転載の悪用
その名は不思議
まずイエス様に癒していただく恵み
2017/5/20(土) 午前 11:17
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28093129.html
転載元:~満ちる~
転載元記事:No.237 ゆるし/百人隊長の目線 2017.5.14
http://mitimitiru.exblog.jp/26669157/
シャローム氏の転載記事ですが、主イエスは、悔い改めない偽善者を癒やすと思っているのでしょうか。だったら、パリサイ人のことを、あれほど批判はしなかったでしょう。キリスト者の弁えに真っ向から背いておいて、現代のパリサイ人、被愛妄想無罪信仰の彼シャローム氏は、被愛妄想新興進行です。皮肉が過ぎています。失礼。
>互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。
>主もあなたがたをゆるして下さったのだから、
>そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
> <新約・コロサイ人への手紙3章13節>
転載元は、ゆるすことについて語っているのですが、
>実は、この動作(モーション)は、
>相手に「赦します」と言っているように思えますが、
>実は赦せない自分に対して言っている事にもなるのです。
>とても不思議ですが,相手にきっぱり「赦します」といったとたん、
>本当に赦せてしまうのです。
まず、神の知恵であるかのように、信仰に結び付けてはいけません。こうしてみたら、という、個人の知恵に過ぎませんから、個人しては、という前提で書くべきことです。
自分が、ある日、感じたことを一般則にするのは危険を伴います。声に出して「赦します」と、きっぱり言って、起こることは何かと言えば、気合いの効果でしょう。そして、それは、目一杯考えた後で、これ以上考え続けると病気になりそうなときには有効でしょう。つまり、結果だけを声に出して言う、というのは、一つの思考停止の表明でもあるわけです。それでよいときと、悪いときがあります。
決して許してはいけない人がいます。そういう者に限って、この記事を転載しているほどに、無条件に赦されることを求め、しかも、それが成就したかのように言い張ります。その者は、悔い改めないまま罪が赦されると言い張っているのです。このように、罪を認めない者の罪は、赦しようも、赦されようもない、ということです。そういう者に、うっかり、赦しを与えてしまうと、その赦しは、悪と罪の全面許可になってしまうのです。
ここで、赦しと許しの違いを説明しても意味がないのでしません。何故なら、この記事は、会話において、ゆるす、ということをテーマとしているからです。また、この漢字の意味の違いは、一般には、厳密に区別されているとは言いがたいからです。
>心の中には辛かったり、苦しかったり、悔しかったりした傷が残っています。
>傷が癒されて初めて私たちは人を赦すことが出来ます。
>相手を知らず知らずのうちに攻めていた自分の心を
>まずイエス様に癒していただくことです。
>「はい、赦します」とはっきり言うことは、
>自分の傷を癒していただく
>素晴らしい恵みの「ことば」をいただくことでもあるのですね。
やはり、信仰に直結させているようなので、OUTだと申しあげます。つまるところ、キリストに罪を赦していただくのだから、自分も他人の罪を赦さなければいけない、ということのようです。キリストが罪を赦すことを、無限に拡大して、いかなる罪も赦される、と言う者は、悔い改めなくても赦される、と言っています。こういう者がいるのだから、罪を赦す、という教えが一般化できないのは明らかなのです。
ゆえに、読者に対して、罪を赦しなさい、と教える暇があったら、自分が本当に赦せたかどうか、赦すことは本当に良いことであったか、を考えるべきでしょう。赦す、ということは、難しいことなのです。社交の世辞とは違うのです。人間は、キリストほど、正確に洞察して生きてはいないのです。だから、よくよく考えることが必要で、そうすると、本当に正しい赦しを与えるのは、キリストだけだろうと思われてくるのです。
こういうところにも、キリスト教と信じていることの危うさが表れてきます。こうすると善い、こうするのがキリスト者だ、という方向しか書かない人が多すぎます。こういう方向性は、結局、そのように出来ている自分を、神に感謝し、神を讃美する、という短絡になり、できているか、ということの思慮を失わせる危険があります。
ひどいのは、悔い改めなくて赦されることを日ごと夜ごと賛美して、一方で、平気で、嘘をつき、言いのがれの詭弁を弄し、自分の罪を、他者のせいにして、自分を見る人に隠し、神にも隠そうとしている者がいます。その者が、この記事を転載しているのです。これは、言葉の表面が似ていることから、自分の邪悪な目的のために、人の言葉と神の言葉を悪用する行為です。そうすることで、ますます、罪を深くし、偽善だらけになり、自分の信仰だけでなく、人に見せることで、他者の信仰まで破壊しようとしているのです。今後を考えて、危険な転載を許可しないでほしいです。
>イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを
>見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
> <新約・マルコによる福音書15章39節>
>谷口和一郎氏は(要約しますと)
>「どうして百卒長は『この方はまことに神の子であった』という告白が出来たのか。
>それは彼の信仰告白であり、聖霊による告白だ。
>『百卒長は下から見上げていた』という場所が十字架の下であったということ、
>それも真正面、下からイエスを仰ぎ見る場所であったからだ。
>ここで神を礼拝する者となるほかにイエスを理解できるところはない。
>またそこでこそ聖霊は働いてくださる。」
>【「舟の右側」5月号参照】と言っています。
人が聖霊の働きを断定することに嫌悪を覚えます。十字架の下から見上げて、その立場にいることから、仰ぎ見ていることからの発言が、信仰、または、信仰の芽生えであることについては、そうでないと、この発言はないでしょうから、同意します。
>私たちは、下からではなくて「上から目線」と
>よく言われたり、言ったり(笑)しますが、
>時には、「上から目線」どころか、親や上司に向かって、
>「何故私を支配するのか」と思ったりもするのです。
>その人の足元に座らなければ、見上げることはできません。
転載元は、親を見上げて従え、というのでしょうか。支配的な親に対して、それを否定する発言を言ってはならないというのでしょうか。こういうのが、教会で、牧師に幼子のように盲従することを植え付けることになりますから、嫌悪します。それに、見上げる対象は、誰でしょう。キリストであり、神なのです、このような見上げ方は、神以外に向けてはいけないのです。また、そのような比喩も不適切なのです。
>イエス様を仰ぎ見る十字架の真下で、私たちの高慢な罪のために
>ご自身の命を捨ててくださったイエス様を仰ぎ見るとき、
>私はイエス様のように死ぬことはおろか、人のため小さな犠牲でさえも
>なかなか払うことができない、ただ十字架を仰ぎ見るだけの小さな者であること、
>つまり私の本質を知らされます。
同意します。シャローム氏は、こういうことを認めません。彼は、高慢な罪を認めません、非を認めません、小さい者であることも認めません。彼は、ただ自分に、何をしても赦される特権と常なる正当化を与える偶像の神を、日々、讃美して、この記事を悪用するために転載しています。彼は「ゆるされるから、ゆるしなさい(彼を)」とでも言いたいのでしょう。
>裏切り者のユダでさえ、神様の救いのご計画の中で
>大きな働きをさせられたと言ってもいいでしょう。
理解して言っているとは思えない発言です。この人は、ユダを赦す資格があるのでしょうか。ユダの裏切りによってキリストは捕えられ、十字架につけられ、殺された、という事実を、人の敬虔と柔和で、和らげることは、誰にもできません。
>そのユダ以上に私たちは毎日イエス様を裏切っているかもしれません。
白々しい信仰自慢になってしまいます。低くすれば良いというものではありません。ユダについては、頭は良かったようだが、心が砕かれていなかったので、キリストを、自分の信仰観?によって、ユダが逆に動かそうと企んだ、等々、解釈は出来ますが、裏切って自殺して腹が引き裂け腸が流れ出たというほどの報いを受けたユダについて、聖なる領域以外、誰も語れないのです。ユダにようにだけはならないようにと、キリスト者は考え、日々祈り、生きているのです。そうでない者が、神を恐れず、この記事を転載しています。
>私たち一人一人がどのように小さく罪深いものであったとしても、
>神様が十字架の愛へ私たちを導くことが出来るのは、
>イエス様が誰よりも一番へりくだってくださったからです。
是とします。シャローム氏は、小さく罪深い者であることを認めません。だから、罪を悔い改めることなく赦されるという無罪信仰を引っ提げて、このように、今も、信仰を語るつもりで、他者の記事を悪用することにしかならないような転載をしているのです。
キリストに癒していただくことは大切ですが、隠し事を持ってキリストの前に出て、癒しを待っていても、あなたはどこにいるのか、いったい、あなたはいったいなにをしてきたのか、と問われることのないように、祈りは正直でなければいけません。信仰に必要なのは、それだけと言ってもよいくらいです。だから、世界宗教と万民救済につながっているわけです。正直は、必然的に、悔い改めに、つながります。嘘つきの偽善は、必然でしょうか、悔い改めることがありません。
人間としての思慮と情感の誠実さを失った者は、人の話と聖句を携えて、正直な人たちに混じって、罪と闇と偽善を隠し持ちながら、癒されますね、何でも癒やされるんですよ、などという詭弁作りの偽宗旨を唱えに、信仰者に見せかける社交の薄笑いを浮かべて、一皮むけば、隠し事の罪と偽善がぽろぽろ落ちてくるような嘘っぱちの悟り顔で、いつものように、やって来るでしょう。
そして、人も神も欺いて悔いない者は、隠し事を誤魔化すように、ひときわ大仰な讃美で、神に仕える信仰者の間で、自らを高めたまま、神に、自らの義を感謝するでしょう。そういう者と交わって、同類となってはいけません。彼は、正直に答えるまで、人に問われ、次いで、神に問われ続けるのです。彼は、何度も自分が唱えていた永遠の意味を、そこで受けることになるでしょう。
もう一度、言いますが、何をしても、しなくても、神の義を得るための条件達成にはなりえません。神に与える義務はないからです。また、全能の神を説得できるような人の行為などないからです。ただ、低き被造物として、正直に祈ること、そして、神に憐れんでいただくこと、これ以外には、ないのです。
(2017年05月21日、同日一部修正)
和らげる(やわらげる)
腸(はらわた、臓、腑)
引っ提げる(ひっさげる)
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