ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年05月

 
  転載の悪用
 
 その名は不思議
 まずイエス様に癒していただく恵み
 2017/5/20(土) 午前 11:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28093129.html
 
 転載元:~満ちる~
 転載元記事:No.237 ゆるし/百人隊長の目線 2017.5.14
 
http://mitimitiru.exblog.jp/26669157/
 
 
シャローム氏の転載記事ですが、主イエスは、悔い改めない偽善者を癒やすと思っているのでしょうか。だったら、パリサイ人のことを、あれほど批判はしなかったでしょう。キリスト者の弁えに真っ向から背いておいて、現代のパリサイ人、被愛妄想無罪信仰の彼シャローム氏は、被愛妄想新興進行です。皮肉が過ぎています。失礼。
 
>互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。
>主もあなたがたをゆるして下さったのだから、
>そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
> <新約・コロサイ人への手紙3章13節>
 
転載元は、ゆるすことについて語っているのですが、
 
>実は、この動作(モーション)は、
>相手に「赦します」と言っているように思えますが、
>実は赦せない自分に対して言っている事にもなるのです。
>とても不思議ですが,相手にきっぱり「赦します」といったとたん、
>本当に赦せてしまうのです。
 
まず、神の知恵であるかのように、信仰に結び付けてはいけません。こうしてみたら、という、個人の知恵に過ぎませんから、個人しては、という前提で書くべきことです。
 
自分が、ある日、感じたことを一般則にするのは危険を伴います。声に出して「赦します」と、きっぱり言って、起こることは何かと言えば、気合いの効果でしょう。そして、それは、目一杯考えた後で、これ以上考え続けると病気になりそうなときには有効でしょう。つまり、結果だけを声に出して言う、というのは、一つの思考停止の表明でもあるわけです。それでよいときと、悪いときがあります。
 
決して許してはいけない人がいます。そういう者に限って、この記事を転載しているほどに、無条件に赦されることを求め、しかも、それが成就したかのように言い張ります。その者は、悔い改めないまま罪が赦されると言い張っているのです。このように、罪を認めない者の罪は、赦しようも、赦されようもない、ということです。そういう者に、うっかり、赦しを与えてしまうと、その赦しは、悪と罪の全面許可になってしまうのです。
 
ここで、赦しと許しの違いを説明しても意味がないのでしません。何故なら、この記事は、会話において、ゆるす、ということをテーマとしているからです。また、この漢字の意味の違いは、一般には、厳密に区別されているとは言いがたいからです。
 
>心の中には辛かったり、苦しかったり、悔しかったりした傷が残っています。
>傷が癒されて初めて私たちは人を赦すことが出来ます。
>相手を知らず知らずのうちに攻めていた自分の心を
>まずイエス様に癒していただくことです。
>「はい、赦します」とはっきり言うことは、
>自分の傷を癒していただく
>素晴らしい恵みの「ことば」をいただくことでもあるのですね。
 
やはり、信仰に直結させているようなので、OUTだと申しあげます。つまるところ、キリストに罪を赦していただくのだから、自分も他人の罪を赦さなければいけない、ということのようです。キリストが罪を赦すことを、無限に拡大して、いかなる罪も赦される、と言う者は、悔い改めなくても赦される、と言っています。こういう者がいるのだから、罪を赦す、という教えが一般化できないのは明らかなのです。
 
ゆえに、読者に対して、罪を赦しなさい、と教える暇があったら、自分が本当に赦せたかどうか、赦すことは本当に良いことであったか、を考えるべきでしょう。赦す、ということは、難しいことなのです。社交の世辞とは違うのです。人間は、キリストほど、正確に洞察して生きてはいないのです。だから、よくよく考えることが必要で、そうすると、本当に正しい赦しを与えるのは、キリストだけだろうと思われてくるのです。
 
こういうところにも、キリスト教と信じていることの危うさが表れてきます。こうすると善い、こうするのがキリスト者だ、という方向しか書かない人が多すぎます。こういう方向性は、結局、そのように出来ている自分を、神に感謝し、神を讃美する、という短絡になり、できているか、ということの思慮を失わせる危険があります。
 
ひどいのは、悔い改めなくて赦されることを日ごと夜ごと賛美して、一方で、平気で、嘘をつき、言いのがれの詭弁を弄し、自分の罪を、他者のせいにして、自分を見る人に隠し、神にも隠そうとしている者がいます。その者が、この記事を転載しているのです。これは、言葉の表面が似ていることから、自分の邪悪な目的のために、人の言葉と神の言葉を悪用する行為です。そうすることで、ますます、罪を深くし、偽善だらけになり、自分の信仰だけでなく、人に見せることで、他者の信仰まで破壊しようとしているのです。今後を考えて、危険な転載を許可しないでほしいです。
 
>イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを
>見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
>  <新約・マルコによる福音書15章39節>
 
>谷口和一郎氏は(要約しますと)
>「どうして百卒長は『この方はまことに神の子であった』という告白が出来たのか。
>それは彼の信仰告白であり、聖霊による告白だ。
>『百卒長は下から見上げていた』という場所が十字架の下であったということ、
>それも真正面、下からイエスを仰ぎ見る場所であったからだ。
 
>ここで神を礼拝する者となるほかにイエスを理解できるところはない。
>またそこでこそ聖霊は働いてくださる。」
>【「舟の右側」5月号参照】と言っています。
 
人が聖霊の働きを断定することに嫌悪を覚えます。十字架の下から見上げて、その立場にいることから、仰ぎ見ていることからの発言が、信仰、または、信仰の芽生えであることについては、そうでないと、この発言はないでしょうから、同意します。
 
>私たちは、下からではなくて「上から目線」と
>よく言われたり、言ったり(笑)しますが、
>時には、「上から目線」どころか、親や上司に向かって、
>「何故私を支配するのか」と思ったりもするのです。
>その人の足元に座らなければ、見上げることはできません。
 
転載元は、親を見上げて従え、というのでしょうか。支配的な親に対して、それを否定する発言を言ってはならないというのでしょうか。こういうのが、教会で、牧師に幼子のように盲従することを植え付けることになりますから、嫌悪します。それに、見上げる対象は、誰でしょう。キリストであり、神なのです、このような見上げ方は、神以外に向けてはいけないのです。また、そのような比喩も不適切なのです。
 
>イエス様を仰ぎ見る十字架の真下で、私たちの高慢な罪のために
>ご自身の命を捨ててくださったイエス様を仰ぎ見るとき、
>私はイエス様のように死ぬことはおろか、人のため小さな犠牲でさえも
>なかなか払うことができない、ただ十字架を仰ぎ見るだけの小さな者であること、
>つまり私の本質を知らされます。
 
同意します。シャローム氏は、こういうことを認めません。彼は、高慢な罪を認めません、非を認めません、小さい者であることも認めません。彼は、ただ自分に、何をしても赦される特権と常なる正当化を与える偶像の神を、日々、讃美して、この記事を悪用するために転載しています。彼は「ゆるされるから、ゆるしなさい(彼を)」とでも言いたいのでしょう。
 
>裏切り者のユダでさえ、神様の救いのご計画の中で
>大きな働きをさせられたと言ってもいいでしょう。
 
理解して言っているとは思えない発言です。この人は、ユダを赦す資格があるのでしょうか。ユダの裏切りによってキリストは捕えられ、十字架につけられ、殺された、という事実を、人の敬虔と柔和で、和らげることは、誰にもできません。
 
>そのユダ以上に私たちは毎日イエス様を裏切っているかもしれません。
 
白々しい信仰自慢になってしまいます。低くすれば良いというものではありません。ユダについては、頭は良かったようだが、心が砕かれていなかったので、キリストを、自分の信仰観?によって、ユダが逆に動かそうと企んだ、等々、解釈は出来ますが、裏切って自殺して腹が引き裂け腸が流れ出たというほどの報いを受けたユダについて、聖なる領域以外、誰も語れないのです。ユダにようにだけはならないようにと、キリスト者は考え、日々祈り、生きているのです。そうでない者が、神を恐れず、この記事を転載しています。
 
>私たち一人一人がどのように小さく罪深いものであったとしても、
>神様が十字架の愛へ私たちを導くことが出来るのは、
>イエス様が誰よりも一番へりくだってくださったからです。 
 
是とします。シャローム氏は、小さく罪深い者であることを認めません。だから、罪を悔い改めることなく赦されるという無罪信仰を引っ提げて、このように、今も、信仰を語るつもりで、他者の記事を悪用することにしかならないような転載をしているのです。
 
キリストに癒していただくことは大切ですが、隠し事を持ってキリストの前に出て、癒しを待っていても、あなたはどこにいるのか、いったい、あなたはいったいなにをしてきたのか、と問われることのないように、祈りは正直でなければいけません。信仰に必要なのは、それだけと言ってもよいくらいです。だから、世界宗教と万民救済につながっているわけです。正直は、必然的に、悔い改めに、つながります。嘘つきの偽善は、必然でしょうか、悔い改めることがありません。
 
人間としての思慮と情感の誠実さを失った者は、人の話と聖句を携えて、正直な人たちに混じって、罪と闇と偽善を隠し持ちながら、癒されますね、何でも癒やされるんですよ、などという詭弁作りの偽宗旨を唱えに、信仰者に見せかける社交の薄笑いを浮かべて、一皮むけば、隠し事の罪と偽善がぽろぽろ落ちてくるような嘘っぱちの悟り顔で、いつものように、やって来るでしょう。
 
そして、人も神も欺いて悔いない者は、隠し事を誤魔化すように、ひときわ大仰な讃美で、神に仕える信仰者の間で、自らを高めたまま、神に、自らの義を感謝するでしょう。そういう者と交わって、同類となってはいけません。彼は、正直に答えるまで、人に問われ、次いで、神に問われ続けるのです。彼は、何度も自分が唱えていた永遠の意味を、そこで受けることになるでしょう。
 
もう一度、言いますが、何をしても、しなくても、神の義を得るための条件達成にはなりえません。神に与える義務はないからです。また、全能の神を説得できるような人の行為などないからです。ただ、低き被造物として、正直に祈ること、そして、神に憐れんでいただくこと、これ以外には、ないのです。
 
 
(2017年05月21日、同日一部修正)
 
和らげる(やわらげる)
腸(はらわた、臓、腑)
引っ提げる(ひっさげる)
 
 
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  臭う欲
 
 聖書の味(2008.6.16)
 2017/5/19(金) 午前 8:52
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28091680.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2009-06-22
 舌に留まれ、のどへ走るな、このうまきもの
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20090622
 転載元記事:2008-06-16
 聖書ってほんとうにいいものですね
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20080616
 
 
転載元は、まず、振る舞われた数々の料理の話をします。20行余りも割いて、うまかった話です。真剣な信仰の話より、うまい話が好きなのでしょう。今までの事情を抱えている私だけかも知らないが、貪欲、という言葉を思い出しました。いやな感じなので、引用は省略します。
 
>そのほとんどは伝道の途中の振る舞いだ。
>恥ずかしながら、集会でたくさん聞いた聖書の話は
>こんなに覚えてはいない。ところが人間のことばでなく、
>神のことばの「聖書」はよく覚えている。
>それは黄金のように輝かしく、   
>銀のようににぶく光ることばのかずかずだ。
>旧約聖書ぼうとうの「創世記」1章1節の
>荘重な「初めに神は天と地を創造された」に始まり、
>新約聖書のおわりの「黙示録」22章20節の
>「アーメン、主イエスよ、来たりませ」まで、
>どれだけたくさんの聖なる言葉を舌にのせ、味わい、噛み、
>のどへ送ったことか。それは胃でこなれ、血となり、肉となって、
>わたしを育て、養ってくれた。
>この「記憶に残る」聖書の味を、またしても舌にのせ、
>ゆっくり味わい、のどへ送るのだ。
 
派手な言葉で、飾り立てただけの誉め言葉を並べています。光っていて、人が作られ、主が来られる、という話で、聖書の深さが伝わると思っている人が書いています。そして、自らの口の中や内臓、という、やや気持ちの悪いところを遠慮もなく書いて、食べて呑み込んだ、という聖書の味を喩えています。口と内臓とか、自分が飲むとかいう話が、気持ち悪いのではないか、下品ではないか、ということは考えないようです。
 
私も、しばしば気持ちの悪い比喩表現を用いることがありますが、それは、実際、気持ちが悪いから、その譬えとして書いています。この人は、比喩の選択を間違えていると思います。比喩の対象は、神の言葉なのです。人間の、ましてや、この人やシャローム氏の、口や舌やノドで消化できるものではないのです。
 
>「あなたのみ言葉は、いかにわがあごに甘いことでしょう。
>蜜にまさってわが口に甘いのです」(詩篇119・113、口語訳)
 
この人も、分からない、とは言えない人のようですね。み言葉が甘いのではなく、この人が甘いのだろうと思います。ここからは、同じサイトの別の記事の転載です。
 
>聖書って本当にいいものですね(2008.6.6)
 
映画評論家のことを書いて(気持ち悪いので省略)、その真似をして
 
>「いやあ、聖書って、ほんとうにいいものですね」と言いたい。
 
しかし、この人の記事は、信仰の糧にならない自慢話です。どこに胡坐をかいているのでしょう。そして、シャローム氏は、補足もしないようです。似た体質だから、うん、うん、おう、おう、その通り、とでも、思っているのでしょうか。
 
>ありがたいことに、わたしは勤めが国立国会図書館、
>それも調査局だったので、いつも机の周りは高い書架にかこまれ、
>書庫に入れば、そのころでも500万冊の蔵書が顔を並べていた。
>しかし、その万巻の書籍のなかで、くり返して読んだのは聖書だけだ。
>たぶん旧新約通巻で15回は読んだと思うが、
>父などはその倍以上読みこんだだろう。
>なぜ聖書はそんなにくり返し読む値打ちがあるのか。
>聖書は今も毎日読んでまた教えられるからだ。わたしだけではない。
>世界中の無数の人々、それも平信徒が読みつづけている。
 
聖書を読む、という、読書量が多いほど、信仰を深くするとは限らないという例でしょう。文章全体に、居丈高な断定という印象です。シャローム氏と同じで、心貧しさなど、何処にもなく。
 
>わたしに聖書の面白さを教えてくださったのは、
>経済学者の酒枝義旗先生だ。日曜ごとの聖書講義を10年お聞きした。
>なるほど、聖書はこういうふうに読むのか、こうも読めるのかと、
>驚きながら先生の話を聴いた。
 
この人にとって、聖書の面白さというのは、そんなに、はっきりしているのでしょうか。そうだ、という返事が聞こえてきそうなくらい、自分と仲間を誇っている態度を感じます。
 
>たしかに狭い人が聖書を話すと聖書も狭くなり、
>きびしい人が聖書を語ると聖書もきびしくなる。
 
ゆえに、このような人は、このように、狭い人を想定して、自分の広さを自慢するのです。
 
>酒枝先生の聖書講義は、深い学識を底に秘め、
>ご自身、主から教えられたことを、うれしくてたまらないかのように
>語られる、そのゆたかさ、のびやかさに特色がある。
>聞くものを笑わせ、胸を熱くさせ、キリストを指さされた。
>わたしも「いやあ、聖書って、ほんとうにいいものですね」。
>この思いで聖書を話したい。ほんとうにそうなんだから。
 
嬉しそうに語る説教というのは、ときに、シャローム氏や、この人の、文章や説教のように、有頂天の多幸気分や、預言者かヒーロー気取りになることがあると、私は、こういう記事を読むほどに、感じて、何度も批判記事にしています。「ほんとうにそうなんだから」ここに、これが信仰?の確信になっていて、訂正不能にさえなっている、という臭いを感じます。何故なら、どこが、どういうふうに、良いのか、全く書いていないので、説得力がゼロだからです。いい、いい、いい、と連呼する説教は、心貧しいのではなく、ただ貧困だということです。現実の中の実感や掘り下げた洞察がどこにもないのです。
 
こういう説教こそが、黙って、文句を言わずに、頷く態度を、信徒に植え付けてゆくのでしょう。ゆたかで、のびやかで、笑わせ、胸を熱くさせる、というのは、説教者だけが、上気して、好きなように、気持ちよく語っている姿ではないでしょうか。社交の世辞の気遣いを信徒にさせるタイプのようです。そういう人は、裸の王様であったり、空虚な権威主義であったりします。底が見えてからは、ピエロかペテン師に過ぎません。自分信仰の自尊の権威主義の伝染だけが脅威となります。シャローム氏において、顕著であります。
 
この人の記事を、いくつか、シャローム氏のブログの記事で今まで見てきました。実感よりも、誉めて自慢する態度では、聖書のことを話さないほうがマシだと思います。自分の弱さや罪を考えたすえの、信仰者らしい、敬虔も柔和も見られません。シャローム氏において顕著ですが、うっとうしいだけの親切の押し売りは迷惑であり、伝染性を考えるとキリスト信仰の未来を思うにつけ、無関心な信仰者が多いことには、暗澹たる思いがします。
 
>「これらのことが書かれたのは、
>あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
>また、信じてイエスの名により命を受けるためである」
>(ヨハネ20・23)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:30
イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
20:31
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
 (ヨハネ書20:30―31、新約聖書)
 
この人も、シャローム氏も、聖句の箇所を確認しないようです。23節ではなく31節。
 
参考までに、上の引用の前の聖句を挙げておきます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28―29、新約聖書)
 
現代においては、キリストの肉体を見ることが出来ないので、超常の奇跡も、正常な人は、それほど期待しないものですが、超常信仰者は、それだけを待っているようです。もう、何の言い訳も通用しなくなって、あとは有無を言わせず、どんでん返しの奇跡で救われる以外に術がなくなったからでしょう。それで、自分に都合の良い術なのに、どんでん返しを、また、神に当てはめる、という逆のことを、日夜、企み、実行し、記事を書くのです。それをまた、決めつけ、自分を高める唯一の手段として、日々、神を裏切っています。見ないで信じる、という意味も、曲げて固定しているのではないかと思います。見えないところに、奇跡は、魂の奇跡として、起こっているのですが。
 
超常信仰の自分信仰者は、魂の奇跡ではなく、滅多に起こらない物や肉体の奇跡だけを信じるようになっています。見ないで信じるのだと、二千年前の、信じたからといって今何かが変わるわけではないことを、事実として信じて、譲れない、などと言い張ります。その分、人間にとって大事な思考と感性を、批判や反対意見といっしょに、削除してゆくのです。彼らは、魂の奇跡に接しても、超常の奇跡ではなく人間的な出来事だから、何も感じず、信じないでしょう。シャローム氏において、今までの経過においても、顕著であります。
 
自分信仰者は、人間性を軽視して自慢ばかりします。いたるところに、その臭いが漂います。彼らは、聖書の解釈を絶対とします。それを普通だと思っています。信仰を、人の思想を表す文章と同じように見なして扱います。聖書の解釈は誰がするのでしょう。恐らく、彼らは、神の啓示だから、という詭弁をまた持ち出すのでしょう。聖書が神という絶対者についての文章であることへの恐れを知らないからです。彼らは、自分で分かったと思ったら、神と神の言葉を決めつけるのです。
 
彼らは、何事にも動じないのを信仰だと思っているようだが、実際には、人を無視しているだけのことが多く、無視して無感覚になることを欲しているだけです。シャローム氏において、顕著であります。無感覚で、反応しないことが信仰だと思っているので、だんだん、人間に対して心を配ることが出来なくなります。人の気持ちが分からなくなり感知できなくなる結果、共感は失せて、不機嫌と上機嫌だけの心になってゆきます。過ちに対して鈍感で、被害者意識において過敏になり、思うようにならないと短絡的に、強制力による削除などの行為を発動しやすくなります。
 
そして、訂正不能の信仰から、自分の不備や矛盾を認めることがなく、信仰の罪も認めなくなり、災いを、ひたすら、他者のせいにします。こうやって、彼らは、人間性を失い、温もりと潤いを失い、思慮と情感を失い、厚顔だけが目立つようになり、厚顔を隠蔽する浅はかな世辞しか言えなくなり、とぼけた骸骨のように滑稽になっているのに、自己矛盾に気づかず、悔いず、改めず、祈りは、やたら自分びいきの神に対する讃美となり、自分だけしかいない自己領域に神殿を捏造し偽装し、何を言われても、同じ言い分を繰り返すという断末魔となるのです。批判されても、何もしないし、できなくなっているところの、シャローム氏において、彼が、讃美すればするほど、語れば語るほど、あらゆる判断と選択において、顕著であります。
 
 
(2017年05月20日、同日一部修正)
 
胡坐(あぐら)
頷く(うなずく)
術(すべ)
滑稽(こっけい)
 
 
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  偽信仰
 
 
シャローム氏は、今まで数々の詭弁を弄して、自己正当化の言い逃れをしてきました。罪は悔い改めなくても赦され救われるから気にしなくていい、という、無罪信仰であることが分かったのは、まだコメント欄があった頃です。彼が、うっかり、本音を吐いたので分かったことです。最近も、彼は、うっかり、キリストの言葉を、遺言だと言いました。
 
こうして、彼が、反信仰者である証拠は、少しずつだが、積み重ねられてきたのです。批判をしなかったら、これらは明らかにならず、彼は、今でも、元牧師として、偉そうにゴタクを並べて満悦し、それに影響される読者も、さらに増えたことでしょう。
 
今でも、ネットでは、たまたま訪問した人が、影響を受ける可能性があります。すでに取り込まれたと思われる者と、彼の師ではないかと思われるほど似たような主張をしている者がいます。彼は、超人間的、超現実的な、悪魔的な解釈で、これからも影響を及ぼし続けるでしょう。
 
彼は、無罪信仰者であり、言説がまとまらず矛盾や破綻の目立つ人で、人間の理路や情感が理解できないので対話が成り立たず、聖書も思想も政治も理解できていないという印象が強いのですが、無罪信仰の修正不能な精神生活のせいもあるのでしょう、そのことを全く自覚しない人であります。彼は、本心では、全く反省せず、非を認めないの人なので、社交の世辞以外で、本気で、謝罪したことがなく、反省を書いたことがありません。これは、反省したなら、それが文章に表れるはずですが、全く表れなかったという経過から判断していることです。
 
彼の有り様を想像すると、恐らく、自分が理解できないことを、自分に神がこの世の知恵ではなく神の知恵に頼ることを教えてくださった、とでも解釈するのでしょう。また、キリストの言葉を遺言と言った、などの失言については、失言を反省するのではなく、このようなことを言う自分でさえ、救って無罪としてくださるとは、神は偉大なり、と讃美するのでしょう。そこに悔い改めはなく、過ちを犯さないように努める糧すら何もない無罪化処理をするのです。
 
ここに共通してみられる信条は、どこまでも、自分は救われるという前提で、神のほうを曲げて解釈し続けている、ということです。ここにおいて、祈りは、彼にとって、何の意味もなくなっています。自分自答の啓示を捏造し敷衍しようとして、そのために、コメント欄を閉鎖しています。どう考えても、この脳天気な厚顔は、へらへら笑っているとしか思えないのです。彼は、まさに、あらゆる善の良識を、あざ笑って、なぎ倒して進むでしょう。
 
このような、どこまでも、自分は救われる、という前提に立つ者は、この世界では、多くの齟齬を来たすけれど、それらを全部、自分のために、オートマチックに信仰讃美に変えてしまうのです。これは自分信仰であって、決してキリスト信仰ではありません。
 
信仰に、自分の欲だけがあり、自分を引き締める何の戒めも、何の節操もない、というのが、彼の信仰です。彼に対しては、もはや、説得するのではなく、キリスト教やキリスト信仰という名前で広まることのないように、彼の矛盾と齟齬を捉えて、周りから言論の圧力を加え続けるしかないのです。
 

 
こみいった思想や論理が理解できない人は、たくさんいると思います。私も、学問的なについては、詳しいことは知らずに、感想を書くにとどめています。例えば、神学、哲学、思想、政治、などです。私も含めて、多くの人は、専門的に、例えば聖書の解釈を、原語をまじえて書くなどとということは出来ません。
 
しかし、信仰については、信仰者として生きており、また、それを求める立場からは、言えることがあるのです。専門知識ではなく、そこに暮らしていることから、つまり信仰者の自覚で明け暮れていることだけから、言えることを考えて書いています。
 
 
(2017年05月19日)
 
齟齬(そご)
捏造(ねつぞう)
敷衍(ふえん)
捉える(とらえる)
 
 
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  泣いてください
 
 その名は不思議
 人の喜び、イエスの喜び
 2017/5/17(水) 午前 9:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28088979.html
 
 
引用+彼の記事のようですが、批判は区別せずに書いています。彼は、どんなに批判されても、何ごともなかったかのように、記事を書いてきます。彼は、反論できたことがありません。彼は、弁明できたことがありません。だから、コメント欄を閉鎖しています。批判コメントを見なくて済む環境で、彼は、平気で書いてきますが、これは不感不応の異常な無視であって、信仰によって、くじけない、ということとは全然違います。彼の偽善に騙されないでください。
 
彼は成り上がって、何も分かっていない自分に気づかないのです。平気で書くことが信仰だと思っているのは、それこそ、人の気持ちが分からなくなり、怒気とも悪意とも気づかずに書いているのであり、それはそのまま信仰としてOUTでなのです。悔い改めることもなく、いつまで、偽善を何度も押し出して信仰の邪魔を続けるつもりなのでしょう。
 
何が腹立たしいかと言って、シャローム氏は、返事を書く、あらゆるスペースを、彼の意思によって、削除していることです。彼は、問いを出しても、答えなど全く求めてはいない、対話など、する気はない、ということなのです。
 
>あなたはどうですか。
 
>どう思いますか。
 
>ふしぎですね!
 
どうやって、答えよ、と言うのでしょう。口だけ・・偽善者の特徴でしょう。彼自身が、おかしいと思わないのは、超常的自分信仰によって、そういう感性が、鈍麻~麻痺しているからなのです。
 
>ああ、もっと喜んでいいのだ、もっと喜びを表してよいのだと、
>分かってきた頃がありました。
 
どんなときにも、いつも、薄笑みを浮かべている、前にも書いたけれど、はっきり言って情緒がおかしいと思います。悟ったつもりの宗教陶酔者に多い現象です。どんなときにも、喜ぶ、というなら、それは、正常な人間ではありません。悲しみは、必ず訪れてくるものですから。
 
いつも喜んでいなさい、というのはどういう意味でしょうか。例えば、神は、キリストは、どんなときにも、生きなさい、と言ってくれるでしょう、ということは解釈~推測~想像に難くないと言えます。主が、あなたが生きていることを喜んでいます、と言っているような想像も可能です。それは、喜びとするべきことです。では、そのとき、悲しみに沈んでいる者は、ああ、そうだ、では喜んでいよう、と直ぐに笑顔になったりできるでしょうか、否です。
 
ここには、信仰というものを、条文のように言葉だけで理解してしまう間違いがあります。キリストが、人が生きていることを喜び勧めている、ということは、苦難と悲哀の時の、慰めなのです。人は、慰められています。慰められているときに、人は、へらへら笑ったりするでしょうか。せいぜい、慰められた後で、立ち直って、他者に微笑を浮かべる程度でしょう。超常信仰者は、あっという間に喜びに変わる奇跡で、輝く笑顔になるという妄想を向けてきます。むしろ、これは、悲しみに対する感性の劣化と感情鈍麻を招くだけですから、聞いてはいけません。悲しみは、少なくとも、うれし、たのし、めでたし、の喜びよりは、人を生かす大きなきっかけになるものです。
 
シャローム氏のような言葉面信仰者は、文字通りにしか理解しないものだから、聖句通り、いつも喜んでいないといけない、と思い込んで、どんなに悪いことをしても、どんな罪を、神に対して、人に対して、犯しても、いつもへらへら笑っていられるようになってしまったのです。何も感じなくても、へらへら笑っていられるのです。それが信仰だと思っているのです。自分の醜さに気づかないのは、自分信仰の特徴です。人間としての直感が、自分信仰によって、鈍麻した結果なのです。
 
>あなたはどうですか。
>どちらが良い悪いと言っているのではありませんが、
>あなたは喜びを顔に表す方ですか。表さないタイプですか。
 
ここでのテーマは、信仰の喜びについてであって、喜びを顔に表すか表さないかではないですね。のっけから勘違いしているようです。
 
>御霊の実のふたつ目の「喜び」も神のいのちの表れでした。
>イエスには喜びがありました。
>物やお金からは得られない喜びをもっておられました。
 
ここでのテーマは、物やお金の喜びを否定して解決することではないですね。キリストには喜びがあり、その信仰の喜びを宣べ伝えました。それは、試練に耐えて苦難を乗り越えるときに訪れる喜びであり、常時笑顔のことではありません。悲しいときに無理に喜びを装うことは、決して、信仰者の態度ではありません。悲しいときには、涙を流して泣くことのほうが、まだ癒しに近いのです。いつもへらへら笑っている、シャローム氏と、その仲間の言うことを信用しないでください。
 
>ルカ 10:21
>そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、
>「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。
>これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
>父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。」(口語訳)
 
>イエスはその喜びを自分だけのものとしておられたのではありません。
>その喜びを、ご自身を信じる者にも共に経験してほしいという願いがあるようです。
 
キリストが、聖霊によって、信仰の喜びで讃美したからといって、不全なる人間が、多幸症になって、どんなに悲しいときにも、いつもへらへら薄笑いをする、などという病理に染まるべき理由にはなりません。この引用部分を書いた人は、実にシャローム氏に、よく似ている。超常信仰者は、恐ろしいことに、人間離れすることが信仰だと思っているようです。つまり、一種の病理を、聖なるもののように、崇めているのです。人間性を失ったら、信仰は成り立ちません。
 
>ヨハネ15:11
>「わたしがこれらのことを話したのは、
>わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、
>また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」
 
>ヨハ 17:13
>今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、
>わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。(口語訳)
 
>ですから、キリスト教信仰と喜びは切り離せないものです。
>その喜びは、外からくるだけではなく、内側からくる喜びです。
>パウロは信仰のゆえに捕らえられ牢獄にある身でしたが、
>喜びの書簡と言われるピリピの教会の人たち宛の手紙を書いています。
 
>パウロは信仰のゆえに捕らえられ牢獄にある身でしたが、
>喜びの書簡と言われるピリピの教会の人たち宛の手紙を書いています。
 
>その中でこう言っています。
>ピリピ4:4
>あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。
>繰り返して言うが、喜びなさい。(口語訳)
 
パウロが伝えようとする信仰の喜びと、シャロームのへらへら薄笑いとは、全く関係ありません。信仰の喜びと、いつも喜ぶのが信仰だという迷妄とは、何の関係もありません。信仰は、多幸症の不自然な陶酔気分の病理に、人を導いたりしません。どうか、常時へらへら薄笑いを信仰として教えるのをやめてください。そんなことを教える者たちは、「いつも喜びなさい」という聖句を、単純な短絡で妄想化しているに過ぎないのです。どうか、悲しいときには、泣いてください、・・と書かねばならないとは、なんと悲しいことでしょう。
 
キリストと涙について引用しておきます。キリストの涙は、共感と愛と慰めなのです。
 
(説教要約12「キリストの汗と涙と血」より)
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られ(ヘブル人への手紙5章7節)、またラザロが葬られた墓において「イエスは涙を流された」(ヨハネの福音書11章35節)と聖書は記しています。キリストは、私たちの罪を憂えて「悲しみの涙」を流されるとともに「愛の涙」を流され、また私たちのために「切なる涙」を流して祈られた方なのです。
http://www.geocities.jp/pascalianx/mes12.html
 
どうか、キリストを慕う人たちは、シャローム氏のへらへら笑いよりも、キリストの涙を覚えてください。
 
>《shalomのコメント》
に入ります。
 
>記事本文に引用されているイエスさまの言葉は
>ご自分の十字架の苦難と死を目前にされたイエスさまの弟子たちへの、
>否、私たちへの遺言の言葉です。
 
また言ってしまいますが、バカじゃないの・・。イエス・キリストを、故人にしてしまいましたか。シャローム氏には、生きたキリストは働きかけておらず、目に見えないキリストは、彼にとっては、いないのでしょうか。彼には、うっかりキリストの遺言と言ってしまうような記憶しか残っていないのでしょうか。彼という古い皮袋には、それしか入っていないのでしょうか。よくも日頃、生ける神、キリストの復活、などと言うセリフが言えたもの・・。
 
ここからは、シャローム氏の背教ぶりが、自己正当化の言い逃れとなって書かれています。
 
キリストが捕えられる経過の記事は、しばしば見られるところの、シャロームのボロクソ節のようだが、省略します。
 
>しかし、偽りの訴えと裁きにより
>十字架につけられるイエスさまの心には喜びがあり、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
 (マタイ26:38、新約聖書)
 
このような苦しみの中で贖いを成就してゆく御方、イエス・キリストが喜んで笑っていたとでも言うのでしょうか。キリストは人の肉体として十字架につくとき喜んで笑っていたとでも言うのでしょうか。そんな気色の悪い救世主を、シャローム氏は、信じているのでしょうか。シャローム氏を、人間だとは思えなくなっている私は異常でしょうか。どうやら、人間性に共感のないシャローム氏は、イエスを捕らえに来た群れの中にいるようです。パリサイ人も含まれる群れの中にいたなら、シャローム氏は、きっと笑っていたことでしょう。
 
キリストが与える信仰の喜びと、いつも喜んで讃美することを勧めるシャローム氏の悦びとは、何の関係もありません。彼は、人間感情を失って、冷血の教条コレクターになっているだけです。今までの記事において、彼は、180°キリスト信仰とは逆です。
 
悲劇を喜びと言い、悔い改めず贖いの成就にも答えようとしないシャローム氏は、腹いせでもしている気分なのでしょうか、独りで喜んでいるしかないようです。ならば、公開される場所にキリストの御名で記事を書かないでください。神の恵みである信仰は、キリスト者に与えられ、求道者に期待されるものです。・・彼は、以前、コメントを削除するときに、怒る理由はない、とコメントに書いたことがあります。怒りでないなら、何でしょう。恐ろしい教条の使命感に支配されていたのでしょうか。
 
私は、毎回、シャローム氏の書く記事を読むたびに感じる怒りを、できる限り、冷静な集中力に変えて書いています。罵詈雑言を極力控えるように努めますが、今日は書いた・・。
 
>それだけではなく、ご自分の偽りの裁きによる十字架の死により、
>イエスさまの喜びが訴え、
>裁く者すべて人の心に喜びを与えることを信じておられたのです。
>その証人が使徒パウロなのです。 
>パウロはイエスさまと生前会ったことのない人で、
>むしろ、イエスを信じる人々を捕え、投獄し、死に至らせていたのです。
>ところがその迫害者パウロがよみがえられたイエスと出会い、
>打倒されたのです。迫害者は使徒パウロと変えられたのです。
>投獄する立場からピリピの獄に投獄される者となっていたのです。
>その明日をも知れぬピリピの獄中から手紙を書いているのです。
>裏切り者の代表ペテロもイエスの言葉の真実を証ししています。
>イエスさまを訴え、裁く者、迫害者、裏切り者
>・・・・・・へのイエスさまの約束の言葉であり、
>ひとりの例外もないすべての人へ与えられる喜びなのです。
 
パウロは、迫害者であることから、悔い改めて、使徒となりました。ペテロは、裏切りの後、激しく泣いて、悔い改めて使徒となりました。この二人は、悔い改めて救われました。シャローム氏のように、悔い改めないまま「ひとりの例外もないすべての人へ与えられる喜びなのです」などという勝手な解釈の言い逃れが通用すると思っているような者が、悔い改め抜きで自動的に救われた例が聖書にあるでしょうか、断じて、ないのです。醜い真似は、やめてほしい・・。
 
>「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、
>また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」
>(新約・ヨハネによる福音書15章11節)
 
>「今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、
>わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。」
>(新約・ヨハネによる福音書17章13節)
 
信仰の喜びをキリストは伝えます。シャローム氏は、狂気と凶器と病気へと誘います。いつも喜んで、廃油のように黒く照り輝いて、笑って隠し事を続けながら。
 
>多くの人に一番愛されているアクセサリーは十字架ではないでしょうか。
>天と地、神と人、人と人を結ぶ神の愛を象徴しているからではないでしょうか。
 
最後に、あまりにも軽いシンボルの話。彼は、何も真剣には捉えていないのでしょう。
 
>ふしぎですね!
 
不思議というより不気味なシャローム氏という生き物、・・彼の笑いを、へらへら、と形容する理由は、こういう、まともを装って不思議がって、感嘆符までつけてくる彼が、自分のやってきたことなど何事も無かったかのようににいられることが、ふざけていると思うからです。しかも、彼は、こういうやり方を、約6年、いや、それこそ、牧師であった頃から、ずっと変わらず、反省せずに、続けて来たのだろうと推測されるからです。・・どうか誰も害を受けることのないように祈っています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
 (マタイ26:38-39、新約聖書)
 
信仰の喜びは、私たちには耐え難い血と涙のプロセスを経て、最大の悲しみと苦しみを超えて、私たちに与えられるものであることを、キリストは証ししています。それをまるで、いつも感じていられるような、楽しいときの笑う喜びといっしょにしてはいけません。
 
 
(2017年05月18日、同日一部修正)
 
騙す(だます)
崇める(あがめる)
躁病(そうびょう)
与る(あずかる)
 
 
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  批判と責任
 
 
彼、シャローム氏は、しばしば続けて政治の転載記事を載せることがありますが、政治ブログの転載については、以前から、彼が、民主主義者ではなく、権威主義者であることを批判してきました。さらに、彼は、他者の記事を深く理解しているわけではないことも書いてきました。ときには最低限の理解にも達していないと感じることもあります。シャローム氏のブログは元々福音伝道のブログですから、肝腎の信仰の記事の不備と破綻を誤魔化すか、おかしな信仰の記事にかぶせて迷彩を施したいのではないかとも思っています。
 
このことは、コメントの遣り取りがあった頃からの長い付き合いにおける彼の応答から推測していることです。彼の他者の記事に対する評価は、恐らく、そのとき彼の、または彼の欲望の、気に入るかどうかだけで決めていると思います。今は、彼も、反政権のようですから、それに沿う記事なら、載せるのでしょう。彼は、例えば、ネトウヨの人のコメントにも、答えないか、あるいは、近所付き合いに喩えた比喩に対して、比喩が表わすところの、もっと大事と思われる政治的なポイントには触れずに、近所付き合いについて批評するだけ、という情けないレスを書いたりしていました。
 
彼は、自分が政権に批判的で、かつキリスト教にも批判的であるのに、根拠を示して批判しようがしまいが、自分に対する批判は悪口と見なして排除してきました。コメントの数が多いから荒らしだ、という成り立たない言い分を書いたことがあります。それを訂正しないまま、コメント欄を全廃してしまいましたから、変える意思はなく、今も同じ主張だと見なすしかありません。
 
あるときから、私は、コメント欄に直に書き込むよりも、すでに一応の推敲をしてアップした記事のほうを、コメント欄に書くほうがよいだろうと思い、分割して書いていました。それで一回のコメントが10~20コメになることもあったわけです。彼、シャローム氏というブロガーは、その批判が記事になるほどに、問題の多い人ですから、コメント数も多くなるということです。それもコメント欄が全廃されては、昔の話になってしまいましたが。
 
彼の主張するところの、無罪信仰、という名は、私が付けたものです。というのも、そう名付けるに相応しい内容だからです。偽善も罪の一種だから同じように赦される、と言い、悔い改めなくても赦されるから罪を気にしなくていい、という内容を持っている以上、その彼の教えに従って、教えを守るなら、罪を犯しても気にしないのだから、自分勝手な、やりたい放題の人間になってゆきます。彼の教えが広まれば、そういう好き勝手に、やって悔いることのない、という身勝手な人が、たくさん生まれることになります。しかも、その教えには、彼が言うところの議論無用の絶対の神の啓示という根拠?が無条件に付いてくるわけです。
 
キリスト教もキリスト信仰も、人間を救うために与えられているのですが、彼の教えによる宗教と信仰自体が救いがたいものになってしまっています。これを、どうして、キリスト信仰の名で、いいですよ、なんて言えるでしょう。彼の絶対は、絶対に通してはいけません。
 
前に書いたことですが、人が断定し得る絶対は、ただ一つ、人には、絶対は絶対にあり得ない、という皮肉のようなパラドックスだけなのです。
 
言論にとどまる限り、書いたことを修正することが出来ます。すでに発行された書籍では、ほぼ不可能で、また、他の投稿欄に書いたことも訂正は難しいですが、新たに訂正コメントを書く、という方法はあるでしょう。言論にとどまらず、何かの実行を示す思想で、既に、実行されたあとでは、もう取り返しはつきません。実行は修正が出来ません。
 
私は、しょっちゅう、ブログの記事を、あとから訂正しています。私の文才の無さを露呈しているわけでもあり、私の作文上の注意散漫や情緒不安定によるものかもしれません。伝えたい意図と違うことがディスプレイや紙の上で固定してしまうのは、耐え難いからです。言ったことを、しょっちゅう変える、というのは、おかしいと言えます。なんとか、多くは、芯となる部分ではなく、表現上の誤解を避ける、という趣旨の訂正が多いだろうと・・思っていて、祈ってもいます。(汗、嘆)
 
実行されたあとは、その責任については、言い出した人も実行した人も問われるし、責任を負うしかありません。そのような場合に、キリストに、神に、委ねます、なんて、この地上では通用しません。この場合、信仰が生きるのは、責任を負うている立場の苦悩を、神に捧げて赦しを乞うことであり、責任自体を逃れることではありません。直観的に分かるでしょう。分からない人もいて、都合の悪いことだけ、神に委ねるのがいちばんなのです、とか言っていますが・・ひどい話です。
 
だから、せめて、言論の範囲では、修正可能にしておく必要があります。思想の書き方のみならず、心の問題として、修正可能は必要だと思います。私の記事の思想は、批判にしても信仰観にしても、言論の段階に過ぎないだろう・・と思っていますし。
 
ですから、修正することを、しっかりした考えを持っていないじゃないか、と嫌がることなく、修正してゆくべきでしょう。あとで、言い訳も、弁明も、できなくなって、批判される側が、次から次に、批判を削除してゆく、という醜い様を見るのは、故意にそれをやるような、悪質な偽善者だけだ、という方向で考えてゆけるような言論の世界にする必要があるだろう、と思っています。
 
神は、絶対不変として信じているので、神の全体は人には決して分からないけれど、神に修正はないでしょう。しかし、神が、既に全てを人に伝えているとは、到底、思えませんから、私たち信仰者にとって、全き真実は、決して明らかではないのです。この地上では、絶対に正しいことより、絶対に間違っていることのほうが、気づきやすいと思います。後者の方が、悲劇として、歴史の大部分をなしているからです。
 
そして、本当に絶対悪いかどうかは、その時代の必然性とか、私たち人間の、非絶対性、すなわち、不全性、ということもありますから、最終的判断は難しいので神に任せることになるのが信仰です。そういう人間の信仰の相対性から、つまるところ、私たち信仰者に必要不可欠なのは、やはり、修正可能であることだと思うわけです。完全なる神の前に、不全なる人間は、神に対して、修正可能をもって、必要なときに、修正~改革までをなし、神にそれを捧げて祈り、成長を期待する以外にないと言えるでしょう。
 
これは当たり前のことなのです。しかしながら、世の中には、自分の、欲望のために、また、性格のために、自らの思想信条と、心中しそうな、あるいは、他者を巻き込んでじわじわと無理心中させそうな、そういう人間がいっぱいいるような気がします。
 
 
(2017年05月17日、同日一部修正)
 
 
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