャローム氏にそっくりですが、みんな滅びを歩み、みんなこの世の価値を求め、みんな信仰がないなら滅び、という、とても単純なものになっています。勧善懲悪のベタなドラマのような展開を決めつけているようです。人間は、そんなに割り切れるものではない、という経験がないのでしょうか。信仰というものを勘違いすると、とても、おめでたい人になるということでしょう。信仰を持てば、すべてはバラ色になる信仰観?・・。シャローム氏に利用される必然性が見えています。
 

人は本来、創造主なる神が息を吹き込み生きる者とされたのである。そして神の意志に従う者とされた。しかし、人は神との関係を捨て、自分の意志に従う者となってしまい、迷い出てしまったのだ。

 
神の意志に従うだけの意思のない操り人形みたいなものになりたいのでしょうか。人間であることをやめたいのでしょうか。人に自由意志を与えたのは悪魔とでも言うのでしょうか。全知全能の神が、人の罪性を知らずに、アダムとエバの罪に、何をするかと仰天したとでも言うのでしょうか。
 
創世記を、他者の罪として捉えるところには、いつも、このような自分の罪性を考えない居丈高が生じ得るのです。その典型が、自分の悪と罪を棚に上げた、シャローム氏のボロクソ節です。人には語れない神の意志の神秘を、人が知ったかぶりで、語ろうとすると、おかしな話になる、という例でしょう。
 

人がなすことは神が人のために造られたものを正しく管理し、用いていくことであった。しかし、神に信頼するという単純さを脱ぎ捨ててしまい、あれもこれも自分でやり、可能となると思い込んだのだ。

 
神を信じ、神に信頼する、ということを、単純な勧善懲悪にしてしまうと、信仰を持てば、神の創造物を正しく管理し用いることが出来ると言い、聖霊によって、自分はそうなっていると、自分を信じるようになるのでしょう。
 

神から離れた人の人生は、神からの報いがない人生なのだ。悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。見た目にはうまくいっているように見えるが、決してそうではない。さばきが待っているだけなのだ。

 
悪者には幸せがない、うまく言っているように見えても裁きが待っていると、まるで、渾身の怨みを込めているような言い方です。私たちにも、報いや神の裁きは待っているのです。どう考えても、神を信じている者が、信じていない者よりも、いつも正しい、などとは、到底思えないのです。その現れが、こういった怨みや復讐心を理由とした、ルサンチマン信仰なのです。
 

とかくこの世は知恵によるより、力を働かせることを良しとする。この世は地位ある人、権威ある人、力ある人を褒めたたえ、話題にする。そこで人々はそれを目差し、思いを巡らし、人の上に立つことを目的とする。それが政治、経済、文化、スポーツ、芸能などの世界であっても。それこそが人生の目的であるかのように。

 
これこそが、根を同じくするところの、シャローム氏のぼろくそ節、ということになります。自分は真実に従っているということを前提として、あっさりと悪の圏外に置いて、説教口調で決めつけています。
 

しかし、このイエスの知恵に生きていないのであれば、結局は暗闇に座すことになるのだ。いのちを殺すことになるのだ。そこに待っているのは破壊なのである。

 
その手法は、暗やみ、命を殺す、破壊、ということを書く、脅しなのです。これって、福音伝道のつもりなのでしょうか。自分の信仰は飾るが、人の不信仰をぼろくそに言う姿勢でしょう。
 

人の愚かさは神との関係が的外れにあるのだ。知恵ある者の心は神に向き、愚かな者の心はこの世に向くのだ。人が神と無関係に生きることが愚かさなのであるからだ。

 
ここも、単純に、知恵の有無に、信仰の有無を宛がっています。こういう、安易な短絡と単純化が、シャローム氏の喜ぶ無罪信仰へと向かわせるのでしょう。シャローム氏の偽善の罪悪の深さを、改めて思います。
 

私たちはともかく長く生きることがいいことであると思っている。そしてその人生がいつまでも続き、若き日を楽しみ、自分の好きなようにすることで満足し、しあわせになると思っている。しかし、気が付けばむしろ自分の無力さに、嘆き、空しさを得る結果になっているのだ。そこに本当の満足を見出さない。

 
高みから見下ろして、他者一般を決めつける高慢な態度が、露骨です。
 

それは神を知らず、自分の心のおもむくままに、目の望むままに過ごしているからなのだ。それでも人は神を求めず、その繰り返しをしている。ゆえに、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけと言うのだ。

 
神の裁きを受けることを知っておけ、殆ど、呪いです。他者一般を見て、自らを省みない者の特徴的な態度が表れています。その典型が、伝染の病原となっている、シャローム氏です。
 

すべてには定まった時がある。過去があり、現在があり、未来がある。そして何よりも私たちは死を迎える時があるのだ。私たちにはこの時に対しては、まったく無力な者のである。

 
言葉としては、誰でも知っていて、実感のないことを、言葉だけ語っている・・。
 

これはいつでもどの時代に於いても緊急な問題なのだ。であるから、この死を解決しなくてはならないのだ。死は年齢、健康、名声、財産、貧しさも関係なく100%起こることだからである。

 
死を解決するのだそうです。しかも緊急だというのです。死ぬ、という、脅威を、手っ取り早く、逃れることが出来るかのような書き方です。カルトに似てきます。そして、ずっと乱暴です。
 

私たちには残念ながらこの死に対しては無力なのだ。ただ滅びガあるだけなのだ。そしてまた、私たちは死の先に何が待っているのかを知らず、恐れるのだ。

 
これを知っているのに、上のような言い方をするから、上からの乱暴な説教になっています。
 

私たちは死の恐怖に支配されている。人々はこの時を知らず、神もなく、望みもなく生きて、何か良きことが訪れるであろう未来を頼りなく待ち望んでいる。

 
また、自分の信仰の立場から、他者を決めつけ、他者の心の中に、良きものがある可能性を潰していって、一種の、気持ちよさを味わいたいようです。
 

死はすべての人に起こることなのである。だからこの死の問題を考え、解決することが、大切なのだ。中世の修道士は「メメントモリ」と挨拶したと言う。それは「死を覚えよ。」という意味で、人は死すべき人間であることを忘れるな、と言うのである。

 
人間離れしてゆく者たちは、この、死を覚えよ、という言葉を、永遠や神に結び付けて、現実で語るのではなく神秘の解き明かしのように語り、自分は信仰があるから、大丈夫だと強調するのです。信仰を神秘の言葉面だけで飾り、神が人に与え、キリストが人に施したところの、人間的な共感性を失ってゆく過程であろうと思われます。
 

永遠の滅びと永遠のいのちとではそれこそ天と地の違いである。永遠の苦しみと永遠の喜びを比べれば、考えただけでも、永遠のいのちと喜びを選び取るだろう。いまもなお、神は死と滅びからの解放の知らせを伝えているのである。その道こそ、イエスの福音なのだ。

 
人間には理解不能な、永遠、という言葉を、時間的永遠なら永遠に生きることも地獄だと思われるのに、言葉面だけで判断し、どっちを選んだらよいか、という単純な話に持って行こうとします。言葉面を振り回す信仰の典型が、シャローム氏であります。
 

このイエスを見出すことが出来るか、が永遠を決めるのである。ゆえに12:1「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」なのである。

 
自分は、キリストを見出した・・という高慢が入ってくることに気づかないのです。人がキリストを見出すのではなく、キリストが人を見出し、人が、飼い主であり永遠の友である主を覚えるのです。この永遠は、神秘であり、実体を人は知りません。
 

私たちキリスト者はその先にある喜びを見るのだ。この死は死では終わらないことを。御国があることを。共によみがえり、再び会う喜びである。よみがえりのイエスのうちにある者は、死から復活の喜びに移されてるのである。

 
神の国は、死の先にあるのでしょうか。あの世でしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20―21、新約聖書)
 
この聖句を知っている者は、神の国については、今は分からないと言うべきでしょう。
 

私たちキリスト者は常にいまが恵みであり、その恵みの内に生かされていることを喜ぶことが出来るのだ。さらにキリスト者には大いなる希望がある。イエスの再臨である。そのことを見つめつつ、イエスとともにあることを感謝して、心を整えて頂き、与えられたいのちに豊に生きるのだ。

 
死後のことを語っておいて、ここでは、今が恵みだと言っています。相応しい説得力がないから「のだ。」口調の断定表現が増えるのでしょうか。この人の心が豊かだとは思えません。
 

神が私たち人間を創造されたのは、人間が神のことばによって平安の内に神の創造を喜び、生きることだ。その姿を見て神が喜びを受けるためなのだ。?そしてその関係に私たちが与ることが出来るように、イエスがこの世に来られたのだ。

 
ここは、夢物語になっています。説教が、最後は、こうなるしかないように。現実と人間から離れて信仰を考える者たちは、大方、こういう実感のない空約束の世界に住むようになるのでしょう。信仰は、何よりも現実の世界で生きてくるもので、何よりも人を生かすものだということを忘れたのでしょうか。
 

神イエスとの人格的な結びつくことが、真に知恵を知ることになるのだ。この知恵は、私たちの顔を輝かし、生き方を変えることが出来るのである。ここに生きることが喜びとなり、いのちとなるからだ。

 
キリストとの人格的な結びつきに必要なものは、夢物語でも空約束でもありません。人間らしさを追求しなければ、百の預言も、千の救いのメッセージも、無意味なのです。
 

神の目にはすべての人間は罪人である。神はいかに人が汚れた者であるかをご存知であり、そんな私たちをあわれみのゆえにイエスをこの罪の世に送り、暗闇から光に移し、むなしい歩みから解放すため、救いの道を備えてくれた。イエスの十字架はそのためなのである。

 
神の目には、すべての人は罪人です。それを神はご存知の上で救おうとして、キリストを遣わされました。キリストの言葉を遺言だと言った愚か者もいますが、救いは十字架で成就して罪は贖われたのだから今は罪を気にしなくていいと言った愚か者もいますが、今も人は罪を犯しますから、主によって与えられた、悔い改めと祈りによる赦しと救いこそが、人間にとって福音なのです。
 

私たちキリスト者はいつでもキリストの十字架の血によって、赤く染まった罪汚れた衣、私たち自身が何も罪がないような白く輝いていることを忘れず、内に住む御霊によって歩むことなのだ。

 
シャローム氏のように極めて軽く安易に信仰を喜ぶものになってはいけません。彼にとって遺言に過ぎなくても、私たちにとっては、それなくしては生きられぬというほどの、人間が生きることの深い悲しみに共感されるキリストを仰いだのだから、大言壮語せぬように、思い上がらぬように、飼い主キリストの羊として、何らかの形で、弱き者たちは寄り添いあうべきでありましょう。
 
 
(2017年05月24日、同日一部修正)
 
勧善懲悪(かんぜんちょうあく)
渾身(こんしん)
 
 
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  自分を見ない人
 
 その名は不思議
 几帳面な日本人(2010.6.18)
 2017/5/22(月) 午前 7:55
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28095708.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2010-06-28 几帳面な日本人
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20100628
 
 
シャローム氏は、取り憑かれたように書いてきますが、この記事、彼自身が書いた部分は、わずか11行に過ぎません。しかも、それは、引用するための文章です。彼は、全く反省しません。それが体質であることを、自分で証明している経過のようです。
 
終わりのほうは、ヤフー知恵袋のQ&Aからコピペしているようです。ふつうは加えて自分の意見を書くはずですが、そのまま、記事の重い部分になっています。彼は、整った記事の文章を書くための思路を持っていない、というのは、あるとき、彼が、人にもらった言葉を、全く違った意味で、悦んで書いていた勘違いか曲解を見てから、ずっと、一つの判断として思っていることです。
 
論理や説得力というのは、人によって様々ですが、その人なりの文章という書き方があるわけです。私もその範囲でしか書いていません。しかし、シャローム氏は、神の啓示とばかり自己絶対で書いているので、隙のない文章を書きたいのでしょう、しかし実際は、ひどい文章ばかりなのです。そこで反省して、自分なりを考えればよいものを、今でも、聖書の教えに反するところの、分かっている、文章を書いたつもりで、そのたびに、滑って転んで、滑降して、失敗して、転倒して、馬脚を露す結果になっているのです。最近は、キリスト教ではないサイトを訪問して、自説の聖書語をぶっているようなのです。このまま、死ぬまで、滑り、転び、空転し続けるのでしょうか。
 
>「みだらな思いで他人の妻を見る者は、心の中でその女を犯した」と、
>男子の胸に短刀を突きつけ、キリストの救いを指し示されたのです。
 
短刀を突きつけた、とは、乱暴な比喩です。このキリストの厳しい教えが、守れ、ということなら、誰も守ることの出来ない教えを説いたということになるでしょう。突きつけた短刀は、厳しい教えではなく、どんなに装っても、罪なき者は一人もいない、ということだろうと思っています。罪を認める者、そして、罪以外の見方をされなかった者を、キリストは、探し求めて、救いました。そういう意味で、救いを指し示しているということです。
 
一方、見える、分かる、守っている、という立場に固執する者に対しては、キリストご自身が、厳しかったのは、聖書に書いてある通りであります。
 
>今日の記事「几帳面な日本人」を読みながら、
>ふと「四角四面」という言葉が思い浮かびましたので、調べてみました。
 
あとの記事を見ると、作為を感じます。彼は面と向かっての遣り取りが出来ないために、単方向の記事で、当てつけめいた記事を連発してくるのでしょう。
 
几帳面も四角四面も、真面目という意味があるようですが、一方、ニュアンスとして、融通が利かない、頭が固い、という意味でもあるでしょう。頭が固くて、一つの妄執から抜け出せないのが、シャローム氏ですが、この2つの言葉で表せないと思うのは、彼に全く真面目を感じないことです。人の言うことをまともに受け取ったことがありません。だからレスはいつも的外れです。しかも悪意によって、削除、排除、消去、閉鎖をしても、自分の罪とは思わない厚顔は、几帳面とも四角四面とも思えません。ただ自分の因業に引きずられていることを信仰と呼んでいる妄想家です。
 

四角四面な性格とは、『自分の心も、自分が感じている事も、或は自分が思う事も』こうであるべきという性格です。がんじがらめに自分を固定化させている性格と言う意味です。言葉を変えて言うならがんじがらめに自分の自由を自分が奪っている性格です。

 
まさに、超常信仰の妄想に固まって、自分を固定化させ、人にもそれを、言って、または、暗示して、示して、従わないと削除するという無礼な性格で、まさに「がんじがらめに自分の自由を自分が奪っている性格」であるシャローム氏のことだと切り返しておきます。
 

融通無碍な性格は、自分が何でも『その場やその時に応じて、そこのものやそこ』の場に『自分と言う者の正体を消してしまって、その場に馴染む事が出来る、と言う意味です。簡単に言うなら『我が無くて』自分が何にでもなる事が出来る性格です。

 
コトバンク、デジタル大辞泉の解説
ゆうずう‐むげ〔ユウヅウ‐〕【融通無×碍】
[名・形動]考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。また、そのさま。「融通無碍な(の)考え」「融通無碍に対処する」
https://kotobank.jp/word/%E8%9E%8D%E9%80%9A%E7%84%A1%E7%A2%8D-650833
 
あっさり自分の意見を引っ込めて、嘘の賛同や、調子合わせをすることと混同してはいけません。何故なら、重要なテーマ、例えば、真実、信仰、などに、そうしてしまうと、真実は永久に、受け取れなくなってしまいます。わざと、そういう書き方をしている者もいます。気安く、人に対して、大きく受け入れたようなことを言いますが、その実、何も感じてもいないし、真摯に受け取ってもいない者もいます。自分の、いい加減さを誤魔化すためであって、挨拶や世辞と同じ使い方をしているわけです。社交で真実の追求が出来ているかのように装う詭弁なのです。
 

四角四面な性格と言う意味は、心理学的な表現をするなら、『自分の心はこうあるべき、自分の身体の健康はこう在るべき、或は自分の行動はこうあるべき』と始めに決めて置く事で、少しでも外れる事があると『そこに違和感を抱いてしまって、その違和感でさえ不安のネタにしてしまって、更なる不安の中で』自分はこうであるべき者と更に自分を硬く殻の中に閉じ込めてしまう性格です。

 
まさに、シャローム氏です。彼は、今、自分を硬く殻の中に閉じ込めています。しかしながら、彼は、一方で、言うことを受け入れてくれそうな人に対して、挨拶と世辞を言って、長いコメントを書いたりもします。そういうコメントは、キリスト者にさえ理解不能な聖書語の羅列であることが多いのです。言説に、説得力というものの必要性を感じていないからで、道理を説くつもりがないのです。神の啓示だから、分かる者は分かる、それが神の御心、という暗黙の自己絶対化があります。彼の卑怯なるは、キリスト者の私に言うとまずいからと、節操もなく、それを異教の人に長々と書いたりするのです。どうせ分からないなら、難しいこと書いている、難しいことが分かるんだ、という見方を相手にしてもらいたくてしょうがないのでしょう。キリスト者としては恥ずかしい限りです。
 

融通無碍な性格は、自分自身の『心の在り方や感じ方や考え方や、自分の行動でさえ』決め付ける事無しで、生きる事が出来る性格と表現出来ます。従って『自分の我が無い分だけ、自分の自由が確保できる性格』と言う意味です。

 
四角四面と融通無碍は、どちらも程度問題ということになります。徹底的に自我がなくなくなれば精神病になります。徹底的に自我を通してしまうのは精神病質であります。そういうことを書いておかないといけないのですが、彼は、気にしないのです。彼は、言葉面だけでも自分の言い分に刹那的にも助けになれば、彼はわざとらしく賛同して、誉めそやし全肯定に走っていまう自我中心の衝動的処世の奴隷です。
 

こういう事は人間の脳の機能或は、心に感情や考えが湧き上るシステムに精通する事によって説明する事も可能になります。

 
「人間の脳の機能或は、心に感情や考えが湧き上るシステムに精通する事」のできた人は、未だかつて、いないわけです。どちらも精通以前の研究途上でしょう。つまり脳機能を説明できる人がいない状況で、このようなことを書くのは、かなり思い上がりの強い人のようです。そこに、シャローム氏は、否応なく波長が合って、共振してしまうのかもしれません。
 

人間の心の中に感情や考えが湧き上がる事と、このシステムに対しての反応が過敏に又過剰に働き過ぎる時、自分の心(自我意識)が、『感情や考えを沸きあがらせている機能』に、花粉症と同じような『過剰防衛機能が働くのか?或は働かさないでいられるのか?の違いで、『大きく分かれる』と考えられます。

 
自我意識は人文科学の言葉です。ゆえに「花粉症と同じように」というのは、自然科学ではなく、比喩に過ぎません。これで、精通しているつもりなのでしょうか。人文科学は、自然科学のように明確な正誤がつけにくいことから、謙虚にならざるを得ないと思っていましたが、こういう人もいるのですね。
 

人間の心弐感情や考えが、湧き上がるシステムを説明している良い動画がありますので参考にして下さい。後はご自分で考察して下さい。

 
(引用始め)
ジル・ボルト・テイラーは、脳科学者なら願ってもない研究の機会を得ました。広範囲に及ぶ脳卒中の発作により、自分の脳の機能―運動、言語、自己認識―が、1つひとつ活動を停止していくのを観察することになったのです。
https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight?language=ja
(引用終わり)
 
脳が活動を停止してゆくのを、その持ち主である人が、観察できるのでしょうか。科学者の言うこととはいえ、いや、それだからこそ、断定を疑う眼を持つべきではないでしょうか。こういうことを簡単に受け入れて、書いてしまうのは、権威に弱いくせに、自分が教祖的な性格を持つ人でしょう。それらしい人が、鵜呑みにして宣伝しています。
 

結論を書くなら、自分自身に感情や考えを『湧き上がらせている者を、全て受け入れる事ができる時』自分自身を肯定しています。身に起こる事を、否応無しで肯定すると言う意味です。例え自分の死であっても『肯定して生きる』と言う意味になりますので、身に起こる事は全てが『安楽になります。』絶対の安心が手に入ると言う意味です。動画に在るとおりです。是が『涅槃寂静』の境涯です。

 
これで分かる人、納得のいく人、いるのでしょうか。
 

今の反対に、『自分の心はこうあるべき、自分の身体の健康はこう在るべき、或は自分の行動はこうあるべき』と四角四面に決めて掛かる時、
 
自分の心はこうあるべき、と決めて掛かった分だけ『心に制約が掛けられています。』自分で制約を掛けた分だけ自由がなくなっています。、この状態を『心を病む』と表現します。
 
自分の身体の健康はこう在るべき、と決めて掛かった時、その決めて掛かった分、自分の健康に制約を受けています。元々制約など無かった身体が『制約を掛けた分だけ制約されているからです。この状態を『自律神経失調症や過敏性腸症候群』と表現しています。
< 
 
こうあるべきと決めてかかった分だけ、心の制約、心を病む、というところに、シャローム氏は、相手をそう決めつけて、自己正当化と他者不当化を図るのに良いと思ったのでしょう。これが、シャローム氏という人なのです。自分の非だけは考えないのです。だから、極めて短絡的にワンサイドで書く、ということから、破綻を来たしてきたのです。こうやって、彼は、思い通りにならない人に病気のレッテルを貼り付けてきたのでしょう。そういう異常者が出来ないことは、言うまでもなく、自己診断です。彼は一度もしていません。自己診断だけでなく、ふつうに反省することも、彼は出来ない人だと思います。
 

或は自分の行動はこうあるべきと決めて掛かる場合では、その決めて掛かった度合いに応じて『自分の行動が制限されています。』この場合では、自分の行動を『自我意識である自我』=『顕在意識』で、字を書こうとする場合では、字を書く事さえ出来ない状態になります。話す場合も然りです。湧き上がる考えを、こうあるべきと決めて掛かる場合では強迫観念に成ります。
 
自分の行動をこうあるべきとした場合では『強迫行為』と言う具合です。行動に制限を掛けてしまう時『神経症』と表現します。
 
今書いた三つの事柄は、全く違う症状として現れていますが、その根は一つです。

 
私は、長いこと、信仰者に起こる強迫観念そして先入観のようなものを問題にしてきたという自覚ですし、私自身も、ときにそういう観念を感じているので、修正可能を是としてきました。その悪い例が、シャローム氏なのです。彼は今回も、その例に相応しいことを載せています。引用のような文章を読んで、精神病理が分かる気分にでもなっているのでしょう。
 
しかし、彼は、引用された脳科学者が自己分析をしているのに比べて、呆れるくらい彼は、自己分析をしていません、そういうことを書いたことがありません。彼は、自己分析が出来ないのです。それで、いつも、結論だけを書いて、批判されて、反論できないものだから、神の啓示だと言い張ったりするのです。結論だけで決め付ける、これは、まさに、シャローム氏の常套手段あります。
 
人の心を覗き、それなりに診断をする人は、自分の心を見ることから始めます。シャローム氏にはそのスタンスが全く見られません。もちろんシャローム氏は精神病理学者でも精神科の医者でもないわけで、にもかかわらず、人の心を決めつける人は、一段と作為が強く、それこそ、詐欺師と言ってもいいのではないかと思います。
 
シャローム氏の悪辣さと危険が増すばかりのようです。彼は、自分を肯定しない人に、自分に反対する人に、病気というレッテルを貼り付けてきます。彼は精神病理学者ではなく、むしろ、何らかの病理に貪られているのに、付け焼刃の知識で、人を決めつけます。彼に関わる人は、その決めつけに会ったとき、はじめて、彼に見切りをつけます。
 
自分だけ難を逃れたければ、逃げるのが一番よいのですが、彼が、キリストの名によって、人を欺き、偽りの自分中心まみれの神を伝染させようとしている経過が今も続いているので、その逃げの態度は自分はとるべきではないと思って、批判して、今に至っています。信仰サイコパスの詐欺師が、キリスト教の敬虔の勘違いから、批判せず鵜呑みにしやすいという習慣的体質の信仰者に、また、やさしい人々に、つけ込んでいるというイメージは、払拭されることはないような気がします。彼が、書くたびに強化してくれるからです。
 
 
(2017年05月23日、同日一部修正)
 
払拭(ふっしょく)
 
 
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  利己像を語る者
 
 その名は不思議
 失われた確かな自己像
 2017/5/21(日) 午前 9:55
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28094352.html
 
 
シャローム氏の、自己弁護の醜い記事が続きます。最近は、そのことだけ、執念深く続けているようです。投稿する記事が、転載か自作かによらず、正当化を示す記事ばかりで、罪や不全に対する洞察も感覚も、全く持たない反信仰となっています。自分を見ない者の宿命的な末路なのでしょうか。
 
>生活の不安、健康の不安、老後の不安などなど数えていけば、
>不安要因はいろいろあります。
>その他、理由のハッキリしない漠然とした不安もあります。
>そして、人はその不安や恐れから、
>しなくてもよいことをしてしまうこともあります。
 
常時平安の偽宗教を捏造するのも、その一つでしょう。
 
>不安の反対が平安です。
>神のいのちの表れである御霊の実の3つ目は「平安」です。
>イエスのうちには平安がありました。
>嵐の湖のただ中で、ともを枕にして眠っておれる平安(平和)がありました。
 
そのキリストの平安と平和を、そのまま自分も得られる→得られた、と吹聴して、自らの不全や罪や偽善や悪意を省みなくなっている者を批判しています。
 
>マルコ4:36-38 
>そこで、弟子たちは群衆をあとに残し、
>イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。
>ほかの舟も一緒に行った。
>すると、激しい突風が起り、舟は波をかぶって水でいっぱいになってきた。
>ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。
 
常人とは違うキリストの振る舞いです。
 
>静かなベットの上で、何の妨げもなく眠っている人のように、
>イエスは嵐の水の上で静かに眠っておられました。
>弟子たちがいろいろ言ってきて騒ぐので、起き上がり、
>波と風に向かって「黙れ、静まれ」と言われると、波風が静かになりました。
>信じられないような、すごい奇跡ですね。
>イエスの平安は波風によって妨げられることがなかっただけではありません。
>その平安は騒ぐ波風を静め、穏やかにする力をもっていました。
>驚きですね。信じられないような話です。
 
信じられないような話と書いておきながら、このような平安が自分にも与えられるという話の方向へ持っていこうとしているようです。無理に解釈して、罪を忘れて、超常が自分に起こることを信じているのです。すごいですね、信じられないでしょう、でも起こるのです、という、安っぽい宣伝になっています。
 
>更に信じられないようなことをイエスは、言っておられます。
>何と、その平安をわたしたちに与えると言っておられます。
 
このように。
 
>「わたしは平安をあなたがたに残して行く。
>わたしの平安をあなたがたに与える。
>わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
>あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27 口語訳)
 
私たちの平安は、私たちのために用意してくださった平安であり、荒波を一言で沈めるような超常奇跡ではありません。それを同様に考えてしまうところからは、無理やりな平安しか語れず、結局、シャローム氏のように、都合の悪いものを無視して削除し、その刺激のない人為的環境を平安と呼ぶような、ひどい勘違いの自分信仰が生まれて来るだけなのです。シャローム氏は、世が与える以上に悪質な、自分が自分に与える欺瞞によって、安穏を神の平安と呼んでいるのです。
 
>イエスを信じ、イエスとのつながりをもっている人に与えられる平安です。
>それも神のいのちの表れと言えます。
 
ですから、神の命を人が感覚できるような話は、カルトの宣伝であり、人が人の節操を持たなくなった結果であり、人間のための信仰としては、OUTなのです。
 
>次回に続きます。
 
続けてほしくないですが、私が生きておれば、次回の批判に続けます。
 
ここから、シャローム氏の、目を覆いたくなるような詭弁です。
 
>健全な自己像を支える3本の柱があると言われます。
>第一に存在感。
>人はありてあるものという自存的存在ではありませんから、
>一人の人として存在を支える確かな心の安心感、平安の確かな拠り所です。
>第二に帰属感。
>同時に一人で生きていくことは出来ませんので、自分をありのままで受け容れられる
>心の確かな帰属感の拠り所必要です。
>第三に有能感。
>また人は帰属するところで、自分の為しうる働き、有能感が心の拠り所です。
 
言葉で3つ現わして、これで人間を表せたつもりでしょうか。それとも、どこかからの借り物でしょうか。それとも、存在が、この世に帰属して、有能に満足することを、またぞろ、ボロクソ節でたたきたいのでしょうか。
 
>すべての人は二人の父と母の間に生まれます。
>人間の基本的存在感は両親との関係によって培われます。
>また両親にありのままで受け容れられてはじめて基本的帰属感が養われます。
>また両親の自分に対する笑顔や喜こんでいる姿によって
>自分の基本的有能感をはぐくまれます。
 
まだ、おびただしい罪と偽善の累積にもかかわらず、シャローム氏は、考えることを拒否しない人ならば誰でも一度は聞いているだろうと思われることを、さも、あなたがたは知らないだろうが・・、とでも言いたげに、インテリジェンスを表したつもりで、牧師として、賢者として、説教をしたがります。
 
私は、このようなやり方で、彼に、幼児期に虐待を受けて長じて虐待者になっている、と言われたことがあります。根拠は、何も示されていない遣り取りで、です。私は、父母の愛には人並みに恵まれて感謝していますが、このことが問題となるのは、むしろ、彼のほうではないかと、最近、考えることがあります。
 
そう推測した根拠は、彼には、被害者意識が目立ち、一方、自分について、罪悪感を感じることが出来ないのではないかと思うことが多く、そのために、信仰も、罪について鈍感であり、やたら神を誉めて、やたら喜びを強調し、自分を見つめる内省力がなく、敬虔も柔和も見せかけで、自分を棚に上げて、他者をぼろくそに言うボロクソ節が目立つことです。
 
>しかし、人は不確かなこの世の現実のなかで生を受け生きています。
>すべての人がこの世の不確かさの中で確かな自己像を必要としています。
>それをこの世と人に求め、期待しても、健全な自己像を与え合うことは困難ですが、
>だれもが確かなものを求め、愛し、愛されることを求めずにはおられません。
 
そうして、シャローム氏は、訂正不能の自己愛の世界に埋没していったのでしょうか。
 
>この世界のすべてを創造し、人をご自分のかたちに似せてつくり、
>愛しておられ、すべてを統べ治めておられるありてあるものなる方に
>出会い、交わり、知ること、それが信仰です。
>ありてあるものなる方への信仰によって人はあるべき自己像を回復されます。
 
>ありてあるものなる方は、私たちの見失われた自己像を示し、
>回復するために、イエスさまを遣わしてくださったのです。
 
自分を見ることなく、自己像について、全く知らない者が語っています。彼は、実に、自己についての問題を語りません。人のことばかり・・。
 
埋没の先に、キリストの名を掲げて、神と出会い、交わり、知る、ということを強調していますが、その経験がどのようなものであったかについて語ったことが一度もない、彼シャローム氏なのです。語ったことにならないのは、彼は、彼自身の罪について自覚がないから、話が、いつも自分勝手、自己中心、自己正当化の詭弁にしかならないのです。彼は、己の思い込みの神殿の中に、埋没しているからでしょう。にもかかわらず、神とキリストと聖霊を持ちだすところに、彼の、今の、偽善が、醜く馬脚を露すことになっています。
 
>「さてイエスはエリコにはいってその町をお通りになった。
>ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。
>彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、
>群衆にさえぎられて見ることができなかった。
>それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。
>そこを通られるところだったからである。
>イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、
>「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
>そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
>人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
>ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。
>また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
>イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
>人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」
> (新約・ルカによる福音書19章1~10節)
 
取税人は、娼婦とともに、キリストが、先に天国に入るであろうと言った人々です。彼らは、信仰について、深い知識があったわけではなかった。しかし、すでに、この世から、罪びと以外ではない、というレッテルを押されて蔑視されていた人々です。「失われたものを尋ねだして救う」キリストに相応しいという、キリストご自身の判断です。ここには、罪人を救おうとするキリストの、人間というものに対する鋭く深い洞察と、共感と憐れみつまり愛があります。超常奇跡の言葉面だけで善悪を判断するような者とは全然違います。
 
取税人も娼婦も、もはや、この世において宝を持ちません。人に会えばマイナスの評価が待っているだけだったのです。しかし、さて、自分も罪人だから救われると言いたげな、シャローム氏は、どうでしょう。彼は、元牧師という体裁に、しがみついています。それゆえに、牧師のブログに反対意見が付くことを我慢できず、ろくに読まずに、コメントの数が多いから荒らしだ、という勝手な判断で、コメントを削除し、さらに全記事のコメント欄を閉鎖してしまいました。彼は、かつて自分に与えられた、牧師、そして、聖書の先生という体面に、こだわり、この世に仕えて、すがりつき、手段を選ばす、人と人間性を切り捨ててきたのです。
 
彼シャローム氏は、キリストに救われる罪人ではなく、罪びとであることを何よりも嫌う者です。弱さの恵みを全く理解していません。行いが、それを証明しています。
 
このような経緯があったにもかかわらず、この記事のような、偉そうに上から下を見下ろすような説教として、闇に積まれた罪と偽善をひた隠しにしたまま綺麗ごとを並べるような、シャローム氏が信仰と名付けたものが、いかに、逆に罪と偽善と詭弁で出来ているかを、私は明らかにして、広く読者に告げたいと思わずにはいられません。
 
キリストが探し求めるのを、自分の飾りが捨てられないために、拒み続けているのが、彼、シャローム氏であります。彼が、正しいと思って書けば書くほど、より明らかになるその正しさの歪みを指摘することによって、彼の罪と偽善と自分信仰が同様に、より明らかになるということです。彼が、自分は弱い罪人だが、それでもキリストは救ってくださいます、と讃美したいのだとしても、本当に弱い罪人として振る舞っていないことが記録されているのですから。偽りの弱がりは、今までの証拠から、もう通用しないのです。
 
罪を認めず、罪の告白をせず、神の前に真実を隠し、信仰の態度を改めることをしない者は、罪を自分で何とかすることになるのでしょう。それは神の下での信仰生活ではなく、奇しくも私のブログの名前、ウソの国、になるのだろうと思います。
 
 
(2017年05月22日)
 
歪み(ゆがみ)
 
 
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